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ポアンカレ著 河野伊三郎訳 「科学と仮説」
岩波文庫(1938年)

科学の諸分野で「仮説」の果たす重要な役割

ポアンカレ

ジュール=アンリ・ポアンカレ(1854年- 1912年)はフランスのナンシーに生まれた。フランス第三共和制大統領・レーモン・ポアンカレはアンリの従弟にあたる。リセ・ナンシー、理工科学校、パリ国立高等鉱業学校 で学んだフランスの数学者である。数学、数理物理学、天体力学などの重要な基本原理を確立し、功績を残したといわれる。鉱山技師団、カーン大学、ソルボンヌ大学、経度局に勤め 、教鞭をとった。主な業績として、ポアンカレ予想、三体問題、トポロジー(代数的位相数学、位相幾何学)、特殊相対性理論 があげられる。位相幾何学の分野では、トポロジー概念の発見や、ポアンカレ予想など、重要な活躍をしている。また、フックス関数と非ユークリッド幾何学との結びつきについての数学的な発見をした際に、その過程の詳しい叙述を残して、その後の数学研究の心理学的側面の研究にも影響を与えた。その他、ヒルベルトの形式主義に対する批判をして、初期の数学的直観主義の立場を表明した。電子計算機がない時代にカオス的挙動について言及した点でも特筆され、後に「バタフライ効果」と呼ばれる予測不能性などが著書の中で触れられている。広範な範囲で生産的な活動をしたが、今日からみるとその論文には多くの不正確な部分があるとされるが、何よりも直感を信じるポアンカレの立場は「数学者とは不正確な図を見ながら正確な推論のできる人間のことである」という彼の言葉が示す通りであった。そういう意味で本書「科学と仮説」はポアンカレの思い込み(将来の見通し)の重要性を強調する書であるといえる。主な著書には、常微分方程式―天体力学の新しい方法 (1893)、科学と仮説 (1902)、科学の価値 (1905)、科学と方法 (1908)、科学者と詩人 (1910)、晩年の思想 (1913)などがある。ポアンカレは傑出した科学者であったし、常に先を見続けていた。数学ではポアンカレの創建した位相幾何学が今日目覚ましい進歩をしているし、物理学ではアインシュタインの相対性理論や量子力学の前の人であったにもかかわらず、相対性理論に鋭い慧眼を持っていたといわれる。数学と言えどすべてを証明出来るわけではないので、証明なしに公理から出発しなければならない。では公理は何かといえば、それは自明の真理ではなく仮説である。仮説にはいろいろあるが、経験と直感の世界であるとポアンカレは考えていた。仮説は科学者の世界観を反映しているので、哲学上の問題と言われるが、ポアンカレ自身はカントの「純粋理性批判」の「綜合判断」に相当すると考えていたようである。物質の性質を考える「分析判断」と並んで、「綜合判断」は物質の重さを感じ取る「経験」から生まれるとした。しかし経験によらない綜合判断もあって、それを「先天的綜合判断」という。特に数学では定理はこれらの判断の好例である。無限ということは経験では確かめられない事項である。本書の第1篇第1章で、ポアンカレは「数学的帰納法」を先天的綜合判断の典型であると見ている。有限から無限への道筋をつけないと数学は成り立たない。ワイルという数学者は「数学とは無限を扱う科学である」と言っている。第2章では連続と量を扱う。数学的連続は大小関係を絶対的に定義することである。第2篇第3ー5章では非ユークリッド幾何学がいかようにも可能である。ユークリッド幾何学の公理は先天的綜合判断ではなく、それは定義に過ぎないという。第3篇は力とエネルギーという物理学を論じている。ユークリッド幾何学に対して非ユークリッド幾何学ができたように、ニュートン力学に対して相対性理論や量子力学ができた前夜の状況が述べられている。第4篇は原因―結果論のニュートン力学とは違う物理学の原理について述べられている。第10章のエーテル力学の考えは今日ではすっかり放棄されたが(場の理論に替わった)、ポアンカレはエーテル論を展開しているので違和感は否めない。第11章で確率論を考察して、量子力学の論理を提出した。第12章、第13章は電磁気学を述べているが材料が古いので歴史的興味から見なければならない。当時の科学者が岐路に立ってどう選択してきたがわかる。ポアンカレの思想は古典(テキスト)として読めば、現在もなお新鮮である。

ポアンカレが「科学における仮説の重要性」を力説して止まない理由〈科学の現状)を、本書の「序文」で説いている。科学の真理は疑いの余地はないとか、数学上の真理は少数の自明な命題から欠点のない推理の鎖で導かれるといった科学の確実性を信じる表面上の理由は本当に確かなことなのだろうか。しかし少しでも考えると仮説の占める領域がどれほど広いかが分かる。数学者は仮説なしではすまされないし、実験科学者はなおさらだということも分かった。科学の基礎は果たして堅固なものであるかについて考察したならば、仮説の役割を念入りに調べなければならない。実験によって確認された実り多い仮説と、定義や規約の扮装をつけた仮説がある。数学ではことに多い。これにより数学は厳密性を得ているのであるし、この規約こそ自由な発想から矛盾なく導かれたものである。経験は我々に自由な選択を許しているが、最も妥当な選択を導き出すのも我々の理性の活動である。ただきまぐれによって作られた規約は無力である。数学の推理の本質は演繹的であるよりも帰納的な性質が重要である。そのことで厳密性を失うことはない。数学的量の概念は経験とはかなり異なることは、本質を壊さず新たな枠組みを作る事であった。非ユークリンド幾何学は、幾何学の規則が規約に過ぎなかった明らかにした。力学の原理ははるかに経験に基づいているが、物理学の歴史からその理論の寿命は極めて短いことを知らしめる。なお残るものに真の実在が宿るのである。因果律が通用しない確率の世界にも科学としてなお成立する法則があることが見いだされた。こうして各分野の仮説の検証を行おうというポアンカレの「科学と仮説」が始まる。



第1篇 「数と量」

第1章 数学的推理の本性

数学が演算的で完全な厳密性を有するということは、形式論理学の命題規則によってもたらされるのではない。形式論理学は「AはAである」(同一律)という3段論法推理に終始しており、何ら新しい公理を展開するわけではない。つまり同義反復に過ぎない。証明の内に新たな公理を取り入れない限り、どの定理も新しいとは言えない。ポアンカレは前に知られた命題を一般化する意図をもって、数学的推理を創造的な行為に変えようとしている。分析的方法は一つの真理の繰り返しであるので、無力である。ここに整数を定義するライプニッツの定義がある。1+1=2であることから始まり、2+1=3, 3+1=4…と定義してゆく 。すなわちxなる数とx+1が定義されている。すると2+2=(2+1)+1=3+1=4となることが証明されるというのである。これは証明と云えるのであろうか。検証に過ぎないのである。検証が純粋に分析的であるから、何も生み出さない。延々と検証を続けることになるだけで、一般化(抽象化)しないのである。これは証明ではない。証明によって新しい定義が生まれ、次の定理の前提となるという風に進まなければならない。一般的なものについてしか科学は存在しない。ポアンカレは数学者のやり方を、高尚な整数論や微積分ではなく、単純な算術(代数)を取り上げて説明に入る。つまり四則演算の定義と性質を述べる。一つの数xにaなる数を加える定義であるが、aの一つ前の数a-1についてx+(a-1)が定義されていれば、x+a=[x+(a-1)]+1と定義する。これによりx+1,x+2,x+3が順次検証される。そして加法の性質として結合則 a+(b+c)=(a+b)+cが成り立つことを、c=1で成り立つことを確認して、c=rに対して結合則が成り立つならc=r+1でも結合則が成り立つことを示した。この方法を「出直し法」と呼ぶ。交換則 a+b=b+aもこの出直し法で証明される。乗法の定義を、a×1=a、a×b=[a×(b-1)]+aとする。乗法の分配則 (a+b)×c=(a×c)+(b×c)、交換側a×1=1×a、a×b=b×aも出直し法で証明される。この出直し法をまとめると、まず定理はn=1に対して成り立つことを証明する。そしてもし(n-1)について定理が真ならばnについても真だということを示す。それから定理はすべての整数nについて真だと結論する。代数的計算は論理学よりもはるかに応用のきく変換法である。だからこれは最高度の数学的推理である。この「出直し法」は有限から無限に渡りをつける道具となるのである。数学的無限の概念が微分積分にはたした役割は計り知れない。物理学における帰納法はいつもあやふやであるが、数学学的帰納法、すなわち「出直し法」による証明は必然的に同意を要求する。何故ならそれは理知(理性)自身のひとつの特性であるからだ。数学は自分おえた命題をいつも一般化しようとする。すなわち、a+1=1+a、a+2=2+aよりも、a+b=b+a二報が一般的で使い道が広汎であるからだ。この帰納法は同じ演算を際限なく繰り返せることを必然と考える。

第2章 数学的量と経験

この書は数論について述べたもので、数学者が数の連続についてどう考えるかである。つまり解析学についてである。吉田武 著 「虚数の情緒ー中学生からの全方位独学法」(東海大学出版部 2000年)に詳しく述べているので、概略を参照してほしい。自然数→整数→有理数(分数)→無理数→実数→超越数→虚数という流れである。数学的連続とは切断できないことで、点より線という集合に存在する。数学的連続は物理学や形而上学の連続とは別のものである。無理数はクロネッケルは分数と無理数の集合を考えたが、数学的連続は純粋に理知の創造であって、経験は何の関係もない。数学は物理学と違って対象そのものを研究しない。対象間の関係であって、対称を置き換えるこにとは無頓着である。デデキントが無理数を定義した。物理的連続とは、二つの数の差異を測定しうることが前提である。これに対して数学的連続の概念とは、理知の力で創造されたのである。連続には3段階の定義ができる。第1段階とは偶数と整数全体の集合は等しいので、整数の2つの間に中間の有理数の項を入れ続けることができる。これが第1段階の数学的連続(無限)である。第2段階の連続とは有理数の間に無理数を挿入することである。クロネッカーは2つの有理数の組みの共通な境界と見なされる無理数があると考えた。ここまでは数の大小関係で順序づけてきた。ところで2つの項をとってその間隔εというものを測らなければならない。εをn個に分割することができ、εを無限小にしてもなお新たな項を挿入できる。これが第3段階の連続(連続関数)を定義できる。これが位相解析(限りなくのレベル)と呼ばれる。こうして定義された連続に量の測定を導入した時、はじめてその連続は空間となり、幾何学が生まれる。



第2篇 「空間」

第3章 非ユークリッド幾何学

あらゆる結論には前提がある。演繹的科学、特に幾何学は証明しえないある一定の公理からスタートする。幾何学は次の3つの公理が有名である。@2点を通る直線はただ一つしかない、A直線は2点間の最短距離である、B1点を通り与えられた直線に平行な直線はただ一つである。この第3の公理が「ユークリッドの要請」と呼ばれている。このこうりは2000年以上破られることはなかったが、19世紀の始めにロバチェフスキーとボヨイはこの公理は証明できないことを明らかにして、リーマンも新たな幾何学を打ち建てた。ロバチェフスキーの幾何学とは、第3の公理を破棄して、1点を通って与えられた直線に2個以上の平行線を引くことができることから出発する。ユークリッドの命題とは何の連関もないが、論理的連結が劣るとか矛盾した内容はない。ユークリッド幾何がくとは独立した幾何学である。例えば、三角形の内角の和はいつでも二直角より小さいとか、与えられた図形に相似で、大きさの異なる図形を作図することはできないとか、円周をn等分する分点で接線を引くと、円の半径が十分小さければ外接多角形を作るが、半径が十分に大きければ接線は交わらない、などの特徴を持つ面白い幾何学である。リーマン幾何学とは、空間に二次元しかなく、かつ球面図形の上に点があるとする。直線とは大円の弧のことである。すなわち球面幾何学である。第3の公理だけでなく第1の公理も破棄する。2点を通る大円は一般には一つだけであるが、 2点が直系の両端である時は無数の大円が引けるという例外がある。するとリーマン幾何学では三角形の内角の和は二直角より大きいとか、与えられた1点を通り与えられた直線に平行な直線は引けないという特徴がある。球面幾何学では曲率が一定で、図形は折り畳みはできるが伸ばすことはできない。この曲率が一定でも、曲率が正なリーマン幾何学(球面幾何学)と、曲率が負ならばロバチェフスキーの幾何学にほかならない。そいう意味で二次元の幾何学ではリーマン幾何学もロバチェフスキー幾何学もユークリッド幾何学と結びついている。幾何学に述べてある公理だけが基礎であろうか。ユークリッド、ロバチェフスキー、リーマンの公理は違うが、3者の幾何学に共通な命題(暗黙の公理)が含まれている。例えば図形の合同の定義である。2つの図形を重ね合わせることができるという定義には、移動の途中で変形しない理想的な固体(剛体)の性質を暗黙の了解(自明)がある。はたして自明であるかには答えていない。重ね合わせるとはどういう手続きなのか全く明示されていない。直線の定義も曖昧模糊である。作図で1点から直線に垂線を下すことができるのだろうか。曖昧なまま三角形の3本の垂線は一点で交わる証明(垂心)をやらせている。一角が鈍角なら三角形の外で交わる虚の垂心もあるのに。数学の授業で先生にこのことを疑問として質問すると、先生は答に窮して壇上で立ち往生するであろう。ユークリッド、ロバチェフスキー、リーマン以外に第4の不思議な幾何学を矛盾を含まないで創設することはできる。明示しないで導き入れている暗黙の公理の数は必要以上に多い。そこでこの数を最小限に止めようとする試みがヒルベルト氏によってなされた。リーは最終的のこの論争をまとめた。@空間はn次元を有する A図形を変えない運動は可能である Bこの図形の空間の入りを決定するにはp個の条件が必要である、これら3つの前提の下で成立する幾何学の数は有限であるという。これを「リーの定理」と呼ぶ。ヒルベルト幾何学では「非アルキメデス幾何学」を提唱した。アルキメデスの公理を破棄すると無限の点の挿入が可能になって、乗法の交換則は成立しない。ヒルベルト著 中村幸四郎訳「幾何学基礎論」(ちくま学芸文庫 2005)に詳しい。ロバチェフスキーの幾何学は決して奇をてらったものではない。三角形の内角の和が2直角になるのは小さな平面上のことで、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例するので、我々がもっと大きな三角形を取り扱うときとか、測定が精密になったら実感するであろうという。するとユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないのであろう。やはり数学の公理の本性は、先天的綜合判断(ポアンカレの直感)であろう。だから幾何学の公理は実験的な真理ではない。様々な幾何学は相対的である。経験の進化の結果ではない。しかしながら「ユークリッド幾何学」は今なお健在なのは、それは一つに最も簡単であるからと、この幾何学は自然の固体の性質と相当よく一致するからである。光線の性質には「射影幾何学」が合っている。

第4章 空間と幾何学

この章は数学というよりは、空間の心理学もしくは空間の哲学といった内容である。外的対象の形象は空間内に位置を定めているが、はたしてこの空間は我々の感覚や表象にぴったりの枠組みを与え、幾何学空間と全く同じものであろうか。幾何学空間とは@空間は連続である A空間は無限である B空間は3次元である C空間は等質である D空間は等向敵である。この幾何学的空間を表象的空間と比較しよう。まず網膜に映る視覚空間は2次元ではない。2次元や3次元にするのはさらに高度の脳細胞の機能である。色彩や4次元の「充足的視覚空間」(経験的事実)はニューロンの高次機能である。視覚や触覚以外に空間の概念をもたらす感覚には「筋肉感覚」があり、運動空間と呼ばれる。運動する筋肉と同次元の次元を持ち、方向の意識、連想という経験の結果である。このように考えると表象空間は等質ではなく、等向でもなく3次元を有するとは言えない。我々は幾何学空間内に外敵近くの対象を射影することで位置を決めている。これを透視画法による空間という。我々の感覚がバラバラに想起する時には空間の観念に到達することはない。それらが相次いで起るときに従うべき法則を研究することで空間の観念に導かれる。目の前で物が移動すれば、眼球が移動し、運動を網膜に焼き付ける。Aの位置の像の集合からBの位置の像の集合が移動したとしても、それは一の変化に過ぎない。直線ベクトルかもしれない。筋肉感覚を伴うことで空間の概念が発生する。人が動くことで空間の概念を獲得する。動かなければ空間はなかった。この位置変化の過程で対象の形態が変化しなかったことを確認するには我々が移動しなければならない。我々の身体に相関的な運動によって、訂正を受ける移動を子粉うものとは固体である。流れる液体の運動は動いているかどうかもわからない。だからもし自然の内で固体というものが無かったら、幾何学も、空間も存在しなかったであろう。この移動という現象の法則性がすなわち幾何学の考察の対象であった。この空間は等質で等方向であることが、幾何学の操作を無限回繰り返すことができる条件の一つをなしている。数学では移動(位置変化)は一つの群をなすという。運動の撮影でコマ送りをする際の形象の群れである。幾何学はこれら固体の形象の継起が従ってゆく法則を要約することがユークリッド幾何学である。ところがもし移動のとき温度の変化によって形象が膨張や収縮をしたならば、変形しながら移動するという運動を非ユークリッド的移動と呼ぼう。一つの大きな球体の表面が絶対零度で、温度は距離の自乗に反比例すると外周で対象の寸法はゼロになる。光の屈折率が距離の自乗に反比例して大きくなるなら、光線は直線的にならず円弧を描くことになる。これらは非ユークリッド幾何学である。ということは、幾何学は決して経験科学ではないと結論される。幾何学は固体の運動の記述である。しかも決して変化しない理想的固体をその対象としている。

第5章 経験と幾何学

第4章では幾何学の原理は経験的事実ではないこと、特にユークリッドの要請は実験によって証明することはできないことを示した。円を描いて、円周と直径の比を測定しπであることを計算したとする。それは何をしたのかというと物差しの材質を調べたに過ぎない。πを計算したのではない。天文学で光線は直線を進むかというと、視差がマイナスならユークリッド幾何学を放棄するのか、光学の法則を変更して光線はまっすぐには進まないとするのか。それでもユークリッド幾何学は実験には無関係である。すなわち直線とは、それを含む図形の各々の点の相互の距離を変えることなく、戦場の点は固定したまま運動することができるという線である。それはユークリッド空間でも非ユークリッド空間でも直線にの備わった性質である。幾何学は充足理由の原理及び空間の相対性の原理を、実験結果のために変えることはあり得ない。任意の瞬間における状態と相互の距離は、最初の瞬間の同一物体の状態と相互の距離によって定まり、最初の絶対的位置及び絶対的方位には少しも関係しない。これを相対性の原理という。このシステムが宇宙であるとすれば、これらの空間における絶対的な位置及び方位については知ることはできない。物体の速度についても同じように最初の絶対的位置や方位に影響を受けることはない。フーコの振子実験によって地球が自転していることを知ったニュートンは絶対空間の存在を経験したというが、ポアンカレはこれを信じなかった。実験は我々に物体相互の連関しか認識させない。物体の空間の位置とか空間の諸部分の連関は知ることはできない。物体の幾何学的性質とは何だろう。空間は同時にユークリッド的でもあり、非ユークリッド的でもある。物体を対象とした実験はあり得ても、空間を対象とすることはできない。空間は三次元を有するというとき、それはどういう意味であろうか。X,Y,Zという座標の方位があるわけでもなく、そのシステムを規定する変数が3つであるという意味である。空間内の点があるとは幻覚である。



第3篇 「力」

第6章 古典力学

イギリス人は力学を経験(実験)科学として捉えている。フランス人は演繹的(先天的)科学と考えている。実用的にはイギリス人が正しいが、科学という枠で考えるとはたして経験がすべてであろうか。実験とは何か、数学的推理とは何か、規約とは何か、仮説とはなにかについて十分議論してるとはいえない。それ以外にも、@絶対的空間は存在しない、A絶対的時間も存在しない、B二つの事象の等しさや同時性の直感を持っていないこと、Cユークリッド空間は規約に過ぎないことを議論していない。すると空間や時間や幾何学さえ力学を縛るものではないことが分かる。ただ絶対時間とユークリッド幾何学を暫定的に認めてもよい。「力を加えられない物体は直線的な等速運動しかありえない」という慣性の原理は先天的な真理であろうか。地球上で実験的経験的に知り得た真理なのだろうか。運動を止める力は限りなく存在する(重力、摩擦、衝突)のに、どうして等速運動を確信しえたのだろうか。慣性の原理を特殊な場合として含むもっと一般的な原理に帰結することができる。この一般的原理とは、「一つの物体の加速度は、この物体と近接する諸物体の位置及びそれらの速度にしか依存しない」ということである。宇宙の物質の運動は第2階の微分方程式に依存すると言い換えてもよい。これが慣性の法則の自然的一般化である。第 1階の運動の微分方程式は「物体の速度はその位置と近傍の物体の位置とにしか依存しない」、第3階の微分方程式は「物体の加速度の変化は、この物体と近傍の物体の位置、この物体の速度および加速度にしか依存しない」ということである。もはや実験はこれを確証しないし、矛盾もないからである。加速度とはその物体に働く力をその質量で割った者に等しいという。キルヒホッフの定義より力F=ma(m質量、a加速度)より、a=F/mということであるが、質量と何か、力とは何かというと、堂々巡りになり、力は運動の原因であると定義するのは哲学である。力を測定するには作用と反作用の法則(ニュートンの第3法則)を介在させる必要がある。もはや実験的法則ではない。ニュートンの作用反作用の法則は実験的法則とみなすことはできない。定義と見なして是認するしかないのである。天体の質量を求めるには引力(重力)をkmm'/r^2という中心力の仮説が必要である。宇宙全体のシステムの重心は等速直線運動だとしてもどうしてそれを測定できるのか。すなわち質量とは計算に便利なように導入された係数である。力学の原理は最初は実験的な真理と思われていたが、これらは定義に過ぎないとしなければならない。力が質量に加速度を掛けた積に等しいとするのは定義による。ニュートン力学は永遠不滅な実験的真理と考えられるのは、仮説という定義であるから原理と矛盾することがあり得ないからである。

第7章 相対的運動と絶対的運動

相対運動の原理とは、任意の一つのシステムの運動は、それを固定した座標軸で表しても、あるいは等速直進運動で動く軸で表しても、同一の法則に従うべきであるということである。孤立した一つのシステムに属する相異なる物体の加速度はそれらの相対的位置及び速度のみに依存し、絶対的な位置及び速度には依存しない。この座標の差が第2階の微分方程式を満足すかどうかである。相対的運動の原理は不思議なほど慣性の法則に似ている。等速直線運動である時のみ真である。コペルニクスはどうして地球が自転することを唱えたのだろうか。もし地球から何も見えないなら、地球が自転していることは分からないはずである。しかし北極におけるフーコの振子の実験によって、人は注意をむけることができた。地球の自転を確証したフーコの振子については、吉田武 著 「虚数の情緒ー中学生からの全方位独学法」の第3部「振子の物理学」に詳しく書かれている。

第8章 エネルギーと熱力学

古典力学の困難から新しい体系に移行した。それがエネルギー論である。エネルギー論はエネルギー一定の原理から生じた。これに決定的な形を与えたのはヘルムホルツであった。エネルギーには2つのエネルギーの定義からなる。一つは運動のエネルギーT、二つは位置のエネルギーUである。自然界の物体が受けるあらゆる変化は次の実験的法則に支配される。@エネルギー恒存の原理φ(T+U)=一定、A二つの時間における2種のエネルギーの差の平均値はできるだけ少ないという最小作用の原理で、ハミルトンの原理ともいう。エネルギー恒存の原理は、さらに科学的エネルギー、電気的エネルギー、熱エネルギーなどの内的エネルギーQも考慮してφ(T+U+Q)=一定となる。又最小作用の原理は?逆t黄な現象に適用されるが、不可逆的現象には満足されない。分子運動論から熱力学が、マイエル、クラウジウスによって建てられた。永久運動を否定したマイエルの原理にエネルギーの恒存の原理を導けるのは科学的な現象だけである。決定論の仮説では、n個の変数から状態が決まるとすると、n個の第1階微分方式を満足する。何かが一定ならば、n個の変数の内p個が独立に変化するとすれば、1次の(n-p)個の関係式しか有しないことになる。この積分こそ我々がエネルギーと呼ぶものである。ところが不決定論の仮説では、クラウジウスの原理は不等式で表される。さて幾何学が実験的科学ではなく演繹的科学であるならば、力学も演繹的科学になるはずである。



第4篇 「自然」

第9章 物理学の仮説

実験は真理のただ一つの根源であることに異論はない。しかし観測するだけでは十分ではない。実験の結果を利用するには一般化しなければ意味はない。事実の集積は科学でないこと、予見できるようになることが重要なのである。事実の発見が実験物理学の役割だとすると、その目録作りが数理物理学の役割である。まずあらゆる一般化はある程度までは自然の統一性と簡単さを仮定している。真理は自然を統一的に見ることができ、できるだけ簡単な形をしているだろうという期待である。しかし自然が簡単だという確証はない。多くの現象は「比例性の法則」にあるだろうと仮定している。y=f(x)という関数において、dy=adxという関係を期待するのである。これは近似的にはy=axという一次関係にあることである。ケプラーの天体運行の簡単な法則も近似に過ぎない。あらゆる一般化はそれぞれ一つの仮説である。仮説の重要性は次の3つに分類される。第1に、偶然に真理を手に入れる人は好運であるが、仮説に基づいて実験を行うことが最重要である。第2にあらゆる可能性の仮説を考慮しなければならない。第3に仮設を一般化することである。数理物理学は複雑な現象を多数の要素に分解することから始める。現象は時間によって記述し、現象の微分方程式を得ることが目的である。一般化は数学的形式によって記述される。観測される現象は時間に沿って同じ様な要素間の法則が支配しているからである。微分方程式の最も得意とするところであるからだ。

第10章 近代物理学の理論

ポアンカレがいう近代物理学は20世紀初頭のころ、まだ量子力学が生まれる前の物理学です。いつの時代でも科学の理論の寿命は短くて、次々と新理論に取って代られる。これを空しいというのではなく、絶えざる進歩のための陣痛の痛みであるといえる。エーテル説を唱えるフレネルの理論は、電磁波の場の理論であるマックスウエルの理論に首座を奪われている。電気的振動、振子の運動、その他あらゆる周期的現象には一つの深い関係が伺える。これはエネルギーの原理や最小作用の原理の帰結とみることができる。光の分散の理論はヘルムホルトの理論、マックスウエルの理論にの出現を予期していた。気体運動論は無秩序から気体の圧力や統計的真理を明らかにした。クーロンの電気流体の理論は今では電子の流れに取って代られた。カルノーサイクルはクラウジウスの熱力学第2法則に取って代られた。そしてエントロピーという抽象的な概念を見出した。エネルギー恒存則の原理のような一般的な定義には、何か変わらない物があるという考えに関係している。力学を運動学に引き直したい理論家は、引力や遠く離れた力を否定したいと思っていた。そこでエーテルという物質的なモノを想定したのである。エーテルを考えたのは力学の欠損を免れるためであった。天体間にエーテルで満たして作用と反作用という力学理論をあてはめたのである。物理学の発展の歴史では、科学は統一と単純に向って進展するという信念があった。ところが観測・経験・実験は毎日新しい現象を提示する。どうしたら電気が普遍的力学観と調和するのだろうかと腐心した人々がいた。光と電気と磁気の3つの領域は以前は分離していたが、マックスウエル方程式によって今は一つの領域に統一された。光は電磁波であるとして統合された。ローレンツ理論は運動している物体の光学及び電気力学全体を、同一の集合に包括することであったが、これに力学的説明は必要としなかった。追求すべきは力学観ではなく、ただひとつの目的は統一であった。

第11章 確率論

機械的決定論の古典力学にとって、確率論とはなじみがないかもしれないとポアンカレは断りながら、物理学における確率論の重要性について語る。物理学者は帰納によって推論するたびに、ある程度確からしさを計算している。確からしさとはこの事象に都合のよい場合と総数との比である。この不明瞭ではあるが確からしい直感を除いては科学は不可能になる。自覚しないで確率論を用いているだけのことである。気体運動論において平均の現象は本質的である。ゲイリュサックの法則もこれなしには成り立たない。理由は複雑すぎて分らないが、現象は「大数の法則」に従うのである。2体問題さえ解けない古典力学より、多体現象は実用上はそれで十分である。不確実な科学に対する無知の深さによって確率は3段階に分類される。@数学の確率、A物理の確率、B複雑な事象の結果から原因を引き出す「原因の確率」の3つである。数学の確かさに比べると物理学では、法則は明らかであるが最初の状態(初期条件)が何もわからないという問題である。遊星の運動がそれである。原因の確率とは原因の事後確率である。プロットから最小二乗法によって関数形(原因)を予測することがそれである。誤差論は直接に原因の確率に結び付いている。我々が多数の測定を行うとき、測定値の平均をとるとき誤差は弱められる。これを付随的誤差という。系統的誤差はガウスの法則には従わない。出発点において仮説なり規約なり、いつでもある程度の任意性を容認するものを認めなければならない。充足理由の原理、連続性の信念がそれである。

第12章 光学と電気学

光の波動論であるフレネルの光学理論によって物理学は進歩した。数学理論は物理現象の本質を明らかにするというよりも、物理法則に座標(定まった場所)を与えることが目的である。エーテルという便利な力学仮説は放棄されるに至った。フレネルの法則はマックスウエルの電磁波理論の出現によっても存続した。光学と電磁気学を結び付けたのはマックスウエルである。この理論は電磁気の力学的説明を与えない。光学的現象は電磁気学現象の特殊な場合に過ぎないことを明らかにした。電磁気学理論から光学理論は導き出せるが、この逆は容易ではない。あらゆる物理現象の測定には一定の媒介変数が必要である。m個の分子の物理現象をq個の変数の方程式で表すには、力学の原理、中でもエネルギー恒存の原理(T+U一定)と最小作用の原理に適合しなければならない。ラグランジェの運動方程式を得なければならない。

第13章 電気力学

今では、「電気力学」という言葉は使わない。ここに書かれている内容は電気回路とはフレネルの右手の法則などである。電気とは電子のことである。アンペールの理論とはオームの法則のことである。閉じた電流では、2つの回路の電気力学ポテンシャルが存在し、これは両者の電流の強さの積に比例し、電気力学的作用の仕事ははこのポテンシャルの変動に等しいとか、閉じたソレノイドの作用はゼロであるとか、一つの回路がヴォルタの回路に与える作用は磁気力にしか依存しないとか、回路が移動した時の電気力学的作用の仕事は。回路を横切る磁束の増加分に等しいとする知見が得られた。ファラデーの実験はモーターの原理である磁石の連続回転によって、コイルに電流が流れることを見出した。これによって電気と磁気は統一された。面が違うだけのことである。ヘルムホルツはアンペールの仮説を次のもので置き換えた。電流の2つの要素はいつでも電気力学的ポテンシャルを生じる。それらの要素の位置と向きにのみ依存し、一方が及ぼす仕事はそのポテンシャルの変動に等しいとした。ヘルムホルツの理論はアンペールの理論を一層進歩させた。電磁の場と呼ばれる電気力学の習性が行われた。こうしてマックスウエルの電磁波の統一場理論が生まれた。そしてローレンツ理論、アインシュタイン理論によって場の理論は洗練された。


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