140920

吉田洋一著 「零の発見」−数学の生い立ちー
岩波新書(1939年11月第1刷 1956年改版、1979年改版)

アラビア数字は位取り計算を容易にし、連続の概念は微積分を用意した

「図書」(岩波書店)という小冊子を購読している。1年間の購読料が1000円という送料にもならぬ値段で名だたる方々の小エッセイ集を毎月送ってくれる。むろん1/3は岩波書店の新刊案内ではあるが、肩の凝らないエッセイが楽しめるのである。今月号(2014,9)は「岩波新書 温故知新創刊3000点突破記念」ということで、7冊の古典的岩波新書を含むエッセイ集であった。自然科学関係では、森田真生「通俗的読物の矜持」 吉田洋一『零の発見ー数学の生い立ち」と、永田紅「コアセルベートの記憶」 オパーリン『生命の起源と生化学』の2冊が紹介されている。いずれも自然科学を学ぶ理系の学生時代にとって、余りに懐かしい書籍である。私は吉田洋一『零の発見ー数学の生い立ち」は確か高校生時代に読んだ記憶がある。森田真生氏は2014年で御年29歳という若者である。そして東大文学部、工学部システム創生工学科、理学部数学科を学生として渡り歩いた変わり者である。よほど社会で働くことが怖いのだろうか。そういう詮索は別にして、森田真生氏は、計算という実用数学における位取りと零の重要性と、直線を切るという数の連続性(実数)は数学史上の最大発見だということを指摘したうえで、著者吉田洋一(1898-1989年)がはしがきの冒頭に述べた言葉「この小冊子は数学を材料として通俗的読み物である」を指して、著者の謙虚さを褒めると同時に本書が実は「画期的」な書物であるという。ゼロという今ではあまりにあたりまえの事柄が実は全世界に恩恵を与えた画期的な発見であることを強調している。そして吉田洋一氏は本文で「自ら画期的と誇称した事業が真の意味で画期的であったためしはない」と俗にいう「画期的」を戒めているのである。数学は言うまでもなく定義と論理を積み重ねて理解されるものであり、物理や化学・生物などの他の科学の経験主義とは一線を画する。だから頭の痛くなるような数式がなければ、1歩も前には進めない。その数式を一切用いないで数学的概念を教えるということは矛盾かもしれない。だから本書は「通読的読み物」だと自嘲気味に謙遜していわれる。はたしてそれが成功しているかどうかは、1939年初刷以来75年間に107刷を数え愛読されてきたという事実から、画期的な成功を収めたといっていいのではないか。吉田洋一氏のプロフィールを簡単に示しておこう。1898年東京に生まれ、1923年東京帝国大学理学部数学科卒業。第一高等学校教授、東京帝国大学助教授、フランス留学を経て1930年北海道帝国大学教授。1949年から1964年まで立教大学教授。のち名誉教授。1965年から1969年まで埼玉大学教授を務めた。数学および数学教育に多大な足跡を残した人物として知られる。随筆家、俳人としても著名であった。吉田は哲学研究の吉田夏彦の父、数学者の赤摂也の義父にあたる。主な著書に『零の発見』(岩波新書)は、吉田の名を有名にした本で、代表的な数学の読み物として現在でも多くの人に支持され読まれている。戦前に書かれた『函数論』(岩波全書)も長く読まれた本である。『微分積分学序説』(培風館)、『微分積分学』(培風館)は理工系大学の微分積分学の決定版と言われた。本書「零の発見」は2つの内容からなり、180頁ほどの本で、前篇が本書の題名となった「零の発見」−アラビア数字の由来、後篇が「直線を切る」−連続の問題からなり、両者ともに「数論」という数学分野である。なお数学の基礎をおさらいしたい人には、吉田武著「オイラーの贈り物」(東海大学出版会 2010年1月)をお勧めしたい。この本は通俗的読み物ではなく、演習中心の数学初歩事典みたいな本である。

1) 零の発見ーアラビア数字の由来

まず実用的で経済活動になくてはならない計算(計数)という人間の行為はどうして行っていたのだろうか。19世紀始めのナポレオンのロシア遠征で持ち帰ったソロバンは今日の小学校の1年生の教室に必ず存在する計数器(算盤の基)に似ていたという。日本では、読み書きそろばんは江戸時代の寺小屋で庶民のリテラシーとして教えられていた。西ヨーロッパでは300年前にソロバンは各国の独特の進歩をもって広く普及していたという。ところが西ヨーロッパではソロバンが筆算にとって代られた。この筆算に用いられる記数法は、その数字はアラビア数字と呼ばれた。アラビア数字の起源は遠くインドにあり、アラビア人の手によってヨーロッパにもたらされた。7世紀ごろ救世主モハメッドがアラビアに生まれ、東はインドから西は北アフリカを経てスペイン半島に至るまで広大なサラセン帝国を打ち建てた。帝国は後に東西のカリフ国に分裂し、東の首都はバクダッド、西の首都はゴルドバは当時の文化の二大中心であった。ギリシャの文化はアラビア語に翻訳され(ユークリッドの原論の一部も翻訳された)、インドの学問もアラビア(イスラム圏)に流れ込んで、そこで熟成されアラビアの数学は代数学と三角法に秀でていたという。9世紀のカリフの王は千夜一夜物語で有名なハルン・アルラシッドでヨーロッパのフランク王国(後に神聖ローマ帝国となる)王シャルルマニュと交通があった。当時のヨーロッパは中世の暗黒時代で学芸はわずか僧院に受け継がれていただけで、当時の世界の文化の中心はバクダッドにあった。アラビア語に翻訳されたユークリッド「原論」が中世ヨーロッパに逆輸入された。773年インドの天文学者が天文表をもってバクダッドを訪れ、その時にインドの記数法がアラビアに伝授されたのではないかと思われる。このインドの記数法がアラビア数字にとって代り、広く広まることになった。確かに現代のアラビア数字よりも10世頃のインド神聖数字の方が現在の数字(算用数字)により近い。ゼロは点ではなく○となっている。10は位が上がって1と0の組み合わせである。我々の記数法は「位取り」による記数法である。1から9までの数字のほかに0を加えた10個の数字をもってすれば、どれほど大きな自然数(整数)も書き表すことができる。空位(何もないけど位が上がった印にゼロを加える)を表す記号なしには位取りはできない。0こそ実はインド記数法の核心であり、大げさに言えば人類文化の偉大な一歩であったということができる。古代ギリシャ、ローマ、中世フランク王国などユーロッパ諸国ではついに位取り記数法は発明されなかった。ギリシャではアルファベット記数法が行われ、これでは代数学はできなかった。エジプト数字やローマ数字はゼロはないが5進法的な位取りが行われたが、複雑な記録文字であってこれで計算はできなかった。6世紀ごろに生まれたインド式記数法がなければ今日の計算法に基づく数論はできなかったし、インド記数法こそ世界で初めての計算文字であり、また優れた記録文字でもあった。インド式記数法は最も10進法に忠実であった。現在日本で我々が教わっている命数法は10進法であるが、一,十、百、千、万までは一ケタ上がるごとに数名が変わるが、それ以上は繰り返し次は億となる。ところがインド名数法は一桁上がるごとに忠実に名前が変わるのである。日本では中国から伝わった「珠算ソロバン」(現在は4珠型)が意外と便利で、手先の器用さで現在もなお珠算を習う人は多い。卓上計算機と並んで四則演算の速さ正確さを競う。頭の中や指先に算盤を想像する(外国人は苦手であると聞く)暗算も重要な機能である。高速度電子計算機の計算方式は掛け算は足し算で、割り算は引き算でやっている。九九の表はない。また計算機はフィリップ・フロップの素子を使うので(0,1)の2進法である。10進法で数字を入れても計算機の中では2進法に翻訳する。

インド記数法がヨーロッパにおいて一般に普及し始めたのはルネッサンスのころであるという。その前に11世紀末から13世紀にかけて十字軍の遠征が契機となって(十字軍の意図は政治的軍事的に失敗したが)、イスラムの学問や文化の輸入、ギリシャ文化の逆輸入が盛んとなったことがあげられる。そしてヴェニス、ジェノアなどのイタリアの商業都市がルネッサンス運動の中心となった。ピサのフィボナチ(漸化式というフィボナチの数列で有名)は1202年「ソロバンの書(計算の書)」を表し、インド計数法や商業計算をイタリアに紹介した。13世紀も末になってようやくインド式計数法が普及したようであった。グーテンベルグの印刷術の発明した15世紀には出版物文化が盛んになり、インド式記数法もこれに乗って普及していった。印刷文化はまた紙の発明がなくてはならない。エジプトのパピルス、ヨーロッパの獣皮紙は高価で、中国後漢時代にできた楮・綿からなる製紙術は唐時代にトキスタンからアラビアに伝わり、イスラムからヨーロッパにもたらされた。11世紀にはスペインのトレド、バレンシアに製紙工場が設けられた。その後イタリアで製紙業ができ、だいぶ遅れてドイツでは14世紀、イギリスでは15世紀の末に製紙業ができ、紙の普及に連動してイタリアからソロバンが消え筆算に替わったのが15世紀のことである。イギリスからソロバンが消えたのは17世紀である。l位取り記数法は16世紀末にいたって、少数記法が発明されて完成した。歴史的には大きさの比である分数はエジプトやギリシャの時代から知られていたが、少数は比較的最近の発明である。ところが現在では数の延長としての整数を埋める数の小数が普遍的で、分数はむしろ変な割り算の表記法とみなされている。分数を少数に直すとほとんどが割り切れない数で、割り切れる数はまれである(1/4=0.25)。いわゆる有限小数は分数を略記したものである。ところが分母整数の数より小さい整数が余りとして残ると何回も繰り返すと必ず循環する。その典型が1/3=0.333・・・あるいは5/7=0.714285714285714285・・・などを循環無限小数と呼ぶ。これを整数と併せて有理数と分類する。従って有理数とは循環無限小数で表される数、無理数とは循環しない無限小数で表される数である。有理数と無理数を合わせて実数という。例えば円周率πは3.141592853589・・・・・は無限小数で現在コンピューターで数時間の計算で10万桁まで知られている。πは無理数の仲間であるが実は「超越数」(n次代数方程式の根にならない数のこと、根は「代数的数」という)と言われる。三角関数、対数、ネイピア数もそうである。なおπの求め方や超越数については、ペートル・ベックマン著「πの歴史」(ちくま学芸文庫)に詳しい。無限小数0.99999・・・・は9/10 (1+1/10+1/100+1/1000・・・・)であるから9/10を係数a、公比を1/10とする無限等比級数の和である。その和の公式Σ=a/(1-r)=9/10/9/10=1である。近似的に0.9999999・・・・=1ということは何を意味するのだろうか。公比のn乗はnが無限大になるときゼロに近づくということすなわち収束することが条件である。和を持たない無限級数もある。分数に対する少数の便宜性とは大小関係が直ちにわかることである。5/7と28/39 は意見してどちらが大であるかはわからない。少数に直してはじめてわかる。以上のことは近代解析学の基礎であり、微分積分学の入り口になる。

2) 直線を切るー連続の問題

本章はギリシャ時代の数学特に数論を扱う。これが近代解析学のデデキントの連続とオイラーの無限解析の始まりにつながるからである。ギリシャ時代の数学はアルキメデスに始まる。そしてユークリッドに受け継がれた。ギリシャの数学はエジプト人の計測計算術と幾何学的知識を基にしている。エジプトでは数学は、耕地の区画やピラミッド建設工事といった実用目的によって進歩してきた。エジプト人の幾何学は、円の面積と等しい面積を持つ正方形として、円の直径からその1/9を引いた1辺とする正方形を与えるという経験則を持っていた。円の半径を1とすると、πr^2=π(1)^2=π=(2-2/9)^2=(16/9)^2=(1.77・・・・)^2で1.77または1.777で計算すると、πは3,1329〜3,157729の間にある。πの近似値て我々が用いる3.14はその中間にあるので実用的には十分である。このようなエジプトの数学は紀元前600年前後にイオニアという都市国家のギリシャ人によってもたらされたという。ギリシャの都市国家は紀元前8世紀から6世紀半ばの200年で盛んに植民地的発展を遂げた。特にイオニアとエジプトは特別の関係を結びエジプトの文物が輸入されたのである。貨幣制度が始まって地中海沿岸の各都市間の商取引が活発化した。ギリシャ人は文字に特別の信頼を置いてない。「語られる言葉」こそが力を持つ「言霊」の国であったといわれている。フェニキアからギリシャに文字がもたらされたのは紀元前9世紀のことである。エジプト人は記念建造物に彫った記号は、音の符牒ではなく対象物の摸像であった。数学者ピタゴラスや哲学者タレス、ソクラテスも書いたものを後世に残さなかった。ピタゴラスやソクラテス、プラトンは結社を結んで思想はその中でのみ伝達されるという秘密結社的傾向を持っていた。ピタゴラスは数学を実用的の必要に囚われない純粋の学とし、数学的知識を論理的証明によって基礎図けてゆこうとするギリシャ数学の基礎を築いたという。ただそれ以前の数学が経験則だけであったというのは言い過ぎで、たとえばバビロニアの数学は2次方程式の解法や代数学を心得ていたといわれる。エジプトの実用数学、ギリシャの理論数学、バビロニアの代数学、東洋(中国)の数学)など実在の世界と数学の交渉態度はさまざまであったというべきであろう。ギリシャ人は数学的事実を数学者が発見するより前から存在していたという言い方をするが、現代の数学は数学者自身が想像するものという捉え方をする。現代ではユークリッド幾何学以外にもいくらでも違った構造を持つ幾何学を創造できるという考えに立つ。ヒルベルト著「幾何学基礎論」(ちくま学芸文庫)は公理を出発点としたいろいろな幾何学を紹介している。ギリシャの数学者アルキメデス(紀元前570年−紀元前490年)は小アジアに近いイオニアのサモス島に生まれた。哲学者タレスについて学びエジプト、バビロニアに遊学したといわれる。紀元前532年イタリアに移りクロトンに学園を開いた。この学園はピタゴラスを巡って一つの神秘的宗教団体を形作った。クロトンの教団では、教科として算術、音楽、幾何学、天文学、そして宗教的修行が課せられた。アルキメデスは純粋の抽象数学を意図していたわkではなく、琴の弦の長さと音程が美しい調和を持つという、数が持つ美学に神秘性を感じていたのであろう。自然界の美は数が支配するという「大地は数である」または「万物は数である」と言った。天体宇宙も数が支配している典型的な対象であった。すべて知られているものは数を持つ、数こそ認識の条件であるという。天の集まりは「形象数」の概念を生んだ。全体が正3角形をなす点の集合の数の数列の和は、1+2+3+・・・・n=1/2(n)(n+1)で1,3,6,10,15,21,28・・・・・を三角数と呼ぶ。正方形はn^2であるがこれを2つの3角数の和と見ることができる。このように天お集まりをもって自然数を表し、これによって自然数(正の整数)の性質を研究する方法は不必要に神秘主義だとばかりは言えない。ディリクレの「整数論講義」ではこれを代数的演算a×b=b×aの証明につかっている。数の本質をついているからだ。ギリシャ時代の数は幾何学と結びつき、定理の証明は幾何学的な形で成されていた。

アルキメデスの「形象数」は「点は位置を持つ一つである」というように、必然的に点は大きさを持つという考えに立ち、線分も有限個の点からなるという「自然数は整数のみが数である」という考えに導く。従って2つの線分は互いに通約可能と考えられた。これに対しユークリッドの「原論」では「点は部分を持たないもの」という定義から始まる。これは抽象的な点の概念である。ピタゴラス教団は直角3角形ABC(斜辺BC)に関する「ピタゴラスの定理」(3平方の定理 BC^2=AB^2+AC^2)を生んだが、果たして証明をしたかどうかは分からない。ユークリッドはこれに証明を与えた。ピタゴラスは特殊例を見出したに過ぎないかもしれない。今ではピタゴラスの定理は直角の頂点から斜辺に降ろした垂線で分かつ2つの直角角三角形ともとの直角三角形の3つの直角三角形の相似関係(比例関係)から容易に証明できる。又有名な辺の作る正方形の面積から幾何学的に証明できる。証明法は本書の目的ではなく、正方形の対角線が作る2つの2等辺直角三角形の斜辺の長さの2乗は1^2+1^2=2すなわち斜辺の長さは√2となる。ピタゴラスの時代には√の疑念はなかった。√2は少なくとも自然数(正の整数)ではないことにピタゴラス教団は窮地に陥った。斜辺が有理数p/q(公約数をもたないp,q)と仮定すると、2が必ずかかるのでp,q共に偶数であることになり、有理数の仮定に背くので仮定は否定された。従って斜辺は有理数ではない無理数になる。このような通約不可能な線分の存在はピタゴラス教団の数学体系に致命的な打撃を与えたそうだ。エレアのゼノン(紀元前490年ー430年)が現れてピタゴラスの美的空間は打ち破られた。「ゼノンの逆理」とは次の4つからなる。要するに連続に関する背理である。
@ 運動体は限りなく多くの地点を通過しなければならないとすれば、∴運動なるものはない。
A (アキレスと亀のジレンマ)アキレスが亀の地点まで来たときには亀は少し前にいる。∴アキレスいつまでも亀に追いつくことはできない。
B 飛んでいる矢が一定の位置を占めるとすれば、∴飛んでいる矢は静止している。
C (特殊相対性理論)静止、右へ進む、左へ進む物体の列がある。この3体がすれ違う時、一定の時間とその半分は相等しい。
背理法という数学の証明法はいつもトリックに満ちている。最初公理を信じさせておいて、その論理展開が矛盾となるように仕向けるのである。ゼノンの逆理は数学の問題か、論理学の問題か、無限小を無限大と同等に論じる愚かさか、時間・速度を無視した無限小のジレンマか、昔からゼノンの逆理に対する解釈は多い。筆者吉田氏も「アキレス問題が分からないのは、粗雑な日常言語によってものを考えるからである。本来こういう量に関する問題は数学によって考えなくてはならない」という。とはいえゼノンは上の設問に見る様に、点を大きさのないもの、線は幅を持たないもの、面は厚みのないものという抽象的なユークリッド幾何学の公理に近づいたのである。紀元前6世紀のころ東のペルシャ帝国は隆盛になり西に侵攻しギリシャ諸国に圧力を加えるようになったが、紀元前480年アテネを中心としたギリシャはマラトンの戦い、サラミスの海戦でペルシャを破った。アテネは学芸の堂として富強を誇示した。そこで活躍したのが諸都市を遊歴するソフィスト(中国春秋戦国時代の儒者とおなじ)である。ソフィストはプロタゴラスの「人間が万物の尺度である」という認識の主観性をとき、絶対的真理を否定した。これに対してソクラテスは客観的な善の概念を確立しようとし、概念に定義を与えた。その弟子プラトンは学園を開き、数学を哲学の中に織り込み、「幾何学を知らざる者は入るべからず」という句を門に掲げたという。

紀元前5世紀ごろギリシャで一連の幾何学の問題が話題になったという。これを「ギリシャ数学の三大問題」という。
@ 与えられた円と等しい面積を持つ正方形を作ること。
A 任意の角を3等分すること。
B 与えられた立方体の2倍の体積を有する立方体を作ること。
第1の問題はエジプトでは近似的な方法を得ていたが、果たしてそれが解であるかどうかギリシャ人にとって不満であったという。円周率π=(16/9)^2は近似に過ぎなかったからだ。ギリシャ人にとって平面幾何学の作図とは定規とコンパスだけで行う伝統であった。つまりギリシャ人は幾何学の基礎を直線と円の上に求めた。これはユークリッドの要請からきている。現在でも幾何学問題は代数計算を使わないで解く方法を正統と信じる一派がいて、「円論」という優雅な伝統を守っている。当時は√2は不自然な数で、πという超越数は摩訶不思議な数であった。この数の正体が分かるまで2000年を要したのである。リンデマンは正方形の1辺 x~2=πr^2から正方形の辺の長さは求まるが、作図はできないということを証明した。それはπという超越数を含んでいるからである。もう一つのギリシャの幾何学の話題として
C 与えられた多角形と等しい面積をもつ正方形を作ること。
これは多角形と等積な三角形を作り、そして正方形へ持ってゆくことで容易に作図できる。与えられた円と等しい面積を持つ多角形を作ることはに目を付けたのはアンティフォンであった。円に内接する多角形と外接する多角形を作図してゆけば円に漸近してゆくこと、つまりπの近似解を求めることに他ならない。こうした無限の問題を突き詰めれば連続の問題となる。代数と幾何学の統一はまずエウドクソスの比例論から始まった。ユークリッド原論の比例論はエウドクソスの理論を紹介したものであった。ギリシャの幾何学にアラビアの代数学が流入して生まれたのが比例論的扱いである。アラビア代数学は数論的厳密さは無視して発達してきた。この傾向は17世紀フランスのデカルトによって解析幾何学が提唱され、ニュートン及びライプニッツのよって微分積分学が誕生して初めて、連続の概念、無限小の概念の再検討がはじまった。高瀬正仁著「無限解析の始まり」−私のオイラー (ちくま学芸文庫 2009年)には、オイラーに始まる無限解析から曲線論、数論、複素解析が詳細に論じられている。直線上(曲線でも同じ)を点が動く時、直線自体が「連続体」を形作っていなければならないが、直線の連続性とは何だろう。まず直線上に整数を置くと、整数間は隙間だらけで、有理点(分数)を置いてもまだ我々の要求である連続体には程遠い。そこでドイツのデデキントは1858年に連続の概念を提出した。「直線が連続体をなしているというのは、直線を2つに切断するとき、その境は1つあって、しかもただ一つしかないということ」であるといった。直線を切断するということは直線状のすべての点を2つの組U1,U2に分けて、U2に属する点はU1に属する点より大きいとし、酒井にある点は一つあって一つに限るという表現をする。この境の点(切断点)はいずれかの組に属さなければならない。デデキントはこのことが連続性の本質であるという。こうして有理数、無理数を含む実数の連続性が定義された。


読書ノート・文芸散歩に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system