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豊下楢彦著 「尖閣問題とは何か」
岩波現代文庫(2012年11月) 

「尖閣問題」、「北方領土問題」、「竹島問題」は米の冷戦戦略下のサンフランシスコ単独講和条約が宿根

豊下楢彦氏は関西学院大学の国際政治論の講座の始めに、古代ギリシャのアテナイの将軍で歴史家のツゥキュディデスの著作「歴史」を紹介するという。紀元前5世紀に古代ギリシャ全域を巻き込んだペロポネソス戦争の原因を分析した「国際政治学分析の古典中の古典」と称される書である。主な原因はアテナイ人の強大化によってスパルタ人に恐怖を与え、戦争へと導いたとツゥキュディデスは結論した。この辺は鶏が先か、卵が先かという論理になり、戦争勃発の責任はたがいに相手の軍事力のせいにする。これを「安全保障のジレンマ」に他ならない。実際においては、いかに相手から先に手を出させるかという挑発作戦となる。太平洋戦争における真珠湾攻撃がその典型である。大義を得たアメリカは怒涛のように西進した。相手が挑発に乗らないときは軍事的衝突をでっち上げて戦闘の正当性を主張する。旧日本軍の柳条湖事件、盧溝橋事件などがそれである。今日の日中関係に目をやれば「歴史」の構図は、「陸のスパルタ」(中国を想定)の軍事力強化に恐怖する「海のアテナイ」(アメリカを想定)と「目下の同盟国」(日本を想定)と映る。ところが「海のアテナイ」は深刻な対立を孕み乍らも「戦略的提携」関係の模索に努めているのに対して、「目下の同盟国」は「陸のスパルタ」との間で無益な争いを展開し、軍事的緊張を生んでいるという戯画が描けるのである。アメリカから叱責されはしごを外された2流国の第1次安倍首相は、独ソ不可侵条約に「不可解なり」と言って辞職した首相のように1年足らずで辞職した。国際政治は当面の利を追ってかくも不可思議な動きをするものであるが、単細胞の国の首相はついてゆけないほど知の劣化が著しい。「ある事象を相反する2つの立場から眺めて、2つの論理を対立させるという方法、つまり現実を相対化させることで道が開ける」ということを「歴史」は教えてくれる。本書の契機は言うまでもなく、2012年4月当時の石原慎太郎東京都知事が尖閣諸島の購入方針を提起していらい、日中関係の最大に焦点となった「尖閣問題」である。本書は政治理論についてではなく、世界情勢の時事を扱うきわめて現実的な問題である。この問題は急に中国が介入してきた領土問題ではなく、実は直接の契機は1971年6月の沖縄返還協定であり、さらに「北方領土問題」、「竹島問題」と「尖閣問題」は1951年サンフランシスコ講和条約の領土処理に起因しているのである。すべては日中戦争・太平洋戦争のマイナスの遺産(植民地政策の清算)をきっちり処理してこなかった日本政府のいい加減さがもたらした自業自得の負債である。この問題を石原元東京都知事が煽動する「国家ナショナリズム」に乗せられてはいけない。国民は渡り鳥の休憩場に過ぎない尖閣諸島そしてあるかないかわからない石油資源というニンジンにつられて、無益な紛争に巻き込まれ自衛隊と中国軍との衝突というリスクを冒してはいけない。第2の柳条湖事件にしてはいけない。石原都知事の本質は米国軍需産業複合体であるヘリテージ財団の日本側エージェントであるという危険な側面に気が付かなければならない。

「尖閣問題」をめぐる当時のニクソン政権の政策決定過程に関する貴重な資料が発見された。2012年10月3日朝日新聞によると、沖縄返還協定調印直前のやり取りである。中華民国(台湾)が日本への返還に強く反対している尖閣諸島の地位について、ニクソンとキッシンジャー大統領特別補佐官が協議し、「1951年の講和条約から1971年まで台湾は尖閣諸島について異議申し立てをしていないこと、講和条約によって尖閣諸島は自動的に沖縄に含まれた」ことを確認した。しかしピーターソン大統領補佐官は台湾の主張を支持し、軍事援助まで示唆していることを問いただしたところ、「米国の望む方向に日本と台湾を導くための火種を残しておきたい」という趣旨であった。しかしニクソンは「尖閣諸島の日本への返還は、領有問題を巡る首長に対して米国は何らのかの立場を取ることではない」という「中立の立場」を決定した。この立場が21世紀の今日まで尖閣問題への米国のあいまいな態度を取らせているのである。これに対して日本政府の福田赳夫外務大臣は1972年3月22日の参議院委員会で、米国の態度には不満であると答弁しながら、米国に厳重に抗議した形跡は認められず、実質的に黙認したとみられる。牛場駐米大使がグリーン報道官に日本政府の立場を伝えたが、グリーン報道官は中立の立場に変更はないと答えるだけであったという。石原都知事の動きに追い詰められた形の民主党野田内閣は2012年9月に尖閣諸島国有化を決定した。そして中国では激しい反日の嵐がおき、日本企業の焼き討ちという事態となった。今や日中双方は経済的には相互依存と相互浸透の世界にいて、経済封鎖などは双方の命取りになることは分かっているにもかかわらず、こと「領土問題」となると伝統的な主権国家の排他性がにわかに躍り出て、「獲るか獲られるか」という「ゼロサム」的な感情が政権担当者及び世論を占有するのである。領土ナショナリズムというものがいかに危険なものか、一挙に人の心をとらえて、反対する者を戦前の世論と同様に「非国民」という言葉で排除する魔力を持っている。石原都知事の言動による日中の危機を心配する駐中国大使の丹羽氏は、与野党から批判され「更迭」された。石原氏の挑発を受けた中国は、焼き討ち事件などで国際信用を失うリスクを逆手にとって尖閣問題を一気に国際問題化することに成功した。つまり中国は尖閣問題について日本に対する対等な交渉相手に躍り出たのである。ここで著者は尖閣問題の本質を抉り出す一文を2012年5月10日東京新聞に投稿した。「石原氏は個人所有の魚釣島、北小島、南小島の3島しか念頭にないが、米軍の管理下にある射爆撃場である久場島、対象島の2島を購入対象から外すのか。2島は日本人の立ち入り禁止区域であるが、1979年以来全く使用されていない。それでも日本政府は高い賃料を地主に支払って米軍に提供している。」という疑問を投げかけた。つまり尖閣諸島には米軍管理区域がまだ残っていたのである。だから中国船籍の侵犯は日本のみならず米軍施設への侵犯でもある。石原氏は米国にはへつらい、中国や韓国には居丈高にふるまう戦後日本の歪んだナショナリズムつまり右翼の特徴を如実に示している。中国は米国政府が尖閣諸島の帰属問題に「中立の立場」をとっているという矛盾(日米の亀裂)を鋭く突いてきたといえる。

2012年9月12日米国のバネッタ国防長官は日本を訪れた際の記者会見で、「尖閣諸島は安保条約の対象になる」と言いながら「主権を巡る対立では特定の立場を取らないこと」を繰り返した。安保の対象とするなら主権は日本にあると見なければならないが、そこを不明にしているというこのあいまいな態度こそが問題なのである。それもそのはずバネッタ国防長官は日本をそこそこにして中国へ向かい、米中両国間の「軍事的信頼関係の構築」という本来の目的で訪中した・。日米は旧ソ連や中国を仮想敵国として同盟関係にあったのだが、米国は米中2超大国による新秩序を構築するという方向にかじを切ったようである。もはや状況が変わったということである。安倍首相の靖国神社参拝問題、拉致問題の裏返しとしての人権問題である韓国従軍慰安婦謝罪問題(河野談話検証問題)で安倍首相が激しく米国に叱責されたことは、その米国のスタンスの変化の表れである。これまで米国は日本のことを忠実な犬とみてきて、見返りとしてたいがいのことは日本の主張を支持してきたが、これらの問題では日本を激しく非難する側になった。「尖閣問題」では奇しくも第3者の立場をとっている。1970年初頭の米中接近のニクソンショックは、2012年には装い新たな形でオバマショックとなってしまった。本書では「集団的自衛権」のことは扱わないが、安保条約の日米同盟では中国が「日米の共通の敵」という認識が前提におかれている。その米国のスタンスが、米中の緊密な連携による「世界平和の構築」という戦略に変化しつつあるとき、解釈次第で「集団的自衛権」ができるかどうかという問題は、米国にとってありがた迷惑(忠犬の先走り)と映るのであろう。これも東アジアに戦争の火種を温存しておきたいジャパンハンドラ-(日本を操る軍事利益複合体)の勧告に忠実に従っていることであり、国際情勢の構造的な変化を認めたくない(中国が日本を抜いてGDP世界第2位国になったことも認めたくないように)という、後ろ向きな視点に囚われている日本の支配者の姿なのであろう。ゼロサム的な「領土問題」が実は日本の植民地支配問題という「歴史問題」と密接な関係にある事を抜きには語れない。2012年7月にはロシアのメドベージェフ首相が国後島を訪問し、8月には韓国の李明博大統領が竹島に上陸し、日本が中国との「尖閣問題」でけでなく、「北方領土問題」と「竹島問題」という深刻な領土問題を抱えていることを再認識させられた。相手国3国が日本包囲網を結んだらどうなるか、アメリカが不干渉でそっぽを向いたらまさに四面楚歌である。外交的・戦略的に完全な失敗である。いったいなぜこうなったかというと、それは1951年のサンフランシスコ講和条約に、ソ連は同意せず、中国、韓国が参加していないからであった。つまり植民地問題と深く絡んだ領土処理において相手国当事者不在で「欠席裁判」をしたようなもので、相手国が承認していないのである。そこを中国は鋭く突いて「歴史問題としての尖閣問題」を国際的に展開したのである。日中・太平洋戦争後の戦後処理において、日本はドイツがそうしたように自力で必死になって「過去の克服」を行って東アジアの国際社会に復帰する課題に取り組む前に、米国の冷戦戦略の展開の中で片方だけに(西側)復帰を果たすことになったのである。「尖閣問題」、「北方領土問題」、「竹島問題」といった問題は、過去の克服への主体的な立ち位置にあるといわざるを得ない。日本は今になってその付けを領土問題として払わされようとしている。ドイツは第1次大戦の後のヴェルサイユ条約で植民地問題をすべて放棄していたので、第2次大戦後の敗戦処理はナチス問題だけに最大限の努力を注いだ。村山談話で心からのお詫びを表明したのはなんと1995年のことで、戦後50年が経過していた。1993年従軍慰安婦問題で「河野談話」で謝罪したにもかかわらず、2014年3月安倍首相は河野談話の検証と称して見直しを図ろうとしたが、米国に一喝されて引き下がった経緯があった。

安倍晋三首相の歴史認識(教科書の記述ではなく、植民地支配問題である)は、極めて反動的である。「歴史の評価は後世の歴史家に任せるべきで、政治家は慎重でなければならない」という「持論」を繰り返している。よく言っても、これは日本が東アジアを侵略したかどうかは歴史の審判に任せるということである。たとえて言えば、「私があなたを殴ったのは、悪意で殴ったか正義で殴ったのかまたは愛情をこめて殴ったのかは歴史のみが知る。私は性急に判断しない。」という精神分裂者のいうことに近い。ドイツナチスは侵略であったが、日本は侵略ではなく東亜の西洋からの解放であるという。2007年3月衆議院予算委員会で安倍氏は従軍慰安婦問題について、人さらいのような強制性はなかったと発言し、米国の議会や世論は「拉致問題」は犯罪で従軍慰安婦問題は拉致でないとする「2重基準ダブルスタンダード」であると非難された。米国ではどちらも人権問題であるとの認識である。ブッシュ大統領に叱責され記者会見において謝罪した。ところが韓国に謝罪するのではなく米国に謝罪するという、「米国には屈従し、韓国には居直る」という変なナショナリズムの持ち主である。2012年7月7日民主党野田内閣は尖閣国有化の方針を表明したが、この日は日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」の75周年記念日で、中国の激烈な反発を受けた。今や中国は殴られてもへらへら笑っている「ちゃんころ」ではなく、中華の誇り高い国民であることをまるで考えていない愚行であった。そして国有化を閣議決定した9月11日は、中国が「国恥の日」と定める満州事変の契機となった「柳条湖事件」(9月18日)の1週間前のことであった。歴史認識を全く欠いたこうした日本の政策決定者の意識は絶望的である。
本書を読んで、私自身は知らなかった政治上の事実がいっぱいあり、メディアは意図的にこれらの事実を知らなかったのか、無視しているのか、あるいは隠蔽しているのか考えさせられる。これでは新聞やテレビを見ていても、偏狭なナショナリズムに煽動されているだけで、中国の脅威だけが先行している。サンフランシスコ講和(戦後処理)にすべての根幹が存在していることを説く卓見の持ち主の豊下楢彦のプロフィールを紹介する。1945年兵庫県生まれ。甲陽学院高等学校、京都大学法学部卒業。京都大学法学部助教授、立命館大学法学部教授を経て、関西学院大学法学部教授。専門は、国際関係論、外交史。 ところで京都大学法学部政治学科というと、右派系の名物教授が二人いた。猪木正道氏、高坂正堯氏である。二人は旧社会党の非武装中立論にたいして、最小武装論の「現実主義」と言われた。高坂は冷戦時代から共産主義国家に対しても、国内の中立主義と同様その理想の持つ魅力・意義を認めながら批判的な態度を取った。京都大学での門下生には中西寛、坂元一哉、戸部良一、田所昌幸、佐古丞、岩間陽子、益田実、中西輝政などがおり、多くの研究者を育成した面でも名高い。また、衆議院議員で元民主党代表だった前原誠司も、高坂のゼミナリステンである。高坂氏は世間では左派系から「御用学者」と非難された。高坂氏を尊敬する豊下楢彦氏は自分では「保守右派リアリスト」と考えているようだが、本書を読む限りでは、私には中道左派の論客に映る。左派・右派という切り捨て方に問題があるようだが、現実にどう対応するかでその人の評価が決まる。日本は戦後の55体制に象徴される日米同盟を基軸に発展してきた。しかし日米安保体制というものは、そもそもそれが成立した時点から改定される時に至るまで、一貫して日米の立場の違いのせめぎあいであり、そして最後は日本側が米国の要求に譲歩する、その産物であったということだ。いつしか日米関係は、米国はもはや日本側との交渉すら必要としていないほど支配的になり、その日本は交渉する気迫をとうに失い、いかにして国民を欺いて米国の要求を丸呑みするかに腐心する情けない国になってしまった。その二つの国の不均等な関係こそ今の日米同盟関係なのだ。ということが本書の背景にある国際政治の現実である。この点を抜きに「尖閣問題」・「北方領土問題」・「竹島問題」を語っても解決策は出てこない。出てくるのは石原のような時代錯誤の右翼デマゴーグ(実は米国軍需産業の代理人、操り人形に成り下がった)である。安倍、福田、麻生という3代続いた自民党首相や民主党の鳩山、野田首相らの、知性の劣化も甚だしい語るに落ちる首相たちに解決できる問題ではない。本書は6つの章から成るが、分量・内容からして第6章(本書の1/3以上を占める)に著者の全力が注がれているようだ。前の全5章はその導入かもしれない。

第1章 忘れられていた島々

尖閣諸島とは、東シナ海にある日本名で魚釣島、久場島、大正島、北小島、南小島という5つの島と3つの岩礁からなる島々である。この諸島が本当に日本領であるかどうか、私たち一般市民にはよくわからない。メディアなどは頭から日本領だと断定し、中国がその権利を侵すと非難する論調であるが、これは歪んだナショナリズムではないだろうか。結局領土というものは戦争でしか動かないものである。欧州では国自体が激しく動いたため、国の組み合わせ方によって領土画定線は戦争の度に動いた。不可侵の固有の領土という概念もなかった。力関係とお家のご都合で戦争が終わる度に国境線は変わった。だから歴史的にみてゆかないととんでもない不毛のゼロサム的論争に巻き込まれる。ことの是非はどうあれ、日本国の目の前の利益になることに賛成するのが日本国民だという定義がまかり通るのである。そうでない者は国賊、非国民と呼ばれそうである。豊下楢彦氏は尖閣諸島の歴史的経過に関して、日大の浦野名誉教授、神戸大学の芦田名誉教授の著作に基づいて整理する。1884年福岡県の実業家が無人の尖閣諸島の開拓を沖縄県に申請した。同県および日本外務省はこれらの島が釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼という中国領の可能性もあるので慎重に様子を見ていた。しかし1894年に日清戦争が勃発した時これらの島の沖縄県編入を閣議決定した。この決定は周辺諸国には伝えらなかった。同年日清講和条約(下関条約)が結ばれて、清は台湾を日本に割譲した。この経過が植民地政策過程での領土化と言われるゆえんである。一時開拓と植民が行われたが、1940年には再び無人島化した。太平洋戦争後は米軍が沖縄を軍事的な直轄下におき、1951年サンフランシスコ講和条約第3条で日本から分離支配されることになった。1972年の沖縄の本土復帰まで、尖閣諸島は沖縄県の一部として米軍の射爆撃場の管理下に置かれた。尖閣諸島が政治の舞台となるのは1969年海底調査によって石油埋蔵の可能性が言われ出してからのことである。それまで尖閣諸島は「忘れられた島」であった。まず台湾の中華民国が領有を宣言し、中国政府も領有権を主張した。そして日本の石垣市、琉球政府が標柱や領域表示板を設置した。1970年9月琉球政府は領有を宣言した。こうして日本(沖縄)、台湾、中国が領有を主張して国際問題となった。2012年8月中国国務院は過去の自国の文書を持ち出して「釣魚島は固有の領土」であると言い出す始末となった。中国や台湾の主張は、1943年のカイロ宣言に基づいて「日本が清国から盗取したすべての地域を中華民国に返還する」ことである。

第2章 米国のあいまい戦略

1972年3月日本政府外務省は「尖閣諸島の領有権問題について」という見解を発表し、「先占の法理」と「実効支配の証」の主張を展開した。外務省声明の後、1972年9月の日中国交回復交渉の田中角栄首相と周恩来首相の会談で、尖閣諸島の領有権問題は棚上げにすることが合意された。1978年日中平和友好条約批准書交換のために来日したケ小平副首相はこの問題の「棚上げ」を確認した。問題は尖閣諸島の領有権に関するニクソン大統領の対応である。米国は「ニクソンショック」に象徴される日本の頭越えに行われた「米中和解」の転換において、中国・台湾に対する「政治的配慮」の必要があった。1972年2月尖閣諸島の領有権問題についてニクソン政権が「中立の立場」を固めて米中和解交渉に臨み北京政府を承認した。この中立政策は国際政治では「オフショア-・バランシング戦略」と呼ばれる。すなわち日中間とりわけ沖縄周辺に領土係争があれば、日本の防衛のために米軍の沖縄駐留がより正当化されるという深慮があったといわれる。ニクソン政権に在っては劇的な米中和解に踏み出す一方で、1969年の佐藤・ニクソン共同声明において、日本の安全と台湾の安全を結びつけた「台湾条項」を組み込んだ。ニクソン政権は日本向けには「中国の脅威」を植え付け、中国に対しては軍国主義復活という「日本の脅威」を掲げて、米軍が沖縄と日本本土に駐留することが、日中の相互によって承認される構図を作り出した。このような戦略は西欧の諸国にとっては常識というべきマキャベリズムを是とするキッシンジャー大統領特別補佐官の最も得意とするところであった。中東の火種としてイラン・イラク戦争、イスラム圏の火種であるアルカイダ過激派、パレスチナにおけるイスラエルなどに米軍情報部の影がいつも付きまとうのである。日本に仕掛けられた火種が「尖閣問題」、「北方領土問題」、「竹島問題」である。世界中で3方に領土問題を抱えた国はない。両手両足を縛られた日本、アメリカの財布の役目を背負わされた日本、これらが日本の閉そく状態を規定している。

第3章 尖閣購入問題の陥穽

2012年4月16日石原東京都知事は米国のヘリテージ財団において講演を行い、尖閣諸島(魚釣島、北小島、南小島3島)を個人地主から都が買い上げて、実効支配を強化するとぶち上げた。「本来は国家の責任」というところに、石原氏の購入方針の一つの狙いがあった。つまり当時の民主党野田政権をして、国有化に追い込み、中国を刺激して怒らせることが眼目にあった。7月7日日本を訪問していたクリントン国務長官は、野田政権に対して国有化は日中関係の悪化につながる懸念を伝えた。オバマ政権は「理解はするが困惑している」という事実上反対の立場を表明したのだ。7月13日石原氏は「尖閣諸島に自衛隊を派遣すべき」と表明し、中国は武力衝突の可能性を示唆するなど事態は厳しさを増していった。中国外交筋は棚上げ状態を継続し上陸しないなら日本の国有化宣言は聞き流すというサインも出してきたが、8月以降中国政府は「国有化断固阻止」という方針を決定した。そして9月11日、外務省の従来の借り上げ方針から一転して野田政権は「3島の国有化」(米軍の射爆撃場である久場島、大正島は含まれていない)を閣議決定した。一番乗せ易い野田政権を利用した石原氏の中国挑発策は成功した。米軍と久場島、大正島の関係を見ると、1950年8月米軍政政府令により沖縄群島政府組織法に、尖閣諸島が含まれた。1955年に米軍は久場島を津区別演習地域に指定し、1956年に大正島も指定された。久場島は民有地であったため、1958年7月米国民政府(琉球政府)と所有者の古賀氏の間で賃貸借契約がむすばれ、賃貸料は防衛施設庁が毎年支出している。なお日米地位協定では久場島、大正島の名前が中国名の黄尾嶼、赤尾嶼で呼ばれているが、1979年以来30年以上射爆撃場として使用されていないが、日本政府は未だこの島の返還を求めていない。石原氏は尖閣諸島に海上保安庁に替わって自衛隊の配備を要求しているが、これは自衛隊を前面に出すことによって軍事紛争を引き起こし、米軍がカイン有せざるを得ない状況を作り出すことが目的である。石原氏が講演したヘリテージ財団は、イラク戦争を主導した好戦的で対中強硬派の勢力であり、軍事産業複合体のロビー活動団体である。その日本代理人エージェンシーが社団法人日米平和・文化交流協会である。日米安全保障戦略会議の実施や防衛族議員を募って訪米し、アメリカの大手兵器産業への訪問を行っている。

第4章 領土問題の戦略的解決を

@ 北方領土問題: 北方領土問題とは「造語」であって、本来は南千島問題である。南樺太と南千島を放棄すると定めたサンフランシスコ講和条約の解釈の問題である。南千島問題に対する態度には、第1に択捉、国後、歯舞、色丹のすべてを含むとする解釈、第2に択捉と国後を南千島とし色丹と歯舞は含まないとする解釈、第3に4島すべては南千島ではなく北海道の一部だとする解釈である。結論から言うとロシアは第1の立場で現状支配をしている。日本は第3の立場で4島一括返還を求めている。日ロ交渉の裏方では第2の解釈で2島返還(色丹と歯舞)で合意できそうな状況もあった。1961年11月池田首相が日ロ平和条約について4島返還を条件としたことに始まる。北方領土問題が定義されたのは1964年6月の外務省次官通達からである。外務省はそれまでは「千島列島、歯舞、色丹」と呼んでいた。つまり国後、択捉は千島の一部としていたのであるが、「北方領土」という定義は国論を統一するための仕掛けであった。1951年サンフランシスコ講和条約第2条c項において、「千島列島の放棄」に合意した。これはソ連の対日宣戦への見返りとして(1945年ヤルタ密約 ルーズベルト・スターリン)アメリカが承認したものである。1955年の鳩山内閣は日ソ平和条約交渉において、クリルアイランドには南千島は入っていないという態度を取った。1956年重光外相はソ連側が約束した歯舞・色丹の2島返還を受諾して平和条約を結ぶ決意をしたとき、アメリカのダレス国防長官は「4島返還」を持ち出し、この交渉を潰しにかかった。それはアメリカとしては「北方領土問題」解決の次に「沖縄返還」を懸念し、日本とソ連の間に領土問題という紛争状態を継続させることが米国にとって利益になると考えたからである。ダレス国防長官としては国後・択捉はサンフランシスコ条約で放棄したことと歯舞・色丹2島返還が最も合理的な解決策であることを知りながら、日本には「4島返還」を掲げるように恫喝したといわれている。ダレスの「4島返還論」の本質は、それが冷戦を背景とした日本とソ連の間に打ち込まれた楔となることであった。このできない相談である「4島一括返還」が以降日本の国是となったのである。鳩山首相がモスクワでまとめた日ソ共同宣言では、平和条約締結後、歯舞色丹2島返還を約したもので日ソ両国の議会での承認も得た。長い間日ソ間で協議が続いてきたが、2010年9月尖閣諸島への中国漁船侵入事件で日中関係が悪化していた時、まさに恐れていた二面攻撃のように、ロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問した。中ソ関係は中国の経済的力量がロシアを圧倒するなかで、多くの対立要因を抱えており、ロシアは極東における中国の進出に神経をとがらせている。だからこそ不毛の「北方領土問題」に拘泥せずに、1956年の日ソ共同宣言に立脚して懸案の課題(2島返還)を解決し、日ソの関係緊密化をプーチン大統領に提案することが本当の解決策であろう。

A 竹島問題: 竹島は男島と女島からなり面積は東京ドーム5個分という小さな島である。1905年1月明治政府は閣議決定で領有を宣言した。1945年連合国軍最高司令官令で日本の範囲から除かれる地域として、鬱陵島、竹島、済州島が明記された。竹島は日本漁船の操業区域外におかれた。これが「マッカーサー・ライン」である。マッカーサー・ラインは沖縄、千島列島、歯舞・色丹島を日本の範囲から除外した。1946年6月の米軍報告書では竹島は朝鮮の領土と明記されている。ところが共産中国の成立と朝鮮戦争によって、日本の安全保障の戦略上位置が増し、1951年6月のサンフランシスコ条約第2条a項で、朝鮮独立を承認し、日本は「済州島、鬱陵島、巨文島」を放棄することになったが、竹島は放棄する対象から外された。韓国はこの講和会議に出席を拒否されているので、抗議の文書を提出したがラスク国務次官補はこれを拒否した。1952年李承晩政権は海洋主権宣言を発して「李ライン」を設定した。翌53年4月「独島義勇守備隊」を竹島に駐留させ今日に至るまで「実効支配」を続けている。1965年6月日韓基本条約が結ばれたが、竹島問題に進展はなかった。韓国は竹島問題を植民地問題(歴史問題)とみている。その根拠は1894年の日新戦争後日本は韓国の保護領化を進めており1904年代第1次日韓協約を結ばされ、1905年の明治政府の竹島領有宣言の同じ年に第2次日韓条約で日本は韓国の外交権を奪った。竹島の日本への編入は韓国の植民地化の流れの中で行われており、韓国側から見れば竹島(独島)問題は領土問題ではなく、まさに植民地問題であったとする。2012年8月李明博大統領は竹島に上陸し、天皇に植民地問題で謝罪を求める発言を行った。前年の「従軍慰安婦問題」や「造船場強制連行問題」などもからんで日韓関係は危機的状況となった。その根源には日本政府は植民地支配に対して韓国にいかなる謝罪もしていないことである。従軍慰安婦問題に関する「河野談話」、東アジアの植民地政策に関する「村山談話」は個人の発言にとどめ置かれている。「過去の清算(克服)」についてはドイツでは徹底した自責の念を表明し、西欧社会への復帰に主眼が置かれた。その結果EU連合においてドイツは中軸を占めることができた。日本の歴代政権は謝ることを潔しとしない態度(謝ることを自虐史観といって拒否してきた)であった。サンフランシスコ講和条約で日本の戦争責任は明記されず、しかも講和会議に中国と韓国の代表は招かれなかった。1965年の日韓基本条約、1972年の日中共同声明で国交は回復されたが歴史問題や領土問題は棚上げになった。冷戦構造の中で米国は日本を「保護」した結果、冷戦終了後1990年代になって歴史問題が激しい論争の始まりとなった。ここで必要なのは「自らを突き詰める以外にはない」ことである。領土問題が植民地問題のシンボルとなっている以上、逃げ回るのではなく、日本がイニシャティブを取って問題の解決に当たらなければならない。本来人の住めるような島でない岩礁を巡って韓国と半永久的に争い続けるのか。対中国問題で日本と韓国は協調関係を結ぶつもりなら、竹島の放棄または譲渡と言った措置が欠かせない。

B 固有の領土とは:  「尖閣」、「北方領土」、「竹島」の枕詞である「固有の領土」ということを考えてゆこう。主権国家が成立して以降絶えず国境線が動いてきたヨーロッパにおいては「固有の領土」といった概念は存在しない。また「固有の領土」とは国際法上の概念でもない。各国が自らの領有権の正当性を主張するために「固有の領土」の乱発となった。そこで尖閣諸島を含む琉球諸島の琉球王国を見ると、かっては独立王国であった、1879年沖縄県が設置されてから琉球諸島は「固有の領土」となった。1880年琉球諸島の領有をめぐる清国と日本の交渉で「琉球条約案」が締結された。沖縄本島以南の先島諸島は清国の領土となったが、その案は清国内部の反対で流産した。明治政府にとって本島以南は通商条約(最恵国条項)取引の材料に過ぎなかったのである。日清戦争後の1895年の講和条約によって、台湾を植民地とする段階で本島以南の諸島も固有の領土となった。太平洋戦争終結の御前会議において和平条件として「固有本土」保全とし、沖縄、小笠原、樺太、北千島を捨てる覚悟が示されたという。つまり「固有の領土」とは状況によっては切り捨てられる運命の地域である。米国は大戦後の1951年のサンフランシスコ講和条約によって沖縄を信託統治とした。しかし1956年日本は国連に加盟を果たした時点でも沖縄は米国の信託統治下にあった。これは「国連加盟国となった場合には適用しない」に反する。ということは米国の全権支配下のあった沖縄は日本領土ではなかった。1951年吉田茂首相は「沖縄の99年間租借」を提案した。つまり「固有の領土」と他の国と係争中の領土という意味である。日本外交は「固有の領土」概念をどこで読み間違ったのか、硬直化しナショナリズムの呪縛に陥った。そもそも日本は「尖閣」、「北方領土」、「竹島」という3つの領土紛争を同時に抱え込んでしまった事態をいつまで続けるのだろうか。領土は戦争でなければ動かないのであれば、3国を相手に戦争をするつもりなのだろうか。外交の気違い沙汰でなければ、国家破滅型の狂信的煽動者に踊らされているのだろうか。本来動くものである「固有の領土」は戦略的に解決できるのである。

第5章 無益な試みを越えて

中国は1978年ケ小平が「尖閣問題」の棚上げを表明して以来、その基本路線を維持してきたが、1992年2月領海法において「台湾、および魚釣島」の領有を明記した。2001年の首相となった小泉氏が引き起こした「靖国参拝問題」で反日感情に火が付いた。自民党の票田である日本遺族会への約束ということであるが、外交的損失は計り知れない。天皇でさえ30年以上一度も参拝したことがないという事実がある。冷戦終了以降、中国のプレゼンスは東シナ海から南シナ海に拡張している。領海及び排他的経済水域を含む「確信的利益」、「海洋国土」という言葉で海洋をコントロールする姿勢が示されている。それに足して日本は日米防衛協力を強化する方針で動いているが、当のアメリカは米中新時代を模索して、2012年5月キャンベル次官補は中国と「米中共同宣言」を行った。もはや米中は敵対関係の時代ではなく、強い中国との対話の時代に入ったとみるべきである。GDP第1位と第2位の国が協調する戦略的関係である。日本は「中国の脅威」を前提として「集団的自衛権」を強化し米国との安全保障体制を強化する方向である。ニクソンショックと同じような頭越しの米中関係にまたもや先を越されそうである。2012年6月アジア安全保障会議で米国軍艦の大西洋と太平洋の比率を5対5から、4対6に変更した。これを中国包囲と見る向きもあるが、米ソ冷戦時代からグローバル経済での構造が根本的に変わったことで、米中の太平洋関係が一段と緊密化しているからである。日本の政権担当者は米国の「ジャパン・ハンドラ-」(日本操縦、掌握者)の手の内で動かされている場合が多い。それは軍・産複合体、ロービーイスト、情報機関であったりするわけだが、ジョセフ・ナイたちが中国や北朝鮮の脅威を煽って、安全保障政策の勧告を行い、それに従っていると日米関係は良好であるという幻想を作ってきたのであった。2006年9月に成立した安倍晋三内閣は「集団的自衛権」の解釈変更を最重要課題(それは2014年の第2次安倍内閣でも繰り返している)に掲げた。北朝鮮を日米共同の敵として軍事的提携を強化することであったが、2007年8月にブッシュ政権は北朝鮮をテロ支援国家の指定から解除する方針に転換したので、「不可解」と思った安倍内閣は崩壊した。日中関係に火種を残しておくという「オフショア-・バランシング」戦略は、米国にとっても戦争に巻き込まれる危険性があり、ブッシュ大統領は危険回避の方向へ舵を切ったようである。だからオバマ大統領は「日本と中国が話し合いで解決してほしい」と求めたのである。クリントン国務長官やバネッタ国防長官は「話し合いによる平和的解決」を繰り返し求めている。これが米国の「中立の立場」である。米国は尖閣諸島の領土権が日本なのか中国なのかはあいまいにしている。米国は尖閣諸島に軍事施設を持つ以上、第3者ではなく当事者である。そもそも「尖閣問題」が起きたのは石油があるかも知れないという経済的興味から出発している。だから小さな島の領土問題ではなく、経済問題としての解決を図ればいいのである。それには日本、台湾、中国、米国の企業が共同開発に当たればいい。東シナ海のガス田開発に旧輸出入銀行が融資したような共同開発の枠組みを作ってゆく必要がある。日本も尖閣諸島は固有の領土であり領土問題は存在しないという態度を改め、「領土問題の存在」を認めて、直ちに関係諸国と協議に入るべきである。

第6章 日本外交の第三の道を求めて

民主党の鳩山内閣の外交政策でおかしくなった日米同盟を建て直し強化することが一部で叫ばれているが、ところが「尖閣問題」、「北方領土問題」、「竹島問題」では米軍のプレゼンスはゼロに近いのである。ロシアの実効支配が続く「北方領土問題」、韓国の実質支配が続く「竹島問題」で米軍の出る幕はなく、「尖閣問題」ではべいこくは「中立」の立場を堅持している。いくら「日米関係を強化する」といっても戦争状態にあるわけではなく、米国に期待するところはなきに等しい。米国の覇権が後退しつつあるなか、中国は超大国に成長した。つまり個々の領土問題という領域を越えて、今や日本の安全保障や外交のあり方そのものの問いなおしが求められている。故高坂正堯京大教授は1964年「海洋国家日本の構想」を発表した。55体制は外交や防衛は米国に委ねてひたすら「経済立国の道」を選択した。その結果は当然のことであるが日本独自の外交政策は不在となっている。高坂氏は「非武装中立論」と「重武装論・核武装」といった両極論を退け、最小限の軍備の必要性と有効性(自主防衛)という現実主義を主張した。また安全保障の問題はあくまで消極論であり、本来日本国は開かれた国で生きることである。つまり「イギリスは海洋国家であったが、現在日本は島国に過ぎない」という。アメリカへの追随と自己主張の放棄が日本の国是となってしまった。超大国中国の台頭は、日米安全保障体制の相対化を促し、米国自体が中国を敵視していない。「中国は日米共通の敵」という考えに凝り固まっていると、また米国にはしごを外されることになる。ジャパン・ハンドラ-の理論家ジョセフ・ナイは「日本が手にできる唯一b¥の現実的選択肢は日米同盟しかない」という。2012年8月にアーミテージとナイは「日米同盟」第3次アーミテージ報告をとりまとめ、「日本が一流国でいたいなら日米同盟に関するこの勧告を受け入れなければならない」と日本を恫喝した。安倍政権はその線に沿って動いているようであるが、「集団的自衛権」とは国連憲章51条にある「国連加盟国に武力攻撃が発生した場合、国連が必要な措置を取るまでの間、個別又は集団的自衛権の権利を否定するものではない」という定義である。日本では集団的自衛権の行使は憲法違反であるというのが歴代政府の見解であった。京大法学部国際法の教授である浅田正彦氏は「権利とその行使は別問題であり、国際法の権利をその国が自制することは常識である」という。つまり信号が青なら進むことが出来るという権利と直ちに進むことは別問題である。自分の命が惜しければ安全を確認してから進むという態度が正解であるというのと同じことである。日米安保条約で日本の同盟国であるアメリカが攻撃されるという事態を想定しているのだろうか。現実にはちょっとありえない事態である。むしろ日本が攻撃された時アメリカが助けるというのはアメリカの問題である。ところが安倍晋三首相は2006年政権についてから、集団的自衛権の行使を打ち出した。安倍氏の狙いは北朝鮮を共通の敵として、かっての朝鮮戦争のときのようにアメリカ軍が攻撃された時自衛隊が米軍援助に出かけられるといいたいのであろう。しかしブッシュ大統領は北朝鮮をテロ支援国家から外してしまった。共通の敵がいなくなった安倍氏は困惑して首相を辞任したのである。

冷戦が終わった1990年代に日米同盟の再考が起った。1996年4月、橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領の間で合意された「日米安全保障共同宣言」は、そのことを両国の首脳レベルで確認するという意義を持っていた。翌1997年9月、両国政府は、作戦運用面における協力の具体的な要領を示す新たな「日米防衛協力のための指針」(新「ガイドライン」)に合意した。これが「日米同盟再定義」の過程である。新ガイドラインのもとで自衛隊の活動領域は拡大したが、果たして自衛隊の重装備の方向は日本の自立をもたらすのだろうか。アメリカに抱き込まれた「自主外交」は、90年代からさらに大きくなったジャパン・ハンドラ-のもとで、身動きできなくなっている。ハーバード大学のホフマン教授はこの安保再定義について「日本が引き続きアメリカ外交政策の従順な道具になる。つまり独自の対中政策を持つことなく、アメリカの信頼できるジュニア・パートナーであり続けるだろう」と喝破した。永久に日本はアメリカ従属の二流国であり続けることをアメリカは期待している。元外務事務次官の矢内氏は2010年「日米関係とは、騎士と馬」の関係であるといった。日本は「馬」、アメリカは馬に乗る「騎士」である。「原子力ムラ」の存在が福島第1原発事故で明るみに出されたが、「安保ムラ」とは「事務方同盟」といわれる防衛・外交の官僚と日米の軍需産業の利権構造である。この利権構造は、だれしも的中しないと見ているミサイル防衛問題(PAC3配備)に端的に示されている。原発ははたしてミサイルから守られるのだろうか。経産省は「弾道ミサイルに有効に対処できるシステムはありません」と認めている。原発を狙って打ち込めば核弾頭は必要ないのである。核ミサイルとを打ち込むのと同じ効果である。日本海側の原発は全く無防備であり、迎撃ミサイルは日本の防衛には全く機能しない。「軍備の論理」とはかくも幼稚なものである。1980年以来アメリカがミサイル防衛に投じた税金は980億ドル(約10兆円)で、この回収先が日本なのである。北朝鮮の脅威を煽って日本に導入させたのである。その中心だったのが元防衛事務次官の守屋武昌氏であった。日米平和・文化交流会を軸とした日米軍需産業の巨大な利権の闇(氷山の一角なのだが)が明るみに出された。安保ムラでは日本の核武装が語られており、原発の使用済み核燃料からプルトニウムを生産することで日本は世界一の「プルトニウム大国」とよばれ、これが事実上の「核抑制」になると信じられている。逆に言うと原発をなくすることは「核の潜在能力」を放棄することになり、ここで原発の安全保障的役割を守ろうとする勢力が原発再稼働をもくろんでいるのである。原子力の平和利用で出発した原発が原子力の軍事利用に利用されたのである。

石原氏は東京都の尖閣諸島購入支援を呼びかけた米国誌の広告文の中でとんでもない発言をしている。まるで投資を呼びかける宣伝文句である。「沖縄県は極東における米軍投射のための、不可欠の戦略地政学的重要性を担っている」とまるで沖縄県をアメリカンの半永久的軍事基地であると規定してのである。これが米軍の内部報告書なら分らないでもないが、日本人が書いた文章としては「売国奴」ものである。沖縄県をアメリカにささげてどうぞお使いくださいというようなものである。沖縄に対する最大の侮辱である。日本本土は沖縄県の犠牲の上に立っている。実にサンフランシスコ講和以来60年以上にわたる日米政府の「沖縄ただ乗り」という安保体制の構図である。新型輸送機オスプレイの沖縄配備問題は、日米地位協定によって米軍機には航空法が適用できないため、自由な飛行訓練ができることに問題がある。これでは植民地ではないだろうか。2006年の「日米合意」は、普天間基地を辺野古に移転する問題と、米軍再編の一環として海兵隊のグアム移転する問題をセットにしたものである。この2つの事案は全く次元の異なったものだったにもかかわらず、米国は強引にくっつけて海兵隊のがグアム移転費用まで日本に負担させようとした。魂胆丸見えの語るに落ちるはなしであった。辺野古基地問題が長引く中で、2012年2月に海兵隊の「先行移転が決定された。これは沖縄が中国・北朝鮮に近いという戦略的位置が、中国軍装備の近代化によりミサイル命中精度が飛躍的に高まり、リスクを避けるため沖縄県にいる海兵隊を分散する必要があったのである。沖縄にいる海兵隊が抑止力になっているという神話は、その先行移転計画(沖縄から逃げ出す始末)によって破綻した。沖縄は米軍の出撃の拠点として機能してきたが、いまや攻撃の対象となるリスクの方が大きい。沖縄の位置を「軍事の要石」から「信頼醸成の要石」に変えて東アジアの緊張関係を和らげるという、日本外交の転換を図らなくてはならないというのが著者の「第三の道」論である。3か国との間に領土問題を抱えて身動きが取れない状態にある「日本外交の呪縛」から脱却するには、まずロシアと韓国との間で領土問題の戦略的解決をはかり、両国との提携関係を深めて、中国のプレゼンスに対応するという方向性のことである。「最大限味方を増やし、最小限敵を少なくする」というのは古来から戦略上の鉄則である。グローバル化の世界において「全方位外交」路線は必然の流れである。ところが日本は60年以上日米基軸に固定化されてきた。日本外交の「日米基軸」論が自己目的化している。これでは国際関係の変化にはついてゆけない。今や米国は米中両国G2によって国際秩序の維持を図る路線が基調であるが、軍事的な対応は怠ることではない。2010年2月米国国防省は「エアー・シー・バトル構想」を提出した。海空の全次元における中国の「アクセス阻止・領域拒否」を打破する戦略のことである。ところが民主党野田政権は自民党ができなかった軍事政策を官僚の言うがままに次々とやってしまった。2011年12月「武器輸出3原則の緩和」、2012年1月JAXA宇宙航空研究機構の業務目的か「ら平和目的に限定する規定」を削除した。6月原子力基本法の改正において、原子力の利用目的に、「我国の安全保障に資する」との文言を盛り込んだ。核武装への道を開くものとして極めて危険な思想である。野田政権は国家ビジョン検討のためのフロンティア分科会で集団的自衛権に踏み込む報告書を提出した。「平和日本の公共財」であった諸原則を野田政権は次々と骨抜きにしたのである。この諸原則こそ、武器輸出3原則であり、宇宙の平和利用であり、原子力の平和利用であり、非核3原則であり、集団的自衛権の行使は憲法違反であるという原則であった。日本が維持してきた重要な平和諸原則こそが、今後の国際公共財としての位置を占めなければならない。


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