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広井良典著 「ポスト資本主義ー科学・人間・社会の未来」
岩波新書(2015年6月)

拡大・成長を追い求める超資本主義の限界と、定常化・持続可能な福祉社会の構想

本書の題名「ポスト資本主義」をみて、てっきり経済学者が書いた本かなと思って購入し読んだ。本書末尾にある著者紹介をみて、そして序章を読んで、この書は文明論・人文科学・科学史そして広くは哲学の範疇にあることがすぐにわかりました。著者広井良典氏のプロフィールを見てみよう。1961年岡山に生まれ、1984年東京大学教養学部卒業(科学史・科学哲学専攻)。1986年同大学総合文化研究科修士課程修了、厚生省に入省。1996年千葉大学法経学部助教授となり、2001年より1年間マサチュセッツ工科大学(MIT)に留学し、2003年千葉大学教授となる。専攻は公共政策、科学哲学。社会保障、医療、環境、地域等に関する政策研究から、ケア、死生観、時間、コミュニティ等の主題をめぐる哲学的考察まで、幅広い活動を行っている。環境・福祉・経済を統合した「定常型社会=持続可能な福祉社会」を提唱。  『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書、2009年)で第9回大佛次郎論壇賞受賞。この他『日本の社会保障』(岩波新書、1999年)で第40回エコノミスト賞、2008年第34回山崎賞受賞。厚生省・総務省・国土交通省・文科省など政府機関や地方自治体の各種の委員を歴任し、幅広い政策を提言する。主な著書には、『日本の社会保障』(岩波新書、1999年)、『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』(岩波新書、2001年)、『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)、『生命の政治学―福祉国家・エコロジー・生命倫理』(岩波書店、2003年)、『持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想』(ちくま新書、2006年)、『グローバル定常型社会 地球社会の理論のために』(岩波書店 2009年)、『コミュニティを問いなおす つながり・都市・日本社会の未来』(ちくま新書、2009年)、『人口減少社会という希望――コミュニティ経済の生成と地球倫理』(朝日新聞出版、2013年)などがある。ようするに政策科学という分野における論客という立場(御用学者、知的エリート)であろう。そこで広井氏が関わった御用学者としての審議会の一覧を示しておこう。これから大体の仕事のやり方が伺えて興味深い表である。(売れっ子芸者みたいにたくさんの座敷がかかっていますね、これで勉強する時間があるのですか?)
* 21世紀COE「持続可能な福祉社会に向けての公共研究」拠点リーダー(2004年 - 2009年)
* トヨタ財団地域社会プログラム委員(2004年 - 2008年)
* 国際協力機構 (JICA) 社会保障分野課題別支援委員会委員(2005年 - )
* 日本医療政策機構理事(2005年 - )
* 環境省・超長期ビジョン検討会委員(2006年 - 2007年)
* 横浜市経営諮問委員会委員(2006年 - )
* 国際協力機構 (JICA) 中国農村社会養老保険制度整備調査団アドバイザー(2006年 - 2009年)
* 文部科学省科学技術・学術審議会専門委員(脳科学委員会)(2007年 - )
* 朝日新聞・書評委員(2008年 - 2010年)、論壇委員会委員(2010年)
* 教育再生懇談会委員(2009年)
* 国土交通省・土地利用計画制度研究会委員(2009年 -10年)
* 内閣府・幸福度に関する研究会委員(2010年 -13年)
* 朝日新聞・ニッポン前へ委員会委員(2011年−13年)
* 東京都荒川区・自治総合研究所客員研究員(2011年 - )
* 横浜市・環境未来都市推進会議委員(2011年- )
* 内閣府・総合特区評価・調査検討会委員(2011年 - )
* 厚生労働省・統合医療のあり方に関する検討会委員(2012年 - 13年)
* 総務省・緑の分権改革の効果の評価手法に関する研究会委員(2012年−)
次に私が本書のような観点で読んだ書物のリストを年代順に下に示す。
@ 松谷明彦著 「人口減少社会の設計」(中公新書 2002年)
A 岩井克人著 「21世紀の資本主義」(ちくま学芸文庫 2006年)
B スチュアート・カウフマン著 米沢芙実子訳 「自己組織化と進化」(ちくま学芸文庫 2008年)
C 上野千鶴子・辻本清美著 「世代間連帯」(岩波新書 2009年)
D 濱口桂一郎著 「新しい労働社会ー雇用システムの再構築へ」 (岩波新書 2009年)
E 白波瀬佐和子著 「生き方の不平等」(岩波新書 2010年)
F 小野善康著 「成熟社会の経済学」(岩波新書 2012年)
G 服部茂幸著 「新自由主義の帰結」(岩波新書 2013年)
H 阿部彩著 「子どもの貧困U」(岩波新書 2014年)
I 水野和夫著 「資本主義の終焉と歴史の危機」(集英社新書 2014年)
J 杉山伸也著 「グローバル経済史入門」(岩波新書 2014年)

本書が扱う対象に一番近い内容を持つ書はH 水野和夫著 「資本主義の終焉と歴史の危機」(集英社新書 2014年)であろうと思う。そこで述べられている、トマ・ピケティの著書「21世紀の資本」のr>gについてと、資本主義はいかに終わるかについてまとめておこう。フランスの経済学者トマ・ピケティの著書「21世紀の資本」がいま日本で大流行の兆しである。誰もが現在の社会や資本主義のあり方に疑問を持っているが、その謎解きをした経済学の本であるからだ。この書はまだ私は読んでいないが、内容についてはいくつかの紹介があるので、その一つを取り上げると、「議論の出発点となるのは、資本収益率(r)と経済成長率(g)の関係式である。rとは、利潤、配当金、利息、貸出料などのように、資本から入ってくる収入のことである。そして、gは、給与所得などによって求められる。過去200年以上のデータを分析すると、資本収益率(r)は平均で年に5%程度であるが、経済成長率(g)は1%から2%の範囲で収まっていることが明らかになった。このことから、経済的不平等が増してゆく基本的な力は、r>gという不等式にまとめることができる。すなわち、資産によって得られる富の方が、労働によって得られる富よりも速く蓄積されやすいため、資産金額で見たときに上位10%、1%といった位置にいる人のほうがより裕福になりやすく、結果として格差は拡大しやすい。また、この式から、次のように相続についても分析できる。すなわち、蓄積された資産は、子に相続され、労働者には分配されない。たとえば、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのベル・エポックの時代は、華やかな時代といわれているが、この時代は資産の9割が相続によるものだった。また、格差は非常に大きく、フランスでは上位1%が6割の資産を所有していた。一方で、1930年から1975年のあいだは、いくつかのかなり特殊な環境によって、格差拡大へと向かう流れが引き戻された。特殊な環境とは、つまり2度の世界大戦や世界恐慌のことである。そして、こうした出来事によって、特に上流階級が持っていた富が、失われたのである。また、戦費を調達するために、相続税や累進の所得税が導入され、富裕層への課税が強化された。さらに、第二次世界大戦後に起こった高度成長の時代も、高い経済成長率(g)によって、相続などによる財産の重要性を減らすことになった。しかし、1970年代後半からは、富裕層や大企業に対する減税などの政策によって、格差が再び拡大に向かうようになった。そしてデータから、現代の欧米は第二のベル・エポックに突入し、中産階級は消滅へと向かっていると判断できる。つまり、今日の世界は、経済の大部分を相続による富が握っている世襲制資本主義に回帰しており、これらの力は増大して、寡頭制を生みだす。また、今後は経済成長率が低い世界が予測されるので、資本収益率(r)は引き続き経済成長率(g)を上回る。そのため、何も対策を打たなければ、富の不均衡は維持されることになる。科学技術が急速に発達することによって、経済成長率が20世紀のレベルに戻るという考えは受け入れがたい。我々は「技術の気まぐれ」に身をゆだねるべきではない。不均衡を和らげるには、最高税率年2%の累進的な財産税を導入し、最高80%の累進所得税と組み合わせればよい。その際、富裕層が資産をタックス・ヘイヴンのような場所に移動することを防ぐため、この税に関しての国際的な協定を結ぶ必要がある。

資本主義は時代によって、重商主義であったり、自由貿易主義、帝国主義、植民地主義であったりと変化するが、21世紀のグローバリゼーションこそ、その最たるものと言わざるをえない。資本主義の本質は、富やマネーを「周辺」から「募集」し、「中心」に集中させることに変わりありません。新興国への投資拡大によって先進国と新興国の所得格差は縮小しつつあります。グローバル資本主義とは、国家の内側の社会の均質性を消滅させ、国家の内側に「中心/周辺」を生み出してゆくシステムだと言えます。そもそも資本主義とは少数の人間が利益を独占するシステムでした。そして地球の全人口の約15%の先進国の人が豊かな生活を享受しています。これまでの資本主義は資源がタダ同然で手に入ることを前提として、「安く仕入れて、高く売る」という近代資本主義はもともと格差を前提としています。全世界が均質化したら非対称性がなくなり利益が出ない構造になります。差があるから利潤が出る仕組みです。そのため資本主義は国内でも無理やり「周辺」を作り出し、利潤を確保するのです。その典型がアメリカのサブプライム・ローンと言った貧困ビジネスであったり、日本の非正規雇用問題なのです。むき出しの強欲資本主義では少数の資本家が利益を独占しています。アダムスミスは「道徳感情論」で一定のブレーキをかけ、マルクスは資本家の搾取を見抜きます。ケインズは市場以外の政府の総需要政策を説きました。1990年までの社会主義国の存在は、資本家や起業家に常に雇用者福祉を念頭に置かせました。しかしあらゆるレーキをはずしむき出しの資本論理を貫こうとしたフリードマンやハイエクらが新自由主義をとなえ、グローバル資本主義の旗振り役を果たしました。金融緩和を行い、インフレ期待を持たせたら経済は好転するというリフレ派が主流となっています。ではケインズ派のような積極財政政策で需要は喚起できるのでしょうか。ケインズ主義が成立するのは、一国経済のなかでマネーを制御できる時代のものです。21世紀ではケインズ流の「大きな政府」は失敗を宿命づけられています。我々は「長期停滞論」に憂えることも考え直す必要があります。資本主義の定義は「資本は自己増殖するプロセスである」とするなら、もともと「無限」の空間を想定しています。無限であると考えると「過剰」は存在せず、スピードや効率だけが課題となります。近代社会は経済的には資本主義社会であり、政治的には民衆主義社会である。近代は無限の物資を使うということがそもそも可能だとは思えません。青天井の空間、それが「電子・金融空間」であったのです。先進国は途上国に対して見えない壁を作り資源を収奪し、先進国内に見えない壁を作り、下層の人から上層の人へ富の移転を図ることです。ケインズ流財政出動も、公共事業に乗数効果が見込めない現在に在っては、将来の需要を過剰に先取りしている点では、次世代からの収奪です。1990年代末に世界的な流れになった時価会計は、株式などの資産価値は期待値に過ぎず、将来の価値を先取りしそれが膨張すると、将来の人々が享受する利益を先取りすることになります。地球上から「周辺」が消失し、未来からも収奪しているという事態の意味は深刻です。デフレと言った次元ではなく、資本主義の終焉、つまり近代の終わりが近づいています。すでに資本主義は永続型資本主義(株式会社型)からバブル清算型資本主義(金融支配型)へ変質しています。バブルを作っては壊れるという破壊ビジネスの繰り返しです。

アメリカの未来学者レイ・カーツワイルは「技術的特異点」ということをいうが、これは先端テクノロジーが集積し融合した時点において、高度に発達した人工知能AIと人体を改造された人体が結びついて。、意識が永続化し死を超えた永遠の生命を得るというSF的荒唐無稽な話で如何にもアメリカ人が好みそうな話である。アメリカではこうした議論は人間の進化に次なる段階ということで「ポスト・ヒューマン論」と呼ばれる。荒唐無稽な話は別にしても、そこで問われている文脈は、科学や技術の発展が人間にとって何をもたらすか、あるいは科学技術と経済・資本主義との関わりあいであろう。金融工学による金融のグローバル化が世界的規模で進んだのは、情報関連テクノロジーの発展と一体のものであった。それが無限のかつ瞬時の取引を可能とし、近代科学と資本主義という二者は「限りない拡大と成長」の追求という点で一致し、車の両輪の関係となった。しかしそれが2008年のリーマンショックでそのシステムの脆弱性や限界が露呈した。バラ色の未来ではなく、歪んだ恐ろしい結末になるようである。そこで「成長・拡大から成熟・定常化」への大きな転換期にあるという見方が生まれた。資本主義というシステムが不断の「成長・拡大」を不可避の前提とするならば、その転換とは資本主義とは異質な原理・価値を求めることになろう。こうした文脈で「ポスト資本主義」という社会の構想が求められるのである。日本は2006年頃より「人口減少社会」という未曽有なステージに立った。そうした成熟社会のフロントランナーとしての日本は、今後の科学の方向性を見極め、ポスト資本主義あるいは定常型社会における価値を探し求める試練に立たされている。雑駁な話ではあるが、本書では人類社会の歴史をおおまかに三段階に捉えると、@20万年前のホモ・サピエンス誕生と狩猟採集生活の始まり、A約1万年前の農耕文明の始まりと都市文明の誕生、B産業革命による資本主義的工業生産の始まりであるとする。人類は約1万年前に農耕という新たなエネルギー利用を始めた。狩猟採集生活よりも高次の集団作業や共同体秩序を必要とするものであり、そこに宗教や階層や、富の格差が生じた。農耕はその拡大成長の過程で紀元前4500年前メソポタミアで都市文明を生んだ。次いでエジプト、インド、中国に大帝国が出現した。第三段階の拡大・成長と定常化のサイクルの全体が近代資本主義の展開と重なる。人類社会の歴史の三段階のそれぞれに「定常期」があり、そこで人間精神が大きく進展し次の発展期を迎えるのだという階段踊り場説を広井良典氏は強調する。市場の発達と産業化そして情報化・金融化を経て現在は第三段階目の定常期だという。前の2段の定常期がどうもはっきりしないので、氏が言うほど楽観的にはなれない。新書という分量ではしっかり分析されていない。さて第4の拡大・成長は果たしてやってくるのだろうか、やってくるとすればポスト資本主義はどんな形なのだろうか。氏はその技術的ブレークスルーは@「人工光合成」、A宇宙開発ないしは地球脱出、Bポストヒューマン(人工知能人間)だという。社会構想という次元では、アメリカ型拡大成長を追求する社会ではなく、欧州型の「翠の福祉国家」、「持続可能な福祉社会」ではないだろうかという。この方がまだ考えやすい。ポストヒューマン(人工知能人間)にいたってはこれはもう人間ではなく、遺伝子操作されたAI埋め込み型の改造クローン人間が増殖して普通の人間を追い出した社会なんて考えたくはない。冗談でしょう、まさか著者は具体的政策提案として考えているのだろうか。やはり知的エリートは人間ではない。そんな空想はSFにまかせて、現実的な社会改造を考えてゆこう。言語の構造と脳神経の構造の分析から、数学などは人間の脳構造を反映しているという脳科学の考えがある。すると「意識の共有」という社会脳もあるかもしれず、現実とは脳が見る共同の夢かもしれないという主張(共同主観性論)も一理ある。まだこの議論は面白そうだが未知である。このようなことも頭の片隅において、本書の構成を示す。第T部「資本主義の進化」では、資本主義の発展の歴史を回顧する。そして今後の展望を「ポスト資本主義」という座標軸で見ることにする。第U部「科学・情報・生命」ではポスト資本主義を規定する科学のありようを科学史的な視点で掘り下げる。第V部「翠の福祉国家・持続可能な福祉社会」ではポスト資本主義の社会像を、時間政策・資本主義の社会化・コミュニティ経済という観点で展望する。

第T部 資本主義の進化

資本主義とはそもそも何かということは結構曖昧に使われてきた。資本主義という言葉が広い意味で使われ始めたのは実は20世紀初めからのことである。マルクでさえ「資本」という言葉は使うが、「資本主義」という言葉は知らなかったようだ。社会主義(共産主義)という対立概念に対応する用語は「自由主義」であった。資本主義と市場経済は必ずしも同一ではなく、社会主義国中国では市場経済を取り込んでいるので、市場経済は資本主義と社会主義を区別するものではなくなった。あるいは社会主義とは政治用語で、経済的には資本主義も社会主義もないのかもしれない。そもそも歴史的には共同体と共同体との間の交換として市場が発生した。共同体の接触するところ市場が自然と形成される。「世界システム論」で知られるウォーラーステインは市場経済と資本主義を次のようにまとめている。第1に市場経済は明瞭で透明である現実に立って利潤はわずかである。第2に市場は別の世界への入り口である、略奪とは根本的に異なる。第3に資本主義とは集中と相対的に高い独占化、つまり「半市場」のことであるという。市場は開放的な善のイメージで語られ、資本主義は不透明・独占・高利潤・投機・権力の悪いイメージで語られている。生活するために必要な物質生活があり、それを巡って市場経済が存在し、それを資本主義が利用するという構図である。資本主義とは「市場経済プラス限りない拡大と成長を志向するシステム」という理解ができる。単なる市場経済に「拡大成長」の永遠のドライブがかかる時初めて資本主義が立ち現れるのだ。資本主義はその目的の為、財政的強制力(税)や中央集権的な統制力(規制)、市場独占のための軍事力などを持った国家が必要なのである。マルクスは「資本論」で資本の運動として「G-W-G' 貨幣ー商品ー貨幣(増加した)」を定式化した。資本の運動の目的は貨幣の増加であり、資本の運動には限りがない。貨幣の所持者を資本家と呼んだ。無限の資本蓄積を優先するシステムが近代資本主義である。中世では宗教的倫理観から私利の追求拡大(金を基にして金を増殖させる)は退けられていたが、1215年ラテラノ公会議でローマ教会が金利をつけることを認めたことを資本主義の成立とみる見方がある。それは社会全体の富の総量パイが拡大成長するという前提を不可分としたシステムであった。アダムスミスの「国富論」は、私利私欲の追求(消費及び金融資産)の追求が全体として国や社会の繁栄につながるという思想に立っていた。16世紀イギリスのプロト工業化に始まり、18世紀以降の産業革命を背景にした社会を指導するテーゼとなった。これが人類歴史の第三の拡大成長期をなしている。社会において自由な個人の成立と、自然を開発できる技術の成立があってのことであった。17世紀は欧州の科学革命の時代と呼ばれた。筆者は科学の起源を@法則の追求(自然支配)、A帰納的な合理性(個人の独立)だとする。近代科学の持つ世界観や考え方を代表する人として英国のフランシスコ・ベーコンを挙げ、自然を支配活用することによって人間の生活を改善する科学のあり方を開いた人と位置付ける。自然支配と個人の独立は資本主義にとってなくてはならない要因であるので、結局近代科学と資本主義は表裏の関係にある。15.6世紀はヴェニスなどイタリアの都市国家が海洋貿易を発展させたが、17世紀はイギリスを中心に資本主義が本格的に展開し始めた時期であった。1600年イギリスの東インド会社が設立され、相次いでフランス、オランダでも設立された。近代科学の発展段階を三段階の基本コンセプトで見ると、@17世紀の科学革命の時代 物質及び力(ニュートン力学) 近代科学の誕生と資本主義の始動 A19世紀の科学の体系化の時代 物質とエネルギー 産業化(工業化)、科学と技術の結びつき、国家による大学などシステムの整備 B20世紀半ば経済成長の時代 ケインズ経済修正主義 科学技術の体制化 の区分になるという。科学と資本主義を結び付けるための、だいぶいい加減な分け方であるが、半分ほどは当たっている。この歴史区分は社会の歴史としては妥当であるが、科学技術による区分としては理解できない。およそ理由をなしていない。Aの時代に、定常経済論や脱成長論の源流といえるスチュアート・ミルの「経済学原理」が1848年に出版された。成長を終えた定常状態に達した社会において真の豊かさや幸福を得るというものである。、科学や思想と経済・社会の歴史は必ずしもすべてが相関するものではなく、ばらばらに独立して展開されるのが常である。成長の始めの段階で定常社会まで見通す人がいても不思議ではない。無理に時代と相関させるとちぐはぐな説となる。それが科学技術とどう関係するのかストレートには理解できない。著者の頭にはきれいな分類整理が先にあって、そこへ歴史的事実を都合よく掻き集めたつもりでも実はちぐはぐで矛盾だらけである。19世紀後半という時代は市場のミクロ均衡を説く新古典派経済学が台頭した時代であった。なぜミルが定常化論を提出しそれが勃興する技術とどう関係したのかおよそ説明不能である。資本主義の黄金期と呼ばれる時期(戦後―1970年)に、1972年にローマクラブが「成長の限界」という定常化・持続可能社会論を出した。短期的には石油ショックへの警戒論であったが、資本主義は持続不可能であるとはいっていない。

20世紀初めから第2次世界大戦後を含めてケインズは資本主義の救世主として現れた。経済成長を最終的に規定するのは「生産」ではなく「需要」であると見抜いた。しかも政府のアクターとしての様々な政策が、公共財の提供、社会保障などの所得再配分によって、公共事業の需要を誘発、創出することができて、不断の経済成長が可能であるとした。それは1970年まで続き「資本主義の黄金期」をもたらしました。人々の需要や雇用という市場経済のないしは資本主義の根幹部を政府が管理し創出することができるという理論によって、「ケインズ主義的福祉国家」または「修正資本主義」と呼ばれた。経済成長の指標としてGNP(国民総生産)が政府の目標となったのはアメリカでは第2次世界大戦後のことであった。このケインズ政策を「福祉国家」という視点で見ると、アメリカでは「市場の失敗の是正」例えば公共財の提供であり、欧州では「所得再配分」特に社会保障や税制であった。低所得者ほど所得のうち消費に回す割合が高いので、高所得者から低所得者に再配分をおこなった方が(所得の平等化)、社会全体の総需要ないしは消費が増えるという考えであった。これが新自由主義時代になると、高所得層の猛反対を招き軽減税制を要求し、政府がこれを受け入れて財政のひっ迫を招いたのである。ケインズ主義の高度経済成長期の後1980年代から物を中心とする経済は過剰生産になって停滞し、情報化・金融化の時代になった。2000年以降はデフレが定着して定常型社会(ポスト資本主義)時代となった。この時代はアメリカが主導する金融の自由化とグローバル化が進行し、一方BRICsに象徴される新興国(特に中国)の台頭と工業化が著しい。アジア、インド、アフリカなどが最後のフロンティアとして資本主義化、工業化・情報化の波は時間的空間的に地球全体に広がるであろうが、地球資源の有限性は厳然とした事実であり、他に地球規模での少子高齢化も進展するであろう。アジアでは合計特殊出生率が日本(1.43)より低い国が多い。韓国1.24、台湾1.07、香港1.2、シンガポール1.2である。2011年で70億人に達した世界人口は2100年には109億人で安定化し減少に転じるであろう。これは17世紀から続いた市場経済の拡大成長としての資本主義システムが成熟化し定常化する時期を迎えつつあるからに他ならない。時間的拡大とは金融の自由化とグローバル化のことである。情報科学は1948年シャノンの情報理論と、ウィーナーの?通信と制御の理論」に始まったといわれる。エレクトロニクス、デジタル技術による大型コンピュータが開発され、つづいて通信技術やインフラ整備によって990年代にはインターネット時代に入った。それらが今日の金融工学を支えている。情報文明の成熟化と飽和あるいはポスト情報化の時代に入ったともいわれる。金融のグローバル化により今や資本主義の最終段階にいるといわれる。石油先物取引やサブプライムローン問題は「期待の搾取」として次世代の人々の期待を食い物にしたのである。いわば未来に対する低所得者の期待に働きかけて、その未来の収益を先回りして収奪する構造である。しかももっと根本的な矛盾は、金融資本など巨大独占企業は政府によって保護されるという矛盾をシステムリスクという。これはアンフェアなシステムであり、資本主義は反市場的であるとされる。ケインズ政策は修正資本主義であるとしたが、寡占企業体は政府を乗っ取り規制緩和で儲けを確保し、失敗すれば税金で救われるという、まさに社会主義で補完されるというとんでもない矛盾したシステムである。新自由主義経済は社会主義を採用するという皮肉な結末を迎えている。近代資本主義は最初から無限の成長と拡大を理念としたが、それは「期待」である。どこにそんな保証があるのか。その秘密は貨幣にある。貨幣があって市場や商品が生まれると同時に、「貨幣は幻想であり現実である」という人間の意識が支配するところが大きい。これを「仮想現実」という。観念は自己実現するとか、予測の自己実現とかいう言葉は、個人の「為せば成る」ということではなく、社会全体が「思うことは現実になる」ということである。人間の経済ないし貨幣現象はすべて一種のバブルである。ファンダメンタルの上の乗っかるバブルを含めて経済とは究極に仮想現実であり、したがって人々の期待や観念で経済は無限に拡大成長してゆくとすれば、需要がないところに共同幻想で需要のイメージを拵えて無限の成長と拡大を夢見ることがいつまでどこまで可能なのであろうか。アベノミクスはその路線で仮想現実化しようとしている。バブルは生じても需要は生じない、インフレは生じても賃金は増えない逆に実質賃金は下がることになる。ぼろが出ることは確実であり、バブルがはじけるインターバルは短い。トマ・ピケティの資本収益率(r)と経済成長率(g)の関係式であるr>gが逆転するのだろうか。金融緩和で潤沢な資金を市場に流して、需要が刺激されるのだろうか。それが生産投資に向かうよりカジノ経済に向かうのではないだろうか。「共同体からの個人の独立」及び「自然からの人間の独立」という、デカルト流の独我論の二重の離陸を経て展開してきた「市場経済の拡大成長」を基本とする資本主義の展開がすでに限界の定常期に達した。軟着陸させる社会システムの構想が求められている。

第U部 科学・情報・生命

筆者広井氏は、「資本主義/ポスト資本主義の行方を展望するにあたって、その根底に位置すると思われる科学のあり方について考察したい」とこの章の冒頭に述べている。しかし科学が資本主義経済と社会政治体制の基本にどのような形で規定するのか、極めてあいまいである。生命倫理一つとっても科学が占める割合よりも逆に社会のあり方からくる制約の方がはるかに大きい。合計特殊出生率については、収入、生活費、社会保障、住宅からくる生活不安という無言の圧力(選択圧力)が掛って、人々は子供を産んで生活難に陥りたくないから出産をひかえるか、結婚そのものを回避するのである。そこには科学は関係してこない。広井氏は科学信仰が強くて、それでなんでも説明できると考えているとすれば片手落ちと言わざるを得ない。人間の行動に科学は影響するだろうが、決定的ではない。スパコンを使っても明日の天気は分らないのと同じレベルである。とはいえ科学史を専攻された広井氏が述べられる第2部は科学それ自体として面白いので紹介する。しかしだからそれが経済や社会を決定的に規定するわけではないことは肝に銘じなければならないと私は思う。まずアメリカ連邦政府の研究開発予算の推移について、2015年1340億ドル(15兆円程度)の研究開発費の半分以上は国防関連研究である。戦後アメリカの科学政策の特徴は、軍事部鵜や以外では、医療医学・生命科学分野に圧倒的な予算配分を行ってきたことである。国立保健研究所NIHはそのメッカである。NIHの予算は軍事研究費を除いた45%を占めている。国防研究以外の研究開発予算の分野別推移をみると、医療関係は1990年以降群を抜いているが、次いで宇宙関連(これは軍事に入れるも可、すると軍事関連研究比率は60%を超える)、一般科学、エネルギー、資源環境の順である。いわば2つのM(軍事Military,医療Medeical)の2者がアメリカの中心的な柱である。ところがアメリカ連保政府の医療政策の基本は、医療分野において政府が主な役割を担うのは研究開発支援に関することで、公的医療保険の整備などの成果を個人が享受できるかどうかは市場あるいは「私」の領域に任せるというものである。つまり健康保険会社に任せるということである。アメリカは研究費を含めて医療分野に膨大な資金を投入しているが、その成果ないしパフォーマンスはむしろかなり他の先進国に比べて見劣りがする。医療費の対GDP非は17%と最高であるが、平均寿命は79歳以下と日本の84歳に比べて見劣りがする。他の先進国に比べて2−3歳平均寿命は低い。トータルな医療パフォーマンスの問題は、狭い意味での科学技術を超えた、医療保険制度などの社会システムを含む包括的な政策に求めなければならない。ところが安倍内閣は医療を成長戦略として捉え、NIH版のAMED(日本医療研究開発機構)を発足させたが予算1250億円でありアメリカのNIH予算3兆円に比べて少なすぎる。またTPPに関係することであるが、「混合医療の拡大」は明らかにマイナスの帰結である。私費医療の拡大と医療費の高騰、医療における格差拡大と階層化、平均寿命ないし健康水準の低下などアメリカの医療システムの悪いところ取りという事態が進んでいる。伝染病などのように「特定病因論」で片が付く医療の進歩は著しいが、同時に現代の病を多く生み出してきた。健康の社会的決定要因に象徴される対応や政策を検討することは「社会疫学」と呼ばれる。個人を単に独立した存在として捉えず、他者との相互作用を含む社会的関係性の中で捉えたり、あるいは他者との協調行動や共感、利他的行動を考える必要性が増してきている。そのために社会疫学やミラーニュー論脳科学、信頼やコミュニティを扱う社会関係資本、利他行動を解析する進化生物学、心理学と結びついた経済学として行動経済学や神経経済学などが研究されている。アメリカの神経経済学者のポール・ザックは「脳内化学物質」や「報酬刺激物質」などに注目した政策科学を説くが、これはポスト・ヒューマン論的(人間ではない人工人間)な方向に関係するのであろうか。実存的な考えでは、およそ人間の観念、思想、倫理、価値原理と言ったものは人間の生存を保障するための道具・手段だという。人間の利他性や協調行動などが強調されることは、資本主義の利己行為だけでは人間の存続が危ういということの裏返しではないだろうか。

自然および生命がその内発性原理によって自分自身をどう組織化してゆくかという、誕生から「自己組織化と進化」の問題について考えてみましょう。それがポスト資本主義の社会の構想につながるからです。近代科学における自然観や生命観といった根本的な次元にさかのぼる考察が必要です。物理的現象から生命現象そして人間の全体像に対して考え方をあえて線引きすると、@ニュートン力学の機械的決定論、Aデカルト的二元論(自己と他者)、Bシュレージンガー的生命/非生命的二元論、Cアニミズム的一元論形成原理(物理から生命まで自己組織性)と分けて考えよう。@のニュートン力学の機械論では接触しない力つまり重力は理解できません。力の伝達がないからです。アインシュタインは神さえ想定しました。西欧近代科学はもちろんAのデカルト的二元論で自然支配を目指す事でした。精神は不滅であるというプラトンのイデア論に基礎を置きました。Bの生命論では因果論的決定か非決定かという相違が生命と非生命を分けました。シュレージンガーが生命はマイナスのエントロピー(秩序化)であるといった。無秩序となってゆく物理現象から秩序が生まれることが生命である。熱力学のアナロジーで考えるものです。Cの自己組織化論は化学者プリゴジンの非平衡熱力学に基礎を置きます。一定の条件である秩序が生まれるという「散逸構造」は「自己組織化」と呼ばれた。自然そのもののの中に秩序形成に向けたポテンシャルが内在しており、それが展開してゆく中で生命、人間がが生成したという一元論である。素粒子から水素が生まれ、ヘリウムに融合し多くの元素が作られていった過程と同じ原理で、次には元素の化学反応で分子がうまれ、たんぱく質が合成され、遺伝子物質である核酸を獲得したという説である。世界を動かす駆動力と呼ぶものをニュートン力学的世界像では自然の外部(神でもいい)に求め、アニミズム的世界像では自然の内部に見出すわけだが、生命と非生命を一元的に把握する点では両者は似ている。近代科学の基礎をなす「自然の法則」と言う考えは古代ギリシャにもまたペルシャや東洋においても見られなかった発想である。それは中世ヨーロッパの宗教的、哲学的そして法学から生まれた。自然の法則とは、人が生まれつき持つ権利としての自然法に相重なるものである。神が世界を創造された時に設定された法則のことである。だから自然は人間が支配する対象となった。それに対して、近代科学のもう一つの特徴である「帰納的な合理性(要素還元主義)」は古代ギリシャの思考から来たものであろう。個の確立という点で近代民主主義に通じるものがある。近代科学はその二つの要素の結合として、@、Aの「機械論的自然観・生命観」に達した。その先にどのような科学観が待っているのか、B、Cの生命観であろうか。

第V部 緑の福祉国家・持続可能な福祉社会

第T部、第U部を合わせて、第V部の序章と理解できる。長い序章も終わって、本書の半分の分量を占める第V部 緑の福祉国家・持続可能な福祉社会にたどり着いた。未来学者として、政策立案者として筆が走る面目躍如の章である。さてここから、ポスト資本主義に実現してゆくべき社会の構想を考えることになる。まずは資本主義の現状である。格差に関する本は幾多あるが、簡単に整理する。格差の度合いを示す「ジミ係数」をみると、断トツに格差の大きいのがアメリカ、次いで大きいのがアウグロサクソン系国(イギリス、カナダ、オーストラリアなど)及び日本、南欧系国(スペイン、イタリア、ギリシャなど)である。そして次第に格差が小さい国は欧州大陸系国(ドイツ、オランダ、スイスなど)で、一番格差が小さいグループは北欧系こく(ノルウエー、フィンランドなど)である。資本主義国と言ってもさまざまであり多様である。福祉国家的な再配分政策で平等を実現している国もあれば、むき出しの資本主義(自由主義)国もある。面白いデーターに犯罪率と経済格差は比例するといわれ、刑務所収容人口ではアメリカが断トツ一位で700人/人口10万人で、イギリスで150人、ドイツ70人、日本70人である。日本はOECD加盟国の中では格差の大きいグループに入る。日本の格差は拡大しつつある。日本の失業率は2014年で3.6%でアメリカや欧州に比べると低いほうであるが、年利階層別では若年層で高く(15−24歳で6.9%、55−64歳で3.7%)高齢者で低い傾向は明確である。若年層へのしわ寄せがひどい。また非正規労働者比率は2013年には36.7%までに上がった。講師あt若者の雇用をめぐる環境悪化は先進国に共通のものになっている。この現象の根本には構造的な生産過剰によるデフレが長引いていることがある。そして労働生産性があがれば上がるほど失業が増えるというジレンマがあった。高度経済成長期には、労働生産性があがった分野の人を別の分野に投入してパイを拡大するという好循環がったが、どこの分野でも人余りの状態では労働生産性の向上は人員整理につながる。これを「楽園のパラドックス」と呼ぶ。失業した人の生活保障のために生活保護受給者が急激に増えている。企業が人員整理して楽になった分、政府(社会)という公的機関が負担するという構図となった。生産過剰による貧困が蔓延し、かろうじて職に留まった人でも過剰労働、ストレスに悩まされるなど労働環境は悪化の一途にある。非正規労働者の増加は正規労働者の労働強化と賃金抑制に働いている。限りないパイの総量の拡大という前提がもはや成立しない状況で、労働者の生活破壊(貧困化)が進行した。労働社会の変容については、 濱口桂一郎著 「新しい労働社会ー雇用システムの再構築へ」 (岩波新書 2009年)において厚生労働省の現役研究官の著者のデータが参考になる。過剰な生産性抑制策として著者は「時間政策」と称して、ワークシェアやコミュニティや社会貢献などに時間を配分するとか「生涯労働時間口座」という働いた時間の貯金記録で有給休暇を取るという仕組み、さらには国民祝日倍増政策を提案しているが、使用者側は人件費を抑えることが目的なのでこんな提案は意味をなさない。いかにも学者的な提案で、使用者と労働者という抜き差しならぬ関係からは実現不可能であろう。もう一つ面白い提案がある。「過剰の抑制」と重なるのであるが、生産性の高いものから、人手のかかる仕事への転換を{時間環境政策」と著者は呼んでいる。資本主義は物質の消費速度からエネルギーの消費速度、情報の消費速度をすさまじい速度で上げてきた。無限のスピードという「時間の消費」が根本的問題である。このままいくと物もエネルギーもすぐになくなり、莫大な情報に人は埋没するのである。といってもっと労働生産性を下げようというよりは、環境効率性(資源生産性)を上げようという提案である。企業にとってメリットのないことには、経済的なインセンティヴによって「労働生産性から環境効率性へ」に転換する企業行動を誘導することである。有限な資源消費や環境負荷への課税強化(エコロジー税制改革、温暖化防止炭素税)などの例を挙げているが、企業の抵抗はすさまじいものがあるので、実現できるかどうかは力関係による。労働生産性が高い業種とは、化学工業のように資源(設備)集約的である特徴を持つが、「労働集約的」分野が雇用を創出しやすい。サービスや人との関係性ケアーにシフトし、人が中心の労働集約的な領域が経済の全面に出ることであろう。しかし労働集約的分野の賃金は低く、働き手が集まらないというジレンマがある。例えば介護などの分野は、日本位おいては低賃金であり離職者が堪えないことから、市場に任せておくだけでは労働の価値は著しく低く評価される。

今後取るべき方向の二つの柱@過剰の抑制、A再配分の強化・再編について、後者の格差が拡大する中での分配のあり方を考えよう。社会的セーフティネットを三層で考えると、事前から事後の対策という考えで、@雇用、A社会保険(健康保険・失業保険、年金など)、B生活保護(公的扶助)と分けられる。資本主義の発展の中で、B→A→@という順で整備されてきた。むき出しの資本主義国アメリカyイギリスでは、救貧法や貧しい人にたいする慈善的な保護の手Bしかない。@とAは自己責任で対処しろという。社会保険は19世紀後半のドイツのビスマルクが創設した社会保険制度が始まりである。資本主義はさらに進展し、1929年の世界恐慌が先進国を襲うと、「ケインズ主義的福祉国家」は政府が公共事業や社会保障を通じて市場に介入することで、@の雇用を創出するのである。これは資本主義の根幹にかかわる修正でありケインズ主義の理念は「修正資本主義」と呼ばれた。資本主義の歴史的な進展の中で、政府による市場経済への介入が資本主義の根幹部分へと進行した。危機に瀕した資本主義は修正を順次事前的(根幹)なシステムに及ぼして生き残りをかけた。いわば資本主義がそのシステムを順次「社会化」してきた、あるいはシステムの中へ社会主義的な要素を導入してきたと言える。ポスト資本主義の段階において、根幹部分における社会化政策を考えよう。それは次のような内容である。@「人生前半の社会保障」における共通のスタートライン、ないしは機会の平等、A「ストックの社会保障」の社会化、資産の再配分(土地、住宅、金融資産)、B「コミュニティというセーフティネットの再活性化である。これまでの福祉国家の基本は、個人が市場経済の中で自由な経済活動を行うことを前提としたうえで、そこから生じた格差を事後的に修正を加えるものであった。ここで社会を構成する単位を個人とするか、家族とするかで見解が分かれる。相続および親からの継承という点は最後まで「私的」な領域として残され公的な関与(相続税)は制約されてきた。現実には格差の相続ないしは累積(貧困の連鎖}が如実である。個人尾「機会の保障」という、資本主義的な理念を実現するためにスア会主義的な対応が必要になる。逆説的に言うと、個人尾自由の保障は自由放任では実現せず、社会的に保障する必要がある。そこで@「人生前半の社会保障」(障害、家族、雇用政策、失業対策、住宅など)のOECD先進国比較を行うと、GDP比でいうと、日本はアメリカよりもお粗末で4%%以下で、欧州各国では8%以上となっている。公的教育支出の対GDP比は、日本が3.6%でOECD加盟国(平均が5.3%)では最低である。理由は小学校以前と大学以降の教育費割合が低いのである。また世代間の配分の配分のありかたでは、社会保障全体の対FDP比は日本は23%とアメリカ、イギリスに次いで最低であるが、さらに高齢者年金関係の割合が10%と高いのである。北欧では高齢社以外の社会保障が手厚く、日本では逆になっている。とはいえ高齢者年金においても格差が拡大している。厚生年金の報酬比例部分が高いので過剰にもらえる人と、国民年金の基礎部分だけの人ではかなり年金支給の差がついている。全体として日本の年金は世代内と世代間の双方において逆心的な格差を拡大するような制度になっている。そこで著者は基礎年金を分厚くし、報酬比例部分を小さく修正する案と、相続税と高額年金課税率を上げその税収を「人生前半の社会保障」に充てる政策を提案している。つぎにA「ストックの社会保障」の再配分については、高度経済成長期ではフロー(GDP)の増加が顕著であったので、ストック(土地、金融資産)は相対的に低かった。しかし社会が停滞期になりフローはの増加率が低いので相対的のにストックが重要になってくる。これをピケティの説によると「議論の出発点となるのは、資本収益率(r)と経済成長率(g)の関係式である。rとは、利潤、配当金、利息、貸出料などのように、資本から入ってくる収入のことである。そして、gは、給与所得などによって求められる。資本収益率(r)は平均で年に5%程度であるが、経済成長率(g)は1%から2%の範囲で収まっていることが明らかになった。このことから、経済的不平等が増してゆく基本的な力は、r>gという不等式にまとめることができる。」となる。日本では2009年の年間所得に関する格差を表現するジミ係数は0.311であったが、貯蓄のジミ係数は0.571、住宅・土地資産のジミ係数は0.579である。フローないし所得の累積と親から子への相続を通じて格差が拡大してきた。ストックないし資産を私的領域に委ねるか、一定の公的な規制を加えるかが資本主義と社会主義の基本的な分岐点である。土地の大半が私的所有であるアメリカや日本に対して、欧州では土地の公的所有の割合が相対的に高い。ストックの社会保障として、土地家屋のシェアー経済を巡る議論が深まるであろう。低成長経済下では起業家は金利生活者に転身する。起業家がいなくなると資本主義は終焉する。つまり資本主義的な理念を存続させるために、社会主義的な対応が必要となる。資本主義と市場経済は対立し寡占状態から市場の自由が抑圧されている。これらを資本主義の自己矛盾と呼ぶ。日本の税制の歴史を見ると、明治期は土地への課税「地租」がメインであったが、工業化産業化時代には「所得税・法人税」に変わり、1980年以降の消費社会においては「消費税」が導入された。停滞期・ポスト工業化時代には「資産課税・相続税」、「環境税」、「土地課税」に変わってゆくであろう。これらを総合してポスト資本主義は「資本主義・社会主義・エコロジーの交差」という時代になろう。

これからの社会の構想について本質的な意味のある「コミュニティ」、「ローカル」という二つのテーマを取り上げる。空間の位相を3段階に、地域(ローカル)、国家(ナショナル)、地球(グローバル)に分け、社会の位相を「私」の原理が支配する交換市場、「公」の原理が支配する再配分を行う政府、「共」の原理が支配する互酬性のコミュニティの三層に分けてマトリックスで特徴を考える。近代化モデルは歴史的にはマトリックスの対角線上に移動するはずであた。地域コミュニティから中央政府そして世界市場へ。しかし16世紀から始まった前工業化と重商主義を通じた資本蓄積の時代から産業革命後の本格的な産業化をリードしてきたイギリスの例にみられるように、共的な原理「コミュニティ」も公的な原理「政府」も私的な原理{市場」も、すべてがナショナルレベル=国家に集約される。「国民国家/国民経済」が最も強力に作用した。経済空間と政治空間が全体として同じ方向に向かった。イギリスだけがこういう方向に進んでいた。次にフランスが倣った。ローカルな分権性が強かったイタリア、ドイツ、日本は出遅れた。杉山伸也著 「グローバル経済史入門」(岩波新書 2014年)はイギリスの国民経済の台頭を次にように記している。「イギリスの工業化の出発点は16世紀半ばの薪炭から石炭へのエネルギー転換に求めることができる。森林面積の減少を前にして17世紀にかけて石炭業が飛躍的に発展した。これによって18世紀に製鉄業の技術革新、18世紀末には蒸気機関という動力の発明による輸送革命、1785年綿工業の機械化による大量生産方式の開始が始まった。産業革命によって市民の生活水準が上がったかどうか、経済成長率は飛躍的に高まったのかについては論争されてきた。経済成長率は統計的には2−3%の緩やかな成長が続いたとされている。産業革命はなぜイギリスで起こり、他の国(特にアジア)では起らなかったのかという問いは重要である。産業革命は国内外の経済的、地理的、政治的、宗教的、科学的など様々な複合要因の結果生じた創成的現象であるが、イギリス固有の条件も考えられる。次のような説が一般的であろう。
@石炭と鉄鉱石の鉱物資源が豊富であったことと、イギリス経済の特徴である高賃金は労働節約的で技術集約的な技術開発を促した。
A政治的には1688年の名誉革命により、国王の権限を制約した議会制度によって民法・商法など慣習法が進み安定した制度社会となったこと。
B宗教的には1660年のピュリタン革命の失敗で原理主義が退潮し、イギリス国教会の下で宗教と科学技術の分離が進んだ。
Cベーコン以降の科学的思考法や経験主義、啓蒙主義などの思想的風土が醸成され、産業的啓蒙主義が開花したこと。
グローバル経済の確立は、19世紀半ば以降イギリスの優越した経済力によって安定的な国際的経済レジームが構築される「パクス・ブリタニカ」の時代が必要であった。パクス・ブリタニカは交通・通信っく明による自由貿易体制の拡大、金本位制にもとずくポンドを国際通貨とする多角的決済システムの形成など複合的な要因が集まってできたのである。イギリスは1849年重商主義的な規制や保護関税・差別関税をほぼ撤廃し、自由貿易体制が確立した。イギリスは「世界の工場」という工業生産の中心の貿易センターであり、「世界の銀行」という金融のセンターでもあった。イギリスの銀行は貿易手形割引など外国為替取引を業務とし、海上保険はロンドン保険市場で引き受けられた。ロンドンは国際金融センターとしての地位を確立した。中国、日本、タイを除くすべてのアジアの国々を植民地化し、いろいろな通商条約で体制化を果たした西欧列強(特にイギリス)の下で、19世紀後半にはパクス・ブリタニカの世界貿易の安定的拡大と多角的決済機構の形成の下で、アジア経済も自由貿易に基づく国際分業体制の中に統合された。アジアは欧米市場向けの農産物や一次産品の輸出地域として固定化され、植民地的なモノカルチャー経済が拡大強化された。」

時代は産業化からやがて1990年以降「金融化=情報化」に入った。ここではナショナルレベルという一定の地域的空間的範囲にとどまっていた工業化の時代から、国境を越えた世界市場=電脳空間が成立した。「最適な空間的ユニット」が産業時代から変化してグローバルレベルに移った。ではポスト情報化・金融化の基本的な流れは、@各レベルにおける「公ー共ー私」の綜合化、Aローカルレベルからの出発ではないかと著者はいう。「公ー共ー私」というカテゴリー化を行ってその綜合化と言われても実態がはっきりしないが、要するに地方地域経済に夢を見ようというソフトランディング策なのであろう。社会資本整備状況は、鉄道は1930年頃飽和になり、上水道・道路は1980年頃、治水・土地改良・下水道や新幹線・都市計画・空港などは成熟期ではあるが今なお建設中である。工業化あるいは高度経済成長期の社会資本整備は、いずれもナショナル的な空間範囲に関わるものであり、中欧集権的計画に最もなじみやすいプロジェクトであった。工業化関連の社会資本整備は都市に集中しながらも、すでに成熟・飽和段階にきている。ではグローバルな情報化・金融化の波が飽和したら、その次に来る波はローカルな性格になるだろうと著者は見るのである。経済活動の変化に伴っていわば問題解決の空間的ユニットはローカルな領域にシフトするに違いないというのだが、その社会像が見えない限り空間までは見えてこない(わからない)。コミュニティ経済の姿として著者は北欧の生活空間を例に取ってくる。中心部から自動車の排除と歩行者中心のコミュニティ空間と町の賑わいを描いて、次に経済の地域循環を模索してゆくことになる。いずれも実現可能性や根拠などは不明であるが、コンセプト(キーワード)を拾ってゆこう。a)福祉商店街・コミュニティ商店街、b)自然エネルギー・環境関連、c)農業、d)地場産業・伝統工芸関係、e)福祉・ケア関連などである。これらのキーワードをちりばめてストーリを書いてゆくと、@老いと死をみとる地域コミュニティ、A自然エネルギーと鎮守の森、B都市と農村の持続可能な相互関係、C緑の福祉国家または持続可能な福祉社会(環境パフォーマンスの悪い国は格差が拡大した国)などが記されている。現在の日本はアメリカと並んで「非環境志向・非福祉国家」に変容している。経済成長がすべての問題を解決してくれるというアベノミクス第3の矢から抜け出せず、人口減少社会に入った事実さえ無視して、「産めや増やせや」の太鼓をたたいて経済は右上がりに転じると信じる時代錯誤な人々の頭を変えなければならない。ということで、新しい社会と経済の像はいつも中身は空っぽなのである。明日の天気や経済のこともわからないのに、新時代のタイムスケジュールを書いて見ても実現性は保証されない。


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