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鶴間和幸著  「人間・始皇帝」
岩波新書(2015年9月)

中国最初の皇帝による中華帝国の統一事業と挫折

古代中国では周の滅亡後長い数世紀の間、中原の覇を争った春秋戦国時代を経て、始皇帝(前259年ー前210年 在位前247年ー前210年)は中国史上最初の皇帝となった。司馬遷が編纂した「史記」に50年の帝王の生涯をたどることができる。始皇帝すなわち秦王政は、趙の邯鄲で生まれ、13歳で秦王に即位し、39歳で天下を統一し皇帝となった。12年間秦帝国を支配し数々の事蹟を残して不意に病死し、彼が残した帝国も3年後に瓦解した。わずか15年御の短命な統一帝国にもかかわらず、歴史上の意義はたとえようもなく偉大で、その帝国の完成は劉邦(武帝)の漢帝国に受け継がれたといえる。2000年以上の間中国大陸の興亡は始皇帝の図式の上で進行したといえる。中華帝国の皇帝支配の根源を創出したのが始皇帝である。東洋的絶対的支配者の原型を作ったのである。司馬遷(前145年―前86年)の史記は、皇帝となるべき存在として始皇帝像を描いている。史記は始皇帝の死後100年以上たってからの記述であり、始皇帝の実像とは言い切れない。司馬遷は前漢の武帝(在位前141年ー前87年)と始皇帝を中華帝国の皇帝として同じ視線で見ている節がある。それは武帝が始皇帝を意識して、辺境の征服戦争、長城の建設、泰山での封禅という国家祭祀、巡行など始皇帝の事業を再現しているからである。史記の記述から距離を置いて始皇帝の実像に迫るには、他の考古資料と文字資料(伝承ではなく)によるしかない。1974年始皇帝陵の東の地点で「兵馬俑坑」が発見され、翌年1975年1155枚の始皇帝時代の竹簡(睡虎地秦簡)が発見された。2002年秦時代の3万8000枚の簡とく(里耶秦簡)が発見され、2007年嶽麓秦簡や2010年に北大秦簡、北大簡簡らが出版され文字資料をして利用できるようになった。この中から史記の記述とは違う「趙生書」では、始皇帝の幼少期の名前を「趙生」とする竹簡文書があり、史記では「趙政」となっているほか、始皇帝崩御後の後継者会議で胡亥を選んだという史記とは違う内容になっている。さらに趙生書では始皇帝を秦王と呼んでいるなど、史記との再検討が必要となった。始皇帝は伝承では暴君となっているが、焚書坑儒で儒者を生き埋めにしたこと、万里の長城建設で人民を苦しめたことがその理由である。しかし戦国の分裂時代を終焉させ統一国家を築いたことや、帝国の集権制行政組織である「郡県制」という政治体制の確立、文字・度量衡の統一などは有能な君主と言えるのではないかという。ここで著者鶴間氏のプロフィールを紹介する。鶴間氏の略歴は、1950年生まれ、1974年 東京教育大学文学部史学科東洋史学専攻卒業、 1980年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学 、1981年 茨城大学教養部講師、 1982年 同助教授、 1985年4月〜86年1月 中国社会科学院歴史研究所外国人研究員、 1994年〜96年 茨城大学教養部教授、 1996年 学習院大学文学部教授である。鶴間氏の研究テーマ・分野は、中国古代帝国(秦漢帝国)の形成と地域、秦始皇帝と兵馬俑の研究、 東アジア海文明の歴史と環境であるという。主な著書には、1996年 『秦漢帝国へのアプローチ』 山川出版社、 2001年 『始皇帝の地下帝国』 講談社、 『秦の始皇帝ー伝説と史実のはざま』 吉川弘文館 、2004年 『始皇帝陵と兵馬俑』 講談社学術文庫、『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』 講談社 、2013年 『秦帝国の形成と地域』汲古書院 などがある。なお本書においては古代の伝説や予言の書、祭祀のやり方と古代王朝の風習、星座と予兆、不吉な彗星の記録など古代風俗と風習、信仰のことにかなり頁を割いている。今ではそんなことを信じる者はいないので、又それで歴史が変わったとも思えないので、私はそのような記述は無視しうると思う。新書という限られた紙面で、その代わりに兵馬俑坑の内容とか、当時の経済、政治思想などに力を注いだ方が本書が面白くかつ深くなったのではないかと残念である。

1) 趙生の生い立ちー中原七国の合従連衡策

始皇帝の出生は史記本紀では秦王(莊襄王子楚)の子であるといい、呂不韋列伝では呂不韋の子であるという。話としては面白いが歴史としての事実は一つしかない。また始皇帝の姓名は本記や世家では「趙政」といい、「戦国策」や史記の古いテキスト(唐時代の史記の写本)では「趙生」であったという。中国では皇帝の名を避諱する習慣があるので、どちらの名を避けたのかは周辺の資料で検討する必要がある。史記本紀によると、始皇帝が生まれる前の昭王47年(前260年)に起きた長平の戦いで、白起将軍の秦軍が45万人の趙の兵士を生き埋めにする壮絶な戦争が起きた。しかしその白起将軍は翌年秦の丞相范雎との権力闘争に敗れ死罪となった際に趙の兵士の穴埋めの罪を後悔したという。始皇帝に至る秦王の系譜を記すと(カッコ内は在位期間)、孝王(前362-338)−恵文王(前338-311)ー武王(前311-307)−昭王(前307−251)−孝文王(前251)−莊襄王(前250−247)ー始皇帝(前247-210)−二世皇帝胡亥(前210ー207)−秦王子嬰(前207)である。孝文王の子で始皇帝の父である子楚(後の莊襄王)は質子として趙に出された。戦国時代には互いにむすこを質として交換することが安全策として習慣になっていた。先物買いを「奇貨」というが、その子楚を支えたのが東方の大商人呂不韋であった。子楚が呂不韋の妾に産ませた子が「政」すなわち後の始皇帝である。ところが呂不韋列伝では呂の愛姫が子楚のもとに行く前にすでに呂の子を身ごもっていたとされる。政は呂の子になってしまうのである。趙政の名前の他に趙生というなっがることは先に述べたが、南北朝や唐時代の史記写本に趙生の名があることは単に写し間違いの可能性があるが、前漢の武帝時代に書かれたという「趙生書」の竹簡が発見され、趙生という名が先に在って、司馬遷がこれを趙政に改めたという説が出てきた。趙生が生まれた時の政治情勢を見てゆこう。秦の白起将軍が武安戦を最後に自害したため、後継将軍による秦の邯鄲陥落作戦は失敗した。趙の平原君の要請によって、魏の信陵君と南の楚の春申君が救援に駆けつけたからである。邯鄲をめぐる攻防戦は激化し、王乞将軍が率いる秦軍は邯鄲を包囲したが趙救援三ヶ国軍(韓、魏、楚)の奮闘で持ちこたえた。そのことで趙に質としていた子楚と趙生は、呂不韋のはかりごとで無事趙を脱出し帰国することができた。呂不韋は趙生を華陽婦人の養子にし、こうして趙生は一気に秦王への道を有利にした。昭王50年(前257)趙生と子楚が秦に帰り、前256年安国君(孝文王)が即位すると、子楚は太子となった。東方六国の合従(燕、斉、韓、魏、趙、楚)と秦の連衡策を中心とした戦国七か国の外交は展開した。

2) 秦王即位ー中原制覇

長く君臨した昭王の死後、わずか三日だけの王であった孝文王と、三年の短命で終わった莊襄王のあと、趙生が13歳で秦王に即位した。始皇元年(前251年)のことである。出土資料の「編年記」は孝文王の即位について、史記本紀との矛盾を投げかけるが決定的な説はない。二人の王の死によって、いよいよ呂不韋の意のままになる13歳の秦王が即位した。秦王も13歳から22歳ごろまでは、丞相呂不韋の補佐を得た。秦王趙生が受け継いだ時の領土は東方六国の領土を大きく浸食し、郡県制を敷いた。もはや戦国七国の一つではなく、中原に覇を唱える強国となっていた。秦王趙生が即位してから、二つの大規模な土木工事が始まった。一つは自らの王陵の建設であり、もう一つは灌漑工事であった。少年から青年に成長してゆく秦王趙生の前に2つの事件が試練として待ち構えていた。水利事業と陵墓の大規模土木工事の過程で起こった。この土木工事を行ったのはもちろん相邦(丞相)呂不韋と水利技術者鄭国あった。鄭国とは韓という国の出身で水工として秦に入った。先進技術の導入に熱心な秦国には、多くの国より技術者が流入していた。戦後時代に間諜が活躍することは常識であった。かれが本当にスパイであったかどうかは分からないが、水利事業をまとめた「河渠書」と「史記李斯列伝」によると、鄭国はスパイであることを自白して、なお工事の重要性を説き許されたという。この時には外国人排斥れいである「逐客令」は出ていない。むしろ「逐客令」は「ろうあいの乱」の後、始皇10年(前237年)に出されている。しかも対象は技術者ではなく、まさに呂不韋らのような食客が王をもしのぐ実力と権勢を持ち、危険な集団となっていたことに対する王族と李斯らの官僚側の反発であった。「ろうあいの乱」と鄭国の間諜事件は、秦王が自立するための試練であり、秦王趙生は呂不韋に代わった李斯と共に帝王の道を歩み始めた。鄭国が行った水利事業は成功し、「鄭国渠」と呼ばれた。水位差はダムで以て調整し、水と洛水を結ぶ120キロメータの山麓を潤す大事業であった。秦はその農産物がもたらす経済力で以て諸国を凌駕したと言える。この大事業で呂不韋らは膨大な利益を懐にし、王をもしのぐ絶大な権力を握ったのであり、それが自らの失脚を招いた。ろうあい(漢字で書きたいのだが、IMEパッドでは表せないのでひらがな書きにする)と呂不韋がともに秦王朝を二分するほどの巨大な権力を掌握したのは、腐罪(去勢の刑)と偽って後宮に入り大后と結びついたからである。始皇9年(前238年)ろうあいの乱という始皇帝の生涯で最大の内乱事件が起きた。史記本紀と呂不韋列伝には記述に大きな齟齬があり、内乱があったかどうかも怪しい。先手を打って始皇帝がろうあいを処分したような感じもある。史記本紀ではろうあいと淫乱な始皇帝の生母大后が結託し秦王排除を狙ったとされる。そもそもろうあいという人物は、呂不韋が後宮に送り込んだ者である。この事件を契機にして秦王趙生の親政が確立した政治的に重要な事件である。この本の著者鶴間氏は本事件を彗星の記録とだぶらせて本紀の年譜を描いている。彗星は予兆の象徴であり、必ずしも事件の時系列が正しいかというと、いい加減な記述が多いが、彗星出現自体は物理的時間であるので、記述の矛盾を指摘する効用はある。結局事件の真相は、長信候に封じられたろうあいの地は太原、山陽を拠点とし、後宮を壟断し権力を恣にしたが、秦王趙生が王族の昌平君と昌文君に兵力を動員させて、咸陽でその一党を攻め処刑したというべきであろう。秦王趙生はこうしてろうあいの勢力を抑えて、4月に成人の義を無事終了した。ろうあいと呂不韋が本当に結託していたかどうかは不明である。呂不韋は文信候に封じられていたが、秦王趙生は呂不韋を処罰することをためらった。相丞の地位を剥奪し、蜀の地に左遷した。呂不韋は毒を飲んで自害したという。さらに秦王趙生は母の大后の責任を問う形で、母を咸陽宮から雍城へ移した。

始皇20(前227年)年、刺客荊軻による秦王暗殺未遂事件が起こる。司馬遷は史記秦本紀で最高の筆運びを見せる。特に刺客列伝では春秋戦国時代の5人の刺客の最期に荊軻が登場する。本紀は秦の正式記録なので、暗殺事件の顛末と真相は隠され、失敗したことだけが強調されている。これに対して刺客列伝では荊軻が秦王を襲うまでの行動を克明に描いている。また同時期の史書「戦国策」では、この事件は外交問題として、燕王喜が太子丹の軽率な行動によって国を滅ぼしてしまう話として描いている。刺客列伝の大部分が「戦国策」の引き写しであるとされる。秦王趙生はいつもピンチを乗り越えて(あるいは利用して)政治的立場を確立し覇業を成し遂げるというストーリとなる。秦王は何度も襲われている。この事件以降も、高漸離、張良に襲われた。燕王喜の太子丹は邯鄲で質子として趙生とよく遊んだが、今度は丹が秦の質になったが、待遇が良くなかったのだろうか恨みを抱いて燕に帰国した。そして燕と秦の国どうしの争いに進展した。始皇18(前229)年、秦の将軍王翦は趙を攻撃し、趙王遷は降伏し邯鄲は秦のものになった。荊軻は秦によって滅ぼされた衛の国人として燕で活躍していた。荊軻は決して殺し屋家業をしていたのではなく、対秦工作の外交官として燕・趙の合従策で動いていたのである。事件に至るまでの荊軻の足跡を追っておこう。荊軻は衛都濮陽から、秦の占領地太原の楡次にゆき、趙都邯鄲を訪れ、最後は燕都薊(いまの北京)に入った。燕に入って太子丹に出会った。秦と趙の間は質子を互いに引き上げるほど、悪化していた。丹が秦に質子に入ったのは始皇4(前242)年で帰国したのは始皇15年のことである。たまたま秦から燕に逃亡してきた樊於期将軍の処分を巡って、太子丹の相談役鞠武は田光先生を紹介し、田光は荊軻を丹に引きあわせた。秦軍が燕の易水に迫る中で、荊軻は樊於期将軍の首と督亢という地の謙譲を提案した。丹は荊軻に匕首をわたしその地の地図の巻物の中に匕首を忍ばせ、秦王趙生に強引にイエスと言わせる戦術(張学良が起しした延安事件は、蒋介石を監禁し抗日国共共同戦線への同意を迫ったもので、いわばナイフを首に突きつけてイエスと言わせるように脅迫するようなものである)を取ったというのが真実であり、暗殺を企てたものではなかったと言われている。咸陽宮で行われた降伏の儀式では、秦王は最高の待遇で燕の使節団を迎え、燕の正使蒙嘉が燕王の服従の意思を告げ、樊於期の首が入った箱と地図を副使の秦舞陽が捧げて秦王の前に進み出た。荊軻が匕首を取って秦王を掴もうとしたとき、待医が投げた薬箱で荊軻がひるんだすきに、秦王は剣で荊軻を切りつけたので志は果たせなかった。事件の翌年秦の将軍王翦は燕を攻め、燕王喜は遼東に逃げたが、太子丹を殺した。秦の進撃はとどまらず、始皇22(前225)年魏を攻撃し都大梁城を水攻めにした。水攻めに3ヶ月もかかったが魏は滅亡した。始皇24(前223)年秦の将軍王翦と蒙武は淮南の楚の都寿春を攻撃し、楚王を捕虜にし楚の国を滅ぼした。楚の公子、昌平君は秦軍に抵抗し楚の将軍項燕とともに革命政権を立てたが亡くなり、項燕も自殺した。さらに燕王は料とに逃亡したが、秦の追手から遁れ箕子朝鮮に頼ったが、始皇25(前223)年燕王喜は捉えられて燕は滅亡した。この燕と連携していたのが代王となっていた趙の公子嘉であった。しかし燕王に続いてこの代王も捕らえられた。最後まで残ったのは斉王建であった。斉王建と丞相后勝は西の国境を閉鎖して戦ったが、秦の将軍王賁は燕の南から攻撃し斉王建を捕らえた。秦は直轄の斉郡を置いた。こうして六国全部が滅亡した。ところで戦国国家の滅亡とは王族の皆殺しとイコールではない。あくまで王が祀る社稷を無きものにすることが国家の滅亡である。

3) 秦帝国の成立ー中華の夢

始皇26(前221)年から亡くなる始皇37(前210)年までの12年間は始皇帝になって最高の大舞台に立った。史記秦本紀の記述も一気に文字数が増え、前年わずか43文字が始皇26年には930文字に跳ね上がった。司馬遷は前半6年間を統一事業の時代、後半6年間を匈奴と百越との対外戦争の時代と描いている。まずは前半6年間を見てゆこう。本紀の記事にも編年形式に並んでいるが、年月まで詳細に記されている。ところが行政文書では年月日まで記されている。併せて読めば月単位で政治情勢がどう動いていたかを知ることができる。出土資料「編年記」には始皇26年の記事はまったくない。地方行政組織にとって政権交代はあまり関心がなかったようである。里耶秦簡には始皇26年の記事が毎月記されている。嶽麓秦簡の「奏献書」には始皇26年の記事がある。秦が斉を滅ぼして、すぐに御前会議が開かれ、@皇帝号を決定、A郡県制の施行を宣言した。民衆を黔首と呼び、帝国樹立の酒宴を開くことが決定された。B度量衡、車軌、文字の統一を宣言した。C秦王陵を皇帝陵と改めた。その土木工事を着工する。古井戸に投げ込まれて発掘された里耶秦簡に「統一詔書版」には箇条書きされた統一詔書(地方官吏むけ通知書)があった。里耶秦簡の年代簡には統一の前年から、二世皇帝2(前208)年までが記されていた。字体は小篆である。隷書から統一後は小篆になった。令は詔に統一された。重要な用語として「天帝を観献する」を「皇帝を観献する」に改めた。これからは皇帝を天帝のように敬えということである。中央の御前会議には、秦王、丞相の王綰、御史大夫の馬劫、廷尉の李斯らが参画した。新しい称号として、王ではなく、帝と皇を組み合わせた「皇帝」が選択された。こうして戦国七国の広大な領土を抱え込んだ秦王は、次第に天帝の権威を志向することになった。秦の政治を支えた李斯は法制を掌握する廷尉から行政の長である丞相となり、「一統」という言葉を選択した。一統とは秦の帝王一人が政治を統べられるということを意味した。封建制ではなく絶対的中央神権政治を志向した。秦の天下の統一とは、始皇帝による権力一統の政治と同時に、秦による天下の諸侯の統合を意味した。天下は統一時には七国の領土であったが、秦が海と出会い、匈奴や百越という民族と遭遇した時に、大きく版図は拡大した。この「一統」と密接にかかわる事蹟として、始皇帝は生涯5度にわたって全国を巡行した。皇帝が旅行する「游」の意味は一つは「狩」、「猟」であり、もう一つは「巡行」である。「狩」には軍事的意味と鎮撫という意味がある。「巡行」には祭祀という意味がある。各地の神を祀ることで国家安泰と五穀豊穣を祈願する行為である。始皇27(前220≫年、第1回めの巡行は短いもので咸陽から鶏頭山に登った。始皇28年(前219)年統一の翌々年に始皇帝は第2回目の東方への巡行を行った。まず鄒の?山にのぼり次に北の泰山に登った。一統を正当化するためにも天命を受けた帝王だけが行える封禅の儀式を行った。封禅の儀式とは天を祀る封と地を祀る禅のことで、祭壇(天壇)を設けておこなう。始皇帝は、黄帝や殷の湯王、周の成王など72人の君主が行った封禅を実行した。天下に覇を唱えた。始皇帝は統一後も都を咸陽に置いたということは、内陸の帝国を樹立したことになる。内陸国家は必然的に海を意識する。海に向って開かれた国であった燕、斉、楚を滅ぼして東方へ向かった。巡行とは資源確保の意味があり、行く先々で塩を始め物資や文書を都へ送った。始皇帝は斉を滅ぼしたが、斉の五徳思想と八神(天主、地主、兵主、陰主、陽主、日主、四時主)の祭祀を受け継いだ。始皇帝は第2回の巡行で斉都に入り、斉の社稷を破壊したが、八神は残したことから、八神にこだわったようである。斉の山東丘陵は海に突き出した半島である。済水と河水の二大河川が並行して渤海湾Iに注いでいる。史記によると始皇帝は巡行の際に東方の山と海に七つの刻石を立てた。祭祀の時に自然石に文字を刻むのであるが、今では二つの刻石(琅邪台、泰山)の断片しか残っていない。文章自体は官僚が始皇帝の事業の顕彰のために刻むのであるが、基本形は12字12行の刑44文字であるが、巡行の時に追加されたり、2世皇帝が追刻したものもある。

戦国時代を戦い抜いて、秦帝国を作った時点で、始皇帝は東の海に出て敵を失いました。統一後平和の6年が過ぎ、今度は南北に敵を掲げたのです。第4回の巡行で昔の燕に入り渤海湾に達した時、始皇帝は秦帝国から中華帝国へと第2段階の夢を見ようとしました。新たな対外戦争を推進したのは丞相の李斯である。彼は法制で天下を統一すると、空間的な大帝国のシステムを作ろうとしたのである。北方には戎夷・戎狄と総称される民族に犬戎、山戎などがいた。春秋戦国時代には犬戎は周に侵入し幽王を殺し、山戎は斉と戦った。戎狄は周の?王を追い払い洛邑に侵入した。秦の穆公は西戎八国を服従させ西戎の覇者になった。北の遊牧民族は総称して胡と呼ばれ、林胡、東胡、匈奴などがいた。中華の風俗は冠帯であったが、服は戦国時代からズボンスタイルの胡服の習俗が紛れ込んでいた。始皇帝時代の匈奴の指導者は頭曼単于であった。秦は戦国六国が無くなった時点から蛮夷の力を意識した。秦は北が匈奴、西は月氏と接していた。始皇32(前215)年第4回目の巡行では始皇帝は初めて北辺を回り、この時燕人盧生が「録図書」を奏上し、「秦を滅ぼすは胡なり」といって、始皇帝に胡をはっきり意識させた。始皇帝はすぐに30万人の兵を将軍蒙恬に与えて匈奴を攻撃させ河南の地を奪った。河南とは黄河に囲まれた草原地帯でそこにオルドスのモンゴル人がいたのであった。戦国時代、北辺を匈奴と接する秦・趙・燕の三国は胡の南下を恐れて長城を築いた。始皇帝は始皇34(前213)年、臨とうから遼東までの長城を築いた。こうして河水の土地は秦のものになった。秦の万里の長城が遊牧民の匈奴の南下を食い止める効果は大きく、長城は東の海にぶつかった。始皇35(前212)年、始皇帝は都咸陽の雲陽から約700Km、旧長城を越えて内モンゴルの九原郡包頭まで「直道」という軍事高速道路を将軍蒙恬に命じて建設した。万里の長城と直道は始皇帝にとって中華帝国の夢を実現する一大土木事業となった。都咸陽から放射線状に「馳道」という国有道路が東方に伸びた。内地となった長城は廃棄され、新たに北の直道と南の運河によって帝国支配のネットワークが完成した。秦帝国の統一時には、北は黄河流域が秦と匈奴の境界とすると、南方では江水(長江)が境界で、それより南は越人の世界であった。始皇帝はこれまで4回の巡行でも長江を越えたことはなかった。この地ははるか昔の堯舜の時代には、雲夢沢(洞庭湖)や九疑山(広東省)には事蹟が祀られている。始皇32(前214)年秦は陸梁の地を奪い、南海(東シナ海)に向かった。匈奴作戦には30万人の兵を、対百越戦争には50万人の兵を差し向けるという、二面同時戦争という無謀な戦争になったのである。対百越戦争は国家間戦争というよりも、ゴールドダッシュのような新たな物資とフロンティアを求めた開拓移住事業と言える。古代日本の屯田兵制度に似た半農軍人の植民開拓事業であった。桂林・象・南海の三郡が設置された。始皇帝の時代に物資と兵士を輸送するため、嶺南に至る運河建設を行い、34Kmの霊渠が築かれた。長江中流の南郡が南方支配の根拠地になり、そこから南下すれば南シナ海の番禺の港(今の広州)に出ることができる。秦はここに造船工場を作ったとされ、ドッグが発掘されている。南越植民事業の中心は趙侘であったが、その人物が秦滅亡後に南越国を建国した。始皇帝の時代、孔子を継承した孟子(前372-289年)の儒家の間には、二面同時戦争に反対論が出た。荀子(前289-235)の弟子の韓非や李斯は法家として始皇帝を支えた。始皇34(前213)年始皇帝は大臣博士たちに議論をさせた。丞相李斯は「古をもって今を非る」として儒家を非難し、「焚書令」を出した。始皇帝は李斯らの法治主義の他に道徳である礼治主義を取った。国家は法により治め、家の秩序は礼によって治めることを政治の基本とした。「焚書令」とは秦の歴史書を除き史官にある文書をすべて焼却するというものである。さらに博士らの官が所有する文書は別として、民間に所蔵される詩・百家の書は焼却するというものであった。「古をもって今を非る」者は処刑するというものである。つまり戦争反対論の抹殺を図った。始皇帝は李斯の焚書令を承認した。なお「焚書坑儒」という言葉は儒教を国家の学問とした後漢の時代に出た言葉である。

4) 始皇帝の死と秦帝国の瓦解

始皇37(前210)年始皇帝は第5回目(最後になるが)目の巡行に出かけた。都咸陽から東南に向かって長江の要地南郡に行きそれから長江沿いに東進して呉に至って会稽山で祭祀をおこない、北上して琅邪台、さらに北上して山東半島の成山に登った。それから西に向かって帰途に就くのであるが、1年余りの長旅で平原津の沙丘平台において始皇帝は病を得て病没するのである。北辺の上郡にいた長男の扶蘇に宛てた遺詔を残した。「以兵属蒙恬、與喪会咸陽而葬」という12文字であった。扶蘇と将軍蒙恬は直道建設に従事していたのだが、始皇帝の遺書は蒙恬の軍隊に依拠して長子の扶蘇を始皇帝の後継者とすることを認め、咸陽において葬儀を執り行うよう指示するものである。こうして遺詔と遺体は黄河を西行氏都へ急いだ。しかしその遺詔は趙高等によって破棄された。始皇帝の遺体を前にして、趙高、胡亥、李斯の三人が動いた。彼らは新たな遺詔を偽造した。「胡亥を太子に立て、扶蘇と蒙恬を死罪にする」というものにすり替えたのである。始皇帝の死去は近習の数名しか知らず、極秘にして扶蘇と蒙恬に使者を送り知らないまま偽書を信じて扶蘇は自害した。これが史記の書く始皇帝の死と後継者指名のストーリーである。長子扶蘇と蒙恬は敗者として描かれているが、「趙生書」では扶蘇については一言もなく、協議の上、末子胡亥を後継者にした経緯が描かれている。つまり胡亥勝利者の立場である。こうして二世皇帝が即位した。即位した二世皇帝は父始皇帝を埋葬し始皇帝の陵園の完成を急いだ。史記秦始皇本紀には地下宮殿の様子が語られている。陵墓は発掘されてないが、外部から中を透視する技術の進歩が待たれる。東電福島第1原発のメルトダウンしメルトスルーした溶融燃料棒と圧力容器の内部を見る技術さえないのだから、今は「めくら象をなでる」式の把握しかできていない。しかし史記本紀の中では、秦帝国終焉の歴史の記述に最大の文字数がさかれ、さらに秦王朝内部の権力闘争と地方の反乱の勃発の歴史が、3つの本紀(秦始皇本紀、項羽本紀、高祖本紀)と一つの世家(陳渉世家)、また二つの列伝(李斯列伝、蒙恬列伝)に重複して書かれている。司馬遷は謀略家趙高を正面から描かずに、抹殺された側から描いている。史記秦本紀に始皇帝陵に関する記述がある。それによると、始皇帝陵の場所、外観、造営の過程、地下宮殿の様子、殉葬などが語られている。驪山の麓に位置し、長方形の二重の内外城壁があり(外城は南北2165m、東西940m、内城は南北1355m、東西580m)、内城には墳丘、陪葬墓区、礼制建築物がある。1974年に発掘され世界を驚かせた兵馬俑坑は外城から東に数百メーター離れている。兵馬俑坑には銅車馬、珍獣、馬厩、動物、石鎧、百戯、官人、水禽、実物大兵士8000体があり、司馬遷も兵馬俑坑の存在は知らなかったようである。今も兵馬俑坑の発掘調査は続行されている。2004年中国では地下宮殿の断面画像をえるため、リモートセンシング計画が実施された。エコー反射測定のことであるが、用いる電磁波の波長によっていろいろな技術がある。地下30メーターに巨大な空間があるほか、ピラミッド状の土盛りが発見されている。筆者らのグループは衛星画像を解析して地形を調べた(それは政府刊行の地図で地形は分かるはずだが)。始皇帝陵を守るために陵園の北に村「麗邑」を建設し人を住まわせた。麗邑を流れる古魚池川をせき止めた魚池は、始皇帝陵への河川の流入を避ける遊水地である。地下宮殿への地下水の浸透を避ける貯水池でもあった。地下宮殿の大きさは東西170m、南北145mで、墓室は東西80m、南北50m、高さ15mである。そして宮殿内には中国内の河川がながれる模型仕掛けとして水銀が流れているそうである。しかし水銀は常温では液体であるが揮発しやすい金属で、今でも存在するかどうかは不明である。

始皇帝陵の東、兵馬俑坑との間に「上焦村墓葬」がある。ここは二世皇帝胡亥が、始皇帝死去の時に反対勢力を粛正したり、始皇帝の公子12人、始皇帝の皇女10人を処刑して埋葬したところである。李斯列伝によると、始皇帝の亡き後権力を掌握した趙高は、蒙毅ら大臣を殺し、公子、皇女らを処刑した。まだ微力な二世皇帝に服従を強いる粛清にあたる。殉死の強制であったかもしれない。始皇帝の死後、二世皇帝の三年(前209年10月ー前207年8月)と三代目の秦王子嬰の46日は秦帝国の崩壊に向かう歴史であった。秦始皇本紀をよめば、帝国の宮廷の混乱した内情がよくわかるという。趙高こそが、二世皇帝胡亥を通じて蒙恬と蒙毅を死罪にし、李斯に代わって政治の中枢を牛耳った。趙高は教育係であったために、即位時12歳であった胡亥に影響力持った。二世皇帝の3年間に、趙高は郎中令として禁中から帝命を発し、やがて李斯に代わって丞相に上り詰め権力を恣にした悪役のイメージが強い。趙高は秦に滅ぼされた趙国の王族の遠縁であった。秦の宮廷の雑役から身を起し、法律の知識に長けたので始皇帝によって中車府令に採用された。皇帝といつも移動を共にする車の手配管理の役であった。趙高は宦官ではなかったとされる。始皇帝や胡亥の身辺にいつも付き添い、忠誠心は人一倍強かった。したがって、教育係だった趙高に胡亥は良くなついていうことを聞いた。したがって二世皇帝が発する詔には、郎中令であった趙高の意志が現れている。他にも始皇帝の位牌を収めた廟を極廟として、天下の中心に据えた趙高の知恵が窺い知れる。天子七廟として整理しその中心に始皇帝の廟を置いた。趙高は始皇帝を神格化することで秦帝国を維持できると考えた。そのためにも始皇帝の陵園の完成が急がれた。二世皇帝に始皇帝の東方巡行を再現させ、始皇帝の刻石に新たに二世皇帝の詔書を追刻し、大臣の名を添えた。ここで初めて「始皇帝」という字が刻字された。それまでは皇帝であったからだ。同時に趙高は帝国が危機的な状況にあることを感じていたはずである。二世皇帝の巡行は秦が中華帝国を実現させる威容を示すことである。ところが二世皇帝2年には早くも陳勝の農民の反乱軍が函谷関を突破して咸陽にまで迫った。ここで地下と地上の帝国建設は中断させて、将軍章邯を中心とした軍勢で反乱鎮撫の戦争状態となった。楚王を僭称した陳勝に連動するかのように、各地で趙王、燕王、斉王、魏王、韓王を立てて挙兵した。項羽、劉邦も兵を挙げたがまだ弱小勢力に過ぎなかった。二世皇帝3年目になると、二世皇帝を排除して権力を一人で握りあ新たな帝国を目指し始めた。二世皇帝を抑えて反乱容疑で李斯を処刑し丞相に上り詰めた。李斯は上書を残して自害した。二世皇帝をいさめた右丞相馮去疾と将軍馮却には死罪を命じた。趙高は自分に疑義を抱き始めた二世皇帝を退位させ、始皇帝の長男扶蘇の子である子嬰を立てる策略を実行した。そのとき項羽が秦の将軍王離を捕縛し、将軍章邯を追った。六国の王が挙兵したという情報も入ってきた。趙高は二世皇帝を監禁して自殺に追い込み、二世皇帝を庶民に落として子嬰を秦王に立てた。だが趙高が劉邦と結託して関中の王になろうとしているという噂を耳にした子嬰は趙高を宮中で暗殺し、即位して46日目に劉邦に降伏した。子嬰や秦の皇族はことごとく項羽によって殺された。


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