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坂井豊貴著 「多数決を疑う―社会的選択理論とは何か」
岩波新書(2015年4月)

選挙による議会制度は民意を反映しているのか、民主主義の根幹を問う

ルソー    コンドルセ
「社会契約論」 ルソー   数理社会学の祖 コンドルセ

本書は「多数決を疑う」という、ショッキングな問いかけで始まる。「最大多数の最大幸福」(できるかどうかは別にして)が、51%の意志が49%の意志を無視できるのかという意味か、あるいはたかだか30%程度の投票率で民意と言えるのかという意味と思って本書を読んでみると、案外そうではない。「多数決ほど、その機能を疑われないまま社会で使われ、しかも結果が重大な影響を及ぼす仕組みは他にはない。とりわけ議員や首長などの代表を選出する選挙で多数決を使うのは、乱暴というより無謀ではないだろうか」という問いかけで始まる。私も多数決ありきの民主主義に疑問を持ったことはなかった。最高裁判所もこれに異を唱えたことはなかった。盲点を突かれた思いがする。その理由は選択対象である施策の順位付け投票が相互の関係を持ち、予期せぬダークホース、ノイズ、バイアスを受けるということらしい。最初の印象では、経済学でいうゲーム理論、ハウツー論(アンケート手法)だろうという推測をした。筆者坂井豊貴氏は、早稲田大学商学部卒業後、神戸大学経済学部博士課程卒業、2005年ロチェスター大学経済学博士(Ph.D)終了、横浜市立大学経営科学系、横浜国立大学経済学部を経て、慶応義塾大学経済学部教授となった人である。専攻は社会的選択理論、メカニズム・マーケットデザインである。「社会的選択理論への招待ー投票と多数決の科学」(日本評論社 2013年)が本書の親本に相当する。社会的選択理論( social choice theory)は、個人の持つ多様な選好を基に、個人の集合体としての社会の選好の集計方法、社会による選択ルールの決め方、そして社会が望ましい決定を行なうようなメカニズムの設計方法のあり方を解明する理論体系だそうだ。経済学者と政治学者の両方により研究され、資源配分ルールや投票ルールの評価や設計が一貫して主要な課題となっている。集合的選択理論(collective choice theory)とも言われる。社会的選択理論は20世紀の中頃、1950年代に確立された比較的新しい学問分野とされている。しかし社会選択理論の扱う集合的な決定に関する研究は、少なくとも18世紀に遡ることが出来る。そうした先駆的研究の中でもよく知られているのは、ジャン=シャルル・ド・ボルダとコンドルセによるものである。ボルダは決定の参与者全員が満足するような投票による決定の手続き・ルールを考察し、後にボルダ方式と呼ばれる方式の基礎を形作った(詳しくは投票理論の頁を参照のこと。)。一方のコンドルセは多数決投票法による決定について考察し、いわゆるコンドルセのパラドックスを発見した。これは多数決投票法の困難を示すものであった。こうした集合的決定の研究、とりわけコンドルセのパラドックスの発見を受け継いで確立されたのがケネス・アローの一般可能性定理(不可能性定理)である。一般可能性定理は多数決投票に限らずあらゆる決定の方法が、決定が受け入れられるのに必要と考えられる最小限の条件すら満たし得ないことを示した。この集合的決定の困難を証明したアローの定理は様々な方面に衝撃を与え、一連の重要な理論的研究を生み出した。これにより社会選択理論が一つの新しい学問分野として確立されたわけである。アローの定理は、バーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数の妥当性に疑問符をつけるものでもあった。アローの一般可能性定理に始まる社会選択理論は二つの側面を持つ。一つは個人の選好から出発してどのように社会の選好を導くかという集合的決定に関する側面である。もう一つは社会の状態の望ましさを判断、評価することに関わる側面である。すなわち第二の側面は、社会の厚生という観点から経済システムを評価し、その理想的なあり方と改善の方法を模索する規範的な経済学としての厚生経済学に関連する側面と言える。社会選択理論は、個人の選好から出発して集団的な決定を下す実際の過程と、そのルールや方法を扱うものである。このような性質を持つため、政治学に対して重要な意味合いを持つ。政治は人間の集団における意思決定を内包するものであるからだ。実証政治理論(positive political theory)と呼ばれる、社会選択理論を摂取した分野が1960年代に確立された。この実証政治理論の中心的な担い手は、ロチェスター大学政治学部の教授を長年務めたウィリアム・ライカーとその門下生であった。ライカー達は自己の効用を最大にするという行動原理に基づいて形成された個人の選好から、個人の集合体としての社会の決定を導くプロセスとして政治を捉えた。このような特徴を持つ政治を分析するための道具としてライカーらは社会選択理論とゲーム理論を中心に据えた。しかし、主流派の政治学においては社会学の影響が強く、主に経済学から発展した社会選択理論は必ずしも高い評価を得ていない。しかし1980年代以降、実証政治理論やその基礎となる社会選択理論の有意性は認められることとなった。その契機となったのはアンソニー・ダウンズのアメリカ連邦議会研究に代表される、実証政治理論による政治過程の実証的な分析の本格化であった。現在では実証政治理論は政治学における最も有力な分析手法の一つである。

以上は数理社会学である社会的選択理論の研究の譜を概観したものであるが、問題の発端はあくまで人民主権論という社会政治課題にある。その解決法として社会選択理論という手法があるという位置づけである。自分のことは自分で決めたいという個人的欲求は、自分のことは自分で決められはずだという期待に基づいている。この個人的欲求が、自分たちに広がった時、それは民主制を求める基盤となる。決定が生み出す拘束は喜んで引き受けよう、その方が自然状態の闘争よりはるかにましであるからだ。民主制はギリシャ以来人類の強い希望であった。自分たちのことを決めるには、異なる多数の意志をひとつに集約しなければならない。全員一致が望ましいが、「多数決という方法」がある。全員が熟議して問題点を知り尽くし、知恵を出し合って協調点を見出す作業の上で、情報公開と他人の尊重という立場にたっての多数決というのが筋書きである。しかし多数決は人々の意志を適切に集約できるのだろうかという疑問が残るのである。選択肢が2つしかない場合は数の勝負であるが、選択肢が3つ以上になると、票の割れ(動揺、ふらつき)が起り易い。多数決というと多数派に有利そうだが、実は選択肢の組み合わせによって、中心点がずれるのである。日本の衆議院選挙において、議席300は組織票であるが、残りの150議席は浮動票で流れる。選挙戦術と時の政策選択肢の組み合わせによって、150席の政党が300議席を獲得することがある。それには小選挙区制というマジックも働くが、大勝利か大敗北かは浮動票の流れで決まる。人々の意志がはっきりしているならば、投票は民意であるが、テクニックで選択肢を操作されると多数決はぶれやすいのである。だからこそ多数決の代替案が求められてきた。18世紀後半フランス革命前にボルダールとコンドルセがこの試みを研究した。社会的選択理論はそこを源にして発展した社会科学である。それ自体は数理的な学問である。コンドルセは数学者であった。選挙の投票が行われることは民主制の条件であるが、その方法はまちまちでその社会の発展の歴史を物語る。多数決の下で有権者は自分の考えのごく一部でしかない、「どの候補者に投票する」でしか態度表明ができない。51対49の悲劇が始まる。一方は独裁者になり他方を抑圧する。そして選挙が人々の利害対立を煽り、社会の分断を招きかねない。憲法改正の国民投票が果たして過半数でいいのか。容易に変えてはいけない憲法のハードルを高くすべきだという議論も起こっている。社会制度は人間が作るものである。18世紀中ごろ、社会契約論を著したジャン・ジャック・ルソーが投票を巡る問題を考察し、多数決に対する警鐘を鳴らして以来、社会的選択理論が生まれた。

そこでホッブス、ロック、ルソー、ロールズに至る「社会契約論」の系譜を概観しておこう。ホッブズは「リヴァイサン」は、自然状態では、諸個人は自然権を有していたが、自然法が十分に機能しなかったため、万人の万人に対する闘争状態が生じていたと仮定する。その上で、この闘争状態を克服するためにやむを得ず、諸個人が自然的理性の発現をさせて、自然状態で有していた自然権を放棄して社会契約を締結し、その契約に基づき発生した主権によって国家が成立したとみる。契約の当事者に王は含まれておらず、理論的には、王政、貴族政、民主政とも結びつき得る点で古典的社会契約論と異なる。ロックは「統治二論」において、自然状態で有していた自然権を一部放棄し、遠い過去に「始源的契約」である社会契約を締結したことによって国家が成立したとみる。契約の当事者に王は含まれておらず、人民主権論にたったが、人民の「信託」に基づき政府を作ることができるとされたので、理論的には、王政、貴族政、民主政のいずれとも結びつき得るものであった。社会契約には一定の「契約の条件」があり、その手段として権力分立を採用しなければならないとして、ホッブズの万能かつ分割不可能であるという主権の概念を批判した。そして、政府が信託の趣旨に反し、自然権を侵害して専制を行うときは、そもそもの主権者である人民は抵抗権を行使できるものとした。ルソーは「社会契約論」において、社会における全ての構成員が各人の身体と財産を保護するためには、各人が持つ財産や身体などを含む権利の全てを共同体に譲渡することを論じる。人びとが権利を全面的譲渡することで単一な人格とそれに由来する意思を持つ国家が出現すると考えられる。国家の意思をルソーは「一般意思」と呼んでおり、これは共同体の人民が市民として各人の合意で形成したものであると同時に、一般意思が決定されてからは臣民として絶対服従しなければならない。なぜならば一般意思とは各個人の私的利益を求める特殊意思とは反対に公共利益を指向する。したがって一般意思をもたらす人民は主権者として見直すことが可能となる。人民は主権者であり、一般意思が公共の利益を指向するとしても、人民の個人的意思が常に正しいとは限らない。人民全員が参政することは非現実的である。そこで立法者の役割が導入される。ジョン・ロールズは、社会契約説を、自然法、自然権という古典的概念を回避して、一般化抽象化し、国家が成立する前の仮定的な社会について、自由・平等で道徳的な人は、利己的で相互に無関心な性向を持つ人々であっても、合理的な判断として、人々が公正に最悪の状態に陥ることを最大限回避する条件で合意するはずであるとして構成員の合意による国家の成立を導き出し、かつ、その条件が実現している理想的な社会を「秩序ある社会」とした上で、その条件を可能ならしめる原理を公正として正義の原理として、格差原理、マキシミン原理という正義に関する二つの価値原理を導き出したのである。

1) 多数決からの脱却ーボルダ―ルール

本書を読んでまず疑問に思ったことは、選択肢と投票者の投票順位(順列)とその組み合わせ例は普通はかなりの数に上るはずであるが、本書では取り上げた例が組み合わせを網羅しているとはいいがたい。特殊すぎる例を解析してみても、読者は「ああそうですか」と納得できないのである。おそらく筆者らが全例をとりあげて解析し、紙面の制約から典型的な結果のみ(面白い結果や自説に都合のよい例)を提示しているのであろうが、読者にはそれは開示されていない。だから一例から一般化された評価を言われても俄かには信じられない。本書で取り上げられた解析結果がおおむね正しいということを黙認して、本書を読んでゆくことにする。その前提が崩れたらここに書くことは私の責任ではない。そして具体例として各国の政治体制や選挙方法などが紹介されているが、その説明にも異論がある人もいるので、具体例についてはあまり紹介しない。出来る限り数理経済学・科学としての政治学の範疇で本書を紹介してゆきたい。何だが欲求不満になりそうだが、そういう人は専門書で裏付けをとったり、数値解析法の詳細を勉強する必要がある。坂井豊貴著「夜会的選択理論への招待ー投票と多数決の科学」(日本評論社 2013年)をあげておこう。多数決方式を取らない選挙方式の一例として、ナウル国の国会議員選挙方式は、全候補者の順位を記入するのである。そして候補者が5名なら1位に1点、2位に1/2点、3位に1/3点、4位に1/4点、5位に1/5点の配点を行う。これを法務大臣の名をとってダウダルールと呼ぶ。多数決は1位に1点、2位以下は0点とする方式である。多数決という方式は日本以外でも多数の国で採用されている。多数決以外を考えないのは思考停止ではないだろうか。坂井豊貴氏はここで詳細は省くが、アメリカの2大政党制とブッシュの大統領当選とイラク戦争の悲劇を対比させて、巨大組織だけが選択できる2大政党制と多数決による大統領選挙の矛盾を解説している。アメリカの体制には、そもそも人々の意志を集約する仕組みとして深刻な難点があるとという。投票で「多数の人々の意志をひとつに集約する仕組み」を「集約ルール」と呼ぶが、形式だけが残り、民主的という本来の目的が消え失せてしまっていると断罪するのである。有権者には無力感しか与えない多数決制を今こそ脱却しなければいけないという。多数決制について考察を加えたのは実はフランス革命前夜のことであった。ルイ15世の治下、1770年パリ王立科学アカデミーのシャルル・ド・ボルダ(1733−1790)が多数決制の研究報告を行った。ボルダは海軍の数理科学者であった。例えば3人の候補者X,Y,Zに投票したとき、投票者の意中の順位(それは投票結果には現れないが)に背いて、「第3者の最も弱い者」が当選することがあるということである。結果をペアー(X,Y),(X,Z)で勝敗を見ると、Xがすべて負けるにも関わらず、多数決では第1位になることがある。ボルダはこれを「ペア敗者」と呼んだ。本書には書いていないので、私にはこのような場合の起きる確率は全組み合わせのどの程度なのかはわからない。そこでペア敗者を選ぶ可能性を阻止するために次のような「ボルダルール」という投票方式を考案した。それは投票者に第1位から第3位までの候補者を記入してもらい、第1位には3点、第2位には2点、第3位には1点を加点して(スクアリングルール)、総和で全体の順位を決めようとするものである。多数決では隠されていた第位2以下の順序も考慮する方式である。この方式は、「ペア敗者」を避ける「ペア敗者基準」を満たすという。ボルダのスコアリング方式は1点差で行うことに数学的な本質があり、それ以外の恣意的な点数のスコアリングではペア敗者基準を満たさないことが数学的に証明されている。現代において「ボルダルール」を適用した例として、1996年のスロヴェニアの国会議員88名の選挙においてボルダールールが適用された。ナウルでは、1位に1点、2位に1/2点、3位に1/3点とするスコアリングルール(3:1.5:1の比に同じ)が使われている。ほぼボルダールールと同じ効果である。キリバス共和国では大統領選において、国会で3名の大統領候補を選出し、一般投票で多数決で大統領を選出する方式がある。一見よさそうな方式に見えるが、第1段階で党派の組織票が裏で結託し、国会での候補者指名を事前調整する可能性がある。これをボルダールールのクローン問題と呼ぶ。国会で大統領候補者全員に○か×をつける是認投票も組織票による裏工作が行われやすい。要するに国会における党派組織票の事前工作が考えられる場合は干渉を受けやすい。ボルダールールと言えど個人の意思の表現ではない、党派のクローン問題には無力である。

2)  代替案の考案の歴史ーコンドルセのパラドックス

1789年のフランス革命後ロベスピエールの恐怖政治によってギロチンの露に消えた「啓蒙主義的知識人」に、ボルダ―と同じパリ王立科学アカデミー書記のコンドルセ(1743−1794)がいた。彼が反革命であった証拠はないが、政敵であったから抹殺されたのだろうか。コンドルセはボルダの論文を高く評価したが、1785年「多数決による決定の蓋然性への解析の応用」を公刊して、独自の集約ルールを発表した。ボルダルールはペア敗者を阻止するためにあるが、コンドルセはボルダールールもスコアリングルールも不十分であると批判したうえで、「ペア勝者」を選ぶべきだと主張した。他のどの選択肢に対しても、多数決で勝つ選択肢を「多数側の意志」を反映した選択肢であると考えた。これを「ペア勝者基準」を満たすという。多数派の判断を尊重し、それを体現するペア勝者基準を集約ルールの中心に据えたことがコンドルセの目的であった。ただ多数決を使うと「票の割れ」に弱くなり、多数側の判断を尊重できないという趣旨ではボルダ―もコンドルセも同じ見解である。当然のことであるが、多数決がダメになるのは選択肢が3つ以上の時であり、選択肢が二つなら票は割れることはない。いわゆる「ガチンコ勝負」であるからだ。そこでコンドルセは選択肢が3つ以上の時には、2つづつ取り出してペアごとの勝負を決め、その結果によって全体の順位を決めようとした。例えば選択肢がX,Y,Zの3つで、投票者は3位までの順位を示してもらうと、第1位の結果がX>Y>Zであるにもかかわらず、ペア勝者解析でZがXに勝つという場合が生じる。いわゆる3つ巴のサイクル循環が発生する。これを「コンドルセのパラドックス」という。コンドルセはこの可能性は低いといって棄却する。これを「コンドルセの方法」という。ところが選択肢が4つ、5つとなると棄却する数は2つ、3つとなり、集約ルールは機能しない。これを決定不能問題という。コンドルセの死後集約ルール研究は途絶えた。1958年になってイギリスのダンカン・ブラックはコンドルセの方法に注目した。1988年米国ミシガン大学のベイトン・ヤングは数理統計手法による「コンドルセの投票理論」という論文を書いた。ヤングは、コンドルセは言葉にしてはいないが、最尤法という統計的手法から選択肢全体への順序を導こうとしたと論じた。最尤法という統計的手法は1910年フィッシャーが考案した手法である。最尤法による決め方は、選択肢の2つのペアごとの多数決からデータを集め、サイクルがなければ整合性があるとする「ペア勝者基準」を満たす。サイクルがある場合、それは不整合であるが、真のデータとのずれを最小とする方法が一番真実である可能性が高い順序を決めるのである。誰が勝者かは分らないが、勝者を暫定的に決めて逆算しデータのずれが一番小さいケース場合それを真実と認定するのである。このやり方を「コンドルセ・ヤングの最尤法」という。そしてそれは同時にペア勝者基準をきちんと満たすことを証明した。様々な集約ルールの結果が異なることを5つのルールについて示した「マルケヴィッチの反例」がある。有権者は55名で選択肢は5つで、@多数決(通常選挙)、Aボルダールール、Bコンドルセ・ヤング最尤法、C決戦投票付き多数決(自民党党首選)、D繰り返し最下位消去ルール(オリンピック候補地選挙)の5つの方法で、結果はさまざまに見事に違う。民意という言葉はよく使われるが、この反例を見ると、どこに民意があるのか判断に苦しむ。選挙で勝った政治家は自分は民意を代表するかのようにふるまい、自分の政策がすべて信任されたと考えるのは、全く異様なことである。民意を具現する選挙法を探索することではなく、集約ルールが充たす基準を吟味することが大切である。ペア敗者基準やペア勝者基準は、票の割れからくる歪に対する耐性の基準である。ペア敗者基準を満たすのは、決選投票付き多数決、繰り返し最下位消去ルール、コンドルセ・ヤングの最尤法、ボルダールールである。こうしてみるとペア敗者基準は比較的満たしやすい。一方ペア勝者基準はコンドルセ・ヤングの最尤法しか満たさない。そもそもボルダのスコアリング加点方式は選択肢の全体の中の位置を重視する方針であるから。ペアでの勝負を考慮していないから当然であると言える。ペア勝者基準を緩めて、勝者が最下位にならなければいいに改めると(これを「ペア勝者弱基準」と呼ぶ)ボルダルールはこの「ペア勝者弱基準」を満たす。するとボルダルールとコンドルセ・ヤングの最尤法が極めて有力である。棄権する人がいても結果に影響しない方法を棄権防止性基準という。ボルダルールは危険防止性を持つ。ということで筆者はボルダールールが総合的に一番望ましいと評価した。FIFAワールドカップサッカーの予選トーナメントは勝利3点、引き分け1点、負けは0点と加点するスコアリング方式である。

3) 正しい判断は可能かー正しい民意とルソーの理想

真実は神のみぞ知るとしても、人間の理性による判断が正しい確率が0.5以上ならば、多数の人間による多数決は真実に近づくことができる。それには2つの条件が必要である。一つは情報が適切に与えられて理性が働くことができる、2つは自分の頭で考え、その場の他人の考えに影響されないことつまり統計的に独立であることである。例えば3人の陪審員がいて、被告の有罪か無罪かを投票で決める場合を考えよう。一人の人間が考えた判断の正解率はv=0.6であるとすると、3人の正解間違いの組わせはは8通りであるので、各々の事象確率を計算し、多数決で正解(この場合は2人が正しい場合)となる確率の総和は0.648になる。こうして多数決による正解確率は陪審員の数nが増えるにつれて上昇してゆく(n=100人なら多数決による正解率は1に近くなる)。このトリックは一人の判断の正解率をv=0.5以上と置き、かつ多数決は0.51以上で決まるから当然のことである。これをダンカン・ブラックは「陪審定理」となずけた。コンドルセの偉大さは多数決という社会制度の評価に統計の法則を採用したことであるといえる。ここで法案の賛否を表明する投票において、有権者の理性判断について考察しよう。コンドルセは「これは私自身ではなく、全員にとっての問いである。自分自身の意見から抜け出て何が理性と真理に適合するかを選ばなければならない」と述べている。つまり自分が関わる公的な利益への判断が求められていると読むべきである。このコンドルセの言葉はルソーの言葉を踏まえて書かれていることは確かである。ルソーは「社会契約論」において「人民集会に法案がかけられているとき、人民に問われているのは彼らがそれを認めるか否かではなく、問われているのはその法案が人民の意志である一般意思に合致するかどうかである」という。ここで「一般意思」を人々の共存と相互尊重を志向する意志」と捉えると、コンドルセとルソーの意図は一致する。だから多数決においては結果に従うべき正統性が求められる。ジャン・ジャック・ルソー(1712−1778)はフランス革命の思想的な象徴であり、「社会契約論」を著して人民主権の原理を突き詰めた。互いを対等の立場として受け入れ合う社会契約は共同体に発展し、共同体にすべての権利を委託して結束する。これが契約行為である。この共同体を人民という、そして束ねた権利を主権という。人民に主権は属するのでこれを人民主権という。一般意思とは、個々の人間が自らの利害を離れて意志を一般化したもので、多様な人間からなる共同体が必要とするものは何かを探ることである。熟議的理性の行使それを意志の一般化と呼ぶ。一般意思を全体主義や国家主義的に捉えるのは誤りである。主権とは立法権のことである。人民とは社会契約によって生まれた分割不可能の概念上の共同体を指すのであって、一般意思とは人民のなかに存在するものではなく、個々の人間が、自らの精神の中に見つけてゆくものである。立法とはそのような行為であり、構成員全員が参加する集会で、各自がたどり着いた判断を投票し多数決で判定する。一般意思は自らの意志である故、それが定める法に従うことは、自ら定めた法に従うことである。これがルソーの展開した、少数派が多数決で決めたことに従う正統性の根拠である。しかし人々の利害対立が鋭く、意志が一般化できない(容易に共通見解に達しない)対処は、そもそも投票の対象にはならない。それは闘争の対象である。では多数決による少数者の権利の侵害を抑えることは可能であろうか。防御策として多数決により上位の審査機構を持つこと、複数の機関で多数決を掛けること、多数決のハードルを高く(2/3以上の賛意を必要とするなど)することである、民主的手続きを踏んでいても多数派の暴走により社会的分断がおきることがある。これは民主主義ではなく、多数派主義である。多数派はフリーハンドを持ったと誤解し、横暴な立法・行政を行う。これにより自由の侵害が起きる。社会契約により共同体の構成員は、道徳的自由と市民的自由を得るが、欲望による支配と力への服従という契約以前の状態の戻ることがある。その時社会は分断され、立法は一般意思に根拠を持たなくなる。「代表制民主制において〈議会民主主義)自由なのは議員を選挙するまでで、選挙が終わると人民は奴隷になる」とルソーは警告する。ルソーの社会契約と代表制は矛盾関係にある。この代表制の下での道徳的不平等は、社会契約の根本的特徴である対等性に違反するのである。ルソーは人民主権の辺性原理を徹底的に追及して、代表制とは非妥協的になった。代表制の下で代議士を選挙する争点が有限個あるとして、各争点ごとに支持政党を決める代表制と、各争点で綜合的に好ましい人に投票する直接制では結果が異なることがある。これを「オストロゴルスキーのパラドックス」という。国民が直接立法するルートが皆無で、政治家の世襲が多く、巨大な組織力を持つ2大政党制にあって、巨大企業に影響されやすい社会の政治体制をポリアーキ(多数派支配)と呼ぶ。一見民主的体制であるが、選挙によって政治は多数派に支配されやすい。これを民主的と言えるだろうか。ルソーの問いの本質はそこにある。

4) 可能性の境界へー中庸の原理とアローの不可能性定理

コンドルセは直接民主制を説くルソーの人民主権論を強く意識していたが、それでもジロンド派の憲法草案では代表制を採用した。アメリカのような連邦制は国家は共同体としての連帯感が難しいとして、共同体は分割不可能dという見解からフランスは共和政でなければとという見解であった。確かにルソーの社会契約論から離反するようだが、議場が調和を求め意見が満場一致に近づくなら代表制に一般意思を見出すことはできるとした。有権者と代表との関係は「信託」(人としての判断力を信頼)と「代理」(利害代表)に分類できる。明確な政治課題に対する選択肢が複数あるときには、よく熟議された意見は3段階か5段階に纏められる(3段階なら穏健、中間、強硬に分類)。順序付けをすると一つの見解を中心に山形をなしやすい。これを単峰性という。段階的に穏健から強硬まで増加する場合や、その逆の順序も単峰である。絶対的な順序ではなく、中心となる見解を真中に置いた配置を中立性、中位ルールという集約ルールである。人は中庸を選びやすいのである。この方法の難点はまず票割れに対して脆弱だということと、当然のことながら右へ引っ張るか、左へ引っ張るかの意図をもって強硬論を建てる戦略的操作に弱いのである。単峰性の下で中位選択肢の利点はペア勝者になっていることである。選択肢が奇数の時はペア勝者原理は揺るがない。これを中位投票者定理と呼ぶ。著者は単峰性の下での中位ルールはコンドルセの方法がベストだという。中位ルールはペア勝者を選択する集約ルールであり、耐戦略性の他、棄権防止策をも満たす。しかし選択肢が偶数のときにはサイクルが発生する可能性があり、選択肢が多くて単峰性が崩れると望ましい条件は何一つ成り立たない。ペア勝者にこだわると、選択肢XとYの対決に他の選択肢は影響を与えないという「二項独立性」を要求する。そのような集約ルールは存在しないということを「アローの不可能性定理」という。本書で扱ったいかなる集約ルールも「二項独立性」を満たすことはできない。アローは「二項独立性」と満場一致性を満たす集約ルールは、独裁制しかないと主張する。なかなか意見をまとめられない民主制の隙間から、「効率よく決めてやろう」と独裁制が現れてくる危険性を警告している。ギバート・サタスウエィトや村上泰亮らも同じ不可能性定理を述べている。(大阪維新の会の橋本代表はこの独裁制を標榜している) 中位選択肢がペア勝者になると発見したダンカン・ブラックは、政治における選択行動の数理モデルを建てて分析する「実証政治理論」を生み出した。アンソニー・ダウンズの「二大政党論」において、有権者は政策論争(熟議)を通じて単峰的な順序付けに従って投票する。やや穏健の民主党と中位の共和党はどちらも中庸路線であるが、より強硬な政策論(戦争)が出ると中位の位置は共和党へ移動し、より穏健な政策論(和平)がでると中位は民主党に移行する。こうして政権交代が繰り返されというメカニズムになっている。コンドルセ流の熟議効果により、論点を明確にして、選択肢への人太の順位付けを単峰的にする作用があり、これを「メタ合意」と呼ぶ。しかしメタ合意が採れない、政策の差異が鮮明で合意はできないような法案の審査では、例えば憲法改正のルールをどうするかが重要問題になる。単峰性の下での中位投票者定理はあくまで争点が一次元の時のみ成り立つ結果である。憲法改正となると抽象的内容で、かつ争点が多数の次元に及ぶ。ペア勝者原理にサイクルが発生し、はたして過半数の国民の賛成(日本国憲法第96条では改正は衆参両院で2/3以上の賛成と、国民投票で過半数の賛成が必要)で正当性があるのか、国民を分断することにならないかという懸念が生じて当然である。ルソーは「重要なものほど満場一致に近づくべし」という。サイクルの除外を目的としたアンドリュー・カプリンとバリー・ネイルバフの研究は、1988年「64%多数決ルール」を発表した。「64%多数決ルール」では日本国憲法の改憲のハードルが低すぎるという。衆参両院での2/3以上の賛成はある意味では容易なのである。なぜなら2014年の衆議院選挙で自民党は全国で約48%の支持で約78%の議席を獲得した。これには小選挙区制で第1位というのは、過半数を獲得しなくても当選するからである。2913年の参議院選挙でも、自民党は選挙区で約43%、比例区で約35%の得票率で、約54%の議席を獲得した。だから過半数の有権者が改憲を望むなら可能である。選挙で衆参両院で2/3以上の議席を獲得し、両院が改憲の国民投票を認めたら、国民投票で改憲は可能である。第96条の国民投票の可決ラインを、64%程度まで引き上げるべきであろう。衆参両院選挙で過半数に満たない有権者が、2/3以上の議席を獲得できる少選挙法にこそ、とんでもないマジックが潜んでいるである。しかも浮動票がどちらに流れるかで、自民党と民主党の大勝利が逆転するのである。浮動票は新聞・テレビで誘導することができることが分かっている自民党はメディアへの締め付けを強化している。


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