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水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人ー歴史と現在」
岩波新書(2015年1月)

植民地時代の在日朝鮮人社会の形成から、戦後70年の歴史と在日三世の意識の変化を追う

私はこれまで在日朝鮮人の問題に関する書物として次の3冊を読んだ。
@ 外村大 著 「朝鮮人強制連行」 岩波新書(2012年3月)
A 小熊英二・姜尚中 編 「在日一世の記憶」 集英社新書(2008年10月)
B 金賛汀 著 「朝鮮総連」 新潮新書(2004年5月)
1910年の韓国併合からすでに100年以上が経過し、2015年は第2次世界大戦における日本の敗戦によって朝鮮が植民地から解放されて70年、日韓の国交正常化が決められた日韓基本条約から50年という節目の年である。いまなお日本と南北朝鮮の問題は少なくない。政府高官の靖国神社参拝問題などの歴史認識に関して、現在日韓・日中の近隣諸国間の関係は悪化したままである。これには敗戦という悪夢から解放されたいという自民党保守派安倍政権になって右傾化が著しい政治情勢が影響していることは明白である。ほかにも従軍慰安婦問題、竹島帰属問題など日朝の政治問題はあいまいなまま放置されている。いま日韓関係は国交正常化以来最悪ともいえる状況にある。大阪での「在日特権の廃止を求める会」のヘイトスピーチは、醜悪な差別主義者、ネット右翼の横行の証左である。このような無理解や偏見が日本政府の右傾化と密接に関係していることは明白な事実である。どの先進国でも植民地支配のマイナスの遺産として、植民地の移住民を大量に抱え込んでいる。多民族国家に日本もなりつつある昨今、在日朝鮮人という言葉の持つ偏見と差別観を捨てるべき時期にあるといえる。これを「グローバル化」とか「五族協和」というきれいごとで包み込むことは、やはり過去を直視することで未来を切り開く態度ではない。本書はそのような目的で書かれた在日朝鮮人の歴史と現在の書物である。本書は水野直樹と文京洙の二人で執筆されているので、分担を示すと前半第1章と第2章は戦前(植民地時代)の在日朝鮮人社会の形成のことを、戦争動員した日本側より描いたもので、水野直樹氏が執筆した。後半は戦後から現在までの第3章、第4章と終章を、在日朝鮮人側より描いたもので、文京洙氏が執筆した。水野直樹氏は現在京都大学人文科学研究所教授で、専攻は朝鮮近代史、東アジア関係史である。文京洙氏は現在立命館大学国際関係学教授で、専攻は政治学、韓国現代史である。

外村大 著 「朝鮮人強制連行」 岩波新書(2012年3月)は戦前の植民地時代の朝鮮人労働力動員計画の全容を明らかにしている。日本の朝鮮植民地支配は、1906年日本が李朝朝鮮の外交権を奪い保護国化して、伊藤博文が初代韓国統監として赴任したことに始まる。さまざまな苦痛を与えたことについては、1995年8月15日村山首相は談話でつぎのような反省と謝罪の辞を述べた。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、おおくの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ちなからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらめて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念をささげます。」 まず日本の朝鮮植民地化の歴史を認めることからスタートする。ここでも「日本は朝鮮を併合してはいない。朝鮮が条約で日本の庇護下に入ってきたのである」とシラをきるような意見をいう人もいるが、それは無視しよう。武力を背景とした併合条約をむすんだことは確実だから。なかでも第2次世界大戦中の内地へ朝鮮人を送る労務動員政策は食糧供出と並んで民衆を苦しめた。戦時下に朝鮮や中国からつれてきた人々を日本内地の炭鉱や基地作りの土木作業で酷使したという話をここでは「朝鮮人強制連行」という。それが本人の意思に反して行なわれたか、暴力を伴ったかについて本書が答えるのである。なぜ労務動員が朝鮮人に対しては人権侵害を伴ったのか、政府政府および朝鮮総督府は戦争遂行のための生産力増強にはならなかった政策を無理やり実行したのかということを1939年から1945年という戦時下の状況から見て行こう。 「朝鮮人強制連行」が行なわれた背景には、日中戦争以降の日本人男性の労働力不足があったこと、労働者の動員は日本政府が1939年以来敗戦まで毎年策定した計画に基づいておこなわれたこと、権力的(暴力的)な要員確保が行なわれたである。政府計画に基づき、本人の自由意志に関り無く、民間企業の誘致採用活動によるものではなく、行政の末端職員と民間人まで動員して行われたことを意味している。つまり国策として実行された戦争動員政策であった。日本内地の日本国民も「国民徴用令」によって動員されていた。しかし植民地朝鮮においては、強制的に時には暴力を伴って実施され、逃亡する朝鮮人もいたという実態において民族差別が露骨であった事を問題視すべきであろう。無論それ以前にも朝鮮から日本へ生活の資を求めて合法的・非合法的に渡日する人は多かった。植民地につきものの生活の向上を目指して宗主国への就労する人の流れは存在したが、なぜ一方では無理やりの朝鮮人労働動員をかけたのであろうか。その矛盾にみちた政策こそ、植民地支配の実情を反映しているのである。その原因を本書で明らかにしてゆくのであるが、結論をいうと内地では植民地の民衆が日本国内に入る事を嫌って、外国人入国許可などの抑制をしていた。日中戦争及び太平洋戦争を遂行するため、厚生省労働局は戦時物質生産のための労務動員を行なった。ところが内地での人的資源も逼迫し、特に労働環境の厳しい炭鉱や土木作業に日本人の就労者が少なかったので、植民地朝鮮からの労務動員に期待がかかった。炭鉱や土建企業の前近代性がより安い植民地特有の奴隷労働を欲したからである。 韓国における「朝鮮人強制連行」問題は、90年代の韓国での民主化以降広くこの問題が提起され、2004年には法に基づいて「日帝強占下強制動員被害者真相究明委員会」が発足した。この委員会は今日「強制労働犠牲者など支援委員会」に引き継がれている。給料未払い、半額強制貯金などの金銭被害を含めて補償の問題が未解決で残された。補償問題では日本政府は軍事独裁政権の朴政権とで解決済みの立場を崩さず、これに応じる気配は無い。韓国での調査が本格化する中、日本の反応は冷淡である。また日本の歴史学会での認識も極めて低い。戦後ドイツのような深刻な反省は聞かれず、あいかわらず「大東亜戦争肯定論」に見られるように、日本の政財界の植民地支配への無反省、無責任は改善されていない。この「朝鮮人強制連行」問題の透明性ある公正な解決なくして、北朝鮮拉致問題も解決しないだろう。本書は1939年から1941年の「労務動員計画」と、1942年から1945年までの国民動員計画のなかでの労働者の動員に焦点をあてた、証言に基づくジャ―ナリスチック手法ではなく、政府関係資料に基づく冷静で抑制の効いた社会史的手法である。政治軍事背景は政策を生む最小限の記述にとどめ、朝鮮総督府統治の実情から来る特殊性と日本政府の動員政策との軋轢を詳らかにする。「朝鮮人強制連行」問題は日本の総力戦の一環の中で行なわれた。朝鮮労働者には軍需物質生産の鍵を握る石炭の採掘や軍事基地の建設という重要任務を割り当てられた。中国人や台湾人への植民地対策とも歴史的・距離的に異なるのである。 日本政府厚生省の労務動員政策はあくまで戦争勝利に向けての合理的(計算上の)労働力配置計画であって、文献上は植民地虐待の事実は見えてこない。しかし朝鮮の実情を無視した机上の計算のつじつま合わせでは、生産性が上がるどころか様々な軋轢や生産性の低下をもたらし行政的にも失敗であった。労働市場における外国人労働者の問題は、社会的なセキュリティとは別に、つねに国内労働市場への外的因子となり企業にとっては労働生産性の低下や労働側にとって配分低下(低賃金)となっている。これは古くて新しい現代的課題である。1945年の日本人口7000万人に対して、在日朝鮮人数は200万人であった。1939年から1945年の7年間の朝鮮人労務者動員の流れを、戦前の日本政府企画院の動員計画に基づいてみてゆく。この数年間に戦局の悪化に伴い急激な動員計画の拡大があったが、はたしてどの程度達成できたかどうか証拠はない。官僚の数値作文で終っているのかも知れず、需要と供給の数値さえ一致しない。それ以前の計画では帳尻の数値だけは一致しており、内地での朝鮮人労務者の需要数と朝鮮側の供給数は一致している。戦争の遂行につれて需要数は拡大し、いわゆる根こそぎ動員という事態になった。産業構造の転換による労働力の移動で済む程度ではなく、1944年より学徒動員数205万人と新卒者109万人を合計して314万人を学校に頼ることになった。学校とは徴兵は別にしても、戦時体制の主要な労働力供出源であった。

小熊英二・姜尚中 編 「在日一世の記憶」 集英社新書(2008年10月)は日本に移住した在日一世の戦後の苦労をインタビュー形式で記録した分厚い本である。本書の冒頭に、東大教授で在日二世の姜尚中氏の格調高い序文が添えられている。姜尚中氏は企画段階で本書に参画したようであるが、実務はしておられない。しかし集英社文庫に「在日」という名著があり、自身の在日経験が語られている。本書の序は歴史家マルク・ブロックの言葉「現在の無知は運命的に過去の無知から生まれている。逆に過去を知るにも始めに精神がなければ何も見えてこない」で始まる。現在の在日の姿を知らなければ、日韓歴史問題や外交問題という高度に抽象的な問題は何も見えない。在日はマイノリティとして「歴史のあぶく」みたいな存在なのか。いやそうではない。歴史の真実は細部に宿るというように、朝鮮と日本をまたぐ在日一世の生涯には、20世紀極東アジアの「異常な時代」の陰影がしっかりと刻み込まれているのである。インタビューされた在日一世の方々の発言には、共通した事件と歴史的事実が必ず出てくる。そういった事件を契機として在日一世の運命が振舞わされた。それに対して本人の意識レベルによって政治的に発言する人、しない人など色々態度は変わってくるが、在日一世の共通した戦後の歴史をまとめておこう。
1945年8月  日本は太平洋戦争で連合軍に降服  終戦時に在日朝鮮人は二百数十万人に達していた。
1945年10月 在日朝鮮人連盟(朝連)が結成され、速やかな帰国活動を行う。全国に国語講習所を設置して民族教育事業を開始した。
1945年11月 左翼的な朝連メンバーは朝鮮建国促進青年同盟を発足させた。
1946年10月 在日朝鮮居留民団結成 同年12月日本駐留連合軍は朝鮮人の帰国事業は終了とした。日本に残留していた50数万人の朝鮮人は在日として生きる運命となった。
1947年5月  外国人登録令が公布され、朝鮮人への管理政策に転換した。
1948年1月  GHQの指示で文部省は朝鮮人学校の閉鎖令をだした。 同年4月「4.24阪神教育闘争」で死亡者が出た。 国連が朝鮮南半分だけの単独選挙を実施すると発表。全国で反対闘争がおきたが、済州島では共産党による武装蜂起(4.3事件)がおき鎮圧で多くの島民が虐殺された。同年8月南に大韓民国樹立、9月北に朝鮮民主主義人民共和国が樹立され南北分断が固定された。在日大韓民国居留民団(民団)結成。
1949年9月 日本政府は朝連を解散、10月には学校閉鎖令を出した。
1950年6月 朝鮮戦争勃発 在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成され、日本共産党の指導の下で過激な革命闘争を展開した。
  1951年9月 日本はサンフランシスコ講和条約により独立した。朝鮮人の法的地位は「日本国籍を離脱するもの」とし差別的なかんり体制を強化した。
1953年7月 朝鮮戦争休戦 
1955年5月 民戦が解散し、朝鮮総連が結成された。総連は北朝鮮支持、祖国統一、民族教育をスローガンとした。
1959年   日朝赤十字の調印に基づいて北朝鮮への帰国事業が開始された。(1984年までの帰国者は9万3340人)
1965年10月 日韓条約締結 韓国を朝鮮唯一の合法政府とし、韓国へ補償が実施された。
1970年   日立製作所就職差別問題で裁判闘争(74年勝訴)
1980年   指紋押捺拒否運動起る(1999年 すべての外国人に対する指紋押捺義務の廃止になった)
1981年   「出入国管理および難民認定法」の改正により在日外国人に対する差別制度が大幅に改善された。しかし地方参政権運動、公務員採用問題、民族教育権の問題については未解決である。
1995年   従軍慰安婦賠償訴訟が起きたので、日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し実質上の賠償に応じた。、韓国併合・強制連行論争・従軍慰安婦論争などに見られるような南北朝鮮への日本による植民地統治についての歴史認識について、閣僚の靖国神社参拝問題と教科書問題に対する韓国政府(盧武鉉大統領)の抗議が続いた。

金賛汀 著 「朝鮮総連」 新潮新書(2004年5月)は戦後の在日朝鮮人を指導した北朝鮮系の組織(韓国系は民団という組織)であるが、帰国事業を成功させ、北朝鮮の金日成体制の忠実な奉仕者となった全盛時代から、長銀破綻で没落してゆく経過を描いている。朝鮮銀行と朝鮮総連はいわば一体化した北朝鮮政府の政治経済機関であり、金正日軍事独裁国家北朝鮮の謀略と経済破綻した北朝鮮への送金を担当する機関であった。朝銀の経済的救済問題から端を発した問題は、北朝鮮政府と朝鮮総連による政治的問題が裏にあることは明白で、日本政府も拉致問題や昨年9月の核実験問題から急速に経済制裁の動きを強め、総連から北朝鮮への送金を断つことが急務であると判断した。総連の身から出たさびであるが、整理回収機構は朝銀の破綻の不良債権の返済を総連に命令し、総連関連施設の殆どは差し押さえか抵当権設定に組み込まれた。これにより経済的にも朝鮮総連は崩壊しつつあった。日本が太平洋戦争で敗北した1945年時点で日本国内にいた朝鮮人は200万人であった。このとき強制連行者の帰還問題で1945年10月10日に朝連結成大会が開かれた。その結果共産主義者が指導する左派グループが支配権をとり活動した。そのときの活動費は強制労働者の未払い賃金であった。これらの豊富な活動資金は日本共産党再建資金としても使用された。在日朝鮮人の殆どは南朝鮮(韓国)出身者であったが、この帰還運動で200万人いた朝鮮人のうち140万人が帰国した。帰還者も1946年で頭打ちになり在日朝鮮人数は60万人前後で推移することになる。そして在日朝鮮人問題も占領軍の管轄となった。1946年10月南朝鮮出身者による民団が結成され1948年に建国された李承晩独裁政権の大韓民国系として組織された。しかし当時の民団は組織力もなく在日朝鮮人の指示は圧倒的に朝連にあった。1949年になると日本国内での占領軍による赤狩りが浸透し日本共産党と朝連は解散させられた。そして日本政府は「外国人登録令」を改定し、在日朝鮮人を外国人として扱った。1950年朝鮮戦争が勃発し、朝連の中では民戦日本共産党派と民族派の主導権争いが激化し、朝鮮戦争停戦によって1955年5月朝鮮総連が民族派によって結成され、日本共産党と朝鮮総連は組織としても運動としても一線を画して干渉しないという取り決めになった。朝鮮総連の綱領には@在日同胞を北朝鮮に結集するA韓国から李承晩を追放し祖国の平和的統一B在日の民主的民族権益と自由の擁護C民族教育D国籍選択の自由E朝日人民の友好F原爆や大量破壊兵器の製造使用禁止G世界の平和友好を掲げた。 在日朝鮮人の生活面では、就職の場は差別され、職業としてはくず鉄屋、パチンコ屋、ホルモン焼き屋ぐらいで就業率も1956年では40%にすぎなかった。被保護世帯は14000世帯で在日の24%に達した。朝鮮総連の中には1957年「がくしゅう」組みという地下組織が設けられ、朝鮮労働党に日本支局を目指し、益々先鋭化していった。1956年北朝鮮より「教育援助金」の支援によって民族教育が始まり生徒数は35000人が勉強できるようになり、かつこの資金は1970年代半ばまで実質的な朝鮮総連の活動資金になった。朝鮮戦争で労働力を失った北朝鮮政府は在日朝鮮人の帰国運動を国際赤十字を通じて働きかけ、1959年日本政府と合意に到った。「地上の楽園」と朝鮮総連は在日同胞に帰国建国を働きかけ、実情を知らない人々はこれに乗って1984年までに93000人が帰還した。しかし北朝鮮の実態と生活の惨状を見た帰還者からの手紙などで、早や1962年から帰還者は激減した。1963年ごろには、朝鮮総連は韓徳銖、金炳植らが組織を私物化して、北朝鮮への従属を強めていった。北朝鮮の直接的指導は新潟港に入港する「万景峰号」船内で行われていた。1967年ごろまで朝鮮総連を支配していた思想は共産主義思想であったが、1967年6月労働党中央委員会で主体思想(チュチュ思想)を党の唯一思想体系とし、朝鮮総連の指導もチュチュ思想学習に変わった。チュチュ思想は理論的というに価しない「金日成の命令は絶対だ」ということである。1971年の金日成還暦祝いの50億円送金以降、北朝鮮は彼らの計画経済の失敗から在日同胞の献金がきわめて重要な資金源になっていた。1980年より北朝鮮としては輸入代金の支払いが何処の国へも滞り、利子さえ払えない状況であった。1979年より始まった「短期祖国訪問団」で同胞の財産を寄付させる運動を展開した。年間15から20回おこなうと北朝鮮への収入が30億円から60億円にもなったようだ。たとえば1000万円寄付すれば北にいる家族の特権を付与するというものである。朝鮮信用組合は在日商工人の相互扶助組合として発展してきた。1955年ごろから設立され1990年には日本全国で38組合176店舗、預金総額約2兆円の巨大信用組合に成長した。本の敗戦後150万人が南に帰還した。北へは北朝鮮帰還運動で10万人が帰還した。その後日本の高度経済成長と日韓条約締結によって在日社会の生活レベルは上がり、永い間日本で生活した人々にとって生活習慣や、意識の極端な相違から帰国しても生活できないことを実感させた。又総連の民族教育の眼目である金日成親子へ忠誠を誓う教育は世界の民主主義や基本的人権運動にも背を向けた教育であり、在日の人々は朝鮮総連系民族学校へ子女を送らなくなった。1975年には約3万人いた学生数も2004年には1万人を切るまでになった。そして日本での生活向上に目を向け、さまざまな制度的差別問題に取り組むことに視点が変った。まず地方自治体での地方公務員就職運動である。そしてなによりも在日の人々の明確な日本定住の意思表示はさらに多様な動きを生んだ。1990年代はじめには「日本社会との共生」という考えが芽生えていた。地方参政権と住民投票権運動は、2001年滋賀県米原市は定住外人を住民と認定し住民投票参加を認めた。2004年現在95の自治体が住民投票参加への道を開いた。日本社会の拉致問題批判の前に総連幹部は窮地に陥った。外国人登録証明書の国籍を朝鮮から韓国へ書き換える人が増加し、また日本国籍取得者も増加して、2003年では「朝鮮国籍所有者」は約65万人の在日のうち10万人を切っている。朝鮮総連の財政も破綻し朝銀融資の担保物件となった学校や本部建物は不良債権の担保として既に幾つかは差し押さえられている。こうして朝鮮総連の組織は軋みを上げて崩壊の過程にある。

第1章 戦前 植民地下の在日朝鮮人世界の形成

第1章は1910年朝鮮合併後から1939年の国民総動員体制までの、平常時の植民地移民という観点での在日朝鮮人の生活を扱います。本書で「在日朝鮮人」と呼ぶのは、明治時代以降に朝鮮半島から日本に渡ってきて、一定期間在住する人々のことをいう。朝鮮合併前までは、外交官、商人、留学生、炭坑労働者など数十人が在日していた程度であったが、合併後は宇治川発電所工事などに百名単位の朝鮮労働者が働いた。朝鮮半島でも鉄道工事に多数の朝鮮労働者が動員された。工事が終われば多くの朝鮮労働者は帰国したが、中には工事現場を渡り歩く人や、行商などで生計を立てる人もいた。合併後に朝鮮人は日本国籍を持つ「帝国臣民」とされ、1923年「朝鮮戸籍令」ができ、戸籍の移動は結婚や養子縁組を除いて禁止されていた。徴兵制度はまだ朝鮮人には適用されなかったので、日本人の兵役逃れに本籍の移動を禁止したのである。警察や特高は居住朝鮮人の名簿を作成し監視・警戒の対象とした。朝鮮人女性が紡績工場などの集団募集で内地に移住することが多くなった。1915年には朝鮮人居住者は四千人弱であったが、1920年には4万人に急増した。朝鮮総督府は労働者募集を認可制とし、警察署が管轄した。1919年朝鮮独立運動(三一独立運動)と呼ばれる抗日運動が起こり、日本に居住する留学生学友会が朝鮮での動きと連動して独立運動を主導した。このため1919年朝鮮総督府は、朝鮮人が国外に出るときは「旅行証明書」の発給が必要とした。在日朝鮮人人口は1920年に4万人であったが、1925年には21万人、1930年には41万人、1935年には61万人、1940年には124万人、1945年には210万人に急増していった。1923年関東大震災では「朝鮮人暴動」というデマによって多くの朝鮮人が虐殺されるという悲劇が発生した。吉野作造の調査では2711名が殺されたという。政府が自然災害に対して「戒厳令」を出すのも異常であるが、警察や軍人、在郷軍人を中心とする自警団の偏見や差別に基づく過剰な警戒心がなさしめた蛮行であった。このように朝鮮からの渡航者が増え続けた理由にひとつは、植民地下での農村のコメ増産計画が思うように行かず、農村が疲弊したため都市に流出する流れの中で日本への渡航が増えたことである。2つめの理由は日本語による教育が進み就学率は増加していったが、朝鮮では就職先がなかったためである。また交通や通信技術が社会インフラとして整備されて渡航しやすくなったので、主に中階層の人々が渡航する例が多かった。最下層の者は、「土幕民」、「作男」、「火田民」などとなって朝鮮内や満州に移住するケースが多かった。1928年から「渡航証明書」制度が導入され、朝鮮総督府は渡航を制限する措置をとった。それでも先に日本に渡った親戚や友人の呼びよせによる渡航者は増加の一途となった。1930年の朝鮮人在住者42万人の生活の道は、「土工」と言われる土木建築の肉体労働者が半数以上を占めた。紡績工場で働く女性労働者にくわえて、京都の友禅染の過酷な労働に就く人が多かった。工業では炭鉱労働者、土砂採取労働者、沖仲氏の荷役労働、露天・行商、廃品回収など日本の都市の下支えの雑業に従事した。居住地では、炭坑や土木作業の「飯場」という集団生活であったり、「労働下宿」であったりしたが、次第に朝鮮人集住地区が形成されていった。そこでは衣食住の暮らしと朝鮮文化を守る空間ができ、大正時代には家族形態での居住が増えた。渡航者の男性比率は1920年では8対1であったが、次第に女性居住者が増えるに従い男性比率は低下し1940年には1.5対1となった。植民地下の朝鮮では義務教育は実施されていなかったが、日本内地の学校では朝鮮人の子どもの受け入れを嫌がった。朝鮮人居住地区では「書堂」という寺小屋や、1935年には夜学が盛んとなり朝鮮語の教育が行われた。日本政府は朝鮮語の教育を嫌い、1934年の閣議決定で警察が朝鮮人教育機関の閉鎖を命じ、日本の学校に通わせる措置をとった。日本で働く朝鮮人労働者の間では早くから親睦団体が作られていった。1914年には朝鮮労働者を組織するも大阪で作られた。三一独立運動や日本の大正デモクラシーなどの刺激を受けて、1920年代から労働民友会や労働共済会などの団体が各地で作られた。そして1922年に東京・大阪で朝鮮労働同盟会が作られ社会主義労働者組織として活動した。1925年には全国組織である「在日本朝鮮労働総同盟」が結成された。朝鮮総督府の支援で「相愛会」が対抗して結成されたが渡航者を搾取するなど腐敗していった。「在日本朝鮮労働総同盟」は日本共産党系の労働組合全国協議会(全協)に統合された。1930年代には在日朝鮮人の生活を守る活動が展開され、各地で消費組合が結成された。

第2章 戦中 国民総動員体制と朝鮮人強制連行

第2章は外村大 著 「朝鮮人強制連行」 岩波新書(2012年3月)の内容とほぼ重なります。戦時体制下の強制動員計画による植民地からの労働移民としての在日朝鮮人の生活を扱います。1920年代後半の昭和恐慌に時期に朝鮮人労働者が増え続けたことは日本政府当局者には審固酷な事態と映った。特に大阪などの大都会では失業救済事業の55%(1928年)は朝鮮人で占めらた。日本人失業者を圧迫する存在と見なし、朝鮮人の内地渡航を制限するため調査報告書が作成された。対策として「労働手帳」制度を設け、登録朝鮮人失業者を制限することによって、1932年には失業救済事業の24%まで低下した。1931年の満州事変と翌年の満州国樹立により、日本が中国東北部を支配下に置いたので、日本に渡航する朝鮮人を満州へ振り向けることになった。1934年閣議で「朝鮮移住者対策」を決定した。朝鮮の工業化方針により朝鮮内で安住する環境を作ること、満州へ移住させること、内地での在日朝鮮人の統制管理機構として「協和会」を設け皇民化を進める、そして密航を取り締まるというものである。在日朝鮮人居住区では商業活動が活発化し、朝鮮料理屋、服飾店、漢方薬店などを営み、小規模工場(大阪・神戸のゴム工業、京都の染織工業)の経営者は次第に経済的地位を向上させ、1930年代から朝鮮人コミュニティ内で階層分化が進んだ。東京や大阪では在日朝鮮人による新聞発行が試みられ、朝鮮語による「民衆時報」、「東京朝鮮民報」が発行されたが、警察の弾圧で解散に追い込まれた。朝鮮人の文化活動も活発化し、小説家金史良、舞踏家崔承喜らが生まれるに至った。戦前の日本在住の朝鮮人には参政権が与えられ、1925年普通選挙法で納税額に関係なく参政権が認められた。しかし在日朝鮮人の選挙への参加は低調であった。1930年代には地方レベルの議員選挙に立候補し当選する人も現れた。1934年に設立された協和会は1936年財団法人中央協和会となり、総督府や内務官僚(特高)らが統括した。日中戦争が勃発した後は協和会は総動員体制の下で在日朝鮮人を「皇民化」し、戦争に動員する活動を展開した。勤労奉仕・国防献金・貯蓄奨励・金属類供出など戦時体制を支えた。1940年から協和会会員章が発行され、警察が朝鮮人を管理するシステムとなった。1939年日本の戦争遂行を目的として朝鮮人強制連行と強制労働が始まった。1938年には国家総動員法が成立していたので、1939年より労務動員計画が策定され、朝鮮人労働力も計画的に動員配置されることになった。1939年から募集、1942年から官斡旋、1944年から徴用という形で行われたが、事実上は強制連行と言って差し支えない強権的政策であった。日本人の徴兵、学徒動員、工場動員も有無を言わせない罰則付きの強制連行である。1939年から1945年までの内地への動員数は実数で67万人(計画は91万人)とされる。朝鮮人の日本での行く先は、炭坑48%、鉱山11%、土建16%、工場他25%と推定される。有期間制であったが、2年の契約期間を過ぎても帰ることはできなかった。日本人も嫌がる過酷な労働で逃亡する朝鮮人労働者は32%を上回った。労働争議も続発し、1941年で492件をピークとし、毎年300件以上の労働争議が発生した。1935年より朝鮮人の会合などでの朝鮮語使用を禁止し、1940年には朝鮮で実施された創氏改名を在日朝鮮人にも強要した。1940年代より治安維持法で検挙される朝鮮人が増えた。治安維持法で検挙された者の3割は朝鮮人であったといわれる。1944年協和会は「中央興生会」に変更され、一層の朝鮮人の協力が強要された。1945年8月時点で200−210万人の朝鮮人が内地に居住していた。

第3章 戦後 開放後の在日朝鮮人社会の形成

この章より文京洙氏の執筆となる。1945年8月日本の無条件降伏によって東アジア・太平洋戦争は終わり、朝鮮は解放された。10月占領軍は「人権指令」をだし、特高の廃止と治安維持法違反で拘禁されているものを釈放を命じた。祖国を目指す朝鮮人の帰国者が、舞鶴、下関、博多に殺到し、およそ140万人の在日朝鮮人が、戦地引き揚げ船の片航路を利用して本国に帰還した。大都市では在日朝鮮人の機関支援や生活防衛を目的とする各種の朝鮮人団体の結成が相次いだ。9月には朝鮮人連盟準備委員会が結成された。夕張や常磐炭鉱を始め朝鮮労働者の争議が全国的に広がった。また闇市で荒稼ぎをする朝鮮人も多かった。在日を代表する経済人として活躍する朝鮮人が生まれたのもこの時期であった。徐は坂本紡績を、辛はロッテを起業した。朝鮮半島が米ソの覇権争いの場となる可能性が濃厚となる1946年には帰国者は激減し、逆流してくる事態となった。朝鮮半島を米英中ソの5年間の信託統治とする案が出されると、朝鮮社会は対立と混乱の坩堝と化した。在日2世は朝鮮語を話せないこともあり、日本へ逆戻りするものが相次いだ。占領軍は最渡航を固く禁じたので、密航という形で日本へ再入国した。1946年に密航者は2万人を超え、1947年に「外国人登録令」が公布されて、一時密航者は減少したが1949年に1万人近くに増加した。1946年4月より「計画送還」による帰還者は約8万3000人にとどまり、結局150万人の朝鮮人は帰国したが、約55万人が引き続き日本に留まった。占領軍は在日朝鮮人には「すべての日本国内法に従うべき」だとして、居住証明発行と朝鮮人登録の実施を行った。1945年10月朝連中央総本部の結成大会が開かれ、親日派を排除して社会主義者が指導部を独占した。全国に540の支部を持つ強力な大衆団体となった。朝連は日本革命を目的とする日本共産党の戦略に引き寄せられ、日本の「民主民族統一戦線」の一翼に位置づけられた。朝連から排除されたたり不満を持つ一派は、建青や建同を結成し在日朝鮮人居留民団(1948年より在日大韓民国居留団)を結成した。朝連と民団の抗争は武闘派抗争となり数々の乱闘事件を引き起こした。占領軍は在日朝鮮人を日本占領秩序のかく乱要因とみなし、共産党と在日朝鮮人運動の結びつきが明らかになると、吉田内閣の朝鮮人非難につながった。1947年、旧植民地出身者の参政権を停止し、「外国人登録令」が新憲法施行前のどさくさに制定された。1947年に「二・一ゼネスト」中止命令があり、革命的な民主改革を主導してきた占領政策は、反共と経済復興を中心とした安定重視政策に変更されつつあった。参政権の停止や外国人登録令は在日朝鮮人を戦後の普遍的価値である人権の埒外に追いやった。戦後朝連など在日朝鮮人団体は民族教育を重視し、民族学校を全国的に設置したが、一九四七年10月占領軍は「朝鮮人学校は、正規教科以外に朝鮮語を教えることは許されるが、日本のすべての指令に従う様に」命令した。すなわち朝鮮学校は「教育基本法」や「学校教育法」に従わなくてはならないということであった。翌年5月の文部省は「教育基本法」や「学校教育法」に従わうと同時に、民族教育を否定するという文脈で朝鮮人学校を私立学校としての自立性の自立性の範囲内で認めるという覚書を交わした。米国は、ソ連と北朝鮮の反対を押し切って単独憲法制定議会選挙を控え、暴動化する南朝鮮での反対運動に在日の民族運動が結びつくことを恐れて、朝連を解散させた。朝連の解散は政治運動だけでなく、在日朝鮮人の生活や権益擁護の取り組みに深刻なダメージを与えた。1947年の在日朝鮮人の失業者は20万人(対稼働人口比67%)であり、朝鮮人の就職差別問題も絶望的な壁に阻まれていた。

1949年中国革命によって反帝国主義民族革命の高揚期を迎えた1950年、日本では朝連が解散させられ、レッドパージが吹き荒れた。朝連解散を免れた組織をかき集めて指導する日本共産党民族対策部が中央員会内に設置された。50年コミンフォルム批判によって米国との対決を呼びかけたため、日本共産党は徳田らの主流派と宮本らの非主流派(国際派)に分裂し、占領軍は共産党幹部の公職追放を行った。朝鮮人党員もこの党内抗争に巻き込まれ、金日成の北朝鮮労働党との結びつきを重視する「民族派」が台頭し、日本共産党の「民対派」との抗争を深め、やがて在日朝鮮人運動の路線転換を導いた。1950年6月に始まった朝鮮戦争は北を支援する中ソ、南を支援する米軍の代理戦争となった。1951年日本共産党「四全協」で軍事方針が決定され在日朝鮮人もこの方針に沿って実力闘争に入った。民対は祖国防衛隊を組織して、後方(日本での)かく乱戦術、サボタージュ戦術に出た。民団系は志願兵を戦地に送る運動を行った。1952年4月サンフランシスコ講和条約が成立し日本が独立を達成した頃、実力闘争はピークに達した。吉田内閣は破防法を国会に上程し、共産党と在日朝鮮人の抗議行動を封じ込めようとした。5月「血のメーデー事件」、吹田事件、枚方事件、大須事件で警察とデモ隊が衝突し死者が出た。皮肉なことに朝鮮戦争に伴う鉄・銅の回収業で在日朝鮮人業者は活況を呈した。講和条約の発効に際して、在日朝鮮人の国籍問題は旧植民地出身者の日本国籍を奪う方向に転じた。それを南の韓国政府はすべて韓国国民として受け入れる意欲を示したが、日本政府は「大体において本人の希望次第」という見通しを示し、帰化を巡る裁量権を恣にして、日本に同化した者のみを日本国民とする政策を押し通した。朝鮮戦争が停戦した1953年7月以降、東アジア革命の気運は退潮して、一転して平和共存路線が時代の潮流となった。中国とインドは平和5原則の共同声明はその象徴であった。日本共産党は1955年1月在日朝鮮人運動の転換を発表し、朝鮮人党員に日本共産党からの離脱を勧告し、民族派を支持した。2月北朝鮮は統一攻勢を日本との国交正常化を呼びかけた。鳩山政権は「自主平和外交」を掲げて、冷戦構造からの脱却を模索した。日本国会議員訪朝団が実現し日朝間の交流が拡大した。総連は在日朝鮮人の北朝鮮への帰国運動を盛り上げた。南でも民団は「南北統一運動準備員会」を結成した。当時民団の組織率(韓国籍の在日朝鮮人)は全体の25%を占めていたが、指導部に離反や分裂に揺れ動いた。1956年金日成は独裁政権を確立した。それに呼応するように、総連の韓徳銖をパイプとした排他的指導体制が確立した。中核的指導組織である「学習組」が組織され、金日成の革命思想の総連内への浸透と、民対派の追い落としが進められた。1959年思想闘争の勝利が宣言され、総連は韓徳銖とその片腕である金炳植の指導体制が確立した。北からの教育費援助と帰国運動の高揚によって、総連は全盛期を迎えた。全国の都道府県に地方本部が設けられ、女性同盟や、朝鮮新報社など24の事業体、150近くの民族学校など、総連の組織体制がほぼ確立した。朝鮮信用金庫組合協会も総連の組織下に入った。組織数は20万人で、民団の6、7万人をはるかに上回った。共和国(北)を「地上の楽園」と謳う帰国運動は総連が組織を上げた運動となった。1959年2月日本政府は閣議決定で、帰国に伴う一切の業務を日本赤十字社に委ねた。韓国側の反発は予想以上に強く李承晩ラインなど報復措置が取られた。日朝赤十字会談は6月ジュネーブで行われ「帰還協定」が調印された。1959年12月に始まる帰国事業は2年間で7万5000人の帰国となった。朝鮮戦争で働き手を失った北朝鮮の誘いに、日本で絶望的に生活難にあった在日二世・三世(96%は韓国側の出身者であったにも関わらず)が希望を託して、北朝鮮に渡った。もう一つの理由は韓国が当時未来を託しうる環境には程遠かったからである。経済的貧困と軍事独裁政権の下に帰る気にはなれなかったのである。

第4章 高度経済成長期 日韓国交正常化と在日朝鮮人社会の変容

1960年、4月革命によって李承晩政権が倒れた衝撃が民団組織に与えた影響は計り知れない。民団から総連へ集団脱退が相次ぎ、民団全国大会で「これまでの体制からの脱皮」を宣言し、総連との対話路線を行い交流が進んだ。日本でも日米安保改定阻止闘争が盛り上がり、ハガチー特使来日を阻止して岸内閣が倒れた。8月北朝鮮の金日成は「南北連邦制案」を統一の過渡的措置として提起した。総連はそれを支持する決議を行った。しかし「ソウルの春」は、朴正煕のクーデターによって再び軍事独裁政権に戻った。民団の権逸は軍事クーデターを支持した。軍事政権の登場は、日韓会談を大きく前進させ、日米が韓国の軍事政権を支え経済発展や政治の安定を図る筋書きができた。こうした日米韓の同盟関係の樹立に対して、北朝鮮はソ連・中国と「相互援助条約」を締結し、東アジでの冷戦構造が一段と高まった。金日成は韓国内における前衛党による「南朝鮮革命」を目指した。総連がそれに呼応したことは言うまでもない。1963年朴正煕は「民政移管」によって第3共和国の大統領となり日韓会談に臨んだ。日韓会談は1964年12月合意に達し、翌年12月批准となったが、過去の清算の問題は棚上げされた。日本政府の歴史認識に何ら変化のないことが分かった。文部省は民族学校についても各種学校として認可すべきでないと見解を取り続けたが、総連は自主学校と称して「社会主義的愛国腫愚教育」をめざし、多くの都道府県は各種学校として認可し、1966年までに300余りの朝鮮学校が認可を受けた。民族教育を重視した総連に対して。民団や韓学同がこの時期に取り組んだ課題は日本での法的地位の改善であった。日韓政府が締結した「法的地位協定」では、「協定永住権」は戦前から日本に滞在している者と協定発効の5年以内に生まれた2世、3世に限られるとした。日本政府の本音は韓国籍保持者については永住権を認めるが、できるだけ制限したいという意向であった。少数民族問題を抱え込みたくないという日本政府の見解は、韓国政府の在日韓国人の日本同化を促す「棄民政策」と表裏の関係にあった。協定永住申請者は35万1755人(許可者34万2909人)となった。協定永住の最大の関心は、教育、生活保護、国民健康保険であった。こうして総連系在日の人々もこのメリットで永住許可を申請し、朝鮮籍保持者は全在日朝鮮人の75%(1955)から46%(1970年 28万2813人)に落ち込んだ。この永住権問題と帰国運動(9万3340人)の結果により、総連の大衆的基盤は大きく失われ、総連組織の下降傾向を決定づけた。総連組織のナンバー2であった金炳植の失脚後、総連の体質は金日成の「主体思想」による神格化が進んだ。差別や同化圧力をそのままにした日韓条約は在日朝鮮人の2世・3世の社会を大きく切り裂いた。民団は1960年代後半に、「韓国民族自主統一同盟」という民団内改革派の出現で内部抗争を深め、1971年7月の「南北共同声明」の発表によって民団は分裂した。1960年代の日本の高度経済成長は在日社会にも大きな変容をもたらした。高度経済成長による在日企業の事業拡大は、ケミカルシューズ、プラスチック成型、パチンコ(マルハン、モランボン)などの娯楽業、焼き肉など朝鮮料理店の飲食業が主力となった。在日企業の興隆期に商工会や長銀が果たした役割は大きい。しかし70年代には在日企業が稼いだ金を総連が吸い上げて北朝鮮に送金するという仕組みが作り出された。在日2世が社会に旅立つときに突きつけられる差別の壁は大きく、1970年日立製作所入社拒否問題は就職差別裁判闘争となり、市民運動に支えられ勝訴した。1969年「出入国管理法」反対運動には、べ平連、全共闘、華僑青年団体との共闘ができた。

自治体が在日朝鮮人の処遇も問題を「住民」、「市民」という観点で見直す動きが現れた。1974年川崎市は「川崎市民とは川崎に住むすべての人」として、児童手当と公営住宅入居の国籍条項撤廃を行った。全国的には1982年難民条約が批准されたのを受けて年金や児童手当の国籍条項が撤廃されることになった。こうした外国人に対する行政差別撤廃の動きは革新的な地方自治体を先頭にして、国に先立って実施された。流す神奈川県知事、東京都美濃部知事、京都府蜷川知事、大阪府黒田知事などが在日朝鮮人の地位改善に貢献した。1970年代から80年代にかけての国籍差別撤廃の動きは「民族差別と闘う連絡協議会」の緩やかなネットワークで結ばれた。国と地方の公務就任権(内閣法制局は公権力の行使または国家意思形成への参加となる公務員となるには日本国籍を必要とするという法理を掲げる)には「当然の法理」という厚い壁があった。1974年電電公社受験問題、1980年八尾市公務員一般行政職の国籍条項の撤廃実現、1977年最高裁における弁護士資格の国籍条項不要判決などの動きが相次いだ。1980年代には、こうした人権擁護・差別撤廃の取り組みが在日朝鮮人運動の潮流となった。1971年の「共同声明」後朴正煕は戒厳令を宣布し「維新憲法」を確定した。大統領による独裁に対する民主化運動が広がった。1973年8月反独裁民主化運動のシンボルであった金大中がホテルグランドでKCIAによって拉致される事件が起き、アメリカの尽力で金大中は救出され米国に亡命したが、在日朝鮮青年・学生団体は「日韓連帯連絡会議」と共闘しながら朴正煕政権打倒運動に展開した。1974年8月朴正煕暗殺未遂・同夫人殺害事件である文世光事件がソウルで起こった。高度経済成長の中で育った在日朝鮮人の戦後世代は、新しい生き方や思想が文学活動などに反映された。金達寿、金石範、李恢成など総連系作家や知識人の自己表現が、新しい時代の転機を生きる在日朝鮮人の肖像を浮かび上がらせた。ほかにも金鶴泳、金時鐘らは民族への帰属を自明の価値としてきた在日の揺らぎを描いた。「帰国の思想」の求心力に翳りがみえ本国にも日本医も還元できない在日のありようが一つのカテゴリーとなっていった。1972年「広開土王陵碑の研究」を出した李進煕は、金達寿と共に季刊誌「日本のなかの朝鮮文化」の論文は、日本のリベラル歴史学者や思想家から圧倒的な支持を得た。1975年総合雑誌「季刊三千里」が発刊され、編集長に李進煕がなった。総連はこの「季刊三千里」を反民族的と激しく非難したが、1987年まで在日の文化運動の中心であった。総連系では李恢成らが「季刊在日文芸民濤」を発刊し民族運動の連帯を謳った。そのほかに「季刊まだん」、「季刊ちゃりそん」、「ウリ生活」、李進煕らは「季刊青丘」を、姜尚中らは「ホルモン文化」を、女性文芸誌「鳳仙花」も刊行された。1980年代はこのように在日文芸誌の百花繚乱であったが、1990年後半は日本のデフレ恐慌のなかで下火となっていった。集団としての在日朝鮮人を論じること自体が困難となる社会状況であった。在日朝鮮人問題の構造的変化の中で、地域社会における権益擁護運動から、第3の道を模索する動きが顕著になった。1980年代は在日を巡る思想や議論の転機となった。論争は在日の人権問題に取り組んできた日本人の間で起こった。「北または南のこと以上日本での在り方をより真剣に模索すべき」という提起に対する論争が、日本朝鮮研究所が発行する「朝鮮研究」という雑誌で起った。日本への同化か民族意識という価値感かが鋭く問われたのである。鶴見俊輔の雑誌「朝鮮人」でも第3の道という言葉で定式化された。金石範の「在日の思想」は姜尚中によって受け継がれ、「朝鮮系日本人」となるには日本社会の根源的な転換が必要だと説いた。梁泰昊は姜尚中に対する批判として「事実としての在日」を主張した。在日2世にとって「祖国とのつながりを意識すること」、「朝鮮人という入口に立つことが開放につながる」が大切であったが、在日3世にとって「人間という入口から入ることで、朝鮮人という自己に向き合うことができる」という。

終章 現在から将来へ グローバル化(日本社会の変容)の中の在日朝鮮人

高度経済成長期は人の移動が大規模に行われ、底辺で支える大量の移民労働者の存在を抜きにしては語れない。工業化は人々を大都市に集中させ、欧米では多かれ少なかれ異質なエスティック文化の坩堝となった。日本では農村から都市に移った人はおよそ1千万人といわれる。集団主義、家族主義、法人主義が日本資本主義の特徴であるかのように言われるが、1960年代から日本社会は大きな変質の時代に入っている。企業における大企業と中小企業、男性労働と女性労働、正社員と非正規社員という格差が広がっていった。在日朝鮮人は地域社会の異質的扱いを受けていた。日本の均質社会という幻想は在日朝鮮人を同化か異化かという2者択一問題としてしか意識しないという閉鎖社会を生んだ。ところが急激な円高、東南アジアの工業化、巨大な労働プールの出現によって、日本でも外国人労働者の大量受け入れが急速に進んだ。日本での在留外国人は1993年に132万人で2013年には206万人となり、2013年での内訳は朝鮮人52万人、中国人65万人、ブラジル人18万人、フィリッピン人21万人であった。日本社会は次第に多民族。多文化社会の様相を深めている。かって第1位は朝鮮人であったが次第に減少し(日本への帰化による)、いまや中国人がトップになった。こういう中で在日朝鮮人に対して、同化か排除の姿勢を貫いてきた日本の入管行政も大きな変換を迫られた。仮に在日ちょうせんじんを、植民地時代に日本に来た「特別永住者」(オールドカマー)と限定すると、その数は2001年に50万人を割り込み、毎年1万人づつ減少している。その理由は日本国籍の取得(帰化)の増大である。現在累積帰化者数は35万人近くになった。帰化に加えて日本人との国際結婚の増加も特別永住者の減少の原因である。今や在日同士の結婚は1割にも満たない。日本人との結婚による子供の日本国籍取得者は20万人に達した。これに帰化者を加えると在日朝鮮人は国籍上50−60万人を失った。減る一方のオールドカマーに対して、ニューカマーが在日朝鮮人社会に新風を吹き込んでいる。1989年に海外渡航が自由化されて入国する人が増えた。そのまま不法滞在する人もいる。韓国ブームが起こり、コリアタウン(新宿大久保が代表的)が続出した。大阪府ではいまだにオールドカマーの比率が高い(84%)が、1989年の海外渡航自由化をニューカマー元年とすると、以来大久保ではオールドカマーは少ない。大久保ではニューカマーを中心に「在日本韓国人連合会」が誕生した。非政治的な親睦団体を目指しているという。沖縄、山梨でもニューカマーの民団参加者が多くなった。また在日社会から離れる人も多い。ニューカマーを獲得できない総連系の衰退ぶりは顕著で、朝鮮学校の生徒数はピークの4万6000人から1万人に減少した。ニューカマーの子女はほとんど日本の学校に通っている。1995年の村山談話以来、ようやく植民地支配の反省や加害者としての自覚が国民的に広く共有され、在日社会へのまなざしや施策が変化し始めた。地方公務員の国籍条項の原則撤廃は2000年末までに9府県、8政令市で実現した。しかし20年以上に及ぶ鬱積したデフレ感は時代がかったナショナリズムを呼び起こし、政治の中枢にその推進者がいて偏狭なナショナリズムの雰囲気を振りまいている危険な兆候も見える。1995年最高裁は「日本の憲法は定住外国人が地域社会の意思形成に参加することを禁止してはいない」とした。地方公共団体の長、議員に対する選挙権を認めたのである。こうして公務就任権、地方参政権が容認されようとされているが、2002年「永住外国人地方参政権付与法案」は挫折した。カウンター法案として「国籍取得緩和法案」が出され、帰化を申請だけで容易にすることが目論まれた。多文化共生の理念を、日本国民の枠組みを再定義することで矮小化することに他ならない。韓国政府自体は中国人の国籍取得を認めない閉鎖的な民族主義の姿勢を持っており、在日2世や3世に対して同じような影を落としてきた。日本と同様な単一民族主義の国、韓国にも民主化やグローバル化に伴う国民意識の揺らぎが顕著である。急速な国際化が進んでいて韓国政府の対応も変わりつつある。2008年「外国人処遇法基本法」、1999年「在外同胞法」、2008年憲法裁判所は在外朝鮮人に大統領選挙権を与えることは違法ではないと判断した。朝鮮人の血統主義や単一民族主義という考え方は、21世紀の韓国社会で明らかに崩れつつある。


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