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高木貞治著  「近世数学史談」
岩波文庫(1995年8月)  (第1版共立社1933年 第2版河出書房1942年 第3版共立全書1970年)

18世紀末ー19世紀初めの近世数学興隆記 ガウス、コーシー、アーベル、ヤーコビらの軌跡

ガウス
ガウス

高木貞治氏は「数学史は各人各様で面白い史論でなければならない」という。私は先日、高木氏の本書よりも、もう少し長いレンジと広い数学分野に関する数学史を著した高瀬成仁著 「人物で語る数学入門」(岩波新書 2015年5月)を読んだ。高瀬成仁氏は数学者高木貞治について、高瀬正仁著 「高木貞治 近代日本数学の父」(岩波新書 2012年)を著している。だから高木貞治氏の紹介は省略する。その本の中で高瀬氏は高木氏の最大の業績である「類体論」を次のように述べている。
『ヒルベルトは1893年「数論報告」を行い、ガウス、クンマー、ディリクレ、クロネッカー、デデキントと続くドイツの数論の歴史を総括し、困難な壁にぶち当たっている代数的整数論の展開に「類体論」のアイデアを提出した。1998年ヒルベルトは2つの論文、「相対二次数体の理論」、「相対アーベル数体の理論」を書いた。「類体」という言葉はヒルベルトの創出ではなく、ウエーバーが楕円関数の虚数乗法により供給される特別なアーベル数体を「類体」と読んだのが始まりである。ヒルベルトは楕円関数の虚数乗法の理論と類体論を基礎にすると、「クロネッカーの青春の夢」の証明が出来るかもしれないと考えた。 アーベルの定理とは5次以上の高次代数方程式の一般的解法は不可能であるというものであるが、あらゆる次数について代数的解法を可能とする特別の方程式がある。この種の方程式解法は、その根の間にあるある種の関係に基づいているというアーベルの方程式論の根幹が、ガウスの円周等分方程式(オイラーの周期関数、複素三角関数、巡回的関係)からきているのである。クロネッカーは係数が整数であるならアーベル方程式は円周等分方程式であると看破していた。ここにアーベル方程式とは、一般的記述法で表す代数方程式のことではなく、このような関係を持つ方程式の類の総称に過ぎないことに注意のこと。1901年高木は「複素有理数域におけるアーベル数体について」という論文を書きヒルベルトに見せた。「ガウス数体上の相対アーベル数体はレムニスケート関数(楕円関数の一例)の周期等分値により生成される」というクロネッカーが1853年に提出した定理に高木貞治は証明を与えることができた。そして1901年9月高木貞治は帰朝し、26歳で東京帝大の数学科第3講座代数学の助教授に就任した。1904年(明治37年)より日露戦争が始まり、第1次世界大戦で欧州から論文が入手できなくなるまでの10年間ほど高木は眠ったかのように空白期が続いた。第1次世界大戦で眼が覚めたかのように、高木は類体論の研究を再開する。 ヒルベルトの枠を超えて、「分岐する類体」を考えるとアーベル体は類体であると了解される。これが高木の定理である。すべてのアーベル体を把握して、一望のもとに観察することが出来たのである。高木貞治氏の類体論は1920年の「相対アーベル体の理論」と1922年の「任意の代数的数体における相互法則」から構成された。前論文は「クロネッカーの夢」の解決であり、後者の論文はガウスからクンマーに継承された、冪剰余相互関係法則を確立した。高木貞治は1920年シュトラスブルグの第6回国際数学者会議の参加して「類体論」を発表した。高木の類体論は1927年「アンチンの相互法則」に受け継がれ、「高木・アンチンの類体論」と称された。「高木・アンチンの類体論」で高木の名声は欧州で確立したといわれ、その影響はフランスのシュヴァレー、エルブランにバトンが渡された。』
高木貞治著 「近世数学史談」は、高瀬成仁著 「人物で語る数学入門」の中ではガウス以降の近代数論の流れを描いていると言える。なぜこうなるかというと、高木氏は類体論という代数的数論の研究者であり、数学史研究家ではないからだろうと思う。時代は19世紀の始め、対象はガウス以降の近代代数的数論である。範囲は狭く、時代は短い(1世紀以内)、つまり系統的ではないが、高木の生で感じ取れる範囲の史論である。だから内容は極めて専門的で、登場する数学者の呼吸が聞こえてきそうなヴィヴィッドな話の展開である。数学史家の書く数学史と数学者の書く数学史の基本スタンスの違いであろう。

高瀬成仁著 「人物で語る数学入門」がその書の後半で語るガウスに始まる代数的数論は、本書高木貞治著 「近世数学史談」の外観を与えると思われるので概略を紹介する。
『数論にはフェルマーとガウスの2つの流れがあります。フェルマーは直角三角形の基本定理によって素数を2つの平方の和に分けられる条件を求めました。それはラグランジュに受け継がれ、「素数の形状」についての理論を展開しました。一方ガウスは、素数と素数の間に成り立つ相互関係という数論を展開しました。ガウス(1779−1855年)はドイツの数学者、天文学者、物理学者である。彼はリーマンやデデキントらを育て、近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられている。19世紀最大の数学者の一人である。ガウスは16歳から「数学日記」を書き始めたという。1799年(20歳)で「代数学の基本定理」で学位を取りました。1801年に「アリトメチカ(数の理論)研究」という著作を刊行しました。フェルマーは4で割ると1が余る素数は2つの平方の和に分けられるという「直角三角形の基本定理」を主張しました。ガウスの合同式を使うと、フェルマーの直角三角形の定理は、a≡1(mod.4) と書けます。すなわちa-1は4で割り切れるということです。一般にa≡b(mod.c)は「aとbはcを法として合同である」といいます。法cを共通とする2つの合同式についても、加減乗除の演算規則が成立します。さらにガウスは17歳で「平方剰余相互法則の第1補充定理」でx^2≡±1(mod.p)によって、直角三角形の基本定理が成り立つことを裏付けました。次いで「平方剰余相互法則の第2補充定理」x^2≡2(mod.p)?証明して、あわせて「平方剰余の理論における基本定理」と呼びました。平方剰余とは、pを奇の素数、合同式x^2≡a(mod.p)が解けるとき、この合同式を満たす整数xが存在する場合は、aは「pの平方剰余」と呼びます。pとqを法とする2つの2次合同式 @ x^2≡p(mod.q)  A x^2≡q(mod.p)が同時に解けたり解けなかったりする特定の「相互依存関係」に関心を寄せました。ガウスが見つけた相互関係は具体的には、@pとqのうちどちらかが4を法として1と合同なら、合同式は同時に解けるか、解けないかのいずれか、Apとqがどちらも4をhぷとして3と合同なら、合同式@とAはどちらか一方は解けるが、もう一方は解けない、というものでした。これらの相互関係をルジャンドルは記号を使って、(a/p)=+1(解ける)、(a/p)=-1(解けない)とすると、、解けるケースと解けないケースの繰り返し演算規則が成立し、平方剰余の相互規則、第1補充定理、第2補充定理の関係式を表現しました。ラグランジェ(1736-1813年)は「変分法の領域に属する等時曲線」の問題を研究していましたが、ホイエンスが等時曲線はサイクロイドであることを示しました。ルジャンドル(1752-1833年)は「不定問題を整数を用いて解くあたらしい方法」1770年で、フェルマーの課題「ay^2+1=x^2(aは正の数)をみたすxとyを求めよ」という問題を、オイラーの連分数の手法により必ず解を持つことを示しました。こうした不定問題を解くことが「数の理論」(数論)と見なされていました。直角三角形の基本定理は「4n+1という線形的形状を持つ素数は、つねにx^2+y^2という平方的形状を持つ」と言い換えることができます。ガウスは不定問題の2次形式A=Bt^2+Ctu+Du^2が整数解を持つのは若干の特別な場合のみであると考えていました。ラグランジェは完全な決定を行いました。奇数の素数は(2を除いて素数は全部奇数である)「4n+1型」と「4n+3型」に区分けされます。ラグランジェは「4n+3型」の素数について一般理論を構築しました。ルジャンドルは解ける解けないケース別けにつてルジャンドルの記号を導入して相互法則を提案しましたが、4n+1型についてルジャンドルは証明に成功しませんでした。ルジャンドルの「相互法則」とガウスの「平方剰余」が組み合わされて今日の数論の「平方剰余の相互法則」が出来上がったのです。ガウスはさらに3次以上の剰余の理論 x^n≡a(mod.b)の研究を開始したのは1807年以降のことです。1813年ガウスは4時の冪剰余相互法則を発見したといわれています。しかし論文となるにはさらに15年かかりましたが(1828年)、証明はついていません。4次の冪剰余相互法則は、整数域では見つからず複素数に及びました。ガウスはこれを「ガウス整数」と呼びました。ガウスは虚数という呼び名がそもそもパラドキシカルであって、正の量を順量、負の量を逆量、虚の量を測量と呼ぼうと提案しました。その後、代数的整数論という理論が生まれ、ヤコビ、ディリクレ、クロネッカー、クンマー、ウエーバー、ヒルベルト、と続き、ヒルベルトのところに留学した高木貞治は「類体論」を生みました。

本書 高木貞治著 「近世数学史談」はガウスの関数論とその系譜が主題である。高木氏は「コーシーの1825年の虚数積分に関する研究をもって、今日の関数論の起源とするという一般に流布する見解に反対するものではない」としながら、1811年12月ガウスからベッセルへの手紙に述べられた、1851年にコーシーが発表した関数論の基本定理「コーシの積分定理」を、なんと40年前にガウスが発見していたことを高木氏は強調し、感嘆しているのである。だからガウスが公表していれば関数論の発展を早めたかどうかは不明である。ガロアの「積分論」のところ(本文172頁)で、研究成果の発表についてこういっている。「アーベルもガロアも処世術で失敗した。時代を超越するにも程合いがあって、20−30年以上の超越は危険である。数学会から潰されるだけである。ガウスのように世間を相手にしないで、意識いたかどうかは別にして公表しないでいたのである」という。著者は「ガウスが歩んだ道は、間違いなく数学の進む道であった。その道は帰納的である。特殊から一般へ」と主張する。数学の発見が帰納的になされるか、演繹的になされるかといえば、もちろん計算と記憶が得意なガウスにとって間違いなく機能的である。定理から出発する演繹的方法は既成数学の学習にのみ通用する。演繹からは新しい物は何も生まれない。ガウスにとって最初は膨大な数値計算によって、式の形が浮かんで句、そのためには代表的数表は記憶している必要がある。吉田武著「虚数の情緒」(東海大学出版部)にも同じことが言われていた。数値計算の過程で2π(6.28・・・・・)が姿を現したので、この計算結果の式にはπが絡んでいるとみなす記述があった。数字の羅列から超越数が姿を現すというのである。こうしたガウスにおける数学創造の過程を調べた高木氏は、同時代のフランスの数学者や、1世代若いア^ベルやガロアを見て、数学者の個性を見て取る。「アーベルの方法は着想においてきわめて簡単である。それはオイラーが三角関数においてなしたことを、最も自然に楕円関数の上に拡張したのであった。ガウスのような難渋な帰納や探索の影もなく、すらすらと進行したのはアーベルの非凡な天才による」という。同じように数値計算が得意なガウスとフーリエを比較するとまた違った個性が見られる。ガウスは数値の羅列は趣味の対象だが、フーリエでは真剣にやっている。いつもガウスとの比較で割りを食っているのがルジャンドルであるが、ルジャンドルは新旧交代の時期にあって時代を代表する鮮やかな立場をに置かれたのであると。すなわち高木氏は、本書の扱う19世紀の始まりの30年を、新旧の数学が交差する転換期と捉えて、登場する群像にスポットライトを照らして功績を褒め称える役を果たした。なかでも高木氏は「ガウスやアーベルの肖像の鮮やかさは忘れがたいと」結んでいる。高木貞治氏の「類体論」の位置づけをしておこう。高木氏は帝国大学理科大学において1895年より関数論ができる前の楕円関数論を学んだ。楕円関数論が、ガウス、アーベル、ヤコビ二よってつくられる様子が本書の中心的なテーマである。高木氏は藤沢力太郎助教授の指導を受けて、高木氏の生涯の研究テーマとなったアーベル体論からスタートした。そして1898年に3年間ドイツ留学を命じられた。ベルリン大学から1900年ゲッチンゲン大学に移った。ドイツで高木氏は「25歳になって、数学の現状に後れること正に50年」を痛感したという。ゲッチンゲン大学でヒルベルトの指導を求めたが、ヒルベルとはすでに数論から離れて数学基礎論や物理学に興味を移していた。「レム二スケート関数に関する虚数乗法」についての論文を完成して日本へ持って帰った。高木氏の研究の中心は、代数的整数論であり、その中で類体論、または相対アーベル体論と呼ばれるものであった。「代数的整数」という体の研究である。代数的整数というものは、±1、±2、±3…という有理整数を係数とする代数方程式で、最高次の係数を1とする方程式の解となる複素数(実数を含む)のことである。代数的整数θの有理数係数分数式の全体Q(θ)の形の集合kを代数体と言う。この代数体kまたは整数環Iの性質が研究対象であった。ガウスは4次の「平方剰余相互法則」を考えるにあたり、ガウスの整数m+ni(m,nは有理整数)を導入した。割り切れるか割り切れないかの判定にルジャンドルの記号を使う。ガウスの整数には素因数分解の一意性が成り立つが、クンマーは円分整数には一意性がないことを発見した。これに対しデデキントは一般の代数体kの整数環においtw、数の整除関係をイデアル(の部分集合)の整除関係で置き換えることで、代数的整数論の基礎を築いたとされる。代数体kの元を係数とする代数方程式の解全部をkに添加してガロア拡大という代数体Kができる。Kの自己同形群をガロア拡大K/kのガロア群という。クロネッカーはのアーベル拡大体はすべて円分体に含まれることを発見した。クロネッカーはアーベルの逆が成り立つことを予想したが、この予想を「黒熱価の青春の夢」と呼ぶ。このクロネッカーの問題を受け継いだ人々は、ヴェーバー、フッター、高木、ハッセ、ドイトリンクなどがいる。ヴェーバーは虚数乗法により生じる虚2次体のアーベル拡大体をモデルにして、アーベル拡大体で「類体」を定義した。そのごヒルベルトはKがk上で不分岐という性質を持つ「絶対類体」という特別の体を用いる提案をした。高木はヒルベルトの提案を退け、分岐する場合も入れた「相対アーベル数体の理論」を1920年に発表した。そして高木は「代数体kの任意のあーっべる拡大体Kは、kのある合同イデアル群に対する類体である」ことを証明した。これにより類体は特別のアーベル拡大体ではなく、アーベル拡大体一般を含むことになった。翌年アルティンは高木の理論を一般相互法則に精密化し、1927年証明に成功し類体論を完成した。高木氏の研究の中心である類体論と虚数乗法は、ガウスとアーベルの仕事を受け継ぎ発展させたのである。

1) 近世数学の誕生 ガウス

1796年3月19歳のガウスが、正17角形のの作図法を思いついた事件(ガウス日記第1項)から本書は書き起されます。ユークリッド原論第W巻には円と三角形や多角形をを外接。内接させる作図法が述べられています。円に内接する正三角形、正5角形の作図法がていりとして示され、そしてさらに辺を二等分してゆき、正三角形(辺角=120 °)から、6,12,24,48…角形、正5角形(辺角=72°)から、10,20,40 …角形が作図できます。作図と線分の比例関係という解析により線分の作図ができます。後世に正15角形(辺角=24°)が追加されました。これ以外の正多角形や奇数の素数からなる正多角形の作図は特に難しく、2000年以上誰も手を付けずに不可能と言われてきましたが、ガウスはできるものもあると示したのです。この一般かの理論は円周等分論、すなわち方程式x^n-1=0の、n=17の場合平方根によって解き得ることに基づきます。辺角φとすると、360=17φである。三角法の定理を繁用して、ガウスは3つの2次方程式を書いて正17角形の作図は可能であると断じたのだ。これは幾何の問題ではなく代数方程式の問題であった。伝説によると、正17角形の作図法の発見で、ガウスは数学の道に入ったとされる。微積分法の発見をもって近代数学の起点とする見解に異論のある人はいないだろう。アルキメデスからニュートンの間の空白は実に長かったが、ニュートン、ライプニッツらの18世紀の数学者の先行期間の後をついでベルヌーイ兄弟、オイラー、ラグランジェ、ラプラースなどの後継者の活躍があった。微積分法の拡充が一段落すると数学の行き詰まりの時期があった。これ打破したのが、18世紀末から19世紀初めに再び急速な数学の進展があった。この不連続点から「近世数学の時代」と呼ぶ。ニュートンを近代数学の開基というなら、ガウスは近世数学の第一人者というべきである。ガウスは19世紀前半を通じて時代を超越した一世の秦斗であった。カール・フリードリッヒ・ガウス(1777−1855年)はドイツのブラウンシュワィヒに生まれ、1798年ゲッチンゲン大学卒業、1799年代数方程式の根の証明で学位を取得、1807年−1855年までゲッチンゲン大学教授兼天文台長を務めた。1799年から1807年静かに研究にふける時間を得て、この時期に数学上の偉大な業績が集中するか、開始された。18007年以降の大学教授兼天文台長時代は貧しく多忙であったという。1807年以後ガウスは応用数学に忙殺された。1812年超幾何級数論は、応用論からしても摂動論の展開が解決された。1814年ガウス積分の近似計算法も摂動論に寄与した。1818年摂動論には算術幾何平均論の端緒となった。1821年最小二乗法、1827年ガウスの曲面論は測量の必要から出たものであるが、三角形の内角の和が2πになるかどうという平行線の公理を確認したのである。1839年のポテンシャル論はで磁気学研究の賜物である(ガウスの名は磁束密度の単位となった) ガウスはその数学思想の豊富さに比べて発表することが少なかった。小rは慎重主義、厳格主義(完全主義)からくるのであるが、今の研究成果のプライオリティ、業績発表至上主義からすると理解できないようである。何十年か後に誰かが定理を発見したと発表すると、それは何年も前に自分が発見していると言い出すガウスには、数学会の人々は閉口したらしい。1797年ガウスが20歳の時発表した「整数論」D・Aは驚愕の完成度を持つ作品であるが、教授の職に就いてからは時間に切り刻まれ、執筆に十分な時間だ採れなかったというのも一因かもしれないが、意満つるまでは発表しない主義で、新に革新的な内容(例えばガウスの反ユークリッド幾何学)は発表すると喧々諤々の世間の叫喚を呼ぶことを恐れたきらいがある。最小二乗法のプライオリティ(先発権)を巡るガウスとルジャンドルの悶着、1827年ヤコービが発見した楕円関数論の定理をガウスは1808年に発見していたこと、1826年アーベルがレムニスケート関数の幾何学的等分法を発見したこと、ヤコービの楕円関数論の発見などが、すべてガウスの文書に先行権があるというスキャンダルである。いまなら雑誌に発表された論文がすべてであり、個人が所有し世間で見ることはできない文書とか私信とかは証拠にはならない。とにかく昔はのんびりしていたと言わざるを得ない。

ガウスが書き遺した学術文書は、ゲッチンゲン大学にある。ガウスが中学生時代から大学卒業時までライステの「算術教科書」への書き込みとメモ紙の挿入を始め、「ガウス日記」は1796年から1813年までのメモ小冊子である。これの第1項に「正17角形の作図法」がある。壮年期における研究の詳細な記載がありガウス文書の中で最も重要な資料である。ゲッチンゲン大学時代にはの研究者との往復書簡などがある。これらからガウスの研究の軌跡が読み取れるのであるが、ガウスが公表しなかったが19世紀初めの数学の重要な問題が総覧できる。ガウスが伏せておいた数学の発見の秘密を、19世紀の後輩数学者が発見してきた。つまりガウスがいなくても誰かがやったのである。19世紀数学の最初の飛躍は楕円関数の発見である。アーベル、ヤコービに先立つこと30年前にガウスは楕円関数を発見していた。またデデキントに先立つこと50年前にガウスはモジュラー関数を発見していた。ガウス文書は完成される過程の「研究の足場」を見ることができる。足場は完成されれば取り払われるが、どういうプロセスで発見に至ったかという発見の秘密を見ることができるのである。レム二スケート曲線とは8の字をX軸上に横たえたような曲線で、その方程式は原点(0,0)からの曲線上の点までの距離をσとすると、極座標でその方程式は σ~2=2a^2cos2θ(OF=aは焦点 OAはX軸を切る点)である。単位楕円として2a^2=1、OA=1とすると弧OPの長さはσ=xとして ∫(1/√(1-x^4))dxとなる。1979年ガウスは積分の逆関数からスタートした。ガウスはx=sinlemn (u)=coslemn(ω-u)をs(u),c(u)と表して、級数展開し、級数の逆展開はラグランジェから学んで ω=∫(1/√(1-p^4))dp=(π/4)(2/∫√sin xdx)=1.31110…を得ている。ガウスは円周等分の拡張としてレム二スケートの等分(σ型関数)を考えていたようである。s(u),c(u)を複素変数の関数とすると、s(5u)は25時の方程式で5つの実根と20の虚根を有する。アーベルの楕円関数の発見もここに端緒があった。すなわち関数論の芽生えとなった。しかしガウスの時代には関数論はなかったので計算には大変苦労したと思われる。しかしガウスの得た結果は皆正しかった。1798年7月ガウスはθ型レム二スケート関数も発見した。無限級数の計算に超人的な計算能力と記憶力を発揮し、得られた結果は現在の関数論から照らしても全部正しい結果であった。ガウスが数値計算に驚くべき才能を有した背景には、計算家ガウスにおいては常に整数論を応用することがった。幼少の逸話として9歳の時、1からnまでの整数の和を求める課題を数秒で回答した有名な話がある。答えは(1+n)×(n/2)である。又ガウスは数表をこよなく愛し、対数計算、πの計算桁数を驚異的に拡大したという話や、素数および素数の冪数の逆数を循環小数に直して繰り返しの規則を掴んでいたという話は枚挙のいとまがない。数値に憑りつかれた少年であった。ガウスが幼少の時から「算術幾何平均」の興味を持って計算をしている。a,bの算術平均とは(a+b)/2で、幾何平均とは√(a×b)のことである。試しにa=1,b=2として、算術平均は1.5 幾何平均は√2=1.414・・となり、さらにこの結果の算術平均は1.4571・・、幾何平均は1.456・・、またさらにその結果の算術平均は1.4565・・、幾何平均は1.4565・・と共通の極限値に急速に近づく様子が分かる。極限値をagM、ガウス記号でM(a,b)で表す。ガウスは1799年、M(1,√2)がπ/2ωに小数第11位まで一致することを発見した。ωはレム二スケート関数の周期である。ω=∫1/(√(1-x^4) dx=(1/√2)∫1/√(1-(1/2)sin^2φdφ(0<x<1  0<φ<π/2)において、ガウス少年はM(1,√2)=π/2ωが証明できるなら、解析学の新分野が開けるだろうと予感したという。楕円関数の4次問題であるレム二スケート関数と算術幾何平均の極限値が関係することに無類の興味を抱いたガウス青年は、それから1800年に一般楕円関数を発見し、モジュラー関数を発見した。ところがこの新関数に関する著述の抱負を友人シューマッハに告げたものの、刊行されることはなかった。ガウスはおそらく、第1分:超幾何級数、第2部:agMおよびモジュラー関数、第3部:楕円関数を計画していたのではないかとシュレージンガ−は想像した。1828年にアーベルが楕円関数論を発表した時、ガウスは「私の発見の1/3ほどと同じことを言っている」といったという。ガウスの楕円関数論とは、すべてはレムニスケート関数の場合と同じであるが、周期ω、iωの発見に苦心の跡がある。θ型レム二スケート関数の無限積と無限級数の転換法は舌を巻くほどガウス特有の巧妙さがある。ガウスはモジュラー関数k'(τ)の理論を打ち建てたところが、アーベルやヤコービらをはるかに凌駕している。すでに楕円関数論を超えているのである。

2) フランス数学界の動向 ラグランジェ、ラプラース、ルジャンドル、フーリエ

1800年ガウス23歳の時点で、フランス数学界の綺羅星を年齢順に列挙すると(カッコ内は1800年での年齢)、ラグランジェ(64)、モンジュ(54)、ラプラース(51)、ルジャンドル(48)、カルノー(47) 、フーリエ(32)、ポアソン(19)、ジュバン(16)、ポンスレ(11)、コーシ―〈11)であった。19世紀初頭30年はフランス数学の興隆記で、その中心はパリ工芸学校であった。時代はフランス革命からナポレオン帝政、そして7月革命といった動乱期にあり、このような動乱期にあって1794年革命政府の意を受けてモンジュの奮闘によって創立された。国が破壊され混乱のさなかに陸軍省の管理の下に、卒業生は国家の中枢官僚(ポリテクノクラート)に巣立った。それゆえ工芸大学は青年の登竜門で入学試験は激烈であった。ラグランジェ、ラプラース、ルジャンドルを3Lと呼ぶが、1800年時点では3人とも数学の老大家であった。活躍の時期はむしろ18世紀後半である。ところがなかでもルジャンドルは不思議にガウスと重なり合うのだ。第1に整数論の分野である。ルジャンドルは1798年「整数論試論」を著した。整数論はフェルマー(1601−1665)に始まって、18世紀にはオイラーによって著しくはってんし、ラグランジェ、ルジャンドルが受け継いで18世紀末には数学の重要な一分野となっていた。1801年にガウスの「整数論」D.Aが刊行された。同時期に出た整数論であるが、2つは全くつながっていなかった。ルジャンドルは時代遅れで、ガウスの整数論は百年後まで輝き続けたのである。第2には幾何学の分野である。ルジャンドルはユークリッド幾何学の平行線の公理に行き詰まり、ガウスは反ユークリッド幾何学の先頭に立った。後年ボルヤイ、ロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学が世に出たのもガウスのおかげであるといわれる。第3に楕円関数論の分野である。ルジャンドルはオイラーを整理したがΓ関数で全く行き詰まった。ところがガウスは最初から逆関数を使用して楕円関数論を始動させた。つぎにパリ工芸学校の数学者を紹介しよう。モンジュ(1746-1818) は工兵学校に勤務し、1792年国民会議は彼を海軍長官に任じた。1794年パリ工芸学校が創立され時、校長に推されたがラグランジェに譲って、工兵学校で画法幾何学を講義していた。画法幾何学は製図にはなくてはならない理論であるが、モンジュの業績「幾何学への解析の応用」であった。モンジュの門下からジュバン(1784-1873)が出て幾何学にかれの名に負う定理を残した。カルノー(1753-1813)は軍人政治家であった。ナポレオン時代に活躍した。カルノーサイクルという熱力学は彼の子の業績である。カルノーは「位置の幾何学」(現代では解析幾何学に相当)で名が残っている。モンジュの出藍の誉れはポンスレ(1789-1867)であった。「図形の射影的性質論」を1822年に刊行した。後にパリ工芸学校の校長になった。ポンスレの射影幾何学はドイツのメビウス、スタイナー、プルッカー、シュタットに継承された。フーリエ(1768-1830)は師範学校からパリ工芸学校で教師をしていたが、県知事の行政官を勤める傍ら、熱伝導に関する研究を行い、ナポレオン没落後は科学者として生活した。フーリエの畢竟の業績は、三角級数論(フーリエ級数)である。いかなる関数も三角級数に展開し、微分方程式及び積分法によって数値計算できるという実用的・現象論的方法であった。フーリエが生涯念頭から去らなかった問題は、「定方程式の解法」という根の近似計算であった。今では誰も見向きもしないが、2次方程式、3次方程式の根を根気よく求めている。ポアソン(1781-1840)は終生パリ工芸学校で学生を指導した。彼は数理物理学に業績を残したが、中でも定積分、微分方程式論、ポテンシャル論のその名を残している。また統計学でもポアソン分布という確率過程の名を残している。

3) 関数論 コーシー

オーグスタン・ルイズ・コーシー(1789-1857)はパリの弁護士の裕福な家庭に生まれ、幼少より卓越した数学的才能は、ラグランジェの注意を引いたという。1805年パリ工芸学校に入学し、ナポレオンの時代には技師として築港に関係した。1813年には工芸学校に戻り、定積分、波の伝播の論文を提出して教授の職に就いた。この間「解析教程」(1821年)と「微積分法綱要」(1823年)を発刊した。1830年7月革命政府に忠誠を拒否し、王党派として亡命し、1848年の革命によってソルボンヌの教授に迎えられた。生涯、大量の著作(789篇)を書いたといわれる。余りの寄稿論文の多さに根を上げたパリ科学院は4頁以内という制限を設けたほどだという。ガウスが発表では控えめであったのに対して、コーシーの積極さは対照的であった。「教程」、「綱要」におかる批判的精神は数学を立て直して理解する気概に満ちていた。「教程」には今日代数学に相当する分野、交代式、行列式、補間法、部分分数、3次、4次方程式の代数的解法などが述べられているが、なかでも無限小の正しい定義、極限の概念、関数の連続性、無限級数の和、複素数が注目に値する。一様収斂の概念を有せずに級数によってあらわされる関数の連続性を論じた。「綱要」では微積分法の立て直しを試みた。微分法では平均値の定理 f'(x+θh)=[f(x+h)-f(x)]/hを基調にしている。積分法では定積分の存在を出発点として、今日教科書で教えられる微積分法の型を与えた。ガウスがルジャンドルの整数論を乗り越えたように、コーシーはラグランジェの関数論を打破した。コーシーの業績の中で最も顕著なのは、関数論の創立である。様々な物理学上の問題から特殊な定積分に遭遇していた時、コーシはそれらの定積分が複素数によって統一的に計算できることに気が付いた。1825年「虚数限界間の定積分論」で極点ポールに関する留数の定理を提案したが、その証明は複雑でよく理解できるものではなかった。この論文が関数論の起源となった。1846年再び虚数積分を取り上げ、2点間の積分路をひとつの閉曲線にした。1837年「テーロル展開に関する定理」を発表して一躍世に知られた存在となった。与えられた冪級数の収斂半径、代数関数のラグランジェ展開はコーシーの頭にあった。今日、テーロル展開から留数の定理の流れが常識化しているが、歴史は不連続で10年以上逆転していた。このテーロル展開は1851年解析的関数の名で統一された。1821年ー1851年の30年間がコーシーの関数論研究の時代であった。1851年リーマンは「一つの複素変数の関数の理論の基礎」を著して、何事もなかったようにコーシーの関数論を乗り越えた。こうしているうちに数学の潮流は次第にフランスを離れつつあった。鬼才ガロア(1811-1832)はこの時代に属するが、パリ工芸学校とは縁がなかったし、違う思想圏にあった。むしろアーベルに関係して語られるべきである。1840-1850年代のフランス数学は、リューヴィル、エルミートらがコーシの伝統を引き継いでいたが、ヤコービの影響が強かった。フランス数学会の衰退の原因として、ポアソンらが応用数学に偏ったためと言われるが、理論と応用の平衡がうまくできなかったことに因るのであろう。ドイツはナポレオンから脱して興隆しつつあり、1810年ベルリン大学の創設がパリ工芸学校とは違った科学の伝統を目指していた。1820年代の終わりにはベルリンがパリに替わって数学の覇権を握るようになったのは、クレルレ(1780−1855)の数学雑誌によるところが大きい、。その数学雑誌の創設に青年アーベルが貢献した。アーベル、ヤコービ、ジリクレ、シュタイナー、メビウスなどの数学者がガウスの後継者となった。

4) 楕円関数論 アーベルとヤコ-ビ

アーベル(1802- 1829)はノルウェーのオスロで生まれた。彼は終生貧乏で結核によって27歳で世を去った薄幸の天才であった。アーベルには二人の生涯の恩人がいた。中学校の教師ホルンボ−とクリスチャニア大学教授のハンステンです。アーベルからホルンボーへの書簡に多くの数学的発見が語られている。1824年アーベルが政府留学生として外国に行く前、5次方程式の代数的解法が不可能であることの発見があった。数百年来の懸案が北欧の田舎の青年によって解決されたのである。出版の手当てがない青年はこの証明をお粗末なパンフレットにして、シューマッハの手からガウスに送ったことが、後のガウスとアーベルの確執になった。全く無名の青年からの数学的証明にガウスは「よくこんなものが書けたものだ」と取り合わなかった。海外留学はゲッチンゲンとパリで2年間であったが、結局ガウスには面会しなかった。1826年クレルレ誌最初の出版にこの論文が掲載された。有理区域又は体という概念が論文の基調になっており、5次代数方程式の解法の不可能性は表に出ていなかったことが、ガウスの目に留まらなかった理由でもあった。それよりも前1805年にルフィ二がこの問題を証明したといわれるが、その証明は判別不能であったので歴史には残っていない。アーベルは代数的に解き得るすべての方程式が備える特徴を体として整理することが終生の課題であったが、それは後にガロアが解くことになる。クレルレ誌第1巻にアーベルは「冪級数1+mx+[m(m-1)/2]x^2+…の研究を寄稿したが、これは級数論として画期的なモノとなった。収斂円における級数の動作がもれなく研究された。これは2項定理の収斂条件で、|x|<1なら (1+x)^m=1+mx+[m(m-1)/2]x^2+…は正しい。またx=1ならm>-1に限って正しいがその他の場合は発散する。無限級数の発散の問題はコーシーの「綱要」にも掲載されている。三角級数も場合も然りである。かように無限級数の和の問題はコーシーは「発散級数は和を有しない」という。「代数的に解き得るすべての方程式の形を決定すること」の論文をパリ留学中にルジャンドルとコーシーが審査することになったが、どうもルジャンドルは読んだ様子もなく、論文が無くなってしまっていた。とんでもないところに論文を送ったものだとアーベルは落胆し、1827年ドイツのゲッチンゲン大学のガロアのところにも寄らずにアーベルは帰国した。アーベルの研究は超越関数一般なかでも楕円関数理論に傾いていた。1827年5月アーベルは「楕円関数研究」をクレルレ誌第2巻と第3巻に寄稿した。ところがヤコービが天文報知123号1827年9月に「楕円関数の変形に関する定理」を証明なしに報告した。ここからアーベルとヤコービの確執(大競争)が始まった。それはアーベルの楕円関数論からは証明できることで、ライバル出現に驚いたアーベルは研究をいったん停止して、急いで対抗論文「楕円関数の変形に関する一般的証明の問題の解決」を作成し1828年6月の天文報知に掲載した。ノルウェイに帰っても、ゲッチンゲンやパリのお墨付きがなければ、独自の判断を持ちうる数学界ではなかった。だからガウスに無視され、パリでも黙殺されたアーベルにとって、楕円関数論はアーベルの最後の切り札であったので、ヤコービの挑戦には背水の陣で戦わざるを得なかった。アーベルが中断せざるを得なかった楕円関数論研究第2弾はアーベルの死後1829年クレルレ第4巻に「要論」として掲載された。「代数的に解かれうる一種の方程式」はアーベルの方程式を論事るものであるが、1828年クレルレ第4巻に掲載された。アーベル方程式は、等分方程式から抽象して得られた楕円関数研究の副産物で、アーベルにとって方程式論と楕円関数論は互いに深く影響しているようだ。パリに送った論文は2年間も放置されたまま、コーシーの手元で発見されたが、アーベルは1829年1月「ある種の超越関数の一般A的性質の証明」という論文にしてクレルレ誌に送った。これがアーベルの絶筆となった。アーベルの死後に任意の複素数に関する「アーベルの加法定理」は絶賛され、アーベルの名声はにわかに高まった。レムニスケート関数の場合は楕円関数の虚数乗法の最も簡単なケースである。オイラーが三角関数でなしたところのものを、楕円関数の上に拡張したのである。アーベルにしても、ヤコービにしても、又ガウスにしても完成した関数論の上に立脚していなかった。それはリーマン、ワイヤストラスの出現を待たなければならなかった。ヤコービのθ関数、ガウスのモジュラー関数、アーベルの虚数乗法の合同で関数論が生まれた。

5) ガロアとディリクレ

ヤコービ以外にもアーベルの後を追う者がいた。それはガウス(1811−1832)であった。ガウスはパリ郊外に生まれ、工芸学校の試験に2度失敗し、1829年に師範大学に入学したが、政治活動のせいで1年で退学になり牢獄に入ったが、1832年21歳で決闘で倒れるという数奇な運命に翻弄された短命の天才である。決闘の前日ガロアは友人に遺書を残し、3つの論文を託したという。@の論文は、「方程式が冪根によって解かれる条件に関する論文」である。死後1846年に発表された。有理的な因数を有しない素数次の方程式が冪根によって解かれるためには、すべての根がその中の2つによって有理的に表わされることが必要で十分な条件である。ガロアの虚数の理論が必要であるが、楕円関数のモジュラー関数に関して、それらが冪根によって解かれないことが証明できる。Aの論文とは、方程式が冪根によって解かれるためには、ガロア群の合成烈における指数がすべて素数なることを述べている。ガロア群の置換がpを法とする一次変形群となる。楕円関数のモジュラー関数に関して、それがp=2,3になるときに限って冪根によって解きうること、およびp=5,7,11なるときに限って、p次の方程式に変形しうることを述べている。Bの論文は積分に関する。ガロアは一般アーベル積分が3種の積分の和に帰することを述べ、第1種積分、第3種積分の変数やパラメータの交換法則、周期の関係について述べている。ガロアの方程式論は40年後ジョルダンが判読して置換論の形成を行った。ガロアの積分論は全くの謎であったが、25年後にリーマンが発見して話題となった。アーベルもガロアも処世術に失敗した人物である。時代を遥かに超越するにもほどがあり、20年30年も前に発表すると気違い扱いされる。だからガウスは黙って保管し発表しなかった。時代に超越した生き方をするほど余裕があったといえるが、アーベルとガロアはむき出しで危険であった。
ジリクレ(1805- 1859)はドイツアーヘン近郊の生まれであるドイツの数学界は振るわなかったので、当時数学隆盛の絶頂期にあったパリで学生生活を送った。ジリクレはガウスの整数論を耽読し、1825年「ある5次の不定方程式の不可能」に関する論文をパリ学士院に送った。その論文でフェルマーの定理(x^5+y^5+z^5=0)が半ば解かれていることにルジャンドルは注目し、ジリクレの数学者としての門出となった。ジリクレはフ−リエの門下生となり、さらにフンボルトの知遇を得た。そして彼の推薦でベルリン大学の教職に就いた。講師となった1828年当時ベルリン大学は自然科学は低調で数学では見るべき人はいなかった。しかし50年後にはベルリン大学には、ワイヤストラス、クロネッカ時代になり数学全盛期を迎えている。1834年にはスタイナーが、1844年にはヤコービもやってきた。ジリクレはヤコービと親交を結び終生変わらなかった。ジリクレの業績の第1は整数論であるが、ガウスの整数論を出るものではなかった。むしろ簡易化と普及という面で貢献したようである。ジリクレは整数論へ解析を応用し、微積分法による解析整数論を開いた。蚤ne^(-λns)はジリクレの級数と呼ばれた。「整数論における平均値の計算」という論文はガウスの整数論を引き継いでいる。ジリクレの整数論への功績は、代数体における単数の存在定理である。ラグランジェの連分数の計算では2次体を出られないが、「部屋割り論」なら任意の数体に適用できる。代数的整数論はジリクレの弟子であったデデキントおよびクロネッカーによって大成された。ジリクレの解析的研究における第2の業績は1829年フーリエ級数の収斂の証明であった。無限級数及び定積分の絶対的と条件的の収斂性の本質的差異の指摘および実関数の観念の確定である。絶対的収斂の場合においてのみ、有限羽に関する法則が無限関数にも適用できるが、条件付きの場合はそうはいかない。またフーリエ級数は必ずしも絶対収斂をしないから、コーシーのように一般項の減少の模様を見るだけでは収斂を確かめることは不可能である。1837年ジリクレは物理学雑誌にフーリエ級数論を論じた。xの連続関数yはxy座標では連続曲線で示される。xとyの関係は確定されていなくとも、無法則でも構わない。これを任意の関数という。1840年ジリクレはポテンシャル論を講演した。境界値を与えてポテンシャル関数を決定する問題を「ジリクレの問題」という。ジリクレは、∫〔du/dx)^2+(du/dy)^2+(du/dz)^2] dωを最小ならしめるものとしてポテンシャル関数があるという。この問題はガウスがすでに用いていたが、リーマンはそれをジリクレの原則と名付けた。ワイヤストラスの反対があったが、ヒルベルトが1901年に修正し確定されたいきさつがある。


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