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高瀬正仁著  「人物で語る数学入門」
岩波新書(2015年5月)

近代の数学者らが格闘した曲線、関数、微分、数論の問題とギリシャ数学

九州大学教授の高瀬正仁氏という数学史家(そして歌人)が書いた一般啓蒙向け数学史の著書としては、私は今まで3冊ほど読んだことがある。高瀬正仁著 「無限解析の始まりー私のオイラー」(ちくま学芸文庫 2009年)高瀬正仁著 「岡潔ー数学の詩人」(岩波新書 2008年)高瀬正仁著 「高木貞治 近代日本数学の父」(岩波新書 2012年)である。著者 高瀬正仁氏は、現在九州大学数理学研究院准教授で、専攻は関数論と数学史である。主な著書には上に書いた3冊の岩波新書のほか、「dxとdyの解析学」(日本評論社)、、「オイラーの解析幾何学」、「ルジャンドル 数の理論」(海鳴社)、「ガウス整数論」(朝倉書店)などがある。古典数学書の翻訳などで2009年日本数学会出版賞を受賞した。著者は数学史研究の醍醐味をこういっている。「一番初めの物語を紡いだ人の心情を回想し、心の世界に描かれた情景を再現するところに認められる」という。数学史を高橋氏は、デカルトフレマー、ライプニッツ、ニュートン、ベルヌーイ兄弟もことごとくオイラーに注ぎ込み、オイラーを経由してはじめて今日の数学となったという風に理解している。そして「数学という不思議な学問を理解するための鍵を握っているのは間違いなくオイラーである」と断言する。オイラーの数学的世界の全容は途轍もなく広大で高い。
高瀬正仁著 「無限解析の始まりー私のオイラー」(ちくま学芸文庫 2008年)という本は、第1章「無辺解析のはじまり」、第2章「オイラーの数論」、第3章「ベルヌーイの等式とオイラーの公式 複素解析の誕生」の3つを取り上げ、各章の終わりに付録として、リーマン、クロネッカー、オイラーの論文翻訳をいれるという、面白い構成で出来ている。本書は各数学分野の全体を述べるのではなく、初めの物語を述べることにあるので、取り上げる内容は限定されている。そういう意味で錯綜した物語の初めの部分を理解することは結構難しいが、それなりに面白い。本書の趣旨に沿って、なるべく数式なしで数学思想を考えたい。数学は視覚・聴覚などと違って、人の高次脳機能を表現するものであるから、言葉・文法の問題と同じように極めて難しい認識の問題をはらんでいる。実世界を表現しなくとも、数学はかってに考えられるものである。1、2、3、・・・という物を数えているときは実世界であっても、3.14259・・・という無限な数とは何だということから量という概念が生まれ、さまざまな数が創設された。そして虚数・複素数という訳の分らない数も生まれた。本書が取り上げる3つの分野について数学史的な概要を把握しておこう。
1)  「無限解析のはじまり」はおおよそ今日の微積分である。オイラーの無限解析の要所は「関数」にあり、この基本概念が解析学に導入され、曲線を「解析的表示」するという関数概念であった。無限解析は曲線を理解する「解析幾何」を眼目として生まれた。この応用は力学において素晴らしい成功を生んだ。オイラー以降の無限解析は、ディリクレ、リーマンへと「実解析」は受け継がれた。オイラー以前にはライプニッツ、ベルヌーイ兄弟の無限解析の芽生えの時期があった。オイラーの無限解析では微分と積分計算が最初から渾然一体であり、コーシーになって「微積分の基本定理」が確立され、微分と積分ははっきり区別された。
2) 「オイラーの数論」ではフェルマーからオイラーへ展開した数論史が語られる。 フェルマーはギリシャ時代のディオファントスの書物「アリトメチカ」に触発され、欄外に48個の数学上の命題を断片的に証明なしで記した。いわばこの断章を紡いで近代数論に仕上げたのがオイラーの数論である。オイラーは「フェルマの小定理」や「直角3角形の基本定理」を証明し、素数の性質を深く洞察した。オイラーの「素数の形状理論」は、ルジャンドルの「素数の相互法則」、ガウスは「平方剰余法則」を生んだ。この2つの理論は等価の理論で「平方剰余相互法則」といわれる。後年クロネッカーは「平方剰余相互法則」の最初の発見者はオイラーで、証明を試みた人はルジャンドル、証明に成功した人はガウスだと考証した。4n+1,4n+3型の素数で平方数を割ると剰余の系列は「オイラーの基準」によって相互法則になる。ガウスはこれを「合同式の世界」の数論に持ち込んだ。
3) 「ベルヌーイの等式とオイラーの公式」ではオイラの「負数と虚数の対数」を手がかりに展開される。虚数を巡るヨハン・ベルヌーイとライプニッツの論争に終止符を打ったオイラーは正、負、虚数の対数は無数にある「対数の無限多価性」を宣言した。こうして複素解析が流れ出した。オイラーの公式はベルヌーイの等式を包含するひとつの等式であって、興味の目的ではなかった。複素解析の第2の契機はコーシーの段階で発生した。第3の契機はアーベル、ヤコビ、リーマンなどの代数関数論であった。

高瀬正仁著 「岡潔ー数学の詩人」(岩波新書 2008年)という本は、岡潔氏の生涯の研究テーマであった「多変数関数論」から始まる。関数の概念はオイラーに始まる。函のなかに変数と定数を素材にして何らかの関係で結ばれた「式」y=f(x)があり、そこへ変数xを放り込めば、その式によって結果yが出てくる。この関係を函数(関数)というのである。ひとつの変数なら1変数関数、2個以上なら多変数関数である。これを解析幾何学的に見ると、1変数なら2次元、2変数なら3次元、それ以上の変数なら一般に多次元空間を連想する。式の関係が冪の演算だけなら、一次の冪と加減乗関係のみは多項式といい、除算も入ると有理式といい、一般に加減乗除と冪演算を「代数関数」と呼ぶ。これにたいして三角関数、指数・対数関数などは超越関数である。ここには演算不能な点(ゼロで割るなど)が存在し、式の意味が失われる特異点が存在する。代数関数の積分を「アーベル積分」と呼び、オイラーの始めた「代数関数論」はアーベル、ヤコビ、ディリクレ、リーマンに引き継がれた。リーマンは1851年に1複素変数論(虚数iをふくむ数)の基礎の確立を目指して「リーマン面」(x+iy)の概念を提出し、「ヤコビの逆問題」を解決した。多価関数(多変数関数)の分岐様式は、(x,y)平面で分岐点において垂直な軸に別の平面が接続され、あたかもらせん状に面が繋がってゆくイメージをもった。関数が存在する場所「存在領域」として幾何学的な領域を設定したのであるから、その領域(リーマン面)に関数を作らなければならない。アーベル関数と呼ばれる多変数の超越関数が認識されることが多変数関数論の出発点であった。岡潔氏の多変数関数論の研究は留学から帰った昭和10年頃から本格化する。その研究の流れは上に連作論文の表で示した。岡潔氏の数学研究の期を画する三大発見とは、「上空移行の原理」、「関数の融合法」、「不定域イデアル」の発見であるといわれる。岡潔氏は多変数関数論のハルトークスの逆問題を生涯の課題と定めたが、第6報告 「擬凸状領域」(有限単葉な領域でのハルトークスの第2問題の解決)で使われた関数Φ(x,y)=-log d(x,y)と同じ役割の関数を見つけることが出来るなら、境界問題は解けるると考えたようだが、この問題は生涯解くことはできなかった。 岡潔氏は「特異点の理論」から「領域の理論」へと多変数関数研究を進める。ベンケは「擬凸上領域」と呼んだが、ヒルベルトの指導を得たオットー・ブルメンタールが「擬凸上領域」は未解決問題であるとはっきり認識した数学者であった。この境界の理論の実態こそ「ハルトークスの逆問題」に他ならない。「春宵十話」の6話「発見の鋭い喜び」では、昭和10年中谷宇吉郎氏の招待に応じて夏休みを札幌で過ごしたとき、「上空移行の原理」を発見した事を述べている。この「発見の鋭い喜び」という言葉は、寺田寅彦氏のエッセイから借用したものである。「取り扱う空間を適当な次元に引き上げることにより、問題の困難がしばしば緩和される」という原理である。量子電磁気学でノーベル賞を受けた朝永振一郎とファイマン氏の、困難な問題を一時棚上げする「繰りこみ理論」と似た発想ではないかと思う。ここに岡潔氏は問題の造型を決めた。「正則領域を除いて、擬凸状領域について知っていることはほとんどない。そこでハルトークスに立ち返り、逆に擬凸状領域はどれもみな正則領域であるか否かを問う」という「ハルトークスの逆問題」を提起したのだった。岡潔氏は自身の重要な発見を「3つの大きな発見」と称し、@上空移行の原理 A関数の融合法 B不定域イデアルの研究を挙げている。

高瀬正仁著 「高木貞治 近代日本数学の父」(岩波新書 2012年)という本の概要をみると、高木氏は、ガウスに端を発しアーベルからクロネッカーへと続く、魔術のような代数的数論の流れを引き継いだ最後のランナーであったようだ。そして誰にも分らない「類体論」という金字塔を打ち立てた。さてブルバキは1930年にフランスで、ヴェイユ、シュヴァレー、エルブラン、カンタンら全英的数学者が集まって作ったグループである。ブルバキは1939年ごろから「数学原論」の刊行を始め、1984年には40冊を書き続けている。「数学原論」はいうまでもなくユークリッドの「原論」を意識しており、本書の内容はいつも「ユークリッドからブルバキへ」の視点で数学史を総括するのである。この2000年以上の西洋の学問の歴史を念頭に置かないと彼らの志の高さは分らない。ブルバキは集団であり歴史的にも多人数の入れ替わりであるにもかかわらず、視点は統一されている。多種多様な数学の歴史の関係を読み解く視点は「哲学的」でもある。ブルバキの旗印は「構造」であり、「形式論的経験主義」だといわれている。ヒルベルトの枠を超えて、「分岐する類体」を考えるとアーベル体は類体であると了解される。これが高木の定理である。すべてのアーベル体を把握して、一望のもとに観察することが出来たのである。高木貞治氏の類体論は1920年の「相対アーベル体の理論」と1922年の「任意の代数的数体における相互法則」から構成された。前論文は「クロネッカーの夢」の解決であり、後者の論文はガウスからクンマーに継承された、冪剰余相互関係法則を確立した。高木貞治は1920年シュトラスブルグの第6回国際数学者会議に参加して「類体論」を発表した。ただ本書から類体論を理解することは門外漢には不可能である。当時の日本でも理解できる人はいなかったという。高瀬正仁著 「岡潔ー数学の詩人」(岩波新書 2008年)および高瀬正仁著 「岡潔ー数学の詩人」(岩波新書 2008年)の2冊の本は、岩波新書という啓蒙書には不釣り合いなほど専門的(数学)であるために、おそらく数学の専門家でない読者は誰一人そこに書いてある内容を理解できないでしょう。理学部卒業の私にも全く理解不能でした。読者はただ、岡潔や高木貞一という人が偉い人だったという印象しか持つことができない。これでは困ったもので、それなら数学内容の一部でも理解可能に書くべきでしょう。それに対して本書、高瀬正仁著 「人物で語る数学入門」(岩波新書)は一応数式の展開と演算が可能になっており、自分でもフォローできる楽しみがあるので好ましい。そのかわり1行の数式の展開に1日かかって苦しむという貴重な体験をさせてくれる。式の展開に成功した時の爽快さは何物にも代えがたいのである。とはいえ200頁程度の新書版では、途中で端折られて結果だけを示されるので欲求不満が募ります。とかく数学の啓蒙書は難しい。とはいえ本書の概要を数式なしで説明することも難しいがやってみよう。

1) 曲線を巡って−古代ギリシャからデカルトへ

プラトンの学校「アカデミア」の門には「幾何学を知らざる者は入るべからず」という文句が掛っていたといわれます。ギリシャ時代の哲学者の愛好する数学とは形而上学と深く結びついていました。しかもギリシャ時代の幾何学は代数学的に考えることはなくて、むしろ代数の問題(ピタゴラスの定理でいう冪数の整数論)でさえ、幾何学的に解くことが正道とされていました。比例計算は三角形の相似形として作図されていました。この章はギリシャの幾何学がデカルトの解析幾何学(座標を設けた代数計算問題)に発展する数学者の流れを詳らかにすることです。ここに記代ギリシャの三大作図問題というものがあります。それは@円が与えられたとき、その円と同じ面積を持つ正方形を作る(円の方形化問題)、A任意の角が指定された時、それを三等分する(かくの三等分問題)、B立方体が与えられたとき、その2倍の体積を持つ立方体を作る(立方体の倍積問題)です。円の内接する正多角形の辺の数を増やしてゆくと限りなく円に近づく方法でアルキメデスは円周率を求めました。ぺートル・ベックマン著 田尾陽一訳「πの歴史」(ちくま学芸文庫)に、ピタゴラスの円周率近似解とヒッピアスの円を正方形にする作図 が書かれています。古代ギリシャの時代、円周率に関係する幾何学者に面白い人物が4名いる。アナクサゴラス(BC500-428)は円と同じ面積をもつ正方形を作図する事を始めた。アンテフォンは「埋め尽くしの原理」という重要な手法を考案した。それは円に正方形を内接させ、次々に辺を2倍にした正多角形を内接させる考えで、かぎりなく多角形の周辺の長さは円周に近づくであろう。この原理はユークリッドによって正当化された。ヒポクラテスは半月という曲線の求積法を作図した最初の人である。そしてヒッピアスは直線や円以外の曲線を初めて定義した(超越曲線)。彼が発明した「クアドラトリックス」という「円積曲線」であるが、後にパッボス(3世紀)がこの曲線上で「円周率πを幾何学的に作図」することが出来ることを証明した。 どうしてこんな曲線を思いついたのだろうか、天才に脱帽する。又アルキメデスは「アルキメデスの螺旋」曲線で円の方形化問題を解いたとされています。しかし現在からみるとこれは近似的であって、代数的には円の半径rと同面積の方形の一辺aにはa=√π・rという関係があり、√πという超越数ではaの長さは確定しませんので、この作図は不可能という結論になっています。同様にこの3つの問題ははすべて作図不能とされています。しかし角の三等分問題はパッブスが円と双曲線を用いて作図しました。パッブスは「数学集録」の編集者として有名ですが、古代ギリシャの幾何学の知識を集大成しました。それがデカルトの幾何学的思索のための手がかりとなったと言われます。立方体の倍積問題にが、二コメデスは「コンコイド」曲線作図機をもちいて解を得たといわれます。ディオクレスは「シソイド」曲線を考案してこの問題を解いたと言われています。このように古代ギリシャでは作図問題の解決のためにいろいろな曲線が考案されました。我々凡人にはただ驚くばかりです。

ルネ・デカルト(1596-1628年 41歳で他界)は、1937年デカルト著 谷川多佳子訳 「方法序説」(岩波文庫)を書きました。エゴ・コギト・エルゴ・スム(私は考える、だから私は存在するのだ)という言葉で有名ですが、自分の理性を正しく導き、学問における真理を求めるための方法という本です。6部構成の序説を書き、そのあとに「屈折光学」、「気象学」、「幾何学」の応用編を置いていますが、岩波文庫本にはこの応用編は有りません。デカルトはこの幾何学において、代数計算を根底に据えるというアイデアを示しました。デカルトの「幾何学」は全三巻で構成され、@円と直線だけを用いて作図しうる問題、A曲線の性質、B立体的またはそれ以上の問題の作図です。第2巻においてデカルトは曲線を方程式で表す方法を述べます。そして曲線の法線を求める方法を述べています。斎藤憲著 「ユークリッド原論とは何か」(岩波科学ライブラリー)では5つのユークリッドの公準が示されています。古代ギリシャの曲線論では、平面幾何学(平面軌跡 円と直線)、立体幾何学(立体軌跡 円錐曲線)、曲線的な線(ニコメデスのコンコイド、ディオクレスのシソイド、ヒッピアスの円曲線、アルキメデスの螺旋など)の3つに曲線を考えていました。デカルトは幾何学的な曲線とは精密に測定しうるかどうかを基準としています。パップスの作図問題を舌を巻くような巧みな円と直線からなる作図で求める方法は、普通の人には思いつかないとして、彼独自の方法で幾何学的直線の線分を既知数、未知数として代数方程式をたて4次方程式の解を求める問題に替えました。(運よくこの解は見つかりましたが、一般に4次方程式の解法は難しく、1544年イタリアのフェッロとタルタリアが3次方程式の解法に成功したばかりでした) 同様にパッブスの「3線の軌跡問題」をデカルトは、極めて特殊な例(2線は直交する)について方程式をたて、2つの2次方程式を得ました。これは双曲線と楕円になります。ただ私には、こんな特殊なケースで解いたと言っても、解と言えるのかという疑問は残ります。こうしてデカルトは幾何学曲線の方程式を書いて、その方程式を観察し曲線の形を知るという課題に取り組みました。そのためには法線(接線)を自在に引けることが必要です。デカルトの幾何学曲線は代数方程式で表すjことができ、代数方程式で表せない曲線は超越曲線と呼びます。円積曲線や螺旋は方程式では表せないからです。デカルトの法線を求める方法を楕円で見てみると、楕円方程式は、x^2/a^2+y^2/b^2=1、点C〈x、y〉として接線tpjぴ栓が作る直角三角形について2次方程式をたてて、それが2重根を持つ条件からCの位置が求まります。デカルトと同時代のフェルマー(数論でつぎの章の主役です)は独自の方法で接線を求めています。超越曲線にも接線を引く方法を考えました。ライプニッツは微分法で「万能の接線法」を発見しましたが、フェルマーの接線法はライプニッツの方法に似ています。フェルマーはほとんど微分法に足を入れているのですが、理論に統一性がありません。比例関係を保って楕円上の点を移動させるという不思議な巧みなやり方はギリシャのアポロ二ウスにも似ています。そうしてフェルマーはパスカルのサイクロイド曲線に接線を引くことに成功しました。古代ギリシャの幾何学の伝統手法がフェルマーに受け継がれていたようです。

2) 数の性質ーディオファントスとフェルマー

近代数論は17世紀初め、フェルマー(1607−1666年)がディオファントスの著作「アリトメチカ」に出会ったことからスタートします。ディオファントスは紀元前3世紀のアレクサンドリアの人で、「アリトメチカ」とは数の理論という意味です。ガスパール・バシェは「アリトメチカ」6巻をギリシャ語の原本とラテン語訳を見開きの左右のページに掲載した対訳本を1621年に発刊しました。450頁ほどの本です。フェルマーはこの「アリトメチカ」対訳本を読んで欄外に膨大なメモを残しました。第2巻の第8問題は「どのような平方数(自然数 正の整数)も、2つの平方数(整数、有理数の範囲)の和に分けられる」として、4^2=(16/5)^2+(12/5)^2を例としています。ディオファントスはその主張の根底にプピタゴラスの定理を置いています。直角三角形(5,4,3型)の 5^2=4^2+3^2を一般的形式に変形するとa^2=(4a/5)^2+(3a/5)^2 (a=1,2,3,4・・の整数)となる。こうしたピタゴラス数の探索に系統的なアルゴリズムを確立したところに、「代数学の父」と呼ばれるディオファントスの面目がありました。フェルマーの書き込みメモには「3乗数を3つの3乗数に分けること、4乗数を4つの4乗数に分けること、さらに高次の冪数では不可能である」と書いています。後年これは「フェルマーの大定理」と呼ばれることになった。フェルマーの子サミュエルは「バシェのディオファントス」を復刻版を作る際に、フェルマの欄外書き込みを組み込んで復元し、フェルマーの数論が残されました。このディオファントスの平方数の和の定理は、z^2=x^2+y^2という方程式の自然数解の存在があやふやです。解はあるのかないのか、有限個あるのか無限個かいろいろのことが考えられ、不定方程式特有の問題です。これを考えるのがフェルマーの「数の理論」(数論)です。フェルマーは1641年「直角三角形の基本定理」を明らかにした。「4の倍数よりも1だけ多い素数(4で割ると1が余る数)は、どれも2つの平方数で作られる」というものです。ディオファントスの自然数に大きな制約(素数の性質)を発見しました。例えば、5=1+4, 13=4+9,  17=1+16, 29=4+25などです。ディオファントスは直角三角形の斜辺を二つの平方に分ける問題の3辺の例として(3,4,5)と (5,12,13)、さらに(16,63,65), (33,56,65)をあげています.。フェルマーは「直角三角形の基本定理」の証明は公表していませんが、120年後の1760年オイラーが証明しました。1640年フェルマーは「pを素数とし、aはpで割り切れない数とすると、a^(p-1)-1はpで割り切れる」という「フェルマオーの小定理」を発表しました。a=3 p=13とすると、3^12-1=13×40880となり13で割り切れます。pは3.6でも割り切れますが、どんなpでも割り切れるということではなく、割り切れるpがあるということです。フェルマーはa=2の冪数についても考察しました。不思議な数(自然数)の性質が次々並べられました。その発見の道筋が彼特有の直感による、膨大な計算結果があるのでしょう。フェルマーは完全数の根を発見しました。「完全数」とは「自分自身を除く約数の総和に等しい数」のことです。例えば6=1+2+3とか、28=1+2+4+7+14などです。完全数はユークリッドの「原論」にも述べられていますが、「もし2^n-1が素数なら、それは完全数を作るからだ」というのがフェルマーの主張です。2^n-1に注目したのはフェルマーの慧眼としか言いようがありません。ついでにフェルマーは2^2n+1という数(フェルマー数)は素数になることを発見しました。例えば2^(2×3)+1=2^8+1=256+1=257です。フェルマーは素数がどうしてできるかに関心を持っていたようですが、彼の定理にはすべて証明は有りません。偶然見つけたのか、一定の規則を発見し一般化することと証明することは別ですので、フェルマーは数学の職人技として証明を明かすことはしなかったようです。そのため何百年か後に数学者が証明しなければならなかったのです。フェルマーはさらに「多角数に関するフェルマーの定理」を1636年に発見しました。どのような数もたかだかn個のn角数の和の形に表されるということになります。この証明はオイラーが1754年の試みましたが不完全で、1813年コーシーが一般的な証明に成功しました。証明を示さないフェルマーのやり方は、後代の数多くの数学者を悩ませ、育てたと言えます。かくも人間の頭が生み出した正の整数(自然数)の不思議な性質をコツコツ集めたフェルマーの業績は偉大で、後代の代数的数論の基礎を作ったと言えます。整数は1を加えることで成り立つ数です。これ以上分解できない1という数です。ここに整数のすべての秘密があるように私には思えます。

3) 微積分の誕生ーライプニッツ

デカルトとフェルマーを受けて、ライプニッツ(1646-1716年)は万能の接線法を開発しました。1666年ライプニッツはドイツから出てフランスンのパリにうつり、デカルト、ホイエンスの薫陶を受けて近代数学に輝かしい業績を残した。ライプニッツは1684年と1886年の二つの論文で微分計算法と積分計算法を述べました。曲線状の無限に小さい距離を持つ2点を結ぶ直線が接線である。代数方程式で表される曲線でも超越曲線でも接線を引くことができると主張しました。今日の解析学の関数という概念を提案したのははオイラーですが、ライプニッツの定義とは、使われた記号を(x,y)座標で書き直すと、曲線上の無限小三角形において斜辺の傾きはdy/dx=(接線影の長さ)/(向軸線の長さ)となります。曲線の向軸線の微分の定義に続いて、微分形さんの諸規則を述べています。高校の数学で習った公式です(定量の微分、和と差の微分、積の微分、省の微分公式は省略します)。特に証明は有りません。y=x^2の放物線上の点(a,b)における接線方程式は、y=x^2の微分形はy'=2xなので y-b=2a^2(x-a) b=a^2 すなわちy=2ax-a^2となります。曲線が極大もしくは極小となる点では傾きがゼロですから、y'=dy/dx=0を解けばいい。y=x^2の放物線では極小となる点はx=y=0の点です。曲線の曲り具合が変化する点を変曲点(凸凹が入れ替わる点)といいますが、そこでは傾きの傾きが±に替わるので、2回微分y"=0となる点です。ここにフェルマーの極大・極小問題があります。これは線分の分割問題で代数的ですので微分計算ではありませんが、ある数を未知数とすれば3次方程式φ=bx^2-x^3が得られ、ある微小量eをとって、φ(x+e)-φ(x)をeで割り等式をゼロとするという面白い方法でIを求めています。じつはこれは導関数を求める重要な方法です。lim(h→0) [φ(x+h)-φ(x)]/h という計算と等価です。関数形さえ表現できているなら、微分形を求めるのは容易です。例えば2次式 y=x^2の微分形y'=lim(h→0) [φ(x+h)-φ(x)]/hは、[(x+h)^2-x~2]/h=[2hx+h^2]/hは(2x+h)となり、h→0ではy'=2xとなります。これは冪乗数の微分形です。どのような関数形でもこのような方法で微分形を求めることが可能です。しかしlim(h→0) でhのかかる項をゼロとする考えはどうもあやふやです。私が高校生の時はそこまで考えませんでした。
積分法は微分法の逆の操作ですので、本書でもあまり述べられていません。デカルトは求積法に関心を示しませんでしたが、ライプニッツはこれを逆接線法と呼んで深く研究しました。円の方程式はx^2+y^2=1です。関数y=√(1-x^2) -1<x<1、面素ds=√(1-x^2)dxとしてライプニッツは逆接線法(積分法)と呼びました。オイラーは関数f(x)の積分を、y=∫f(x)dxという記号で示しました。オイラーは「曲線の世界」から離れて「変化量の世界」に移り、有限変化と無限小変化量の行き来の道を開きました。先の円の場合、∫√(1-x^2)dx=1/2(sin-1x+x√(1-x^2))となります。ain-1(1)=0,sin-1(-1)=π、半径1ですのでこの定積分はπに等しくなりこれは円の面積(πr^2)です。双曲線y=1/xの求積は∫dx/x=log(x)+cです。対数も超越曲線です。

4) 曲線から関数へーベルヌーイ兄弟とオイラー

ベルヌーイ兄弟はライプニッツの論文に深い関心を寄せ、長い間書簡を交換していました。この書簡こそ微積分学の揺籃期の生き証人です。それを継承したオイラーはニュートンの微積分法を大きく発展させました。これらの事が第4章の主題です。微分積分の這っての尽した4人の年代を記しておこう。ライプニッツは1646−1716年、兄のヤコブ・ベルヌーイは1654-1748年、弟のヨハン・ベルヌーイは1667−1748年、ロピタルは1681−1704 年です。ベルヌーイ兄弟はスイス・バーゼルの生まれです。ヤコブはイギリスに渡ってボイルやフックという物理学者に会って、バーゼル大学の教授となりました。弟ヨハンは兄から数学の個人授業を受けました。兄弟はライプニッツの2論文の解明に取り組みましたが、よくわからないのでライプニッツに手紙を書いて質疑議論しました。ヨハンとライプニッツの往復書簡は175通におよび、ライプニッツの亡くなった1716年11月まで続きました。1691年ヨハンはパリのサロンで特別講義を行い、その講義録が1696年講義を受講したロピタル侯爵によって「曲線の理解のための無限小解析」という名で出版されました。そのなかに「ロピタルの定理」というものが記されていますが、これはヨハンの定理です。講義録からヨハンはライプニッツの逆接線法を用いて、放物線x=y^2 (y=√x)の積分を行っています。微分と積分の記号や名前には各人の流儀があって、ベルヌーイ、コーシー、ライプニッツ、オイラー、ニュートンによって微妙に異なります。微分と積分を合わせて「無限解析」と総称する人もいます。オイラーの「無限解析序説」(1748年)がそれです。ヨハンは「物体が重力の作用で曲線に沿って降下する時、時間が最短となる曲線は何か」という設定で、問題を公開しました、ヨハンは答えは「サイクロイド」であることを知っていましたが、ニュートンら5人が回答を寄せました。本書のページ110−111にそこん解法が書いてありますが、私には理解不可能なので、若し後日理解できたらこのノートに追記します。今日の微積分の目標は、曲線の接線や求積と言った幾何学的アプローチは主題ではなく、関数理論の一例と見なされています。関数概念を導入したのがオイラー(1707−1783年)でした。オイラーについては高瀬正仁著 「無限解析の始まりー私のオイラー」(ちくま学芸文庫 2008年)に詳しく書かれているので繰り返さない。オイラーは屈折の論文から始めて800を超える論文を生産した18世紀の近代数学の父です。オイラーは初期には物理学や力学の問題ばかりで、1736年には「力学」という大作の著書を出しています。ニュートンの「プリンキピア」の解明が目標であった。デカルトは幾何の作図問題を解くのに代数方程式を用いましたが、オイラーは力学の問題を解くのに関数と微分方程式を採用しました。オイラーは3種類の関数を提示しました。@解析的な表示式、Aある変化量に依存して変化する変化量、B幾何学的に表示された関数で弦の振動に用いました。第1の関数は「無限解析序説」に述べられた「解析的表示式」のことです。曲線の理論を解析幾何学と言います。第2の関数とは大砲から発射された砲弾の軌跡を例にして1755年「微分計算法」に述べられています。第3の関数とは距離と時間の関数である偏微分方程式のことです。曲線を関数のグラフとみる認識でした。代数的関数と超越的関数の両方を含みます。今では当たり前のことですが、それは微積分の変分法を構築するために関数が必要だったからです。オイラーの方程式とは微分方程式のことですが、dx/f(x)=dy/g(y)を積分してx,y の関係式を得ることです。dx/√(1-x^4)=dy/√(1-y^4)という微分方程式を解いてレム二スケート曲線であることが分かりました。

5) 虚数ーライプニッツ、ヨハン・ベルヌーイ、オイラー

古代ギリシャと近代西欧の数学は根底において?がっていますが、際立った近代数学の特徴は、微積分と虚数の創造にあるでしょう。虚数とは自乗するると負になる数x^2=-1のことです。(±1)^2=1ですから、虚数は最初から矛盾のイメージで登場します。虚数については、吉田 武著 「オイラーの贈物」(東海大学出版部 2010年)と、吉田武 著 「虚数の情緒ー中学生からの全方位独学法」(東海大学出版部 2000年)に虚数の由来から応用までを詳しく述べています。本章は簡単に概略をおさらいする程度にとどめます。虚数単位はi=√(-1)、実数と虚数の組み合わせを複素数a+bi(a+b√(-1))と言います。代数方程式の解に関する研究は16世紀のイタリアで行われ、3次方程式の解法はフェロツとタルタニアが、4次方程式の解法はフェラリが発見しました。2次方程式ax^2+bx+c=0の解は、[-b±√(b^2-4ac)]/2a ルートの中を判別式といって、これがプラスなら2つの実根をもち、判別式がゼロならひとつの重根を持ち、これがマイナスの時は2つの虚根を持ちます。3次方程式のタルタニアーカルダノの解法では複雑な段階を経ますが、実根を見つけるときでも虚数を避けては通れません。だから3次方程式を「還元不能な方程式」と呼びました。カルダノは虚数を数学に取り込もうとした最初の人でした。17世紀に入り微積分の成立に伴って、数学者は再び虚数と遭遇しました。関数f(x)の積分を求めるとき、分数式の分母が1次式の場合は対数が登場します。∫(1/(x+1))dx=log(x+1)+Cです。分母が2次式の場合f(x)=1/(x~2+1)の分母x^2+1を因数分解すると、(x~2+1)=(x+√(-1))(x-√(-1))の積分が可能となります。∫1/(x~2+1)dx=arctan(x)+Cとなります。虚数を使えばこのような芸当ができるのです。ヨハン・ベルヌーイとライプニッツは書簡で虚数の対数については長い討論を行いました。ベルヌーイはlog(-1)=log(+1)=0を対数曲線がゼロとなることから主張しました。log√(-1)=(1/2)log(-1)=0となります。これに対してライプニッツはどちらも虚数だと主張しました。この論争を受けて後年複素数の対数をはっきり規定したのはオイラーでした。オイラーの公式はあまりに有名ですので導出は省きますが、に示される指数関数と三角関数を虚数が媒介して成り立つ等式をいう。 θ = π のとき、eiπ = -1 というオイラーの等式と呼ばれる式が得られる。この公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学・物理学などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマンはこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい,そして驚くべき「方法」」だと述べている。オイラーは負数と虚数の対数について渇が得ましたが、様々な矛盾(オイラーのパラドックス)にぶつかりました。オイラーは負数の対数は虚数であると確信を持っていましたが、多くの矛盾(-1=+1/-1の対数を取ると、log(-1)=log(+1)-log(-1)=0-log(-1)となり、log(-1)=-log(-1)つまり0以外の数ではありえない)について、1747年「負数と虚数の対数について」という論文を提出し、ライプニッツとベルヌーイの論争に言及して、対数の値は一つではないとしました。たとえばlog1=0、±2π√-1、±4π√-1、±6π√-1、・・・・と無限に多くの値を持つことを主張しました。こうして後年、コーシー、ヴァエルシュトラウス、リーマンらが複素関数の微積分(複素関数論)を切り開きました。ガウスが「代数学の基本定理」で述べた「複素数の範囲で探す時、一般に複素数の係数を持つどのような代数方程式に対しても、その根が必ず見つかる」という定理の証明を1799年に成功しました。

6) 数の神秘ーガウス

数論にはフェルマーとガウスの2つの流れがあります。フェルマーは直角三角形の基本定理によって素数を2つの平方の和に分けられる条件を求めました。それはラグランジュに受け継がれ、「素数の形状」についての理論を展開しました。一方ガウスは、素数と素数の間に成り立つ相互関係という数論を展開しました。ガウス(1779−1855年)はドイツの数学者、天文学者、物理学者である。彼はリーマンやデデキントらを育て、近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられている。19世紀最大の数学者の一人である。ガウスは16歳から「数学日記」を書き始めたという。1799年(20歳)で「代数学の基本定理」で学位を取りました。1801年に「アリトメチカ(数の理論)研究」という著作を刊行しました。フェルマーは4で割ると1が余る素数は2つの平方の和に分けられるという「直角三角形の基本定理」を主張しました。ガウスの合同式を使うと、フェルマーの直角三角形の定理は、a≡1(mod.4) と書けます。すなわちa-1は4で割り切れるということです。一般にa≡b(mod.c)は「aとbはcを法として合同である」といいます。法cを共通とする2つの合同式についても、加減乗除の演算規則が成立します。さらにガウスは17歳で「平方剰余相互法則の第1補充定理」でx^2≡±1(mod.p)によって、直角三角形の基本定理が成り立つことを裏付けました。次いで「平方剰余相互法則の第2補充定理」x^2≡2(mod.p)?証明して、あわせて「平方剰余の理論における基本定理」と呼びました。平方剰余とは、pを奇の素数、合同式x^2≡a(mod.p)が解けるとき、この合同式を満たす整数xが存在する場合は、aは「pの平方剰余」と呼びます。pとqを法とする2つの2次合同式 @ x^2≡p(mod.q)  A x^2≡q(mod.p)が同時に解けたり解けなかったりする特定の「相互依存関係」に関心を寄せました。ガウスが見つけた相互関係は具体的には、@pとqのうちどちらかが4を法として1と合同なら、合同式は同時に解けるか、解けないかのいずれか、Apとqがどちらも4をhぷとして3と合同なら、合同式@とAはどちらか一方は解けるが、もう一方は解けない、というものでした。これらの相互関係をルジャンドルは記号を使って、(a/p)=+1(解ける)、(a/p)=-1(解けない)とすると、、解けるケースと解けないケースの繰り返し演算規則が成立し、平方剰余の相互規則、第1補充定理、第2補充定理の関係式を表現しました。ラグランジェ(1736-1813年)は「変分法の領域に属する等時曲線」の問題を研究していましたが、ホイエンスが等時曲線はサイクロイドであることを示しました。ルジャンドル(1752-1833年)は「不定問題を整数を用いて解くあたらしい方法」1770年でフェルマーの課題「ay^2+1=x^2(aは正の数)をみたすxとyを求めよ」という問題を、オイラーの連分数の手法により必ず解を持つことを示しました。こうした不定問題を解くことが「数の理論」(数論)と見なされていました。直角三角形の基本定理は「4n+1という線形的形状を持つ素数は、つねにx^2+y^2という平方的形状を持つ」と言い換えることができます。ガウスは不定問題の2次形式A=Bt^2+Ctu+Du^2が整数解を持つのは若干の特別な場合のみであると考えていました。フェルマーは証明なしで素数の経常について次のような定理を提案していました。@4n+1のあらゆる素数はy^2+z^2という形を持つ、A6n+1の素数は y^2+3z^2 B8n+1という素数は y^2+2z^2  C8n+3という素数は y^2+2z^2 D4n+3で末尾が3か7の素数は y^2+5z^2です。オイラーは2次式t^2+au^2で、a=1(直角三角形),2,3の場合のみ成功しました。ラグランジェは完全な決定を行いました。奇数の素数は(2を除いて素数は全部奇数である)「4n+1型」と「4n+3型」に区分けされます。ラグランジェは「4n+3型」の素数について一般理論を構築しました。ルジャンドルは解ける解けないケース別けにつてルジャンドルの記号を導入して相互法則を提案しましたが、4n+1型についてルジャンドルは証明に成功しませんでした。ルジャンドルの「相互法則」とガウスの「平方剰余」が組み合わされて今日の数論の「平方剰余の相互法則」が出来上がったのです。ガウスはさらに3次以上の剰余の理論 x^n≡a(mod.b)の研究を開始したのは1807年以降のことです。1813年ガウスは4時の冪剰余相互法則を発見したといわれています。しかし論文となるにはさらに15年かかりましたが(1828年)、証明はついていません。4次の冪剰余相互法則は、整数域では見つからず複素数に及びました。ガウスはこれを「ガウス整数」と呼びました。ガウスは虚数という呼び名がそもそもパラドキシカルであって、正の量を順量、負の量を逆量、虚の量を測量と呼ぼうと提案しました。その後、代数的整数論という理論が生まれ、ヤコビ、ディリクレ、クロネッカー、クンマー、ウエーバー、ヒルベルト、と続き、ヒルベルトのところに留学した高木貞治は「類体論」を生みました。

7) 無限小ーコーシー、デデキント、ディリクレ、リーマン、カントール

曲線の微分積分は無限小という概念をその中心においていました。ラグランジュとコーシーは、無限小を排除するため、関数の一般概念から出発する連続関数論を基礎にして展開を図りました。オイラーの関数は代数曲線と超越曲線に別れますが、ラグランジュは1797年の「解析関数の理論」において、関数を無限級数で表す理論展開を試みました。級数が収束するなら、x=aにおけるテイラー級数展開の関数f(a)=Σ(fのn回微分(a)/n!)(x-a)^n (a=0ならマクロ―リン級数)はあらゆる関数に適用出来て、無限個からなる多項式になります。ラグランジュの級数展開は今日の微積分で「解析関数」であれば可能ですが、オーギュスト・ルイ・コーシー(1789-1857)は級数の収束と元の関数になるかどうかに疑問を抱き、関数の微分を定義しました。これが我々世代が高校の時学んだ微分の定義です。dy/dx=lim(h→0)[f(x+h)-f(x)]/hという定義です。極限値を暴関数と呼びます。今になって考えると近似的な考えで、式をバラして展開しh及び高次のhの付く項をゼロとするやり方です。これとライプニッツの微分演算規則を使えば、どのような関数でも微分できます。ゼロで割るという考えは回避できます。今日ではε―δ(イプシロンーデルタ)法が用いられます。関数は実数域区間で定義されているとして、「不等式|x-a|<δをみたすすべてのxにたいして、不等式|f(x)-f(a)|<εが成立する。この時関数はaにおいて連続であるといえます。この考えは、数値解析ニュートン・ラプソン法の基本となっています。積分については古代ギリシャのアルキメデスは放物線の求積問題で「取り尽くし法」を考案し、無限級数で面積の和を求めました。(ギリシャ時代には無限という考えはありませんので有限回で十分な値が得られました) コーシーの定積分の定義も取り尽くし法の一種ですが、小区間の長方形に分けて、Σf(xi)(xi+1-xi)を求めます。区間幅が(xi+1-xi)、高さがf(xi)とする長方形の面積の和(コーシー・リーマンの和)です。コーシーはこれの極限値を∫f(x)dxと表しました。リーマンは必ずしも連続とは限らない有界関数の定積分を考察しました。リヒャルト・デデキント(1831-1916)は、コーシーの連続関数の根幹には「短調に増大し、上方に有界な数列は収束する」という認識は幾何学的直観に助けられていて厳密ではないと考え、連続性の基礎づけを行った。1858年デデキントは「有理数の切断」に基づいて「数」の定義を考えました。1872年「連続性と無理数」で数の連続性の本質を厳密に定義しました。デデキントは、基礎解析の算術化、および現代の代数的整数論を構築し、環、加群、イデアル、体、ベクトル空間といった概念を生み出した。また、彼はガウス、ディリクレ、リーマンと共同して活躍した。実数の概念を明確化するという哲学的な作業の中で、切断という概念を導入した事が特筆される。ディリクレ(1806-1859)は「数xに対して数yが対応する」関係自体が関数であるとしました。つまり一価性条件を定義に加えました。これには関数をフーリエ展開(三角級数)するためです。有理数の時ある定数に等しく、無理数の時は他の定数に等しいとする「ディリクレの関数」と呼ばれました。複素解析の分野はオーギュスタン=ルイ・コーシーが独力で研究していたが、ベルンハルト・リーマン(1826-1866)は、1851年コーシー=リーマンの微分方程式を複素関数の定義として、さらに写像やリーマン面など新たな成果を組み込むことで複素解析の基礎づけと共に理論的な発展をさせた。1854年「幾何学の基礎にある仮説について」では、初めて多様体の概念を導入して、リーマン幾何学を確立した。これは後にアルベルト・アインシュタインによって一般相対性理論に応用されている。ゲオルグ・カントール(1845-1918)は無理数の定義によるフーリエ級数の収束性をデデキントと議論し、初期集合論の発展のきっかけとなった。


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