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C・リード著 彌永健一訳 「ヒルベルトー現代数学の巨峰」
岩波現代文庫(2010年7月) 

20世紀を切り開いた「現代数学の父」ヒルベルトの評伝

ヒルベルト
パナマ帽をかぶってちょっと気取ったヒルベルト(50歳ごろ)

これから本文中で述べることになるだろうが、ヒルベルトの生涯の仕事を概略示しておこう。ダフィット・ヒルベルト(David Hilbert, 1862年1月23日 - 1943年2月14日)はドイツの数学者である。当時プロイセン王国領だったケーニヒスベルク(現在はロシアのカリーニングラード)に生まれた。1885年ケーニヒスベルク大学卒業、不変式論で学位を得た。ケーニヒスベルク大学でヒルベルトは、ハインリッヒ・ウェーバー、フェルディナント・フォン・リンデマンから学んだ。特にウェーバーはドイツ数学の影響をヒルベルトに与えた。また、同大学でヘルマン・ミンコフスキーとアドルフ・フルヴィッツと知り合っている。特にミンコフスキーは「最良にして本当の友人」であったという。1895年、ゲッティンゲン大学教授。19世紀末から20世紀初頭にかけての指導的な数学者となった。主な業績分野としては、不変式論、抽象代数学、代数的整数論、積分方程式、幾何学基礎論、数学基礎論、一般相対性理論 であるといわれている。本書の末尾に、ヒルベルトがなくなった翌年1944年に著したヘルマン・ワイルによる「ヒルベルトとその数学的業績」という93頁の長文の解説文がある。ワイルによるとヒルベルトの数学的活動を年譜で示すと、
@不変式論(1885−1893)
A代数的整数論(1893−1898)
B幾何学基礎論(1898−1902)
C積分方程式論(1902−1912)
D物理学(1910−1922)
E数学基礎論(1922−1930)
になるという。5年から10年のインターバルで興味の中心が変遷したいったようだ。彼の公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれる。1900年のパリにおける国際数学者会議において有名な「ヒルベルトの23の問題」を発表した。さまざまな数学者がこの問題に取り組んだことで、ヒルベルトの講演は20世紀の数学の方向性を形作るものになった。その中には、リーマン仮説など現在も未解決の問題もある。ヒルベルト・プログラムとは、ダフィット・ヒルベルトによって提唱された、数学におけるすべての普遍妥当な論理式を機械的に導出可能とする公理系と推論法則を構築する計画をいう。ヒルベルト計画とも呼ばれる。ヒルベルトは、その証明を形式化することで、数学全体の完全性と無矛盾性を示そうと考えた。具体的には、1.数学において真である命題は必ず証明できること2.公理から形式化された推論をどれだけ行っても、矛盾が示されることは絶対にないということという事実を、有限の立場と呼ばれる確かな方法を用いて証明しようとする計画である。有名なヒルベルトの23の問題の2番目で、実数論の無矛盾性の証明を挙げている。1900年をはさんだ数年間に、数学の一部である集合論においていくつもの矛盾(パラドックス)が発見された。ヒルベルト・プログラムは、単にその矛盾を取り除く(=無矛盾性)だけではなく、今後二度とこのような矛盾が現われないように、数学全体に確固とした基盤(=完全性)を与える目的があった。この計画は、1930年にクルト・ゲーデルが発表した不完全性定理により深刻な影響を受けた。とりわけ「自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば自身の無矛盾性を証明できない(第2不完全性定理)」は、有限な立場のみではあらゆる公理系の無矛盾性を証明できないとするもので、ヒルベルト・プログラムでは自然数論だけでなく、実数論、さらには集合論全体の無矛盾性をも、自然数論のような基本的な体系の上で示すことを目的としていたため、この定理によって大きな修正を迫られることになったまた、彼は弟子の育成にも努め、マックス・デーン、エーリヒ・ヘッケ、ヘルマン・ワイル、ヴィルヘルム・アッカーマン、パウル・ベルナイスなど著名な数学者を輩出することになった。特にヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマンの論文を評価し、当時22歳であったノイマンをゲッティンゲン大学に招いた。日本人では高木貞治がドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。主な著書には、『公理的考察』、『幾何学基礎論』、『数学の問題』、R・クーランとの共著で 『数理物理学の方法』第1巻から第4巻、S・コーン・フォッセンとの共著で 『直観幾何学』第1巻と第2巻、P・ベルナイスとの共著で 『数学の基礎』などがある。1910年にボヤイ賞を受賞した。

ヒルベルトの数学的業績を考える上で「ヒルベルトの23の問題」で問題とした課題を纏めておこう。ヒルベルトのリストは位相幾何学、群論および測度論が20世紀に急速に発展することを予測できていなかったし、それぞれの分野に恒久的な変革をもたらす公理的集合論、ルベーグ積分、位相空間あるいはチャーチの提唱を利用することはできなかったという歴史的制約があった。その意味では、リストは予言的ではなく、単に中途半端な予想だという批判もある。当時の欧州の数学者の小さなコミュニティによりヒルベルトのリストが速やかに受け入れられた。それら問題は綿密に研究され、1つでも解決できれば名声を得ることができたといわれる。パリで発表されたのは以下の10の問題であった。あとの13問題は後の追加である。
第1問題:ゲオルク・カントルによって提起された連続体仮説 「実数の部分集合には(高々)可付番集合と連続濃度集合の二種類しか存在しない。」
1938年にクルト・ゲーデルによってこの仮説が成り立つような集合論のモデルが構成され、もう一方で1963年にポール・コーエンによりこれが成り立たないようなモデルが構成された。両者を総合し、一般連続体仮説と選択公理がZFとは独立であることが示された。
第2問題:算術の公理と無矛盾性 「算術の公理が矛盾を導かないことを証明せよ。」
「算術」(arithmetik)という言葉のせいでしばしば自然数を扱える程度の、と受け取られてしまっている。後者については1936年にゲルハルト・ゲンツェンによって有限の立場に少し修正を施した上での無矛盾性の証明が発表された。
第3問題:等底・等高な四面体の等積性 「等底・等高の四面体の等積性は、連続変形なしで証明できるか」
底面積が等しく、高さが等しい三角錐(より一般には錐体)は体積が等しい。積分のような連続的操作によらず、これが証明できるかどうかと言うのが設問の動機である。即ち、底面積と高さの等しい二つの四面体A、Bがあるとするとき、有限個の四面体の組X1…Xnで、それらをパズルのピースのようにうまく組み合わせるとAにもBにも合同になるような組が常に存在するかという事である。二次元の場合、つまり三角形の場合はこれが可能である(ボヤイの定理)。この問題はデーンによって、否定的に解決された。
第4問題:直線が最短距離を与える幾何学の組織的研究 「公理がユークリッド幾何学に近い幾何学を求めよ。ただし行列の定理は保持し、合同定理は弱まり、平行線定理は省略されるものとする。」
ヒルベルトは問題発表時、自身の研究により既に問題にあるような幾何学を得ており、その上での問題発表となった。 この問題は1901年にハメルによって解かれたが多くの制約を余儀なくされた証明法だったので、1929年にヒルベルトの弟子フンクがこれを改善したものを発表した。また1943年にはビュースマンも改善に成功し、問題を測地線の幾何学に一般化した。
第5問題:位相群がリー群となるための条件 「関数の微分可能性を仮定しないとき、リーによる連続変換群(リー群)の概念は成立するか。」
この問題は1930年にノイマンによって証明されたのを皮切りに、 その後1952年にはグリースン、以降モントゴメリ、ズイッピンらによっても解かれた。最終的には1957年にグラスコフが完全な形での証明を発表した。
第6問題:物理学の諸公理の数学的扱い 「物理学は公理化できるか。」
ヒルベルトは「確率と力学」を物理学者による理論立てを数学者によって検証することによって仮説を立証するという一連のシステムの構築を望んでいた。 そのためこの第六問題は(確かに数学の範疇ではあるが)数学的問題を逸脱した部分が多く、数学と言うよりむしろ物理学に重きを置いている。そのため、その証明も力学や熱力学の権威の功績によるものが大きく、しかも「証明」というよりは「発展」に近いものである。
第7問題:種々の数の無理性と超越性
1.二等辺三角形の底角と頂角の比が代数的無理数(代数的数でありかつ無理数であるもの)である場合、底辺と側辺の長さの比は超越数か
2.自明な例外を除き、代数的数a、代数的無理数bに対し、a^bは超越数か
後者はアレクサンダー・ゲルフォントによって肯定的に解かれた。
第8問題:素数分布の問題、特にリーマン予想が正しいこと。すなわちゼーター関数という関数のゼロ点が負の整数を除いて、実部が1/2であること。
第9問題:一般相互法則
第10問題:ディオファントス方程式の可解性の決定問題
1970年、ユーリ・マチャセビッチが否定的に解決。ディオファントス方程式がどのような場合に整数解を持つかを決定付けるような一般的な解法は存在しないことを示した。
第11から第23の問題は表題だけを示す。第11問題:任意の代数的数を係数とする二次形式  第12問題:類体の構成問題 第13問題:一般7次方程式を2変数の関数だけで解くことの不可能性 第14問題:不変式系の有限性の証明 第15問題:代数幾何学の基礎づけ 第16問題:n次代数曲線および曲面の相互位置すなわち位相の研究 第17問題:定符号の式を完全平方式を使った分数式で表現すること 第18問題:結晶群・敷きつめ・最密充填(球充填)・接吻数問題 第19問題:正則な変分問題の解は常に解析的か 第20問題:一般境界値問題 第21問題:与えられたモノドロミー群をもつフックス型線形微分方程式の存在証明 第22問題:ポアンカレ―の保型関数による解析関数の一意化 第23問題:変分法の研究の展開

本書の著者コンスタンス・リードはアメリカの女性で、数学関係者の伝記作家として活躍した。妹に女性として初めて全米数学会の会長を務めたジュリア・ホール・ボウマン・ロビンソン(1919年 - 1985年)という数学者がいる。序に書かれた著者の言によると、本書はヒルベルトの学生たちによる手記によるところが大きく、とりわけヒルベルト60歳の誕生を祝して書かれたオットー・ブルメンタールの伝記記事や、ワイルによる本書に採録された「ヒルベルトとその数学的業績」が重要であったが、多くの数学。物理学関係者の記憶に基づいて(聞き取り)書かれたという。また本書は1970年ヒルベルトになじみが深いシュプリンガ−出版社から刊行され、日本語版が1972年彌永健一訳で岩波書店から刊行された。2010年7月に岩波現代文庫に入れられた。訳者彌永健一氏は日本の数学者彌永 昌吉(1906年4月2日 - 2006年6月1日)の長男と言った方が分かりが早い。健一氏も数学者で東京商船大学・商船学部・教授であり、フィールズ賞受賞者の小平邦彦を叔父に持つ彌永家は数学者一家である。健一氏はセールの「数論講義」の翻訳で有名である。本書を紹介するにあたって、文庫本にして425頁という分厚い量であるためと、私自身が数学をよく知らない(興味はあるがついてゆけないだけ)ので、いわゆる年譜形式でヒルベルトに影響を与えた人、影響を受けた人、ライバルたちの交友関係を中心にまとめ、そして数学的業績の簡単な記述をしてゆきたい。章別けの題名は本書からそのまま取り、それに年譜を添えて、交友関係と数学的業績を記すという形式で進めたい。

1)  「青年時代」 (1862年〜1879年) ギムナジウム卒業まで

1862年1月23日、東プロイセンの首都ケーニヒスベルグ(現ロシア領)において、父オットー・ヒルベルトの長男として類まれな才能の持ち主の男の子が誕生した。名前はダーフィットと名付けられた。ヒルベルト家は17世紀は工芸を商いとする、プロテスタント敬虔派に属していた。18世紀レース業者として成功し、以降ヒルベルト家は医者や弁護士を輩出する知的専門職を身に着けた職業についていた。ダーフィットの祖父は裁判官であり枢密院顧問官の称号を持った。父オットーは裁判官であった。親戚には弁護士、ギムナジウムの校長といった社会的地位の高い人々がいた。ケーニヒブルグには偉大な哲学者カントの墓があった。ダーフィットが8歳になって学校生活が始まった。王立フリードリッヒ高等専門学校予備校でギムナジウム神学準備に入った。1872年(ダーフィット10歳)には進学準備は終了したが、ヘルマン・ミンコフスキーという生涯の親友となる異才に巡り合ったのである。ヘルマンはダーフィットより2歳年下であった。ミンコフスキー家はユダヤ系で、ヘルマン少年の数学的才能は群を抜いていたそうである。そのころのヒルベルトには王立フリードリッヒ高等専門学校において特別な数学の才能があったという噂はなかった。1879年(17歳)ヒルベルトはウイルヘルム・ギムナジウムに入学した。ギムナジウムではヒルベルトは自由な教育を受け、数学的才能が養われていった。ギムナジウムでの成績は最高位の優であった。

2) 「友人たち・教師たち」 (1880年〜1882年) ミンコフスキー、フルヴィッツとの出会い

1880年秋にヒルベルトが入学したケーニヒスベルグ大学はベルリンから離れていたとはいえ、自然科学分野ではドイツ有数の伝統を誇っていた。ヤーコビ、リシュロ、ワイヤーシュトラウスの数学者の伝統があり、フランツ・ノイマンが理論物理学教室を始めた。ヒルベルトが入学した時にはすでにヤーコビ、リシュロは亡くなっていたが、ノイマンは健在であった。当時の大学には必修科目、最低単位数の制度はなく、授業出席の義務もなかったという。学びたい科目を自由に選択することができたし、別の大学へ移ることも自由であった。19世紀後半の数学界は、19世紀前半の疾風怒濤の発展期を過ごし、ようやく確固とした数学の基盤が整えられていった時代であった。連続関数の最大値最小値定理で有名なワイヤーシュトラウスらによって論理的厳密さを獲得していった時代であった。カントルが集合論を構成しつつあり、無限の概念が数学に波紋を広げた。ヒルベルトはハイデルベルグ大学におもむきフックスの授業を受けた。当時のベルリン大学でワイヤーシュトラウス、クンマー、クロネッカー、ヘルツホルムと言った綺羅星のような人々から学ぶことも可能であったが、ヒルベルトはケーニヒベルグ大学に戻り、数学教授のハインリッヒ・ウェーバーから整数論と関数論、不変式論を学んだ。1882年親友ミンコフスキーがベルリンからケーニヒスベルグ大学にやってきた。ミンコフスキーはベルリン時代に17歳の若さでパリアカデミーの提出した問題「自然数を5個の平方数の和として表す」を解いて、パリアカデミーの数理科学大賞を獲得したことが、ケーニヒスベルグ大学に伝えられ学生たちを大いに刺激した。ヒルベルトとミンコフスキーは深く数学を愛する楽観論者であった。すべての数学的問題は解決可能(否定的結論を含め)であるという確信は、リンデマンが長い間の問題であったπの超越数が証明したことによって、さらに確たるものになってきた。リンデマンはウェーバーがケーニヒスブルグ大学からシャーロッテンベルグに移ったとき、彼の後継者となってケーニヒブルグに迎えられた。しかしリンデマンはヒルベルトとミンコフスキーには影響を与えなかった。1884年ケーニヒブルグに助教授として招かれたアドルフ・フルヴィッツ(25歳で)こそがヒルベルトにとっての教師となった。フルヴィッツとヒルベルトとミンコフスキーは3人そろって散歩を楽しむ仲となり、数学が直面していた問題を語り合う知的刺激にあふれた時間を過ごした。

3) 「博士論文 Ph・D」 (1883年〜1885年) 代数的不変式と研究者としての旅立ち

Ph・D取得のため博士論文をリンデマン教授に相談したところ、代数的不変式の整理理論をヒルベルトに与えた。この代数的不変式とは17世紀デカルトが始めた解析幾何学にもとずくものである。幾何形式を3次元座標で表現するもので、座標の上での回転、移動、射影幾何などの種々の変換群によって不変な代数的量の研究である。すぐれて抽象的であったため、幾何学的アプローチを凌いで、代数的取扱いが数学者たちの興味を引いたのである。イギリス人アーサー・ケイリ−とジョセフ・シルベスターが創始者であるが、ドイツ数学界でもこの理論はすぐに広がった。ヒルベルトの方法は独創的で1884年12月には口答試問に合格し、1885年2月昇進式では「カントによる算術的判断のアプリオリ性理論に対する反論の不当性」を詳述してPh・Dを獲得し、ヒルベルトの学者としての生活の第1歩を踏み出した。しかし理学博士という称号だけでは学生に講義することはできなかった。さらに「教員資格」という私講師として無給で講義する資格を得る必要があった。1885年ヒルベルトは23歳で国家試験にパスした。ミンコフスキーも同年Ph・Dを取得し兵役で大学を離れた。フルヴィッツはヒルベルトにライプチヒのクライン教授を訪問することを勧めた。クラインは23歳の時すでにエルランゲンの正教授であった。クラインは幾何学をリーマンの群論によって分類統一する研究を行い、そして彼の興味の対象は数学のすべての分野に及んでいる。なかでも保型関数の業績は著しいものがある伝説上の人物で、当時まだ36歳の若さであった。保型関数についてそのクラインのライバルがフランスのアンリ・ポアンカレ―であったが、完全にポアンカレ―に打ちのめされ、クラインはガウス、ディリクレ、リーマンの伝統を持つゲッチンゲン大学に移った。ヒルベルトはエルランゲンを訪問し、不変式論の王者パウル・ゴルダンに面会した。クラインに勧められて1886年3月ヒルベルトはパリに向かった。ヒルベルトにとってクライン教授は生涯の師となる重要な人物であった。

4) 「パリ」 〈1886年) フランス訪問 ポアンカレー、エルミートとの出会い

ヒルベルトはクラインの勧めによりポアンカレ―を訪問した。ポアンカレ―のポテンシャル論と流体力学の講座に出席した。ヒルベルトはあまり影響をうかなかったようである。むしろモーリス・ドカーニュに強い印象を受けたと言っている。フランスの数学者の中で最も魅力的な人はエルミート〈(1822−1901)であったという。エルミートはエルミートの多項式で知られ、ネピア数が超越数であることを示したことで有名であった。彼からヒルベルトは不変式論の未解決な問題「ゴルダンの問題」を知らされた。1886年6月末ヒルベルトはパリからの帰国途中で、ゲッチンゲン大学に立ち寄りクライン教授にパリ訪問報告をした。ベルリンにも立ち寄り、人々から恐れられていたレオポルド・クロネッカーにも会った。クロネッカーは当時63歳でクンマーのあとベルリン大学の正教授になっていた。彼は数学よりは哲学論議が得意で、当時の数学の大部分がその基礎において不十分であるという持論を展開した。特に数の連続性の基礎づけに問題があったという。実数の連続性は19世紀に入ってコーシー、カントル、デディキントらが基礎づけた理論である。クロネッカーは無理数、超越数とくにリンデマンのπの超越性を激しく攻撃した。ワイエルシュトラウスやカントルはクロネッカーの集合論攻撃に根をあげたという。結局ヒルベルトは東プロイセンのケーニヒスベルグという田舎町で数学教師の道を選択した。

5) 「ゴルダンの問題」 (1886年〜1892年) ケーニヒスベルグ大学講師時代

ヒルベルトは教員資格を得て、ケーニヒスベルグ大学で私講師となった。学生の数は少なく講師の数と同数であったという。ミンコフスキーはボン大学で講師生活をしていたが、孤独で数学を語らう友はいなかった。ミンコフスキーはヒルベルトとの手紙で交友を深めていた。1888年ヒルベルトはエルランゲンのパウル・ゴルダンを訪問した。「不変式論の王者」という異名を得たゴルダンとの会話は不変式論の関する話が中心であった。「ゴルダンの問題」とは不変形式の位数と次数を与えた時にその内部構造がすべて決定されるという問題に対して、ゴルダンは20年前に不変式の基底すなわち基本不変式の存在を証明した。当時は誰も2変数以上の一般問題として解を得ていなかった。ヒルベルトはゴルダンと会ってすっかり不変式論の意義と重要性について認識した。ヒルベルトはゴルダンの定理が統一的な方法で任意変数の形式で成立することを証明した。有限個の同時形式が、最初に与えらえれた変数の多項式を係数とする1次結合で表されるという。これを論理的必然によって存在しなければ矛盾をきたすという背理法で証明したのである。ただこの背理法はどのようにして解を構成するかを明らかにしたわけではないので、リンデマンやゴルダンを不快にさせ、その意義を認めたのはクラインだけであった。ヒルベルトは一定の数学的概念の属性が論理的矛盾をもたらすものでなければ、その概念の存在は証明されるという信念を生涯を通じて持ち続けた。重要なことはヒルベルトによって代数的問題に数論的方法が適用されたことである。私講師時代の2年間にヒルベルトはさらに代数的形式に関する論文を2篇書き、さらに1890年には諸論文を統合した論文をAnnalenに送った。この頃にはゴルダンはヒルベルトの定理に別証を得てヒルベルトの功績を認めた。さらにヒルベルトは存在定理よりも実際の不変式系の有限基底の存在を構成的方法によって証明することに取り組んだ。1892年までの2年間の研究によって、代数的数論のアイデアを導入した。1892年にはケイリ−以来の不変式論はヒルベルトの仕事によって終わりをつげ、ヒルベルトは不変式論を卒業した。

6) 「変貌」 〈1893年〜1894年) ケーニヒスベルグ大学助教授・教授時代 代数的整数論

1892年6月ごろヒルベルトにミンコフスキーから連絡がもたらされた。ベルリン大学で大学行政のすべての実権を持つフリードリッヒ・アルトホフが考えていることが示されたのである。フルヴィッツがスイス工科大学の正教授になるので、ヒルベルトがフルヴィッツの後に助教授の席を得る可能性が示されたのである。8月教授会はヒルベルトの助教授昇進を決定した。そして1892年10月にヒルベルトはケーテと結婚した。ミンコフスキーも同時期にボン大学の助教授になったが、ハインリッヒ・ヘルツが病に倒れたのち物理学に足する興味を失い昔の整数論に立ち戻った。彼は有理数に対する代数学的予測を幾何学用語で表現するという成果を上げた。1893年になってヒルベルトはeとπの超越性についての新しい証明法を開始した。係数がすべて整数であるn次方程式の根になる数を代数的数といい、そうでない数を超越数という。1844年リウヴィルが超越数の存在を示し、1873年エルミートはネイピア数eが超越数であることを示し、1882年リンデマンがπも超越数であること示した。そのほか三角関数の値や対数なども超越数であることが分かった。つまり超越数は何乗しても、またそれらをいくら巧みに組み合わせても有理数(整数の比で表せる数)にすることができないのである。ガウスは整数論を科学の頂点の位置するものとみなした。ガウスは一般に「体fieldの概念」を導入した。ヒルベルトは不変式論を終えて整数論に身をささげるつもりだとミンコフスキーに語った。自然数論を代数的整数論に拡張しようとするとき、大多数の代数体においては、任意の数が素数の積として一意的にあらわされる定理が成り立たない。この難題をクンマーは「理想数」の概念の導入で乗り越えた。その後素イデアルの積への分解定理のクロネッカーと、デデキントの定理の2通りの方法があった。1893年ヒルベルトはミュンヘンで行われたドイツ数学会に出向いた。数学会の企画としてヒルベルトとミンコフスキーに整数論の現状と題する報告書の作成を2年間でまとめてもらうことになった。クンマー、クロネッカー、デデキントらの業績が錯綜して、大多数の数学者に理解できなかったからである。クライン教授と友人の行政官アルトホフの相談で玉突き人事が構想された。リンデマン教授がミュンヘン大学に去ることになり、そのあとをヒルベルトが継ぎ、ヒルベルトの後の助教授にミンコフスキーがなるという人事であった。1894年からミンコフスキーがケーニヒスベルグに来て数論に関する報告書に取り掛かった。ミンコフスキーが有理整数論を扱い、ヒルベルトが代数的整数論を受け持った。彼らは1894年の1年間でこの仕事の基礎を固めた。その年の12月ゲッチンゲン大学のクラインからヒルベルトに親書が届いた。ゲッチンゲン大学のウェーバー教授がシュトラスブルグに行くことになり。後任としてヒルベルトが推されているという知らせであり、受諾の意思を問い合わせてきた。むろんヒルベルトには異論はなかった。そしてまた玉突き人事が繰り返された。ミンコフスキーがケーニヒスベルグのヒルベルトの位置を継いだ。

7) 「数論、ただそれのみ」 (1895年〜1897年) ゲッチンゲン大学教授

ゲッチンゲンの偉大な科学的業績はカール・フリードリッヒ・ガウスに始まる。ヒルベルトはガウス以降100年を経て1895年3月にゲッチンゲン大学に入った。ヒルベルトはここで威風堂々とした師クライン教授と並んだことになる。証明は学生がやることであるとして授業ではスケッチ程度にとどめたたクラインとは違って、ヒルベルトは丁寧に学生が分かるまで繰り返したという。今ゲッチンゲンでは数論の報告書の担当部分の作成に全力を尽くした。ケーニヒスベルグではヒルベルトの後を継いだミンコフスキーがカントルの無限論を講義したが、カントルの評価は良くなかった。ミンコフスキーの報告書担当分では着手に後れたうえ連分数に手間取って困難を極めていた。ヒルベルトにとって数論は今や代数学及び関数論の中で主導的位置を占めるようになっていた。代数的整数論の組織的な構成によって、理論の連続的な発展が可能になるという確信に基づいていた。1896年にはヒルベルト担当分はほぼ完成したが、ミンコフスキーの分は遅れていたので、ヒルベルトは切り離して報告書を完成し刊行した。1897年4月「代数的整数論」に関する報告文は完成した。この報告書でヒルベルトのなした寄与は、「ヒルベルトの定理90」として知られるホモロジー代数であるが、これは代数幾何学や代数的トポロジーで重要な役割を果たした。報告書の仕事が終わってヒルベルトは相互作用の代数体への拡張の問題に取り組んだ。2次相互法則はルジャンドルそしてガウスによって平方剰余体について証明されたが、ヒルベルトは一般的な関係を求めた。アーベル拡大体に関してはクンマー、クロネッカーによる楕円関数の法則があった。2次以上の相互法則がとるべき形の予測を1898年に「相対アーベル拡大体の理論」として発表した。これはあくまでプログラムであるが、「類体論」の方法と概念を提出したのである。この代数的整数論は直感理論の最後の発展段階をなし、ヒルベルト自身は突如として方向を転じた。

8) 「テーブル、椅子、そしてビール・ジョッキ」 〈1898年〜1899年) 幾何学基礎論

1898年ハルレで行われたH・ヴィーナーの幾何学の基礎と構造という講義を聞いて、「点、直線、平面という言葉の代わりに、テーブル、椅子、そしてビール・ジョッキと言い換えることができなくてはね」という意味ありげな言葉を吐いたという。そして1898年〜1899年にかけてヒルベルトは「幾何学の基礎」と題する講義を行った。ヒルベルトが幾何学へのアプローチを始めるとき、幾何学は一見して自明な命題と、論理学的な方法で得られた命題が混在している有様であった。紀元前3世紀にユークリッドがほぼ1ダースの公理と定義のみを用いて500以上に上る数の幾何学的命題または定理を導いた。自明とは言えない公理もあるがユークリッドの「原論」という体系は2000年以上人々から疑われることもなく存在したということが驚異的である。あいまいな点というのは、ある特定の作図において2つの直線が交わるというたぐいの視覚的認識に基づく仮定である。平行線の公理も自明かどうか確かめようがないが、ヒルベルトは背理法によって無矛盾性という概念を導入した。ガウスは1800年ごろユークリッドの平行線の公理の否定は必ずしも矛盾を導くものではないとかんがえ、ユークリッド幾何学以外の幾何学も可能であると感じていた。1830年代に直線外の1点を通って平行線は無数に引くことができるという、ロシアのロバチェフスキーとハンガリアのJ・ボヤイの2人の数学者が現れた。そして3直線がなす3角形の内角の和は2直角にはならなかったにもかかわらず新しい幾何学は論理的な矛盾を含まなかった。非ユークリッド幾何学の始まりである。球体幾何学はその端的な例である。1870年フリックス・クラインはユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の関係と対象は同一であると示した。高度に抽象的な論理体系は並立するのである。モリッツ・パッシュは幾何学を純粋な論理的構文の操作の問題に帰着させた。ペアノは記号論理学の記法による翻訳を試みた。完全に抽象的なシンボル化に向かう幾何学の潮流が起った。ユークリッドによる点、線、面の定義は数学的には意味のないことで、それらと選ばれた公理との関係によって規定されるという。ヒルベルトは講義の中で、簡潔で完全で互いに独立した公理系を築こうとした。ヒルベルトによって抽象的視点と具象的な旧来の語法の独創的な結合は成功した。小平邦彦著 「幾何への誘い」(岩波現代文庫 2000年)はそれでもなお図形の科学としての意義を強調している。ヒルベルトの講義は1899年に「幾何学基礎論」として刊行された。ポアンカレーはこの著書を名作であると解説した。ヒルベルトは公理系が次の論理学的要請を充たすものでなければならないとし、完全性、独立性、無矛盾性をあげた。ヒルベルトにおいては、最後の無矛盾性の証明のみが、理論の直感的真実性にとって代り得るものであった。

9) 「諸問題」 〈1900年) 「ディリクレの原理」 第2回国際数学者会議の準備

ヒルベルトは幾何学基礎論を出版後、ゲッチンゲン大学の数学的伝統であった著名な問題「ディリクレの原理」に取りかかった。ラプラース方程式の境界値問題の解の存在を、ガウス、ディリクレ、リーマンを始め誰も自明のものとして疑わなかった。物理的状況では常に解が存在するからであった。ガウスは偏微分方程式で2重積分の値は常に正で下限値が解であろうとした。1851年リーマンはこれを「ディリクレの原理」と名付け直感的な連続性に関する理論を確立した。しかしワイエルシュトラウスは実際にある関数が存在しその積分値が最小になるということを、証明なしで認めるわけにはゆかないと主張した。物理的に自明であっても数学的に証明されなければ、厳密な数学的構造の究極的確実性を保証できないというのである。数学の厳密性によってのみ方法の簡単化がおし進められると信じていたヒルべルトはリーマンから50年経過した時点で、1899年「ディリクレの原理」を救出する理論の構成に向かった。ヒルベルトは曲線と境界値に関する一定の条件を考えることでリーマン理論の美しさを損なわずに証明できることを示した。このヒルベルトの論文に刺激された物理学者ワルター・リッツは「ディリクレの原理」を使って、偏微分方程式の数値的解法を工夫し、この方法によって今日計算機で数値解が得られるようになった。1899年から1900年にかけてヒルベルトは初めて変分法の講義を行った。解析学の一分野であるが極値問題を扱うが、曲線、関数または関数の系であった。多岐にわたるヒルベルトの活動に対して、第2回国際数学者会議で講演の依頼が来た。講演の主題についてミンコフスキーに「新世紀の数学の発展の方向」になるかもしれないと連絡したという。題して「数学の諸問題」についてその内容の検討に入った。

10) 「数学の将来」 〈1900年) パリソルボンヌ大学講演会の内容

「新しい世紀が、広く豊かな数学的思想の廣野の前にさらにどのような新たな方法と事実とに関して扉を開くであろうか」で始まる1900年パリのソルボンヌ大学で行われた第2回国際数学者会議での講演内容はアメリカ数学者協会から刊行された。講演内容の概要を次に記す。
「問題をなくしたらその分野の独立的発展はなくなる。問題を解決することで探究者の能力は高められる」
「ある問題がどのような価値を持つかをあらかじめ知ることは困難である。数学の理論が完全かどうかは明快であるかどうかである。明快で容易な事柄は我々を惹きつけ、複雑なものは我々に嫌悪の念を抱かせるからである。」
「数学的問題は全く歯が立たないようであってはならない。最終的に我々を問題の解決に導くものでなくてはならない。」
「変分法はベルヌーイの最短下降曲線の問題に起源をもつ。メルセンヌ、パスカル、フェルマ、ヴィヴィアニらの解析学者によって切り開かれた。」
「フェルマはディオファントス方程式x^n+y^n=z^nは一般的な解を持たないことを主張した。フェルマの問題に刺激されて理想数の概念の導入、素イデアル論の一意的分解則の発見があった。デデキント、クロネッカーらが近代的抽象論的整数論を開いた。」
「3体問題についてポアンカレは今日用いられている天文学的方法を切り開いた。」
「特定の問題解決が予期されないような数学的分野に関連してくることがある。最短下降曲線の問題は幾何学基礎論、曲線及び曲面論、力学において重要な役割を演じた。クラインの正20面体に関する仕事は幾何学、群論、方程式論、そして線形微分方程式論において重要な役割を果たした。」
「古い問題は経験に根ざし自然科学によって示唆されてきた。倍積問題、円積問題、方程式の数値解、曲線論、微分積分法、変分法、フーリエ級数論、ポテンシャル論、力学、天文学、物理学の諸問題は言わずもがなである。」
「数学の精神は自ら新しい問題の数々を創出した。素数の問題、整数論、ガロアの方程式論、代数的不変式論、アーベル関数、保型関数論など実に近代数論と関数論のほとんどの問題がこうして生まれた。これは経験と思惟との相互作用によると考えられる。」
「数学的解が充たすべき一般的条件は、問題に叙述に含まれる有限個の仮説に基づき、有限個のステップによって証明され、そして正確に定式化されなければならない。推論の厳密性が担保されなければならないということである。厳密な方法は同時により簡潔な証明法を発見することである。これにより解析学の諸方法が簡潔で使いやすいものに洗練された。」
「新しい概念には必然的に新しいシンボルが対応する。幾何学的図形は空間認識のシンボルとなった。べクトル場、微分方程式論、微分幾何学、変分法、純粋数学の様々な曲線を思い浮かべる際に幾何学図形・シンボルの助けが必要である。幾何学的イマジネーションを排除しては代数的思考シンボルを理解することも困難である。ミンコフスキーの数の幾何学がその例である。」
「数学的困難を乗り越える上で、相対的な立場を認識することがポイントになる。見通しのいい方法が解を助けるからである。コーシーによる複素数平面の上を通る積分路の導入や、クンマーの数論におけるイデアルの概念の導入がその例である。」
「数学的問題を扱う上で問題の特殊化は重要である。1,2の簡単な例で成功しなければ一般化はとてもできない(演繹法)。不十分な仮説では解を求め得ないことがある。与えられた条件では不可能であることを証明する必要がある。古来不可能の証明は数多い。条件を変えると(限定すると)解ける場合がある。平行線の公理、円積問題、5次方程式の解などがそれである。」
「すべての問題が解決であるという公理は、ただ数学的思惟のみに固有である。数学には不可知は存在しないという楽観論はヒルベルトの墓碑にも記されている。我々は知らねばならない。我々は知るであろう。」
最後にヒルベルトはミンコフスキーとフルヴィッツの助言により、原稿に記された23の問題の内10の問題についてだけ話した。23の問題は本稿の最初に纏めておいたので繰り返さない。

11) 「新世紀」 (1901年−1902年) ゲッチンゲンの数学者たち

ソルボンヌでの講演は当時の欧州の数学者のコミュニティに速やかに受け入れられた。それら問題は綿密に研究され、1つでも解決できれば名声を得ることができたといわれる。ヒルベルトは今やポアンカレ―についで有名人になった。第2回国際数学者会議の後ヒルベルト自身は依然として幾何学諸問題の研究をつづけたが、ほとんどは解析学の問題であった。算術と代数学では計算はただ有限回に関わるものであるが、解析学においては連続の概念が扱われ、かつ数の無限列が一定の極限に収束することを証明しなければならない。公理主義方法論のヒルベルトは、解析学的理論を成り立たせている唯一の収束条件に興味を持った。そのなかで1901年スウェーデン人イヴァル・フレドホルムは積分方程式論の論文を出した。積分方程式は数理物理の分野の連続体の振動に関係していたが、変分法の研究と密接に関係すると察したヒルベルトは、これまでのプログラムを捨て去り、積分方程式論に努力を傾注した。この年日本から高木貞治がゲッチンゲンに留学してきた。ヒルベルトの類体論を学ぶためである。しかしヒルベルトの興味はそこにはなかった。また同時期にエアハルト・シュミットがゲッチンゲンにやってきた。ベルリンからコンスタンツ・カラテオドリがやってきた。ヒルベルトの名は数学者としていやがおうでも高まっていた。そしてドイツ政府より枢密院顧問官の称号を得た。ヒルベルトは1902年40歳を迎えクラインとの協力関係に満足していなかった。ほとんど行政官のようなクライン教授の教育の仕事にはヒルベルトは興味を示さなかった。そこへベルリン大学のラツァルス・フックスの席が死去によって空白となり、ヒルベルトが推されていることが分かったが、ゲッチンゲンを去る気にはなれなかったという。そして行政官アルトホフとクライン教授の支持を得てゲッチンゲンの新しい教授の席を用意し、スイスのチュリッヒにいたミンコフスキーを呼び戻すことになった。ミンコフスキーが感謝したことは言うまでもない。

12) 「第2の青春」 (1902年〜1905年) ミンコフスキーの数論とヒルベルトの積分方程式

1902年秋ミンコフスキーはゲッチンゲンに着任した。クラインとセミナーを続けると同時にヒルベルトはミンコフスキーと共にセミナーを持つことになった。こうして二人の第2の青春時代コンビが復活した。日曜日ごとに二人の家族や子供が加わってピクニックやパーティに興じた。ミンコフスキーのトポロジーの講義はどもりがちで学生からは「真の数学的詩人」と親しまれた。ミンコフスキーの研究によってドイツは再び数論の世界的中心となった。ヒルベルトは積分方程式論一つに専念し、フレドホルムの問題で論文を提出した。これにより解析学および数理物理学の諸問題の解決に見通しのいい線形問題の解法を得た。1903年18歳のヘルマン・ワイルがゲッチンゲンにやってきた。ヒルベルトの数の概念と円積問題のコ−スを選択した。またマックス・ボルンが学生としてゲッチンゲンにやってきた。今やゲッチンゲンはドイツ数学のメッカとなった感があった。学生にとってヒルベルトとミンコフスキーは偉大な仕事をなしとげつつある「英雄」として、クラインは「遥かなる神」として映ったようである。クラインはゲッチンゲンを科学の世界的中心とする仕事に埋没し、経済界と科学的専門家のための「ゲッチンゲン協会」を組織した。1904年応用数学の助教授の席が空いた時、クラインはアルトホフにこの専門分野の教授を設けるように勧めた。ハノーヴァーにいた実験物理学者カール・ルンゲが招かれた。1905年にはゲッチンゲン数学グループン教授は4人となった。クライン、ヒルベルト、ミンコフスキー、ルンゲの4人は毎週木曜日の午後3時に散歩をすることにしていた。講師にはオットー・ブルーメンタールエルンスト・ツェルメロがいた。このツェルメロからヒルベルトに集合論の矛盾が穏やかならぬことを指摘した。倫理学者バートランド・ラッセルの指摘と同じ内容である。ツェルメロとラッセルは独自に「それ自体を元として含まないような集合全体のなす集合に関する問題」を提出した。1904年ヒルベルトは「この背理は、数学にとってまさに破局をなすような効果」を与えたという。集合論の始祖フリーゲ、デデキントは敗北を認めたという。クロネッカーは「伝統的論理学の諸概念と方法論は、集合論が持つ要請にこたえられない」と主張した。1904年夏に第3回国際数学者会議が行われた折、ヒルベルトは一時積分方程式論から離れ、数学基礎論に取り組んだ。クロネッカーによると整数だけが数学の基礎であり、数学的概念の実在性を保証しうる唯一のものは、有限個の整数を用いることによって構成されるという厳しい数学概念の制限論を説いた。ハイデルベルグでのヒルベルトの提案は、数学史上初めて証明その物をs数学的研究のテーマとすべきという主張であった。ポアンカレ―はこれに不賛成で、完全な帰納法以外に数学はないといった。そしてヒルベルトはハイデルベルグのことは忘れたかのように、積分方程式論に戻り、ミンコフスキーとともに古典的物理学研究を始めた。ミンコフスキーはローレンツの電気力学に惹かれたが、ヒルベルトは積分方程式論に専念した。解析学における固有関数と固有値の関する理論を展開した。「ヒルベルトの解析学における業績は既存の見通しのきかない分野に、秩序と簡明さをもたらすような洞察にある」とヒルベルトの弟子であったリヒャルト・クーラントが後になって述べている。

13) 「熱情的な科学者生活」 (1906年〜1907年) ヒルベルト空間

20世紀初め数学者にとってゲッチンゲンは文字通り世界の中心となった。世界中から留学生が殺到したといっても過言ではない。ヒルベルトは今やドイツ数学の指導者となり、個人的な助手を使って講義の準備、講義ノートの作成、資料や文献調査にあたった。助手制度は最初は主に実験科学に属する人に限られていた。クラインは図書室に属し有給書記を置くことができるよう細工した。ヒルベルトの助手は最初は無給だった。日本の今日の大学でいえば、オーバードクターのような不安定で曖昧な存在で、それでも助手は有給である。キャリアーと学識を得るため有力な教授の薫陶を受けることは損得なしに貴重であったといえる。ヒルベルトは当時ボルンを助手とした。ミンコフスキーとヒルベルトとボルンは討議しながら講義の準備を行った。講義についてはヒルベルトは大雑把な準備ですませたので、大成功の講義は3回に1回ぐらいで、たいていは教壇でヒルベルトは立ち往生し大失敗に終わったそうである。ミンコフスキーとのセミナーでは、1905年になって物理学の一部である運動体の電気力学(同時代にベルリンのアインシュタインは特殊相対性理論を生んだ)にテーマは絞られた。ミンコフスキーはほとんど完全に電気力学の研究に専念した。アインシュタインはミンコフスキーのできの悪い学生の一人でいつも授業をさぼっていたそうだ。パリの科学アカデミーは1905年より非ユークリッド幾何学のボヤイをたたえて賞金付きのボヤイ賞を設けた。第1回の受賞者はアンリ・ポアンカレ―が選ばれた。ヒルベルトは無次元空間の理論で後の「ヒルベルト空間」の理論として知られる研究をしていた。2次形式の代数的理論を2変数からさらに有限個の変数へ拡張する際、変数の組はn次元空間と呼ばれ、特に収束についての考察が必要で、一般化は簡単ではなくなった。ヒルベルトは極めて抽象的な解析学的結果に、幾何学的定式化を与えて空間的的イメージによって理解と見通しを得た。かれはこれを「スペクトル論」と呼んだ。この時期になるとヒルベルトの助手には俸給が出され、さらに推敲者を置くことができるようになった。講義ノート作成のための助手であった。後に卓越した物理学者となるエーワルドが推敲者となった。ヒルベルトが無限変数理論を出してから1年後に、彼の弟子であったベルリン大学講師のエアハルト・シュミットがさらに師より洗練された形の解決法を示した。

14) 「空間、時間そして数」 (1908年〜1909年) 相対性理論と物理との出会い

1908年ヒルベルトは46歳、ミンコフスキーは44歳であった。この年ヒルベルトは精力的な状態から虚脱状態に落ち込んでいたが、ミンコフスキー創造力にあふれ、ケルンで開かれたドイツの科学者・物理学者協会の年会で「空間と時間」という題で講演を行った。ミンコフスキーは特殊相対性理論に際立って簡明な空間と時間の数学的アイデアを導入し、同じ現象の異なった記述が数学的に明確に表すことができた。3次元空間は時間を入れた4次元空間の始まりとなった。数学が得意でなかったアインシュタインに代って特殊相対性理論を数学的に簡明で洗練された形にまとめたものであった。アインシュタイン著/内山龍雄訳・解説 「相対性理論」(岩波文庫 1988年11月)は極めて読みやすく理解しやすい名著であった。相対性理論がひとくぎりつくと、ヒルベルトとミンコフスキーは再び整数論について議論した。その前にフルヴィッツはすでに忘れ去られた問題である「エドワード・ワリングのn乗数の和」(すべての自然数は任意のn乗数の有限和としてあらわすことができるかどうか)の興味を抱いたが解くことができなかった。ヒルベルトはこの問題に関心をもってフルヴィッツの到達点から出発して、1908年にその存在を示すことができた。何個のn乗数が必要であるとかいう具体的な解法ではなく、存在するとしても矛盾はないという存在定理である。この定理の別証を見つけたG・Hハーディーはヒルベルトの定理は近代整数論の画期的業績であるとほめたたえている。1909年1月ミンコフスキーは突如盲腸炎に襲われ腹膜炎から死亡した。

15) 「友人たち、学生たち」 (1910年) ミンコフスキーの死とランダウとの出会い 最後の積分方程式

深い悲しみに陥ったヒルベルトはしかし虚脱状態にはならなかった。ミンコフスキーの席を継ぐ数学教授にエドムンド・ランダウを決めた。彼の専門は解析的数論で、関数論において重要な業績をあげ、ピカールの定理の拡張に成功したとされる。彼の家は極めて裕福な階層に属し、ゲッチンゲンで一番立派な屋敷に住んでいた。ランダウを着任後間もなくハロルド・ボーアという青年を研究者として呼んだ。この頃ゲッチンゲン科学協会は基金をもとに有名な科学者を招いて講演会を行った。ポアンカレ―を講演に招待することになった。当時の欧州の数学界には2つの曲がある楕円体であったという。一つの曲はフランスソルボンヌのポアンカレ―で、もう一つの極はドイツゲッチンゲンのヒルベルトであった。ポアンカレ―の講演内容は積分方程式論と相対性理論であったので、ドイツの数学者たちは多少冷淡であったという。1910年5月ゲッチンゲン科学協会でヒルベルトはミンコフスキー記念講演を行った。線形不等式の整数解の存在定理、分岐イデアルの存在定理、球面の最大化を表す3次不等式の簡略化などについてミンコフスキーの業績を褒め称えた。ヒルベルトは友人関係を大事にした。若い友人として哲学科のレオナルド・ネルソンの学位と講師の席を得る面倒を見た。またプラントルの応用力学研究所助手のカルマン(アメリカの大気、航空宇宙科学の重要人物)もいた。ヒルベルトのもとで学んだ有能は若者はすでに研究者として成功しつつあった。講師であったマックス・ボルンに指示して、ミンコフスキーの物理学論文集の編集をさせることになった。ヘルマン・ワイルも講師の席を得た。またクーランはヒルベルトの助手として働いた。1910年ヒルベルトはゲッチンゲン科学協会に第6回目の積分方程式論の報告を行った。そしてこれが最後の報告となった。フレドホルム以来世界中の数学者、ことにドイツとアメリカの数学者が積分方程式の問題に取り組んできた。後のクーランによると、応用の広さと簡潔さによってヒルべルトの積分方程式が栄光の極みにいたと評価している。

16) 「物理学」 (1910年〜1913年) ボヤイ賞受賞 数理物理学の創設

1910年秋ハンガリーの科学アカデミーは、第2回のボヤイ賞をヒルベルトに授与することを発表した。研究成果の総括委員はポアンカレ―であった。ヒルベルトの資質として、研究分野の多様性、扱われた問題の重要性、方法の簡明性、叙述の明快さ、完全な厳密性をあげた。また教師として多くの後継者を育てたことも評価された。そしてヒルベルトの成果の数々を描いた。
@ゴルダンの定理の証明
Aeとπの超越性の新証明
B代数的数体
C幾何学の基礎
Dディリクレ原理の再評価
Eワリングの定理の証明
F積分方程式論
この報告書は1911年のActa Mathematicaに掲載された。しかし積分方程式論は物理学者には評価されていなかった。何故なら従来の微分方程式の方が使いやすかったからである。積分方程式ならではの分野として気体分子運動が注目された。物理学はマックスウエルの電磁波の存在から、レントゲンによるX線、キューリー夫人の放射能、トムソンの電子と次々と発見がなされ、マックス・プランクによって量子論が創出され、アインシュタインによって特殊相対性理論が発表された。このように目覚ましい発展を遂げている物理学であるが、その基盤を数学者がみると、あるときはこれ、別の時はこれといった風に数々の諸原理が証明なしで用いられ、多種多様な命題や結論が引き出されるのを見ることは数学者にとって不愉快で、これらの諸原理が互いに矛盾しないものか、どんな関係にあるのか極めて雑然たる印象を受けたという。そこでヒルベルトは物理学および他の数学と密接に関係している諸科学の公理化に取り組む時期が到来したと感じた。ヒルベルトは気体分子運動論における確率論の公理の研究と積分方程式論の研究によって見事な簡明で統一的な理論体系の構築を行った。ヒルベルトは公理論的な方法論が不統一な理論を統一する力を持つことを確信すると同時に、物理学の諸問題はただ数学的な能力のみでは解決できないことも認識していた。そこでヒルベルトは旧友の物理学者ゾンマーフェルトの援助を求めた。ゾンマーフェルトに依頼して物理学の助手として青年パウル・エ―ヴァルトを紹介してもらった。彼はまず結晶構造(ラウエによるX線格子回析法)に関する重要な報告をした。次に積分方程式論を用いる輻射理論については、数学の助手であったエリッヒ・ヘッケの方が役に立った。1912年5月ゾンマーフェルトはゲッチンゲン大学を訪れ物理学の最近の発見について講演をした。1912年夏アンリ・ポアンカレ―が59歳でなくなった。そのときヒルベルトは50歳であった。欧州の2つの星の1つが消えた。実に偉大な数学者であった。ヒルベルトはさらに物理学にのめり込んでいた。エ―ヴァントがゲッチンゲンを去ったので、ゾンマーフェルトは物理学のヒルベルトの個人助手としてアルフレッド・ランデを送った。ヒルベルトは輻射理論から分子運動論、電子の理論の講義の計画を持った。ランデの仕事とは物理学の重要な文献を読んでヒルベルトに報告することであった。この作業によってランデは物理学者として大きな飛躍をしたという。1913年にはパウル・シェラーが学生としてゲッチンゲンにやってきた。当時光の量子説が波動説と相いれないながら次第に認められてきた。ニールス・ボアーが原子の惑星モデルを発表した。1913年ゲッチンゲン科学協会でヒルベルトは気体分子運動論に関する1週間の会議を開催した。ここでヒルベルトはゾンマーフェルトの弟子で若い物理学者ペータ・デバイをゲッチンゲンに客員教授として招いた。

17) 「第1次世界大戦」 〈1914年〜1918年) エミー・ネータとの出会い

1914年8月バルカン半島でおきた紛争から始まって10か国以上の国が交戦状態に入った。第1次世界大戦の勃発であった。野蛮なドイツという宣伝が行われたので、ドイツ政府は1914年10月「文化的世界への声明」を出した。愛国者のクラインは署名し、ヒルベルトは内容の証明不十分から署名を拒んだ。戦争にもかかわらず木曜日午後の数学的散歩は続けられた。ランダウ、プラントル、カラテオドリの新しい参加者がいた。デバイも教授会の正式メンバーとなっていた。若者は大学を去り戦場へ向かったので教室はいつもガラガラであったという。クラインの家の食堂で19世紀の数学についての講義が行われた。ヒルベルトは依然として物理学に没頭していた。物質の構造についてデバイ、シェラーが中心になって進めていった。ランデは確率現象に関する量子力学を数学的に煮詰めて講義した。そのランデが志願して赤十字で働くため2年間ヒルベルトのもとを離れたので大変不機嫌であった。毎週のヒルベルトーデバイのセミナーではアインシュタインによる一般相対性理論が学ばれた。ヒルベルトはミーの純粋な場の理論とアインシュタインの重力場の理論を統一する研究を行い、アインシュタインとは別に重力場の微分方程式の10個の係数を決定した。アインシュタインは1915年11月11日に、ヒルベルトは11月20日に論文を提出した。アインシュタインはもともと物理学の基本的法則を記述するには初歩的な数学で十分という考えで、ミンコフスキーの講義はつまらないと考えていたが、そのミンコフスキーこそが空間と時間に関する数学的概念を構成し、それによって一般相対性理論の定式化が可能になったということである。ヒルベルトはアインシュタインの理論の美しさはその優れた幾何学的抽象性にあると認めて、1915年第3回ボヤイ賞受賞者にアインシュタインを推挙した。欧州大戦の帰趨がまだ定まらないとき、ゲッチンゲンに数学者マックス・ネータ―の娘であるエミー・ネータがやってきた。彼女は不変式論の王者ゴルダンのもとで学んだ。ヒルべルトは周囲の男性優勢社会の反対を押し切って、彼女の教職権取得に尽力した。そして実質上教授代行の講義を彼女は行った。戦争によって外国の数学者との交流が途絶え、バートランド・ラッセルとホワイトヘッドが共著で「数学原理」を出版した時、ラッセルをゲッチンゲンに招こうとしたが果たせず、論理学と数学の結合の重要性を知っていたヒルベルトは、哲学の友人レオナルド・ネルソンの地位を改善(助教授昇格)することに取り掛かった。これには哲学教授のフッサールの反対で戦後になってようやく実現した。1917年アメリカが欧州大戦に参戦し趨勢が決したように見え始めた。1918年11月欧州大戦は休戦となり、ドイツ皇帝は亡命した。

18) 「数学の基礎」 (1919年〜1922年) 基礎論の危機再来 ブローウエルとの戦い

若者がゲッチンゲン大学のクラスに戻ってきた。その間にアインシュタインは、空間、時間、物質の概念を変革し、それによって全く新しい幾何学の誕生が望まれるようになった。若いオランダ人のブローウエルは短い論文で、これまでの論理学の法則が絶対的に正しいとする考えに異議を唱えた。彼は20世紀初めの集合論の矛盾の発見で引き起こされた「基礎論の危機」に決着をつけるプログラムを提出した。チューリッヒにいたヒルベルトの弟子ヘルマン・ワイルはこの問題に夢中になった。ワイルは1918年「連続体の論理学的基礎」を発表していた。心穏やかならないヒルベルトは、ブローウエルの考えはクロネッカーの亡霊の再来と思われた。ブローウエルは1911年にトポロジーの基礎を開き、点集合論は多くの数学者から評価された。ブローウエルにとって言語も論理学も数学の前提にはなりえず、直感のみが信じられるものであったという。ブローウエルは論理学の原理である排中律(アリストテレス以来、Aであるか非Aであるかのどちらかで第3の立場はありえない)を無限集合については認めることを拒否した。なぜなら無限であれば確認のしようがないからだ。1904年のハイデルブルグ会議以来、ヒルベルトはブローウエルの論文は一切読まないで、信念として「数学基礎論と数学的演繹法に関するいかなる疑念をも根拠のないもの」として退けた。1919年9月ヒルベルトはチュリッヒを訪れスイス数学会で「公理論的方法論を讃えて」という講演を行った。これはヒルベルトが1904年以来はじめての数学基礎論に関する発言であった。しかし彼自身はこの基礎論の危機には立ち入らないでいた。戦後のドイツの生活はすさまじいインフレに悩み、生活および大学の状況は厳しかった。チュウリッヒにいたフルヴィッツが1919年11月に亡くなった。ヒルベルトにスイス行の誘いがあったが周囲の人は猛反対し結局ゲッチンゲンに留まった。ヒルベルトの関心は物理から数学に戻りつつあった。1920年には原子力学の公理化に関わっていた。その時の数学助手はベルナイスで、物理学助手はアドルフ・クラツアーであった。1920年ー1921年のヒルベルトの関心は数学基礎論を論理学を用いて形式化することであった。若い人の中に広がりつつあったブローウエルの直感主義的考えはまさしく数学への脅威と映った。ヒルベルトは存在論的発想を生涯の原理とした。「存在証明こそ科学の発展史上最も重要な里程標であった」と彼は主張した。1922年に行われたハンブルグの会議で、ヒルベルトは「ブローウエルとワイルは間違っている」と恫喝し、直感主義者(論理の約束事を無視する)のプログラムを受け入れると失われる数学の宝として、無理数の概念、関数、カントルの超限数、排中律、無限個の自然数が持つ最小値定理などを挙げた。彼は数学をあるシステムに形式化し、そのシステムにおける事象は論理学の言葉をもって記述され、そこにおいて構造のみが重視され命題の意味は問題とされないというかっての「幾何学基礎論」で展開された公理主義を繰り返した。

19) 「新体制」 (1922年〜1924年) クーランとゲッチンゲン大学数学研究所 ボルンと理論物理学

1922年1月ヒルベルトは60歳の誕生日を迎えた。自然科学雑誌はヒルベルト特別号を企画し、最古参弟子のオットー・ブルーメンタールがヒルベルトの研究生活を概説した。「ヒルベルトの究極目標はすくなくとも精密化学の領域において、統一的世界観を獲得することである」と評した。この誕生の祝典はある意味ではゲッチンゲンにおける旧秩序の終わりをつげ、リヒャルト・クーランが助教授として戻り、カラテオドリが去った後は彼は正教授となり、クラインの後を引き継いで教室を取り仕切った。ヒルベルトがパタナリズムの典型とすれば、クーランの運営は民主的であった。クラインと同様、クーランもゲッチンゲンの数学−物理学的伝統を受け継いだ。クーランはゲッチンゲン大学から「ゲッチンゲン大学数学研究所」の命名変更許可を得た。こうしてゲッチンゲン大学に新しい体制が訪れた。ヒルベルトの出版物をほとんど一手に扱っているフェルディナント・シュプリンガ−との間に強い個人的つながりでできて、ドイツにおける科学的出版活動は正常な状態に戻った。リヒャルト・クーランのほかにヒルベルトがゲッチンゲンに復帰してほしいと願う若手の人物はヘルマン・ワイルであった。しかしワイルはワイマール共和国憲法ができたあとでも不安定なドイツに帰る気にはなれなかった。クーランはクラインからの夢であったゲッチンゲンに数学研究所を実現する目標に向かって活動を開始した。1923年新貨幣に切り替えてからインフレーションは終わった。大学ではランダウの働きで再び1920年代の整数論の活動中心となった。人々の関心の中心の問題は、ゼータ関数のゼロ点に関するリーマン予想であり、ワイリングの定理(パリ問題の第8番 自然数をn乗数の和とする)であった。リーマン予想を証明したのは、H・ハーディーであった。この整数論に参加した若者の一人にカール・ルドウィッヒ・ジーゲルがいた。かれは兵役を拒否して精神病院に監禁されていたが、1919年ゲッチンゲンにやってきた。パリ第7問題(代数的数a、代数的無理数bに対し、a^bは超越数か)について、2^√2の超越性を証明した。(実はこの証明はソ連の若い数学者ゲルフォントが1920年に成功していたのだが、ヒルベルトはこのことには触れなかった) ジーゲルはゲッチンゲンでクーランの助手となり、やがて講師になった。戦後のゲッチンゲンでの最も実り多い研究活動に一つはエミー・ネーターを中心とした微分不等式にかんするものである。1919年エミー・ネーターは講師になり、いまや39歳になって輝かしい数学者の一人に躍り出た。ゴルダンのもとで学んだ彼女は1922年に代数学の助教授となった。いろいろな活動がクーラン、ランダウ、エミー・ネーターを中心とする同心円で広まっていった一方、戦後理論物理学の教授となったマックス・ボルンの周囲には若い優秀な物理学の徒が集まった。かれは親友ジェームス・フランクを実験物理学の教授として招いた。ウォルギャング・パウリウエルナー・ハイゼンベルグもやってきた。

20) 「無限!」 〈1924年) 「数理物理学の方法」 「数学基礎論」

1920年代ゲッチンゲン大学の呼び物は、毎週定期的に行われ、博士なら誰でも参加できる数学クラブの集まりであった。此処でもヒルベルトの言うことはやはり難しと見え理解できない人が多かった。お構いなしにヒルベルトは話を進めた。クラブでの講演者には厳しい意見をしたという。アメリカの逸才ノ−バート・ウィナーが講演した時も、「最近の若い人の話し方はなっていないが、今日の話は例外だね」といったという。ヒルベルトももはや古老頑迷の領域に達したようである。1920年代は現代物理学にとって輝かしい前進の日々であった。ケンブリッジ、コペンハーゲン、ゲッチンゲンを3極とする物理学者の集団の活躍は目覚ましかった。ウエルナー・ハイゼンベルグは1921年ゲッチンゲンにやってきた。ヒルベルトは相対性理論の研究に取り組んでおり、ヒルベルトのグループで統一場の理論の完成も間近いのではと期待されていた。1922年以降ヒルベルトは物理学者ではなく、実質的研究はボルンとフランクによって担われた。以前ヒルベルトがミンコフスキーとの共同研究の目標であった物理学の公理化はもはや彼の手の中にはなかった。ワイル自身が考えるに。物理学の内容と進展はあまりに早くて、物理学者は手探りでたどり着いたものであり、そこへ至る経験と創造力は数学の世界とは異質であったという。1924年ヒルベルトはクーランと共著で「数理物理学の方法」第1巻を出版した。それ以前理論物理学者の数学的道具立てはレイリ−等の本を使っていたが、「クーラン・ヒルベルト」も歓迎された。1922年以降のヒルベルトの物理学助手はゾンマーフェルトが推薦したボタール・ノルドハイムであった。この頃ヒルベルトの家を訪れていたのは、親子ほど年が離れた数学者ジョン・フォン・ノイマンであった。しかしヒルベルトの真の協力者は論理学の助手ベルナイスである。ベルナイスはヒルベルトと共著で「数学基礎論」を執筆した。ヒルベルトにとって終生の敵はクロネッカーであった。どうしても数学の健全さを信じて厳密性を守りたかったのであろう。ミュンスターでワイエルシュトラスを讃える祝典でヒルベルトは「無限について」という講演を行った。ワイエルシュトラスの解析学、カントルの無限の概念がクロネッカーの攻撃にさらされた時を振り返って、ヒルベルトは現実には存在しない無限の意味を、シンボルとして真の意味で存在するものであるという。ヒルベルトは数学における命題と証明をシンボリカルな論理学用語を用いて形式化し、研究対象とすることによって数学の本源的な客観性を回復することが可能であると論じた。ゲオルク・カントルによって創造された理論が集合論である。ヒルベルトは集合論の矛盾を暴くクロネッカーが許せなかった。「もしも数学的思惟が欠陥をもつものであるなら、一体我々はどこに真実を求めたらいいのだろう」とヒルベルトは叫ぶ。この集合論のパラドックスを回避する、完全に満足のゆく方法が存在する。自然数の演算は確実である。パラドックスは我々の不注意に過ぎない。我々はアリストテレス流の簡明な論理法則(排中律)をあきらめたくはない。そのためには有限的命題を補完するのに理念的命題をもってしなければならない。数学は2種類の論理式から成る。一つは意味を持ったコミュニケーションに対応する命題、2つは何の意味をも持たない論理式である。それこそ理論の理念的構造を形成するものである。

21) 「借りられた時間」 (1925年〜1929年) 量子力学の公理論 クライン逝去、数学界のスキャンダル

1925年6月フリックス・クラインは逝った。そして一つの時代は終わった。追悼式典でヒルベルトは「我々がリーマンの業績のうえに立って新たな構築を行いうるのは、クラインによって得られた成果によるものである」と述べた。クラインは遠くかけ離れた抽象的事象の連関を見抜く力に卓越していたが、個別の問題を解くことは不得意であった。それはポアンカレ―との競争で挫折した原因でもあった。クラインが亡くなった年にルンゲが引退した。そしてヒルベルトの体調が悪化し、悪性貧血であることが分かった。アメリカのG・R・ミノットによって生肝治療でヒルベルトの体調は持ち返した。1925年に始まる2年間は物理学にとって20歳代の若者の大活躍の歳であった。ハイゼンベルグの新しい量子力学の過程で発生した奇妙な数学的対象について、ボルンと討論した。ボルンは直ちに行列環(マトリックス環)であることを見抜いたが、これは75年以上も前にハミルトンによって考えられた四元数体の中にあった。行列環では積の可換は成立しない。つまりa×b=b×aではないのである。ボルンは行列環に詳しい助手のパスクアル・ヨルダンの助けを受けて、60日後にボルン―ヨルダンによる論文が出され、新しいマトリックス力学にとって厳密な数学的基礎が与えられた。ハイゼンベルグのマトリックス力学に続いて、エアウィン・シュレージンガ−の波動力学があらわれた。この二つの論文は、全く異なる物理学的仮定から、全く異なる数学的道具を用いて同じ結論に達したのである。この2つの論文の前にヒルベルト・クーランの「数理物理学の方法」は色あせるどころか、彼らのために書かれたような感があった。ヒルベルトの無限変数の関数論(スペクトル解析と呼んだ)はヒルベルト空間論は量子力学を扱ううえでまだ強力とは言えなかったが、ジョン・フォン・ノイマンはヒルベルトの2次形式の定式化によって物理学者が使えるようにした。ヒルベルトの物理学に関する最後の論文は、ノルドハイムとノイマンによる量子力学の公理的基礎に関するものであった。これにはヒルベルトの直接の関与はなかったが、精神はヒルベルトのものであった。1927年にノルドハイムはゲッチンゲンを去り、物理学助手はユージン・ウィグナーに代った。ヒルベルト自身は数学の基礎論の研究に埋没していた。ブローウエルの直感主義の影響力は明らかに減退していた。ヒルベルトの抽象的形式主義に対して批判する人は「紙の上に書いた意味のないしるしを巡るゲーム」だと評した。ヒルベルトは「我々の形式主義的なゲームの中で行われる公理と証明可能な定理とは、通例の数学における主題である数々のアイデアのイメージである」と答えた。1927年ヒルベルトはハンブルグを訪問し、「直感主義の中にある主観主義から数学を守ることは科学の任務である」、「この時点で最終的結論が何であるかを述べたい。数学は何ら前提をもたない科学である」と述べた。受ける側の弟子ワイルはもはやブローウエルへの関心も薄れており、ヒルベルトとブローウエルの冷静な評価を行った。ここでヒルベルトがブローウエルをAnnalenの編集委員から追い出すというスキャンダルを記しておかなければならない。これにはカラテオドリの悪智恵が入り組んで、7人の編集員全員の辞任を取り付け、編集者として残るのはヒルベルト、ヘッケ、ブルメンタールの3人となった。アインシュタインは3人の主筆の一人であったが、いったいこの数学者の仲間争いは何事かと言って辞任した。欧州大戦後ドイツの数学者は公式の国際会議から締め出されていたが、イタリアのボローニアで国際会議を開くことになりドイツを招待した。ここでもブローウエルとビーベルバッハはイタリアの招待を受けることを潔しとしないと言って反対したが、1928年8月体調不良をおしてヒルベルトは67人の数学者を率いて国際会議に参加し、数学基礎論に関する論文を発表した。無矛盾性の証明と形式的体系の完全性を証明する問題を提起した。1929年ロックフェラー財団の援助とドイツ政府の支出により、ゲッチンゲン数学研究所の建物が建設された。クラインの夢とクーランの尽力が結実したものであった。

22) 「論理学と自然認識」 (1930年) ヒルベルト教授引退 ワイルが引き継ぐ シリーズ講演会「論理学と自然認識」

1930年1月ヒルベルトは68歳になると、教授は定年退官となる。最後の授業で彼は不変式の理論を主題に選んだ。街路の名前が「ヒルベルト通り」と命名された。クーランがクラインを引き継いだので、ワイルがヒルベルトを引き継ぐことは衆議の一致するところであった。ゲッチンゲンの数理物理学の伝統では、クーラン、ボルン、ワイルの協働が必要であった。ドイツの状況は改善されつつあり、まだ狂信的ナショナリズムは辺境にいた。1930年春ワイルがゲッチンゲンに着任した。ヒルベルトにケーニヒベルグの名誉市民の称号が与えられた。夏よりケーニヒベルグの母校でヒルベルトは講演シリーズをすることになり、「論理学と自然認識」という主題で話を始めた。「我々の悟性において思惟の働きと体験の働きとはどのような位置を占めるのかという哲学的課題を取り上げることである。自然と思惟の間には一定の平行関係がみられる。それは数学の自然界との予定調和であり、そういう意味でアインシュタインの相対性理論は最も素晴らしいものであった。ケーニヒベルグが生んだ偉大な哲学者カントは、論理と経験を超えるものとして、現実についてのアプリオリな知識があるといった。アプリオリとは思惟と経験が可能となるための不可欠の前提条件を表現したものである。それは純粋数学的な知識の基礎であり、数学基礎論の立場であった。整数論にはいかなる応用も見出されていないが、ガウスが生んだ最も美しい純粋数学であった。」 ヒルベルトはデュボアーレイモンの不可知論を否定し、「我々は知らねばならない。我々は知るでありましょう」と結んだ。

23) 「エクソダス」 (1930年〜1933年) クルト・ゲーデル「不完全性定理」 ヒルベルト全集編纂 ナチス政権奪取

1930年11月25歳の数学論理学者クルト・ゲーデルの論文が数学誌に掲載された。この青年はヒルベルトが1928年のイタリア国際数学者会議で提起した数学基礎論の完全性に関する2つの命題を取り上げて、形式化された算術の不完全性を証明したと称した。また有限の立場に立つ形式的体系の無矛盾性は証明しえないといった。この論文の翻訳は、岩波文庫の「ゲーデル 不完全性定理」として刊行されている。論文本文は50頁足らずであるが、林晋と八杉満利子による解説は230頁を費やしてヒルベルトプログラムとの関係を論じている。ヒルベルトはこの論文を見て、クロネッカー、ブローウエルの挑戦に最終的解答を与えなかったことを理解した。クロネッカーの亡霊は今も生きていたのであった。形式主義の枠組みが、いまだ十分に強いものではなかったことを知らされたのである。ヒルベルトは人生の最後の段階で、この批判について前向きに修正を加えようとした。つまり形式化に関する要請を緩め、帰納法を「超限帰納法」によって置き換えようとした。ヒルバルトの停年を記念して、彼の数学的業績が全集として編纂されることになった。全集の最後にブルーメンタールがヒルベルトの伝記を書くことになった。全集の第1巻は整数論で、ヒルベルトの代数的数体が評価された。ヘルムート・ハッセオルガ・タウスキーらが編集に当たった。ヒルベルトの整数論と解析学とを結合させる理論である楕円モジュラー関数の虚数乗法論は、数学のみならず科学の全理論の中で最も美しいものだという。整数論に関する第1巻は1932年1月ヒルベルト70歳の誕生日に贈られることになった。ヘルマン・ワイルが誕生日のあいさつを書いた。ヒルベルトが70歳の誕生日を迎えた年に、帝国議会の選挙で国家社会主義党(ナチス)が大躍進をし、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーをドイツ首相に任命した。このワイマール共和国崩壊の歴史は坂井榮太郎著 「ドイツ史10講」(岩波新書 2003年2月)に詳しいので政治的な歴史は省略する。さてゲッチンゲン数学研究所でユダヤ人追放のリストに載った人々には、クーラン、エミ―・ネータ、ベルナイス、物理学研究所ではボルン、フランクであった。クーランとフランクは功績により除外された。ハンス・レヴィはドイツを去った。数学研究所の責任者はワイルになった。ワイルもユダヤ系であったが功績により除外された。こうしてゲッチンゲンには数学者はいなくなった。ぽっかりと1世代分の空白が生まれた。

24) 「老齢」 〈1934年〜1943年) ユダヤ系学者の追放・逮捕 ヒルベルト逝去82歳

1934年ついにナチの役人が数学研究所の所長になった。それまで週1時間の数学基礎論の講義をしていたヒルベルトは2度と研究所には顔を出さなかった。ランダウは講義を続けたが妨害が著しかったのでゲッチンゲンから去った。ベルナイスもドイツを去った。エミー・ネーター女史はアメリカの女学校へ去り1935年に手術後亡くなった。はじめのうちはヒルベルト夫妻は新政権に真っ向から反抗した。1935年にはブルーメンタールによって書かれた伝記を含む全集が完成した。ブルーメンタールはヒルベルトを評して「偉大な数学的能力を分析すると、新しい概念を創造する能力と、諸事実の中に深い関係を洞察し、基本的諸問題を簡潔化する能力は区別しなければならない。ヒルベルトの偉大さは深部まで見抜く洞察力に在った。創造する能力という点ではミンコフスキー、さらにガロア、リーマン之方が優れていた。」という。1937年にはヒルベルトは75歳になった。ブルーメンタールは講義も許されず世の中から抹殺された。同じ年にエドムント・ランダウが亡くなった。1939年スウェーデン科学アカデミーは第1回ミッターク・レフラー賞をヒルベルトとピカールに贈ることを決めた。1939年9月ドイツはポーランドを侵攻した。こうして第2次世界大戦がはじまった。ヒルベルトの助手は若くて有能な論理学者ゲアハルト・ゲンツェンで「超限帰納法」を用いて算術の無矛盾性を証明したが、その彼もドイツを去りプラハで逮捕され1945年に亡くなった。ブルーメンタールもオランダに去ったが逮捕され1944年に亡くなった。1940年ジーゲルがドイツを去りボーア兄弟に助けられてアメリカに渡った。1941年ヒルベルトの80歳の誕生日前にアメリカが参戦した。1943年2月骨折事故がもとでヒルベルトは82歳で逝った。葬儀には10名程度しか参列しなかった。ヒルベルト夫人ケーテは2年後1945年1月に亡くなった。

25) 「結語」 

ヘルマン・ワイルはアメリカのプリンストン高等学術研究所において、かってのゲッチンゲンであったような学術の中心地を創設しようと努力していた。ヒルベルト逝去の時にネイチャー誌はヒルベルトの業績を評して、世界の全数学者の中でヒルベルトに源を持たないものはほとんどいないといった。数学でヒルベルトの名を冠した分野には、ヒルベルト空間、ヒルベルトの不等式、ヒルベルト変換、ヒルベルト不変積分、ヒルベルトの既約性定理、ヒルベルトの基底定理、ヒルベルトの公理、ヒルべルト部分群、ヒルyベルト類体などがある。ヒルベルトの業績は@不変式論(1885−1893)A代数的整数論(1893−1898)B幾何学基礎論(1898−1902)C積分方程式論(1902−1912)D数理物理学(1910−1922)E数学基礎論(1922−1930)に集約される。ヒルベルトの最後の過程でなされた数学基礎論プログラムに対するゲーデルの「不完全性定理」の打撃にも関わらず、ヒルベルトは楽観的で開放的な解決を図った。数学に矛盾はないのだろうかというゲーデルの疑問自体は決して閉塞的ではなく、ゲーデルは「ヒルベルトの数学基礎論の構築に関する構想は依然として極めて興味深い」と述べている。「不完全性定理とは、ヒルベルトが考えていた特定の認識論的(哲学的)な目的が達成されえないということに過ぎません」、「より強い超数学的仮説を基礎とするゲアハルト・ゲンツェンの「超限帰納法」も興味あるものであり、数学の証明論的な構造に関する重要な洞察を与えるものです」、「ヒルベルトの連続体仮説を証明するには全く新しい方法が必要であるという考えは完全に正しかった」と評価している。数学論理学及び数学基礎論から新しい「超数学」という分野が生まれた。アルフレッド・タルスキは「ヒルベルトは超数学の父である」という。第2次世界大戦でドイツとフランスの数学者の1世代全体が欠落したといわれる。すなわちそっくりアメリカに移住したからである。そういった人々を列記しよう。アルテン、クーラン、デバイ、デーン、アインシュタイン、エーワルド、フェラー、フランク、フリーッドリックス、ゲーデル、ヘリンガー、カルマン、ランデ、レヴィ、ノイゲバウアー、ノイマン、エミー・ネイター、ノルドハイム、オレ、ポリア、セーゲ、タルスキ、ワイル、ウィグナーであった。世界の中心がそっくりアメリカに移ったのである。


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