140717

朝永振一郎著  「物理学とは何だろう」
岩波新書(1979年5月・11月) 上・下 

16世紀の物理学の誕生から19世紀末までの物理学の歩み

朝永振一郎

上の朝永氏の写真を見ると、私には不思議に、芥川龍之介、小林秀雄、川端康成といった面長でやせ形の知識人特有の面影を見る。芥川ほどひ弱で病的ではなく、小林や川端ほど高所的でヒステリックではなく、朝永氏には実務者的な強い性格を感じる。本書を見たのは数年前のある書店の書棚であった。ぱらぱらめくって見ると、量子力学や量子電磁気学やノーベル賞受賞の場の量子論のことは書いてない。少なくとも20世紀の物理学まで叙述が及んでいないのであまり興味もわかずその儘になっていた。また数年後、同じ本屋の同じ書棚でこの黄表紙の岩波新書を発見して、こんな優れた物理学者(日本で二人目のノーベル物理学賞受賞者)の本が曝されているのを見るのは忍びないと思い、上下2冊の「物理学とは何だろうか」を買い込んだ。そして20世紀の物理学まで記述が及んでいない理由が分かった。これはがんに侵された物理学者の市民のための未完の物理学書であった。おそらく20世紀の物理学をも書くとしたら少なくとも3冊のシリーズとなったはずであるが、1978年11月22日での病室での口述原稿を最後にして執筆は途絶えたのであった。私と同郷で京大理学部の同窓の先輩である朝永氏の業績を振り返っておこう。まず経歴を年譜にする。
1906年 東京都文京区小日向生まれ。
1913年 父三十郎の京都帝国大学教授就任(三十郎は後に京都学派の一員)に伴い一家で京都に転居し、錦林小学校、京都一中(現洛北高等学校)、第三高等学校、京都帝国大学理学部物理学科を卒業。湯川秀樹とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒であった。
1931年 仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学んだ。
1941年 東京文理科大学(旧東京教育大学、現・筑波大学)教授。1943年超多時間理論を完成。
1947年量子電磁力学の発散の困難を解消するためのくりこみ理論を形成し、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。この業績により、1965年にジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞することになる。
1949年 東京教育大学教授。プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行なう。1951年日本学士院会員。1952年文化勲章受章。
1956年 東京教育大学長(〜1961年) 1963年日本学術会議会長(〜1969年)
1965年 ノーベル物理学賞受賞。
1969年 東京教育大学を定年退官。世界平和アピール七人委員会に参加。
1979年 73歳にて死去

1965年のノーベル賞受賞に対して、ファイマン著「光と物質の不思議な理論ー私の量子電磁力学」(岩波現代文庫 2007年)において、ノーベル賞受賞理由のひとつである「繰りこみ理論」とは、数学的手品で発散という難点を隠すだけのことで物理的にはいまだに分らないとファイマン教授に白状されてびっくりするだけである。そこでファイマン教授は居直って、「最良の方法とは方程式を推論で探すことで、物理モデルなんか糞食らえ」と極言するのである。数学的天才の特有のギャグであろうが、素人の私にはやはり「繰り込み理論」の意味は分からない。本書においても朝永氏は量子力学や量子電磁気学のことは述べていないので、繰り込み理論は分からないままにしておこう。1930年代に入り顕在化していた場の量子論のもうひとつの問題、自己エネルギーによる質量補正が無限大になる問題に取り組む。名古屋大学に行った坂田昌一により1946年に発表された凝縮場の理論(架空のCメソンを導入して無限大の困難を避ける方法)を検討したが、すべての無限大を質量と電荷の無限大で書き直せる(繰り込める)ことに気が付き、1947年学会発表し、翌年、残る問題の解消に半年をついやし、1948年朝永氏は、超多時間理論でハイゼンベルグとパウリの場の量子論を相対論的に共変な形式に書き改め、繰り込みの記述形式を確立し、量子電磁力学を完成させた。(朝永に数年遅れて、ジュリアン・シュウィンガーおよびリチャード・ファインマンらも独立して繰り込みを見い出し、量子電磁力学を完成させた。) 特に電子の異常磁気モーメントの計算は、量子電磁力学のよる予言値と実験による測定値が10桁の精度で実験と一致している。朝永理論と坂田模型は、現在の素粒子理論において、2つの主要な思潮を代表しているといわれる。湯川・朝永は同期で、4年下に、坂田や、武谷3段階論で、当時名をはせた武谷がいる。湯川、朝永、坂田は京大物理の三羽カラスと言われた。朝永氏の主な業績として、以下のものがある。
1.場の量子論(量子電磁力学)の相対論的共変形式を確立した超多時間理論
2.場の量子論での相互作用のみを切り出す変換作用素の発見 
3.超多時間論を基礎に、場の量子論の発散の困難を解消するくりこみ理論
朝永氏の研究グループとしては、理研の仁科芳雄と提携しつつ朝永グループを形成し、西島和彦、繰り込みの木庭二郎、南部陽一郎などがこれに参加する。南部は朝永の推薦により、新設の大阪市大の物理学科の教授として、早川、西島らと大阪市大グループを形成する。後年、朝永氏は巨大実験装置の発案、建設に努め、小柴昌俊はこの時代の弟子にあたる。また、早川は天文学に移り、日本の天文学を世界レベルに押し上げた。このグループから南部陽一郎、小柴昌俊氏はノーベル物理学賞を受賞した。主な著書には、『量子力学』第1巻・第2巻、みすず書房、『角運動量とスピン 『量子力学』補巻』みすず書房、『スピンはめぐる 成熟期の量子力学』 江沢洋注、みすず書房、『鏡の中の物理学』 講談社〈講談社学術文庫〉、『量子力学と私』 江沢洋編、岩波書店、『量子力学的世界像』 弘文堂、『科学と科学者』 みすず書房などがある。

数学ではまず扱う対象の定義から始め公理を設定するのが常ですが、物理学では変遷が激しく、学問の範囲や対象を定義することも公理を設定することも不可能です。そもそも物理学に限らず科学というものの進歩は、前の時代を踏まえて積み重ねられてゆくものでいわゆる連続的な流れの中で、流れに抵抗する動きもあり固陋な考えを打破するすることで新天地を築く動きが錯綜する時期があります。このような変化の中で物理学者がどのように考えやってきたかを、時代を画する代表的な科学者から見てゆくことその苦労がよくわかるという。出来上がったセントラルドグマを解説することは本書の目的ではない。それは教科書に任せましょう。物理学とは「我々を取り巻く自然界に生起する諸々の現象(ただし無生物に限る)の奥に存在する法則を、観察事実によりどころを求めつ追求すること」であるというが前提である。「観察事実に拠り所を求めつつ」というのは、もっぱら思弁を論拠とするやり方とは異なるという意味です。では今言った物理学という学問ルールが確立したのはいつごろかというと、ほぼ16世紀から17世紀にかけて欧州で起こったといわれています。ではそれまではどのような学問があったかというと、人間の知性の未成熟な段階では神秘的な哲学、唯一絶対神の宗教や自然宗教、そして民間では呪術や魔法という中世の魑魅魍魎の世界であったといわれています。物理学や化学の世界では星占術や錬金術が支配していました。古代の学問の中心は紀元前1−2世紀ごろ、ローマ帝国の支配下にあったナイル川河口のアレキサンドリアという都市において、ヘレニズムの学問の花が咲きました。哲学者アリストテレス、幾何学のユークリッド、円錐曲線論のアポロ二ウス、天動説のプトレマイオス=クラウディオスらがいました。もちろんヘレニズムというのはギリシャ文化にペルシャ文化・アラビア科学、エジプト文化が混淆したものです。この文明のるつぼから星占術や錬金術が生まれたのです。それらの術がヨーロッパに入ったのは12世紀ごろといわれています。こうして天体の運行に法則性(再現性)がみられ星の動きの予知が可能であるとなると、それが人間世界の出来事の予知という願望となり占星術を生み出したのです。16世紀ごろヨーロッパには占星術師を抱えた王(日本でも戦国時代の諸侯は軍師という占い師を抱えていました。軍師は戦略家・参謀ではありません。室町末期の下剋上の時代を経て戦略家は諸侯であって、軍師はお抱えの占い師です。テレビドラマはこの辺を大きく誤解して構成されています。そうでないとすると下剋上の時代に逆戻りして諸侯はバカ殿に過ぎません。)の中では神聖ローマ帝国のルドルフ2世が有名です。この皇帝がドイツ人学者ケプラー(1571-1603年)の偉大な研究を庇護したのです。天体の運動は目視による天体観測が行われ、天文学という学問分野が生まれたのは、農耕に暦が必要だった有史以前からの要請によるものです。天体運動の規則という現象面のみならず、天体の構造や宇宙論に迫るf問いに発展してゆきました。2世紀のアレキサンドリアの天文学者プトレマイオスの世界体系は天動説であって地球中心の宇宙論です。星には恒星と惑星があって、恒星は一定不変の位置を占めますので、定まった大きさ明るさと形の星座をつくって天球面上を運行します。惑星はその動きから地球の周りの円運動とはみなすことはできません。プトレマイオスは惑星の動きを2つの円運動の組み合わせと考えました。大きな軌道を「搬送円」、小さな軌道を「周転円」と名付けました。この学説は人工的で複雑ですが16世紀にコペルニクス(1473-1543年)が地動説をとなえるまで信奉されました。コペルニクスの地動説は、太陽中心の世界体系です。天体の日周運動は地球の自転による見かけの運動で、年周運動はその公転による見かけの運動だという説です。恒星(星座)の大きさが不変にみえるのは天球が大きくて地球の位置が不動にみえるためである。ここでコペルニクスが高い地位の僧であったことは見逃せません。彼は天動説と言っても地動説と言ってもどちらでもいい、それは天体の運動の計算において正しい近似を得るための方便だという宗教裁判を避ける言い逃れをしています。どちらが真実かというよりどちらも仮説だというのです。後日ニュートンに基礎を与えたケプラーの発見が現れるのはコペルニクスの仮説の半世紀後のことです。プトレマイオスもケプラーも占星術師だったといわれています。ケプラー以前の科学は観察を論拠とするよりむしろ思弁に導かれた神秘的色彩が強かった。ケプラーとほぼ同時代のガリレオ(1564-1642年)は「実験」を強調しました。観察事実に拠り所を求めつつ法則を追求する物理学の性格が、次世代のニュートン(1642-1727年)によって確立された。第1章ではこのケプラー、ガリレオ、ニュートンという3人の科学者の業績から古い科学と新しい物理学のやりかたを検証してゆきます。第2章と第3章は熱現象の物理学への組み込み(熱力学)と分子運動論の確立を実に丹念に検証されたものです。ここではクラウジウス、マックスウエル、ボルツマンらの活躍を描いています。

第1章 力学の確立

1) ケプラーの法則の発見

ドイツ人の学者ケプラー(1571-1630年)の天文学の師匠はティコ=ブラーエ(1546-1601年)です。これまでの占星術師のいい加減な天体運行表に疑問を抱いたティコはデンマーク王に大天文台を作ってもらい、巨大な四分義を置き、16年間高精度な観測を行いました。望遠鏡がなかった時代において最高の観測結果を得ました。ティコはデンマーク王と衝突しルドルフ皇帝の研究所に移り、ケプラーはそこへ弟子入りしました。ティコは16年間の観測で膨大なデーターを得ましたが、その数値から惑星の軌道計算を導くには数学の才能が必要でした。そういう意味でティコとケプラーの出会いは画期的な結果を生んだと言えます。プトレマイオスやコペルニクス説の予測は長い時間の誤差が積み重なって惑星の位置が大きくずれることが分かりました。そこでケプラーはティコのデータを使って火星の軌道運動計算を行った。プトレマイオスもコペルニクスにしても、ギリシャ系の天文学者は円運動と等速運動を理想と考える傾向にありました。天動説のプトレマイオスは、誤差を少なくするため中心の地球の位置を少しずらす「偏心円運動」や、太陽の運動を円の中心からずらした「対心点」という修正を加えました。それでも誤差は消せませんでした。天動説のコペルニクスは大きな周転円運動は回避することができましたが、やはり惑星が太陽の周りを円運動と等速運動をするという原則を取る限りは、対心点を否定したとしても複雑な修正を取らざるを得ません。たしかに天動説に対し地動説は内容的にはいいのですが、誤差の点ではプトレマイオスと50歩100歩でした。ここに登場したのがケプラーです。ケプラーの著書「新しい天文学」(私は昔この本を読んだことがあるが、大変難しくなかなか理解できなかったが本書でその疑問が氷解した。本書は名著である。)で太陽本体こそすべての惑星をその周りに好転させている動力の源泉だといいます。師ティコのデーターを使って長い計算をこなった結果、クプラーは惑星が太陽を焦点とする長円を描いて運動すること、太陽・惑星の距離と惑星の速度が一定の関係にある法則に従っていることを発見しました。まず火星の軌道面と地球の軌道面のなす角度を決めた。この2つの面の交叉線上に太陽が存在し、太陽が化成と地球の両方を動かす運動中枢であることが分かった。ティコのデータは地球から見た角度だけで距離は含まれていませんので、距離を計算するためにケプラーは死ぬ程苦労したといいます。ひとまず地球と火星の運動は太陽を中心とする同一平面での円運動と仮説して進めました。地球は365日で多様の周りを一周し、火星は687日で一周します。火星と太陽が地球を挟んで1直線状に並ぶときを「衝」といいます。687日後に火星は同じ位置ですが、地球の位置は異なります。太陽ー地球ー火星のなす角度は火星第0年度(衝)で180度で、火星第1年度(衝より687日後)でφ1、火星第3年度(衝より1374日後)でφ2、火星第3年度(衝より2061日後)でφ3だとします。同様に地球ー太陽ー火星のなす角度をθ1、θ2、θ3であったとします。これはティコの観測データから分かります。地球と太陽の距離Re、太陽と火星の距離Rmとします。太陽ー地球ー火星のなす3角形の1辺(太陽と火星の距離)を共通として3つの3角形は決定されます。つまり太陽と火星の距離を単位とした太陽と地球の距離〈1以下の自然数)が時刻t0,t1,t2,t3・・・・・刻みで地球の極座標が決定されます。時刻tから365日の整数倍を引いて地球の日時が決定されます。こうして地球の運行速度が求まります。同様にして火星の極座標は衝の時を出発点として求まります。その結果地球の軌道は円運動としてみなせること、しかし太陽の位置は中心より反半径の0.018倍ずれていること(長円と言ってもいいのだが、ほとんど円運動としてもいいぐらい)、地球の遠日点と近日点における地球の速度は、太陽・地球間の距離に逆比例することを発見した。太陽と地球の距離が近い時は早く動き、遠い時は遅くなるという(これは重力すなわち引力による合成速度である)、角速度は異なるが面積速度は一定であるという法則が分かったのです。そして火星の軌道は円ではなく長円(楕円軌道)で太陽はその焦点にあり、火星の速度は面積速度一定の法則を充たしていることなどが発見されたのです。こうしてクプラーは次のようにケプラーの法則をまとめました。
1) すべての惑星は太陽を焦点とする長円上を運行する。すべての惑星の軌道面は太陽という点を共有する。
2) 太陽と惑星を結ぶ線分(動径)が進む面積は一定である。惑星の速度は太陽に近い時は早く、遠い時は遅くなる。
ケプラーは惑星運動の中心としての太陽に正当な地位を与え、それによって正しい法則に達したのである。そしてケプラーは10年たって惑星軌道の大きさとその周期との間の第3法則をを得た。
3) 惑星周期の2乗と軌道の長径の3情との比はすべての惑星について等しい。周期をP、長径をRとすると、P^2/R^3一定という関係です。
このケプラーの3法則の発見は1618年3月に完成したのだが、おそらく誰も注目しなかった。結局ニュートンの「プリンキピア」を通じて再発見されるのは約70年後のことであった。ケプラーは惑星の運動の動力は太陽にあるといったのだが、その動力とは何かについてはニュートンの出番を待つしかなかった。ケプラーは「世界の調和」という著書で、第3法則は幾何学的には正多面体内接円の半径が6つの惑星の軌道半径にあるということを主張しています。厳密には一致しないのですが、ここで幾何学と数論の関係にケプラーは神秘な霊感をえたようです。

2) ガリレオの実験

ケプラーとイタリア人のガリレオが活躍したのはほぼ同時代です。ティコやケプラーは終始天体を研究対象とする天文学者だとすると、ガリレオは地上の物体の運動を主とする物理学者だったといえる。ガリレオは振り子時計の等時性を発見したといわれています。(ガリレオが振り子時計の発明者だったというならまだしも、振り子に等時性がなかったら時計にならないので、この話は少しおかしい) ガリレオの真骨頂は落体運動に関する実験を行ったことです。アリストテレス以来の通説に従うと、重いものは軽いものより早く落下するということに疑問を持ち、すべての物体の落下の仕方は重さには関係しないとして、落下実験を行った。ガリレオの「天文対話」や「新科学対話」に落体実験のことが書いてある。100メートルの高さから、鉛と樫の木の球を落とすと、着地点で1メートルほどの訛りが先に落ち、鉛と石の球ではほとんど同時に着地したという。鉛と樫の木の違いは空気の抵抗によるものだ言っています。落下する過程を調べるためガリレオは斜面上をころがり落ちる距離と時間を求めました。ある時間に転がる距離を1とすると、次には3,5,7,・・・と奇数の比になったという。ニュートン力学から重力加速度をgとすると、h(n+1)-h(n)=1/2g{t(n+1)^2-t(n)^2]=1/2g(2n+1)から分かることであるが、次第に落下速度が増すことから、ガリレオはすでに加速度の概念を持っていたようである。(斜面では回転運動距離ではなく、落下距離成分だけを見てゆけば落下運動になります) ガリレオはこの斜面運動を落下問題だけでなく、ニュートン力学の「慣性の法則」につながる論に用いています。つまり物体はそれに力が加わらない限り、静止しているものは静止を続け、運動しているものはそのまま運動し続けるというものです。この慣性の法則は円運動を理想とするアリストテレス以来の考えでした。しかしニュートンの無限の直線運動という考えはアリストテレスの運動論にはありません。そして天動説へガリレオは向いました。アリストテレスはの運動論では、高い塔から落とした球は塔の直下に落ちることを地球不動の論拠とします。これに対してガリレオは動く船の帆の上から落とした球は帆の直下に落ちることで論破しました。球も船も等速運動をしていれば相対的に球だけの運動はないように見える。、船は動いている地球と同じであるといってアリストテレスの論拠を打破しました。これは「ガリレオの相対性原理」と呼びます。動かないように見えるのは、全員が等速運動をしているからに過ぎない。本当は動いていると考えた方がよいというのはガリレオが投射体の実験から得た結論であろうと思われます。投射体の実験は「新科学対話」に詳しく述べられています。高いところに静止した球をはじくと、落下する球の投射曲線が得られます。これはニュートン力学でいうと水平方向へは等速運動で、鉛直方向へは重力の加速度運動を合成した運動となる。横軸を時間、縦軸を落下距離とする関数の2次平面でのy=1/2gt^2という曲線は2次曲線で放物線である。このような実験結果を得たガリレオは地動説を唱えますが、実はケプラーの天文学説には全く考慮していません。つまりガリレオは天文学者ではなく物理学者(相対性論)で、ニュートンの一歩手前まで来ていたのであった。よくある力学の問題で大砲を打つ角度(仰角)は45度の時最も遠くへ飛ぶという定理も得られます。運動の公理を得ると、いちいち実験をしなくとも、他の定理を基本法則から導くことができるという科学が生まれました。この論証性を物理学の重要な特徴と認識していました。そのためには法則を数学の形で表現しなければなりません。ガリレオは「自然の書物は数学の言語によって書かれている」といいます。またガリレオは望遠鏡を用いて月や太陽の表面を観察し自転をしていると結論しました。この結果はケプラーを勇気づけましたが、ガリレオは全くケプラーを知らなかったとは皮肉なことである。物理学は実証科学であると同時に論証科学である。

3) ニュートン力学の確立

ガリレオが亡くなった年にニュートンがイギリスで生まれた。ニュートンは45歳の時「プリンキピア」(自然学の数学的原理)を発表しました。ケプラーの「新しい天文学」からほぼ80年、ガリレオの「天文対話」からほぼ50年後のことです。ガリレオはニュートンの直前まで来ていながら、物体の落下が加速度運動であることを知りながら、落下の加速度を重力と結びつけることはできませんでした。又慣性運動にしてもアリストテレス以来の円運動に固執し直線運動だとは認めませんでした。ニュートンはこれらの点に明快な答えを出しました。ケプラーやガリレオ時代の数学がまだ十分でなかったことが原因でした。まだ変化の相において量をとらえて定式化することができなかったのです。ガリレオの例では落下距離が時間の2乗に比例するとか、その距離が1,3,5 の比で増大することは確かめたのですが、その数学的関係を微積分で定式化することができなかった。等加速度運動なら時間tまでの面積を幾何学で求める方法で満足していた。ニュートンは自ら微積分学を創始しました。微積分は解析学の第1歩です。速度の時間積分が距離だとか、逆に距離の時間微分が速度であるとか、加速度の時間積分が速度であるとかいろいろ便利は手法が使えます。微積分やニュートン力学は今日の高校数学で教えている内容です。それほどポピュラーなレベルとなっていますが、ケプラーやガリレオの時代にはこのツールがなかったのです。だから難しいということができます。ニュートンが「プリンキピア」を構成するとき、論証科学の典型であるユークリッドの「原論」に倣っています。いくつかの定義から出発し、公理として「運動の3法則」を掲げて、そこからいろんな定理を導き出すのです。このときに解析学という数学手段で定式化するのです。「プリンキピア」は3巻から成り立っています。第1巻と第2巻は「物体の運動について」で、第1巻ではケプラーの3法則にあてられ、向心力の働く運動でケプラーの面積速度法則が証明され、次に距離の2乗に反比例する向心力(引力)の問題を扱います。その時の物体の運動は円錐曲線になり、長円運動の場合にはケプラーの第3法則が証明されます。第2巻は「抵抗のある媒質中の運動」を扱います。摩擦や抵抗(粘性)の流体力学の問題が論じられます。第3巻は「世界体系について」ですが、万有引力の第3法則を述べます。こうして3つのケプラー法則は完全に導き出せます。ニュートン公理である「運動の3法則」を次に示します。
法則1)(慣性の法則) すべての物体は、その静止の状態を、あるいは直線状の一様な運動を、外力が働かない限りそのまま続ける。
法則2)(加速度の法則) 運動の変化は及ぼされる起動力に比例し、その力の方向に行われる。
法則3)(作用・反作用の法則) 作用に対して反作用は逆向きで相等しいこと、あるいは2物体間の作用は常に相等しく逆向きであること。

第1法則は慣性の法則ですが、ガリレオらの古い時代の円運動へのしがらみはすっかり洗い落とされ、直線運動か静止のことをいう。従って等速運動でない運動や落下運動はすべて力によって強制された運動であるということです。天体の運動も引力という力によって強制された運動です。ですから地球の公転軌道運動は人間には感じられない運動ですが、地球の自転による回転運動はフーコ時計の振動面の回転のように自転の作用だということが分かります。第2法則は運動の変化は力に比例するということです。この関係がニュートン力学を数学的定式化に導きました。運動の変化量を加速度といい、α=dv/dt∝Fという微分方程式を得ます。この法則は運動の変化量であって運動の形態自体ではないことです。力が同じでも非常に多様な形態の運動がこの式を介して表すことができるのです。例えば惑星と彗星の軌道は非常に違った形ですが、同じ万有引力によるもので初期条件が異なるだけです。古い人々(ケプラーもガリレオも)は運動形態の違いは力の違いだと考えていたからです。二つの物体の運動方向をベクトルで表せば、同一直線上の方向であれば両者は衝突するか、永遠に離れるかでありますが、ある角度を持った二つの運動はその速度と方向が一定であれば、同じベクトルのなす面積は合成ベクトルで一定です。これを面積速度一定法則と言います。ケプラーの第2法則が証明されたのです。ニュートンの力学世界はある時点における物体の位置と速度を指定すれば、その後の運動形態を一意的に決定します。これを哲学的には「機械的決定論」ともいいます。初期条件を与えることは神の力ではなく、今では人工衛星のように、最初は引力に打ち勝つロケット推進力で地球から離れ、大気圏外にきたとき地球球面に水平な推進力を与えることで、地球を回る軌道に乗せることができます。ニュートン力学で万有引力の法則が重要な力となり、すべての星の運動の源ですが、その力の強さは中心からの距離の2乗に反比例します。これは2つの物体がつくる運動平面上の点から拡散される力の密度を示します。中心の重力が円の面積πr^2によって拡散することから導けます。ニュートンは惑星のケプラー運動の源を万有引力であると確認しました。

第2章 熱力学の確立

1) ワットの蒸気機関の発明とカルノーサイクル

18世紀になると、欧州においては技術は各段に発展しました。中でも大きな出来事は蒸気機関の発明です。蒸気機関は熱エネルギーを動力に変換する画期的な機械でした。これにより人類は後の電力で動く電動機や石油燃料で動く内燃機関(ガソリンエンジン)の発明に相当するようなエネルギー源の拡大ができました。蒸気機関とはシリンダーのピストンを蒸気の圧力で動かして回転力に変えるものです。産業革命中のイギリスにおいてニューコメンによって実用化されました。ニューコメン機関の働きは、ボイラーが発生する蒸気をシリンダに噴出しピストンを押し上げ、次に蒸気口を閉じて冷水口よりシリンダー内に冷水を入れて蒸気を水に凝縮させるとピストンは「大気圧」で下に下がり、次に水を抜くというサイクルでピストンが上下に運動するもので、炭坑内の水揚げポンプに用いられました。このニューコメン機関の欠点はシリンダー内を冷水で冷やすため、次に入る蒸気はシリンダーを温めるために無駄に費やされることです。ジェームス・ワット(1736-1819年)はグラスゴー大学に器具を納入する商人だったそうですが、大学内に在ったニューコメン機関の縮尺模型を運転しようとして、この機関の欠点に気づきました。要するにボイラーの能力が低いためにピストンを動かす力不足で動かなかった。それは蒸気がシリンダーを温めるのに水蒸気が無駄遣いされていることを発見しました。実用機はボイラーの水蒸気発生能力が高かったから動いたのです。そこでワットはシリンダーに冷水を噴射するのではなく、排気した水蒸気を別の容器(復水器)に連結し水を噴射して凝縮を起させるものでした。1765年にこの方式を完成し1769年に特許を得ました。この改良を行う際にワットはグラスゴー大学の熱学の学者ブラック教授の知恵とデーターを利用しています。いわゆる産学共同の成果ともいえます。今日用いられている言葉「工学」とか「テクノロジー」とか「エンジニアリング」とかはワットのころから始まったといわれています。蒸気船が大西洋を横断したのは1802年のことです。熱が動力を生む過程を科学的に研究した最初の人が、フランス人サディ・カルノー(1796−1832年)でした。彼が28歳の時〈1824年〉に書いた「火の動力についての省察」は誰の目にも止まらず、死後(36歳で死亡)10年たってから、フランス人エミール・クラペイロン(1799−1864年)がこの論文に注目し、自身のデータによって内容を補強しかつ数式化して「カルノーサイクル」を理論化しました。カルノーの動機は蒸気機関の改良にあったことは言うまでもないが、カルノーの本質的に重要な仕事は「考え得るどんな火力機関もが越えることができない原理的な限界」です。理論的な最大効率のことです。例えば水力発電であれば水の落差と水量によって決まる最大効率を超えることはできません。インプットの仕事量を超えるアウトプットはないことです。それは永久機関の存在を否定することから自明なことです。カルノーの時代には、熱の本性が分子運動によるものか熱素によるものかはっきりしていなかったことで、カルノーは一応「熱素」説を取っているようです。カルノーは水力機関との類比で物事を考えていました。熱による動力の発生には高温から低温へのンるの移動が必要条件であるとしています。つまり熱の不平衡状態(熱の落差)が必要だと考えました。もし熱が平衡状態にあるときは熱から仕事を得ることはできない。また物体の体積や形(相)の変化が行われたなら、温度差(顕熱)がなくても熱は移動できるという事実を掴んでいました。水には氷―水―蒸気という3相があり、相変化が起きると融熱、気化熱(僭熱)が発生します。逆の方向から見ると凝縮熱、固化熱ともいいます。カルノーは最大効率を得るには理想的には、高温から低温への熱の移動を無駄なくやらせることであるとして、物体の体積変化(膨張・収縮)または形の変化(僭熱)によって行い、温度差による熱移動(顕熱)を全く起らないようにすることであるとしました。そこでカルノーはシリンダー内に空気を閉じ込めたいわゆる空気エンジンを構想し、外部よりシリンダー内の熱の移動を行う機関を考えました。熱源と冷却器(ヒートシンク)を理想化しました。つまり空気は熱媒体であり、かつ膨張・収縮のピストン作動媒体であるという2つの役割を想定しました。体積変化による熱移動つまり膨張・収縮の間空気はずっと一定温度を保つとしますので、これを「等温仮定」と呼びます。温度差はなく状態方程式を限りなく満たすようにゆっくりと操作を行うという仮想操作のことです。この操作を「準定常状態」と呼びます。問題はピストンが押出しから押込みに移るときに熱源を高温から低温に切り替えるときどうしても温度差が生じます。これを避けるためカルノーは熱を絶ったうえで空気を断熱圧縮すると温度が上がるという「断熱過程」を導入しました。逆に断熱膨張させると空気の温度は下がるとします。これを「カルノーサイクル」と呼び次の4つの過程からなります。@高温での等温膨張、A断熱膨張とそれによる冷却、B低温での等温収縮、C断熱収縮とそれによる加熱 です。しかし文字通りのカルノー機関は存在しません。熱源との温度差は必ず存在するもので、ピストンの摩擦熱もあり、ゆっくり操作することは現実的ではありません。ゆっくり操作するということは「理想機関はとりもなおさず可逆機関である」ということです。温度差のある操作は逆行は不可能ですので「非可逆的」です。カルノーは超能機関の存在は永久機関不可能原則を破るものとして否定しました。カルノーの原理は効率には温度だけが関係し、その構造や作業物質には無関係という抽象化を行ったことに意義があります。

2) クラウジウスとトムソン(ケルビン卿)による熱の科学

熱の本体についてはカルノーの時代は「熱素」と言った物質的なものを仮定していました。18世紀の終わりごろランフォードが機械的摩擦で熱が多量に発生することから、仕事量と熱量の間の関係に注目しました。カルノーが残したメモにランフォードの仕事の追試の必要性が書いてあり、運動によって熱素という物質が生じるわけないと思い始めたようです。カルノーの死後10年たってジュール(1818−1889年)が水中で撹拌という運動によって発生する熱量を測定し、いわゆる熱の仕事等量を決めた。かれはニクロム線に流す電流によって発生する熱量を、電圧×電流^2×時間であらわし、Q=V・I^2・tで求めた。これをジュールの法則という。こうして熱エネルギーと力学エネルギーと仕事量との和(電気エネルギーも含む)が一定という一般化したエネルギー保存則はヘルツホルム(1821−1894年)によって確立された。カルノーの仕事「省察」を再発見したのは、ウイリアム・トムソン(1824−1907年)(後年爵位を得てケルビン卿と言われた)が1845年フランス留学中のことであった。トムソンはクラウジウスと並んで二人が「熱力学」という熱の科学を確立したといわれる偉人である。彼はカルノーの原理は、熱機関の改良を超えた熱の本性に迫るものを感知したようです。まず温度の定義を氷の融点と沸点の間を100等分するという便義的なやり方を超えて、絶対温度(−273°C を0°Kとする)を定義して、カルノーの原理を認めたうえで熱が仕事を得る上でなぜ低温物体が必要かに悩まされました。そこにクラウジウス(1822−1888年)はそのまま認めてエネルギー保存則を導きました。本書で著者朝永氏はクラウジウスの天才的洞察力を称賛しています。クラウジウスは次の2つの基本法則を公理とし、その上に立って熱力学の体系を組み立てました。
熱力学第一法則(エネルギー保存則)は、ジュールやマイヤー、ヘルムホルツらによって発見されていたエネルギー保存則である。クラウジウスは次のように表現した。「熱の作用によって仕事が生み出されるすべての場合に、その仕事に比例した量の熱が消費され、逆に、同量の仕事の消費においては同量の熱が生成される。」 dU = dQ - dw これはエネルギー保存則の初の定式化である。
熱力学第二法則(エントロピー増大の法則) 「熱は常に温度差をなくする傾向を示し、したがって常に高温物体から低温物体へと移動する。」 別の表現では、 可逆過程において一つの物体から熱を取り出してそれを等量の仕事に変えるような機関はない。つまり超能機関の否定です。

力学はニュートンの微積分によって数学テク定式化が完成された形で行われましたが、熱の科学ではまだ定式化は不十分です。熱の第1法則は数学的表現が与えられました。しかし第2法則は定性的で、これに数量関係に持ち込むことは難問でした。しかしカルノーの原理「効率は熱源の温度と冷却器の温度の二つの温度で決まる」 つまり効率を(t1、t2)の関数として表現することです。カルノー機関を作ることはできませんから、第1段階は実験で熱力学データを集めて具体的な計算を行うことです。トムソンは温度対効率を計算するために、摂氏温度を絶対温度の換算する表を作りました。第2段階では、カルノー機関が高温熱だめの熱量を減少させ、その熱量より少ない量で低温熱だめの熱量を増大させ、その差引だけの仕事を取り出すところの可逆的な循環機関ですから、こういう機関について、熱量、仕事量、温度の関係の間の数学的関係を第1法則とカルノーの原理から決定することです。仕事量W=高温熱だめで減少した熱量Qh-低温熱だめ増大した熱量Qlとすると効率=1-Ql/Qhが得られます。Ql/Qhをthとtlの関数F(th.tl)を求めることが課題となります。F(th.tl)=f(tl)/f(th) という風に2変数関数は1変数関数の比で表現されます。この数学式の証明はドイツゲッチンゲン大学の物理学教授カール・ルンゲ(ヒルベルトの同僚教授)がやったようです。熱量の関数f(tl)やf(th)はもともと温度の性質を持ちますので、T=f(t)と考えます。実に大胆で天才的ひらめきでしょう。これがケルビン(トムソン)の絶対温度とします。Ql/Qh=F(th.tl)=Tl/Th (Ql/Tl=Qh/Thとも書けます) すなわち効率=(Th-Tl)/Th という簡単な式に変身しました。カルノーの原理で効率は2つの物体の温度だけで決まるという数学的な答えです。ここでケルビンの絶対温度とは効率が1になるTlの温度をゼロとするという定義になります。熱と仕事量の関係によって絶対温度を決定しました。でもトムソンは便義的にT=t+273として妥協しました。−273℃で熱効率は1となります。Ql/Qh=Tl/Thすなわちカルノーの理想機関ではQl/QhーTl/Th=0です。低効率の普通の熱機関を「低能機関」としますと、効率<1-(Th/Tl)で、超能機関では効率>1-(Th/Tl)です。この関係よりカルノー機関を超える超能機関はあり得ないことが(省略しますが)背理法で証明されます。クラウジウスは第2法則から「エントロピー」という概念を導入しました。彼は高温だめから移る熱量Qh、低温だめに移る熱量Qlには何かが異なることに目を付けました。可逆的な循環過程ではQ/Tという量が熱だめを出入りすると考えた方がいいのではないかということです。このQ/Tという量が出入りすることで作業物質の仕事が行われる。Q/Tの代数和Σ(Q/T)n≦0ですので、 状態が変わるとき蓄えの変化は、その変化過程を可逆的に行った時に出入りしたQ/Tの代数和に等しいというのがクラウジウスの結論です。これはエネルギー保存則の結果であり、常に状態の関数としての「内部エネルギー」なるものが蓄えられる。こうしてクラウジウスはエネルギーの語源であるギリシャ語から「エントロピー」となずけました。この場合の意味は「変化」だそうです。「内部エントロピーの変化は、その変化を可逆的に行った時出入りするエントロピーの代数和に等しい」すなわちQ/Tの代数和Σ(Q/T)n=(終わり状態のエントロピー)−(始め状態のエントロピー)が成立します。物理学者は法則を数学化して後は数学的操作(演算)していろいろな結論を導きますが、得られた結論が物理的に同じ価値を持つかどうかの保証はありません。熱力学は結局物体の内部状態変化の理論でもあります。(終わり状態のエントロピー)−(始め状態のエントロピー)は可逆的変化では0ですが、非可逆的では正、つまり(終わり状態のエントロピー)≧(始め状態のエントロピー)という関係にあり、エントロピーは増大こそすれ決して減少することはない。エントロピーが極大になればそこですべての変化は停止します。

第3章 原子論と熱の分子運動論の完成

1) 近代原子論の成立 ドルトンとアヴォガドロ

19世紀後半から物理学は少しづつ原子の世界に入ります。クラウジウスの熱の法則はエネルギー保存則、エントロピー増大則を明らかにしましたが、個々の物質の熱特性を導くことはできません。物理学者らは「熱エネルギーは原子の運動による力学的エネルギーだ」という考えに取り組み始めた。カルノーに先立ってランフォードは「熱とは物体内部に損じする目に見えない運動だ」と18世紀の終わりごろに述べています。19世紀初頭にドルトンの原子論が出て、19世紀も中頃になるとヘルムホルツは、熱エネルギーの担い手は原子であるとはっきり表明しました。ところが原子は目に見ることはできません。「観察事実に拠り所を求めつつ自然の法則を追求する」のが物理学のやり方だとしましたが、何らかの仮説をもとに推論して実験で確かめることは許されます。イギリスの化学者ドルトン(1766−1844年)は1808年「化学の新体系」を書いて、気体の物性論を創始しました。凝集引力や原子の反発力によって物質は固体、液体、気体の3つの状態が現れる。気体には反発力(斥力)によって圧力を持つ。そして2種類の気体を混ぜるとそれぞれの混合気体の圧力の和になる(ドルトンの分圧の法則)事を発見しました。ドルトンは原子の存在の決め手は見つからないまま、化学反応に関する「定比例の法則」に気が付きました。たとえば水素と酸素が化合して水となる反応では、体積で水素2に対して酸素1という比を得ました。こうしてドルトンは水素原子2個と酸素原子1個が反応して水1分子が得られるという結論を導きました。今日では反応式をH2+O=H2Oと書きます。そしていろいろな元素について原子量を決定しました。あまりに巨大な原子を含むためにこの整数性がみ言えないだけである。おおくの化合物が分子という形をとっています。ドルトンが発見したのは@元素は不可分の原子によって構成される、A化合物は成分元素の原子が結合した分子によって構成されるということで、ドルトンの1対1の原子で反応するという仮説は間違いであった。ドルトンの「化学の新体系」発表後にフランス人ゲイーリュサック(1778−1850年)は「気体反応の法則」を発見しています。これも整数性の表れでした。ゲイーリュサックの法則が出た3年後、イタリアの物理学者アヴォガドロ(1776−1856年)はドルトンの誤りを訂正して、原子の結合物を原子それ自体と区別して「分子」となずけます。金属の場合は同種の元素の結合物でありうるのです。分子とは異種の原子の結合のことです。アヴォガドロは「すべての気体は、同じ圧力、同じ温度において、同じ体積中に同じ個数の分子を含んでいる」という天才的な大胆な仮説を設けました。彼はドルトンの元素、原子、分子の表現のあいまいさを整理してドルトンの説を補強しました。スウェーデンの化学者ベルツエリウス(1779−1848年)は元素の原子量を決定しました。こうして目に見えない原子の集団が膨大な数(アボガドロ数)の原子から構成されることで、化学反応の単位(モル)が定義されたのです。ここまでくるとそれは化学の世界になりました。

2) 熱と分子 ボイル、ゲイーリュサックの法則

1846年ヘルムホルツは「力の恒存について」という論文で「熱運動の担い手は原子あるいは分子だろう」と述べました。その10年後クラウジウスは「熱という名の運動の特性について」を書いています。ドルトンは気体が容器の壁に圧力を及ぼすのは原子の斥力だといいましたが、ヘルムホルツ、クラウジウス、ジュール、クレーニヒらは分子の熱運動に原因を求めました。ところで気体の圧力P、温度T、体積Vについては2つの法則が実験的に知られています。ボイルの法則とゲイーリュサックの法則です。まとめるとPV=nRT(Rアヴォガドロ数 nモル数)という関係式です。気体分子の運動が次の条件を満たせば、圧力の原因を熱運動の結果ということがように導かれる。その条件とは理想気体について@気体分子の体積の総和は容器の体積に比べて無視できるほどに小さい、A気体分子同士、気体分子と壁との衝突は、分子が自由に動いている時間に比べると無視できるほど小さい、B前と同様に気体分子の運動は直線運動とみなされる。ということです。クレーニヒとクラウジウスは計算の結果「壁の受ける圧力に容器の体積を掛けた値は、中を飛び交う分子が持つ運動エネルギーの総和に数因子2/3を乗じたものである」とした。PV=(2/3)ΣE ボイルの法則PV=nRTより「圧力は気体の量に比例する」から「圧力は気体分子の個数N=nRに比例する」と言いなおすことができます。クラウジウスの式PV=(2/3)ΣE の両辺をNで割ると、PV/N=(2/3)ΣE/Nを得る。すなわち分子1個あたりの運動エネルギーΣE/Nは一定となる。そして「分子1個当たりの平均運動エネルギーは温度の関数F(T)となる」 そしてゲイーリュサックの法則「1定量の気体の体積は、一定圧力のもとでのその絶対温度に比例する」ということから、絶対温度に何らかの定数を掛けた1次式 分子1個あたりの運動エネルギー=3/2kT(kはボルツマン定数)になる。この定数を導き関係式をさらに整備したのが、マックスウエル(1831−1879年)です。この3とは3次元方向のエネルギーの和という意味ですから1/2kTと書けます。そして関係式はPV=kNTと整理できます。PV=nRT式と同価値です。こうして温度は気体分子の平均エネルギーと関係づけられました。ニュートン力学でいう初期条件を与えると一意決定性となるということと、熱力学の法則はどういう関係にあるのだろうか。膨大な数の分子について解くことは到底不可能である。終局的には全くの無秩序運動が現れ、気体状態が決定される。だから熱力学の法則はニュートン力学から出発したのではなく、そうしたつり合い状態において実験的に発見したものです。そうすると偶然事象を支配する確率論を適用できるだろうと考えられます。分子の運動エネルギーの総和が温度で決まっているので、分子の速度分布は容器内のすべての場所で等しいという仮定でPV=(2/3)ΣE が導かれた。推論の過程でマックスウエルもクラウジウスも力学と確率論の併用を行わなければならなかった。すると理論の構成自体に整合性の実証が求められる。「初期条件に関係なく運動が一つの終局形態に達するということがどういう根拠で可能なのだろうか」、「力学法則と確率法則の併用がどういう根拠で許されるのだろうか」という疑問に物理学は長い間苦労してきた。

3) 熱の分子運動論の完成 マックスウエルとボルツマン

クラウジウスが1866年に「熱力学の第2法則の力学的意味について」を発表して、Q/Tをエントロピーとなずけてすぐ後、オーストリアの物理学者ボルツマン(1844−1906年)はマックスウエルの手法によりエントロピーの意味を分子運動論の中に見出そうとする研究をスタートした。そこでまずマックスウエルの統計について述べておこう。彼は1860年に熱の分子運動論の論文で、分子集団に対して「速度分布」という新しい統計概念を導入しました。人口動態調査でおなじみの手法(1年毎またはある幅を持つ年齢区分内の人口の出入りや生誕・死亡を統計で得て、その年の区分内の人口数を得る。それを人口の年齢分布という)と同様に、速度区分况に応じた速度Vxを変数とする分布関数=n(Vx)を設定する。3次元空間では分布関数=n(Vx,Vy,Vz)となる。外から力は働かなくて、速度分布が生じる要因は分子同士の衝突によって速度が変わるとします。マックスウエルは力学と確率統計とを併用した計算により衝突の追及をしました。結果だけを示しますと、n(Vx,Vy,Vz)/N・凾3=f関数とします。f=(α/π)3/2・e-α(Vx~2+Vy^2+Vz^2) が得られた。定数αは平均運動エネルギーン密接に関係する定数です。すると平衡状態において「マックスウエル分布」が求まり、それはVx軸のゼロで極大値を持つ正規分布関数です。分子1個当たりの平均エネルギーが計算されます。それから圧力が計算されます。マックスエルの成果により、気体内の熱伝導、気体の拡散、気体の粘性などの問題にアプローチできます。同じころオーストリアの物理学者ロシュミット(1821−1895年)は分子の半径は10-7cm、1気圧 0℃ の空気1tの中に約2×10^16個の分子があると計算しました。(正しくはロシュミット数2.69×10^19さらに 1モルの気体は標準状態で22.4リットルを占めますので、アボガドロ数は6.0256×10^23です) マックスウエルの手法を一般化してエントロピーに取り組んだボルツマンの仕事に移ります。マックスウエルの分布関数について、外部の力や気体内部の熱分布、濃度分布、粘性などの枠を取り払い一般化しなければなりません。分布関数の一般化とは位置と速度分布を考え、f=n(X,Y,Z;Vx,Vy,Vz)の6変数となります。分子同士の衝突に起因する変化の確率論的仮定は「衝突数の仮定」と呼びます。外力と衝突の原因によって起る分布関数の変化を求めて分布関数の時間的変化を微分方程式で得ました。これを「ボルツマン方程式」と言います。分布関数の時間変化、位置変化、外力による速度変化、衝突項の微分方程式である。エントロピーに相当する量を定義する式はH(t)=ΣvΣxyz n(X,Y,Z;Vx,Vy,Vz;t)logn(X,Y,Z;Vx,Vy,Vz;t)とボルツマンは提示しました。n・log nという数学の意味するところは省略していますが、計算結果によるとH(t)は減少する関数で決して増加しない関数であったとして、極小値が存在し極小値を与える分布関数はマックウエル分布に他ならないことを示しました.。マックスウエル分布をH(t)に代入して計算すると、エントロピーの符号を替えたものであることが分かり、エントロピー S=-kHという関係にあることです。これを「ボルツマンのH定理」と呼びます。

それでもボルツマンの友人ロシュミットは、力学の法則は、ある法則のもとで起こるなら逆向きの運動も可能であるはずだとして、Hが減少するような分子運動なら増加する運動もあっていいわけではないかと疑義を呈しました。それに対してボルツマンは分布関数は確率論的期待値であり、最も確からしい変化はマックスウエル分布に接近するし、H関数は減少するのが確率的に確からしいという回答をしました。しかしながら分布関数の変化のうち力学と確率論を併用するという根拠はそれほど確実なものとはみなされなかった。そこでボルツマンはH関数を極小にする分布に向かって変化してゆく過程が熱力学第2法則なのだということを、順列組合せを使って計算しました。この難点は熱学という物理学の分野が他の物理学分野と違って、特異な性格を持っていることからきています。ニュートン力学の運動形態は一意的に決定されものですが、容器内の分子集団の運動(流体力学)は基本的に1個毎の分子の運動を決める必要がないのです。求める情報のレベル(位相)が違ってます。集団として総体としての挙動が評価できればいいのです。一意性は基本的に確率とは相いれないのです。後年20世紀初めの量子力学でも同じように状態の確率論が議論されますが、熱の確率論は手法であって、ニュートン力学と矛盾しないかどうかが問題なのです。確率はある意味では雑、便義の情報を得るための手法です。マックスウエル、ボルツマンの立場はこれに準じます。マックスウエルは1879年「ボルツマンの定理について」という論文で、ボルツマンの着想を讃え、あらゆる方向から困難な問題は検討されるべきだといいます。マックスウエルはボルツマンの優れた理解者で協力者でしたが1879年に残念ながら亡くなりました。分子がある状態に滞在する時間(延べ時間)という観点から、X,Y,Z,;Vx,Vy,Vzのいろいろな値に相当する領域A,B,Cの分子数n(A),n(B),n(C)・・・の一組である位置・速度分布の「期間冲の平均延べ時間(滞在時間)」をボルツマンは計算しました。ボルツマンの着想とは「集団に属する分子の運動がエルゴート性なる性質を持つと仮定してよいなら、位置・速度分布の平均延べ時間に関して一つの基本的な定理が力学的法則に基づいて導かれる」ということです。これを「ボルツマンのエルゴート定理」と呼びます。「延べ時間」という概念は力学的因子である「時間」と、統計的因子である延べ時間(滞在時間)とを関連付ける概念です。この力学的な延べ時間は、分子集団のエネルギー関数(ハミルトン関数)の形が与えられるなら、それから計算されます。つまり「時間を十分長くとると、初期条件に関係なく、ある値に決定される」ということになります。問題の初期条件とは、一般的な初期条件の中では全く孤立した点に過ぎず、大勢には何の影響もないものです。そのうえでボルツマンは「一般の複雑な運動においては集団の全エネルギー一定という条件を満たすような各分子の位置と速度のすべてが(X,Y,Z,;Vx,Vy,Vzのいろいろな値に相当する領域A,B,Cの分子数n(A),n(B),n(C)・・・の一組の値)、一つ一つの運動の過程においてもれなく取られる」という運動を、1887年の論文で「エルゴート的」と呼びました。エルゴートとはギリシャ語で仕事の経路という意味の造語です。(X,Y,Z,;Vx,Vy,Vz)をまとめて1店とする6次元の超空間(位相空間)を考えると、全エネルギー一定という状態を表す代表点の全体は1枚の超曲面を造ります。「代表点は十分長い時間でこの超曲面上のすべての場所をもれな一様にく訪れる」これがボルツマンのエルゴート性の数学的意味です。しかしながらボルツマンのエルゴート性は数学的にありえないと20世紀になって否定され一時は宙に浮いたままになっていたボルツマンのエルゴート性は、1932年バーコフが別の条件でエルゴート定理が成立することを証明し、ボルツマンの業績は確定しました。位置・速度分布の長期平均延べ時間を計算する数学的手続きが得られると、熱力学的立場にふさわしい粗い情報量が提供されます。

このようにエルゴート定理が力学法則と矛盾することはないと証明されますと、ボルツマンのエルゴート定理は一般性を持つことになります。気体分子の位置・速度分布(X,Y,Z,;Vx,Vy,Vz)を一般化するため、ハミルトン力学の一般座標と一般運動量なるものが導入されます。ここでロシュミットが指摘した力学法則の可逆性からH関数が増大することはないかという疑問に対して、ボルツマンは確率論的に答えます。「力学的法則に矛盾することではなく、H関数が減少することが圧倒的に確からしい」、「いろいろな分布のうちマックスウエル分布が圧倒的に確からしい」、確からしいということは「長期平均延べ時間のほとんどを占領する」と同義です。エントロピー S=-kHという関係も、マックスウエル分布のごく近傍でのS値、H値という意味になります。ボルツマンは「非常に多数回衝突が行われた後には結局マックスウエル分布が圧倒的に確からしい」と主張しますが、非常に多数回衝突が行われた後とは、集団の分子数が非常に多く、十分の時間が経過した後はと言い換えなければならない。熱伝導や拡散や内部摩擦を考慮するときはマックウエル的でない分布を対象としなければなりません。それは初期条件を与えたのちごく短い時間を計算する場合です。エルゴート定理を成立させそれを通じて構造的に確率そっくりな量を導かせる素地がニュートン力学の数学構造の中にあったのです。ボルツマンが狙ったことは確率論と力学との関係をはっきりさせたいことでした。ところがエルゴート定理を使って確率論と力学の守備範囲を分けたということの実験的なよりどころは希薄です。そこを論敵マッハやツェルメロによって突かれるのです。ボルツマンのH定理が正しいかどうかをツエ?メロは批判します。H関数はいつかは初期条件に戻るはずだとツエ?メロは主張しますが、ボルツマンはそれは10の3乗に年月がかかると言って反論します。ある場所の球をランダムに抜き取りほかの場所に移す思考実験(順列組合せ理論)でH関数の変化の試行ができますが、微視的には偏りますがH関数が減少するとはバラツキがなくなることです。ある意味ではブラウン運動の不規則性運動理論が後年アインシュタイン(1879−1955年)によって登場しますが、これはボルツマンのH定理の実証となりました。アインシュタインは確率とエントロピーの関係を検討し、平均延べ時間というものがエントロピーとたがいに関係していると指摘しました。ここではエルゴート性の確率論を持ちだして理論の整合性を議論していますが、アメリカの物理学者ギッブス(1839−1903年)の計算手法は、エルゴート定理をマニュアル化しました。そこでは確率は念頭に入れていません。如何にも実用的な方法です。ギッブスの統計力学は「仮想アンサンブル(集団)」ともいいます。マックス・プランク(1885-1947年)は熱力学から量子力学の基になるプランクの公式やエネルギー量子の不連続性を発見しました。理論が認められるには、それまで知られている経験の範囲では正しいことと、理論内部に矛盾がない(整合性がある)だけではなく、理論が理論であるためには素も理論のなかに「こういうことをやれば正しいか間違っているかが分かる」という要素がなければならない。ボルツマンはそこまで予測していない。だから論敵マッハらに突かれるので、アインシュタインやスモルコウスキイらがそれを救った。本書は20世紀の入り口までの物理学の通ってきた苦しみが非常によく描かれた名作ではないかと思う。それにしても数式を用いずに説明することの難しいこと、逆に言うと演算過程でいかに頭を使わないことがよく分かった。


読書ノート・文芸散歩に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system