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豊下楢彦・古関彰一著  「集団的自衛権と安全保障」
岩波新書(2014年7月) 

集団的自衛権の憲法解釈変更の閣議決定は日本の安全につながるか

まず本書に入る前に2014年7月1日発表の「集団的自衛権」に関する国家安全保障会議決定・閣議決定なる文章を見てゆこう。

「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」  2014年7月1日 国家安全保障会議決定・閣議決定

我が国は、戦後一貫して日本国憲法 の下で平和国家として歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国 とはならず、非核三原則 を守るとの基本方針を堅持しつつ、国民の営々とした努力により経済大国として栄え、安定して豊かな国民生活を築いてきた。また、我が国は、平和国家としての立場から、国際連合 憲章を遵守しながら、国際社会や国際連合 を始めとする国際機関 と連携し、それらの活動に積極的に寄与している。こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない。一方、日本国憲法の施行から67年となる今日までの間に、我が国を取り巻く安全保障環境は根本的に変容するとともに、更に変化し続け、我が国は複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している。国際連合 憲章が理想として掲げたいわゆる正規の「国連軍 」は実現のめどが立っていないことに加え、冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発及び拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている。さらに、近年では、海洋、宇宙空間 、サイバー空間に対する自由なアクセス及びその活用を妨げるリスクが拡散し深刻化している。もはや、どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、我が国がその国力にふさわしい形で一層積極的な役割を果たすことを期待している。政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ることである。我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、政府としての責務を果たすためには、まず、十分な体制をもって力強い外交を推進することにより、安定しかつ見通しがつきやすい国際環境を創出し、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国際法にのっとって行動し、法の支配を重視することにより、紛争の平和的な解決を図らなければならない。さらに、我が国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用し、同盟国である米国との相互協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深めることが重要である。特に、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定のために、日米安全保障体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させることにより、武力紛争を未然に回避し、我が国に脅威が及ぶことを防止することが必要不可欠である。その上で、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく「積極的平和主義 」の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない。5月15日に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」から報告書が提出され、同日に安倍内閣総理大臣 が記者会見で表明した基本的方向性に基づき、これまで与党において協議を重ね、政府としても検討を進めてきた。今般、与党協議の結果に基づき、政府として、以下の基本方針に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な国内法制を速やかに整備することとする。
 1 武力攻撃に至らない侵害への対処
(1)我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増していることを考慮すれば、純然たる平時でも有事でもない事態(グレーゾーンのこと)が生じやすく、これにより更に重大な事態に至りかねないリスクを有している。こうした武力攻撃に至らない侵害に際し、警察機関と自衛隊を含む関係機関が基本的な役割分担を前提として、より緊密に協力し、いかなる不法行為 に対しても切れ目のない十分な対応を確保するための態勢を整備することが一層重要な課題となっている。
(2)具体的には、こうした様々な不法行為 に対処するため、警察や海上保安庁 などの関係機関が、それぞれの任務と権限に応じて緊密に協力して対応するとの基本方針の下、各々(おのおの)の対応能力を向上させ、情報共有を含む連携を強化し、具体的な対応要領の検討や整備を行い、命令発出手続を迅速化するとともに、各種の演習や訓練を充実させるなど、各般の分野における必要な取組を一層強化することとする。
(3)このうち、手続の迅速化については、離島の周辺地域等において外部から武力攻撃に至らない侵害が発生し、近傍に警察力 が存在しない場合や警察機関が直ちに対応できない場合(武装集団の所持する武器等のために対応できない場合を含む。)の対応において、治安出動や海上における警備行動を発令するための関連規定の適用関係についてあらかじめ十分に検討し、関係機関において共通の認識を確立しておくとともに、手続を経ている間に、不法行為による被害が拡大することがないよう、状況に応じた早期の下令や手続の迅速化のための方策について具体的に検討することとする。
(4)さらに、我が国の防衛に資する活動に現に従事する米軍部隊に対して攻撃が発生し、それが状況によっては武力攻撃にまで拡大していくような事態においても、自衛隊と米軍が緊密に連携して切れ目のない対応をすることが、我が国の安全の確保にとっても重要である。自衛隊と米軍部隊が連携して行う平素からの各種活動に際して、米軍部隊に対して武力攻撃に至らない侵害が発生した場合を想定し、自衛隊法第95条による武器等防護のための「武器の使用」の考え方を参考にしつつ、自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動(共同訓練を含む。)に現に従事している米軍部隊の武器等であれば、米国の要請又(また)は同意があることを前提に、当該武器等を防護するための自衛隊法第95条によるものと同様の極めて受動的かつ限定的な必要最小限の「武器の使用」を自衛隊が行うことができるよう、法整備をすることとする。
 2 国際社会の平和と安定への一層の貢献
(1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
ア いわゆる後方支援と言われる支援活動それ自体は、「武力の行使」に当たらない活動である。例えば、国際の平和及び安全が脅かされ、国際社会が国際連合 安全保障理事会決議に基づいて一致団結して対応するようなときに、我が国が当該決議に基づき正当な「武力の行使」を行う他国軍隊に対してこうした支援活動を行うことが必要な場合がある。一方、憲法第9条との関係で、我が国による支援活動については、他国の「武力の行使と一体化」することにより、我が国自身が憲法の下で認められない「武力の行使」を行ったとの法的評価を受けることがないよう、これまでの法律においては、活動の地域を「後方地域」や、いわゆる「非戦闘地域 」に限定するなどの法律上の枠組みを設定し、「武力の行使との一体化」の問題が生じないようにしてきた。
イ こうした法律上の枠組みの下でも、自衛隊は、各種の支援活動を着実に積み重ね、我が国に対する期待と信頼は高まっている。安全保障環境が更に大きく変化する中で、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために、自衛隊が幅広い支援活動で十分に役割を果たすことができるようにすることが必要である。また、このような活動をこれまで以上に支障なくできるようにすることは、我が国の平和及び安全の確保の観点からも極めて重要である。
ウ 政府としては、いわゆる「武力の行使との一体化」論それ自体は前提とした上で、その議論の積み重ねを踏まえつつ、これまでの自衛隊の活動の実経験、国際連合の集団安全保障措置の実態等を勘案して、従来の「後方地域」あるいはいわゆる「非戦闘地域 」といった自衛隊が活動する範囲をおよそ一体化の問題が生じない地域に一律に区切る枠組みではなく、他国が「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所で実施する補給、輸送などの我が国の支援活動については、当該他国の「武力の行使と一体化」するものではないという認識を基本とした以下の考え方に立って、我が国の安全の確保や国際社会の平和と安定のために活動する他国軍隊に対して、必要な支援活動を実施できるようにするための法整備を進めることとする。
(ア)我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
(イ)仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。
(2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用
ア 我が国は、これまで必要な法整備を行い、過去20年以上にわたり、国際的な平和協力活動を実施してきた。その中で、いわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用や「任務遂行のための武器使用」については、これを「国家又は国家に準ずる組織」に対して行った場合には、憲法第9条が禁ずる「武力の行使」に該当するおそれがあることから、国際的な平和協力活動に従事する自衛官 の武器使用権限はいわゆる自己保存型と武器等防護に限定してきた。
イ 我が国としては、国際協調主義に基づく「積極的平和主義 」の立場から、国際社会の平和と安定のために一層取り組んでいく必要があり、そのために、国際連合平和維持活動 (PKO)などの国際的な平和協力活動に十分かつ積極的に参加できることが重要である。また、自国領域内に所在する外国人の保護は、国際法上、当該領域国の義務であるが、多くの日本人が海外で活躍し、テロなどの緊急事態に巻き込まれる可能性がある中で、当該領域国の受入れ同意がある場合には、武器使用を伴う在外邦人 の救出についても対応できるようにする必要がある。
ウ 以上を踏まえ、我が国として、「国家又は国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場しないことを確保した上で、国際連合平和維持活動 などの「武力の行使」を伴わない国際的な平和協力活動におけるいわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用及び「任務遂行のための武器使用」のほか、領域国の同意に基づく邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動ができるよう、以下の考え方を基本として、法整備を進めることとする。
(ア)国際連合 平和維持活動 等については、PKO参加5原則の枠組みの下で、「当該活動が行われる地域の属する国の同意」及び「紛争当事者の当該活動が行われることについての同意」が必要とされており、受入れ同意をしている紛争当事者以外の「国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場することは基本的にないと考えられる。このことは、過去20年以上にわたる我が国の国際連合 平和維持活動 等の経験からも裏付けられる。近年の国際連合 平和維持活動 において重要な任務と位置付けられている住民保護などの治安の維持を任務とする場合を含め、任務の遂行に際して、自己保存及び武器等防護を超える武器使用が見込まれる場合には、特に、その活動の性格上、紛争当事者の受入れ同意が安定的に維持されていることが必要である。
(イ)自衛隊の部隊が、領域国政府の同意に基づき、当該領域国における邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動を行う場合には、領域国政府の同意が及ぶ範囲、すなわち、その領域において権力が維持されている範囲で活動することは当然であり、これは、その範囲においては「国家に準ずる組織」は存在していないということを意味する。
(ウ)受入れ同意が安定的に維持されているかや領域国政府の同意が及ぶ範囲等については、国家安全保障会議 における審議等に基づき、内閣として判断する。
(エ)なお、これらの活動における武器使用については、警察比例の原則に類似した厳格な比例原則が働くという内在的制約がある。
 3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置
(1)我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会 に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
(3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器 などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。 我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
(4)我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、国際法 上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権 が根拠となる場合がある。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。
(5)また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。
 4 今後の国内法整備の進め方
 これらの活動を自衛隊が実施するに当たっては、国家安全保障会議 における審議等に基づき、内閣として決定を行うこととする。こうした手続を含めて、実際に自衛隊が活動を実施できるようにするためには、根拠となる国内法が必要となる。政府として、以上述べた基本方針の下、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法案の作成作業を開始することとし、十分な検討を行い、準備ができ次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこととする。(以上)

以上の閣議決定の文章は、まえがきにおける一般的な国際情勢の変化と国際協調主義に基づく「積極的平和主義 」という概念(同盟関係を背景としたパワーバランスによる抑止力のこと)が述べられている。そして内容としては、1 武力攻撃に至らない侵害への対処と、2 国際社会の平和と安定への一層の貢献、3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置が中心である。武力攻撃に至らない侵害への対処では警察力、海上保安庁、自衛隊、米軍との「切れ目のない対応」を述べるだけで、集団的自衛権には直接関係しない。国際社会の平和と安定への一層の貢献においては、従前のPKO法での国際協力を踏まえ、後方支援と武力行使との一体化は避けること、戦闘地域には入らないことが述べられ、「国家又は国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場しないことを確保した上で「駆け付け警護」に伴う武器使用の容認をにじませている。要するに国際紛争に巻き込まれない範囲で国際平和維持活動にも武器を使用したいことである。内閣決議の最重要点は3番目の憲法第9条の下で許容される自衛の措置の解釈変更にある。これまでの歴代内閣の解釈は集団的自衛権は使用しないで、専守防衛に徹することであった。これを国際情勢の緊迫化という背景において同盟国が攻撃されたら条件を付けたうえで武力を使えるようにしたいということである。武力を使う場所は何も述べていないから、国内ではなく世界に出て武力行使ができると解釈できる。公明党との与党協議において、漫画的なポンチ絵を描いて例を示し、公明党は自民党から「政教分離原則」をちらつかされて恫喝された挙句、最初は憲法解釈変更は不要といっていたが、自民党案に「しっかりと歯止めをかけた」として自己欺瞞をして解釈変更に同意した。こうして第2次安倍内閣の「集団的自衛権」の閣議決定がなされた。ここまでは自民党と公明党の合意に過ぎず、実効性あるものにするには法案に反映する必要があり、そして舞台は国会に移った。集団的自衛権という問題は第1次安倍内閣において2006年に提起された。これに対しては、豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書 2007年7月)に詳述されており、基本的には本書の豊下楢彦氏の分担部分の内容はこれを出るものではない。本書は7月1日の閣議決定の日に緊急出版する意図をもって国際政治学者豊下楢彦氏と憲法論者古関彰一氏の共著という形で出版された。このコンビの由来については私は何も知らない。豊下楢彦氏については豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書 2007年7月)、豊下楢彦著 「尖閣問題とは何か」(岩波現代文庫 2012年11月)を読んでプロフィールは紹介済みである。本書末尾より、古関彰一氏は1943年東京生まれ、早稲田大学法学部を出て、独協大学名誉教授、専攻は憲法史である。1989年『新憲法の誕生』で第7回吉野作造賞を受賞。九条の会で講師・講演も務めている。二人は年代的にも近接している。本書のはしがきを豊下氏が書き、あとがきを古関氏が書いている。本書の構成は、以下である。特によくすり合わせをしたという形跡はない。独立した二人の文章の寄せ集めであろう。豊下氏の几帳面な論理展開と、古関氏の憲法学者らしからぬ洒脱な文書の雰囲気が、関西風ボケと突っ込みにように共鳴しているところが面白い。集団的自衛権を検討するということは、そもそも「概念」を検討することであるが、政府自民党は事例とイラスト絵で「概念」を決めるという漫画的な運営となった。上位概念から推して具体例の是非を問うという正当な議論ではなく、あり得ない想定事例の積み重ねから概念を想像するという逆の論理構成となった。これは自民つの本意を隠すための目つぶし戦法であった。子供じみた4事例から15事例まで膨れ上がった。確かに自衛隊関連法令は常に憲法解釈変更からできてきたいきさつがある。個別的自衛権は武力ではないとか9条からは苦しい解釈変更を行ってきたが、自衛隊法はまず国会の議決を得て、政府は「政府統一見解」をだした。ところが今回は国会に諮ることなく、自衛隊法の改正など法手続きは後回しにして、一番やり易い身内の解釈変更から始め、解釈よりは事例から始めた。これは狡知というのか、本根を知られたくないのか、よっぽど自信がないのでこっそり身内から固めようとしてるだけのことかもしれない。閣議決定をしたからと言って、国民が認めたわけではない。集団的自衛権を法認することが、憲法に違反し司法審査に耐えず、法的不安定につながることは十分政府は知っているはずである。政権を握る権力者が法を変えることは容易であっても、権力を維持することは至難である。この姑息な権力者のやり方を認めることは「自発的隷従民」になることだと古関彰一氏は奮い立つ。集団的自衛権による自衛隊の出動は、原則国会の承認を得ることになっているが、急迫、不正な事態で自衛隊の独走・独断は必ず覚悟しなければならない。戦前は軍部の独走を政府は追認するだけで、既成事実の積み重ねで国を誤った経験を忘れてはならない。

2014年5月15日安倍首相は自らの私的諮問機関「安保法制懇談会」が憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使は認められるとする報告書を提出した。それを受けた記者会見で安倍首相はパネルを使っていろいろな想定事項を説明した。論点をまとめると次のような論点に別れる。@米軍による邦人救出大作戦、A北朝鮮による米国へのミサイル攻撃、B機雷掃海、C安全保障情勢と戦前レジームへの回帰志向について、論点を整理する。
@ 「朝鮮半島有事を想定して、避難する邦人を救助輸送する米軍艦船が攻撃を受けたとしても、現在の法制では日本の自衛隊は公海の日本海沖で米船を守ることができない」として集団的自衛権の行使を訴えた。しかしこの想定は荒唐無稽である。米軍の「非戦闘員避難作戦」で非難させる対象は在韓米国民14万人、友好国(アングロサクソン系諸国民、英国、豪州、ニュージランドなど)8万人の計22万人である。さらに避難作戦は船ではなく航空機によって実施される。つまり邦人を船で救出避難させることは米軍は想定していない。朝鮮戦争でも米軍は韓国人を船で搬送避難させることはなかった。あり得ないシナリオを安倍首相は述べ立てているのだ。邦人は韓国市民とともに避難することになるので、日韓両国の友好関係がまず構築されなくてはならない。パネルの図は分かりやすくケースを説明するものと官邸は自画自賛していたが、これでは国民を欺くトリックではないだろうか。安易なセンチメンタリズムに訴え、トリックまがいの想定をする阿部首相の支離滅裂さが象徴されている。自国民の安否以外には興味を持たない米軍や外務省が、他国民しかもアジア人のことを米軍が救うなんてことはあり得ない。なんとセンチメンタルな隣人愛ではないか。誤爆で中東やアジア人を殺すことはよくあるが、アングロサクソン系以外の他国市民の救出大作戦を想定する米軍はあり得ない。アメリカは博愛主義者ではなく、「自分の家族・親族」以外を救出することは順序からしてありえない。
A 阿部首相は北朝鮮のミサイルの脅威を強調した。そもそも北朝鮮が米国に向けて発射したミサイルを日本海で撃ち落とすというシナリオは語るに落ちる想定である。世界の最貧国である北朝鮮が米国と戦争をすることは自身が灰燼に帰すことを覚悟しての話である。ミサイル発射実験は米国を交渉に引き出す鈴の音である。それよりもっと現実的にリスクを負うのは日本の原発である。かって1981年にイスラエルがイラクのオシラク原発をミサイルで破壊した事件のように、日本にある50余基の原発はミサイルに耐える構造は持っていない。この原発がミサイル攻撃されたなら、核弾頭付きミサイルを撃ち込まれたのと同じ結果になる。こちらのほうが現実的なリスクにもかかわらず、高波対策をした原発を再稼働しようとする安倍首相の判断は、危険極まりない標的を相手に与えることになる。北朝鮮が米国に向けてミサイルを発射することは「理性を欠いた自殺行為」となる。まして高度巡航ミサイルを迎撃することは未だ絵に描いた餅に過ぎなく、技術的にも不可能である。
B ホルムズ海峡に敵国が米軍艦艇を攻撃するために撒いた機雷を、自衛隊が紛争地域に入って掃海除去する想定である。米軍の「明示の要請」を受けて海上自衛隊が機雷の除去を行うことは、地上戦ではない「限定的かつ受動的な武力行使」であると説明するが米軍への敵対国が日本の掃海艇を攻撃することは自明である。すると日本は否応なく戦争状態にはいる。限定的かつ受動的とは言い逃れのトリックにすぎず、戦争への覚悟なしにはできる話ではない。戦争の始めはいつも軍部による限定的かつ受動的な行為から始まった。日中戦争が好例である。むしろ戦争をやりたい軍部は状況のでっち上げを行うものである。
C 安倍首相は国連安保理決議を背景に多国籍軍が戦った湾岸戦争のようないわゆる集団的安全保障に参加して武力行使ができる道を開こうとする。これまでは非戦闘地域での機雷掃海はできたが、もし国連安保理決議ができて集団的安全保障措置に移行した場合、自衛隊は掃海活動は中止せざるを得ない。「切れ目なく」掃海活動を行うには、集団的自衛権の行使が必要だと米国政府と自民党政府はいう。論理の逆転も甚だしい議論で、日本は掃海活動をしたいがために平和維持活動行っているのではない。阿部首相は集団的自衛権を行使するにしても「海外派兵は致しません」と言明してきた。海外派兵とは自衛隊が他国に入るということである。ところがホルムズ海峡に公海は存在しない。当事国の要請があればよいというのであれば、海外派兵はしないという約束は反故にされる。1972年の集団的自衛権は憲法上行使しないという政府見解を忠実に守ってきた自民党政府は阿部内閣に至って180度の方向転換をしたいようだ。
戦後レジームからの脱却から戦前レジームへの回帰に執念を燃やす阿部首相は歴代自民党政府の国是を捨て去ろうとしている。しかも国際情勢は大きく変貌しつつあり、阿部首相が言う脅威は実は冷戦時代以前の古ぼけた脅威である。中国と米国のパートーナーシップは強まり、イランは欧米諸国との対話路線に舵を切っている。米国と北朝鮮に直接対話も裏では進行している。時々北朝鮮があげるミサイル型線香花火は交渉の行き詰まり打開の合図である。イラクでは親アメリカ政府はISIS過激組織による攻撃を受け、イランとアメリカの提携交渉が始まったといわれる。イランは核開発も交渉のテーブルに乗せたという。日本がイランを敵視すると、宗教宗派争いに巻き込まれるおそれがある。日本人には宗教は全く分からないため、不可解なりといって内閣崩壊になる事も有り得る。百年一日のごときイランによるアメリカ攻撃という荒唐無稽のシナリオしか描けない安倍首相とその周辺の頑迷さは驚くばかりの時代錯誤に満ちている。世界情勢の変化と日本の位置という政治の現実から目を離して、集団的自衛権行使だけが自己目的化していることが問題なのである。国を誤るとはこのことをいう。戦前レジームへの回帰とは、青年が誇りをもってお国のために血を流すという超国家主義の国家体制を作り上げることになる。国防軍の創設、天皇復権、国民の権利制限の3点セットが自民党保守派の願望なのである。集団的自衛権と憲法改正の問題は日本の国家の在り方と日本の針路の根幹にかかわる問題である。ここはしっかり議論しなければならない。

第1部 「集団的自衛権」症候群 (豊下楢彦)
第1章 今 「集団的自衛権」とは

「集団的自衛権」とは国連憲章に明確に書かれており、国連が正式の安全保障行動をとる前に、危険が迫っている場合個別的自衛権と集団的自衛権の行使する権利がある。しかし権利があるのと行使するということはイコールではなく、国内憲法や法規に照らし合わせて行使しないということは国際法規上の常識である。1972年以来の日本政府(自民党政権)の見解は、憲法9条の明記する「武力を行使しない」ということから、専守防衛の個別的自衛権は行使するが集団的自衛権は海外派兵の危険性があるのでこれを行使しないという見解を取り続けてきた。その政府見解を安倍内閣は42年経った今日憲法解釈を変更しようというのである。そして密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われた時、我国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があること、その国による明示的な要請があるとき、必要最小限の実力を行使してその攻撃の排除参加することを狙っている。「必要最小限」なら不合理でも許されるわけではないし、悪事を弁解できるわけでもない。これは言葉の綾であって、「必要最大限」に使用されることは軍隊の性格上火を見るより明らかである。「我国がこうした集団的自衛権を行使できるということは、抑止力が高まり紛争が回避できる」という副次的な理由づけがなされるが、これは集団的自衛権の本質を覆い隠すものである。集団的自衛権を行使すれば間違いなく多国間戦争に巻き込まれ、日本は戦争当事者になり、日本が攻撃されても相手が不正だということにはならない。権利の行使の構えを持っているだけで相手を抑制できるというのは核の抑止力に通じる論理で、脅威の増幅になるのである。集団的自衛権はこれを行使しないという従来の政府見解を遵守するなら、相手国の信頼を得られ我国への攻撃はあり得ない。もし海外で集団的自衛権を行使するなら、現法体制では「宣戦布告」を行う開戦規定も交戦規定もない、軍法会議もない自衛隊では戦争に巻き込まれることできない。まして憲法改正もなされていない。文体を持つなら憲法改正が必要であるが、集団的自衛権の行使については現憲法下でも可能であるという阿部首相の支離滅裂な結論が出てくる。「虎の威を借りた狐」で相手国へ威を張るだけで済むわけはなく、もし海外で戦争に巻き込まれて日本が相手国から攻撃されれば、攻撃を排除する行動をとるための体制が全くないのである。前書きでいつも言われる「安全保障環境の悪化」とは何だろうか。これこそまさに机上の空論で、統幕本部ならともかく、内閣情報部や外務省が現状の戦略的認識を欠いた情勢分析である。北朝鮮のミサイル問題とと中国の急速な軍備拡張があげられているのみである。米中関係の急進展については口を閉ざしている。2014年3月オランダのハーグで開かれた核安全保障サミットにおいて、オバマ大統領は「米中関係は世界でも最も重要な2国間関係」と述べた。4月の日米共同声明では「中国は重要な役割を果たしうることを認識し、中国との間で生産的・建設的な関係をきづくことへの日米の関心を再確認する」と明記された。ともかく米国は中国を大国として捉え国際的枠組の中に取り込む基本方針に立っている。オバマ大統領は日本の集団的自衛権の取り組みを評価したうえで、日米同盟の枠内で、近隣諸国との対話促進を日本に要請した。ところが安倍首相は韓国の朴政権の関係構築よりは、2013年4月麻生副総理の靖国参拝問題、同年末自身の靖国参拝、さらに「村山談話」、「河野談話」の見直し方針の表明が日韓中関係を冷却させ、米国さえ失望し、朴大統領の安倍首相批判が続いた。朴大統領は「親米和中」を基軸として中国へ急接近している。もはや韓国は中国を単純に「敵」とは見ていないのである。安全保障環境の悪化という決まり文句がいうところの硬直した構図は崩れつつあり、中国が日米韓の共同の敵ではなくなっている。経済面では中国を中心に回転する東アジアで中国を敵とした国際関係はあり得ない。政治と経済は2枚舌ではごまかせないのである。ブッシュジュニア大統領でさえ2007年8月に北朝鮮をテロ支援国家の指定から解除している。梯子を外された安倍第1次内閣はこれを機に崩壊したのである。安倍は世の中は複雑怪奇と政権を投げ出したのである。アメリカの政権は民主党であれ共和党であれ、中国や北朝鮮の脅威を煽って日本を米国の軍事的指揮下において、現実には日米同盟の枠を超えたレベルから自らの国益を模索しているのである。

2014年5月の安保法制懇の報告書は、「尖閣問題」をめぐって日中関係がかくも先鋭化したのかということの分析がなされていないし、2003年ブッシュ政権のイラク戦争の総括が全くなされていない。確かに1990年代のアメリカ帝国論に象徴される湾岸戦争では飛びぬけた戦力を持つアメリカを中心とした多国籍軍の優勢さは、2003年のイラク戦争には見られなかった。そもそもアメリカの予防戦争的なもので戦争の動機が不明であったこと、フランス・ロシア・中国などの反対でアメリカ1国とその寄せ集め同盟軍が戦争に突入したことや、唯一の動機と言われる大量破壊兵器は虚構であったことから、アメリカの戦争に正当性は見いだせない。何よりもその間の「パワーシフト」つまりアメリカの総力の総体的衰退が歴然とした戦争であった。ブッシュ大統領の強がりにもかかわらず、アメリカの指導性の弱体化が露呈しただけの戦いであった。戦費は約4兆ドル(約400兆円)に上るといわれ、これがまたアメリカ帝国のボデーブローとなって急速に国力が低下した。この間に中国の国力が急上昇したのである。このアフガニスタン戦争とイラク戦争から「深刻な教訓」をくみ出していないのは、アメリカのブッシュ大統領のみならず、日本の安倍首相である。又報告書および各自決定文書にはいわゆる「駆けつけ警護」という聞きなれない「おっとり刀を掴んで」式の言葉がある。国連PKOなどにおいて自衛隊が、他国の部隊を支援するために行う武力行使である。イラク戦争では造水任務を引き受けた自衛隊は他国の駆けつけ警護を受ける立場であった。ところが自衛隊が行けるところは「非戦闘地域」に限られるのに、自衛隊は迫撃砲の攻撃を受けた。これ自体がイラク特別措置法違反であり憲法9条違反である。そんな危険な場所に入ってはいけないのである。この時点で自衛隊は撤退しなければならないのに、自衛隊は2万4000人近い米兵の輸送活動に独断で従事していた。現地から見ると自衛隊は米軍と一体化していた。砲撃を受け?危険は十分予測されたはずである。自衛隊という軍隊の独断専行は何時ものことである。2010年オランダはイラク戦争を「国際法違反」と総括した。正義はアメリカにはないというのだ。2004年アメリカの調査団はイラクに大量破壊兵器はなかったと調査報告書を提出した。イギリスでは2009年独立調査委員会が設置された。中東の最大の不安定要因はイスラム原理主義者にあるというより、世界の孤児イスラエルのNPT不参加とイランへのミサイル攻撃の可能性にある。そこからイランによるホルムズ海峡封鎖という戦術も出てくるのである。安保法制懇の報告書は、最小必要限度の自衛権はの中に個別的自衛権は含まれるが、集団的自衛権は含まれないとする政府見解を変えようとするもので、最小必要限度の集団的自衛権の行使も含まれると強引に解釈したいのである。1972年度の政府資料も1981年の政府答弁書も「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」との見解を明示している。曖昧な国際情勢の変化を理由に憲法解釈が内閣の手でなされていいものだろうか。主権者たる国民自身が憲法を制定するという立憲主義の根幹にかかわる侵害行為である。そんなご都合主義なら政府交替の度に憲法解釈が変わることになる。日本の場合憲法9条を前提に自衛隊が保持できる装備は「自衛のための必要最低限の実力」に限られ、大陸間ミサイルや長距離爆撃機や輸送機はいかなる場合にも保持は許されない。つまり攻撃的兵器の不所持の原則は、集団的自衛権を行使しないという原則と表裏一体である。2004年秋山内閣法制局長官は、「必要最低限度の範囲」とは数量的な裁量概念ではなく、集団的自衛権は我国に対する武力攻撃という自衛権行使の第1要件を満足しないと明言した。つまり質的に要件を満たすことであって、「ほんの少しならいいじゃないか」という馴れ合い概念ではないということである。憲法96条(憲法の改正にはっ両議院の2/3以上の賛成が必要)の改定によって、改憲をやり易くするという96条改定論はやはり憲法改正になるので2/3以上の賛成が必要である。これを法律でどうこうできるわけはない。安倍首相らはとても憲法改正ができるとは思えないので、姑息な手段であるが内閣決議という身内の裁量で決め、漸次法改正で実体化する道を選択したと思い込んでいる。これはますます憲法の法理論を不安定化する(いわゆる憲法の骨抜き・形骸化)に他ならない。安保条約は日本の施政下にある領域に対する武力攻撃を対象とし、日米の共同対処を決めたもので、最初から日本の領域外での集団的自衛権問題とは無縁であった。アメリカにとって最重要のものは条約第6条の基地使用権限であり、この使用条件をきめてるのが「日米地位協定」である。1951年の旧安保条約じゃ、極東条項に加え、日本には米軍に基地提供の義務があるが、米国には日本防衛義務はどこにも書かれていない。文字通りの不平等条約であり、片務条約であった。沖縄を犠牲にしてなった独立であった。60年安保改定では米軍の動きにチェックをかける「事前協議制」(核搭載艦寄港を含む)が設けられたが、一度たりとも「事前協議制」が発動されたことはなかった。つまり原稿安保条約では集団的自衛権の棚上げと極東条項の堅持が2つの柱であったTぴえる。なかでも焦点は、全土基地化と自由使用という占領条項を具現化した日米地位協定にあった。沖縄と横田基地が安保条約の占領事項を象徴している。横田空域は首都圏全域を含み、民間航空機はこの領空を自由に飛ぶことができないのである。これでは日本は独立国ではない。

第2章 歴史問題と集団的自衛権

戦後ずっと続いてきた日本外交の深刻な問題とは、すべてはサンフランシスコ講和条約に端を発している。第2次大戦後冷戦によって東西や南北に国を裂かれた諸国(韓国、ベトナム、ドイツ)の悲劇に比べると、日本の北方領土、竹島、尖閣の3つの領土紛争を同時抱え込んできた日本の外交問題は、すべてアメリカの戦後処理のまずさから来ている。そしてロシア(ソ連)、韓国、中国という3国を敵に回している状態は正常な国交も不可能にしてきた。しかも竹島や尖閣諸島はとても人が住むような環境にはない。こんな島の領土問題は漁業・経済協議で解決すべき外交問題である。むろん沖縄の占領分断という歴史的事実は別格に深刻な問題であったことは言うまでもない。日本にとって歴史的にも地政学的にも政治的にも一番良好な関係にならなければならないのは韓国である。安倍政権は2014年学習指導要綱を2年も早めて改定し、竹島を「日本固有の領土」「韓国が不法占拠」と明記することを決めっという。「固有の領土」という概念は国際法上にはない日本政府独特の言葉で、これを教えることは難しい。では沖縄がいつ日本固有の領土となったのかはっきり言える人はいないだろう。渡り鳥が羽を休める島であった竹島を日本政府が領土にしたのは1905年で、日清戦争が終わり朝鮮を保護領(外交権を奪った)にした過程にあり、これは今韓国では「歴史問題」(植民地問題)といして扱われている。戦後サンフランシスコ条約では竹島は日本領土とされたが、韓国は李承晩ラインを設定し韓国領にくみ込まれた。マッカーサーは一時竹島を「日本の範囲から除かれる地域」に指定した。そして60年以上も韓国による実効支配が続いている。靖国参拝問題は歴史問題(植民地問題)と切り離せないことが分かっていて韓国や中国を挑発する日本の閣僚の戦略的認識のなさはどこから来るのだろうか。それは安倍首相とその周辺の歴史認識が「押しつけ憲法」からの脱却、吉田ドクトリン(対米従属経済主義)からの脱局である。つまり戦後55体制からの脱却であろうか。「戦後レジームからの脱却」の第2の柱は「東京裁判史観」(自虐的歴史観)からの脱却である。「河野談話」や1995年の「村山談話」の見直しによる「侵略の定義」の棚上げ、靖国参拝がその典型である。民族イデオロギーは情緒的に燎原の火のように移り易い。「ネット右翼」が若者層で広がっているのはその傾向である。太平洋戦争は強盗集団列強の仕業であって、日本だけが強盗であったわけではないとする「大東亜共栄圏」論もしくは「火事場泥棒ナショナリズム」の論理である。A級戦犯を合祀する約国神社参拝がそもそも東京裁判の否定を含意している以上国際問題化せざるを得ない。読売新聞社が提唱した「検証 戦争責任」(中公論新社 2006年)では、実に戦後60年間日本人自身が戦争責任者を裁くことをしなかったことに最大の問題があると指摘し、「加害者と被害者を同じ場所に祀って、同様に追悼、顕彰することは不合理ではないか」と、靖国問題を抉り出した。大東亜戦争肯定論は昔からあったが、近年田母神元幕僚長や作家百田尚樹氏らが新たな戦争肯定論を展開している。また日本が集団的自衛権を行使して米国と対等になれるのだという安倍首相の言い方はセンチメンタリズムの幻想であって、イラク戦争に参加したイギリスや韓国の例を見ても、多くの兵士が死んだだけの使い捨て同盟国扱いに過ぎなかった。ナイやアーミテージ財団のようなジャパンハンドラ−にとって、日本が集団的自衛権を行使できるように執拗に迫ってきたが、それは米国の指揮権下に置くことが目的で、日本の保守政治家たちが反米の方向に行くことは警戒している。だから靖国問題、従軍慰安婦問題では安倍首相を激しく叱責したのであった。安保条約の本質は冷戦に在ったが、また日本の軍国主義者の封じ込めという「ビンの蓋」論である。アメリカは日本の再軍備を望んではいない、それが「押しつけ」日本国憲法の最大の狙いである。

第3章 「ミサイル攻撃」論の虚実

安倍首相の集団的自衛権に関する議論は現実性を欠いているが、その典型が「米国に向かうかもしれない弾道ミサイルを我国が撃ち落とす能力があって撃ち落とさないという選択肢はあり得ない」であり、まさに笑止千万なケース想定である。北朝鮮が理性を欠いてハワイやグアムをまたは米国本土をミサイル攻撃するなんて想定は正気の沙汰ではない。こうした問題の設定の具体性はあるのだろうか。まず政治的にありえないことは自明として、つぎに技術的にできることなのだろうか。イージス艦搭載の迎撃ミサイルSM3の迎撃可能高度はせいぜい100−160Km程度であり、北朝鮮のノドンミサイルの航行高度は300Kmである。巨額な迎撃サイルシステムを敷いても迎撃不可能なのである。このような想定傾向を豊下楢彦氏は「軍事オタク」と呼ぶ。ゲームセンターで戦争ゲームをやっている感覚である。政治的動機の分析が決定的に欠如している。ソ連や中国という旧共産圏の全面的バックアップを受けていた朝鮮戦争の時代(冷戦時代)の幻影によるものであろう。理性を欠いた北朝鮮の行動にはいまやロシアも中国も支持しない。6か国協議というシステムの枠内で処理されるだろう。逆にもし架空の話として日本が北のミサイルを迎撃しようとすると、日朝は戦争状態となり北朝鮮は日本の原子炉をミサイル攻撃する可能性も出てくる。そのほうが何百倍も大きなリスクである。すると日本海側にPAC3の楯の壁を張り巡らさなければならない。まさにハリネズミの様相である。おおよそ非現実的な想定である。北のミサイルの脅威を煽りながら原発を再稼働させようとする安倍首相の行為はまさに支離滅裂の極みである。2014年5月末に纏められた日朝合意文書において、北朝鮮は拉致被害者の調査を行う約束し、その上に立って日本は制裁の一部を解除する時代の流れに在りながら、北朝鮮のミサイルの脅威を煽ることは不可解である。理性ある国家のやることではない。かって1972年米ソ間でABM条約が結ばれ、ミサイル防衛は先制攻撃の誘因を高めるのでABM条約が結ばれた歴史を確認する必要がある。あくまで理性的な対応であった。が、ブッシュ大統領は2001年にABM条約からの脱退を通達した。そして「テロ支援国家」や「ならず者国家」とかいう煽動的な敵視政策にかわり、予防戦争論が台頭した。核抑止も核の傘も信用できないミサイル防衛体制が始まった。アメリカとしてはミサイル防衛システムの開発にかかった膨大な費用の回収(980億ドル)を図り、日本をお得意さんにするため盛んに北のミサイルの脅威を煽ってきたのである。理性ある国家のやることではない。そのアメリカが2007年に北朝鮮を「テロ支援国家」リストから外している。支離滅裂な政策である。これに振り回される安倍首相も気の毒なといいたいが、自国の安全しか考えていないことが米国の戦略なのである。

第4章 中国の脅威と「尖閣問題」

石原元東京都知事が2012年米国で尖閣諸島買い上げ論をぶち上げて、同年9月に民主党野田内閣が国有化を宣言してから、日中関係は劇的に悪化した。挑発者は言うまでもなく自称タカ派石原慎太郎氏である。乗せられた野田首相は消費税増税と尖閣諸島国有化宣言、武器輸出3原則の緩和という3つの政策決定で、自民党でさえできなかった悪役を演じてしまったあきれたおバカさんである。「尖閣問題」については、豊下楢彦著 「尖閣問題とは何か」(岩波現代文庫 2012年)に詳述されている。石原氏の意図は明確に中国を挑発し怒らせて軍事的衝突に持ち込むことで、アメリカの介入を呼び込むことであった。そして日本をナショナリズムで一色とし、一気に右傾化国家に変質させることにあった。こうした国有化決定を引き金に、中国各地で反日デモや反日暴動が繰り返され、尖閣諸島には連日中国船舶が侵入することが日常化され、日中関係は未曽有の緊張状態となった。日中関係の緊張は日本側からの挑発にあるとみたオバマ大統領は安倍首相に対して、挑発的行動をとるなという警告を発した。アメリカは尖閣諸島の3島を射爆地として使用してきておりながら。その領有権に関しては中立の立場を表明した。1971年の沖縄返還協定の締結において、安保の対象領域であると言いながらどこの国の土地かは知らないという態度は不可解である。この日米間の矛盾を中国は鋭く突いてきた。しかし歴代自民党内閣はこのことでアメリカに抗議した形跡はない。1972年田中角栄内閣が中国との国交正常化交渉において、周恩来首相と「尖閣問題の棚上げ」を図り、棚上げを続けることが最も賢明な道筋であることに日中間で合意が成り立った。オバマ大統領は記者会見で安保5条の適用を言明する一方、「話し合いによる平和的解決の重要性」を強調した。安倍首相に対して「事態がエスカレートしていくことを放置するなら、それは根本的な誤りである」と言明したと明らかにした。このような不毛の領土ナショナリズムで国家関係が悪化するのは、ナショナリズムを記事としてもてはやすメディアの体質にも問題があり、5輪ナショナリズムについてもいえる。ナショナリズムは言論を1色にし、他の言論を抑圧する傾向にある。東京オリンピックにかかる費用を、首都機能の分散、東北の復興、福島の原発事故処理に、急ぎ投じるべきであると豊下楢彦氏は主張するのである。

第2部 憲法改正と安全保障 (古関彰一)
第1章 憲法改正案の系譜

いつまでも戦後ではないという気持ちは長い歴史を持つ。中曽根首相は「戦後政治の総決算」を掲げ、今安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を訴える。が簡単には戦後は終わらない。まず日本からアメリカ軍の基地を全部撤去しなけれ独立国とは言えない。ということは当分ありそうにない。平和国家は保守陣営から非難の的になっている。過去69年間つまり1945年8月16日以来日本は戦争をしていない希有な国である。まさに世界遺産である。ノーベル平和賞を5回くらい貰っていい国家である。戦後に何を終わらせなければならないのか、何を終わらせてはいけないのかそこをじっくり考えてみよう。政府自民党からは平和憲法と戦後は脱却しなければならない対象である。憲法はアメリカから「押し付けられた」という言説が後を絶たないが、アメリカ政府あるいは国務省が憲法改正案の作成に関与したという事実はない。憲法改正案の原案は連合軍GHQの手によるものであり、GHQの事情で急遽作成された。幣原喜重郎首相は「天皇制は連合軍では非常に分が悪い。せめて象徴性として残れば後はどんな要求も受け入れる」という態度であった。マッカーサーのGHQの憲法草案をもとにした政府憲法案には当時の2大政党である自由、進歩党は原則賛成を表明し、帝国議会では全員一致で可決された。憲法学者の美濃部達吉氏だけは枢密院顧問として反対した。当時の政治家はGHQとの力関係に戦わずして敗北し、憲法論議にはならなかったという。GHQと交渉に当たった幣原喜重郎首相も吉田首相も新憲法を押しつけとは見ていない。「押しつけ憲法論」が出てくるのは1954年占領軍が撤退してから、自由党を中心に保守政党が憲法改正を志向し始めたといえる。鳩山一郎氏や岸信介氏が改憲を唱導し「押しつけ」を叫んだ。マッカーサーは権力を持たない象徴としての天皇制と引き換えに、日本が2度と戦争をしない国家になる保障として「戦争放棄」第9条を定めたのである。マッカーサーは日本の再軍備を目指した米国務省と国防省に対して、「沖縄を要塞化すれば日本本土に軍隊を維持する必要はなく、日本尾安全は保障される」と述べたという。つまり第9条は沖縄の犠牲の上になっているのである。ここに日本の無力化が実現したのである。マッカーサー構想とは、天皇に戦争責任があると考えていた連合軍を納得させるため、無力な天皇と戦争放棄(戦力の不保持)を宣言したのである。日本国憲法の3原則とは@国民主権、A人権の尊重、B戦争放棄であるといわれるが、それはそれで正しいとしても、マッカーサー構想は少しニューアンスが異なっていた。「徹底した平和主義を掲げたことによって、天皇制が残り、沖縄の要塞化ができたというべきであろう。」 1955年自由党と民主党が連合して自由民主党ができ、左右社会党も統一して、いわゆる「55体制」が始まった。憲法論議で見ると「改憲か護憲か」という対立軸となった。自民党は改憲を志したが選挙結果から改憲は不可能となった。これが自民党のトラウマとなって今も後を引いているのである。1956年岸信介の提案で「憲法調査会」ができたが、社会党が脱退し長期間の論議となった。1964年に最終報告書がだされたが、意見は一本化できず両論併記という形になって終結した。自民党は何度も改憲を叫んできたがその骨子は@軍隊の合憲化、A人権制限、B天皇制強化であり、これを「改憲原理主義」と呼ぶ。それからすでに50年近くが経過し、2012年自民党は再改正案を発表した。恐ろしいような内容であるが、「平和の裡に生存する権利」が削られ、「和を尊び」とかいう17条の憲法が挿入されるようない時代感覚にはびっくりする。個人より共同体を優先する国家主義への回帰が述べられている。それにしても歴史観が喪失している。「美しい日本」と言った情緒的な言葉、「和の精神」と言った時代錯誤の道徳観の持ち込みなど読むに堪えない憲法前文である。そしてもっと恐ろしいのは人権に留保条件が付けられ、公益・公の秩序が優先するという。言論の自由は無条件であったが、改正案では法律の許す範囲内という留保がついている。戦前の検閲や治安維持法に戻るつもりなのであろうか背筋が寒くなる。自民党の改正草案は人権規定を「戦前レジーム」に戻すものである。「家族は助け合わなければならない」という表現も道徳なら構わないが、これが家族を助ける義務があるとするなら福祉の切り捨て、家制度の復活となる。

第2章 「国防軍」の行方

自民党の憲法改正草案の一番の眼目は「国防軍の創設」である。今後太平洋戦争のような総力戦があるだろうか。国土を焼土と化し数百万人が戦死するような戦い方は人類の経験として今後まずありえない。むしろ限定された戦争となり、先進国同士が戦う戦争もないだろう。つまり仮想敵国を先進国に求めての準備はありえない。2012年に行われた内閣府の世論調査では、自衛隊の防衛力は現状程度でよいとする意見が圧倒的で、自衛隊の目的は「災害派遣」83%、「国の安全確保(侵略防止)」78%となっている。ではなぜ自民党は自衛隊を国防軍に名称変更したいのだろうか。米国の国防省を意識し、陸海空のみならず、海兵隊や緊急援助軍も統合する柔軟な組織を念頭においているからだろう。「有事法制」は平時から戦時への移行できる法制である。すでに自衛隊は戦時の準備をしている。しかし「開戦規定」は存在しない。現にある「周辺事態法」(1999年)では、関係行政機関の長は地方自治体の長に権限の行使に関して必要な協力を求めることができるとされる。又国以外の者に対して必要な強力を依頼することができる。つまり民間人を動員できるということである。昔の軍属にちかい。自民党憲法改正草案にある「軍と国民」の関係を見てゆこう。例えば武力攻撃事態法では国民の協力第6条があり、国家総動員法に近い国民の組織化が可能となる。戦争とは政府が相手国に宣言し、事前に通告する必要がある。不意打ちやゲリラ戦は戦争ではなく紛争である。しかも戦闘員は軍隊に限られ、一般国民は戦闘に加わることはできない。民間人が戦争に参加することは国際法違反であり、捕虜としての保護も受けられない。自民党の憲法改正草案には開戦規定も交戦規定もない。世界中にそのような軍隊法は存在しない。2000年に交戦規定を訓令で部隊行動基準をさだめたという。法ではなく訓令という行政命令である。現日本国憲法は「特別裁判所」を禁止している。自民党の憲法改正草案では国防軍に審判所を置くという。今の日本には軍法会議や皇室裁判所、行政裁判所(行政機関は終審として裁判を行うことができない)などは認められていない。すべての普通裁判所とは最高裁判所の系列に属する。現存の知的財産高等裁判所や家庭裁判所は普通裁判所への上訴を定めているので特別裁判所ではない。裁判所とは人権擁護が目的なのである。自民党の憲法改正草案は国防審判所を海難審判所のような行政機関の審判所をイメージしながら、じつは軍法会議をもくろんでいるようだ。旧軍法会議に類似した国防審判所を想定しているなら軍事警察(憲兵)が必要となり、軍事刑法の整備が必要となる。時代錯誤的「戦前レジーム」への回帰が、安倍首相が属する保守勢力の理想とする「美しい日本」の実態なのである。そして必ずや天皇を担いで自分たちのやりたい放題をするに違いないのである。御輿は軽いほうがいいとは小沢氏の言葉であるが、無力な天皇ほど利用しやすい楯はない。

第3章 「国家安全保障」

そもそも安全保障という概念を言い出したのは17世紀末のイギリスの功利主義者ベンサムであったといわれる。ベンサムは安全保障を今の意味ではなく、人権という意味で「国家の目的は、生存・富・安全保障を最大限にすること」と述べている。ベンサムの意味ではそれは「社会安全保障」という社会保障である。生存権を憲法で規定している場合は国家が安全保障の主体となったのである。20世紀という戦争の世紀となって、戦争の脅威から軍事力によって国家が主体となる安全保障という概念が生まれた。中でも冷戦の産物以外の何物でもないのである。1951年に日米安全保障条約が締結された。米国では1947年に国家安全保障法を制定し国家安全保障会議NSCが発足した。そして60年遅れて安倍政権は「国家安全保障会議」を設立し、国家安全保障体制が本格的に始まった。戦争が常態化した第2次世界大戦後の時代に合致した冷戦向きの政治体制である。そのためには集権的な政治体制と強力な指導力を発揮できる大統領が必要であった。アメリカは州自治の伝統が強く国家嫌いで知られる国民性を安全保障国家の強い中央集権制でバランスを取る格好の指示課題であった。戦前から東洋特有の人権意識が弱く、政治感覚は冷戦時代そのものである日本で安全保障国家となると人権が喪失される可能性が強い。現在のアメリカ民主主義は行政面では内閣の中心よりは、大統領が自由に決められる安全保障を中心に、総合性と統合性を併せ持つNSC国家安全保障国家(戦時体制)になったといえる。そのために、国家安全保障会議NSC、中央情報局、国家安全保障資源庁、軍事組織も陸海空のうえに国家軍政機構(国防省ペンタゴン)が設けられた。2004年には国家諜報長官DNIが新設され、CIA、FBI、DIA、NGA、NRO、DHSなどを含む一大組織となった。合衆国憲法は連邦議会に「戦争を宣言する」権限を、大統領に「陸海空の最高司令官」の権限を与えている。日本では自衛隊が発足した2年後1956年に国防会議が発足した。防衛力整備計画作成が最大の任務である。1986年安全保障会議が発足し、1990年の湾岸戦争を経て1992年PKO協力法が作られた。2001年9.11同時テロ、2003年イラン戦争を経て、アメリカから60年遅れて国家安全保障会議へ改組された。日本版NSCが発足した2013年12月「国家安全保障戦略」が決定され、閣議決定された。国家安全保障会議決定・閣議決定という文書に見る様に、まず国家安全保障会議決定が先に在り、閣議決定は追認に過ぎない。まさに米国同様、閣議は2の次の寡頭政治になった。ここで「積極的平和主義」が多用されている。この積極的平和主義とは軍事力を第1とする安全保障のことである。積極的軍事主義のことを言っている。日本がアメリカの番頭をできるかどうかは別にして、世界の警察官を引き受けようということである。軍事力のバランスであって平和とは何の関係もない言葉である。この「戦略」文章には「国家安全保障の最終的な担保となるのは防衛力」と言い切っている。元防衛官僚の柳沢氏は著書「亡国の安保政策」で「安倍首相の言う積極的平和主義は、実は国民受けしやすい具体的事例を挙げるだけで、その概念の説明も、戦略的視点も、何をどう変えるかという歴史的視点も欠いている}と批判する。古関彰一氏はこの国家安全保障戦略をして、戦前の軍部クーデターの首謀者北一輝の「国家改造法案」に似ていると警戒を強めている。いまや1930年代の混沌とした困難期に向かっているのだろうか。岸信介は北一輝の「国家改造法案」に共鳴したという。「戦いなき平和は天国の道非ず」として戦争犯罪人の道を選んだ。その孫安倍首相も岸のトラウマを受け継ぎ、ひたすら戦争の道を選ぼうとしている。アメリカは「日本の米国への軍事協力」を強く要請し、1996年に安保共同宣言で新日米同盟を謳い上げた。そして宣言は1997年日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定も定めた。そして1999年に「周辺事態法」を制定した。アーミテージを中心とした冷戦後の対日安全保障政策は2000年度に報告書を発表し、日本の進むべき道を指示した。ほとんど政策は指示通りに実行されてきた。これが独立国日本の姿であろうか。そして憲法9条解釈変更による集団的自衛権の行使容認だけが焦眉の課題となったのである。

第3部 日本の果たすべき国際的役割 (第1章、第2章 豊下楢彦   第3章、第4章 古関彰一)
第1章 積極的軍事主義

安倍首相が提唱する「積極的平和主義」とは具体的には「積極的軍事主義」をめざすものであり、知れを象徴的に示すのが、武器輸出禁止3原則の撤廃である。1967年佐藤栄作首相が、共産圏、国連決議で禁止された国、国際紛争の当事国またはその恐れがある国の3つのカテゴリーの国への武器輸出を禁止した。1976年三木首相は実質的にすべての国への武器輸出を認めないことになった。それ以来自民党内閣の国是として守られてきたが、野田内閣が我国と安全保障面で協力関係にある国と共同開発した場合については輸出を認めるという原則緩和に踏み切った。ところが2014年4月安倍内閣は過去半世紀間守られてきた武器輸出3原則を撤廃し「防衛装備移転3原則」なるものを策定した。「武器を輸出して平和を促進しよう」というもので、「積極的平和主義」とおなじ武力で平和を勝ち取るという言葉の綾というより、転倒した論理を平気で使う支離滅裂さである。美しい日本がイコール戦前レジームである論理もそうである。言葉の魔術師というより、言葉の矛盾を無視して収まる脳の構造を見てみたい。武器移転が禁じられる新たな3原則とは、@条約や国際約束の義務に違反する国、A国連安保理決議に基づく義務に違反する国、B紛争当事国である。禁止対象国の定義が曖昧になって、解釈次第で裁量できる。それは国内企業が部品を供給するステルス戦闘機F35の米国政府の一元管理での輸出を可能とするための措置であった。つまりイスラエルにF35を輸出できるようにしたがための屁理屈に過ぎなかった。欧米の兵器産業の最大のお得意先は紛争国や独裁者の国であった。湾岸戦争ヲ引き起こしたイランのフセインは実はイラン戦争でアメリカに養われた独裁者である。これを「イラク・ゲート」と呼ぶ。米国がフセインに多額の債務保証を付け軍事独裁政権に育て上げたのである。イラクは格好の兵器市場となりフセインはモンスターに変身した。中国の強大化を背景として、インド、韓国、ベトナム、マレーシア、シンガポールなどのアジア諸国で文尾増強が進んでいる。そこに日本の兵器産業(三菱Gを中心とする重工業企業)が目を付けたのであろうが、日本の兵器輸出国家への道は、安全保障のジレンマを一層深刻なものとし、アジアの軍備拡張に火をつけかねない。安倍政権が狙うものは米国の「統合エアー・シー・バトル構想」に一体化したいのである。衛星攻撃ミサイル、無人機攻撃機、ロボット兵器、サイバー戦争などの全次元戦争への参加である。

第2章 国際社会のルール化とは

米国は超大国(覇権国家)として国際紛争を武力で解決する世界の憲兵たる地位を自認している。誰にも縛られず、国連さえ無視して単独行動をとれる国として、世界は事実上アメリカを「例外国」として許容してきた。しかしイラク戦争を機に今や中国が新たな超大国として台頭してきた。国際社会はこの中国を普遍的なルールの枠内に組み込んでおかなければならないが、アメリカの例外主義は説得性を失いつつある。アメリカは手を縛られたくないために数々の国際条約から離脱している。海洋、宇宙、環境などの分野である。米国がこれまで享受してきた「例外」則に固執し続けるなら、中国への説得力に欠け、中国の拡張主義に歯止めがかからない。アメリカも普遍的なルールの下に入るべきである。2014年1月防衛省防衛研究所は「中国安全保障レポート2013」を刊行した。中国における危機管理の仕方を米中関係の中で分析したものである。中国の危機管理とは@原則性と柔軟性、A正統性と主導性の追求、B総合性と政治の優位に特徴があるという。中国共産党は朝鮮戦争以来さまざまな危機に遭遇してきた。防衛省報告の結論は中国との間で危機管理を行うことは可能であるという。日中間で多層的な危機管理メカニズムの構築が不可欠であるとする。アジアでの中国のパワープレゼンスは圧倒的であるが、国際世論を無視することできないので、そこで国際的な枠踏みにっ中国を入れてゆくことが最重要である。日本の憲法は国際公共財として価値の高いものであるという認識があったが、近年兵器輸出3原則が撤廃され、日本も兵器輸出国になろうとしていることは極めて遺憾である。また2008年に宇宙基本法が成立し、1969年に採択された宇宙の軍事利用を禁止する国会決議が反故にされた。武器輸出3原則、宇宙の平和利用、電子力の平和利用原則、非核3原則そして集団的自衛権を禁止する憲法9条、専守防衛原則などの平和諸原則こそ世界の宝物である。

第3章 今憲法を改正する意味

憲法は人権擁護であり、安保条約は軍事同盟である。「万機公論に決すべし」の明治維新以来憲法は世界に開かれた窓であった。今憲法を考えるとすれば、どのような国の開き方をするのかということであるが、国際社会と地方自治の問題に集約されるだろう。自民党の憲法改正草案の、軍事力の強化、人権の制限、天皇制復権の3点セットはあまりに閉ざされた国家像である。明治憲法に戻そうとする時代感覚ゼロの国家像である。安倍首相の「積極的平和主義」と言った無内容なご選択を止め、平和のうちに生存する権利や外国人の人権を取り入れた開かれた国にするべきであろう。東京1極主義という首都圏収奪体制(財源を首都圏に集中する)の下では、2040年には半数の地方自治体は消滅すると増田元総務大臣は述べている。自民党の憲法改正草案は地方自治に何ら改正点はない。そのまま放置すれば地方は壊滅するというのに。明治憲法の下で「富国強兵策」が押し進められ、太平洋戦争に突入した。現在日本のGDP は世界第3位、軍事費は世界第6位となり文字通り「富国強兵」は実現されている。しかし人権は世界での底辺を歩んでいる。国連は1993年国内人権機関の設置を決める決議を出したが、日本は未だに設置を決めていない。女性の就業率は先進国中第20位、裁判の法律扶助費は最低レベル、GNPに占める教育費はOECDの最下位、外国人の参政権は否認したままで、世界に冠たろうとする姿は傲慢である。

第4章 「安全保障」認識の変換を

ギデンズは「暴走する世界」で「今日、国家が曝されているのは敵ではなく、諸々のリスクと危険である」という。これは福島原発事故に警告を発したウイリアムベック編 「リスク化する日本社会ーベックとの対話」(岩波書店)も同様な見解である。武力攻撃事態法は日本が外国から攻撃を受ける前提になっているが、日本は東海の島国が幸いしてか13世紀のモンゴル帝国の攻撃を撃退して以来、700年ほど外国から攻撃されたことはない。むしろ朝鮮や中国に対しては無謀にも何回も攻撃を加えている。太平洋戦争後70年近く日本は戦争をしたことはないし、外国から攻撃されたこともない。これは日本の現平和憲法のおかげでだれも日本を敵視してこなかったためである。たとえアメリカの虎の威を借りているといえ、他国を攻撃すれが日本も攻撃される。自業自得であろう。他国を攻撃しないことは自国が攻撃されない最大の理由となる。冷戦後の世界は先進国が領土や国境を争う戦争や紛争は激減し、不安定要因を抱えた途上国における紛争・代理戦争が主となった。まして国家の総力戦は過去の遺物である。すると自衛権と警察権の間のグレーゾーンの紛争を考えなければならない。PKOをとってみても、軍隊が意味を持つのは1年以内で、あとは治安の維持と選挙監視程度の警察権の範疇となる。米国は「ハイブリッド戦争」に見合った軍事組織を模索しているが、変則的、テロリスト的、犯罪者的なハイブリッドの脅威の出現に対応しようとするものである。首都圏の米軍基地に米軍の3司令部と自衛隊の3司令部が雑居する事態lここそ、紛争の多様化と指令系統の複雑さを表現するものである。森本前防衛大臣は「自衛権の発動は急迫した不正の侵害、武力攻撃に限られており、これに至らない事態に対しては警察権の行使によって対処する」と述べている。これを「マイナー自衛権」とは「グレーゾーン」と呼ぶ。海上保安庁(警察)も海上保安局の一部とする海上公安局法を公布したが、行政法上意義があるという指摘のため、施行日は見送られたままである。警察と自衛隊の一体の組織化にストップがかかった。また「警察比例の原則」に則り、自衛権の行使も警察権の行使と同様に人権侵害にならないよう目的達成の限度の比例して権力行使を行う時代である。クーデターのように有事法で一夜にして戦争国家になるという時代ではない。尖閣問題や竹島問題に自衛権の行使がどんな結果をもたらすか、火を見るより明らかである。積極的平和という無内容な空疎な議論をするより、平和の実現のために警察権概念をいかに再構築するか、そして国際社会で警察制度をどう構想するかが問われているのである。アメリカの犬よろしく、韓国や中国に向かって吠えたてる安倍首相はやはりアメリカの忠実な犬というレベルであって、アメリカと対等な位置を目指すというのは空言である。ガルブレイスは「不確実性の時代」(講談社学術文庫 2009年)で「その時代の自国の国民の最大の不安と正面から取り組もうとする意志がリーダーシップの本質です」という。社会保障もその一つであり、「人間の安全保障」とか「社会的安全保障」と言った概念をヨーロッパ先進国は模索している。


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