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ポアンカレ著 吉田洋一訳 「科学と方法」
岩波文庫(1953年10月)  (第1版岩波書店1926年 第2版岩波文庫1927年 改訂版岩波文庫1953年)

「科学と仮説」の姉妹版 自然科学の方法論と教育論

本書ポアンカレ著「科学と方法」(ポアンカレ思想集第3集)は1908年に刊行された。ポアンカレは元来数学者であるが、物理学、天文学にも幾多の業績を残した科学者である。ポアンカレの批判的科学論として、科学と仮説、科学と方法、科学の価値、晩年の思想の4書がある。ポアンカレ著 河野伊三郎訳 「科学と仮説」(ポアンカレ思想集第1集)(岩波文庫)にポアンカレの科学思想がくわしく述べられている。「ポアンカレが科学における仮説の重要性を力説して止まない理由を、本書の序文で説いている。科学の真理は疑いの余地はないとか、数学上の真理は少数の自明な命題から欠点のない推理の鎖で導かれるといった科学の確実性を信じる表面上の理由は本当に確かなことなのだろうか。しかし少しでも考えると仮説の占める領域がどれほど広いかが分かる。数学者は仮説なしではすまされないし、実験科学者はなおさらだということも分かった。科学の基礎は果たして堅固なものであるかについて考察したならば、仮説の役割を念入りに調べなければならない。実験によって確認された実り多い仮説と、定義や規約の扮装をつけた仮説がある。数学ではことに多い。これにより数学は厳密性を得ているのであるし、この規約こそ自由な発想から矛盾なく導かれたものである。経験は我々に自由な選択を許しているが、最も妥当な選択を導き出すのも我々の理性の活動である。ただきまぐれによって作られた規約は無力である。数学の推理の本質は演繹的であるよりも帰納的な性質が重要である。そのことで厳密性を失うことはない。数学的量の概念は経験とはかなり異なることは、本質を壊さず新たな枠組みを作る事であった。非ユークリンド幾何学は、幾何学の規則が規約に過ぎなかった明らかにした。力学の原理ははるかに経験に基づいているが、物理学の歴史からその理論の寿命は極めて短いことを知らしめる。なお残るものに真の実在が宿るのである。数学と言えどすべてを証明出来るわけではないので、証明なしに公理から出発しなければならない。では公理は何かといえば、それは自明の真理ではなく仮説である。仮説にはいろいろあるが、経験と直感の世界であるとポアンカレは考えていた。仮説は科学者の世界観を反映しているので、哲学上の問題と言われるが、ポアンカレ自身はカントの「純粋理性批判」の「綜合判断」に相当すると考えていたようである。物質の性質を考える「分析判断」と並んで、「綜合判断」は物質の重さを感じ取る「経験」から生まれるとした。しかし経験によらない綜合判断もあって、それを「先天的綜合判断」という。特に数学では定理はこれらの判断の好例である。無限ということは経験では確かめられない事項である。」本書「科学と方法」は「科学と仮説」の姉妹版と言えなくはない。ただし、第1部第3章「数学上の発見」は自身の数学的大発見の心理分析を行っている希有な記録であり、第1部が本書の最大の特徴である。第2部、第3部、第4部の各分野の進歩については「科学と仮説」に重複するところが多い。本書「科学と方法」においてポアンカレが試みたことは、「学者がその好奇心の前に現れる無数の事実の中から選択を行うためには、いかなる方針によって進むべきであるか」ということである。学者の精神の力には限りがあるから、自ずと選択をしなければならない。解くべき問題の性質を明らかにしつつ、解決の主体である人間の精神力の性質をも考察しなければならない。事実には一定の段階があって、価値の少ない事実から産出力の大きな事実がある。しかしこの分類は相対的で、価値の少ない事実とは複雑な個々の事象のことで、産出力の大きな事実とは単純と判定できる事実で、普遍性・応用性が高いのである。このような考えは物理学のみならず数学の分野でも見られる。証明法は物理学と数学とでは同じではないが、発見の方法はよく似ている。すなわち直感と普遍化の精神である。また証明そのものも論理がすべてではない。信御数学的推理は紛れもなく帰納法である。特殊から普遍に向かう探究である。論理による演繹がすべてという方法は間違いなく失敗する。物理学の進歩は産出力の大きな事実の積み重ねによって、これらを結ぶ関係が明らかになり普遍的科学の見取り図が得られれてきた。直接の関係がない場合でも、関係の類似性によって光明がみえてくることがある。本書の構成は第1部「学者と科学」、第2部「数学的推理」、第3部「新力学」、第4部「天文学」からなる。分量からすると、第1部「学者と科学」、第2部「数学的推理」とで全体の2/3を占める。これらを中心に紹介してゆこう。

ジュール=アンリ・ポアンカレ(1854年4月29日 - 1912年7月17日)の概要をおさらいしておこう。彼はナンシー生まれのフランスの数学者。数学、数理物理学、天体力学などの重要な基本原理を確立し、功績を残した。位相幾何学の分野では、トポロジー概念の発見や、ポアンカレ予想など、重要な活躍をしている。また、フックス関数と非ユークリッド幾何学との結びつきについての数学的な発見をした際に、その過程の詳しい叙述を残して、その後の数学研究の心理学的側面の研究にも影響を与えた。その他、ヒルベルトの形式主義に対する批判をして、初期の数学的直観主義の立場を表明した。電子計算機がない時代にカオス的挙動について言及した点でも特筆され、後に「バタフライ効果」と呼ばれる予測不能性などが著書の中で触れられている。彼は広範な範囲で生産的な活動をしたが、その論文には多くの不正確な部分があると指摘されるが、何よりも直感を信じるポアンカレの立場は「数学者とは不正確な図を見ながら正確な推論のできる人間のことである」という彼の言葉が示す通りであった。1904年彼によって提出された有名な「ポアンカレ予想」について述べておこう。(3次元)ポアンカレ予想とは、数学(位相幾何学)における定理の一つで7つのミレニアム懸賞問題のうち唯一解決されている問題である。ポアンカレ予想とは、「単連結な3次元閉多様体は3次元球面(英語版) S^3 に同相である」という予想である。言い換えれば、3次元多様体が3次元球面にホモトピー同値ならば同相である、と言うこともできる。ポアンカレ予想は、ほぼ100年にわたり未解決だったが、2002年から2003年にかけてロシア人数学者グリゴリー・ペレルマンはこれを証明したとする複数の論文をプレプリントサーバに掲載した。これらの論文について2006年の夏頃まで複数の数学者チームによる検証が行われた結果、証明に誤りのないことが明らかになり、ペレルマンには、この業績によって2006年のフィールズ賞が贈られた(ただし本人は受賞を辞退した。考えが変わったか、自信が無くなったか、気分を害したか不明)。数学直感主義とは、数学の基礎を数学者の直観におく立場のことを指し、ヒルベルトに始まる現代数学の形式主義(抽象主義、構造主義)に対する、アンチテーゼであった。これに類する主張は、カントールの集合論に対抗する形で、クロネッカーやポアンカレによってもなされていたが、最も明確に表明したのは、オランダの位相幾何学者、ブラウワーである。ブラウワーの立場に対してポアンカレらの立場は前直観主義と言われることがある。ブラウワーは、数学的概念とは数学者の精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった。それ故、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。 ヒルベルトの形式主義は、直接的にはブラウワーからの批判的主張に対し排中律を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる。ヒルベルトの形式主義はゲーデルの「不完全性定理」によって脅かされたが、ヒルベルトはこれに答えていない。ポアンカレの業績と言われる位相幾何学・トポロジーは「やわらかい幾何学」として知られる、比較的新しい幾何学の分野である。位相幾何学では、例えばドーナツ(円環体)と取っ手のついたコップは同一視される。つまり粘土で作ったものを考えるような幾何学である。これはドーナツを「連続」的に変形して取っ手のついたコップにすることができ、その逆もできるからである。ここで、「連続」という言葉を強調することには意味がある。連続性は、まさしく位相幾何学の存在理由となる概念であるからである。連続性を、より厳密に定義するために用いられるのが、近さを測る距離の概念を抽象化した位相[4]と呼ばれる概念である。位相(これもまたトポロジーと呼ばれる)とはなんであるかということについて、その基礎づけを与える学問は点集合トポロジー、一般位相あるいは位相空間論と呼ばれ、そこでは位相空間の内在的な性質が浮き彫りにされる。位相幾何学にはいくつかの大きな分科があり、代数的位相幾何学、微分位相幾何学、それから低次元位相幾何学に良く見られる幾何学的位相幾何学などを挙げることができる。ポワンカレは 1895 年に出版した「Analysis Situs」の中で、ホモトピーおよびホモロジーの概念を導入した。これらはいまや代数的位相幾何学の大きな柱であると考えられている。

1) 学者と科学

1-1) 事実の選択
トルストイは「科学のための科学」とは本来不合理な概念であるという。かれは科学は実益に供しなければならない。その実益とは工業上の進歩ではなく、道徳的宗教的の善良な人間の養成のことである。ポアンカレは言うまでもなく両方の見解に反対する。科学者は事実に段階があることを知っており、正確な選択が可能であることも承知している。もし選択ができなければ科学は成立しないからである。工業の進歩は実業家を富裕にすることができたが、このような実益を考えず幾多の苦難をなめて実り多い事実の発見に邁進してきた者の努力は、後進の思考を大いに軽減してくれた。このため選択はどうあるべきかというと、繰り返し起る機会のある事実を研究対称に選択することである。繰り返し起る機会のある事実とは何かというと、まず第1に単純な事実である。実際は単純でなくとも臆見単純そうに見える事実は気が付き易い。複雑すぎては目にも止まらないからである。天文学者は星を点と考えた。物理学者は物体を無限小の要素から考えた。生物学も細胞を単位として考察した。彼らの選択は賢明であったというべきであろう。それに対して社会学は不利である。社会学の方法は数多くあるが、その成果は少ない。規則的な法則は例外の方が多く、相違ばかりが目立つのでる。しかし我々が目指すことは一見一致しないような事柄から相似を再認識することである。自然科学者は功利的実益がある柄研究するのではなく、自然の法則に愉悦を感じ、自然が美しい法則からなることを目指している。知的美を愛するからこそそれ自体が選択の大きな要因である。

1-2) 数学の将来
歴史家、物理学者、数学者さえ事実の片々から要素をつづり合わせ新いい組み合わせを作らなければならない。物理学者からの要請で問題に着手することはあるが、この数学という精神科学もそれ自身の為に培しなったものでなければ、道具として役立つ数学を提供することはできない。物理学者も生活の緊急の必要が生じるまで待ってから問題に取り掛かるわけではない。そして実益だけを目的としてわけではない。普遍的な法則の発見を目的としているのである。ニュートンが万有引力を発見したということも、人類始まって以来リンゴの落ちるのを見てきたはずである。背後に潜むものを感得する精神がなければ事実から何も生まれることはない。マッハが言う様に、科学のあり方は機会が労力を省くように、科学の成果は思考の手間を省いてくれる。だからその成果の上に立つならば、加速度的に新発見がもたらされる。物理学において、生産力の大きな事実とはきわめて一般的な法則に包摂される事実のことである。普遍化することが可能な法則ならば、次々に法則は適用され新しい力が生まれてゆくのである。もし結果に価値があるとしたら、その結果によって今まで何の関連をも見出せなかった要素間に見通しのいい連絡がつけられ、秩序がもたらされることである。数学者がその方法と結果が「美しい」と思うことは、異なった部分間の調和、対称性、均整、秩序をもたらす統一、全体を見通し理解できるにあこがれるからである。19世紀の中ごろ以来、数学者は絶対的厳密性(数学基礎論のこと、証明の論理性)に意を砕いてきた。数学に厳密性がなければ何の価値もない。19世紀前半には数学はなかったというのではない。オイラー、ガウスらによって数学は素晴らしい展開を遂げたことを否定する人はいない。証明が長くなり複雑化することは決して望ましいことではない。数学においては用語(定義)がいかに重要かは言うまでもない。我々が目指すのは思考の節約であるから、異なった事柄に同一の名称を与えることで驚くべき便利さが生まれる。多産的な事実とは、内容が異なっていても形式が似通っていることである。それは物理学でも同じことである。特に「群」においてはその内容よりも。形式のみが重要で、一つの群を知るならば、それでほかのすべての同型の群を知っていることになる。群の観念は変換の観念と結びつく。以前は、方程式の解が有限個の既知関数を用いて表せない間は、その方程式は解かれたとは考えられなかった。そのようなことができるのは百に一つもない。道関数は有限の計算で表し得ないなら、これを収斂無限級数で表して計算できる。問題が収斂の急速な級数によって解かれるか否かに多少の差異があるに過ぎない。数学を形成する特殊な分野を概観しておこう。「数論」は連続の観念に欠けていた。一般的定理が整数論においては希薄で、代数学や解析学に遅れをとった。数論は代数学との類似を手本にしなければならない。「代数学」はすでに終わったかというと、未知数が整数ではなく、整多項式であるような不定解析が望まれる。代数学は数論に範をとる必要がある。「幾何学」は代数学や解析学に他ならないだろうか。幾何学の大きな特徴は感覚が知性を援用する点に存在する。3次元以上の幾何学は位置解析はリーマンの創始になるが、高次の位置解析が求められる。「集合論」はカントルが数学的無限を考察する方法を導入したのである。エルミットがこれに反対し完全に行き詰った。公理・公準の研究はヒルベルトの貢献が著しいが、発展のよちが無くなった。、

1-3) 数学上の発見
数学上の発見がいかになされるかは、心理学上の興味より人間精神の本質に迫ることである。しかし数学を理系できない人の余りに多いのも事実である。定義命題の言葉、推論式に人々は誤謬に陥り易い。数学上の推論において、推論の一般的な進み方には特徴があり、数学上の証明は単に推論を並べ立てたのみではなく、ある一定の順序に配列された推論式でありその順序が特に重要である。一般的に数学上の発見とは何であろうか。それは知られた数学的事物を用いて新しい組み合わせをを作ることではない。有用な組み合わせは発見であり識別であり選択である。発見することは選択することである。ここでポアンカレは彼の若い時の論文であったテータフックス関数の論文について述べている。それから数論の研究で行き詰まり、突然天啓のように、無意識的活動が数学上の発見に寄与するところが大である。無意識的自我あるいは潜在的自我は数学上の発見において主要な役を演じる。一見数学の証明は知性以外には関係がないように見える。数学的優美の観、審美的感情特に感受性が支配しているようである。このことは日本の数学者岡潔氏が「春夜十話」という本に書いている「情緒」に相当するのかも知れない。私は高校生の頃、岡潔氏のこの本を読んで、「情緒」という言葉が理解できなかったが、ポアンカレも同じことを言っている。この調和は我々の審美的要求に答えるのみならず、我々の精神を助けて指導するようである。数学者の特殊な感受性を動かし、意識的な作用を促進するようである。効果ある無意識的活動に先立つところの予備的意識活動が働いているようである。天啓の後に続く計算過程は厳格複雑である。

1-4) 偶然
確率とは蓋然のことであって、確実の正反対語である。偶然に帰することと調和的法則に従うの二つの現象があって、正確な法則はすべてを決定するものではなく、偶然の働く範囲の両端を示すに過ぎない。絶対的決定論はかえって不自然である。偶然が存在するのは我々の無知であり無力に因るのである。気体分子運動論においては、無知の法則があるから表現できたのである。確率論によって当座の知識が得られる偶然性の現象と、支配する法則を知らないために何も言えない現象の二つは区別しなければならない。確率論で得られた知識は、その現象がさらによく研究されたとしても真である。不安定の釣合は偶然のみが支配するが、宇宙の状態は最初の瞬間が分からないだけで、宇宙の進行は予測しうるのである。でたらめではなく、最初の状態は近似的にしか知り得ないという意味である。小惑星の分布は偶然というのではなく、最初の状態が分からないのと、ごくわずかな差異がものすごい時間の後で拡大されたという意味である。原因における小さな差異と結果における大きな差異の一例である。ルーレットの賭博は、最初の一撃の小さな差異がすべてを決めるのであって偶然とは言わない。ここでカルノーの熱力学法則は非可逆的であって、すべては一種の不安定の平衡の混沌によりできたかのように見える。それは小さな原因が大きい原因を生ずるばかりでなく、衝突回数がべらぼうに大きく原因が非常に複雑なために起きる結果である。という熱力学的安定と気体分子運動論の相関が述べられている。この熱力学と気体分子運動論には、朝永振一郎著 「物理学とは何だろう」(岩波文庫 1979年)という名著があるので参照したい。カルタを切るとき、カルタの順列が変わり、十分長く切るともはや蓋然的としか言いようがないほど無数の順列に変化するからである。自然界において、二つの事象が独立である時(人が街を歩く、工事現場の上から物が落ちるという事象の遭遇)はこの相互作用の結果は偶然によるかの如く見える。故意に狙ったら殺人事件になる。次に偶然は平均値の法則に支配されることを考察する。偶発的誤差がガウスの法則に従うことは、非常に小さな原因の差異がそれに相関した結果の差異を生むからである。すると結果の確率法則を連続曲線で表すことができる。気体運動論が説明する、一様な気体の性質は実は無限の錯雑の結果である。人文科学(歴史)でも「偶然の出来事」という言葉があると同時に、前の時間帯の出来事がはっきり現在につながっていると見るときは「歴史の法則に従った」という。偶然を象徴する事象は偉人の誕生である。ポアンカレーは量子力学を知らないが、量子の振舞(光か波か)も偶然が支配する確率の問題に帰せられている。

2) 数学的推理

2-1) 空間の相対性
空虚な空間を表彰することは不可能であるとポアンカレ―は第1番に断じる。だから空間の相対性が言われるのだという。たとえ話で、地球は公転・自転し、かつ銀河星座も動いているのだから、空間の絶対的位置は確定しようがない。空間とは捉えどころがない、だからアインシュタインは光の絶対速度だけを信じて相対論を生んだ。ローレンツの仮説によれば、地球の運動とともに移動する地球上の物体はすべて変形を受ける。地球に平行な長さは1億分の1を短縮し、垂直の長さは影響されない。ここで任意の変形をしても、すべての物体が同じように変形するなら、我々はこれを認識しえない。我々も物体だからという観測の問題も発生する。空間には実は定形がないが、その中にある物体のみが空間に形をあたえるのだ。カフカのような世界である。もし空間に距離、方向、直線という直感が存在しないのならば、その直感は何に由来するのだろうか。我々の表象しうる対象の唯一の空間的関係とは、目に見える我々の身体しかない。我々の幾何学全体を形作るのは複雑な連想関係である。このようにして創造された空間は我々の腕の長さを出ない小空間(局部空間)に過ぎない。それを拡張する(拡張空間)には記憶が参加する。空間の定義そのものにある不確かさは宿命であって、空間の相対性を形成するのはそのせいである。2点間の距離が同じであるということは、空間の等質性が前提である。そして次に空間が3次元を持つということは、我々人間の知性の内在的性質に他ならない。だからこそ空間が四次元をを持つようにすることもできるのである。幾何学的公準の明証さは人間認識の保守性にある。経験的に疑わない明証さとは砂上の楼閣である。幾何学が経験科学でないにしろ、経験に関連して生まれた科学であり、幾何学の空間とは我々が創造したものではあるが、我々の住む世界に適合するように拵えた世界のことである。我々の選択を指導した者は経験であった。

2-2) 数学上の定義と教育
数学上の良い定義は、定義されるすべての対象に、そしてこの対象のみに適用されるような定義、論理の法則を満足させる定義のことである。しかし教育においては生徒が理解できる定義でなくてはならない。この世にどうして数学嫌いが多いのかと言えば、たとえば矛盾律のような、我々の悟性の骨格をなしこれがないと思考すらできないような論理の根本原理になじめない人が多いからである。また理解の程度も千差万別であり、論理的に矛盾がないことを確認しただけで理解したという人もいる。推論式が一つ一つ腑に落ちる、自分の要求通りの理解ができて初めて理解したと言える。そして感覚像を拵えるのである。推理に注目しないで形だけを見ることで理解したと信じる人は、実は眺めたに過ぎない。数学者にもワイヤストラスのような論理家とリーマンのような直感家がいる。問題を解析的に処理する人もいれば、幾何的に考える人もいる。たとえば分数の定義がその例である。低学年では実物の切断で教育する。中等学年以上では分数記号で表して、演算規則を定義するのである。ヒルベルトの「幾何学の基礎」に見られる定義は、点、直線、平面の定義から始まる。そして異なる2点は直線を決定する公理が導かれる。円とは中心から等距離(半径)にある点の軌跡であると定義されるが、低学年では何のことやらわからない。むしろ「円は丸い」といったほうがわかりやすいが、次の処理や演算を容易にするのは間違いなく定義のほうである。人は直感を信頼していた。直感は厳密性を与えない。直感はすべての連続関数は接線をもつ、すなわち導関数を有すると考えていたが、しかしこれは誤りである。また連続関数はゼロになることなくしては、関数の正負の符号が変わることはないと信じていた。これも証明を擁するのである。このように直感の活躍する範囲は次第に狭められてきた。人はまず定義に厳密性を入れなければ、数学的推理において厳密性が確立できないことを悟ったからである。解析の幾何学的範囲〈接線、面積積分など)は狭くなり、数論化されたのである。我々は先天的要素のみを残して経験的要素を除外し、経験によって知り得た現実の対象が正しいかどうか証明を必要とする。この数学的要素の純粋性は、現実から遠ざかることによって確立できた。この半世紀以来、奇怪な関数があらわれ、どういう意味があるのか、何か役立つのかとは思えない関数に遭遇してきた。現実の数学教育の現場では、教師の満足のみが教育の目的ではなく、生徒の精神能力(知力、悟性)の養成に力を入れなければならない。進化の過程は発生の過程によく似ているといわれるように、教育では科学の歴史を第一の指針としなければならない。数学教育の主たる目的は、ある精神能力を発達させるためであって、なかでも直観力は決して無視できない。技術者養成にも数学教育は必須であり、数学の利器は重要である。教育者に直観力がなければ、全体を見渡す力を生徒には発達させることは望めない。この能力は大切である。証明するのは論理によるが、発見するのは直観力である。多くの方法から目的に合った方法を選択する力が直観力(勘)である。そのためには遠くから見なければならない。見ることを教える能力は直観である。定義には公理を含むとはよく言われる。定義に矛盾を含まないことを証明しなければならに。定義は定義される対象と惟特別すべき対象を示したとき、その際を把握して定義しなければならない。整数は定義するに及ばない。その代り通常整数の演算に定義が与えられる。加法、減法、乗法、除法、分数(比例)がそれである。算術が幾何学と全く無関係であったなら、算術には整数以外はなかっただろう。整数以外の数(有理数、無理数、超越数、虚数など)が次々生まれたのは幾何学の必要からである。幾何学の公理につていては先ほど述べたので省略する。力学に関しては、速度、加速度の運動概念は導関数の概念と結びついた。力の方向はベクトル(平行四辺形の矢)であるが、いい定義がない。張力、摩擦力、弾力、圧力、重力、作用反作用などは性質的定義に過ぎない。接触する力は作用反作用、離れた力は重力、電気力である。力を知れば質量を定義することができる。質量mと重量mgの区別がある。例による定義は常に必要であるが、それは論理的定義の準備であって、その代わりではない。

2-3) 数学と論理
この章はおそらく本書の最重要な内容だと思う。数学は論理ばかりに還元することができるのだろうかというテーマである。論理派の言語には詞句がなくただ記号のみを用いている。これを検証する前にカントルの「実無限」という概念を見てゆこう。数学的無限とはあらゆる限界を超えて増大する変数のことである。カントルは「空間に存在する点の数は整数全体より多いのだろうか、平面上の点の数より空間中の点の方が多いのだろうか」という問題を設定した。整数の数、空間の点の数などはいわゆる超限基数と称するものは、普通の基数より大きい基数を形作る。数論を論理的に構成するには、まず超限基数の一般的性質を確立し、その一部類としての整数を区別して論じるべきであるという。そうすると整数に関する命題を論理以外に何の原理も用いずに証明できると考えるのだ。論理派の論文は公式の羅列で文章や説明文はなく、これで純論理以外のものはすべて排除したと考える。ところがカントルの二律背反でこの派の説は矛盾をきたした。ラッセル、ぺアノ両氏はカントの先天的綜合判断なるものは存在しないことを示した。ポアンカレ―はこの説を断固として拒否する。論理派または形式主義は、純形式以外の意味を論じることを禁止した。ヒルベルトの「幾何学基礎論」では、点、直線、平面は規約であり、その意味を問うてはならないと宣言するのだ。一つの定理を証明するためには、その定理が意味するところを知ることは必要がないだけでなく何のプラスにもならないという。ヒルベルトの幾何学が形式的であることは、幾何学的推理を残らず機械的な形式に翻訳することである。何のために何をしているのかという意味は不毛である。公理から出発して定理に至る推理を論理的に正確にすることで、再び直感に訴えることをしなくてあらゆる数学的真理を説明することができるという論理派の原理は正しいのだろうか。直感派に分類されるポアンカレー氏はノーという。ポアンカレ氏は「数学的帰納法」に数学的推理法の神髄をみたという。数学的帰納法は自然数に関する命題P(n) が全てのn に対して成り立っている事を証明するための、次のような証明手法である。
1.P(1) が成り立つ事を示す。
2.任意の自然数 k に対して、P(k) ⇒ P(k + 1) が成り立つ事を示す。
3.以上の議論から任意の自然数 n について P(n) が成り立つ事を結論づける。
論理派はこの数学的帰納法を「これは公理ではない、また先天的綜合判断でもない、それはただ整数の定義である」と反論する。つまり証明できない公理は「変装した定義、公準」と見なす。数学は物質的対象の存在には無関係で、存在という意味は矛盾がないということを表すのだ。公準が矛盾を含まないことを確立するには、その公準を前提にして演繹して得られるあらゆる命題が互いに矛盾しないことを示さなければならない。論理主義者はこれを果たしていない。さらに論理主義者は定義の効用を認めていない。我々が定義を与えるのはその定義を利用することで問題がスラスラ進むことを期待している。物理的な定義は経験のみがよりどころであるが、数学的定義は概念を純化し、他の意味の混入することを禁止するので議論が遅滞なく進む。このことを論理学者は理解していない。言葉なしに定義を与えることは不可能である。

2-4) 新しい論理学
ポアンカレーはアリストテレス以来の新しい論理学としてラッセル氏の形式論理学を取り上げている。アリストテレスはカテゴリー論理学であるが、ラッセルは「仮言的推論式」に取って替える。それが対象を限りなく拡大した。ラッセルの命題論理学は、IF,AND,OR,NOTを組み合わせる法則の研究である。言い換えると加法、交換、結合、配分の法則である。ラッセルはいかなる偽の命題も、真偽とともに他のあらゆる命題を内に含むと結論に達した。古典的論理学に比べて新しい論理学は記号化に助けられて、数々の組み合わせが作られ、その数はもはや有限ではない。ラッセルは「証明することができない原則」を導入するが、これは先天的綜合判断、直感である。これらの原理は矛盾しないのだろうか。数学的帰納法によって、それまでに矛盾を含まない体系に、ひとつづつ矛盾しない命題を加えて行けば矛盾は起りえないと判断する。こうして新論理学は基礎を形作る9個の定義と20個の証明できない命題の各々は先天的綜合判断を予想している。これ以降は直感作用を加えることなく数学全体を建設できるというが、果たしてそうだろうかとポアンカレ―は疑問を呈する。クーテュラの序数論はペアノの5つの公理を示す。@ゼロは整数である、Aゼロはいかなる整数の後続者でもない、B整数の後継者は整数である、C2つの整数は後継者が等しければ、相等しい、D数学的帰納法の公準  しかしこの公理による定義は矛盾を含む。ヒルベルトはラッセルと同じ目的で「論理学の原理と数論の原理を同時に展開することが必要である」という。ラッセルは論理学を数論の先においたが、ヒルベルトは同時にと表現した。ヒルベルトは数学的帰納法の公理による整数論の定義が矛盾を含まないことを証明しようとしたがあまりに困難であるので行き詰まっただけである。ヒルベルトの幾何学の基礎定理は一体なにかというと、ようするに幾何学の公理が矛盾を含まないということで、これを帰納法の原理を用いないで証明することができないということだ。帰納法の原理は整数の変装した定義ではないとポアンカレ―は言う。

2-5) 数学的論理学の最近の進歩
ラッセル、ヒルベルトらの数学的論理学派は、最近修正を加えながら発展してきたが、その法則は果たして確実性があるのか、また数学的帰納法が何ら直感に訴えることなく証明できるのかという点を考察した。ポアンカレーはいわゆる「直感派」であるので、ヒルベルトはいつも彼のライバルであった。ポアンカレーは数学論理派の主なリーダーたちの批判を展開している。その批判の詳細は本書からはよくわからないので項目だけを挙げるだけとどめる。クーテゥラの存在することが矛盾のないことの証明であるという「矛盾の自由」を批判し、ヒルベルト批判は、一定の公準が矛盾を含むか否かを論じて、先天的綜合判断を想定しているとみなしている。ラッセル批判として、ブラリ・フォルティの二律背反、ツェルメロ・ケーニヒの二律背反、リシャルの二律背反、カントルの二律背反を引用して、ラッセルの部類語禁止の無限循環論で非確定的であるという。数学的帰納法について、ホワイトヘッドを循環論だと批判した。分析論理学の原理に基礎をおく証明は命題の系列からなる。言葉の置き換えは重複語法(トートロジ− 同義反復)に陥る。循環論法は非確定的定義を含組むと不毛の二律背反を生むのである。実無限は存在しないことを忘れて、カントル派は矛盾に陥った。実無限はラッセルの数学的論理学に欠くべからざるものである。ラッセルは内包的見解をとり、ヒルベルトは外延的見解を取るという違いはある。有限と無限の順序では、無限を有限の前に置くと無限は実在と見なさなければならない。

3) 新力学

3-1) 力学とラジウム
「ニュートン以来物理学の基礎をなしていた力学の一般原理もい又破棄されるべき時がきた」という書き出しで始まる。ラジウムの発見は力学の法則の修正を迫っているようである。ニュートン力学の原理とは次の4点である。@外力を受けない質点お運動は直線等速である。慣性の法則 A動点の加速度はその点に働くすべての力の合計と同じ方向である。その大きさは力を質量で割った商である。F=ma(aは加速度) B質量に働くすべての力は、他の質点の作用から生じる。その力は相対的位置と速度によってのみきまる。相対運動の原理 絶対運動と相対運動を分離することは不可能 C質点が他の質点に作用する時、他の質点から力を受ける。作用・反作用の原理 その力学の確実性はケプラー、ガリレオ以来、天体運動において実証されたと信じられてきた。ところが光の速度に近い速度は陰極線、放射線において得られる。そこでは一般力学の原理は成立するのであろうか。クルックスやトムソンの実験では光の速度領域では、もはや波動説で説明することは不可能である。光粒子説が生まれた。陰極線は帯電した粒子(電子)の運動である。ロウランド、カウフマン、アブラハムによって電子の質量を求めた。つづいてローレンツの電子理論が生まれた。力学に基礎をおく光の媒体エーテル理論である。自由な電子は方向を変じるときに光を発する。こうして1920年代には量子力学が生まれたが、ポアンアカレーはもはや生きていなかった。20世紀の物理学の進歩については、吉田武 著 「虚数の情緒ー中学生からの全方位独学法」 (東海大学出版部 2000年2月)の第3部「振子の物理学」に詳しく力学の歴史が書かれている。参照してください。

3-2) 力学と光学
惑星の観察において、望遠鏡に像を結ぶまでに時間は、地球の運動により位置が変わるため光路差が生じ縞模様(干渉縞)の像になることをブラッドリが発見した。地球の絶対運動速度は、直線等速な太陽系の速度と、太陽に対する地球の速度とに分けられ、後者は時とともに変わるのである。ここでポアンカレーの時代の電磁気学はエーテルの存在を前提としているので、理解に苦しむところがある。運動する電気力学のヘルツの理論、ローレンツの理論から、アインシュタインンの相対性原理が生まれたのは1905年であった。アインシュタイン著 内山龍雄訳・解説 「相対性理論」(岩波文庫)では、我々が見ることができるのは相対運動のみであることから出発し、光路差が生じるのは光を発する星が観測者に対して運動してるかなに他ならない。ローレンツとフィッツジェラルドの仮説は、併進運動をするすべての物体は、その運動の方向において収縮を受け、一方運動方向に垂直な長さは変化を受けない。そしてこの仮説は電子そのものにも拡張される。アインシュタインの特殊相対性理論は、アルベルト・アインシュタイン(1879-1955年)が1905年に発表した電磁気学の理論である。19世紀末頃において、マックスウェル方程式は当時観測可能な電磁気現象をほとんど説明したが、その理論の前提として電場と磁場はエーテルなる絶対空間に固定された媒質を介して伝わるものであるとされていた。つまりはマックスウェル方程式はエーテルに対して静止した座標系から観測される電磁気現象を記述する理論であった。ヘルツ、ローレンツ、フィッツジェラルド、ポアンカレなどはいくつかの理論を提唱したが、運動する物体が実際に収縮する(ローレンツ)などの現実には受け入れがたい理論であった。それらとはほぼ独立にアルベルト・アインシュタインは「運動している物体の電気力学について」において、特殊相対性原理と光速不変の原理というものを導入することで運動座標系における電磁気現象を簡潔に静止座標系におけるマックスウェル方程式に帰着させる理論を提唱した。その理論が特殊相対性理論である。特殊相対性理論により絶対座標系(エーテルの存在)は否定され、その理論的帰結として磁場は電場の相対論効果(変身)であることが示唆された。磁場とは異なる座標系から測定した電場にすぎないという。本論文はニュートン力学の訂正に関する特殊相対性理論だと思ったら、なんと電磁気学から説き始めている。その理由としてローレンツが1904年にエーテル収縮仮説に基づいてローレンツ変換式を公表しているため、アインシュタインはこの電磁気理論の論争に相対性理論から切り込んだためである。話題は電磁気学であるが、アインシュタインは特殊相対性理論から見事に論争に終止符を打つことができることを誇示したかったのである。

3-3) 新力学と天文学
この章は「重力」に関する項目であるが、近年の理論物理が学は究極のそして統一モデルとして素粒子論に忙しく、重力のことは、大栗博司 著 「重力とは何か」(幻冬舎新書 2012年)に最近の研究の進展がまとめられている。この物質を繋ぎとめる不思議な力を、著者は「七不思議」にちなんで整理されている。
@ 重力とは「力」である。運動を変えるものはすべて力である。宇宙の星の運動もこの重力によって引き起こされる。ガリレオ、ケプラー、ニュートン以来の古典力学の偉大な発見であった。
A 重力は弱い。重力は電気のプラスマイナスや磁場のNS極の引力や反発力に比べると弱い力である。重力には反発力は働かないし、引力は距離の2乗に反比例し、はなれると弱くなる。2つの鉛の球に働く重力(引力)を確認したのがキャベンディッシュの「ねじり天秤」という実験であった。
B 重力は離れていても働く。電磁気力と同じく「遠隔力」である。今日では電磁気力も重力も力を伝える粒子(重力線)が存在するとみなす。
C 重力はすべてのものに等しく働く。万有引力の法則という。重さ(m・g)は質量(慣性 動かしにくさ)に比例するが、重力が運動に与える影響は質量には関係しない。空気抵抗がなければ「ピサの斜塔」の実験で軽い羽も重い鉛も同時に落ちる。
D 重力は幻想である。重力は電磁気のように遮ることはできない。自由落下では見方によっては無重力状態を感じることが出来る。加速することで重力は増え、落下で無くなることを感じるという点では「幻想」であるといえる。
E 重力は丁度いいかげんである。宇宙は137億年までに出来て、宇宙全体の構造が生まれるのに100億年ほどかかった。地球は46億年かけて知的生命体を生んだ。人間原理で物事を考えると、重力がどのために丁度いい強さだったのだという。
F 重力の理論は完成していない。ニュートンの力学理論、アインシュタインの相対性理論は限界を含んでいることがわかった。今こそ重力の研究は第3の黄金期を迎えつつある。重力の理論はこの世界全体の成り立ちを理解する究極の理論の鍵を握っている。
  アインシュタインの特殊相対性理論は基本的には物体の等速直線運動を説明するものであった。3次元で歪んだ空間は数学的にはリーマン幾何学で扱う。それに時間を入れた4次元を「時空」という。重力によって物体の運動を変える。運動を曲げる力が重力の仕組みであるといえる。3次元のアインシュタインの一般相対性理論では重力によって空間が歪むだけでなく、時間も伸び縮みする。重力が極端に強くなって、時間が止まってしまうのがブラックホールである。加速度で生じる見かけの力が重力と同じものであると云うアインシュタインの考え方を「等価原理」という。地球の重力には縦方向に物体を引き伸ばし、水平方向には押しつぶす力が働く。月の地球に及ぼす重力の影響が汐の満ち干きを起こすので、これを「潮汐力」という。回転する物体の遠心力も「人工重力」であり、そのため宇宙ステーションが回転すると時間も遅れる。一般化して言えば重力とは時間や空間の性質の変化のことであると考えられる。アインシュタインの一般相対性理論の功績として、@に水星の軌道がニュートン理論の修正を要する事を、太陽の強い重力の補正により解決したこと、Aに1919年にエディトンが行なった皆既日食観測で実証された、太陽の近くを通る惑星の光の曲がりを「重力レンズ効果」を予言したこと、Bに時間と空間の曲がりが波となり光速で空間を伝わるとした重力波の予言、これはまだ確実な証拠が実証されたわけではないが、Cに人工衛星と地球上の時間の遅れが1日に39マイクロ秒あり、地球上の距離は時間の誤差×光速となり距離の誤差は12KmとなってGPSナビゲーションシステムの補正を要することに応用されたことなどである。 18世紀にニュートン力学の範囲内でミッチェルとラプラ-スという人は、質量がものすごく大きい星があれば光の速さでも脱出できないだろう、つまりその星は暗黒であると「ブラックホール」を予言した。ちなみに太陽の重力圏からの脱出速度は秒速620Kmである。ドイツのシュワルツシルトはアインシュタインの方程式を解いて脱出速度が光速となる天体の半径「シュワルトシルト半径」を計算したところ、地球の質量では9ミリメートルとなりミッチェル・ラプラースの結果と一致した。光も脱出できないのでその天体はブラックホールといわれ、その多くは寿命を迎えた星が大爆発を起こしてできる。その質量は太陽の数十倍程度であった。ところがクエーサーといわれる超巨大ブラックホールは「準星」と呼び、多くの銀河の中心に超巨大ブラックホールがあり、質量は太陽の400万倍であるという。ブラックホールの潮汐力は無限大となりアインシュタイン理論は破綻してしまう。これを時空の「特異点」という。ハッブル宇宙望遠鏡に名を残す米国の天文学者は1923年ごろアンドロメダ銀河が天の川銀河の外にある事を発見し、さらに遠くの銀河ほど速い速度で遠ざかる事を明らかにした。その遠ざかる速度は距離に比例するという「ハッブルの法則」を明らかにした。つまり宇宙は膨張しており、あるところから遠ざかる速度が光速を超えることが予測された。100億年に2点間の距離は2倍になっている。これを「宇宙の地平線」という。アインシュタインは宇宙は永遠普遍だと信じていたが、1931年ハッブルを訪問し宇宙の膨張を認めて、方程式に「宇宙項」を付け加えた。最近まで誰もこの宇宙項を信じなかったが、2011年ノーベル賞を受賞したリースらの60億光年前の超新星の観測によって、宇宙が加速膨張している事を確認した。それによれば宇宙の始まりは潮汐力が無限大となった「特異点」に始まり、ガモフらは137億年前宇宙は超高温の火の玉であったと考えた。ガモフらは137億年前の痕跡は光によっては見えないが、もっと長い波長のマイクロ波が宇宙を漂っていると考えた。数理物理学者のベンローズは位相数学(トポロジー)を利用して、直接解かなくても解の一般的な性質が分かるので、有限の時間で解に特異点が生じる事を証明した。ホーキングはベンロースと協力して、初期宇宙において物質料とハッブルの法則を前提に、アインシュタイン方程式に特異点があることを明らかにし、アインシュタイン理論の破綻を宣言した。ここからアインシュタインを超える重力理論の探索が始まった。それは1960年代のことであった。 これ以降のことは本書の話題ではないので省略する。


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