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阿部彩著 「子どもの貧困U」 
岩波新書(2014年1月) 

「子供の貧困対策法」の政策課題を考える社会政策学

2013年6月26日「子どもの貧困対策法」が成立した。これは理念法であって、誰も反対者がいないほどもっともな法律である。しかし「子どもの貧困対策に関する大綱」つまり政府・自治体が何をなすべきかとか、子供の貧困の物差しをどうするかなどは何も決まってはいない。本書の終章にも述べられている通り、「大綱」は内閣府「子どもの貧困対策会議」においてこれから議論するそうである。稲葉剛著 「生活保護から考える」(岩波新書 2013年11月)のように、貧困問題に関する書物は現場の社会運動家による発言が多く、小さな権利獲得のための戦いをドキュメンタリー風に述べた書が多い。本書は濱口桂一郎著 「新しい労働社会ー雇用システムの再構築へ」 (岩波新書 2009年7月)のように、厚労省の政策研究所機関の職員による、政策立案のための資料である。ところが最初から、何をなすべきかという中身がない状態だと白状されてびっくりした。正直でいいのだけれど法律ができた時点で何をなすべきかが決まっていないなんてことがあるのだろうかちょっと解せない。実施官庁の社会政策研究者の書というのは、本書の阿部 彩著 「子どもの貧困U」の場合も濱口桂一郎著 「新しい労働社会ー雇用システムの再構築へ」の場合もそうであるが、官僚政策立案文書は、いつも海外の事例研究や海外文献紹介ではじまり、なすべき項目は網羅的で個々の課題に取り組んできたものの文章ではない。つまり社会問題を解決するために行動する者の視点ではなく、管理する官僚の視点で広く浅くプライオリティの選択問題として扱われる。そこには働く者の視点、貧しいものの苦しさは感じられない。何を先にやったら費用対効果が優れているかといった社会政策論である。つまり方法論であって課題解決策ではないのである。本書の結論から言って申し訳ないが、子供を投資対象に見たり、人的資源(人材)として見ているのであり、私はこういう見方に納得ができない。財務省から予算を獲得するための作文の方便だとしても、「貧しい子供に支援という投資をすれば、その子が成功して働いて裕福になれば税金が入るので、差引き国家として投資は儲かる」という筋書きは、嘘も方便というようなラフな計算で書かれている。権威づけるためにその方法論だけがいやに精緻にできている。では知的障害者などには金を出すなと言っているに等しい。憲法には生まれただけで人権と生活する権利は保障されなければならないという。限られた国家予算のなかで政策の選択と集中が必要だと官僚は云うが、すでに破たんした国家財政を無制限に食い物にしている政治家や企業集団(金融危機の際の銀行救済、原子力ムラ、公共事業など言い出せばきりがない)が国家を乗っ取っている事実は無言で隠している。そして本書の巻末にある著者の経歴を見て気が付いたのであるが、阿部彩氏が引用される研究や調査例がアメリカの例が多い。アメリカは貧困問題は個人の責任で国家は救済しないというが、そのアメリカで福祉政策を研究しても見るべきことは少ないのに、なぜ社会福祉の本場である欧州で研究しなかったのか不思議だ。貧困は富裕層の恵みと慈悲で解決することで有名で、従ってアメリカの福祉社会政策は貧弱で参考にならないのではないかと思う。アメリカで福祉政策を研究した阿部彩氏の不明というかジレンマというか残念でならない。

阿部彩氏がアメリカで学んだことは方法論としての社会政策学であって、社会政策の中身ではないだろう。従って本書で子供の貧困の現状を述べるのは第1章と第2章のみで、大半は社会政策学の手法や理論である。社会問題を扱う方法論はアンケートやデータの扱い方、統計的確かさ、実証方法の精確さなどから始まり、モデル事業の紹介とメニューのプライオリティの検討である。社会運動家のような人に寄り添った問題の解明と対策ではない。それは官僚の仕事のやり方なのでとやかく言っても始まらない。本書の始めに、2008年は日本の社会政策学者の間で「子どもの貧困元年」と言われる年であると述べている。NHK、メディアなどが一斉に子どもの貧困問題を報じ、子供の貧困が政策論議の机上に上がったとしであるという。2006年小泉内閣の竹中平蔵総務大臣は「社会的に解決しなければならない大問題としての貧困はこの国にはない」と明言しました。つまり貧困は政治課題ではなかったので、「子どもの貧困と書くと上司は、子どもと貧困を同じ文章で使うな。国民に誤解を与えると言って書き直しを要求された」と著者は終章に述べています。貧困が広く深く進行している現状を政治家や官僚は認めたくなかっただけのことで、2008年に貧困が突如始まったわけではないのです。稲葉剛著 「生活保護から考える」にも述べられているが、子どもの貧困とは親の貧困とイコールであるが、その人に与える影響度は子供にとって人生を左右するほどである点に注目しないと、子どもの貧困の重大性・特徴はわからない。「貧困の連鎖」は食い止めなければならないというが、その明確な解決法が分かっていない。なぜなら本書のような厚労省官僚が考える社会政策論の範囲では解決がつかないからである。政治的に方向性を与えない限り、官僚は動きようがないともいえる。ながく貧困問題は存在しないと言ってきたので、子どもの貧困政策とその効果の日本の事例研究が皆無であると著者はこぼしている。著者は2008年「子どもの貧困」(岩波新書)を著し、そのあとがきに「日本の貧困の現状について、多くの人が納得できるデータを作りたい。それが私の研究テーマである」と書いています。本書は5年後の「子どもの貧困」パートUにあたるが、いまなお何をすれば子供の貧困が解消できるのか、解決の道筋すらわからない状況であると白状しています。では巻末より著者阿部彩氏のプロフィールについて記す。氏は米国のMIT卒業後、大学院はタフツ大学を卒業し、国連や海外経済協力基金を経て、1999年国立社会保障・人口問題研究所国際関係部室長に就任し、現在は社会保障応用分析研究部長である。つまり政策を裏付けるためのデーター作りが仕事である。2011−2013年内閣官房社会的包摂推進室企画官を務め、各種審議委員・専門委員などを歴任した。専門は貧困、社会的排除、社会保障、公的扶助の分野である。著書には「子どもの貧困」(岩波新書 2008年)、「弱者の居場所がない社会」(講談社現代新書)などがある。

1) 子どもの貧困の現状と要因

子どもの貧困の広がり、その影響そして景気回復がすべての解決策かという問題について考えよう。子どもの貧困の指標として就学援助費の受給率と相対的貧困率をみる。就学援助費の受給率は各自治体が掴んでいるデーターで信頼性がある。所得制限は生活保護制度の基準額(東京都の場合、夫婦と子供一人では月額16万6810円)の1.1倍から1.3倍に設定されている。この就学援助金受給率(公立小中学校の子供に対する)は2000年以来上昇を続け、2011年には15.5%になった。大阪府の受給率は27.4%と断トツであった。相対的貧困率は「国民生活基礎調査」から所得データを用いて計算され、等価世帯所得(世帯総所得÷√人数)の中央値の50%(OECD)、60%(EU)を貧困基準とする。厚労省発表によると相対的貧困率は1985年には12%であったが、2009年の相対的貧困率は16%になった。日本では1985年以来格差社会が確実に進行していたのである。子供の貧困率も国民全体の貧困率も全体として連動して増加を続けている。これまで貧困問題は働けない高齢者の問題と理解されていたが、年齢別貧困率を見ると25歳以下の貧困率も高い。生活保護制度は高齢者世帯と疾病・障害者の世帯、母子世帯が受給者の圧倒的多数を占めている。先進20か国の子供の貧困率(日本は15% 2012年)を比べるとアメリカが断トツに高く日本はワースト4位であった。日本のひとり親世帯で育つ子どもの貧困率は58.7%と世界一高い。母子世帯(124万世帯 子どものいる世帯の約12% 勤労平均収入は年181万円 子ども扶養手当など給付金を入れて年平均収入は291万円)の貧困率は50%以上である。日本の貧困の特徴は「ワーキングプアー」が多いことであり、低賃金の非正規労働がその原因である。貧困が子供に及ぼす影響はまず学力格差に現れる。親の所得と子どもの学力は比例関係にあることが実証されている。そしてぜんそくなどの健康格差は親の収入に反比例する。収入の多い裕福な家庭では、教育にかける金が多く塾に通わせて学力をつけているし、健康にも注意し疾病率も低い。2008年全国の15歳以下の無保険の子供は約3万人存在することが分かった。無保険児童対策は行われたが、自己負担による受診抑制は依然として続いているようだ。貧困家庭では不登校・児童虐待のリスクも高い、更に心配されることは貧困が子供から希望と自己肯定観を奪い、将来の夢が持てない子供に育っている。このことは向上心をなくして勉学もなおざりになっている状態であろう。金銭的に塾に通えるかどうかより、やる気をなくしている子供が問題である。問題は学力だけではない。親や家庭内のストレスが身体や心理に及ぼす影響がある。ストレスの最大要因は、他者に比べられる劣等感・絶望感、金銭的困窮など貧困に深く関係している。子供期の貧困経験(食事、衣服、医療機関の受診が満足な状態でなかったこと)が、子供が成人になってからの学歴や雇用、収入、犯罪などに密接に関係する。いやなことであるが、生活保護を受けている家庭に育った子供は、成人してから生活保護受給者になる確率が高い。これを「貧困の世代間連鎖」と呼ぶ。

貧困を放置しておくとかえって社会的には高くつくことを「貧困の社会的コスト」という。貧困易により高校を中退し、満足な仕事に付けず不安定な仕事にしか従事できない人がいたとする。課税対象に満たない収入で税金も社会保障費を払えず、生活保護を受けるようになったとし、健康も不安で多くの医療サービスを受けているとする。もし彼にたいして貧困を脱する可能性を持った支援をしていたらどうだろう。彼が受けたサービスの総量は社会的コストと言い、約5000万円になるのではないかと計算され、また彼が満足な仕事につけば5000万円ほどの税金や社会保険料を支払うだろう。必要でなくなった社会的コストと彼が社会に貢献する社会的収入を足すと約1億円の「便益」となる計算である。貧困脱出支援にかかった費用を差し引いても十分泌するという考え方である。こうして長期的に考えると一見高いように見える貧困対策も未来への投資と見えてくるという論理である。これはあくまでサクセスストーリーにすぎず、簡単に計算ができるデータもないのでお話に過ぎないが、とかくアメリカでは貧困対策もお金の損得計算で成り立っているようだ。もしこの計算が成り立たないなら生活困窮者はお荷物となり、彼らにかかる社会保障費は大きな政府の歳費となり、1%のお金持ちの財産を奪うとして猛反発を招くのである。このようなお金の計算で社会福祉の効用を説く論理は、どちらに転ぶかはお金持ちの慈悲心次第で、社会福祉政策とはならない。とてもペイしそうにない戦争には無条件に突進するアメリカ新自由主義政府にこのようなお金の損得勘定を説いても、釈迦に説法とばかり無視されるであろう。アメリカには「トリクルダウン理論」を説く経済学者が多い。経済成長の恩恵はまず富裕層を優先し、その金持ち層のおめぐみが貧困層に落ちてくるのを待つという身勝手な論理がある。果たしてそうだろうかと調べたケンワーシーという社会学者の研究がある。1979年から2007年までの主要先進国17か国のGDPの上昇と最貧層(所得が低い10%以下の層)の所得の上昇をしたべた。相関して上がる国としてスウェーデン、アイルランド、イギリスであったが、無関係だった国にはアメリカ、ドイツ、オーストラリアであった。この30年間の最貧層の勤労所得の変化だけを見ると、すべての国において最貧層の勤労所得はかわらない。スウェーデン、アイルランド、イギリスで最貧層の総所得が増えたのは政府からの現金給付のおかげであった。つまりGDP上昇分の再配分によって所得が上がったように見えただけであった。アメリカ、ドイツ、オーストラリアでは再配分もしなかったようである。なんと無慈悲な国ではないか。同時期の日本の景気動向を見ると、景気の良かった時期は何度もあったが、企業のみがその恩恵を受け勤労者の所得は上昇しなかった。根本的なトレンドとして貧困率は上昇し続けている。そして日本は最貧層への社会支出(再配分)は何時も極めて小さいのである。経済成長によって格差は解消しないばかりか、企業利潤を増しただけで格差は拡大し続けている。これが新自由主義経済の強欲さであろう。阿部彩氏が社会政策論のジレンマに陥っているのは、アメリカの社会福祉を研究の基礎においているからで、強欲な1%裕福層の慈悲にすがるアメリカから離れて、社会革命を考えることを阿部彩氏に薦めたい。1%層は利益を独占して貧しいものに、びた一文お金は回さないのである。

子供期の貧困と、大人になってからの貧困をつなぐ因果関係、これを「連鎖の経路」と呼ぶ。大学への進学率は親の所得によって大きく異なる。そのために普通の貸与型奨学金や、貧困層には給与型奨学金が考えられる。しかし貧困層の子供は最初から大学進学を考えていないことが多い。それは貧困層の子供は小中学時代にすでに「落ちこぼれ」になって、大学受験を考える学力がない場合が多いとされる。相当以上の学力のある貧困層の子供がいて経済的障壁を乗り越えることができれば給付型奨学金制度も重要な政策になる。ところが貧困の子供が抱える問題は、大学受験のもっと前の段階から存在し、その内容も複雑だ。「連鎖の経路」の問題には、金銭的問題、家庭環境の問題、遺伝の問題、職業の問題、健康問題、意欲・意識の問題、その他の問題と多岐にわたる。そして経路の重要度(相関度)にも深浅があるのだ。
金銭的問題としては、学校と学校外の教育資金が高いことがあげられる。年間教育経費は公立校では小学校で20万円、中学校で29万円、高校で15万円と言われる。これに学校外活動費(塾、習い事、スポーツなど)にかなりの学の金が必要である。教育も金で買う時代となり教育格差が生まれる背景をなしている。貧困家庭の家計費のひっ迫は経済的・心理的ストレスである。また親の資産が少なく、住宅購入は最大の難事である。
家庭問題としては、親や家庭内ストレスの身体的・心理的影響が大きい。親の生活の乱れ、荒れはダイレクトに子供の心を傷つける。妊娠時の母親のストレスは胎児への影響が強いとされる。親の病気特に精神疾患(鬱・自殺など)は低所得者に多い、低所得が精神疾患を生むのか、精神疾患のため働けないので低所得になるのか、鶏が先か卵が先か判別しない。また親の精神障害は子供に遺伝する場合がある。貧困にあることは子育てにも影響する。共稼ぎ世帯では、長時間労働で両親とも子供に接する時間が少なくなる。家庭内の育児環境が社会経済階層によって異なっている。それはしつけや友達付き合いに関係する。それに親が社会的に孤立している場合、子どもは支援の手を受けられる機会をなくしている。
遺伝の問題としては、アメリカではIQと貧困の相関が研究され、「バカな親の子は馬鹿 だから貧困から抜け出せない」といった極端な自己責任しかも遺伝を問題とする言動は差別につながっている。親と子の認知能力(IQで認知能力が測定できるかどうか別問題として)の相関は、生物的遺伝によるものではなく、家庭環境など社会経済的要因を親と子が共有しているからだという見解が正論であろう。
職業問題としては、今やセレブな階層では親の職業を継ぐことが安易なスタート地点として極めて有利なスタンスとなっている。歌舞伎界、政界などどこもかしこも2世、3世の時代である。おいしい立場を独占した彼らが富裕層を形成し、風通しの悪い閉鎖的身分社会を作っている。逆に貧困層では子供が限られた範囲で職業選択をすることで、階層間上昇の機会と気力をそがれている。
健康問題としては、成人の健康状態と経済状況にはあきらかな相関がある。経済状態の悪い人は健康状態も悪いのである。それは医者にかかれないという経済問題である。悪化するまでほっておくのはふしだらではなく、金がないからである。健康問題を個人の問題にするのは新自由主義者の常套的言動である。子供の健康格差は精神疾患(発達障害・知的障害)にまで及んでいる。健康にまで貧困の連鎖が広がっている証拠である。
意識問題としては、社会経済階層によって、子どもの学習に対する態度が異なることが実証された。これを「意欲格差」という。テストでよい点が取れなくてむ悔しいと感じないとか、自分が成人して世の中に役に立つ仕事をしていると想像しない子が貧困層で多いのである。このように貧困層の子供は親からの期待も低く、自分自身も社会にとって価値ある人間と思っていない。頑張っても仕方ないという意識を生んでいる。福祉制度を攻撃する論説に「福祉文化説」がある。公的扶助を受けて受けている子供はそれに慣れて努力する気がない」という論である。福祉政策は努力しない子を育てるといういかにもアメリカ型の貧困の自己責任論でる。この説は実証していないし根拠も疑わしいが、実際生活保護世帯の子供の高校進学率は一般世帯を大きく下回っている。
その他の問題として、地域・近隣・学校区ごとの質に注目する考えや、貧困世帯の子供は早い時期に家を離れる問題と、早熟に子供を産む問題、薬物依存生活問題、帰る家を持たないことで犯罪や劣悪な環境にさらされる転落の問題がある。これはアメリカの黒人問題に通じる問題がある。どの経路が重要なのかという相関分析により貧困の連鎖を見る研究がある。相関関係が高いのはいうまでもなく経済的要素である。世帯年収は母親の経済的困窮と家庭での教育文化投資に密接に関連し、それは養育の質の低下へ結びつき、そして子供の問題行動と生活の質に相関するが、教育投資は学力の向上につながるが生活の質には関係ないという知見がえられる。当たり前の結果が数値がついて述べられているので、政策の選択肢の評価には使えるが、相関分析につきものの原因と結果を分離できないきらいがある。

2) 政策と対象者の選択

どのような政策を優先するか、誰を対象にするかについての社会政策の方法論である。子供の貧困対策プログラムについて筆者が思いつくままに73項目の課題を列記しているが、この各論を検討するのではなく、政策の効果、政策の収益性についての方法論概論を述べる。プライオリティを決めるときの評価方法である。そして誰を対象とするかについては、普遍主義と選別主義の長短を述べる。政策の効果の検証方法であるが、すべての政策について厳密には政策の効果が検証されてから実施されてきたわけではない。多くは根拠の乏しいまま実施され、うまくいった場合もあれば取りやめになったこともあるという。その理由は測定が難しいこととデーター上の制約からである。民主党内閣でかって事業仕分けという結果的政策評価事業が行われた。本書は事業を始める前に政策の効果を科学的に予測することで、効果的な政策の優先順位を決めるものであるから、その難しさは十分に理解できる。政策は多くの場合政治家の方向づけがあって決められるものと理解していたが、これを科学的に方向づけをするというポリティカルサイエンスは「エビデンスに基づく政策立案」ともいわれる。それには医療効果を調べる実験に似た手法が必要である。政策を実施する実験区と実施しない実験区(コントロール)に分けて効果を測るというものだが、まず子供を対象とした実験は道義的倫理的に許されないだろう。子供の貧困対策のプログラムは特に実証が難しい。総合的かつ長期の評価が必要で、子どもだけの対策ではうまくゆかず親の支援を含む環境をそろえる必要がある。さらになさけないことに政策のエビデンスとなる指標がはっきりしないことである。学力テストの成績がちょっとよくなることがその子供の人生を改善するのだろうか。支援者が横にいて一夜漬け勉強で成績がアップするようなことかもしれない。指標としては「すべての子どもが享受すべき生活レベル」を念頭に置きながら効果測定の指標を選択することになろう。ところが保育プログラムや、親への億時相談プログラム、放課後かぎっ子プログラムと言っても、精神的安定、自己肯定観など目に見えず測りにくい効果である。筆者はこのような効果を客観的にはかることは難しいという自己撞着を起している。同様に事業の収益性(ちょっとなじまない言葉で、NPOの収益みたいな話)すなわち、その子が大人になった時、どれほどの所得を得ることができるか定量的に予測することは難しい。貧困対策政策を人的資源投資として論じきれるのだろうか。普通の人の大学進学の投資効率でさえ計算できるだろうか。東大卒と京大卒の生涯賃金とかかった費用対効果できれいな結果が出るとも思えない。残念なことに日本においては、子供の貧困の解決に向けた政策は始まったばかりであり、詳細な効果測定も収益性の推計も行われていない。

どのような人を対象とした制度設計とするかは最も重要な問題である。貧困世帯の子どもをどう選別するか、世帯の所得調査のうえ、児童養護施設の子ども、生活保護受給者の子ども、母子世帯の子ども、低所得者世帯の子ども(生活保護基準額の何倍までカバーするか)など、また何歳までを対象とするかの絞り込みが必要である。定義は別にしても貧困児童だけを対象とする政策よりも、義務教育といった政策がすべてを解決する場合も多い。どのような子どもでも対象とする政策を「普遍的制度(ユニバーサル制度)」といい、貧困の子どもに対象を絞る制度を「選別的制度(ターゲテッド制度)」と呼ぶ。ここでは普遍主義と選別主義の長短を述べる。多くのヨーロッパ大陸諸国においては、子どもに対する現金給付や現物サービスについては、圧倒的に普遍的制度を支持する場合が多い。児童手当や保育サービスなど多くの制度が所得制限なしに設計されている。一方アメリカやオーストラリアなどアングロサクソン系の国においては、子どもの貧困に対する制度は選別的である。選別的制度は必然的に漏給を免れない。そのかわり安くつく。そして貧困にならないように先に手を打つ政策は「川上対策」といい、義務教育・最低賃金・健康保険制度などは基本的に普遍的である。貧困になった人の最低限の生活を保障する政策は「川下対策」と呼び、生活保護・就学援助・保育サービスなど基本的に選別的である。普遍主義から選別主義への批判を次のような論点である。
@ 政治的に、貧困の子どものみを対象とする制度は小さな政府論からしばしば削減の対象となる。2012年の生活保護パッシングと生活保護基準の引き下げがそれである。
A 川下対策で受給することは、しばしば偏見の対象となり、受給者を社会から孤立させ固定化する原因となっている。対象者が社会的弱者であって、対象が絞られるほど石を投げやすいのである。ヘイト発言を招きやすい。
B 選別に手間費用がかかる。所得だけでなく資産も把握するには行政コストがかかるり、かつ不正確である。選別的制度は受給者に「給付を受けるに値するかどうか」を証明する義務を課す。生活保護では扶養する家族の意思確認は疎遠となっている本人にとって苦痛である。
C 所得制限があることは労働インセンティブを低下させる。基準額以下に所得を抑えるのではないかという懸念である。
D 漏給の問題がつきまとう。たとえば日本の生活保護の捕捉率については、厚労省は32−87%と推計するが、政策研究者らは10−30%という。
一方普遍主義への批判は次のようなものである。普遍主義の最大の欠点は財政負担が大きいことであろう。同じ財源規模であれが「広く薄く」配布するより、貧困層に絞って「狭く厚く」給付する方が効果があるとみなされる。選別的制度はニーズに基づく給付であるが、普遍的制度特に現金給付は政治的人気取り政策、「バラマキ」の印象が強い。これらのことから義務教育や医療サービスなどの現物給付は普遍的制度にし、現金給付は選別的制度にすべきだとする使い分け論の意見がある。

次に誰がその費用を負担するかという問題で、「大きな政府」と累進課税制度、「小さな政府」と減税、制度抑制・削減傾向が話題になる。富裕層には減税が喜ばれ、消費税は低所得者に不利に働く逆進性をもつ。これら税制・財政の問題は避けて通れないが、選別主義と普遍主義のどちらが貧困削減により効果的かを考えよう。社会政策学会では普遍主義が優れているという定説がある。社会保障制度の普遍度が高いほうが、GDPの再配分度と比例している。つまり所得格差が小さくなるという説である。普遍的制度の代表はスウェーデン、選別的制度の代表はアメリカとオーストラリアである。選別的制度の方がダイレクトに格差解消に向かうはずであったが、実は費用をかけることを惜しむあまり微々たる格差解消に過ぎず、総合的に生活レベルの改善になっていないのである。これを「選別主義のパラドックス」と呼ぶ。普遍主義では再配分される富の規模が絶対的に大きいので効果も大きい。「小さな政府論」(新自由主義国家)では貧困対策は対象を絞った言い訳程度の対策にすぎず、貧困対策に金をかけたくないのである。その富の配分は1%の裕福層の独占になっている。日本では国民皆保険、国民皆年金などの社会保障制度が整備され、一見普遍的制度が主流のように見えうるが、2013年所得制限のある児童手当が復活した。特に高所得者への普遍的制度の適用には強い抵抗感があり、この点はオーストラリアに似ている。児童手当の所得制限は960万円以上と高く設定されているので、実体は普遍的制度に近いと言える。しかし医療サービスのような現物給付については普遍的な制度を是としている。現金給付は選別的制度というやり方が日本の政策的使い分けなのであろうか。子供の貧困対策を行うためにある程度のターゲッティングをするならば、対象規模も考慮しなければならない。たとえば児童養護施設在籍児童数は2.9万人、生活保護世帯の児童数は28.6万人、低所得世帯の児童扶養手当を受給する子供の数は169万人。相対的貧困率で見る貧困の子どもの数は326万人である。これらを念頭に入れ制度の網をどこまで適用するか、年齢の範囲の設定(貧困の影響が大きいとされる乳幼児2−6歳の優先など)、震災被害地域の設定、学校や施設のタイプによる設定なども重要である。改めてある程度のターゲッティングは避けられない財政状況で、貧困層のみを対象とする選別的制度は不可避的に差別と偏見というスティグマを生み出す。社会的なパッシングを受けやすく受給者を孤立に追い込まれることを「ターゲッティングの罠」という。

3) 現金給付と現物給付の比較

政策の選択肢は大きく分けて、現金給付と現物(サービス)給付になる。現金給付はお金を世帯に給付するもので、児童手当、失業給付、生活保護などがそれである。また税額控除もこの現金給付に近い。現物給付(サービス)は、ものやサービスを直接給付するもので、教育、保育サービス、医療サービス、住宅などがある。よく言われるパッシングに「児童手当をもらってパチンコをする親」というフレーズがある。だから現物(サービス)給付の方がいいという意見がある。極端な主張として給食や文具まで切符制にしたらという自民党議員の考えもあるが、戦前の配給制に近いイメージで貧困児童の人権無視も甚だしい。特別扱いすることで異様な目で見られ差別と孤立化につながる恐れがある。子供の貧困対策を論じるとき、いつも問題となのが現金給付がいいか現物給付がいいかということである。結論は政策の目的によって使い分ければいいということなのだが、「子どもの貧困の原因は何か」(個人としての親が悪いのか、社会が悪いのか)という議論が絡んでいる。現金給付には所得効果という確実な約束が存在する。貧困世帯に現金を給付すれば、子どもが将来貧困の連鎖から逃れる確率を高めると期待される。生活保護者に就労支援というサービスを行って職につけたとして、喜ぶのは行政のみで生活保護費が給料に代ったということに過ぎない。それも本人が低所得で生活する実態はそれほど変わらない。だから政策バッテリーとして就労支援に所得補償を加えると、「福祉から就労へ」と転換するのみならず世帯所得も上昇する。アメリカでの現物支給の数々のプログラムの効果測定では、現物支給の方が優れているという説の論拠にはならなかった。まず現金支給の利点と現物給付の利点を考えてみよう。現金給付の利点は何よりも効果が確実であることだ。現物給付はサービスの内容によって大きく性格が異なるため評価が難しい。また支援サービスを行う人の資質が決定的であるので、全国展開するときには一定の質のスタッフを配置できるかという点が問題となる。まさに現物支給がモノであるとき、必要性が薄いものを配布しても迷惑になるだけで効果は全くない。現金支給の利点はまさに貨幣の本質と同じである。互換性があり、欲しいときに欲しい対象に使用し、どんな目的にも使えるという汎用性がある。「児童手当をもらってパチンコをする親」は偏見に満ちたヘイト発言であって、貧困の親のみが賢い選択ができないというのは偏見である。いくらかの「けしからん親」がいるとしても確実な効果がある現金給付と、内容によって大きく効果が異なる現物給付の効果のどちらを取るかが重要な点である。「家計の苦しさの緩和」は現金給付でしか解決できない。家庭内のトラブルの多くは金銭ストレスに起因する。このような苦しさは、子どもに対する現物サービス給付で緩和することは難しい。現金給付で解決できないものもある。教育や保育は市場原理にまかせておくとけっして格差は解消しない。やはり公的サービスとしての現物給付が望ましい。現金給付の利点であり欠点であることは、給付が喫緊の生活の用途に使われ、必要なサービスの購入につながらない懸念がある。お金に色は付けられないなら、使途を限定した現金給付として「バウチャー制度」というものがある。回数券のような「利用券」を配布して保育所などの望ましい使用に使ってもらう制度である。

日本において子供のいる世帯に対して多くの現金給付制度がある。児童手当、児童扶養手当、特別児童扶養手当、遺族年金、生活保護制度などの現状を見てゆこう。児童手当は1972年に発足し、民主党内閣時の2年間だけ所得制限なしの「子ども手当」となり、自民党政権となって「児童手当」が復活した。2013年現在の児童手当は第1子以降の中学校終了15歳未満を対象とし、支給額は第3子以降は月額15000円、第1子と第2子は月額1万円である。所得制限は960万円で、児童手当はほぼ普遍的制度と言える。児童扶養手当は離婚や死別により片親となった子どもがいる低所得世帯に支給される「狭い」制度である。全国で約107万世帯(2011年)がいるが、1995年以降著しく増加傾向にある。母子世帯の所得制限は年額130万円で満額支給、365万円で一部支給となる。満額は月額41720円、一部支給で9850円である。母子世帯の貧困率は突出して50%を超えている。母子世帯で生活保護受給する世帯は15%に過ぎない。なお母子世帯の年平均所得は181万円である。年所得が100万円以下の世帯が28.6%も存在する。生活保護の漏給がここに見られる。日本の行政は申請主義なので、申請しなければ制度の適用はないのである。遺族年金は死別母子世帯の収入に大きな要素となっている。死別母子世帯平均収入は451万円で母親の平均就労収入は256万円で差額256万円が遺族年金による。遺族厚生年金の受給者は約445万人、受給総額は約4兆円、一人当たり90万円である。生活保護制度は収入と最低生活費の差額が補足給付される。世帯所得が最低生活費を下回る世帯のうち、実際に生活保護を受給しているのは、15−30%に過ぎないといわれる(2010年厚労省)。生活保護を受けている世帯の子どもは28.6万人で、これは子供の数の1.2%であり、子どもの貧困率15.8%に比べて、生活保護でカバーできている貧困の子どもは限定的である。OECD先進国に比べても、日本尾貧困世帯に対する給付はまだ小さいといわざるを得ない。そして再配分前と後の子どもの貧困率の減少につながったのだろうか。用いる統計基礎データによってことなるが、2012年ユニセフ推計によると日本の再配分後の貧困率が増加している結果(再配分の逆転現象)となり、日本とギリシャだけの特異現象であった。子供の貧困が配分によって拡大したという皮肉な結果になっている。これは支給額が先進国に比べて「雀の涙」程度の圧倒的に低額だからである。児童手当や児童扶養手当と言った現金給付を拡充させることが不可欠である。貧困層への現金給付をさらに高める必要がある。再配分前の貧困率が悪化していることは、若い世代の労働状況の悪化が原因である。急速に崩れている貧困格差を放置しておいて、雀の涙ほどの現金給付をしても「焼け石に水」で、現金給付は瞬時に生活費に消えて子供までに行き渡る余地がないことに本質がある。それには生活保護制度だけでは追いつかないので、給付付税額控除などのバッテリーが必要かもしれない。

子供の貧困対策としての現物サービス給付はスティグマ(烙印)を発生させないことが大切で、そこで普遍的制度として貧困層をもしっかりカバーしている、外国においても効果があるといわれている制度を紹介する。貧困がのちの人生に一番大きく影響するのが就学前の乳幼児期である。この時期は家庭環境の安定が第1で、家族を支えるための現金給付だけでなく、保育政策の拡充が必要である。(私ら終戦直後に育った世代では、保育園も幼稚園も高嶺の花で、通っていないが) 普遍的施設である保育園は子供の貧困対策として適しているようだ。保育園は子どものみならず親への包括的サービスも可能である。公的医療保険証を持たない無保険世帯がなお全国に33万世帯もいる。無保険状態の子ども総数は約3万3000人である。2009年より「子ども無保険救済法案」が施行され、ほとんどの自治体で子ども医療費助成制度を導入している。償還払い(いったん親が支払、後で自治体から返還される)が負担となる世帯もある。学校給食制度は、学校という場を貧困層の子どもへの栄養プログラムとなっている。特に最貧国には欠かせない制度であろう。貧困世帯の子どもの知的障害や発達障害への対策強化が望まれる。放置される可能性があり、学校や医療機関での早期発見と支援が必要である。就学児童の夏休み、春休みなど学校外の時間はかなり長い。その間の事故・犯罪の危険性、盛り場徘徊・非行など問題行動の増加、学力低下のリスクが高い。放課後プログラムとして、厚労省は「放課後児童健全育成事業」に補助金を出している。文部省も「放課後子ども教室推進事業」を行っているし、2012年「子ども・子育て関連3法」は貧困層の子どもを意識したとはいえない。子供の居場所事業にはその場にいるスタッフの質が成功の重要な要素である。専門性と魅力あるスタッフの養成とボランティアの参加がキーポイントである。「信頼のおける相談相手」という「メンタープログラム」には、学習支援、遊び相手のボランティアの大人の選定が重要である。厚労省は2009年より、生活保護世帯に属する子供たちの学習支援を実施する自治体への補助をしている。民間やNPO法人が多数の学習支援事業を実施している。ターゲッティングが生活保護世帯だけでなく、幅広い貧困層世帯の子どもに拡大することが肝要である。ただ支援を受ける子供たちがみじめな気持にならないように選別しないで、普遍的制度の中で貧困層世帯の子供を巻き込むことができればいいのだが。貧困世帯の子ども用施設として、昔からある児擁護施設、乳児院、自立援助ホームなどの児童福祉施設は拡充がなされていないので、今後追加的投資が不可欠である。また早期に家を出た児童が帰れる家も必要である。児童のホームレス化や風俗産業への転落を防ぐためや、犯罪・薬害から逃れるために自立援助ホームや緊急宿泊施設が必要である。

4) 教育と子どもの貧困削減策を考える

子どもの貧困政策の大きな柱に教育政策がある。教育費の格差解消、学力の格差縮小、学校生活を保障する3つの政策のことである。また教育から就労へつなぐ政策も必要である。日本は家庭が負担する教育費の割合が先進国中で最も高い国のひとつである。教育費に占める公的資金の割合は70%、OECD平均の83%より大幅に低い。これほど「小さい政府」はアメリカ、イギリス、韓国、チリしかない。かって日本の教育は世界一だとうそぶいていたのが嘘であったことが分かった。2014年3月1日13時55分のasahi.comに「子ども2人の教育費、平均で年収の4割 負担高まる」という記事があった。国の教育ローン の利用者(平均年収約553万円 所得制限890万円以内)にアンケートしたところ、家計の教育費負担が高まっていることが分かった。低所得層では6割にのぼり、生活費を節約して学費を捻出する傾向も強まった。子ども2人世帯の在学費用(塾などの家庭教育費 を含む)が年収に占める割合を算出したところ、平均40・1%で、2012年度調査より1・7ポイント増え、比較可能な過去7年で最高だった。年収200万円以上400万円未満の層では、58・2%(0・7ポイント増)にのぼった。食費の家計に占める割合は「エンゲル係数」と言ったが、現在では食費より教育費の方が高い時代になった。この結果は一目瞭然で、低所得階層ほど教育関係費の割合が高く、60%近くとなっている。教育費の格差は広がっており、年収1200万円以上の高所得者層では私立小学校生の子供一人に年額70万円以上の学習費をかけているが、年収400万円以下の低所得者層では公立小学校生にかける費用は10万円程度である。こういった教育格差ではそもそも人生の出発点が違い過ぎている。子供に与えられるべき最低限の教育費を保障する貧困対策が必要である。一つの政策は義務教育、高校教育の完全無償化である。一人当たりの教育費と給食費は公立小学校で年間で平均9.7万円、公立中学校で約16.7万円、公立高校で約24万円である。これらの経費をカバーする制度が、就学援助費である。就学援助費の所得制限は生活保護基準額の1.1倍から1.3倍に各自治体で設定している。極て低い所得層の支援にとどまっている。しかも漏れが大きい。高校性についても公立高校授業料無償化と高校就学支援金制度がある。これら義務教育と高校教育を普遍的制度として実施することが望ましい。学力格差すなわち「落ちこぼれ防止」策であるが、学校内では難しいので塾などが繁盛するわけである。家庭教師を子供に付けられる高所得層が断然有利になって、さらに学力格差を生んでいる。一流大学に入ることが人生のスタート点に立つことであるなら、高所得層は他人を押しのける学力格差の拡大を望むのである。学校内での学力格差解消策としては、教育予算の拡大(教師の増員)、少人数学級、教育カリキュラムの改善(詰め込み教育)である。学校生活からの排除の形が、全国で約12万人の不登校生と毎年6万人の中途退学者の存在である。中退の大部分は貧困問題であるといってよい。彼ら子供たちを学校生活に包摂するための政策が必要である。彼らを救済する教育のセーフティネットに定時制高校、通信制教育、夜間中学がある。多感中学や通信制教育を受ける子どもの層は、母子家庭が26%、父子家庭が5%である。定時制高校には約11万人、通信制教育には約19万人(全国の高校生は355万人)が在籍している。ところが定時制高校の中退率と退学率は圧倒的に高く14%を超える。定時制高校の学校数は削減されている。貧困層の子どもをいかに学校に包摂するかという課題と、教育から就労への移行をいかにスムーズに行うかも重要である。子供たちの「初職の失敗」を防ぎ、ニートになったり職を転々と変える過程でホームレスになったり、犯罪に染まる危険性を防がなくてはならない。子供たちをシビア―な労働市場(ブラック企業)や貧困ビジネスから守る政策も必要である。

2013年5月施行の「子どもの貧困対策法」に基づいて「大綱」を作成する「子どもの貧困対策会議」が内閣府に設置された。子どもの貧困対策についてはイギリスが最も進んでいる。2010年に「子どもの貧困法」が成立し、2020年までに子供の貧困を撲滅することを宣言した。貧困の指標として次の4つとしている。@相対的貧困率、A絶対的貧困率、B相対的貧困率と物質的はく奪指標の組み合わせ、C持続的貧困指標である。公約は2020年までに子どもの貧困を撲滅することであるが、相対的貧困率を10%、絶対的貧困率を5%、相対的貧困率と物質的はく奪指標の組み合わせ指標を5%まで削減すると規定した。イギリスの貧困指標は実質的に相対的貧困率と物質的はく奪指標の組み合わせ指標である。この指標はEUにおいても標準となりつつある。EUは2020年までに貧困と社会的排除にある人を300万人削減すると公約している。なお相対的貧困率はEUとイギリスでは所得の中央値の60%以下とし、タウンゼンド式はく奪指標とは60項目の不足感の数値化指標である。いかようにも定めうる指標で国ごとに違うのはやむを得ない。生活の質を重視するユニセフは「ウエル・ビーイング指標」を提唱している。


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