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杉山伸也著 「グローバル経済史入門」
岩波新書(2014年11月)

18世紀から20世紀の経済史におけるグローバルな物・金・人・情報の移動

本書のあとがきに、慶應義塾大学経済学部における経済史入門講義を書き直したものであると述べられている。そういう意味ではマクロ経済学の一分野で、世界経済のなかで国を超える経済活動を歴史的にみるということです。対象時期は18世紀から20世紀の300年である。経済史は、地域的・時代的に多様な人間社会で起きた、多様な経済的事象の因果関係を歴史的に明らかにするマクロ経済学である。つまり時間軸と座標軸の4次元的経済の理解(動力学)である。具体的には物・金・人・情報の4つの因子がどのような経済システムのなかで移動したかを歴史的にみてゆくのである。「歴史学」と「経済学」の結合というものであるが、対象はあくまで経済的事象であり、その理解を深めるために一般的歴史的条件(制約)を知っておかなければならない。また経済システムの発展そのものも歴史であり変遷の過程である。経済史から見るアングルにはたとえ限界があるにしても他のどの方法よりも多くの事象を説明できると著者は考えている。経済が社会状況における選択であるとするならば、政治と経済は分かちがたく結びついている。例えば「帝国主義」と「植民地主義」とか「大東亜共栄圏」とかいう言葉は、常に経済を従属させているように見えて実は経済的事情を反映する政治スローガンであろう。政治と経済の主従関係はいつも明確ではない。「グローバリゼーション」という言葉が使われだしたのは1990年代以降のことである。ソ連・東欧の社会主義国の崩壊と、中国やベトナムの市場型経済制度の導入により、世界が一つの市場経済に集約される状況が現れたからである。経済的には金融ビッグバン、インターネット情報革命によって急に世界の距離感が無くなっていった。こうした背景には、NIEsやBRICSの経済成長によって、かっての工業化が欧米の特有現象(西欧中心主義的文明観)ではなく時間差に過ぎない(キャッチアップ)ことが分かったことがある。現在の日本と世界経済をマクロにそしてグローバルに総覧するするために適した本がある。宮崎勇・本庄真・田谷禎三著 「日本経済図説」 第4版 (岩波新書 2013年10月 )宮崎勇・田谷禎三著 「世界経済図説」 第3版(岩波新書 2012年2月)の2冊である。全体を見るということは、こういう風に理解することなのかと非常に参考になる本である。

グローバル経済ヒストリーと世界史はどうかかわっているのかについては、羽田 正著 「新しい世界史へ」 (岩波新書 2011年)を参考にしよう。時代はヨーロッパ中心史観に愛想がつき始めている。進歩は必ずしも社会の幸福とは連動しなくなったからだ。共産主義のソ連と東欧が崩壊して資本主義が新自由主義を唱えだした頃から、健全野党を失った与党の腐敗のように我が物顔で我利私欲に走ったからである。時代は第3の道を求めだしている。グローバル資本主義とグローバル環境破壊が進行し、地球環境と地球市民を守る思想が求められている。人間は地球上で生きているということが理解できる世界史、世界中の人々がつながりあって生きてゆくことが分かる世界史が必要とされているのだ。国民国家の戦争に嫌気がさし地球市民像を求めた書として、柄谷行人著 「世界共和国へ」(岩波新書)がある。また遅塚忠躬「史学概論」(東京大学出版会)は別の国の歴史を鏡として日本の歴史を見直そうという。諸国民国家の歴史の狭間で、良識ある外国史研究科はアイデンティティを失いかねないのだ。これまでの世界史を乗越える試みは中心主義(ヨーロッパ、アメリカ、中華思想など)を排除する方向と関係性の発見という2つの方向で行なわれている。
@ グローバル・ヒストリー: イギリス、アメリカやオーストラリアのいわゆるアングロサクソン英語圏でグローバル・ヒストリー研究が急速に力を持ってきた。扱う時間軸、テーマの広さ、空間の広さ、欧州の相対化、地域の相互連関の重視、扱うテーマや対象の新鮮さで他を圧倒する。ヨーロッパ中心主義を相対化する点で参考になるが、欧州の変わりにアングロサクソンを置いたような歴史感覚で、世界が経済的に一体化してゆく過程を描いている。
A イスラーム中心史観: 現代日本における「イスラーム世界」とは、そこで生じたあらゆる出来事をイスラーム教の特質によって説明できるとするものである。そもそもアラブ、イラン、北アフリカなどがひとつの見方で理解できるとは思えないし、「イスラーム世界」と「非イスラーム世界」を峻別するやり方では、ヨーロッパ中心史観と同じで世界全体を叙述する世界史を描くことは出来ない。著者は「イスラーム世界の創造」(東京大学出版会 2005)のなかで、欧米が作った「イスラーム世界」という空間的な縛りを取り去って、共通性や関連性からユーラシアの中央に位置する西アジアの歴史を再構成することが必要だと説く。
B 中国中心史観: 広大な中国大陸は政治的に統一される歴史的運命にあると考える。統一王朝と分裂期という捉え方は諸民族が抗争し協力する歴史を無視し漢民族中心主義や「中華と蛮夷」という中心と周辺の概念に捉われてきた。むしろ東方ユーラシア(漢)と中央ユーラシア(遊牧民)の交流という見方をすべきではないだろうか。
C 日本中心史観: 南塚信吾著「世界史なんていらない?」(岩波書店 2007)は日本が世界的に活躍する現在、歴史も世界史的規模で考えなければならいとして、世界史の中に日本史を組み込むとか日本史と世界史の融合を主張する。日本史を完全に喪失してもいいかというと、暫くは日本国が存在するかぎり日本史があってもいいし、世界史の中の日本史が両立していればいいのである。
D 世界システム論: これはグローバルヒストリーの史観に基づいて、ヨーロッパの一部で生まれた「近代世界システム」が地球上のその他の部分を次々と飲み込んでルイに世界全体を覆うようになる。このシステムは内部における資本主義的分業体制と政治的文化的な不統一を重要な特徴とする。アメリカ覇権主義を絵に書いたような史観である。世界システム論の世界史観は現代のグローバルな世界システムが16世紀にヨーロッパに形成されたシステムの拡大延長であるとする。中心は周辺国家を略奪し経済的分業体制を築くのであるが、実は政治的文化的に大きな矛盾を抱えている。現在地球上の多くの地域で資本主義的な考え方が人々の経済行為の基本となっていることは事実である。これを強いられた制度と理解するか、実は各地でそれに学んでいろいろな資本主義が関係していると考えるか、中心は必要ないとするほうがシステムの安定性に貢献するのである。
E 周縁史観: 中国が中心である史観からはなれて、周縁から中国を見る試みがある。アジアからヨーロッパを見るには一種の「アジア中心主義」になりかねず、中心主義へのアンチテーゼで終る可能性がある。
F サバルタン: イギリスの植民地の下層民の目からインド史を書き直す試みがある。西欧近代知がほんとうに正の価値観だったのだろうかという問いである。反権力史といってよく、歴史全体の否定につながる可能性がある。
G 環境史: 人類史、資源を巡る争い、病気や気候変動(乾期・氷河期など)、土地利用や人口動態、開発などの環境テーマから歴史を見る見方である。アメリカ先住民が滅んだのは欧州から持ち込んだ疫病かポルトガル・スペイン人の鉄砲による殺戮か議論の絶えないことである。しかし環境だけで歴史が決定されるわけではない。面白い視点を供給するが、全体像ではなかろう。
H ものの世界史(経済史観): よく言われるが大航海時代はアジアの香辛料が人々を駆り立てた。東インド会社は茶とアヘンと銀の交易だったとか、アフリカ奴隷と西インド諸島の砂糖プランテーションは「白と黒の三角貿易」といわれる。物の生産・流通・消費を従来からの世界史解釈の上に重ね合わせると、現実的な話題性が生まれることは確かである。しかしそれはヨーロッパとアジアの経済活動を対立的に描くことである。モノとカネと人の相互の流れは経済そのものであって、人間の歴史全体を記述するわけではない。
I 海域世界史: 文化圏という言葉の代わりとなる「海域世界」がよく話題となる。経済的仕組みである「ASEAN」、「APEC]はその流れにあるといえるが、船舶より飛行機の進歩した今、経済圏を正当に表しているかどうか、或いは政治圏(アメリカ太平洋艦隊派遣海域)なのかいまいちあいまいである。「地中海世界」、「太平洋世界」、「インド洋世界」、「東アジア海域」とか「七つの海を支配したイギリス無敵艦隊」などの言葉は相当市民権を得ている。しかしこの研究手法はあらたに閉じた枠組みないしは空間を歴史研究に持ち込む危険性がある。関係こそが問題なのに、そこに特別の意味を固定し特徴付けることは可能なのだろうか。海域世界に中心は無いが周辺境界が極めてあいまいである。複数の海域世界が互いに重なり合って影響し世界を構成しているので独立した存在ではない。時系列の国民国家の歴史からは自由になれるが捕らえ難い。玄界灘を舞台にした韓国南部と日本の西南部の同一民族説もこれに当たる。魅力的だが実在の確かめようがなく、それは関係史に過ぎないのでは無いか。
本書に関係する世界史とは、個別国の史観は別として、@ グローバル・ヒストリー、D 世界システム論、G 環境史、H ものの世界史(経済史観)、I 海域世界史であろう。つまり「歴史」という概念では経済史観はそのうちの一つである。逆に経済という概念から歴史を見るとどうなるだろうかに答えようとするのが本書の目的になる。本書の言うグローバルヒストリーと、羽田 正著 「新しい世界史へ」で言われるグローバルヒストリーとは概念が異なるが、本書では「グローバルヒストリーでは、最初から世界の多様性を前提として、歴史を地球的規模で鳥瞰するところに特徴がある」という。グローバルヒストリーのアプローチは「関係史(定性的)」と「比較史(定量性)」に別れるが、多様性を前提とするなら比較しても仕方ないという矛盾を含む。

著者杉山伸也氏のプロフィールを紹介する。1949年生まれ、1972年早稲田大学政経学部卒業、1981年ロンドン大学博士課程卒業、1984年慶應義塾大学経済学部助教授、1891年より同教授である。ご専攻は日本経済史、アジア経済史だそうだ。主な著書は「日本経済史」(岩波書店)、「明治維新とイギリス商人」(岩波新書 1993年)、翻訳書にはビーズリー著「日本帝国主義」(岩波書店)などがある。そいうことで本書はアジア経済の視点が強く打ち出されており、18世紀まではアジアの資源(一時生産品・加工品)が世界経済の中心であったという見解である。19世紀に西欧社会の科学技術がアジアを席捲してゆくという史観を取る。統計経済史のGDPで見る限り、19世紀までは世界経済の中心はアジアにあった。18世紀ではアヒアのGDPは世界の60%以上を占めていたが、18世紀の後半には40%を切り、20世紀になると25%以下になったのである。西欧経済の近代化システムをグローバル化の始まりとみるならば、それは「パクス・ブリタニカ」の時代の19世紀半ばに求められる。本書は14世紀以降「大航海時代」をへて現代にいたる約700年の世界の歴史を、アジアを中心とする歴史的文脈の中で捉えることである。18世紀末までアジアは自立した経済圏を持ち、ヨーロッパとの交易を必要としない時代であった。本書は時代を3区分して3部構成とし、第1部は「アジアの時代―18世紀」とする。第2部は「ヨーロッパの時代―19世紀」として、産業革命から「パクス・ブリタニカ」という欧米型の市場経済システムと植民地主義の時代である。第3部は「資本主義と社会主義ー20世紀」として、「パクス・アメリカーナ」とソヴィエト連邦社会主義経済の時代とする。第恐慌と世界大戦、冷戦と南北問題が主題となる時代である。歴史を見る前に結果としての現在の状況をまとめておこう。その方が見通しがよくなるからである。近代以降の世界経済の形成は国民経済の統合化の過程であったが、ソ連および東欧の社会主義圏の崩壊によって、20世紀を特徴づけていた冷戦構造が終焉し、資本主義市場経済メカニズムの優位が確定した。この余波を受けてアジアNIEsやBRICSなど新興国を組み込んだあらたな世界経済システムの再編が進み、いまや中国は世界の工場と言われ第3世界のリーダーとしての位置を占めつつある。先進国が低成長を余技ナウされるグローバル経済の中で、新興国や途上国の重要性は相対的に増してきた。2012年にはアジア全体のGDPは35%、北米が26%、欧州が26%で、世界経済の重心は再びアジアに移ってきた。アジアの中心は中国12%、日本9%である。GDPの成長率は2000年は中国10%、インド7%、東南アジア諸国5%であった。日本は0.8%、アメリカは2%、世界全体で2.7%であった。ただ一人当たりのGDPを見ると、北米、日本、ヨーロッパ、オセアニアは上昇し、アジアのそれと大きな経済格差がみられる。アジア・アフリカの貧困はまだ解消していない。地域別貿易額のシェアーはEUとアジアは32%と拮抗しているが、域内輸出額はアジア内では極端に小さく、EU域内貿易は盛んである。アジアの輸出はアメリカ・西側依存型であり、域内に向いていないといえる。世界貿易に占める新興国と途上国のシェアーは増加し2011年には世界輸出総額の40%に達した。世界最大の貿易国である中国を中心とした世界貿易の構造が再編されつつある。2001年から始まったWTOのドーハーラウンドは先進国と途上国の対立から行き詰まり、自由貿易協定FTAや環太平洋経済連携協定TPPのような多国間の経済連携協定EPAのような地域レベルでの新たな広域経済圏の形成が模索されている。世界の投資に関してはアメリカが最大の資本投資国であることに変化はないが、1980年以降相対的シェアーは減少し、中国・ロシア・ブラジルなどの役割が急増し、EUへの投資も約40%を占めている。2000年代になると再び途上国への投資が増加し、東南アジアや東アジアへ向けられてる。途上国への政府加発援助も活発化しているが、その効果は疑問視されている。途上国の都市化によって途上国のメリットであった低賃金労働によるコスト優位は次第に失われつつある。1次資源を全く持たない日本経済の活路は比較優位のメリットをめざす以外に道はない。

冷戦構造が消滅したとはいえ、経済格差構造であるである南北問題はエネルギー・環境問題に姿を替えつつある。1988年「気候変動に関する政府間パネル」IPCC設立され、1992年にはブラジルのリオで開1回国連環境開発会議」(地球サミット)で「国連気候変動枠踏み条約」が採択され、毎年COPが開催されてきた。世界にの次エネルギーの受給動向を見ると、1970年と2013年の消費量を比較すると、関つは46%から33%に減少、石炭は30%で変化なく、天然ガスは18%から24%に増加し、原子力は6%であった。石油の地域別消費量は2013年で北米欧州が45%に低下したのに対して、アジア・太平洋地域は40%まで増加した。中国は2010年にアメリカを抜いて世界最大のエネルギー消費国になった。世界の総消費量の22% を消費し、内訳は石炭が67%石油が18%である。大気の炭酸ガス濃度と地球の温暖化については確たる証拠があるわけでもなく、また地球の平均気温と言っても測定ポイントなど観測データの信頼性に疑問が大きい。世界の二酸化炭素排出量は2013年度で351億トンに増加しているが地球温暖化人為説は論証されたわけではないが、地球温暖化人為説は実によくできたセントラルドグマで、これから開発が盛んとなる途上国に対する化石エネルギ―消費を抑制し、先進国に追いつく時間を先延ばししようとする魂胆が明白で、かつ枯渇による石油価格高騰の理由になるので石油産出国の利益にもなり、石油代替えエネルギー推進と核保有のポテンシャルを高める原発推進側にも利益がもたらされる。この説に日本政府が飛びついたことは言うまでもない。電力を原発に置き換えてゆく国策の有力な根拠となった。そのツケが2011年の東電福島原発メルトダウン事故であった。中国とアメリカとロシアが参加しない京都議定書の限界は明らかで、その後の中国の経済躍進とエネルギー消費量世界一の実績を前にして、そして福島原発事故を前にして気候変動枠組機構は沈黙した。今ではCOPは形式的なイベントになった。途上国は「貧困と低開発こそが環境問題」であると主張している。現在のエネルギー・環境問題は、かっての南北問題(すなわち経済格差)が形を変えて再浮上したものであるという。1992年の国連開発会議で先進国が「持続可能な開発」について途上国の主張は真っ向から対立し、「持続可能な開発」が可能かどうかほとんど進展は見られない。グローバルな環境の悪化を可能な限り抑制するには、新興国と途上国の貧困問題の解決以外の選択肢はないようである。環境問題は同時にエネルギー問題である。途上国という言い方も通用しない昨今のことであるが、脱原発が世界の趨勢になってきたので、有限な化石エネルギーの代替え技術を急ぎ開発することが先進国・途上国の共通課題となろう。人間の歴史において刻まれた普遍的価値感である自由や平等の思想や民主主義の伝統は、全体主義・国家主義や排他主義への回帰を許容しない抑止力として機能することは間違いない。

第1部 アジアの時代ー18世紀までの世界

第1部はアジア域内貿易と大航海時代の欧州との貿易をグローバルにみることで、18世紀までは世界に物資を供給していたのはアジアであることが分かります。そして近世アジアの国際環境を中国、日本、インドについて見てゆきます。17世紀の時代には中東にオスマン帝国が台頭し、西アジアではサファーヴィー朝が最盛期を迎え、南アジアではタイのアユタヤ朝が商業国家として中国貿易で栄えました。ビルマにはタウンダー朝、ジャワには場流転王国、スマトラにはアチェ王国など港市国家が栄えた。17世紀までの東南アジアは「交易の時代」、「国家形成の時代」と呼ばれます。日本では16世紀は織田・豊臣・徳川による全国統一が進み、1603年全国政権として徳川幕府が樹立されました。西ヨーロッパでは1492年に始まる「大航海時代」は欧州をダイナミックに変えていった。中国、イスラムからの科学・技術導入の上にルネッサンスが起り近代科学文明の時代に入る。政治的には貴族諸侯を従えた絶対王政による国内統一と繁栄の時代を迎えた。アジア域内貿易はインド洋を巡る南アジアと西アジアの貿易圏と、南シナ海、東シナ海を巡る東南アジアと東アジアにわたる貿易圏の2つから構成されていた。アジアでは5月から10月にかけて南西の季節風が吹き、11月から4月にかけて北東の季節風が吹いて、2つの貿易圏はマラッカが中継点となった。南西の季節風の時期にはイスラム商人やインド昇任がマラッカに来航し、中国や日本の証人は本国へ帰った。北東の季節風の時期には中国商人と日本商人がマラッカに来航し、イスラム商人やインド商人は本国へ帰った。マラッカでは関税率は相対的に低く、港務長官が置かれて貿易を取り仕切った。アジア域内貿易で取引された物資は、インドの胡椒、綿製品や生糸、マルク島のナツメなどの香辛料、中国の茶、絹織物、景徳鎮の陶器、日本からは銀のほかに、米、白檀、工芸品、貴金属、薬種、蝋、鉄製品などの産物である。香辛料をはじめとするアジア産品に対する欧州諸国の需要が大きかったが、アジア域内ではすでに自己完結的で自立しておりヨーロッパ諸国と交易する必要性は少なかった。欧州が大航海時代を迎える背景には、オスマントルコ帝国による西アジアと地中海航路への圧迫があり、オスマントルコを経由しない海上ルートでアジア貿易をこなう機運が高まったことによる。16世紀から18世紀のヨーロッパは封建制から近代資本制への移行期になった。絶対王政で国内を統一する中央集権的な国民国家形成へ動き始めた。絶対王政とは官僚制の確立と常備軍の設置を特徴とするが、経済政策は重商主義と言われた。政府は国内インフラ整備で殖産興業を起し、外国貿易で財政の安定を図った。対外戦争による領土拡大や植民地の獲得が手っ取り早い富国策となった。そのため国家財政は膨張し「財政軍事国家」化した。東回りでアジアに最初に進出したのはポルトガルであった。1498年ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの喜望峰を迂回して、インド洋を横断しインド南西海岸カリカットに到着した。インド航路は西洋人にとっては初めての航路であるが、アジアにとっては既知の航路である。1510年にはゴア、マラッカを占領、またマカオに進出して中国貿易を行った。ポルトガルは港だけの確保に過ぎず、また支払いの銀が不足して貿易独占とまでにはゆかずに16世紀末でアジア交易は終焉した。次にスペインはアメリカ大陸経由の西回り航路でアジアに進出した。1492年コロンブスは西インド諸島に到着した。1519年マゼラン艦隊は西航路で南アメリカを経由して太平洋を横断してフィリピンに到着した。アジアにおけるスペインの支配はフィリピンに限定された。1571年マニラが建設されアジア貿易を展開した。中国商人との福建貿易とポルトガル商人とのマカオ貿易が中心であった。1580年代になると、中国の生糸、絹織物、陶磁器の買い付けに中南米の産出するスペイン銀がアジア経済を活性化した。スペイン銀はアジア地域が銀本位制になる一因となった。

オランダは1581年スペインより独立し、次いで1588年イギリスはスぺイン無敵艦隊を敗北させた。またスペインはポルトガルを併合しリスボン港を閉鎖したために、商業、金融の中心は北部のアムステルダムに移った。オランダは自力でアジア貿易に進出し、1602年「連合東インド会社」が設立された。1609年アムステルダム銀行、1611年商品取引所が創立され、アムステルダムはヨーロッパの商業、金融の中心地となった。17世紀はオランダの黄金時代であった。オランダはインド、ジャワに商館を設け、東南アジア地域の制海権の掌握によって商業利益を確保した。オランダはイギリスと対抗関係にあったが1623年のアンボイナ事件でイギリスに対して優位を確立し、イギリスは東アジア・東南アジアの交易活動から撤退し、インド経営に転換した。1630年オランダはポルトガルの拠点マラッカを封鎖し東南アジアの制海権を掌握した。アジア貿易の拠点はスマトラ島、ジャワ島の港市国家に移った。オランダ東インド会社の活動は、欧州―アジア貿易では胡椒と香辛料貿易であったが、17世紀前半はこの2品目の輸入は70%を占めた。17世紀後半には欧州貿易の主要輸入品が香辛料や胡椒から、インド産の綿布や生糸にシフトし、さらに18世紀になり茶やコーヒーの輸入が増加すると、アジア貿易の主導権はオランダからイギリスに移行した。日本は16世紀以来世界有数の銀輸出国で、17世紀前半には世界の銀輸出の約1/3を産出した。オランダ東インド会社は日中貿易に参入し、中国の生糸の交換で日本銀を入手した。1609年平戸に商館を開設し、次いで長崎出島に商館が移った。徳川幕府が金銀輸出を抑制すると、オランダ本国からアジア向けの銀の輸出が増加した。オランダと英国の抗争は英蘭戦争(1652−1684の4次にわたる)でイギリスの通商上の優位が確定し、18世紀中頃までに国際貿易の主導権を失なった。しかしアムステルダムは国際金融の中心地として機能した。アジア貿易はアジアの輸出超過であり、欧州には競争力のある商品はなく、貿易決済のために大量の金銀がアジアに流入した。17世紀後半までアジア社会は経済的・技術的に優位な立場を持っていた。西回り海路では、スペイン・ポルトガルによる南大西洋経済圏と、イギリス、フランス、スペインによる北大西洋経済圏によって、南北アメリカと西インド諸島、アフリカを繋ぐ経済ステムが成立した。ラテンアメリカではスペインが1521年メキシコのアステカ帝国を滅亡させ、1533年にはアンデスのインカ帝国を滅亡させた。ラテンアメリカや西インド諸島では植民地特有の混血文化クレオールが生まれた。それに対して北アメリカではヨーロッパ人の白人文化が移植された。南米の銀山開発が進み、スペイン銀は欧州とアジアへ輸出される2つの流れがあった。アジアの銀の最終流入国は中国くで、17−18世紀に約6万トンの銀が中国に入った。南太平洋貿易は17世紀後半から、イギリスとアフリカと西インド諸島をむすぶ三角貿易となった。西インド諸島の砂糖やコーヒーのプランテーションの労働力としてアフリカ奴隷として輸出され、イギリスは砂糖やたばこなどを輸入した。奴隷貿易は1500年ー1900年までに総数が1651万人となり、アフリカは環大西洋経済圏に統合され、イギリスが奴隷貿易の中心地であった。1807年イギリスは奴隷貿易を廃止し、フランスも1848年に廃止した。17世紀はヨーロッパ社会に大きな変動をもたらし「17世紀の危機」と言われた。ヨーロッパ社会は商業の発展と遠隔地貿易が盛んになって、社会的文化的に大きく変容した。都市化と人口の増加、物価の騰貴、絶え間ない戦争によって社会は大きく変わった。

17世紀は中国では明から清王朝に替わった。日本で戦国時代から徳川幕府が樹立された時期である。中国・日本・朝鮮三国の交易は、アジア域内貿易として日本の金銀、中国の生糸・絹織物や陶磁器、長瀬野綿布が取引された。15世紀前半明朝の永楽帝の時積極的な海外進出政策をとった。民間の海外貿易を禁止したので海賊(倭寇)が暗躍したが、明朝の対外関係システムは朝貢システムと呼ばれる。永楽帝は鄭和に命じて艦隊を率いてアジア諸地域へ7回遠征を行った。その足跡はアフリカまで及んでいる。朝貢システムは政治・外交関係と貿易関係という2つの側面を持ち、朝貢使節団には貿易商人も同行した。日明間の勘合貿易は1404年足利義満の時に始まった。回数は19回に過ぎず、琉球の171回、ベトナムの89回に比べると明への従属度は一定の距離を置いていたと思われる。明の時代16世紀には国内産業に著しい発展がみられた。経済の中心地は長江流域で江南デルタの蘇州の絹織物、松江の綿織物、手工芸品が急速に発展した。租税・賦役の銀納化は15世紀中頃に始まりった。交易による日本銀とスペイン銀の流入で世界経済につながった。1644年明朝が滅亡すると、満州女真族の清王朝が興った。康熙帝は国内統治システムの安定に力を入れ、対外的に積極策は取らなかった。清朝は1656年に海禁政策を強化し民間貿易を禁止した。1983年海禁策を緩和したので、福建、広東、寧波商人を中心に東南アジア貿易が活発化した。中国の人口は17世紀末の1億5000万人から1800年には3億1500万人にと爆発的に増加した。長城を越えて内モンゴルや、東北部、東南アジアへの移住が増加した。銀経済の発展で租税は「地税」に一本化された。欧州諸国の対中国貿易拠点は広州、廈門、寧波、上海などで行われ、貿易は「広東十三行」というギルドが支配した。広州での貿易ではイギリス東インド会社が圧倒的に優位に立ち、中国茶が主要な貿易品であった。欧州諸国にとって、日本は金銀銅の鉱物資源の枯渇で見るべき貿易品は無くなり、対日貿易は低調となった。次は日本の経済環境を概観しよう。16,7世紀も日本の貿易は、国際商品としての銀を輸出し、中国産の生糸、絹織物や砂糖、朝鮮人参などの薬種を輸入するというアジア域内貿易が中心であった。1543年ポルトガル船の種子島漂着以来、肥前の平戸や長崎を貿易の中心地として、京都・長崎・堺の証人が大規模な取引を行った。長崎の末次平蔵、京都の角倉了以や茶屋四郎治郎などの大貿易商人が活躍し17世紀初めには、356隻の朱印船が往復した。約10万人の日本人が東南アジアに渡航したという。日本が輸入したのは西陣で使う中国産生糸で、徳川幕府は糸割符商人を決めて貿易を独占・統制した。これを「生糸と銀の交易」という。幕府の対外政策は中国・朝鮮・琉球の間では朝貢システムで、ヨーロッパ諸国とは貿易とキリスト教布教の調整であった。対馬の宋氏を介した朝鮮交易と薩摩藩を貸した琉球交易という朝貢システムの経済側面を持っていた。貿易は幕府による統制下(朱印船貿易)に置かれ、欧州諸国との関係で重要なのは「貿易」と「キリスト教」への警戒心であった。1937年の島原の乱で、幕府は1641年「鎖国」体制を敷き、貿易は中国とオランダ商館を長崎出島に移した管理貿易となった。幕府の管理貿易は4つの口を持ち、長崎出島での中国・オランダ貿易、対馬藩を介した日朝交易、薩摩藩を介した琉球交易、松前藩を介した北方交易(アイヌ、ロシア)である。日本の銀が底をついたので1660年銀輸出は禁止された。18世紀半ばより日本は市場としての魅力を失い、19世紀初めより閉鎖経済システムになった。徳川時代の財政膨張による経済成長が幕府と藩の財政を圧迫していった。17世紀後半に徳川政権は世宇治的安定期を迎え、都市経済の発展につれて、大阪を中心に都市商人が活発に活動して商業経済が発展し、いわゆる「元禄バブル」という好況期をむかえたが、4代将軍綱吉の時代に寺社造営などのために財政支出が増加した。こうして幕府財政は赤字となっていった。幕府財政の再建を行ったのが、8代将軍吉宗の「享保改革」であった。年後増徴と新田開発、株仲間の結成を促して幕府財政を安定化した。10代将軍家治の下で老中田沼意次は、年貢システムに商工業者を組み込み、間接税である運上・冥加金、御用金などを加えて収入の増加を図った。積極財政政策によって経済規模は拡大したが政治的には腐敗した。18世紀末松平定信は「寛政の改革」で疲弊した農村再建を図ったが、時代遅れの改革はシッパし、19世紀初めの11代将軍家斉のもとでふたたび幕府財政は悪化し、姑息な貨幣改悪によってインフレが激しくなった。19世紀中頃アヘン戦争の対外的危機に直面して、水野忠邦は「天保の改革」を行ったがもはや幕藩体制は救いようがなかった。徳川の社会は農業を基盤とする経済であった。人口は17世紀初めの1700万人から18世紀には3000万人に増加した。石高は1600年の2000万石から1800年には3800万石となった。18世紀には年貢徴収方式は収穫高に比例する「検見法」から年貢高が一定の「定免法」に替わったので、農民の所得や生活は向上した。米のみの生産だけでなく、都市市場向けの作物市場もできたし、織物、製紙業、醤油味噌酒などの醸造業をはじめとする農村工業の発展がみられた。徳川時代の閉鎖経済システムの中でも日本型の金融・流通システムが形成され、経済的技術的基盤は整備された。

第1部はイギリスによるインドの植民地化の過程を見てゆこう。1526年イスラーム王朝のムガル帝国がインドで中央集権的軍事官僚制が成立した。直轄地の他小王国のバランスの上で成り立っていた。徴税はザブティー制といわれる定免制であった。17世紀後半から18世紀初めまでアウラングゼーブ帝の下で最大の版図を持ったが、帝の死後反イスラムの諸勢力が反乱を起し、その鎮圧のため財政は膨張し帝国財政は悪化した。ムガル時代に各地に市場が形成されてダイナミックな経済発展がみられた。ベンガル産の綿織物・生糸は地術水準が高く、アジア域内貿易の主要な貿易品であった。16世紀以降ポルトガルをはじめとする欧州諸国がインド交易に参加すると、18世紀前半まで市場は拡大し商工業は活性化した。その商取引の主要な担い手はイスラム商人、ヒンズー商人であった。一方イギリスの主要産業は毛織物業で、北欧市場も限界となり、新市場開拓のために地中海やアジアに展開した。1600年ロンドン商人が出資し勅許会社として「ロンドン東インド会社」が設立された。オランダの東インド会社に比べると規模が小さく、航海ごとの合同出資の形態であった。イギリス東インド会社も重商主義政策の一環であり、国家の代行機関として貿易独占権、司法権、軍事権を行使した。1623年オランダが東南アジアの制海権を確立すると、イギリスはインド経営に転換した。1640年マドラス、ボンベイ、ベンガルに商館を設置し、3管区の行政機構も整備した。東インド会社の商業活動はインド産絹織物や生糸の買い付けにシフトし、イギリスからインドへの輸出品はほとんどなく支払いは金銀地金によった。フランスも1664年の東インド会社を設立し、18世紀中頃には西ヨーロッパで英仏の対立が激化するのと歩を合わせて、インドでも英仏は対立抗争を繰りかえした。これにインド内部の地方政権の対立が絡んで、1757年のプラッシーの戦いからイギリスの東インド会社は貿易商というより、植民地主義による統治者に変容した。1763年パリ条約によってインドでのイギリスの優位が確定した。1765年イギリスはムガール帝国からベンガル、ビハール、オリッサ州を奪い、徴税権を獲得した。東インド会社の収入の中心は農民から徴税する地税であった。東インド会社は植民地支配の経費と「本国費」を負担するため、地税の他インド産綿布や生糸をイギリスに輸出し、本国費に代えた。徴税システムは在地領主の力が強いので彼らを地税請負人とする「ザミーンダーリー制」、イギリスが直接徴収する「ライーヤトワーリー制」、封建的村請け制である「マハールワーリー制」など地方の事情に合わせたシステムであった。こうしてインドは伝統的社会構造や権力構造を維持したまま植民地社会へ変容した。18世紀前後より東インド会社の経営は安定し、配当金は7−8%を維持したが、18世紀後半統治者の顔を持つ植民地政策をとってから、行政費と軍事費の増加で会社経営は赤字になった。東インド会社の巨額の赤字は本国政府の財政を圧迫し1884年のインド法によってイギリス東インド会社は本国政府の監督下におかれた。企業体から政府の統治機関に転換したわけである。18世紀後半から19世紀前半にかけてムガール帝国の崩壊による、地方権力の抗争に巻き込まれ、イギリスは積極的に紛争に介入し、1849年パンジャブ地方のスィク戦争で全インドを植民地化した。当時のイギリスでの産業革命により機械織機により低価格の綿織物が生産されるようになると、インドからは綿花の輸入という貿易構造に変化が生じた。18世紀後半になると、アジア域内貿易、中でもインド・中国貿易にヨーロッパ商人が参入した。イギリス東インド会社はイギリスの対中国貿易を独占し、その中心は中国茶の輸出であった。当時苦境に落ちいっていた東インド会社を救済するため、イギリス議会は1773年会社に対してアメリカ植民地に無税で輸出する権利を与えた。ボストンの商人らはこれに反発し、ボストン茶事件が起きアメリカ独立戦争の一因となった。イギリス・中国間貿易は中国の一方的な輸出超過で、貿易決済のために銀が中国に流入した。この貿易不均衡の解決のためにイギリスが考え付いたのが、インドのアヘンの中国への輸出であった。このイギリス・中国・インド貿易の関係を「アジア三角貿易」という。中国からイギリスへ茶の輸出、インドから中国へ綿とアヘンの輸出という関係でイギリスの輸入超過額を1/3に減少させた。1833年非効率な東インド会社批判が高まり、東インド会社は活動を停止した。19世紀後半になるとイギリス支配に対する反発が強くなり、「大反乱」が頻発したので、1958年インドはヴィクトリア女王による直接統治に移行し、ムガール帝国は正式に滅亡した。

第2部 ヨーロッパの時代ー19世紀

産業革命1760年から1830年頃にかけてイギリスで起きた一連の技術革新のことである。機械制大工業による量産化と低価格化が可能となった。産業革命は欧州のアジアへのキャッチアップ上で起きたもので、声によりアジア優位の経済世界をヨーロッパ優位に逆転させ、市場経済メカニズムの自立と産業社会への移行を促進し、欧州社会を画期的に変えた。産業革命に伴って欧州独特の植民地化の強化はモノカルチャーの形成をもたらし、欧州と他の地域との経済格差を固定拡大するものであった。これによりイギリスは「パクス・ブリタニカ」を謳歌するのである。近藤和彦著 「イギリス史」(岩波新書2013年)に、イギリスの歴史と「パクス・ブリタニカ」の過程がくわしく書かれているので参考になる。産業革命と近代世界(18世紀〜19世紀前半) について、次のように記述している。スペイン継承戦争(1701−13年)の結果、イギリスはジブラルタル港を得ただけでなく、ポルトガル通商同盟、アフリカ奴隷のスペイン領供給契約という特権を得た。西インド諸島にアフリカ黒人をサトウキビ栽培奴隷として輸出し、できた砂糖を本国へ輸出するという三角貿易であった。この多角貿易の利益なくしては産業革命はなかったといわれる。北アメリカへの入植者エリートは忠実なジョージ3世(1760-1820)の忠臣であったが、イギリス本国が7年戦争後の財政再建のために印紙税や茶税を次々と課したため、アメリカ属州は反抗した。そして1776年の独立宣言となった。フランスはアメリカ独立軍を支持し、スペイン、ロシアも追随したためイギリスは孤立し敗北した。1786年英仏は通商条約をむすび、フランスのワインとイギリスの綿織物を交換する条約である。イギリスではビット内閣(1783-1806)の経済行政改革が成功したが、フランスの財政改革は貴族の反動によって挫折し経済状況は明暗を分けた。1789年はイギリスでは蒸気機関によるマンチェスター綿紡績工場が始動し、フランスでは革命となった。産業革命とは19世紀のエンゲルス・トインビによる命名である。機械性工場、蒸気機関、貧富の差、景気変動と言った近代の問題に結びつけた。18世紀後半から始まった生産力の革新に伴う世界経済の再編成のことである。工場生産による産業資本主義が確立した。科学革命、啓蒙思想、消費生活、旺盛な商品需要による貿易赤字が刺激し続けた結果であった。インドのキャラコと言った贅沢衣料、中国の陶磁器などの舶来品、染料などの国内生産のために、特許、立法、金融、司法が起業家を育成した。機械学や化学、農業の発明や技術革新がその後押しをした。イギリスの輸出品の第1位であった毛織物が綿製品に取って代わられたのは19世紀初めであった。ウエジウッドの陶磁器、蒸気機関の実用化は18世紀末、鉄道の営業開始は1825年と続いた。統計経済学によると、1700-1800年の間のGDPは年0.7%にすぎず、1800年を過ぎて1.3%から1.97%に達した。本格的な経済成長が始まったのは鉄道が開設された1825年の好景気になってからであり、それまでは1780年代の産業革命の進展といっても経済的富は遅々たる歩みであった。産業革命は第2のグローバル化の契機となった。イギリスは資本主義の世界システムの中核となって、以降の世界史はイギリスの「パクス・ブリタニカ」の歴史として語られるのである。18世紀後半には海外貿易、産業技術は、オランダ、イギリス、フランスの間で拮抗していたが、オランダの技術はイギリスに移行し、イギリスでは議会制政治と財政軍事国家システムがうまく機能し、大国フランスは覇権主義によるうち続く戦争が財政赤字を生み、革命とナポレオン戦争(1789-1815)によって経済的に脱落した。イギリスは世界経済の中心となって、「世界の工場」、「世界の銀行(ロスチャイルド金融ネットワーク)」、「世界の司令部(大英艦隊)」となった。ロンドンの人口は240万人となって「世界の首都」となった。それに対抗する群と従属する群の世界の3層構造システムが出来上がった。1840年には日本はイギリス資本主義の世界システムに編入され、明維新後は従属群から対抗群への変身が図られるのである。

イギリスの工業化の出発点は16世紀半ばの薪炭から石炭へのエネルギー転換に求めることができる。森林面積の減少を前にして17世紀にかけて石炭業が飛躍的に発展した。これによって18世紀に製鉄業の技術革新、18世紀末には蒸気機関という動力の発明による輸送革命、1785年綿工業の機械化による大量生産方式の開始が始まった。産業革命によって市民の生活水準が上がったかどうか、経済成長率は飛躍的に高まったのかについては論争されてきた。経済成長率は統計的には2−3%の緩やかな成長が続いたとされている。産業革命はなぜイギリスで起こり、他の国(特にアジア)では起らなかったのかという問いは重要である。産業革命は国内外の経済的、地理的、政治的、宗教的、科学的など様々な複合要因の結果生じた創成的現象であるが、イギリス固有の条件も考えられる。次のような説が一般的であろう。
@石炭と鉄鉱石の鉱物資源が豊富であったことと、イギリス経済の特徴である高賃金は労働節約的で技術集約的な技術開発を促した。
A政治的には1688年の名誉革命により、国王の権限を制約した議会制度によって民法・商法など慣習法が進み安定した制度社会となったこと。
B宗教的には1660年のピュリタン革命の失敗で原理主義が退潮し、イギリス国教会の下で宗教と科学技術の分離が進んだ。
Cベーコン以降の科学的思考法や経験主義、啓蒙主義などの思想的風土が醸成され、「産業的啓蒙主義」が開花したこと。
グローバル経済の確立は、19世紀半ば以降イギリスの優越した経済力によって安定的な国際的経済レジームが構築される「パクス・ブリタニカ」の時代が必要であった。「パクス・ブリタニカ」は交通・通信っく明による自由貿易体制の拡大、金本位制にもとずくポンドを国際通貨とする多角的決済システムの形成など複合的な要因が集まってできたのである。イギリスは1849年重商主義的な規制や保護関税・差別関税をほぼ撤廃し、自由貿易体制が確立した。イギリスは「世界の工場」という工業生産の中心の貿易センターであり、「世界の銀行」という金融のセンターでもあった。イギリスの銀行は貿易手形割引など外国為替取引を業務とし、海上保険はロンドン保険市場で引き受けられた。ロンドンは国際金融センターとしての地位を確立した。1869年のスエズ運河の開通とアメリカ大陸横断鉄道の完成は、世界の距離を大幅に短縮した。1866年大陸間の電信線は太平洋横断海底ケーブルが敷設され、1971年にはアジアから日本まで結ばれ、電信為替による決済ができるようになった。19世紀末から20世紀初めの世界貿易の年平均成長率は3−4%でGDP成長率よりも高かった。イギリスの貿易は基本的に大西洋経済圏にあって、19世紀後半には輸出の80%は工業品が占めた。中でも綿製品は27%を占める最大の輸出品であった。イギリスの貿易収支は赤字であっても、投資・保険収入など貿易外収支の黒字でカバーされた。ロンドンは海外証券を主とする資本市場で、義リスは世界最大の海外投資国であった。1914年にはイギリスは世界の資本輸出総額の43%を占め、北南アメリで50%を超えた。イングランド銀行は1844年に中央銀行になり、1980年頃には金本位制が確立した。実質的に世界の貨幣はポンドを国際通貨とする金・ポンド本位制であっった。イギリスの海軍力のプレゼンスは実質的には19世紀中頃には優越性を失っていた。経済的繁栄に支えられたパフォーマンスに過ぎなかった。従貿易の時代は同時にイギリス産業の相対的衰退期にあり、短期の商業金融がちゅうしんで、長期の産業資金融資は敬遠された。大企業への移行や電機・化学・自動車など新産業には出遅れていた。イギリス産業の衰退とは違って、大陸ではドイツの国家主義的産業保護策もあって、鉄鋼・電機・化学産業が発展しカルテルはが結成された。アメリカ合衆国の対外貿易政策は反故貿易主義で、平均関税率は47%になった。自由貿易を基調とするパクス・ブリタニカのレジームは、非欧州地域を原料や農産物の供給地と位置づけたので、世界市場の統合はすなわち植民地主義による支配の強化であった。1880年代までにアジア地域の植民地化はほぼ終了し、次いで西欧列強によるアフリカ分割に移行した。この時代は「帝国主義」と呼ばれた。アフリカは市場や資本投資先としての意義はなく、将来を見込んだ囲い込みという領土占領だけが目的であった。

アジアの近代化を、中国・日本・タイについて見てゆこう。その時代のアジア情勢については、吉沢誠一郎著「清朝と近代世界 19世紀ーシリーズ中国近現代史1」(岩波新書 2010年)に詳しいので参考になる。アヘン戦争の背景となるイギリスの3角貿易関係を下に図示する。19世紀は凶暴なヨーローパ列強国が科学技術を背景に優越した軍事力を行使して、経済市場支配を求めて世界中を侵略しそして植民地化してゆく世紀である。この時期のアジアで国家的独立を維持できたのは、中国、日本、タイ、ペルシャ(イラン)であった。下の図は表の交易と裏の交易を示す。表の交易とは中国の茶を英国が東インド会社を使って買い付ける流れである。東インド会社は毛織物の輸出との差額を銀で支払っている。東インド会社はロンドンに茶を送って決済手形を得る。裏の取引とはイギリス地域貿易商人がインドから仕入れたアヘンを密輸業者を通じて中国に売り、中国から銀を受け取る。地域貿易業者はこの銀を東インド会社に持って決済手形をえてロンドンに送る。こうして表の取引と裏の取引において、銀と決済手形は循環しているのである。

アヘン貿易の構図

1820年代にはインド・中国間貿易はアヘン輸出によってインドの輸出超過となり、中国から大量の銀が流出した。アヘン吸引人口の急増と銀流出に苦慮した清朝政府は林則徐をしてアヘン取り締まりを強化した。イギリスの武力行使によってアヘン戦争(1840−42年)が始まった。圧倒的なイギリスの軍事力の前に屈服した世院長は南京条約を結んで、南部海岸の五港を開港した。さらにアメリカとフランスと不平等条約を結ばざるを得なかった。近代ヨーロッパ的国際法による「条約体制」に中国は呻吟した。イギリスは1956年フランスと共同で広州を占領し「アロー号戦争(第2次アヘン戦争)」を起し、1958年天津条約、1860年に北京条約を結び、アヘン貿易を合法化し、香港、上海の開港場にはイギリスの銀行が設立された。中国から東南アジアへの出稼ぎ民は「苦力」、「華僑」と呼ばれ、開港場で貿易を牛耳ったのは「買弁」(ネットワークを持つコンプラドール)と呼ばれ、中国の商業経済体制も発展した。列強の前で清朝の威信が低下し、キリスト教徒による太平天国の乱(1851−64年)が起きたが、清朝洋務派の曽国藩、李鴻章らの漢人官僚らが乱を平定し、洋務派による近代化政策が行われた。第1期は1860−70年代の軍備の近代化であり、「官督商弁」(官営企業)であった。しかし1884−65年のベトナムにおける清仏戦争に敗北したが、これを契機に海軍を中心とする軍備の増強と製鉄業の振興を図った。清朝の支配が弱まると群雄割拠の軍閥化が進み、洋務派の近代的国家形成は進まなかった。フランスは1850年以降インドシナの進出し、ベトナム三省を割譲させ、63年にはカンボジアを保護国化した。83年にはベトナムを保護国化した。中国は1871年に日本の明治維新政府と「日清修好条約」という不平等条約を結んだ。1876年日本は朝鮮と「日朝修好条約」を結び三港を開港させ、朝鮮対する日本の進出を許した。朝鮮における日本と中国の対立は1894年「東学党の乱」を契機にして日清戦争となった。日本に破れた清朝は95年に「下関条約」によって、朝鮮の自主独立承認と、遼東半島・台湾の日本への割譲、四港の開港などを認めた。日本は賠償金によって日清戦争の戦費を賄い、金準備にあてて金本位制を確立し、先進国入りを果たした。中国の近代化政策は1998年「戊戌政変」で康有為が変法運動という体制改革を行ったが短期で失敗し、1900年「義和団事件」という排外主義的傾向が強まった。清朝は西洋と日本の8か国に宣戦布告をしたがあっさり敗北し、北京条約を結ばされた。民間では孫文らが三民主義(民族・民権・民主)を主唱し、1911年「辛亥革命」によって清朝は滅亡した。

中国、日本、タイを除くすべてのアジアの国々を植民地化し、いろいろな通商条約で体制化を果たした西欧列強(特にイギリス)の下で、19世紀後半にはパクス・ブリタニカの世界貿易の安定的拡大と多角的決済機構の形成の下で、アジア経済も自由貿易に基づく国際分業体制の中に統合された。アジアは欧米市場向けの農産物や一次産品の輸出地域として固定化され、植民地的なモノカルチャー経済が拡大強化された。特に東南アジアの貿易収支は輸出過剰で、輸出の50−60%は西欧へ、30−40%はアジアに向けられた。1870年に欧米の主要国が金本位制に移行すると、銀を放出したので銀本位制を取るアジア地域にとって銀価格低下は通貨安となり、アジアの輸出には有利に展開した。日本と中国の主要輸出品は生糸と茶、主要輸入品は中国のアヘンは除いて、綿布と砂糖であった。貿易相手国はイギリスである。そのほか日本からは石炭がアジア市場に、銅が欧米市場に輸出された。日本の工業化によって綿糸輸出が増加し、日本はアジア域内で工業国としての位置を占める様になった。英領インドはイギリスの貿易枠に組み込まれていたが、綿花、ジュート、紅茶、穀物、油種子の生産地としての経済開発が行われた。1845年大規模なインド半島縦断鉄道が敷かれ、電信ネットワークが整備され、ボンベイで貿易工場が建設され、1907年にはタタ鉄鋼会社が設立されるなど民族財閥の成長がみられた。インドは1893年に金為替本位制に移行した。東南アジアは多様な地域からなっている。そこに住む人種も多様で、小王国の乱立によって、またヨーロッパ諸国のかく乱によって、容易には国民国家の形成には向かわなかった。アジアにおける植民地政策は、イギリス・オランダの植民地では自由貿易政策が、フランス領インドシナは保護政策がとられた。1914年のアジアへの外国直接投資額は、蘭領インドと英領マラヤが多く、石油とゴム及び砂糖のプランテーション、鈴鉱山の開発に投資された。ヨーロッパ系の銀鉱は東南アジアの各主要都市に開設された。1820年のマラッカ海峡の勢力分割が行われた英蘭協約で、スマトラはオランダに、イギリスはペナン、マラッカ、シンガポールを植民地化した。マレー半島における錫鉱山開発が行われ、イギリスは1874年に生産地の行政権を獲得し、1914年には英領マラヤを設立した。錫鉱山経営は中国人が掌握したが、ヨーロッパ企業が精錬技術開発によって優位に立った。20世紀になると、自動車産業の急速な発展によって(1903年フォード社、1907年GM社設立)マラヤやスマトラでイギリス資本によるタイヤ用ゴム栽培がおこなわれた。大規模な天然ゴム栽培のプランテーションが作られ、世界のゴム需要の50%を供給した。ゴム生産工場の労働者の大部分はインド南部のタミル系インド人であった。こうして第1次世界大戦前には英領マラヤの輸出額の94%が錫とゴムが占めた。モノカルチャー経済が形成された。主要輸出品を見ると(1911年)、英領マラヤでは錫・ゴム、蘭領インドでは砂糖・タバコ・石油・ゴム、英領ビルマでは米・石油、タイでは米・錫、仏領インドシナでは米。フィリッピンではマニラ麻・砂糖であった。1777年にオランダ東インド会社はジャワ島全土を支配下に置いた。蘭領インドでは砂糖・タバコ・石油・ゴムのプランテ―ションが始まったのは19世紀半ばからである。大規模な砂糖プランテーションが展開され、ジャワ砂糖の輸出は最初は欧州向けで、1870年代には砂糖とコーヒーで全輸出額の70%となった。20世紀になると輸出先は欧州からアジア向け、中でもインドが重要な市場となった。1910年以降にはジャワのゴム栽培が急速に発展し、1920年代にはその輸出量は英領マラヤに匹敵するようになった。オランダの勢力範囲に入ったスマトラ島の経済開発は1870年代から始まり、20世紀にはゴムのプランテーションが行われた。フィリッピンは1902年米西戦争でアメリカの勢力範囲に入り、対米依存の貿易構造が強化された。船舶用ロープのマニラ麻と砂糖に特化したモノカルチャー経済となった。東南アジア大陸部の水田開発は1850−1860年代に英領ビルマ、タイ、仏領インドシナの三大河口デルタ地域を中心に行われた。ビルマは1852年の第2次英緬戦争でイギリス領に併合された。上ビルマは独立を保ち近代化を図ったが、1885年第3次英緬戦争で全ビルマは英領となった。イギリスは1870年までにデルタ地帯の大規模新田開発を行い、米輸出量は拡大した。ビルマ米の輸出先は最初はヨーロッパであったが、20世紀になるとインド市場向けにシフトした。米生産労働者は南インドの移民であった。全輸出額の65%がコメが占めた。こうしてビルマでは米の生産と輸出に特化したモノカルチャー経済が形成された。フランスは1887年仏領インドシナ連邦を作りラオスを保護下において、メコンデルタの開発を行い「サイゴン米」を輸出した。タイでは米が輸出総額の50%を占める最大の輸出品であった。こうしたヨーロッパ諸国によるアジア経済の植民地主義的再編は、経済のモノカルチャー化を促進し、東南アジアの工業化を遅らせる要因となった。

第3部 資本主義と社会主義の時代ー20世紀

第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に、「パクス・ブリタニカ」から「パクス・アメリカーナ」に移行した。2つの世界大戦間は1929年10月の世界大恐慌を境に明確に違った様相を示した。前半は国際協調に基づく軍縮や金本位制の再建によって、ヨーロッパの国際秩序の再構築を目指した時期であった。それは「ヴェルサイユ体制(パリ講和会議)」、「ワシントン体制(海軍軍縮会議)」と呼ばれた。それに対して1930年以降は経済不況の長期化とブロック経済化で主要国間の対立が激化した時期であった。第1次世界大戦後の主要な経済的課題は、ヨーロッパの経済復興とドイツ賠償金問題、金本位制への復帰による安定した国際経済システムの再建であった。アメリカは欧州連合国の戦時債権の40%の債権を保有し債権国に転換した。世界の金準備の約40%を占める経済大国に躍り出た。1922年ジェノア国際経済会議で金本位制に復帰すると決められ、英国、フランス、イタリアが新平価で復帰した。こうして再建された金本位制は、ポンドとドルの二つの機軸通貨ち、ロンドンとニューヨークの二つの金融センターを持つため、流動性は不安定で紳士協定に過ぎないと言われた。1930年代は脱グローバリゼーションの時代で、ナショナリズムがリベラリズムを圧倒した。世界経済の混乱の原因はイギリスの後退とアメリカの指導力の欠如(不干渉モンロー主義)であった。アメリカは世界最大の工業国と農業国となったが、貿易政策は基本的に高率関税による国内市場優先の保護貿易政策を取っていた。1920年代のアメリカは、住宅、自動車、家電製品をはじめとする耐久消費財の大量生産技術と大量消費のアメリカ式生活様式が普及した。大量の資金がニュヨーク市場に流入し、国内株式投資に向けられた。1929年10月「ブラックサーズディ」で吊り上がった株価が暴落した。一連のアメリカの政策の失敗と保護貿易主義は、世界的規模での不況の長期化と雇用問題をもたらした。ヨーロッパでは金融危機が連鎖的に起こり、1931年イギリスの金本位制は崩壊した。1933年ロンドン国際通貨経済会議が67か国を集めて協議したが、金本位制の再建・通貨の安定は失敗に終わり、ブロック経済以外の選択肢はなくなった。同年ルーズベルト大統領は金本位制を停止し「ミューディール政策」を実施した。1932年をピークとして世界の失業率が高まり、ドイツは45%、イギリスは22%、アメリカは27%となった。主要国における世界恐慌からの回復が、結果的に戦争による軍需関連産業の発展による経済の軍事化という道しか残されていなかったのは不幸なことである。1917年ロシアでレーニンがボルシェビキ革命を成功させ、ソ連が生まれた。レーニンはネップ(新経済体制)を採用し、産業の国有化と計画経済を主導した。鉄鋼や電力など重工業の経済計画によって、10年間のGDP平均成長率は4.6%ととなり、アメリカに次ぐ工業国となった。ソ連は1934年に国際連盟の参加し次第に発言力を増していった。この時期欧州では国境を越えたや国籍企業が急速に拡大した。消費市場型(食品、繊維、事務機)と原料資源型(石油、鉱物、ゴム)の分野で多国籍企業が企業統合を行い巨大化した。これには高率関税を回避するために輸出型企業から現地生産型の転換したからである。世界の巨大企業の例は煩雑になるので省略する。次に日本経済について見てゆこう。第1次世界大戦前の日本の国家財政は破たん寸前で、金本位制の維持も難しく、国際収支の危機に直面していた。第1次世界大戦は欧州が戦場であったので、日本は「大正の天祐」という輸出の急増と輸入の減少になった。そして債務国から一時的にも債権国になった。しかし戦後不況、1923年関東大震災、1927年金融恐慌後の不況が続いて、原敬内閣の高橋是清蔵相は金本位制への復帰を見送った。1930年浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は金本位制に復帰したが、もはや遅すぎた。金が日本から流出するだけのことであった。1931年にイギリスが金本位制の停止を行い、日本は満州事変に突入した。同年犬養毅内閣になって高橋蔵相は金輸出禁止措置をとった。高橋蔵相の財政政策は、軍需産業を中心とする軍事費の拡大によって不況脱出を図るもので、赤字国債発行で軍事費は40%膨張した。赤字国債発行に歯止めがかからなくなり、高橋財政は中国進出とセットになったフアッシズムの道を切り開いたが、自身が2.26事件で暗殺されるという皮肉な結果となった。満州事変後日本への非難が高まり、国際連盟脱退と諸外国との通商条約破棄が続き、アジア域内での貿易、対米貿易に傾き、次第に円ブロック経済の拡大と強化が不可避となった。

第2次世界大戦後の戦後経済の再建を見てゆこう。戦後の世界は「東西対立」と「南北問題」に象徴されるが、中でも米ソ2大国の存在は大きく、第3世界との関係強化の競争となった。西側の国際秩序はアメリカのリーダーシップのもとに再建されたが、パックス・アメリカーナの最大の課題は通貨と貿易の問題であった。第2次世界大戦後のアメリカの金保有額は全世界の約半分に増加し、圧倒的なドルの力にもとで米ドルを唯一の機軸通貨として為替安定の基金を設立した。1945年末に「国際通貨基金IMF」と「世界銀行IBRD」が設立された。IMFは「最後の貸し手」としてブレストン・ウッズ体制が始動した。貿易については、自由・多角・無差別を基本とする「関税と貿易に関する一般協定(GATT)」が結ばれた。この戦後の通過・金融システムの安定と資本・貿易の自由化の枠組みを総称してIMF・GATT体制という。ブレストン・ウッズ体制は、ドルを国際通貨とする金為替本位制で、ドルのみが金にリンクし、他の通貨はドルを通じて間接的に金にリンクする固定為替相場制(1ドル=360円)であった。1948-1967年間に加盟68ヶ国が2回以上為替切り下げによる調整を必要としたように、通貨調整の自動的なメカニズムは働かなかった。そこにIMFの限界があった。1960年代アメリカはベトナム戦争謎財政支出の増大と石油メジャーなど多国籍企業の対外投資の増大により、財政赤字と国際収支の悪化が顕著になり、ドルの信用が揺らいでドル危機に直面した。1971年ニクソン大統領はドルの金兌換を停止するニクソンショックとなった。主要国は為替相場制に移行したスミソニアン合意により、為替レートの再調整が行われ1ドル=308円になり、1973年には1ドル=265円に落ち着いた。貿易は1960年代のケネディ・ラウンド、1970年代の東京ラウンドという一連の高く貿易交渉が行われ、関税率引き下げや非関税障壁の撤廃など自由化が積極的に進められた。戦後の資本移動は証券投資から直接投資に移行し、投資受入れ地域は西ヨーロッパやアメリカ向けの先進国間の相互都市が増加した。途上国への資金移転パターンは民間から、政府開発援助ODA、IMFや世界銀行による国際機関による経済開発援助が増加した。投資対象は一次産業から製造業や保険・金融などのサービス産業にシフトした。貿易関係は宗主国と植民地の一次産品から、工業品を中心とする先進国間の水平貿易に移行した。旧植民地では、西欧モデルの開発理論で投資が増加したにもかかわらず、工業化は進まず先進国と途上国の経済格差が拡大し「南北問題」が表面化した。国連では1963年「国連貿易開発会議UNCTAD」が設立され、格差を解消するには貿易構造や関税の低減などの制度的枠組みが必要であるとした。「従属理論」によると、経済発展と低開発はコインの裏表に過ぎず、資本主義の新たな搾取収奪体制であるという。政府開発援助は新たな植民地政策であるという。第3世界の雄である中国では毛沢東の人民公社が失敗し、大躍進が惨めな結果に終わった。毛沢東の教条主義は中ソ対立を生み中国経済は大混乱に陥った。1978年以降ケ小平の「改革開放政策」に転換し、市場経済システムを取り入れた。1970年代の2度にわたる石油ショックで先進国が足ふみしている間に、第3世界の中で構造変化が生じた。韓国・台湾・シンガポールなどアジアNIEsの目覚ましい経済発展があり、産油国のオイルマネーは膨大となった。これにより第3世界が分裂し格差が生まれた。タイやインドネシアを含めて「東アジアの奇跡」と呼ばれたこの地域での経済成長率は1965-1990年には平均5%に達した。アジアNIEsは低賃金労働に比較的優位を武器に労働集約的製品に特化し、先進国向けに輸出するパターンを取り、家電やITのパーツ生産にシフトした。強力な独裁政権による政府主導の「開発独裁」による経済成長であった。生活が向上するにつれ、政治的民主化や経済的自由を求める世界の潮流のなかで開発独裁は変容を余儀なくされた。1980年代は金融の自由化と通信技術の核心を受けて、国際分業システムが再編成された。2000年より中国のGDPの伸びは著しく、2010年には日本を抜いてアメリカに次ぐ世界第2位となった。先進国では生産コストが高く価格競争力が失われ、企業は第3世界に生産拠点を移して、国内の空洞化現象が顕著になった。世界貿易構造の変化も著しく1986−1994年のウルグアイ・ラウンドではもの以外のs−ビスに対象が移された。1995年にGATTはWTOに発展し、2001年から始まったドーハ・ラウンドは先進国と途上国の対立から交渉は完全に行き詰った。1980年代には金融ビッグバンで規制緩和や自由化が進み、政治経済的に新自由主義と言われる市場原理主義の潮流が強まった。サッチャー・レーガノミクスが一世を風靡した。アメリカの貿易収支・財政収支の「双子の赤字」はアメリカの経済力の低下を物語っている。1980年代アメリカの不振とは対照的に、ドイツ、日本の貿易黒字は急増し、貿易不均衡の是正が大きな問題になり、1985年のプラザ合意で為替レートは1ドル=130円までに進んだ。日本は、円高対策として財政膨張(内需拡大の公共工事支出)と金融緩和政策をとることを約束させられ、この内需拡大策は赤字国債発行による財政悪化になり、金融緩和策は1990年のバブルを引き起した。それは平成不況をもたらし、国家財政は再建不能なまで破綻した。国内的には格差拡大と産業空洞化が進み、深刻な社会問題となっている。21世紀以降の日本の財政問題については志賀櫻著 「タックス・イーター−消えてゆく税金」(岩波新書 2014年12月)に詳しいので、省略する。


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