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読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」
中公文庫(2009年6月、7月) 上・下

日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う

本書は豊下楢彦・古関彰一著 「集団的自衛権と安全保障」( 岩波新書 2014年7月)において豊下楢彦氏が紹介していたので、終戦記念日の2014年8月15日前後から読み始めた。自民党「顧問」で政治好きの読売新聞会長・主筆の渡邊恒雄氏が大真面目で先の大戦の「戦争責任」を問うた書である。これは決して大東亜戦争肯定論ではない。久しぶりに重い内容の本を読むことができた。渡邊氏に感謝したい。本書あとがきに渡邊氏の本書にかける思いが記されている。読む価値のある文だと思うので多少長くなるが引用したい。
『あのまったく勝ち目のない戦争に、なぜ突入し、何百万人という犠牲者を出しながら戦争を継続し、かつ降伏をためらって原爆投下やソ連参戦で被害を一層広げたのだろう。戦争責任は戦勝国のみによる「東京裁判」で裁かれたまま今日に至っている。問題は日本国民自身による昭和戦争の責任検証は、すくなくとも国や公益機関でなされることはなく、サンフランシスコ条約11条で東京裁判の判決を受諾し完結したことになっている。一方戦没者を祀る靖国神社には、多数の青年を死に追いやった戦争遂行の責任者(犠牲者から見ると加害者)である人々が、頑迷な宮司によって犠牲となった戦没者の霊と合祀された。そこを我国の最高権力者が公式参拝することが、近隣諸国との大きな外交摩擦の因となっている。読売新聞は、社内に戦争責任検証委員会を設置し、1928年から1945年に至る日本の引き起した戦争(満州事変、日中戦争、日米戦争)の原因、経過、結末を検証し、個々の局面の指導者、権力者の責任の有無、軽重を判断した。昭和戦争の責任者で現存するものはいないし、戦争体験者も少なくなった。にもかかわらず未だに先の大戦の記憶は風化していない。それはなぜかというと何ひとつ歴史として日本人の手で解決してこなかったからである。きちんと関係諸国に国として謝罪し償ってこなかったため、怨恨が残るのである。私(渡邊)は最後の陸軍2等兵として残酷な軍隊経験は忘れられないし、被害を受けた隣国の怨念も理解できる。近隣諸国との精神的次元での恒久的な友好関係を構築するには、東京裁判とは別に、詳細で適切な日本国民自身による戦争責任検証が不可欠である。』という渡邊氏の志は政治的立場を別にしても、十分理解できる。それもないまま戦前回帰を夢見る安倍首相の志は犯罪的である。憲法を改正して、@戦争できる軍隊、A人権の制限、B天皇制強化を謳う自民党の憲法改正案は反歴史的である。戦前の軍人の亡霊が彷徨っているとしか思えない。2度同じ過ちを繰り返そうとしている権力者は反省とは無縁らしい。近年小泉元首相が靖国神社に参拝を重ね、韓国・中国などから非難された、安倍首相も靖国神社を参拝し、「歴史問題」を重視する韓国・中国の激しい反発を招いた。尖閣諸島、竹島問題、千島問題、沖縄問題はすべてサンフランシスコ講和条約に因を求めることができる。冷戦時代というアメリカの戦略下での日米安保条約が日本を規定している。冷戦時代が終わっても日本は近隣諸国との外交を確立することができなかった。日本人が戦争責任者についての検証を怠ってきたために、正しく歴史に向き合うことができなかった。本書(上)では、戦争参謀という開戦、遂行責任者の問題、エネルギー資源と経済問題、テロリズムから軍事独裁政権への問題というテーマ・観点で戦争を横割りで検証し、本書(下)では時系列に沿って戦争を検証し最終総括を行っている。上巻が戦争批判、下巻が戦争の歴史という特徴づけである。なお本書中公文庫版は「検証 戦争責任T」(中央公論新社刊 2006年7月)、「検証 戦争責任U」(中央公論新社刊 2006年10月)を改題し再編集して中公文庫版にしたものです(2009年6月、7月)。

このような問題意識のもと、2005年読売新聞は社内に「戦争責任検証委員会」を設置した。プロジェクトチームが進めた取材・検証の主な視点は以下の5点であった。
@ なぜ、満州事変は日中戦争へと拡大していったのか
A 勝算のないままアメリカとの戦争に踏み切ったのはなぜか
B 玉砕・特攻という人命無視戦術を生み出したものは何か
C 降伏の決意が遅れ、アメリカによる原爆投下が避けられなかったのはなぜか
D 東京裁判で残された問題は何か
1931年9月18日柳条湖で満鉄の線路が爆破された。関東軍参謀板垣征四郎、石原莞爾らによる謀略であった。ここに始まる満州事変に当時の第2次若槻内閣は次々と関東軍の独断軍事行動拡大に引きずられた。満州事変と満州国建国は日本の国際的孤立化の出発点となった。政府や軍中央はなぜ関東軍の暴走を止められなかったのだろうか。ソ連との戦いに備える満蒙の資源確保が狙いであった。しかし国際連盟のリットン調査団は日本の侵略と認定し、1933年日本は国際連盟を脱退した。日本は「華北」の一部を日本尾影響下に置く「華北分離政策」を進めて、中国の抗日運動は激化した。ついで1937年北京郊外の盧溝橋での軍事衝突を契機に日中戦争が始まった。蒋介石政府があった南京では「南京虐殺」も発生した。近衛文麿内閣は不拡大方針の腰も定まらず、「国民党政府を相手とせず」との声明を出した。日中戦争の目的は定かではなかったが、1938年11月第2次近衛内閣は「東亜新秩序」を目的とする。軍部は政治への関与を深め、陸軍のクーデター事件、血盟段事件、5・15事件(1932年)、2・26事件(1932年)などテロによって政治を壟断した。政党内閣は終わり、議会も無力化し大政翼賛会に纏めあげられた。メディアは戦争を煽る役割を果たし、情報統制の下に置かれた。国際関係の読み誤りは1940年の第2次近衛内閣による日独伊3国同盟にあった。第2の誤りは1941年第3次近衛内閣が実施した南仏印進駐である。これで米国を敵に回し、米国は資産凍結、石油全面禁輸の措置を取った。最後の誤りは1941年9月6日の御前会議で日米交渉決裂の場合は対米開戦の決意したことである。日本は中国と南仏印からの撤退を求める「ハルノート」を最後通牒とみなして日米開戦を決定した。開戦直前、大本営政府連絡会議が決定した「戦争終結促進に関する腹案」では、@極東の米英蘭の拠点を壊滅させて自存自衛体制を確立する、A制圧地域を広げて蒋介石政府を屈服させる、B独伊と提携して英を屈服させ、米の繊維を喪失させる。といった身勝手な戦勝の希望が述べられているだけで、負けた場合の条件ではない。冷静に自我の戦力を測り落としどころを探るという精神は見られない。1942年8月ガダルカナル島攻防戦は戦略なき戦争の典型で集中した兵力投入はなく、敗走を重ねた。ミッドウエー開戦の敗北後制海権を失った。アッツ島で最初の玉砕が起きたのは1943年5月のことであった。1944年7月にはサイパン島守備隊が玉砕した。そして政府は終戦工作どころか、死だけが目的の「特攻」「玉砕」を命じていたのである。死という情緒におぼれ、合理的精神はとっくの昔に忘れていた。1945年4月小磯国昭に替わって鈴木貫太郎内閣が発足した。5月にドイツが降伏するともはや戦争終結以外に考えられなくなった。軍部はカイロ宣言では国体の護持が望めないとして本土決戦をを叫んでいた。7月26日米英中はポッツダム宣言で無条件降伏を呼びかけた。しかし鈴木首相は「宣言を無視する」という発言が降伏拒否と読まれ、8月6日広島に原爆が投下され、8月9日に長崎に原爆が投下され、ソ連が日本に宣戦を布告した。9日午前最高戦争指導会議では、阿南陸相は本土決戦を主張し、午後11時の御前会議で天皇は終戦の決断をした。9月2日ミズリー号で重光葵外相は無条件降伏に署名した。極東軍事裁判(東京裁判)は東条英機ら死刑7名を含む25人の指導者を有罪とした。判決は一連の日本の戦争を違法な侵略と断罪した。裁判は「平和への罪」、「人道への罪」と言った事後法判決を含んでいたり、米軍による日本の都市に対する無差別爆撃、広島長崎への原爆投下は問題としなかった。米軍は日本の政府・軍部の権力構造を周知していなかったので、実質的に戦争を遂行した責任者を見逃したり、憲法上は無問責の昭和天皇に対して実質的責任を問うことはなかった。

戦争責任という言葉は第1次世界大戦後のドイツで発生した。大戦後の1919年ベルサイユ条約は「ドイツと同盟国によって引き起こされた戦争の結果生じたあらゆる損害に対して、ドイツおよび同盟国が責任を負うことを確認し、ドイツはそれを承認する」と規定し、つまり狭い意味での損害賠償問題であった。戦争を行った事に対する罪ではなかった。1928年に「戦争放棄に関する条約」が調印され戦争は違法としたが、多くの国は自衛戦を留保した。米国は「戦争犯罪思想の確立と裁判による戦争犯罪人の処罰」を案出した。その適用が極東軍事裁判に他ならない。丸山真男の「日本支配層の戦争責任」では、日本の支配層は次々と替わってだれも責任を取らないという「無責任の体制」と呼んだ。現在の官僚制は3年毎に担当者を移動させるため、間違った政策でも後生大事に粛々と遂行されたり、誰に責任があると断定できない仕組みになっている。特に結果責任を問われる政治リーダーの責任は重い。戦争の局面からみると、「開戦責任」、「継続責任」、「敗戦責任」といった順序もある。1946年3月幣原喜重郎首相は「戦争調査会」を立ち上げ、戦争敗北の原因を明らかにするため、あらゆる分野にわたり徹底的な調査をおこなうこととした。これで戦争犯罪者の責任を追及することはないとした。連合国側がこの調査会に反対して同年9月吉田マッカーサー会談で中止となった。日本人が公的に敗戦の原因を検証することはできなかった。ところであの戦争をどう呼ぶかについては諸説がある。大東亜戦争、太平洋戦争、15年戦争、アジア・太平洋戦争、第2次世界大戦などがある。1941年12月12日の閣議では「大東亜戦争」と決めた。終戦後はGHQは大東亜という言葉は禁止し、太平洋戦争の呼称を普及することにした。欧米では第2次世界大戦という言葉が定着している。天皇陛下は「さきの大戦」と呼んでいた。


検証  戦争責任 (上)

1) 陸軍参謀と国体革新運動

戦前の陸海軍の組織の特徴は、軍事行政である「軍政」と、作戦・用兵をつかさどる「軍令」が独立していたことである。軍政を担当していたのは陸軍省、海軍省でその上にある陸軍大臣、海軍大臣は内閣の一員であった。軍令を担当したのは、陸軍では参謀本部、海軍では軍令部であった。役職と階級からすると、大臣と参謀総長(大将クラス)は同格となる。平時の陸軍部隊は師団が最高の単位で師団長は天皇に直属していた。戦時には師団の上に、軍、方面軍、総軍が編成された。師団数は1945年には192に拡大していた。日中戦争が始まると3度目の大本営が設置され、最高統帥機構をなした。大本営と政府の連絡機関として、大本営政府連絡会議が設けられた。政治と軍事の一元化が図られたが、その機能は軍部に引きずられただけの不完全なものであったという。「参謀」とは司令官に対して作戦計画を起草したり助言する幕僚のことをいう。参謀の職種は、作戦参謀(第1部)、情報参謀(第2部)、兵站参謀(第3部)に別れるが、最右翼は作戦参謀であった。情報・兵站軽視は日本軍の体質といわれ、自他の戦力比較や補給無視の無謀な精神主義・奇襲作戦や白兵戦・玉砕戦術はここから出てきたと思われる。参謀総長は陸軍大学、海軍大学というエリート養成校を直轄し、士官学校や歩兵学校などの陸軍の学校は教育総監の管轄下にあった。陸相、教育総監、参謀総長を陸軍三長官という。陸軍において中堅幕僚の力が強まり、満州事変時には、永田鉄山軍務局軍事課長と岡村寧次がその中心メンバーであった。参謀たちの力の源泉は「統帥権の独立」にあった。陸海軍を統帥するのは天皇であるので、参謀本部は誰にもコントロールされることはないとする唯我独尊体質である。1930年「統帥権干犯問題」が起り、陸軍の暴走が始まった。陸大入学は士官学校卒業生の1割程度で、部隊経験2年以上を経験した中尉、大尉が受験できた。陸大の教育目標は「高等用兵」で戦術・戦略論が中心であった。綜合的国力が問われる総力戦では戦争指導に当たるには不十分な内容であって、作戦指導から抜け出ることはできなかったといわれる。陸大卒業生は陸軍省や参謀本部など中央勤務が中心でほぼ将官になれたが、そうでない将校は連隊長(大佐)どまりであった。陸軍の人事権は陸相にあったが、参謀本部の人事権は参謀総長にあった。陸軍は満州事変後、政府の方針を無視して軍事行動を起し、関東軍はさしずめ軍閥であった。参謀本部の作戦部長建川美次と連絡を取って、関東軍の板垣征四郎参謀と作戦主任参謀石原莞爾らが独断専行した。若槻内閣は不拡大方針であったが、朝鮮軍司令官の林銑十郎が独断で満州に越境し、政府はこれを追認した。1932年に満州国を誕生させた。ドイツ組の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機は「双葉会」を開いた。鈴木貞一らは「木曜会」を旗揚げした。この2つのグループは1929年に「一夕会」となり、さらに1930年には橋本欣五郎らは「桜会」を結成した。これらのグループが軍中央の上層部を突き上げ、2件のクーデター未遂事件をおこし国体革新運動となる。作戦責任は指揮官と幕僚長に在り参謀にはないとする陸軍の鉄則があった。1939年の「ノモンハン事件」は関東軍参謀の服部卓四朗と辻政信が引き起こしたものだが、彼らは敗戦の責任を取るどころか出世をしていって、日米開戦を主張するに至る。

革新運動とは「現状を打破すること」で、左翼も右翼も関係なく使う言葉であり、戦争主義者も平和主義者も使う言葉である。結果的におかしな状況(保守主義)に変えることも立場によっては革新と称する。昭和の初期の革新運動とは、反資本主義、反自由主義、反議会主義であり、反英米協調主義であった。第1次世界大戦後、昭和恐慌に見舞われた日本社会は、閉塞状況が続いた。これを軍事主体で打ち破るのが革新運動であった。1930年代陸軍内の革新勢力は「皇道派」と「統制派」の分かれて対立した。皇道派は荒木貞夫や真崎仁三郎、柳川平助らが中心となって、天皇親政の軍事独裁政権の樹立を図る「昭和維新」クーデター計画を企てたが、2.26事件をきっかけに天皇から国賊と断定され没落した。東条英機らの統制派は総力戦体制の実現を目指した。革新的な軍人石原莞爾、武藤章らは統制経済による戦時体制の政策作成を行った。これに乗っかったのが、奥村喜和男、迫水久恒、岸信介、椎名悦三郎らの革新官僚である。岸は満州産業開発5か年計画を立て、鮎川義介(日産コンツエルン)を誘致した。革新官僚らが主導した統制経済、物資動員計画は戦争遂行に不可欠の車の両輪となった。また革新勢力の期待を一身にになったのは近衛文麿であった。側近の木戸幸一、有馬頼寧らも革新派の華族であった。近衛の基本的な姿勢は、1918年の論文「英米本位の平和主義を排す」で、@反英米主義、A反資本主義、B反自由主義をモットーとした。1937年第1次近衛内閣の成立で「新体制」運動が時代の寵児となった。近衛のブレーンとなった「昭和研究会」、「国維会」、官僚の「国策研究会」など革新派の集団が生まれた。思想界では北一輝、大川周明らが革新運動、右翼運動に大きな影響を与えた。右翼だけでなく左翼陣営からも革新運動に迎合する動きがあった。旧日本労農党は陸軍と連携しながら国家社会主義的傾向を強めた。政党政治の凋落に伴って出てきたのが、革新官僚の台頭である。革新運動の行くきつく先が、政党の解消と「新党運動」であった。新党運動は軍部の革新運動と一体化した。1940年軍に協力的な進軍派の議員は「聖戦貫徹議員連盟」を作ってすべての政党の解消、それを束ねて一つの政党の結成運動は、「近衛新体制」の形成に吸収され、大政翼賛会が結成された。大政翼賛会は政治的に全く無力な集団となり、行政補助機関に過ぎなかった。ここに大隈重信以来の日本の政党政治は消滅したのである。

2) 日本の対外認識と国際感覚

第1次世界大戦後の東アジア・太平洋の新秩序は1921−22年のワシントン会議において、中国の主権尊重、門戸開放を定めた9か国条約、海軍軍縮5か国条約、4か国条約の3つの条約が締結された。ワシントン体制と言われる国際協調の枠組みを最初に破ったのが1931年の満州事変であった。若槻内閣の不拡大方針に関わらず、軍部は独断で満州国を建国し、次の斎藤実内閣はこれを追認した。国際連盟はリットン調査団を満州に派遣し日本軍の撤兵を勧告した。これを不服として日本は国際連盟を脱退してしまう。1937年に日中戦争が始まると、国民政府は南京から重慶へ移り、1940年南京には日本の傀儡政権である汪兆銘政権が発足し、ますます9か国条約の原則からほど遠い状況となった。第1次近衛内閣の有田外相はグル―米大使に9か国条約の破棄を示唆したという。軍事力で枠組みを勝手に変更し、旧条約の状況は変化したと称するのは、多くの国からルール違反だと非難された。明治政府は欧米諸国の法システムを積極的に取り入れることで文明国の評価を得るため、捕虜の扱いを定めた1907年の法規慣例に関する条約にも加入した。1しかし列強の一角に上った日本の捕虜扱いは次第に過酷なものに変化した。捕虜の待遇に関する1929年のジュネーブ条約は、調印しながら批准は見送られた。東条英機は「戦場訓」で「生きて虜囚の辱めを受けず」という自決を促し、敵国の捕虜に対して厳重な態度で臨んだ。1942年のフィリッピンの「パターン死の行進」でアメリカ人とフィリッピン人約3万人を死に至らしめた。同じ過酷な運命は自国民のソ連軍によるシベリア抑留となって戻っている。戦後東京裁判においてBC級戦犯裁判では5700人が捕虜虐待・民間人殺戮で戦争法規違反に問われ、920人が処刑された。1937年7月の盧溝橋事件に関しては米国は「自制を求む」と反応したが、日中戦争が激化する中で米国は態度を硬化させていった。この辺を日本政府は全く読めなかった。10月ルーズベルト大統領は日本を「無法国家」と非難した。中国への侵略的行動を「持たざる国の自衛」として正当化する日本と、国際協調の理念に基づいて「平和的な調整」を要求する米国との食い違いに近衛内閣の感覚は鈍感であった。1939年7月米国は日米通商条約の破棄通告を行い強硬策に転じた。にもかかわらず日本は天津の英租界封鎖を行い米英を敵に回したのである。1941年7月日本軍の南部仏印進駐を米国はフィリッピンへの脅威とみて、対日石油禁輸を決断した。日米開戦の直前の1941年11月、米国の春国務長官は対日解答(ハル・ノート)を示し「中国からの撤退」を求めた。この最後のチャンスも無視して太平洋戦争に突入したのである。松岡洋右外相は1941年4月、ベルリンからモスクワに移り、スターリンとの間で日ソ平和条約を結んだ。ソ連の対ドイツの欧州戦線へ勢力集中するための(2ヶ月後に独ソ開戦)時間稼ぎであったこと見抜けず、日独伊にソ連を加えた4か国同盟と取られた松岡の思惑は、「あまりの現実感のなさ」とか「ドイツの戦果に期待しすぎた他力本願世界観」といわれている。陸軍の仮想敵国は終始「ソ連」であった。ところが「持たざる国と現情事を図るデモクラシー国家群の対立」とみれば、「対ソ」から「対英米仏」へ向かうはずのものであった。枢軸派外交を展開する松岡にはこの国際感覚もなかった。この日本外交の過誤は終戦直前にも繰り返された。1945年5月終戦への斡旋をソ連に打診しようと、近衛元首相を訪ソさせる計画が持ち上がったが、散々待たされたあげく8月にはソ連の開戦通告が届いた。「愚策中の愚作」と酷評される日本外交の最後であった。日中戦争では日本は中国の民族主義の力を最後まで理解しなかった。中国の社会は匪賊・軍閥の割拠する社会で、日本軍は個別に軍閥と交渉し内戦を収束させる方針であったといわれるが、国共合作に見られる抗日運動のうねりと中国統一への情熱が政治を支配してゆくことの反作用を理解できなかった。

3) 石油エネルギーと経済

石油を燃料とする内燃機関の発明により、自動車・戦車・飛行機を活用した機動的な戦争を可能とした。こうした変化は第1次世界大戦戦勝国を中心に、石油の産地を支配下に置く動きを活発化させ、中東地域は英米の企業が進出した。オランダは蘭領東インドを支配し、1930年代に入って世界の石油利権は欧米のものとなった。「石油を持たざる国」ドイツは、ナチスの指導の下「石炭液化計画」に邁進した。1939年には「合成石油」はドイツの全石油供給量の半分を占めるようになった。ドイツは第2次世界大戦の開戦当初、欧州では快進撃を続けたが、英国本土上陸を前にしてこの合成石油だけでは戦争継続は難しくなった。そこでドイツはソ連のコーカサス地方のバクー油田に目をつけ侵攻の方向を東に転じた。石油が対ソ戦の目的の一つとなったのである。ドイツは1941年6月ソ連に侵攻しバクー油田の直前まで迫ったが、兵站を無視した侵攻で皮肉にも石油切れによって挫折したのである。そしてこれを機にドイツはスターリングラードの攻防戦で敗れ敗戦への道を転がり落ちたのである。日本も「持たざる国」であったので、1932年関東軍参謀板垣征四郎は中国の資源供給基地として満州国をでっち上げたのである。しかし満州には石油はなかった。日本の石炭液化計画は微々たるもので生産量は全く期待できなかった。石油の不足分は米国からの輸入であり、1937年で輸入全体に占める米国石油の比率は67%となり、1939年には実に90%に達した。戦争の重要資源である石油を決定的に米国に依存しながら、米国を敵に回すというとんでもない戦略を日本は選択してゆくことになる。このような状況を転換できる千載一遇のチャンスは、ナチスドイツの快進撃であった。1940年にドイツはフランス、オランダを降伏させた。蘭領東インド(インドネシア)のバレンバン油田は日本の年間消費量に達する生産量を持っていた。またフランス領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)も主のいない土地となり、米国依存から逃れる最後のチャンスが現出した。こうして日本軍も政府も、「南方進出」という熱病に取り付かれた。これは俗にいう「火事場泥棒」である。陸軍は独・伊との3国同盟に抵抗する米内内閣を陸相引き揚げによって倒閣した。ここに時の内閣を打倒するという軍部の政治壟断が始まった。跡を継いだ第2次近衛内閣は松岡洋介外相の下で3国同盟を締結すると同時に、日本軍を北部仏印に進駐させた。これは米英の蒋介石援助ルートを遮断するという狙いであった。米国政府は経済制裁を強め、屑鉄の対日全面禁輸という対抗策を取った。鉄がないと兵器や軍艦が作れないのである。近衛内閣はアランダ亡命政府に石油の対日供給量の増大を要求したが、拒否されたので1941年6月オランダとの交渉を打ち切り、7月23日南仏印進駐の挙に出た。日本の南仏印進出は英米を激しく刺激し、シンガポール、フィリッピン、蘭領インドシナ攻撃も近いとアメリカは警戒を強めた。そして8月米国は石油の対日全面禁輸を通告した。海軍は南仏印進出では米国は出てこないだろうという予測を破られ、大いに慌てたという。備蓄してあった石油は2年分、軍部は早期開戦を政府に迫った。12月8日東条内閣は英米に宣戦布告し真珠湾を攻撃し、1942年2月陸軍落下傘部隊は蘭領東インドのバレンバン油田を奇襲しこれを奪った。しかし、バレンバンの石油が順調に日本に届いたのは最初の1年だけで、制空権、制海権を次第に米国に奪われ石油タンカーは次々と沈められ、1945年には石油はまったく届かなくなった。

昭和初期の経済政策は、民政党浜口雄幸内閣が1930年に打ち出した「金解禁」(金本位制に復帰)であった。蔵相の井上準之助はそのため公債を出さない極端なまでの緊縮予算を敷いた。その直前世界恐慌が襲った。この金解禁と世界恐慌のダブルパンチで経済は大きく後退した。1931年のGDP18%減、輸出47%減、個人消費17%減、農産物物価も米価で40%減、大卒の就職率も40%に過ぎなかった。恐慌による歳入欠損を埋めるため公債を出さないとする井上財政は挫折した。犬養毅内閣の発足後、高橋是清蔵相は金輸出の再禁止を決定し、財政拡張と金融緩和、景気回復を図るリフレ政策(物価上昇策)を取った(まさにアベノミクスはこれの模倣)。このため高橋財政の下、財政規模は一気に2倍に膨らんだ。満州事変による軍事費増大、農村救済の公共事業費、赤字国債の発行と日銀引き受け、円安誘導による輸出増加(デフレからインフレへの経済政策とはいつの時代も同じ手を使うものだ)によって、1935年に日本経済の景気は回復した。しかし歴史は残酷なもので、この時期の経済を指導した首相と蔵相達(浜口首相、犬養首相、井上蔵相、高橋蔵相)は、右翼や軍部によるテロによって全員暗殺された。マクロ経済政策は経済指標の上ではうまくいったとしても、生活の苦しさと社会の不満は解消しなかったのである。2.26事件後に成立した広田弘毅内閣の馬場蔵相より、財政規律無視の国債乱発の始まりとなった。1937年軍事費は高橋蔵相時代の1.5倍に膨張した。輸入の増加から外貨準備金がなくなり国際収支危機を迎えた。日中戦争と太平洋戦争の15年間の軍事支出はGDP34年分に達した。国家財政は破綻し、戦後のハイパーインフレを招いた。1932年3月三井財閥理事長の団琢磨が「血盟団」によって暗殺された。暗殺の起きた理由は、犬養内閣の金輸出再禁止策で、円暴落(ドル急騰)を見込んだ三井財閥のドル買い締めにあったといわれる。テロに恐怖した財閥系は軍部や右翼に大量の寄付金を振り向け、軍と財閥を接近させた「軍財抱合」の構図が深まった。また財閥系企業の株公開によってえた巨利は、軍特需に答える設備投資に回された。満州事変後の軍事費拡大は、軍需産業を大いに潤したという。特に新興財閥と呼ばれる日産、日窒、森、日曹、理研などで、鮎川義介が率いる日産コンツエルン(日産自動車、日立製作所、日本鉱業ら)は満州国官僚岸信介の誘いを受け満州に進出した。鮎川は石原莞爾の構想による「満州産業開発5か年計画」の実行に協力する。だが厳しい満州政府の規制を受け鮎川は満行総裁を辞任し1942年に撤退することになった。戦時経済で財閥は膨張を続け、三菱重工業は日本の軍艦の4割、航空機の2割を生産した。まさに三菱は明治政府以来戦争の度に大きくなった感がある。4大財閥三菱、三井、住友、安田)の資本金総額は1945年には日本全体の25%まで上昇した。アメリカ政府は財閥を「日本における最大の戦争潜在力」と見なし、終戦後すぐに財閥解体を手掛けたが、財閥系各社はグループ化して株の持ち合いを強め、日本型法人資本主義を形成した。開戦当時(1941年)の日米の主要物質の生産高比較は、いわば国力の差と理解される。石炭で9.3倍、石油で無限大、手功績で74倍、鋼で12倍、銅で11倍、鉛で27倍、アルミで5倍、平均すると78倍米国の方が勝っていた。この日本の生産力は終戦時には1941年の24%まで落ちていた。日本経済は補遺界に追い込まれていたのである。

4) テロリズム

大正・昭和時代に横行したテロ・クーデター事件をまとめると、1921年安田善次郎(安田財閥創始者)暗殺事件(右翼団体)、1921年原敬首相暗殺事件、1930年浜口首相狙撃事件(右翼団体)、1931年3月事件クーデター未遂(陸軍橋本欣五郎ら急進派)、1931年10月事件クーデター未遂j(陸軍急進派)、1932年血盟団事件(井上準之介蔵相、団琢磨暗殺)(井上日召右翼団体)、1932年5.15事件(犬養首相暗殺)(陸軍将校)、1933年神兵隊事件未遂(右翼青年、軍人)、1934年士官学校事件未遂(陸軍皇道派将校)、1935年永田事件(永田鉄山統制派殺害)(陸軍皇道派相沢三郎中佐)、1936年2.26事件(斎藤首相、高橋蔵相、渡辺教育総監、鈴木侍従長、岡田首相、牧野内大臣襲撃 3名殺害)(陸軍皇道派)などである。こっれらの人以外にもテロの対象となった人は多い。天皇機関説の美濃部貴族院議員、牧野内大臣、東条英機暗殺計画などがある。大正時代は安田善次郎暗殺事件に象徴されるように@特権的富豪排斥、A既成政党粉砕が叫ばれた。つまりテロはいつも「造反有理」を持ち出す。テロが消し去ったものは何だろうか。それは人命を含む人権であり、民主主義であり、合理的精神であった。テロという凶器をまえにして人々は屈服し、戦慄から迎合へ向かった。昭和維新は天皇の政治体制は国是として、「君側の奸」を除くという形で行われた。テロは天皇を担いでやりたい放題の権力奪取レースを演じたのである。2.26事件は北一輝の「日本改造法案大綱」がバイブルとなっている。「天皇大権の発動により、3年間憲法を停止し、議会を解散し、全国に戒厳令を敷く」という国家改造計画である。ところが権力奪取の戦術は書いてあるが、その権力でどんな社会を作るのかという中身はまるでない。神国と言った情緒しかない恐るべき無内容な書である。政府や政党、財閥に対する国民的憤懣を背景にしたテロに対して世論(つまり新聞の論調)は許容姿勢を取った。テロは結果的に軍部独裁による戦争遂行体制を準備したのである。血盟団事件の首謀者井上日召は「支配階級全体に襲われるという恐怖心が起る。自分の生命以外には恐れるものを持たない彼らに恐怖心を植え付けることで彼らは変化してゆく」という恐怖の効用を述べている。こうして要人には暗殺というテロに対する恐怖が広がった。政治家や学者は言い分を少しづつ迎合する方向へ変えてゆく。財閥は襲撃を避けるため軍隊に莫大な寄付をするか、大東亜共栄圏構想で一儲けする1石2鳥の道を選ぶ。政治家は政党自体を解消し大政翼賛会へ向かった。軍隊に批判的な言葉を吐くと狙われるので反軍的言論は封鎖される。日独伊同盟に反対だった山本五十六海軍省次官も陸軍に襲われる恐怖から、海上(連合艦隊司令官)に逃げた。こうして国内からは陸軍に批判的勢力無くなり、海軍自体も親独派が支配し、英米協調派は発言力をなくした。こうして陸軍は反対派をテロによって沈黙させ全権力を掌握した。日本の軍部はいくつもの凄惨なテロ、クーデター未遂事件によって、満州事変をチェックしようとする政治家をテロで脅迫しながら、深く政治に関与を深めていった。1936年広田弘毅内閣は陸軍に迫られて、廃止されていた「軍部大臣現役武官制」を復活した。これにより陸軍海軍大臣の同意を得ないと組閣もできないので、政党内閣は崩壊したのである。

5) 特攻

「九死に一生を得る」のも戦術だとしても、「十死零生」(100%死ぬ)の「特攻」はもう「統率の外道」だと海軍の大西中将は述べたという。その大西中将が1944年10月初め軍令部会議で、米軍の進んだ防空システムの前に海軍は有効な攻撃ができず、残された唯一の手段として「特攻」を申し出て、及川軍令部総長はこれを承認したという。大西は1944年10月25日マニラ基地で第1神風特攻隊を編成した。フィリッピンのレイテ湾に栗田連合艦隊が突入するのを助けるためであった。栗田連合艦隊は途中で作戦を中止するなど作戦はちぐはぐで、戦艦武蔵など24隻の艦艇を失い、関大尉が率いる第1神風特攻隊は米空母2隻、巡洋艦2隻を撃沈する戦果を挙げた。第1回目の特攻隊は予期せざる戦果を挙げた。特攻隊が編成される4か月前、連合艦隊はサイパン島沖海戦で壊滅的な敗北を喫し、空母など多くの艦艇と航空機の大半を失っていた。海軍が特攻を計画したのは1943年のことである。その中心に中沢少将と黒島参謀がいた。人間魚雷「回天」、グライダー式有人爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」の試作が始まり、44年8月「海軍特攻部」が発足した。もはや正常な航空機攻撃で戦果を挙げることは困難になっていたので、海軍は次々と特攻隊を編成した。「特攻」が悲劇ではなく、愚かな作戦の象徴とされるのは、大本営が特攻用の兵器開発を行い、部隊を組むなど軍のシステム化に乗り出したことである。もはや正常な戦略と判断力を失っていたことが日本軍の有様であった。神風特攻隊は9500人を超す若者を犠牲とした。「特攻」と並んで日本独自の愚かな作戦が「玉砕」である。砲弾と銃弾の中を敵陣地に向けて突入させる作戦は乃木大将による日露戦争の203高地攻略に由来する。乃木大将は愚か者の代表となり幾万の兵を犠牲にして更迭された。1945年6月の沖縄戦が激しさを増すにつれ、連日特攻飛行隊が投入されたがもはやその効果さえ見られなくなった。戦争指導は末期症状を呈していた。南方の戦場での餓死・病死は兵站の問題としても、玉砕は戦略というより「死」という情緒に囚われた戦術である。戦うことが目的ではなく、死ぬことが目的になったのである。玉砕の事実を列挙すると、1943年5月アッツ島では日本軍2500人全員戦死、1943年11月マキン・タラワで5000人以上が戦死、1944年2月クエゼリン・ルオットでは7000人以上が戦死、1944年2月ビアクでは日本軍12000人以上が戦死、1944年5月サイパンでは日本軍42000人以上が戦死、1944年8月グアム・テニソンでは27000人以上が戦死、1944年9月中国ビルマ戦線の拉孟では3200人以上が戦死、1944年11月ペリリュウ・アンガウルでは11000人以上が戦死、1945年3月硫黄島では21000人以上が戦死した。

6) 大日本帝国憲法

1889発布の大日本帝国憲法(欽定憲法)は、第1条「大日本帝国は萬世一系の天皇之を統治す」、第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」、第11条「天皇は陸海軍を統帥す」、第55条「国務大臣は天皇を輔弼し、その責に任ず」と書かれている。戦争を遂行した日本国の国体(意思決定の仕組み)を法的に(神話的、宗教的、情緒的にではなく)理解することは重要である。国家統一の根拠を天皇制に基づき、行政・立法・司法・統帥などすべての権力を天皇が掌握するという建前を取っている。西欧の神聖絶対君主制に近い。さらに法的、政治的な責任は天皇を補佐する国務大臣が負い、天皇は「無答責」(無責任)とされた。立憲君主制である。内閣が責任を持ち、議会が追及する。国家権力の濫用から国民尾自由や権利を守るという考えも取り入れている。各閣僚は天皇の国務を補佐し、現在の内閣のように連帯責任を負うのではなく個別に責任を持ったのである。首相と各閣僚の地位には差はなく、主席閣僚ぐらいの意味で首相に強い権限が集中することを避けている。天皇を封じ込める力を持つ内閣=幕府とならないための仕掛けである。帝国議会は貴族院と衆議院の2院制であった。立法は天皇の権限であり、緊急勅令(憲法8条)や独立命令(憲法9条)を発することができ、議会は天皇の協賛機関であり国権の最高機関ではなかった。天皇の直属諮問機関として枢密院があり重要な国務の相談に当たった。一方元老や重臣には憲法上の規定と権限はなかったので、憲法上責任を問われることはなかった。天皇の個人的な相談相手という意味で、組閣などの相談に当たった。内大臣がその位置であった。元老は明治の元勲にはじまり、 伊藤博之、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上薫、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望らがその系譜になる。昭和期には西園寺だけになり、側近の内大臣や首相経験者の重臣らが首相の人選の協議に預かった。明治憲法体制はこのように天皇絶対主義を取る手前、強力な権限を持つ組織は設けず、天皇が直截する形を取った。しかし有能か無能かは別にして実質一人の天皇が治められるわけではない。国家機構(軍を含めて官僚機構)がすべて天皇の補佐機関であって、責任を持たされるが権力は持たないという。これはウソで運営次第で天皇は赤子のように無力な位置に封じ込めることができるし、そのような状態が国家運営上都合がいいというという側面を持っていた。あくまで天皇の個人的な相談役(幕藩体制では家老)である元老など政治リーダーの個人的な力量に左右される国家体制で、政治権力がかってに行動すると空中分解するシステムであったといえる。

司馬遼太郎氏は「この国のかたち」(文芸春秋社)の中でこう述べている。「日本を別国に変えてしまった魔法の杖は、統帥権にあった」 昭和初期から敗戦まで日本国家がファッシズムの道に至るのは統帥権独立問題に囚われたからである。帝国憲法は11条に「統帥権」を規定した。第12条に「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」 これには伊藤博文著「憲法義解」に「もとより責任大臣の輔弼による」とある。「統帥権」が責任政治の外にあるのか、「軍の編成」は責任政治内であるのかの区別は明確ではなかった。この曖昧さを巡って、1930年4月ワシントン海軍軍縮条約調印に関する衆議院本会議で、政友会鳩山一郎議員は「政府が軍令部の反対を無視して決定したのは権限外であり、統帥権を干犯したことになる」と非難した。政友党の党略からくる論であったとしても、その責任内閣制から独立して軍部の統帥権を置こうとしたことは政党政治を自己否定したことに他ならない。統帥権=魔法の杖という自己呪縛の罠を設定した政治家にも大きな罪だった。この統帥権独立と広田内閣の現役武官制の復活が、明治立憲制の息の根を止めたといえる。貴族院議員で東大教授であった美濃部達吉氏の著書「憲法精義」が述べた天皇機関説は当時の憲法学説では常識の範囲であったが、右翼や軍部はこれを「反逆的思想」と言って反発した。天皇機関説はドイツの国家法人説に依った学説で、統治権は国家に在り、元首である天皇は国家の最高機関であるとする。憲法学者穂積八束は「天皇は統治権の主体」であるとし、国粋主義者徳富蘇峰らは美濃部を攻撃した。1935年衆議院は「国体明徴の決議」をだし、天皇神秘主義(荒人神)で天皇機関説を排撃した。天皇機関説を排撃することであの戦争体制を作った天皇中心主義者は帝国憲法の意図とは逆に、天皇に全責任を覆いかぶせてしまったといわれる。全能の昭和天皇がした戦争ということで、軍部の責任は無くなった。昭和天皇は過去2回歴史的な政治的決断を下した。一つは2.26事件を越した反乱軍の討伐命令、2つは終戦の聖断である。それ以外は「事をなすには必ず輔弼の者の進言を待ち、またその進言には逆らわぬことにしたと「昭和天皇独白録」にある。明治以来、元老の伊藤博文の政党政治と、山県有朋の官僚体制の間でバランスを取ってきたが、現実には天皇に権限を与えるつもりのない人々が憲法を運営してきた。ところが昭和になって元勲がいなくなると、明治維新の建国の精神も忘れられ、国家がばらばらになって動きだし都合のいいように憲法を解釈した。大正時代の安定した立憲政治は破壊され、昭和初期にはすでに国家の態をなさなかった。「国破れて山河あり」の「国破れる」の状態である。テロと軍閥が跋扈する時代になった。

7) メディアの責任

新聞・出版・放送などメディアに対する言論統制は満州事変、日中戦争を機に強まった。新聞は戦線を拡大する関東軍の動きを華々しく伝え、戦争不拡大方針を取る内閣を「弱腰」だと攻撃した。新聞の販売部数の拡大は満州事変拡大を機に飛躍的に伸びていった。ジャーナリズムの営業は、外に向かっては日本の正義を、内に向かっては日本精神の高揚を説いたという。1931年から1944年の間に、朝日新聞は150万部から350万部へ、毎日新聞は250万部から350万部へ、読売新聞は20万部から180万部へ拡大した。戦争遂行と新聞は切っても切れない関係にある。統制された新聞と国家戦略との結合、新聞社の利益の野合の関係をこれほど如実に示すデータはない。新聞は国民に大本営以外の記事を乗せるわけではないので、国民に真を伝えるつもりはなく無謀な戦争へ国民を駆り立てることが使命となった。日中戦争時代の言論統制の根拠は明治以来の「新聞紙法」と「出版法」であった。内務省・検事局・警視庁検閲課・府県特高課は新聞の検閲を行い発売禁止などの措置を取ることができた。1938年「国家総動員法」により用紙統制が各社の死命を握り、新聞社・出版社は政府・軍部の下部機関に成り下がった。1940年には「情報局」が発足し、国家的報道・宣伝の一元的統制を行った。1926年にNHKが、1936年に同盟通信社が国策メデァアとして設立され、情報局の直接支配を受けた。そこでは国や軍と協力して世論を指導することが使命とされ、批判的な言説は一切見られなくなった。太平洋戦争開戦して以降、報道の自由はほぼ消滅した。戦況報告について大本営の許可するもの以外は一切禁止という新聞事業令が発令された。違反したものには新聞事業を廃止できるのである。新聞記者は陸海軍省記者クラブに日参して記事を貰うという体制になった。自社独自取材はあり得ない。1944年2月23日の毎日新聞記事の「竹槍事件」は、軍部が記者を懲罰招集することになった。大本営発表は終戦まで864回に及び、最初の半年は比較的まともな発表であったが、その後でたらめな発表にすり替わった。黒(敗北)を白(勝利)というような虚偽の発表であった。ナチスの「宣伝」の精神に似た、虚像(ウソ)も言い続ければ実像(真実)となるというたぐいである。としても政府・軍部が指導し戦争にはたした新聞メディアの役割とメディアの営利行動の一致は、新聞社が戦争推進者の被害者ではなく、むしろ加害者側に立っていたという事実をしっかり反省しなければ、永久に鵺的存在の非難を免れることはできない。


検証  戦争責任 (下)

1) 日中戦争

さて本書下巻より戦争の歴史的展開となる。日中戦争、日米開戦まで、太平洋戦争、終戦工作、東京裁判までが戦争の歴史で、最後に戦争責任検証最終報告が加わる。1931年に起きた満州事変から日中戦争を検証することになる。ここに至るまで日本と中国の関係は、明治以来の台湾征伐、日清戦争、日露戦争、第1大戦後の3国干渉の歴史の中での展開なのであるが、本書では昭和時代からの日中関係から入る。日本陸軍が第1次世界大戦後の国際秩序の挑戦して満州(現・中国東北部)占領を企画した満州事変から始めることにする。日露戦争で長春ー旅順の南満州鉄道の権益を得ると軍隊を派遣した。明治時代に陸軍参謀総長だった児玉源太郎は満州国樹立の構想を持ったが、「満州は厳然とした清国領土である」とした伊藤博文になだめられたという。それ以来「満蒙問題」は伝統的な陸軍の基本政策になった。第1次世界大戦中、欧州列強国の影響力が薄くなった時を狙って(火事場泥棒式に)「対華21か条の要求」を突きつけた。これに憤った中国のナショナリズムは高揚し、中華民国の孫文の後継者蒋介石は反日姿勢を強め「北伐」を開始した。そしてその勢いは満蒙に迫った。一方ウイルソン米国大統領の提唱により国際連盟が設立され、東アジアの国際秩序作り(ワシントン体制)が進められた。特に9ヶ国条約では中国の主権と領土保全の尊重が約束された。1923年の「帝国国防方針」にアメリカが仮想敵国として浮上した。当時の中国では軍閥が割拠しており、日本は北方軍閥の張作霖を後押しした。田中義一内閣は1927−28年に山東に出兵し、満州に駐留する関東軍は、満州東三省(遼寧・吉林・黒竜江)と熱河地方を統治する親日政権を作る方針を作成し、1928年6月張作霖爆殺事件を引き起こした。その策謀の中心人物は河本大作参謀であった。ところが張作霖の息子張学良は国民政府に参加し排日運動を展開した。満州事変をしかけたのは陸軍と関東軍だった。1928年3月陸軍省と参謀本部の症候で作る「木曜会」に鈴木貞一、永田鉄山、岡村寧次、東条英機、石原莞爾、根本博らが集まり、「満蒙に完全な政治的権力を確立する」。それには「ソ連との戦争、アメリカとの戦争も準備すること」を確認したという。1929年5月陸軍の将校の勉強会「木曜会」は「双葉会」と連合し「一夕会」という新集団を結成した。新たに加わったメンバーに武藤章、田中新一、富永恭次が加わり、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎をトップに仰いだという。陸軍中央では「満蒙問題解決方策の大綱」が1931年6月に策定された。そこには「政府において軍お意見に従わない場合は、断固たる処置にでる」という文言があり、これがのちの3月クーデター未遂事件につながってゆくのである。南次郎陸相も「軍人は軍政という政治を担当するので、元来政治に干与すべき本分がある」という見解であった。関東軍参謀の石原莞爾は「世界査収戦争論」で、西洋の中心たる米国と東洋の代表である日本の覇権争いによって世界の体系は決定される」と思い込んでいた。石原・板垣・花谷の3人で満州占領計画を研究したという。1931年9月18日夜奉天の柳条溝で満鉄線が爆破された。仕掛けたのは河本中尉であった。石原らは吉林に出兵し、手薄となる奉天に朝鮮軍の増援を頼むことであった。関東軍司令官本庄繁と朝鮮軍司令官林銑十郎の合意が必要であった。本庄は板垣征二郎に説得され、林銑十郎司令官は独断で奉天に越境した。9月22日清朝の廃帝溥儀を擁立を図った。溥儀の擁立に動いた奉天特務機関長土肥原賢二は「今後の収拾に溥儀の擁立を必要とする場合、政府がこれを阻止することは許されない。この際政府方針のごときは問題に非ず」という態度であった。政府あって政府を無視することはこれは軍閥のなすことである。関東軍という軍閥が満州国という手前勝手な政府を作ったことは、日本はもはや文治国ではないということである。関東軍が起した満州事変の時の若槻礼次郎内閣は「事件の不拡大方針」を決め乍ら、軍の行動は追認した。決心を迫る南陸相に対して、ワシントン体制を守る幣原外相は事態を小範囲に限定すべきという意見であった。若槻首相は天皇の裁可もなく軍を動かした事態に動揺し、これを問題とすることもできず追認という有耶無耶に終始したのである。死に値する行為である天皇の統帥権を無視し、政府の考えを踏み倒し、満州国樹立という大芝居を敢行した関東軍参謀を増長させた原因は、1928年張作霖を爆殺した河本大作の処置の甘さに由来する。又陸軍参謀による1931年3月クーデター未遂事件と10月クーデター未遂事件の処置の甘さが、無責任な風潮を助長させ、何をやっても罰せられないという事実が軍将校の暴走を招いたといえる。中国は1931年9月日本の軍事行動は不法であると国際連盟に提訴した。中国は国際世論を味方につける戦略をとった。

満州事変に英国はあまり反応しなかった。それは世界恐慌に伴う国内経済の立て直しに精いっぱいだったことによる。ところが1932年1月上海事変を機に英国は硬化した。上海事件と満州事変とは連動した動きで、満州に世界の目が集中しにように上海で事を起す策略だった。上海公使館付武官補田中隆吉が関東軍参謀板垣征四郎に頼まれて起こした事件である。満州事変に最も厳しい姿勢を示したのは米国であった。スティムソン国務長官は1932年「不承認主義」を打ち出し、1928年のワシントン体制に反する日本の行動の一切を認めないというものであった。国連理事会は9か国条約の履行を日本に要求し、リットン調査団を満州に派遣した。1932年10月日本の行動は自衛行為ではなく満州国も独立運動によって生まれたものではないという報告書を提出した。妥協の余地はあったものの、衆議院は満州国承認決議をだし、1933年2月松岡洋右外相は国際連盟脱退を通告した。列強国は強制力を行使して日本軍を撤退させることはしなかったことは、ほどほどのところで日本を抑え、満州の憲兵として日本を利用しようとしていたのである。ところがいきり立った関東軍の暴走を日本の政治家はコントロールできなかった。いたるところで妥協の機会があるという国際感覚が欠如した軍と政府の愚かさが目立つ。関東軍は国際連盟総会中に熱河省へ侵攻し、河北省深く攻め込んだ。こうして日中戦争から太平洋戦争への種がまかれた。1933年日中両国は停戦し、日本は満州を確保しさらに万里の長城以南を中立地帯とすることで満州事変は終結した。ところが陸軍は華北五省(河北、チヤハル、山東、山西、綏遠)に自治政府を作り蒋介石から切り離すという「華北分離工作」を本格化させ、日中戦争への道に進んだ。工作の中心は土肥原賢二、坂井隆、高橋坦参謀らであった。坂井参謀は「中国は国家ではない。むしろ匪賊の社会である。」という「分治合作論」を説いた。日本が独立した個々の地域のボスと直接提携する攻略で、親日政権に軍参謀を送り込んだ。この分離工作は蒋介石をして抗日戦線統一(国共合作)に向かわせた。1935年「抗日救国」の抗日運動は激しく組織的になり、1936年12月の西安事件で、張学良の斡旋で蒋介石と毛沢東は手を握ることになった。軍閥時代の思考方法に囚われた陸軍中央や現地陸軍には、中国のナショナリズムの高揚とその力を理解できなかった。1934年広田弘毅内閣の外務省より「天羽声明」が出され、日本一国主義もしくは「アジアモンロー主義」に対して諸外国は、国際協調、親英米主義の幣原外交からの路線転換と受け止めた。1936年8月広田首相は五相会議で「国策基準」として「アジア大陸における帝国の地歩を確保するとともに、南方海洋に進出する」として、初めて南方進出策が打ちだされた。さらに広田首相の3つの失策として、1936年5月の「軍部大臣現役武官制の復活」と並んで、1936年11月の日独防共協定締結である。前者は内閣の軍部への屈服を約束し、後者は国際政治で英米を敵とするナチスの戦略に巻き込まれたことである。日本の軍部の中国観は、明治以前の卑屈感が裏返しになって驕慢心に替わっていた。石原莞爾は「支那人が近代国家を作り得るやすこぶる疑問にして、むしろ我国の治安維持の下にいる方が幸せ」というほど、中国蔑視に満ちたものであった。広田内閣が成立したのは1936年の2.26事件の直後である。荒木貞夫、真崎甚三郎の陸軍皇道派は1935年8月永田軍務局長を暗殺し、統制派に追い詰められた皇道派が起死回生のクーデターを引き起した。1936年2月の2・26事件である。村中孝次、磯部朝一らが主導する約1400人お部隊が首相官手などを襲い、高橋蔵相、斎藤内大臣、渡辺陸軍教育総監を殺害した。これを契機に陸軍の政治干与を抑えるチャンスだったのであるが、政治指導者は恐怖の方が先に立ち、ますます陸軍の思いのままとなった。2.26事件後は陸軍は梅津美知治郎次官、石原莞爾、武藤章らが専断してゆくことになった。下剋上の気運が陸軍を支配し、専断先行で上官の命令を聞く参謀はいなくなった。軍令が貫徹しなくなったといえる。これでは軍ではなく山師の集団に過ぎない。

1937年7月7日盧溝橋で銃声が響いた。牟田口廉也連隊長は中国軍への攻撃を命じた。参謀本部の石原作戦部長は事件不拡大の方針を指示したが、武藤参謀は田中真一軍事課長とともに内地3個師団の派遣を準備した。近衛内閣は11日内地3個師団の派兵を決定した。中国派遣軍は7月中に北京、天津地域を占領し、東条英機が指揮する兵団はチヤハル省に侵攻し、華北と内蒙古に戦火が広がった。松井石根司令官は上海派遣軍を率いて、南京攻略を行い「南京虐殺」を引き起こした。犠牲者数は諸説あるが4万人以上と推測される。中国への派遣費力は1939年には85万人に膨れ上がり、軍事費は100億円を突破した。北京、上海、徐州、漢口、広東など主要都市を占領したが、戦争終結の動きは見られなかった。点と線の支配はゲリラ化した中国抗日部隊によって攻撃の対象となり戦局は泥沼化した。蒋介石国民政府は武漢から重慶に移動し太平洋戦争終結まで抗戦をつづけた。1937年10月参謀本部は戦争拡大に歯止めをかける為、ドイツの駐華大使トラウトマンに依頼して蒋介石に講和条件を示した。l講和条件は満州国の承認を前提に、内蒙古の自治、華北の非武装化中立地帯の設定であったが、9ヶ国条約会議を期待していた蒋介石は停戦を条件に一時は交渉に入った。ところが大本営政府連絡会議で講和条件は一気につり上げられ、1938年1月2日蒋介石は和平交渉を拒否し徹底抗戦を選んだ。近衛内閣は第1次近衛声明をだし「帝国政府は爾後国民政府をあいてとせず」と交渉は決裂した。和平交渉はその後も断続的に行われた。なかでも汪兆銘工作が有名である。影佐禎昭、今井武夫は国民党の重鎮汪兆銘に接近し、第2次近衛声明「東亜新秩序」に呼応して、1940年3月南京に汪兆銘政権を発足させた。日中全面戦争の時期に国民党を分裂させて片方と講和条約を結んだとしても、それは傀儡政権と呼ばれるだけのことであった。近衛文麿が政権に着いたのは1937年6月のことで、盧溝橋事件の直前である。五摂家筆頭という名門の出で、高い国民的衆望を担った。近衛首相、広田外相も結局不拡大の方針が陸軍省の強硬論に引きずられていった。その近衛は1937年8月杉田陸相の提案で「シナ軍の暴戻を膺懲し、南京政府の反省を促すため今や断固たる措置を取る」という政府声明を出すことになった。1938年1月に「国民政府を相手にせず」の声明、11月には「東亜新秩序の建設」声明を発表し、大東亜共栄圏構想に引き継がれてゆく。内閣改造に失敗し、1939年1月近衛はついに政局を投げ出した。陸軍は1932年の5.15事件以来政党内閣の継続に強く反対し、軍部と官僚、政党、貴族院による挙国一致内閣が斎藤実内閣、岡田啓介内閣に継続された。1936年の天皇機関説と2.26事件が岡田内閣を直撃した。天皇機関説はそれまで議会中心の政治に理論的根拠を与えていた。しかし政友会の鳩山は党略から統帥権干犯問題を提起し、議会の無力化の墓穴を掘った。2.26事件は政党政治再生の目を完全に潰してしまった。議会は変質し、政府予算はいつも全会一致で成立するようになった。議会は政府を抑制するより、政府を鼓舞する応援団になっていた。1937年9月臨時軍事費特別会計を設けたことから、軍事費は飛躍的に膨張した。ウナギ上りで天井知らずという有様となった。「予算案をほとんど議論もなしに通過してしまう議会はもはや国民に会わせる顔がない。憲政はサーベルの前に沈黙した」といわれた。

2) 日米開戦まで

1940年9月第2次近衛内閣はドイツ、イタリアと日独伊3国同盟を結んだ。その前に1936年11月に日独伊防共協定を結んでいたので、これを軍事同盟に格上げしたのである。ナチスドイツはオーストリアやチェコの併合を考えていたので、英国やソ連の干渉を阻むために日本を使ってアジアで牽制して欲しかったのである。ドイツの提案に真っ先に飛びついたのが陸軍親独派であった。陸軍の仮想敵国は基本的にソ連であった。日中戦争で大量の軍隊を中国各都市に派遣している陸軍としては北方が手薄にならざるを得ない。逆に日本はドイツに英国・ソ連を引きつけ牽制しておいてほしかったのである。お互いに勝手な目論見で野合したのが三国同盟であった。しかし軍事同盟に進むことは、英米との関係が悪化すると懸念したのが海軍で、米内光正海相と山本五十六次官は強く同盟に反対した。1939年8月の平沼騏一郎内閣の5相会議では陸海の対立は解けなかったが、8月23日の独ソ不可侵条約によってポーランドの分割が決まったことで9月に第2次世界大戦が勃発した。これにより三国同盟は一旦棚上げされた。安倍信行内閣は欧州戦不介入を表明した。この内閣の下で中国戦線からの撤退も検討された。ところがドイツの快進撃が状況をすっかり変化させた。1940年パリは陥落し親独政権ができ、ロンドンにフランスとオランダの亡命政府ができた。オランダの弱体化は日本が蘭印(インドネシア)油田を獲得する機会が現出した。南方進出にとりつかれた陸軍と海軍参謀部は油田占領から英米参戦の机上研究を開始した。陸軍は三国同盟に反対だった米内内閣(1940年1月発足)の打倒に動いた。畑陸相辞任を突き付けて米内内閣を瓦解させた。7月に第2次近衛内閣が成立し、南方進出と独伊との同盟を推進し対ソ封じ込めを特徴とする「時局処理要綱」を陸軍が起草した。しかし対米戦争まで覚悟する者は誰もいなかった。軍官僚主導の政策決定システムでは、最初に起草するエリート中堅幕僚の意見が大きな力を持つ。陸軍のエリート候補である陸大卒の中でもドイツ留学組が多く、ドイツの軍事指導者ルーデンドルフの国家総力戦思想の影響を受けているものが多かった。海軍主流は親英米派が多かったが、次第にドイツ留学組が多くなり、日英同盟破棄後英国留学は廃止された。ここで海軍軍令部総長伏見宮博恭王もドイツ派としての影響力は大きかった。陸軍でも閑院宮載仁参謀総長など皇族出身の幕僚の果たした役割は無視できない。皇族の戦争中の言動については、小田部雄次著 「皇 族」 (中公新書 2009年)に詳しい。第2次近衛内閣の外相であった松岡洋右は、1933年国際連盟脱退の派手なパフォーマンスを演じた後、1935年には満鉄総裁に就いた。近衛は、1940年7月松岡洋右、東条英機、吉田善吾を私邸「荻外荘」に招いて日独伊枢軸の強化を申し合わせた。松岡外交の構想は、アメリカに対抗するため日独伊が協力し、東西で新秩序の建設(侵略)を認め合い、ソ連を巻き込むというもので、日独伊ソの四国協商を実現することであったという。松岡は1940年9月日独伊三国同盟締結に持ち込んだがそれは同時に反アメリカ軍事同盟であった。ここに日本の反米基本方針が決定された。松岡はまた1941年4月日ソ中立条約を結んだ。ところが2か月後の6月22日ドイツがソ連に侵攻したために日独ソの連携は消滅した。これにより英米ソと日独伊の対立構図が決定的になった。当時の陸軍参謀はドイツの快進撃に幻惑され、ドイツの英国上陸は真近いと読んでいたが、ドイツは英国上陸作戦の無期延期を決め、対ソ開戦に方針を変えた。それは三国同盟締結10日前のことである。国内政治体制の「革新運動」jは1940年に入って本格化する。近衛側近の有馬頼寧らは「近衛新党」をめざし、陸軍も新体制運動に期待した。ナチス躍進の根源は一党独裁制にあると考え、日本もナチスのように政党政治を廃止し一国一党体制を敷いて、国家総動員体制を確立する必要があると考えた。1940年10月近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足した。外務省のイタリア大使白鳥敏夫は「皇道外交」推進を唱えた。近衛首相は時代に迎合した「時代政治屋」の異名をとった。

日本軍が南部仏印進駐に踏み切って決定的に米国と抗争するする背景には、日中戦争の長期化、南方資源への渇望、米国の経済制裁、独ソ開戦などがあるが、日本は激変する国際情勢の中で大局を見失った。東南アジアに権益を持つ英仏蘭がドイツの電撃戦で本国が占領され混乱している間をぬって、日本が彼らの植民地と資源を横取りする作戦である。目の前のえさに目がくらんで、東か西か、北か南かの大局判断を忘れてしまった感がある。1941年1月大本営政府連絡会議は「対仏印・泰施策要綱」を決定した。次いで4月陸海軍で合意した「対南方施策要綱」で武力行使を認めた。7月2日の御前会議で「帝国国策要綱」が決められ南進優先の方向が打ち出された。南進論を強く主張したのは永野軍令部総長であったという。「秦(タイ)に基地を造ることが先決であり妨害する者は討つべし」というものであった。松岡外相は反対論を述べた。7月2日の国策要綱は「対英米戦を辞せず」という掛け声だけは勇ましかった。7月25日米国は在米資産の凍結を通告し、日本軍は7月28日南部仏印に上陸し制圧した。8月1日米国は石油の対日禁輸の制裁措置を取るのである。米国の警告は1940年1月、日米通商条約の失効に始まっていた。同年9月には兵器生産になくてはならない屑鉄の対日禁輸、銅、ニッケルなど重要資源を禁輸品目に追加した。1941年7月ハル国防長官は米国領のフィリッピンまでもが日本軍お脅威に曝されたとして「日本軍は南太平洋への大規模な攻撃の最後の段階にある」と警戒と対応の準備を促した。ところが日本軍参謀本部には仏印に留まる限り米国は出てこないとする楽観論が支配していた。近衛首相は野村大使とハル国防長官(ハル4原則とは、領土保全と主権の尊重、内政不干渉、武力による改変不承認、無差別通商)との日米交渉に期待していたが、陸海軍の統帥部は「石油の一滴は血の一滴」と言って政府に早期開戦を迫った。日中戦争から日米開戦まで主戦論の先頭に立ったのは終始陸軍であった。だが南部仏印進駐では海軍がイニシャティブを取った。三国同盟に反対した米内海相、山本次官、井上軍務局長ら英米協調派がラインを抑えていたが、親独派の石川信吾軍務第一課長、高田軍務第二課長、富岡作戦部課長が政策決定をリードした。1941年4月軍令部総長に就任した永野修身は課長クラスに決定権を与えた。こうして海軍も主戦派がリードするようになった。1936年のロンドン条約脱退後の無条約時代で、1941年9月時点で日米海軍力バランス(日米比率)を見ると、戦艦で10対15、航空母艦で10対11、巡洋艦で38対54、駆逐艦で112対191、潜水艦で65対73という数値であった。1941年が日米の海軍力が接近した時期であったが、これをピークにして日米差は拡大の一途となった。日本は艦隊決戦主義という日露戦争時の体験が超大戦艦の建設に傾いた。真珠湾攻撃で航空機の威力を十分に認識したはずの海軍が武蔵や大和といった超大戦艦に固執していたのは滑稽である。成功体験が次には失敗の原因をなすという、航空機による制空権確保が死命を決する時代を読めなかった。太平洋戦争前の国力判断が、1940年8月企画院が「応急物資計画」であった。吉田善吾海相は「日本海軍はアメリカに対して1年しか叩戦えない」と自重を求めた。陸軍省戦備化が1941年3月国力判断を示した。この結果「南方武力行使など思いもよらず」というものであった。たとえば鉄鋼生産量の日米比較は1対24、石油精製量は1対無限大、石炭生産量は1対12、電力は1対4.5、航空機生産量は1対8、自動車生産量は1対50、工場労働者数1対5という。これらの数値は1941年を境に米国の生産量はみるみる拡大し、日本の生産量はみるみる減少し1945年の日本の生産量は10%以下に落ち込んだ。合理的精神は忘れさり、これらの数値を都合のいい楽観論と、得意とする奇襲攻撃で一気に決着をつける精神論で無視して陸海軍は日米開戦に突っ込むのである。1941年11月26日ハル長官は野村大使と来栖大使に「ハル・ノート」を手渡し、中国、仏印から日本軍の撤退、汪兆銘政権の不承認、三国同盟の否認などを要求した。近衛首相は10月12日に私邸荻外荘に陸・海・外三相と企画院総裁を集めて協議したが、一歩も譲らない東条陸相の反発で会議は決裂した。10月14日近衛は内閣を投げ出した。10月18日木戸幸一内大臣は強硬論者東条英機に組閣させた。開戦方針は11月5日の御前会議で「帝国国策遂行要綱」として正式に決定された。日米開戦は12月1日の御前会議で正式決定した。1941年12月8日、日本の機動部隊はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。現地大使館の暗号解読の遅れから野村大使が対米覚書を渡すのが攻撃開始から1時間遅れとなった。これがアメリカの対日感情を劇的に悪化させ、「卑怯な日本人」、「パールハーバーを忘れるな」となってしまった。開戦前、米英側は日本が南方を抑えて正規湯資源を確保し、アジアでの勢力圏を固めて持久戦に持ち込み、ドイツの欧州戦での戦況を眺めてながら英米との直接対決は避けることを警戒していた。ところが日本は、真珠湾攻撃による米英との対決の道を選択したのであった。

3) 太平洋戦争

1941年12月8日、山本五十六司令官の率いる連合艦隊の6隻の空母から発進した南雲攻撃機隊は、米国太平洋艦隊が保有する8隻の戦艦に対して壊滅的な打撃を与えた。一方南方戦線では陸軍山下奉文司令官が率いる軍はマレー半島に上陸、台湾の航空基地を出た零戦隊は数日間でフィリッピンの制空権を獲得した。1942年2月には英領シンガポールは陥落し、3月マッカーサー総司令官はオーストラリアに脱出した。この緒戦の華々しい大勝利を東条英機が天皇に報告した際、天皇は「この戦争の大義名分をどう考えるか」と問うと、東条は「目下研究中であります」と言ったという。世界に発信する大義名分があやふやなまま戦争が始まった。海軍は「自存自衛」で「短期決戦」を前提とする意見だが、陸軍は「大東亜共栄圏」を基本とし「長期持久戦」を考えていた。12月8日の宣戦詔書は「自存自衛」を強調したが、2日後の大本営政府連絡会議は「大東亜戦争」と決めた。1942年4月海軍連合艦隊はハワイとオーストラリアの連絡を絶つ目的で、ミッドウエーに米国空母艦隊を誘い出しせん滅する計画を立て始めた。ところが5月海軍軍令部永田修身総長は、ミッドウエーとアラスカのアリューシャン攻略という2面作戦を発令した。全力で当たっても米艦隊より少ないのにこれを2分するという過ちを犯したのだ。ミッドウエー作戦に反対する軍令部とこの作戦で米艦隊を殲滅し講和に持ち込む短期決戦派の山本連合艦隊司令巻の意見が齟齬していた。連合艦隊は空母4隻、艦載機285機を持つ南雲忠一中将率いる第1機動部隊は5月27日広島を発った。山本司令官率いる連合艦隊主力部隊も500km後方に付いた。ところが敵空母は出ないだろうとみて、偵察任務の潜水艦11隻のうち予定通り任務に就いたのは1隻のみであった。米軍は日本軍の暗号を解読し米艦隊はすでに移動し、機動部隊を待ち伏せにしていた。こうして運命の6月5日を迎えた。敵は出てこないとみてミッドウエー島への攻撃のため艦載機は陸上用爆弾を積んでいたが、敵艦隊発見の報を受けて魚雷に積み替える作業を行った。山口多門司令官は南雲長官に対して他d地に出撃を進言したが、まだ時間があると判断した南雲長官と源田実参謀は第1次攻撃隊の帰還を優先した。その1時間後、赤城、加賀、蒼竜の3空母は米軍機の攻撃を受けて大火災を起し航行不能となった。最後の空母飛龍も鉄器の攻撃を受け航行不能となった。こうして連合艦隊が保有する空母6隻のうち4隻が失われた。残った2隻はアリューシャンにいたのである。世界の海軍は伝統的に艦隊決戦思想(大艦巨砲主義)を取ってきたが、日本海軍も日米間戦前には米本土から来航する米艦隊をマリアナ諸島付近で迎え撃つシナリオを描いてきた。山本五十六司令官は「航空主兵論」を主張し、真珠湾攻撃で実証してみせたはずである。ところが軍令部は戦艦が主力で、空母部隊は従とする考えであった。もし米艦隊のように主兵である空母の周囲を戦艦や巡洋艦などで護衛する編成を取っていれば、敵機来襲の対応も違ってきたはずである。主力空母4隻と艦載機285機を失ったミッドウエー海戦の敗北を、海軍はその理由を解析せず学ぶことをしなかった。そして責任追及もなく一切の敗戦情報を遮断秘匿した。米国では真珠湾攻撃で査問委員会が開かれキンメル太平洋艦隊司令官が罷免されたのとはあまりに対照的である。米海軍はこれを教訓として空母中心の艦隊を編成し、艦載機を新鋭のグラマンF6Fに替え空母支援体制の防空システムを徹底させた。この後、連合艦隊は戦うたびに破れ、1944年10月レイテ沖海戦を前に大西第1航空艦隊司令官は特攻隊を編成した。

海軍は東部ニューギニアのオーストラリア軍の拠点ポートモレスビー基地を討って米国からオーストリアへの物資・兵員輸送を断つため、ガダルカナル島に飛行場建設を始めたのが1942年7月の事であった。米軍は日本最大の航空基地ラバウルを攻撃する作戦を立て、まずはガダルカナル島に1万人の海兵隊を送投入し、飛行場を奪った。ラバウルの日本軍基地とガダルカナル島は1000kmも離れているので、飛行機の日帰り攻撃は困難で、ガダルカナル島攻防戦は約半年間続いた。陸軍は海軍の要請を受け参謀総長の杉山元は2400人の攻撃隊を島に上陸させた。米軍の攻撃の前に日本軍は全滅した。こうして何回も小規模の兵力を上陸させ奪回を試みたがそのたびごとに部隊は全滅させられた。大本営は1942年大晦日にガダルカナルからの撤退を決めた。これで陸軍不敗の神話は消滅し、戦争の主導権は完全に米国に移った。航空機搭乗員2300人が戦死し、上陸した3万人のうち2万人が死亡したが、その7割は餓死もしくは病死であったという。玉砕という言葉が初めて使われたのは1943年5月アッツ島であった。アッツ島の日本軍飛行場に米軍1万1千人が投入され、2600人の日本軍が全滅した戦いである。海上権を奪われていた日本軍は増援部隊を送ることもできず、5月23日樋口北方軍司令官は現地隊に玉砕を打電し、残存兵は手りゅう弾で自決した。こうした自決を求める玉砕「処置」は東条英機の「戦陣訓」からきている。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」とあって、捕虜になることを禁止していたからである。こうして戦局は一層悪くなり、サイパン島、テニアン島、グアム島、硫黄島などで日本軍は玉砕していった。1944年6月サイパン島に米軍?が上陸し、南雲海軍中将は自決し、残存兵は最後の総攻撃で玉砕した。南太平洋で日本軍が既知を設けたのは25島で米軍が攻撃したのは8島にすぎず、残る17島は補給も援軍も放棄され捨てられた。8島で玉砕した人は11万人、取り残された17島の人は16万人で、うち4万人は飢餓と病気で死亡した。1943年9月に「絶対国防圏」を設定して、広がった戦線縮小が行われたが、陸海軍の対立は激しくなるばかりで、天皇は立憲制では発言権はなく、「統帥権」という枠内での統制不能の状態になっていた。1944年2月東条英機首相は杉山参謀総長を更迭し自ら参謀総長を兼ねた。東条は戦後「根本は不統制が原因である。総理大臣が軍の統制に干与する権限のない国体で戦争に勝つわけがない」と述懐したという。総理大臣になって初めて、昔現役将校の時に振り回した統帥権の凶暴さに気づいたという笑うに笑えない思慮のなさであった。1943年5月「大東亜政略指導要綱」が決定され、11月に東条の指揮下で「大東亜会議」が東京で持たれたが、誰も信用しない茶番劇であった。インドのチャンドラ・ボーズにそそのかされ、日本軍は無謀にもインドへの侵攻を考えたのは、1944年1月のことである。ビルマ防衛のためとしてインド北東部のインパール占領作戦を決めた。牟田口司令官の構想に大本営が反対したが、英軍を見くびり全く無謀にも3個師団で侵攻し、英軍の前に苦戦を重ね、3師団長は解任されたが、その一人の師団長は「撃つに弾なく、飢餓と傷病のため戦闘力を失った・・・・軍と牟田口の無能のためなり」と罵ったという。7月に停止命令が出されたが、死傷者は7万2500人に達した。1944年7月には国防の中心にあったサイパン島が陥落し、サイパン島から米軍のB29が日本を空襲するようになった。そして7月18日に東条内閣が瓦解した。

1944年夏「絶対国防圏」の崩壊を受けて、大本営海軍部は本土決戦を意識した「捷号作戦」を立てた。第1段階はフィリッピン、第2段階は台湾沖縄諸島、第3段階は本土である。東条の後に1944年7月小磯国昭内閣が成立した。小磯首相は「最高戦争指導会議」の新設をきめ、首相の発言権拡大を狙った。しかし1944年10月日本軍はフィリッピン・レイテ島での陸海戦に破れ、米軍は1945年1月ルソン島に上陸しマニラは陥落した。これで第1段階は突破され、大本営は沖縄と本土での最終決戦に臨むことになった。日本軍は6月のマリアナ開戦で大敗し航空戦力はほぼ壊滅していたが、大本営は沖縄を不沈空母(中曽根首相の日本列島不沈空母発言はここに由来している)として、米軍が上陸する前の航空攻撃で撃滅すると言い張っていた。12月に大本営の作戦部長になった宮崎修一は台湾に第9師団を移駐させた。実はその前の10月に米軍は沖縄上陸占領作戦を決定していた。ここにも軍令部と海軍の作戦の齟齬がみられた。1945年1月に決定された「帝国海軍作戦計画大綱」では「皇土防衛のための前線として、沖縄・小笠原を設定する」というものであった。つまり沖縄は米軍に出血を強要する持久作戦と位置づけ、消耗した米軍を本土決戦で叩くことが目的であった。沖縄は捨石にされたのである。1945年2月小笠原諸島の硫黄島に上陸した米軍は、栗林中将が率いる守備軍2万人を殲滅した。引き続いて米軍は沖縄攻略作戦に移り、3月26日沖縄けらま島に上陸し、沖縄本島攻略の後方基地を築いた。4月1日米軍は219隻の艦船と準用戦から艦砲射撃を行い、嘉手納海岸に上陸した。この上陸作作戦に参加した米軍は上陸部隊183000人、支援の海軍部隊35万人の規模で、太平洋戦争史上最大の作戦となった。これに対して沖縄本島に配備された日本軍は陸軍86000人、海軍1万人に過ぎなかった。陸軍部隊は首里に立てこもり持久戦を取った。嘉手納海岸から南に侵攻した米軍は首里に迫った。5月5日の時点で日本軍の兵力は半分に減り、あと2週間しか持たないと判断した牛島長官は首里を放棄し摩文仁に退却したが、戦況は凄惨を極めた。退却した兵は3万人、10万人を超す住民と洞穴に逃げ込んだ。米軍の流し込んだ石油で焼き殺される者、手りゅう弾で自決する者で惨状は筆では言い尽くせない。牛島司令官と長参謀長は自決し6月23日に戦いは終わった。日本軍の戦死者94000人、住民の死者は94000人だった。沖縄作戦での米軍の死者は12800人、62800人が負傷した。沖縄県民の疎開と動員は表裏一体であった。17−45歳の男子2万人以上を根こそぎ防衛隊に動員し、生徒たちは学徒隊として男子は基地建設労働や自爆隊に、女子は看護婦などに動員された。海軍部隊の太田実少将は6月6日に自決する直前大本営に「沖縄県民かく戦えり、県民に対して、後世特別の御高配を賜らんことを」と打電した。戦後日本政府は沖縄を米軍の戦略基地として差出、1970年に沖縄が日本に返還された後も「本土並み基地」には程遠い。こうしていまもなお沖縄は本土の犠牲として活用され、「後世特別の御高配」はなかった。4月6日沖縄戦に航空特攻「菊水1号」が沖縄の米軍艦船に体当たり攻撃を加えたがことごとく撃ち落とされ、毎回数百機の飛行機と若者の命が失われた。特攻は8月まで続けられた。死ぬことだけが目的の戦術でなんと愚かな大本営であった。4月7日伊藤司令官は戦艦「大和」を沖縄戦に突入させた。万に一つの成功の見込みもないまま、このまま大和が残れば「無用の長物」と罵られることを恐れた連合艦隊の豊田司令長官は出撃の命を出した。米軍機386機の攻撃を受け大和以下6隻は沖縄のはるか北の手前の海で撃沈された。死に花を咲かせるというやけくそ的日本的情緒が3000人の命を奪った。特攻飛行隊と戦艦大和の2つのエピソードは永遠に残る愚かな行為の象徴か、180度裏返して美しき日本かはそれを見る立場で異なる。

4) 終戦工作

太平洋戦争を開始する前、戦争終結の見通しはなくはなかったが、それは@自存自衛体制の確立、A中国蒋介石政府の転覆、B独伊との協力で英国の屈服、米国の戦意喪失という、まことに身勝手な自分の願望が全部かなえられたら戦争を止めるというのに等しいもので、パワーポリティ−クの上で妥協点を探るという政治・外交上の代物ではなかった。ことにソ連との関係はことごとく齟齬しており、日本政府は一体ソ連を全く理解できていなかったようだ。短期決戦早期和平派の海軍と、占領地域拡大による持久戦争派の陸軍との間で、数々の人は和平について語っている。戦後、自分自身を良識派として装いたい打算があってのことだろうが、実際どういう行動をしたのか定かではないが。細川護貞の語る近衛首相、内田信也の語る連合艦隊司令長官山本五十六、皇族の東久邇宮稔彦、駐英大使吉田茂、牧野伸顕、原田熊雄、樺山愛輔、真崎甚三郎、鈴木貫太郎、宇垣一成、若槻礼次郎らの名が挙がっているが、軍部や憲兵は早期和平派の動きに圧力をかけた。東条英機は憲兵隊の中枢を加藤泊次郎、四方涼二らで固め反東条勢力を弾圧した。翼賛選挙の非推薦の当選者には「戦争非協力」のレッテルがはられた。1943年9月イタリアが降伏し、日本もソロモン諸島での敗戦が濃厚になってきたとき、岡田元首相、近衛文麿、平沼騏一郎らの重臣が反東条運動を起した。ところが逆に東条首相は参謀長を兼ねることで権力を強化した。1944年7月サイパンが陥落した。木戸内大臣は東条退陣を促した、1944年7月18日東条は内閣改造を図るが、岸信介と米内の入閣拒否によって瓦解した。お鉢は小磯国昭内閣に回った。その時の重臣会議では真剣な終戦工作が議論されることはなく、「一撃講和論」で終始した。それは憲兵による監視やテロやクーデターを恐れるあまり大きな声では講和を言えなかったのである。1945年に入ると近衛ら宮中グループもようやく終戦工作に本格的に動き出した。木戸内大臣は終戦を本格的に考えだしたのは45年2月ごろだという。近衛上奏文によると「敗戦はもはや必至」と天皇に述べた。小磯内閣は実現性の薄い蒋介石政府と南京政府の統一政府を作り英米軍を撤退させる工作をしたが、汪兆銘の死亡でとん挫した。また重光外相は対ソ工作を支持したがソ連側は拒否した。こうして時間を空費するだけで4月5日内閣は総辞職した。1945年2月4日、ソ連南部のヤルタにルーズベルト大統領、チア―チル首相、スターリン首相が集まり、第2次世界大戦の戦後処理が話し合われた。米英仏ソ4か国によるドイツ分割統治、ポーランド国境策定、ソ連のバルト海諸国領有の容認の「ヤルタ協定」が結ばれた。さらにソ連の対日参戦の時期が話し合われた。ソ連参戦の条件とは@外蒙古(モンゴル人民共和国)の現状維持、A日露戦争で失われたロシア領の旧権利の復活(樺太南部のソ連への返還、大連・旅順の租借、満州鉄道の中ソ共同運営)、B千島列島のソ連への引き渡し(これが現在の「北方領土4島」問題の原因である)であった。ルーズベルトは大幅にスターリンの要求を飲んだ。ルーズベルトはソ連参戦を終戦の条件と考え、関東軍を満州に釘付けにしておきたかったといわれる。1945年7月「マンハッタン計画」の原爆実験が成功した。ルーズベルト大統領は英国の了解を取り付け、「原爆は降伏まで繰り返し日本に対して使われる」と確認した。アイゼンハウアー元帥は原爆の使用に反対したが、バーンズ国務長官は「米国は原爆を投下して日本を降伏させ、ソ連の参戦前に戦争を終わらせたかった」と述べた。1945年7月25日トルーマン米国大統領は原爆投下をこう指令した。「第20航空軍第509混成部隊は8月3日以降天候の良い日を選んで最初の特殊爆弾を、広島、小倉、新潟、長崎に投下せよ」と。

1945年4月7日小磯内閣の後を継いで、鈴木貫太郎内閣が発足した。戦争貫徹か和平化かの議論も十分にせずに、77歳という高齢の軍人鈴木貫太郎が担ぎ出されたのである。陸相に阿南、海相に米内、外相に東郷を充てた。戦艦大和が撃沈された日であった。4月5日ソ連のモロトフ外相は日ソ中立条約の延長破棄を通告してきた。ヤルタ協定があることは日本では誰も知らなかったので、梅津参謀総長らはソ連に和平斡旋を工作するよう東郷外相に次げたという。最高戦争指導会議に諮って、天皇の親書を携えて近衛を派遣する旨をモロトフに伝える決定をした。しかし7月18日ソ連側に拒否された。交渉を行った佐藤大使は「日本の壊滅が迫っているとき、こんな生易しい考えでソ連を味方に付けるなどは児戯に等しい」と回顧している。1945年7月26日ポッツダム宣言が発表された。米、英、ソの3国首脳会談の結果であった。日本の降伏条件を次のように定めた。@連合国は指定する日本の国内地点を占領する。A日本の主権を本州、北海道、九州、四国および我らが決定する小島に限る、B全日本軍は完全に武装解除する、C捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対して、厳重な処罰を加える、D日本政府は日本国軍隊の無条件降伏を保障する。又第12項で日本国民の自由に表明する意志に従い平和的責任ある政府が樹立されれば、占領軍は撤退するということであった。しかし鈴木首相は7月28日の記者会見でポッツダム宣言を「ただ黙殺する」と述べたことが、拒否表明であると見た米国は原爆投下を急いだのである。原爆開発に成功した米国のトルーマン大統領はソ連外しの挙に出て、8月6日に広島に原爆を投下した。続いて9日に長崎に原爆が投下された。ソ連はマリク駐日大使より、9日より日本と戦争状態に入ると宣戦布告をしてきた。8月9日の最高戦争指導者会議は「国体維持」に絞って宣言受諾やむなし」となり、陸軍のクーデターぎりぎりのタイミングにおいて、14日御前会議を開いて終戦への聖断を仰いだ。阿南陸相は聖断を是としクーデターを防いだ。天皇は最後まで口を開かなかったが、「自分は外務大臣の意見に同意する」と決断した。10日の閣議でポッツダム宣言受諾の条件は正式決定された。8月15日12時天皇による終戦の詔勅がラジオで放送された。9月2日東京湾に停泊するミズリー号上で降伏文書に調印した。この戦争による軍人・軍属の戦没者は約230万人、一般市民の死者は内外で80万人、併せて310万人の犠牲者を出した。

5) 東京裁判

東京裁判については多くの刊行物があるが、日暮吉延著 「東京裁判」 (講談社現代新書 2008年)中里成章著 「パル判事ーインドナショナリズムと東京裁判」 (岩波新書 2011年) に詳しいので、本章は簡単にする。日本が無条件降伏した9月2日以降、中国では国民党と共産党は分裂し、日本軍の装備と残留軍100万人の争奪が始まった。蒋介石はシナ派遣軍総司令官の岡村寧次に国民党軍への投降と所在地の秩序維持に当たるように命じた。1949年上海で行われた戦争裁判において岡村は無罪となり、反共のために協力した部隊には蒋介石は寛大に処したという。そして1949年の共産党が全国制覇をなしとげ中華人民共和国が成立した。ベトナムではホーチミンが率いるベトミンが蜂起し1945年9月2日ベトナムの独立を宣言した。フランスはベトナム南部の再支配をもくろんだ。第1次インドシナ戦争の始まりである。1954年ディエンビエンフーの戦いでフランスの支配は終止符を打った。インドネシアではスカルノ議長が独立を宣言したが、オランダと英国が再支配を目指して戦争となった。1949年12月ハーグ円卓会議でオランダはインドネシア独立を承認した。ソ連軍は9月2日まで南進を続け、関東軍の戦死者は8万人を超えた。満州に居住していた民間人の犠牲者は20万人と言われる。スターリンは日本軍将兵50万人を捕虜としてソ連に移送し、シベリアでの建設労働に従事させた。抑留された57万人の日本人のうち5万人以上が死亡した。ロシアのエルツイン大統領は1993年訪日し「シベリア抑留は全体主義の犯罪だ」と謝罪した。1945年8月30日マッカーサー連合軍最高司令官は厚木飛行場に降り立った。ポッツダム宣言の降伏条件のなかに戦争犯罪人の処罰があった。マッカーサーは戦犯の逮捕命令を数次にわたり実施し、A級戦犯人の逮捕者は百人に達した。近衛文麿は12月16日自決した。1946年1月には公職追放令が発令された。連合軍総司令部GHQにキーナンを首席とする国際検察局が設立された。1946年3月にはA級戦犯を26人に絞り込んだ。連合軍の米国以外の国は天皇制に強い不信感を持っていたが、4月3日米国の強い意向で天皇は不起訴と決まった。東京裁判は1946年5月3日東京市ヶ谷の旧陸軍省ビルで始まった。BC級戦犯裁判は国内外の49ヶ所で行われ、5700人が戦争法違反に問われ、山下奉文、本間雅晴ら920人が処刑された。A級戦犯の東京裁判は1948年11月12日判決がいい渡された。判決は以下である。なお裁判中死亡した松岡洋右、永野修身、精神病で除外された大川周明らは対象より除かれた。
「絞首刑」: 東条英機、広田弘毅、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章
「終身刑」: 荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一、小磯国昭、南次郎、岡敬純、大島浩、佐藤賢了、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、梅津美治郎
「禁固20年」: 東郷茂徳
「禁固7年」: 重光葵
なお、米英仏ソ4か国は「国際軍事裁判条令」を定め、第6条で「平和に対する罪」(A級)、「通例の戦争犯罪」(BC級)、「人道に対する罪」(ナチスホロコースト)の3つの戦争犯罪を定義した。「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であった。

6) 戦争責任者総括

いよいよ本書「検証 戦争責任」の中心をなす戦争責任の総括に入る。満州事変から14年間なぜ、あのような無謀な戦争に突入したのか、どうして早期に止められなかったのか、日本の政治・軍事指導者や幕僚・高級官僚の責任の所在と軽重を日本人自らの手で明らかにしてゆきたい。戦争責任の検証は前半で時代時代の局面において責任のあった人々を明らかにし、後半で天皇に始まり東条英機から近衛文麿そして軍人・官僚・政党人個人の責任を問うてゆく。
@ 戦争局面での戦争責任者
[満州事変 戦火の扉を開いた石原、板垣]
責任の重い人物:石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀、土肥原賢二奉天特務機関長、橋本欣五郎参謀本部第2部ロシア班長
満州事変を引き起したのは、「木曜会」の石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀の二人である。「謀略により国家を強引する」という陸軍中佐石原莞爾の行動は文字通り日本を戦争へと引きずり込んでいった。石原の軍事思想は「世界最終戦争論」で西側では英米を覇者として、東アジアでは日本を覇者とする構図を描かき、中国を全面的に利用すれば20年でも30年でも戦えるという持久戦論であった。土肥原賢二奉天特務機関長が奉天市長に就任した。石原は「桜会」の橋本欣五郎参謀本部第2部ロシア班長と密接に連絡を取り合っていた。橋本欣五郎とは3月事件、10月事件というクーデター未遂事件の主犯であった。南次郎陸相は対満蒙強硬論者で、若槻礼次郎首相はあっさり朝鮮軍の無断越境を容認した。1932年3月満州国建国がせんげんされるが、廃帝溥儀を担ぎ出したのは土肥原賢二奉天特務機関長であった。5.15事件で犬養首相が暗殺され、後継の斎藤実首相は満州国を承認した。内田外相は「焦土演説」を行い満州国を支持した。国際連盟のリットン調査団報告を罵倒した荒木陸相、国際連盟を脱退した松岡洋右の国際情勢の読みのまずさも後押しした。
[日中戦争 近衛、広田無策で泥沼化]
責任の重い人物: 近衛文麿首相、広田弘毅首相・外相、土肥原賢二奉天特務機関長、杉山元陸相、武藤章三部本部作戦部長
満州事変から日中戦争へ発展させた責任はだれにあるのだろうか。盧溝橋事変が起きた1か月後に近衛文麿内閣が発足した。近衛は当初の不拡大方針を変更し、華北への派兵声明を出した。広田弘毅外相は日中戦争に至る過程で外相と首相を長く務め、外交政策に責任があった。1936年の2.26事件後、軍部大臣現役武官制の復活、南方進出、日独防共協定を決めた首相として禍根を残した。「華北分離工作」を担ったのは、土肥原賢二奉天特務機関長、酒井駐留軍参謀長らであった。板垣征四郎関東軍参謀は中国を分離し「分治合作論」を主張した。石原莞爾参謀本部作戦部長は不拡大方針であったが、田中新一軍事課長と武藤章作戦課長、陸相の杉山の拡大派が主導権を握った。南京攻略の司令官は松井石根であった。
[三国同盟 松岡、大島外交ミスリード]
責任の重い人物: 近衛文麿首相、松岡洋右外相、大島浩駐ドイツ大使、白鳥敏夫駐イタリア大使、永野修身軍令部総長、石川信吾海軍省軍務局第2課長
米国の対日圧力は日本側が情報の読み方を誤ったことが原因している。妥協の道はいくつもあったという。その最大の綾m利が1940年日独伊三国同盟の締結であった。それを推進した松岡洋右外相はさらにソ連をくわえた「四国協商」で米国に圧力を加えた。ドイツの勝利を盲信し本国へ誤った情報を送り続けたのが大島浩駐独大使と、白鳥駐イタリア大使であった。三国同盟と並ぶ致命的な誤りは1941年7月の南部仏印進駐であった。南部仏印進駐を主張したのは海軍軍令部総長の永野修身であった。永野に侵攻を強く迫ったのは軍務局第2課長の石川信吾であった。それらの策を承認したのは近衛首相であった。
[日米開戦 東条 戦争を主導]
責任の重い人物:東条英機首相兼陸相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海相、岡敬純海軍軍務局長、田中新一参謀本部作戦部長、鈴木貞一企画院総長、木戸幸一内大臣
日本の国力で米国と戦えるのかという冷静な判断を失った陸軍の主戦論を導いたのは、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長、田中新一作戦部長、服部卓四朗作戦課長、佐藤賢了軍務課長らであった。海軍は戦争に勝てる確信は持てなかった。政権を投げ出した近衛に替わって木戸幸一内大臣は主戦論の東条英機を首相に推した。木戸には木戸の目論見があったのだが、東条を首相にしても主戦論を抑えることはできず、木戸の読みは外れた。開戦決定の主たる責任は東条首相、東郷外相、賀屋蔵相の閣僚にある。
[戦争継続 連敗を無視した東条、小磯]
責任の重い人物: 東条英機首相兼陸相、小磯国昭首相、永野修身軍令部総長、杉山元参謀総長、嶋田繁太郎海相、佐藤賢了陸軍省軍務課長、岡敬純海軍省軍も局長、福留繁軍令部作戦部長
1942年6月ミッドウエー海戦で大敗し、1943年2月ガダルカナル島抜海に失敗した。制海権制空権を失った日本軍には補給は難しく対米戦争の継続は困難であった。1944年反東条運動を切り返すため東条首相は陸相と参謀総長を兼ねた。しかし7月サイパン島が陥落し、絶対国防線は破れ、東条は退陣した。継いだ小磯首相は戦争終結の議論を行わないまま「一撃講和論」で本土決戦を決意した。8月の最高戦争指導者会議で、梅津参謀総長、杉山元陸相、及川軍令部総長らは「戦争完遂」という勇ましい言葉に酔った。10月フィリッピンレイテ島で大敗を喫し、ほとんど陸海の戦力を失った大本営は沖縄・本土最終決戦を決意した。
[特攻・玉砕 統帥の外道を行く大西、牟田口]
責任の重い人物: 大西滝次郎第1航空艦隊司令官、中沢佑軍令部作戦部長、黒島亀人軍令部第2部長、牟田口廉也陸軍第15軍司令官
大本営は1944年7月大本営海軍部は「敵空母輸送艦を必殺する方針を協議した。中沢佑軍令部作戦部長、及川古志郎軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、大西滝治郎第1航空隊司令官らは体当たり攻撃を主張し、大西はマニラで第1神風特別攻撃隊を編成した。フィリッピン決戦で1945年1月までに航空特攻による戦死者は700人になった。陸軍も南方の戦地では「玉砕」が続いた。1944年全く無謀なインド侵攻であるインパール作戦で牟田口司令官部隊は英国軍の前に玉砕した。戦死者は72500人という。大本営の「増援せず、撤退は認めず、降伏捕虜も許さない」という人命・人権無視の作戦は狂気の沙汰である。
[本土決戦 阿南、梅津徹底抗戦に固執]
責任の重い人物: 小磯国昭首相、及川古志郎軍令部総長、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、阿南惟幾陸相
小磯内閣は小磯首相と米内海相に二人が戦争指導に当たった。戦争指導力もない小磯は「1億総武装」という掛け声だけで沖縄戦を前に退陣した。及川軍令部総長は、神風特攻隊や戦艦大和特攻を承認した。長崎に原爆が落ちた日、8月9日の御前会議で阿南陸相は「死中に活を求め、本土決戦を」と力説した。梅津参謀総長も豊田軍令部総長も同じ意見であった。大本堤は本土決戦に備えて、陸軍315万、海軍150万の配備を計画したという。宮崎周一参謀本部作戦部長は「勝つ見込みなし」と言って、国民には竹槍を渡した。本土決戦を前にして河辺虎四朗参謀次長は「うのぼれ、自負心、自己陶酔、自己満足…の軍人心理が今日の悲運を招いた」と日記に書いた。
[原爆投下・ソ連参戦 東郷和平で時間浪費]
責任の重い人物: 梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、阿南惟幾陸相、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相
1945年4月に鈴木貫太郎内閣が発足し、東郷茂徳外相はポッツダム宣言への解答を前に、ヤルタ会談の結果も知らずにソ連に和平交渉を頼むという愚策を行った。ポッツダム宣言を無視すると発言した鈴木首相の指導力にも疑問が多い。彼は陸軍のクーデターを恐れたのである。それでも6月6日の最高戦争指導者会議では戦争遂行能力を失った事実が報告されたにもかかわらず、「精神力で戦争継続は可能」という呆れた戦争指導大綱を決めたという。

A 個人の戦争責任
[天皇 立憲制の枠内か]
本書はここで天皇の戦争責任にについて言及する。そもそも欽定憲法はドイツ式立憲君主制の立場を取っているが、そこへ日本式天皇制をかぶせたのだから、天皇の立場は矛盾だらけである。大日本帝国憲法(欽定憲法)は、第1条「大日本帝国は萬世一系の天皇之を統治す」、第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」、第11条「天皇は陸海軍を統帥す」、第55条「国務大臣は天皇を輔弼し、その責に任ず」と書かれている。絶大な権限を天皇は持っているように見えて、明治新維新の元勲らは天皇には権力を渡さなかった。天皇は全くのお飾りでもよかったのだが、明治政府は自分たちの権限の根源を天皇に仮託したのである。その方が「この御紋が目に入らぬか」式の権威づけに使えるからである。明治維新の精神が生きた元勲の目の光るうちはうまく運営できたのであるが、昭和の世代になると憲法文面だけでは天皇の位置が重すぎた。明治天皇は政府のイエスマンとして身の程をわきまえていたが、昭和天皇はもしかして自分は荒人神ではないかと思い始めたところに、軍人が忍び寄って権力を奪取した。軍人に妥協や取引、パワーバランスという政治的観点はない。またたく間に日本はテロをふりかざした狂人集団に乗っ取られた。政治家やメディアのひ弱さ、伝統のなさが災いして議会政治は自滅した。1989年政府内閣法制局長は国会答弁で「国内法上は昭和天皇には戦争責任がない」との見解を示した。しかし昭和天皇が深く政治干与した事案が3つある。田中儀一内閣の総辞職、2.26事件の反乱軍に対する討伐命令、終戦の「聖断」である。立憲君主制を理想とする元老、西園寺公望らは天皇の政治不関与を原則とし、天皇も「私は内閣の上奏するところのものにたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることにした」という。天皇の容喙や干渉は立憲主義に反するのである。美濃部達吉の「天皇機関説」はまさに立憲君主制を述べたもので当時では学界の常識であった。それを軍部はテロで破壊したのである。しかし首相を任命する権能は天皇にあったし、統帥権も天皇にあった。実質上天皇は人畜無害を貫徹することもできなかったという点で戦争責任なしとはいいかねると私は思う。
[東条英機 陸軍の総司 最大の責任]
戦争責任を開戦責任と継続責任に分けて考えるとその両方で東条英機に最大の責任があった。1928年「木曜会」で東条は「満蒙に完全なる政治的勢力を確立する」と言って満州事変と日中戦争の先駆けをなした。1931年の満州事変では登場は参謀本部編成動員課長であった。1935年から1938年まで関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長だった。星野や岸信介らの官僚や松岡洋右満鉄総裁らと植民地政策にかかわる。日中戦争が始まると東条はチチハルに侵攻した。1938年陸軍次官、航空本部長となり、1940年第2次近衛内閣には陸相として入閣、東条は日米開戦を唱えた。近衛が政権を投げ出して1941年10月に東条は首相となった。1941年12月米国に宣戦を布告し、1944年7月まで首相を続け戦争を継続した。この3年間東条は陸相、内相、外相、文相、商工相、軍需相を兼務し、まさに東条独裁政権時代となった。主戦派一本槍の戦争政策で戦略観を持っていなかった。また東条は反対派には憲兵政治で弾圧し言論への弾圧は熾烈を極めた。1941年1月東条は「戦陣訓」を発表し、精神論1点張りの論調は長く陸軍そして日本を呪縛した。東条には国民の苦しみや生命への配慮が全く見られなかった。東条退陣のころには神がかった言辞が多くなった。
[近衛文麿 時代の寵児 軍部独走を許す]
1918年の雑誌発表論文「英米本位の平和主義を排す」には後の大東亜共栄圏構想がみられる。近衛は摂関家筆頭の名家であり、国民的人気によりかかった政治家であった。満州事変では軍部を積極的に支持した。軍にとっては担ぎやすいお神輿であったようだ。1937年首相となり、盧溝橋事件では陸軍の派兵を認め、「国民政府蒋介石をあいてにせず」と啖呵を切った。1938年には国家総動員法を制定し、戦争体制を固めた。後見人の西園寺公望にも政権を投げやすいその腰の軽さを諌められた。1940年第2次近衛内閣時代には南部仏印侵攻に米国が石油禁輸で答えたが、東条首相は中国撤兵を嫌って1941年10月また内閣を投げ出した。近衛のオポチュニスト的性格は結局軍部の独走を許したに過ぎなかった。
[広田、松岡、杉山、永野、小磯 トップ指導層判断誤る]
広田弘毅首相、松岡洋右外相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海相、小磯国昭首相、及川古志郎軍令部総長、梅津美治郎参謀総長、阿南惟幾陸相、豊田副武軍令部総長らは戦争指導の局面で誤った指導を行った。
[暴走軍官僚に責任 中堅将校政治介入]
石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀、土肥原賢二奉天特務機関長、鈴木貞一陸軍軍務局シナ班長、橋本欣五郎大政翼賛会総務、武藤章参謀本部作戦課長、佐藤賢了陸軍省軍務課長、岡敬純海軍省軍務局長、石川信吾海軍省軍務局第2課長、室島亀人連合艦隊参謀、福留繁軍令部作戦部長、中沢佑軍令部作戦部長、田中新一陸軍省軍事課長、牟田口廉也第18師団長、大島浩駐ドイツ大使、白鳥敏夫駐イタリア大使


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