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斎藤 憲著 「アルキメデス『方法』の謎を解く」
岩波科学ライブラリー232(2014年11月)

ギリシャ数学史に輝くアルキメデスの求積の技法ー代数と解析学なくして、幾何学の知恵の限りとその限界

ベルリンのアルヒェンホルト天文台にあるアルキメデスのブロンズ像

斎藤 憲著 「ユークリッド『原論』とは何か」(岩波科学ライブラリー 2008年)に述べてあることだが、アルキメデスはユークリッドに後れること数十年シチリア島に生まれ、前212年ローマ軍に包囲されて兵士に殺されたといわれる。本書 斎藤 憲著 「アルキメデス『方法』の謎を解く」(岩波科学ライブラリー 2014年)の著者は、前書とおなじ斎藤憲氏であるので、著者のプロフィール紹介は省略する。ギリシャ数学史を専攻する斎藤憲氏の同じアプローチによる双子のような著作である。シチリア島(シュラクサイ)を征服したローマの将軍マルケルルスのことは、1世紀の歴史家プルタルコス「英雄伝」に書かれており、シュラクサイの攻略・陥落およびアルキメデスの活躍ぶりを伝えています。プルタルコスはアルキメデスが作らせた機械の威力を延々と記述し、ローマ軍は投石器、クレーン、集光・投光器などで容易に近づけず持久・包囲戦を余儀なくされたと書いています。アルキメデスの家に乱入したローマ軍兵士に「私の円を乱すな」と一喝したため殺されたとされていますが、真偽のほどは定かではありません。リウィウスの「ローマ建国史」は誰がアルキメデスを殺したかは分からないとしている。とにかく当時の地中海を巡るローマとカルタゴとの第2次ポエニ戦争のなかで、アルキメデスが殺されたことは確かである。前218年カルタゴのハンニバルがスペインからアルプス越えでローマに攻め込んだが、あと一歩というところでなぜは引き上げている。その報復戦でローマの将軍マルケルルスはカルタゴの拠点シュラクサイを攻略したのである。シュラクサイ(シチリア)はいまでこそイタリアに属していますが、ローマに支配されるまでは、東部はギリシャ、西部はカルタゴの勢力範囲にあった。シュラクサイは紀元前733年にコリントスを首都として建国されたギリシャの植民市の一つであった。シュラクサイが歴史上に登場するのは、紀元前5世紀前半(前485年)にゲロンという有能な僭主が現れ、東部シュラクサイから南イタリアまで影響力を持つ国家に成長したことからです。この頃ギリシャ本土はペルシャ戦争(前492−479年)のただ中にあり、ギリシャ連合軍(デロス同盟)が大国ペルシャを破り地中海貿易を独占し植民市を拡大し黄金時代の繁栄)民主制アテネ帝国)を迎えました。ところがシュラクサイではカルタゴとの戦いの方が重要性を持っていました。ペルシャ戦争ではゲロンは、ギリシャとペルシャの両方に通じ二股をかけていました。前478年ゲロンの後を継いだヒエロンはイタリア南部に進出しました。アテネの繁栄は、民主制を取っていたことと密接に関連します。すべては民会で決定されます。そのため弁論術が発展し、それを教えるソフィストと呼ばれる移動教師が珍重された。弁論で人を説得することは、論理学や倫理学を発展させました。世の中の人からソフィストを見なされたソクラテスは大のソフィスト嫌いでしたが、論証数学はソフィストの時代にアテネの出現した言われる。論証数学がピタゴラス(前6世紀)に由来するという説は否定されています。彼らの一派は宗教集団であったからです。アテネ連合帝国は主導権を巡る内戦となり、アテネとスパルタとが長期のペロポネソス戦争(前431-404年)を戦い、アテネは敗北しました。そのアテネの敗北のきっかけは前415年アテネがシュラクサイに大軍を派遣し壊滅したことです。アテネの民主制は廃止され、寡占独裁制そして民主制の復活と迷走を深める中、前399年ソクラテスが死刑になったことは、プラトンの「ソクラテスの弁明」に書かれています。しかし強大なアテネを打ち破った前4世紀のシュラクサイは比較的安定した政体を持っていました。前4世紀前半には民主制よりは哲人王の賢人独裁制を夢見たプラトンは3度もシュラクサイを訪問しています(前388,367、361年)。シュラクサイの僭主制はディオ二ソス1世、2世と続いて、2世の暴政で一度は混乱しますが、ティモレオンの時代に安定し、そしてまた混乱期になります。前4世紀後半はヘレニズム時代になり、前338年マケドニアのフィリッポス2世はギリシャを支配し、その子アレクサンドロス大王インドに至る大帝国を築いた。シュラクサイは前316年僭主アガトクレスの時代にカルタゴを破りアフリカに進出し、イタリア東南部を支配しました。アガトクレス後は前289年民主制に戻り、国制は安定しなかったといわれる。前275年ヒエロンが王となって60年間シュラクサイを統治し安定した政体を保ったとされている。ちょうどアルキメデスの全生涯に重なる時期です。ヒエロン王は第1次ポエニ戦争(前265−241年)にカルタゴと結んでローマに対抗するが、前263年ローマと講和しシュラクサイは安定しました。

アルキメデスの故郷シュラクサイを巡るギリシャ世界の興亡はこれくらいにして、アルキメデスの生涯(前287?−212年)の話に移ろう。アルキメデスが死んだ年は前212年で確実であるが、生まれた年は定かな説は有りません。紀元前2世紀の歴史家ポリュビオスは、「歴史」でローマとの戦争のときアルキメデスは老人であったと記述しているので75歳説をとると前287年生まれとなる。アルキメデスの伝記は何も伝わっていない。ゲロン王の諮問「星の数は数えられか」に答えて、アルキメデスは「砂粒を数えるもの」という著作を献呈したといわれる。10の63乗まで数える見積もりを示しました。この話からアルキメデスそして彼の父が天文学者であったという伝承があります。アレクサンドリアの友人に著書を送ったということから、アルキメデスはアレクサンドリアに遊学したのではという意見もありますが、それ以外はアルキメデスはずっとシュラクサイで過ごしたようです。アルキメデスに関する逸話はかなり多く伝わっている。特に技術者としての逸話は豊富です。一番有名な逸話は公衆浴場から裸で飛び出して「へウレーカ 分かったぞ」と叫んで家に戻ったというものです。あふれた湯船の水量で分かったのか、自分が軽く感じることで分かったのか、それは後ほど計測の精度の問題となります。シュラクサイのヒエロン王が金の冠を作らせて神殿に奉納しました。金の塊を職人に渡して作らせたのですが、銀が交ぜられたという告発があり、ヒエロン王はアルキメデスに判別を命じたという。周期律表によれば同系列にある金Auと銀Agでは原子番号はAuが80、Agは47です。金に他の金属(軽い金属)を混ぜると、同量の重さの金に比べて比重が小さくなり(体積が多くなり)ます。甕を水でいっぱいにし、そこへ冠を入れてあふれた水の量を測るため、冠を取り出して、再度水を注いでいっぱいにして、あふれた水の量を量ったということですが、実際問題として冠に付着した水の量や水の表面張力の影響で水嵩を正確に量る事は意外に困難です。経験のある方なら分るが、ピペットで水量を量る際、ピペットやメスシリンダーの表面張力の補正が必要なことは、定量分析化学の基礎中の基礎として学生実験で教わりました。今そんな教育をしているかどうかは知りません。そこでアルキメデスがとった方法は浮力を利用したという説です。銀を混ぜた冠は同量の金塊そのものより比重が小さくなり、体積が大きくなります。それと同体積の水の量だけ軽くなる「浮力の原理」を利用するのです。1Kgの純金ですと、金の比重は19.3ですから体積は約52cm3、銀では比重が10.5なので体積は約67cm3です。もし金を700g、銀を300gの合金とするなら、合金の色で見破られないとしても、比例計算で純金1kg の冠と30%合金では体積で56.5cm3と52cm3となり、両方を同時に水につけて天秤でバランスを量ると、浮力の差は水の比重を1として4.3gとなります。これなら天秤で容易に傾くわけです。次に有名なアルキメデスの言葉は「私に立つ所を与えよ、そうすれば地球を動かして見せる」という「剛体の梃子の原理」です。(流体力学では油圧の原理、パスカルの原理ともいいます) この梃子の原理を利用し、立体の体積や重心を求めています。ヒエロン王の所有したシュラコシア号(積荷3700トン、総トン数8000トン以上?)を滑車やウインチを用いて進水させました。また船内のたまった海水をくみ出すためのらせん型ポンプ(くみ上げ機)を考案しました。まずこういう話は話半分に聞いておくべきでしょう。しかしアルキメデスの名を不朽にしたのはこうした逸話ではなく、その著作によってです。求積(面積・体積)およびてこの原理や浮力の原理に関わるテキストが数百ページ現存します。「平面の釣合」では重心やてこの原理を証明し、三角形の重心が中線の交点にあることを帰謬法で証明しました。かれは放物線、半球、円錐曲線の回転体の重心を決定しました。関数論や解析論のない時代に幾何学的に求めることは天才的だと言わざるを得ません。「浮体について」では放物体の切断面の重心位置と浮力の原理が組み合わされ、傾いた船体の回復力が求められました。水面下にある船体の重心に浮力が働き元の船体の重心殿位置関係で傾きと反対方向へ復元力が働くのです。「放物線の求積」、「球と円柱について」、「螺旋について」、「円錐状体と球状体」についての一連の著作があります。これらは後ほど求積問題として考察しますが、放物線の切片、球、円錐曲線の回転体(回転放物体、回転楕円体、回転双曲線)などです。この論文はアレクサンドリアにいたドシテオスに宛てたものでした。ギリシャ時代の数学者はまともな証明なしで命題のみを発表することが多いことはユークリッドのところでも述べた。それが多くの疑義を生み解釈を生んだ。アルキメデスの成果はそれほどアレクサンドリアの数学者の関心を引かなかった。むしろユークリッド幾何の作図法や軌跡、アポロ二ウスの円錐曲線が流行していたからである。アルキメデスが長年にわたって求積問題を研究できたのも、当時のシュラクサイとローマの講和による安定期が長く続いたことによる。しかしアルキメデスの幸・不幸はギリシャ社会の中心ではなく辺境のシュラクサイにいたことである。

アルキメデスのテキストの写本は20世紀になって初めて知られた重要な写本があります。これをC写本と言いました。そこでこの本の考古学を振り返りましょう。センセーショナルなC写本の復活は、1998年ニューヨークのクリスティーズの競売上で起きました。羊皮紙にギリシャ語で書かれたアルキメデスの写本で、ビザンチン帝国で10世紀に写され、13世紀に一度消されてその上に祈祷書が上書きされた「パリンプセスト」で、落札は約2億円でした。写本は表面をこすって文字を消し別の著作を写してありました。写本の価値を決めたのは祈祷書ではなく、かすかにわかる程度のアルキメデスの著作でした。アルキメデスがアレクサンドリアに送った著作はパピルス(植物繊維)に書かれていたはずです。パピルスは耐久性がなく、乾いた土地でしか保存できません。当然アルキメデスの著作は古代後期には羊皮紙に書き直された。現代に伝わるギリシャ語の写本は大半が9世紀以降東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のコンスタンチノープルで筆写されたか、その写しである。古代ローマ帝国は395年東西に分割されて統治されたが、476年西ローマ帝国はゲルマン族によって滅亡し、東ローマ帝国は縮小しコンスタンチノープル近辺だけの小国家でしたが1453年オスマントルコによって滅ぼされるまで千年近く存在していました。この東ローマ帝国はギリシャ国家として9世紀ごろ国力を回復し、文化学芸が花開いた時期があり、ギリシャ語の写本が整備されました。そこでアルキメデスの写本が復活しました。ただ系統的なアルキメデス著作集というものはなく、3つの部分的な写本が存在します。A写本は9世紀に作られ主要な著書を網羅する重要な写本でしたが、15世紀ルネッサンス時代のヴェッラが所有していましたが、その後失われ現存しません。いくつかの写しが存在し、ほぼ完全に復元されました。次に重要なのがB写本です。13世よりバチカンの所有物です。ギョームがラテン語訳の自筆写本を作りましたが、14世紀にB写本そのものが失われ、今はギョームのラテン語訳しか存在しません。印刷術以前には大量に写本を作ることは有りませんので、写本が無くなれがその系統は断絶します。8世紀半ばよりギリシャ数学テキストの大半はアラビア語に訳され、それがラテン語訳の基本テキストになっています。1899年「ストマキオン」というアルキメデス著作のアラビア語訳の断片が発見され、そこには断片14個から正方形を組み立てるパズルの解法の数を論じたものです。組み合わせ論の計算を目的としたものらしく、順列組合せが古代ギリシャ時代に注目されていたようです。アルキメデスの写本ではいわゆるギリシャ語訳のC写本が重要でした。これはエルサレムの聖サバス修道院に祈祷書としてあったと伝えられてきました。19世紀に聖墳墓協会のイスタンブール分院に移されました。この教会のティッシェンドルフという聖書研究者が1846年に祈祷書の下に数学の著作が書かれていることに気が付きました。デンマークの文献学者ハイベア(1854−1928年)はギリシャ数学文献の校訂版の大半を作成するという超人的な成果を上げてきた研究者です。1906年ハイベアはイスタンブールに行きC写本を閲覧しました。祈祷書の文字の下からアルキメデスのギリシャ語著作集である「球と円柱について」、「浮力について」、「ストマキオン」の断片を確認しました。それよりも重要なテキストとして、「方法」と呼ばれている「エラストテネスに宛てた機械学的定理に関する方法」という標題を持つテキストのことです。求積学と機械学が融合したアルキメデスの数学と技術の最高傑作が書かれているもので、ギリシャ数学研究史上20世紀最大の発見でした。ハイベアは1908年再度イスタンブールを訪れ「方法」のほぼ全体を解読し、1915年新たなアルキメデス改訂版を完成させました。ところがこのC写本が行方不明になりました。1971年その一枚がケンブリッジ大学で発見されました。これはどうやらティッシェンドルフが切り取って盗んできた1頁だそうです。1998年ニューヨークのクリスティーズの競売に掛けられたC写本は、ハイベアが閲覧したものより著しく傷んでいました。カビだらけ穴だらけというひどい保存状態でした。どのような数奇な過酷な運命にあってきたのでしょうか。1923年トルコ共和国が生まれ国境線変更に伴うギリシャとトルコ住民の交換がおこなわれ、ギリシャ正教徒がこっそりとこのC写本(祈祷書として)をアテネに持ち込んだようです。1932年イスタンブールの骨董商ゲルソンが入手し、祈祷書として細密画を描かせた。そしてナチスの迫害を逃れるためゲルソンは写本をシリエに売却し、交換条件でイスタンブールに脱出しました。シリエはナチスに売りつける魂胆だったようです。1970年代に写本はシリエの娘のところにあり、それから売却に向けて動き出したようです。この写本を落札したのは、シリコンバレーのIT産業で財を成した人物だそうです。写本は博物館に委託され、管理費から研究費までオーナーが提供しているそうです。2001年写本の調査を行っていたスタンフォード大学では、紫外線で羊皮紙が蛍光をだし文字のコントラストが鮮明になる技術で解読調査をこなってきたが、今は画像のコンピューター処理により、通常光写真と紫外線写真の比較から、祈祷書は黒もしくはグレーに見え、アルキメデステキストは赤く見える「疑似カラー画像」を作成している。さらに鉄に注目した蛍光X線分析による解読も行われた。この技術は美術絵画の顔料調査には欠かせないおなじみの技術である。こうしてC写本の全ページを解読したギリシャ語訳が2011年に刊行された。

1) 2重帰謬法の発明ー放物体の求積

アルキメデスによる体積決定は、@2重帰謬法という「・・でないとすると、矛盾する」という背理法の議論による、A著作「方法」で使われる発見的方法によるもので、近世の微積分の手法につながる独創的な方法であるが、厳密性に問題があるとされる。この章では@の2重帰謬法について考察しよう。この方法はアルキメデスより1世紀前のエウドクソス(前390−337年、プラトンにほぼ重なる)によって発明された。アルキメデスより少し前のユークリッドの「原論」でも使われている。アルキメデスはこれを改良し、「球と円柱について」、「円錐状体と球状体について」で成功を収め、後世の数学者によって研究されたといわれている。アルキメデスは「方法」の序文で、円錐の体積は同高同底の円柱の1/3である事を発見(証明なし)したのはデモクリトスで、それを証明したのがエウドクソスだと言っています。デモクリトスはソクラテスと同年輩(前5世紀前半)で、原子論を唱えたことで有名です。(なお原子論はソクラテスやプラトンから嫌われた) ユークリッドの「原論」には円錐が円柱の1/3であることの証明があり、エウドクソスに由来するといわれています。現在ではこれは2次関数の積分で容易に証明できますが、1/3は3次関数の積分形に由来する係数です。ではギリシャ時代にどうして分かったのでしょうか。角錐が角柱の1/3であることはすでに分かっているとしてスタートします。この結果を円錐と円柱の関係に拡大するとき、底面の円に多角形を内接させ、その円柱との関係は1/3であることは分っているので、内接する多角形の辺を増やしてゆけば、無限という概念を利用すれば直感的に1/3の関係は理解できます。しかしギリシャ人直感を証明とは認めません。そこでエウドクソスは1/3である内接する円錐と円柱の関係が1/3以上だとすると矛盾であることを証明としました。これを2重帰謬法と言います。内接という概念が外形よりは小さいことを利用したまでのことです。これは論理学の基本ですが、これを証明と認めることを心良しとしない数学者も多いことは記憶する必要があります。姦計、もしくは同義反復(トートロジー)と同じだと言います。それはともかくとして、2重帰謬法は次の3ステップに纏めることができます。
@体積(面積)を求めたい図形に対して適当な内接図形を作図する
Aこの内接図形に対して成り立つ関係を確認する
B帰謬法により内接接図形に対して成り立つ関係が問題の図形にも成り立つことを近似図形で確認する
ユークリッドの原論で帰謬法で扱っているのは、@角錐・角柱と円錐・円柱の関係、A2つの円の面積比は、直径上の正方形の比に等しいこと、B2つの球の体積の比は、直径の3乗の比になることだけです。つまり2重帰謬法は結果が分かっていて、それを否定する仮定をして矛盾を導き出すもので、探究法としてはいかさまだという議論もあります。問題はそれ以上の困難があるのです。円錐の問題を結果の分かっている角錐の問題に帰着させたのはいいのですが、最後の極限操作を直感に頼らないで厳密化することが非常に困難だからです。またエウドクソスの議論には近似図形からその面積(体積)を求めるのにつきものの和の計算がありません。積分法を使わない限り、近似図形を限りなく問題図形に近づけるには級数の和に相当する議論がないのです。どこまで正多角形を増やしていっても、同じ関係が成り立つことの確認しかありません。図形の比較であって、本当の意味での求積がないことが、エウドクソスの限界でした。

アルキメデスは新しい求積法を「放物線の求積」において述べていますが、放物線の切片が、内接3角形の3分の4倍であることを証明することでした。(本書ではよくわからないが、アルキメデスは放物線、楕円、双曲線などの2次曲線を関数形y=f(x)で理解していたのだろうか、そうでなければ曲線の定義をどう把握していたのだろうか。) アルキメデスは等比級数の有限和に関する不等式を用いて2重帰謬法を利用してΣT=4/3Toを導きました。しかし本書では放物線に内接する最大の3角形の面積Toに対して次の最大の3角形の面積T1=1/4Toが証明なしで述べられている。これを今日の解析幾何学で証明しようと試みたが難しい。要するに3角形の面積の和は1/4(=p)を公比とする級数の和に帰せられる。無限級数の和の公式から容易に4/3Toが導けるが、無限級数の和の概念がないアルキメデスは何回かの(通常5回もやれば和の姿は見えてくる)計算から、えいやと4/3をひねり出し2重帰謬法で格好をつけたのではないか。2重帰謬法で3/4という具体的数値が出てくるわけではない。これは証明と言えるのか。しかし幾何学の問題を代数計算で処理をするという17世紀の近代数学に向かう最初の一歩の意義は高い。無限区分の和はゼロに収束する数列の和として見たことは画期的なことである。アルキメデスは「球と円柱について」で歴史上はじめて球の体積を決定しました。球が外接円柱の2/3であること、および球の表面積は直径の4倍であることを決定しました。そういえば中学校で習った幾何学で、半径をrとすると、円の円周は2πr、円の面積はπr^2、球の表面積は4πr^2、球の体積は(4/3)πr^3であることを証明付きで習ったのであろうかどうも怪しい。微積分からは、体積→表面積へはrで微分をする、円の面積→円周もrで微分をすれば得られる。円については、積分形では円周はl=∫rdθ=r∫dθ(0-2π)=2πr、面積はS=∫r・rdθ=(1/2)r^2(2π)=πr^2と考えることができ、球についも同様になる。しかしアルキメデスの時代では、球の体積は外接する円柱をこしらえて水を張り、そこに球をしずめてあふれた水の量で体積(4/3πr~3 円柱の体積の2/3)を知ったという話は逸話にすぎない。「球と円柱について」でアルキメデスが用いた手法を見てゆこう。円はその周2πrに等しい直線を底辺とし、円の半径rを高さとする3角形の面積に等しいとし、球はその表面積に等しい底面を持ち球の半径を高さとする円錐に等しいと当たりをつけたという。これは「回転楕円体の求積」を行った「円錐状体と球状体について」よりずっと前の研究です。アルキメデスは円に内接する中心を共にする3角形の多角形を考えます。円を直径を軸に回転させれば球になります。そして3角形を回転させれば円錐になります。ここからはアルキメデスの天才的な類推法で球の体積を円錐の側面積の和に、表面積の和は弦の和に還元してゆきました。この込み入った議論と計算順序はちょっと図なしでは説明できません。つまり内接立体の体積の問題は面積の和へ、そして直線の和へ順次次元を下げて恐るべき計算を行いました。こうして円、球、円錐などの関する定理が決定されたのです。球は円錐体の集合と見ることで順次体積・面積・線の問題として解いたのです。しかしアルキメデスは最後まで無限級数の和が面積・体積決定の標準的方法だということにはこの時点では気付いていませんでした。

2) 定型化される求積法ー小分割法と級数

「円錐状体と球状体について」で回転放物体、回転双曲体、回転楕円体を扱います。今では放物線、双曲線、楕円は2次元上では2次曲線と言われます。当時には関数という解析学がなかったので全く幾何学的な取扱いです。アルキメデスはこれらの回転体を人の平面で切断した切片を考察しますが、その一番簡単な例が、回転軸に垂直な平面での求積です。回転放物体の求積は、放物曲線の内接・外接円柱の体積の半分です。回転軸に沿って回転放物体を輪切りにしてゆくと(達磨落としみたいに)底面は円ですから小円柱が得られます。その小円柱の体積は底面積に比例し、その面積は半径の2乗に比例する。放物線だからその半径の2乗は(y=x^2)頂点(原点)からの距離に比例します。こうして体積は底面積に比例し、底面積は半径の2乗に比例し、そしてそれは原点からの距離に比例します。アルキメデスは放物体の体積は外接する円柱の2/3になることを証明するのです。現在なら2次関数の積分をすれば直ちに求まるもので、係数の分子の2は2πr^2からきて、分母の1/3は2次関数の積分形から来ています。アルキメデスはこれを小円柱に分画しその和をもとめるのですが、分画数nを10にすると、放物体の体積/円柱の体積は0.66に収束します、つまり2/3になります。無限級数の収束条件を満たすので和の公式から直ちに結果は出ますが、アルキメデスの時には無限級数という考えはなかったので、こうした手計算に拠っても同じ結論は得られます。アルキメデスの困難はかれが代数的記号法(解析学)を持っていなかったために、級数の和と図形の和を結びつけるのに非常に苦労していることです。「螺旋体について」で動径が回転角度に比例する螺旋形の描く体積を扱っています。アルキメデスのはもっと大きな問題がありました。それは回転楕円体の求積において、無限級数Σk^2の和の公式が使えないため、辺が等差列をなす政府系の和を求めるために、補助図形を用いました。又アルキメデスには比を考えることは不可能でしたので、かえって複雑な補助図形を必要としたのです。アルキメデスは幾何学をしていたのですが、われわれ現代人はぢ数学で解釈することが常識となっています。代数的記号法が数の関係を抽出し、整数、正方形、円柱といった異なる対象からそれらに共通する量的関係を導き表現する、すなわち図形から離れることが可能となったのです。アルキメデスは幾何学をしているのであって、代数学は知らなかった。しかし求積の問題を級数の和の問題に帰着させたことは、アルキメデスの偉大な成果です。

3)「方法」という著作ー図形から離れない

100年前に発見されたアルキメデスの「方法」が数学史上にセンセーションを起しました。ギリシャ数学のテキストでは証明の結果だけを公表し、どうやって発見に至ったかは何も述べません。ところがアルキメデスは「方法」の序文で、彼が証明した面積や体積に関する成果の発見法を説明すると述べているからです。方法は次の3つの部分に別れます。
@〈序文) これまでの図形の面積・体積や重心決定に用いた発見法を記述すると述べ、新たに2つの図形の体積についてその証明を与えると予告しています。
A(命題1から11まで) これまでの著作で証明した面積・体積及び重心の発見法を述べます。「方法」は立体の重心に関するアルキメデスの唯一現存するテキストです。また「方法」は「円錐状体と球状体」より後の著作となり、アルキメデス最晩年の著作と考えられています。
B(命題12以降) 序文で言った新しい2つの図形(爪型、交叉円柱)の求積法を披露している。アルキメデスはほぼ無限級数の取り扱いをしているが、「円錐状体と球状体について」で定式化された求積法は使っていない。あくまで図形から離れることはなかった。アルキメデスと近代数学の隔たりが意外に大きいことが分かる。「方法」は爪型図形の命題15の途中で切れています。
「方法」第2部分では、「方法」の基本的アプローチ法を命題4から説明します。回転放物体の重心を仮想天秤と釣り合せることで、「回転放物体の重さ(体積)はその外接円柱の半分である」ことを証明しました。放物体の頂点を支点とする仮想天秤を考え、放物体と円柱を垂直に切る断面がつくる2つの円を移動させます。その断面の2つの円の半径の2乗は頂点から放物体の距離hと円柱の高さHに比例します。そしててこの原理により釣り合うためには、重さの比が支点からの距離の逆比になることです。そうすると片方に円柱(重心は真ん中)を吊るし、片方の天秤に仮想の放物体の図形が描けるはずです。アルキメデスは仮想天秤を使わない別の証明つまり等比級数を使った証明も示します。ただし仮想天秤の方法は証明ではなく発見法だとアルキメデスは言っています。放物体や球体を仮想天秤上で無数の切断円の合成により再構築する方法です。恐ろしく巧みな方法ですが、はたしてその再統合は可能なのかどうかは議論されていません。「方法」第2部分では、「爪型」(楔型)と「交叉円柱」の求積法を示します。「爪型」(楔型)の求積法は命題14で示します。爪型とは円柱を直径を含む斜めの平面で切断し、直径を一片とする正四辺形とし高さを爪型の高さとする外接角柱を考え、爪型の体積が角柱の1/6であることを示しました。詳細は省きますが仮想天秤を2回使った非常に巧みな議論ですが、実はもっとエレガントで分かりやすい証明法も別途示しています。三角柱と爪型を垂直に切る断面が作る2つの三角形は放物線の性質から、常に相似形であることが証明されます。つまり面積比は線分比に等しいので、その断面を総和した体積である爪型は三角柱の面積の2/3であることが証明され、結局全体の角柱の1/6となります。切断図形の面積をスキャンしてつくる立体図形の体積は等価であるかどうか、アルキメデスは求積図形の切断図形と外接図形の対応する切断図形の「個数が等しい」という理屈で信とします。そこで成り立つ関係が同じである性質は個数nがおなじであれば総和S/So=Σnにおいても成り立つという考えです。アルキメデスの求積法の特徴は外接図形(円柱、角柱など体積が決定しやすい図形)との比較で何分の1という表現で決定します。複雑な図形は簡単な図形の集合体とし、体積は線分の長さの比に還元するのです。これがアルキメデスのやり方です。アルキメデスにとって図形はまず形状を持つ存在で、可測数ではなかった。彼の幾何学と近代数学との距離は大きかったといえる。

4) ギリシャ数学から近代数学へ

アルキメデス以降のギリシャ数学から近代数学への道を概観してまとめとしよう。ギリシャの学術文献は12世紀になってアラビア語からラテン語への翻訳によって西欧世界に再輸入されました。これは14世紀のルネッサンスを準備し、西欧の中世のキリスト教世界から学術文化の復興の前触れとなりました。こうしてもたらされた学問が、大学教育で教えられたのです。ユークリッドの「原論」がラテン語に翻訳され、13世紀にカンパヌスが編集校注した版が標準的なテキストになり普及しました。アルキメデスの著作が再輸入されるのは少し遅れて13世紀にギョームがラテン語に翻訳しました。あまり普及しなかったようですが、15世紀半ばにヤコボが教皇ニコラウス5世の依頼によりアルキメデスンの著作を翻訳しました。数学者・天文学者のレギオモンタナス(1436−1476)がヤコボ訳を修正校訂しました。彼の死後1544年になってギリシャ語・ラテン語対訳のアルキメデス著作集として出版された。この著作集はアルキメデスの著作の全貌を始めた明らかにしたという意義を持ちます。そしてアルキメデスの綜合的な理解が17世紀の近代数学への道を準備したといえます。しかし内容的には数学的理解が不完全で、16世紀後半に文献学者のコンマンディーノと数学者のマウロリコの二人がアルキメデスの数学の解明に努めました。コンマンディーノは自分でも「立体重心論」という本を著しアルキメデス理解に貢献しましたが、その証明はなお不十分でした。16世紀末にはアルキメデス理解は一応完成したといわれています。次の課題はアルキメデスの成果と方法を発展させることでした。17世紀前半に図形の求積、接線や重心の決定で多くの成果が現れました。これらは「無限小 幾何学」と呼ばれています。ヴァッレリオ(1552-1618)は「立体重心論」を著し、回転楕円体や回転双曲体の重心を決定しました。(いずれもアルキメデスの方法にあるのですが、当時知られていなかった) 重心は回転軸上にあり、かつ放物体と内接三角形の重心は一致事を知って、三角形の重心決定(3本の中線の交点)の問題に帰着させました。重心の位置の決定は本来積分によるべきですが、比例関係が同じなら代数計算で求めることができます。図形の形状その物に意味があるわけではありません。数学は図形からその量的関係だけを抽出して議論する方向へ向かいました。ヴァッレリオの革命的な方法は、特定の性質を満たす一群の図形をまとめて議論することです。アルキメデスの求積法も図形の形が異なる3つの対象に対して、同じ方法が繰り返されるだけです。これも複数の立体の存在を意識していたのでしょうか。しかしアルキメデスが個別の図形に向かいました。ヴァッレリオの重心決定法を一般化した「カヴァリエールの原理」は、アルキメデスの補助定理の拡張と同じ手法で、面倒な手続きを補助定理に押し込め、「不可分者による連続体の幾何学」(1635年)によって1本の線分と同一視することでした。そして微積分学と同じ結果を得ています。カヴァリエールの議論は超複雑な命題を補助定理にするため、誰も理解できないような袋小路に入り込みました。カヴァリエールの袋小路とは、もはや図形とは言えない量的関係を、幾何学の言葉で語ろうとした点にあるとされています。ニュートンの先駆者と言われるウォリス(1616-1703年)の「無限算術」は、図から出発して証明を行うのではなく、数から出発して計算を行い、その結果を図形に応用するというやり方です。その結果カヴァリエールが縛られていた幾何学の伝統から恐ろしく自由に無限移管する議論を行うことができた。アルキメデスの主要な業績は数学的には求積法と機械学的には重心決定法です。これらはいずれも近代では積分法によって解決される問題です。アルキメデスの分割法はどこまで微積分法に近づいていたのでしょうか。微積分学は1660ン?ンぢにニュートン(1642-1727)、ライプニッツ(1646-1716)によって独立に発明されました。異積分に限らず、数学は無限そのものを扱うのではなく、有限な理論で実質的に無限を扱う有効なテクニックです。アルキメデスは円錐状体と球状体の求積においてその幾何学的図形から量的関係へ移行しつつあった。図形から量的関係への移行は微積分学の、そして近代数学の不可欠の要素です。関数曲線と言えどもその接線(微分)と求積(積分)は逆の操作ですが、かならず図形を基礎としています。微積分学は図形の量的性質を代数的に記述したものです。ではギリシャやイタリアで微積分が生まれなかった理由としては、あくまで幾何学的図形に拘束される伝統に縛られて袋小路に陥り易かったと言わざるを得ません。しかしこの伝統が薄かった英国やドイツで、関数という量的関係に対する演算から近代数学が生まれたと言えます。

 
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