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稲葉剛著 「生活保護から考える」 
岩波新書(2013年11月) 

最後の砦である生活保護の基準引き下げは、社会保障制度崩壊の始まり

正直言って、私は生の「貧困」問題を直視してこなかったようだ。ある意味では偏見と無知に陥っていた観が無きにしも非ずというところである。貧困問題は大きくとらえると、経済問題、派遣労働問題、アメリカ型新自由主義、格差社会、教育格差などの観点でしか見てこなかったようだ。社会福祉政策のなかに、憲法25条で保障された「健康で文化的な生活を営む権利」に基づいた生活保護、最低賃金制、障害者福祉、年金、健康保険、失業保険、高齢者介護などの制度がある。そういう観点で読んできた著書を時系列にリストする。
@ 中西正司・上野千鶴子著 「当事者主権」(岩波新書 2003年10月)
A 橋本治著 「乱世を生きる−市場原理は嘘かもしれない」(集英社新書 2005年11月)
B 中野麻美著 「労働ダンピングー雇用の多様化の果てに」(岩波新書 2006年10月)
C 朝日新聞特別報道チーム著 「偽装請負ー格差社会の労働現場」(朝日新書 2007年5月)
D 門倉貴史著 「派遣の実態」(宝島社新書 2007年8月)
E 堤未果 著 「貧困大国アメリカ」(岩波新書 2008年1月)
F 白波瀬佐和子著 「生き方の不平等」(岩波新書 2010年5月)
G 服部茂幸 著 「新自由主義の帰結」(岩波新書 2013年5月)
H 堤未果著 「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書 2013年6月 )
I 宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」 (東洋経済新報社 2013年11月 )

中西正司・上野千鶴子氏は中西正司・上野千鶴子著 「当事者主権」(岩波新書 2003年10月)において障害者自立支援事業における当事者主権を理論化して次のように言う。障害者、女性、高齢者、患者、不登校児童、引きこもり、精神障害者など、社会的問題点を抱えさせられた少数の集団(マイノリティー)に生活自立運動や解放運動が1970年代から始まり、1980年代に運動の大きな盛り上がりがあって、1990年代に社会的制度や国の支援体制が整ってきた。これまで障害者や高齢者の生活自立支援事業とは国や市町村の温情的庇護主義的サービス(パターナリズム)と見られてきた。あくまでサービスの受給者は受け身で、官が良かれと思うことをやるという不備だらけのサービスのことであった。その考えを根底から覆したのが「当事者主権」と言う考え(パラダイム転換)である。当事者とは私の現在をこうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうでは新しい現実を作り出す構想力を持ったときに始めて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。当事者主権はなによりも人格の尊厳に基づいている。誰からも侵されない自己統治権即ち自己決定権をさす。「私のこの権利は誰にも譲ることはできないし、誰からも侵されないとする立場が当事者主権である」と定義されるのである。社会的弱者といわれる人は「私のことは私が決める」という基本的人権を奪われてきた。2000年より施行された介護保険は「恩恵から権利へ」、「措置から契約へ」と大きく福祉パラダイムが変化した。当事者主権はサービスという資源をめぐって受け手と送り手の新しい相互関係を築くものである。
橋本治氏は橋本治著 「乱世を生きる−市場原理は嘘かもしれない」(集英社新書 2005年11月)において次の様に言う。今はやりの言葉に「勝ち組」、「負け組」がある。芸能界では品の無いタレントを「セレブ」と呼んで面白がっている。ずいぶん馬鹿にした言葉だと思っていたが、こんな風に言うことが、昭和末期のバブル崩壊後の、平成1990年代の社会の混迷を覆い隠すことにほかならない。飽和した産業の投資先を失い、危険な金融資本主義に狂乱する日本社会の支配者が、貧困に追い込まれた国民を無能者呼ばわりして文句を言わせない風潮を作ることが目的のキャッチコピーである。 橋本氏は「今の日本の社会のありかたはおかしい」という。これが「負け組」のひがみでなく、経済的貧富の差を固定化する方向がおかしいというのである。「不必要な富を望まない選択肢だってある」というような痩せ我慢を主張するようでもあり、氏の論旨の持って行き方は大変面白いのだが、「負け組の言うことは聞かないという日本社会の方向がめちゃくちゃだ」ということが氏の入り口になっている。とにかく現在の世界を動かしているのは投資家だということは事実のようだ。別に現在だけでなく昔から投資家はいた。1980年代に日本の生産力は世界一になって、輸出先と投資先は飽和しもう何処へ投資していいか分らなくなったのだ。アメリカの要請もあって、日本は内需を喚起すべくリゾート法などを作って土地価格の上昇は無限だという神話に埋没した。もう完全にあの時は狐がついていたのだ。狂ったように土地に投資した銀行・不動産などは昭和の終わりと同時にはじけた。これをバブル崩壊という。時を同じくして東欧・ソ連邦の社会主義国が崩壊し冷戦は終わった。アメリカの軍需産業は縮小統合の時代になって経済の氷河期に落ち込んだ。アメリカは日本の生産力と冷戦というダブルパンチによって死に体から必死の脱出策を講じた。それが金融資本主義(投機資本主義)によって、世界(ロシア、東南アジアと日本・韓国など)から資本蓄積を略奪する方向へ向かい、各国へ破壊ビジネス(ヘッジファンドM&Aや規制緩和)を仕掛けていったというのだ。

中野麻美氏は中野麻美著 「労働ダンピングー雇用の多様化の果てに」(岩波新書 2006年10月)において次のように言う。時間給賃金が1996年から2001年には250円強もダウンしさらに下落し続けている。更に正社員も成果主義処遇によって二極化した。このように労働現場を厳しく変えたのは、1986年に労働法制が再編され機会均等法と労働者派遣法が制定され労働基準法が大幅な規制緩和にあったためである。低賃金化・細切れ雇用がすすむ非正規雇用はいまや究極の商品化とも言うべき「日雇い派遣」を生み出すに至った。この低賃金労働は正規雇用を追い詰める。「正規常用代替」は正規雇用の烈しい値崩れをもたらした。雇用者が正規雇用であることに特別の意義を見なくなった結果である。規制緩和政策は経済を回復基調に導いたかの様にみえるが、一方で激しい二極化と貧困化を進めた。労働者を犠牲にして企業の人件費削減策が成功したのである。労働者の人権と生活を奪って、いやなら外人を雇うよと脅しをかけているようだ。正規労働者と非正規労働者(女性が多い)と外人労働者の三者を競争させて人件費コスト低減するのである。「分割して支配せよ」とは植民地主義の原則であったが、いまや労働界は分断されて抑圧されている規制緩和が労働者の選択権(自己決定権)というイデオロギーを伴って導入されたことは、取り返しのつかない被害を社会に与えた。つまり「自己決定」というポジティブな像をもって人を欺き、格差を認めさせ、生み出される矛盾を働き手の「自己責任」にすり替えるという米国流自由の論理は労働法をないがしろにし差別を固定化するものであり、不公正社会をもたらし人から活力と再生可能な労働を奪うものである。労働は自立した人生を創り上げる人権そのものなのだ。その人権を奪うことは資本が人々を奴隷化することである。許されるものではない。政府こそが労働活動の適正な配分を保証し差別を抑制する機能を果たすべきで、小さな政府と言う規制緩和は健全な社会を守る任務放棄になる。
朝日新聞特別報道チームは朝日新聞特別報道チーム著 「偽装請負ー格差社会の労働現場」(朝日新書 2007年5月)の中で次のように言う。「派遣」はいわば事務業務を中心に発展してきたが、1999年からは製造業務も自由化されたので、「偽装請負」は必要ないような気がするが、ところが「偽装請負」には事業者側のメリットが大きい。なぜなら「派遣」の契約奇観は三年が限度で、それ以上使用したかったら正社員で雇用しなければならない。製造業では技術の蓄積が必要なため、頻繁に労働者を変えるわけにはゆかない。そこで生み出されたのが製造企業の労働者派遣法違法の「偽装請負」である。本書はニコン熊谷製作所に請け負いで働いていた若者のショッキングな首吊り自殺ではじまる。1990年代後半の製造業はどん底であった。安い賃金を求めて部品製造企業は海外へ生産拠点を移し、「産業の空洞化」が進行した時代であった。その結果日本に残った製造企業はハイテク産業であった。中でもキャノン、松下電器、シャープ、日立などのデジタル家電メーカは薄型テレビやデジカメなど最先端商品の国内生産の継続を決断した。2004年の改正労働者派遣法までは、製造業は派遣が許されていなかったことにより、安い労働力をもとめて「偽装請負」が生まれたのである。「偽装請負」という雇用形態は「派遣労働者」という雇用形態と相補的に絡んでいる。請負という安価な外部労働力を大量に使うことは、経営戦術としては経済合理性があるかもしれないが、年収が200-300万円しかない低所得請負労働者が100万人以上存在することは社会の公正さから許されない格差問題を引き起こすのである。05年からエコノミストは個人消費が著しく上昇すると予測していたが、消費は回復傾向を示していない。つまり企業は儲けたが、個人は潤っていないのである。ではどうしたらマクロ経済は正常になるのだろうか。偽装請負は犯罪であることを社会が認識して摘発を強めることである。請負など外部労働力の多用は中長期的には害になる。従業員の忠誠心とモラル・士気がなくなり、品質の低下と技術の途絶、企業イメージの悪化、労働現場の安全性の低下などが挙げられる。そこで正社員化を企業に促してゆかねばならない。請負労働者も政府の研修援助制度を利用してスキルアップを図り、専門性を持った技術者になることが大切である。

門倉貴史氏は門倉貴史著 「派遣の実態」(宝島社新書 2007年8月)において次のように言う。2000年を過ぎてから企業の売上高は増加しているのに、売上高に占める人件費の割合は低下の傾向にある。14%を最高にして2007年では12%にまで低下した。必要な人材を正社員よりはるかに安い費用で提供する人材派遣を積極的に利用しているからである。1999年(100万人)より人材派遣社員数は急速に拡大し2005年には255万人になった。雇用者数に占める非正規社員の割合は33%である。派遣社員は安い賃金と不安定な雇用という厳しい労働環境のなかで、将来の生活の不安を抱いている。派遣会社の業態には三つある。「一般労働者派遣事業」193万人、「特定労働者派遣事業」15.6万人、「紹介予定派遣」3.2万人(2005年)である。派遣社員の賃金は平均一日1万円、スキルのある人で1万5千円である。年収はおおむね250-350万円。ボーナスはない。参考までに派遣会社正社員の年俸は400−500万円程度。派遣会社は社員の給料の26-30%をマージンとして取るのである。
堤未果氏は堤未果 著 「貧困大国アメリカ」(岩波新書 2008年1月)においてつぎのように言う。貧困層は最貧困層へ、中流社会は急速に崩れて貧困層へ転落してゆく。極度のアメリカ式格差社会の進行は決して人事ではありません。このアメリカの現実を、「追いやられる人々」の目線で見る事は日本の将来の選択につながります。弱者切捨て、社会保障費削減はセイフティネットを破壊し、さらに新しい弱者層を拡大しています。サブプライムローン問題はその弱者層を食い物にして梃子原理を利かせて儲けてゆくグローバル金融資本の姿を如実に示しています。2001年9.11以降アメリカは豹変した。実はすべてを変えたのはテロではなく、「テロとの戦い」という美名の下で一気に押し進められた「新自由主義的政策」のほうであったという。瞬く間に国民の個人情報は政府に握られ、命や安全、暮らしに関る政府機能は民営化され、社会保障費は削減されて膨大な貧困層が生み出された。テロとの戦いを利用した金融グローバル資本の政府占拠であった。暴走型市場原理システムが弱い者の生存権を奪い貧困化させ追い詰めて金融商品で儲けるという潮流である。「教育」、「命」、「暮らし」という国民の責任を負うべき政府が、「民営化」によって民間企業に国民を売り飛ばして市場原理で貧困化させるという構図は、はたして国家といえるのか。「暮らしー格差貧困・災害対策の民営化」、「命-医療・健康保険の民営化」、「若者ー教育の民営化」、「戦争の民営化」という「民営化による生活の破壊のすさまじさ」の切り口でアメリカの貧困が語られる。

白波瀬佐和子氏は白波瀬佐和子著 「生き方の不平等」(岩波新書 2010年5月)において次のように言う。今の日本で実際に選択できる「生き方」には、収入、ジェンダー、年齢によって著しい不平等があるのではないかという疑問から本書は出発する。子供、若者、女性、高齢者というライフステージごとに貧困の実態と原因は異なる。つまり弱者に端的に現れる不平等を解析してマクロな社会的不平等と、個人の生き方というミクロな側面を統合して考察することを本書が試みた。不平等や格差はマクロな視点である。不平等や格差は画一ではなく、さまざまな人生を送ってきた人々にさまざまな現実がが直面し、色々な現れ方でひとびとを苦しめることであり、社会の中での人の生き方を考えるうえで。マクロとミクロな視点の関連を交差させるのが本書の特徴となっている。教科書的に裁断するのではなく、生きる人の視点から問題をとらえてゆくのである。自己責任論は、最初の出発点は同じだったはずで、結果的に差が出るのはもちろん運もあるが個人の努力が反映していると見る。これは負けた者をどうしようもなく落ち込ませ再起不能にさせる論理である。これまで生きてきた節目の選択は必ずしも積極的であったとは言えず、時には不条理な選択もあったはずだ。それを「生き方の不平等」という。大きく捉えると、環境とか階層性が働いていることが従来より指摘されている。そして人生にはたまたまの要素もある。就職氷河期に出くわした若者が非正規労働者になるとそこから這い出すことはかなり困難で、一生非正規労働者のままでいる確率は高い。高度経済成長期に出くわした団塊の世代が人生を謳歌するのもたまたまの偶然とすれば、平成不況期に非正規労働者になったのもたまたまの偶然ではないか。けっしてその人の努力が足りないとか、性格とか心理のせいだとは言い切れない。しかし心理が歪めば秋葉原殺傷事件となるのである。 格差の本質は貧困にある。格差は若者・子供までに及んでいる。20世紀末の平成不況時代には、就職氷河期といわれ、若者の世代にロストジェネレーションが生まれた。そしてそれは正規労働者のリストラとなって全体に及んだ。格差・不平等・貧困は許されるべきことではない状況の程度が強まっている。
服部茂幸氏は服部茂幸著 「新自由主義の帰結」(岩波新書 2013年5月)において次の様に言う。新自由主義は戦後資本主義を批判して、次の4つの政策を主張する。@供給サイドの重視:戦後資本主義の総需要管理政策を批判して、供給サイドの改善を主張する。しかし産業政策ではなく、市場の規制を緩和し減税をすることである。A金融の自由化:戦後資本主義の金融システム規制政策を批判して、金融市場の自由化を主張する。バブルと投機資本による金融危機を招いた。B富の創出(トリクル・ダウン):戦後資本主義の福祉国家政策を批判して、富の分配よりは富のトリクルダウンを期待した。スーパーリッチへの富の集中となった。  C市場の自由:戦後資本主義の福祉国家による経済活動への介入政策を批判して、市場の自由を主張した。小泉政権の構造改革は民営化路線と格差拡大であった。ポストケインズ派の経済学者は21世紀のアメリカが抱える問題に絶えず警告を与えてきたが、新自由主義経済学の主流派経済学者は、自由な金融市場がリスクを適切に管理し、優れたFRBが物価の安定に成功しているとして、日本のような長期経済停滞はあり得ないと主張してきた。ところがその政策が失敗し、史上最大の政府による金融介入を必要とするなど新自由主義経済学の破たんは隠しようがない。証券市場注進の優れた金融システムを持つアメリカでは金融危機は生じないとFRB関係者は本気で信じていたようだ。世界一頭脳明晰な賢人の集団でこの事態を引き起こしたのだ。1980年代以来のアメリカ経済を支えたのはバブルによる見せかけの繁栄と、ドルが基準通貨であったことによる。このドルの特権がなければアメリカは欧州化していたのではないだろうか。

堤未果氏は堤未果著 「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書 2013年6月 )において次のように言う。今アメリカでは1%のスーパーリッチ層(金融資本家とコングロマリット企業家)の驚愕の社会変革(破壊)が進んでいることが分かる。あらゆるものを株式会社化(利益重視の株主優先)する動きが加速している。世界の究極の支配者たらんとする勢いである。経済利益は市場をゼロからスタートする方が儲かるのである。これを貧困ビジネスまたは破壊ビジネスともいう。破壊と再建の繰り返しを意図的に作り出し、市場創世期の投資効率の最大化つまり高利潤を得ることである。市場成熟期や飽和期では企業の利益は少なくなるのが鉄則である。そのために外部である発展途上国において貧困ビジネスを行い、金融恐慌や世界危機を意図的に作り出して、成熟国の破壊と再建を企てるのである。サブプライム・ローン問題は金融工学の活用による「貧困ビジネス」の典型であり、バブルから金融崩壊を演出し、国民の財産を「公的資金導入」と称して金融資本が吸い上げる。金融危機を起こした金融資本は反省もなく無傷で生き残り、「公的資金」を使って次の投資先を考えているのである。2000年代のブッシュ政権の政策を導いたのは、フリードマンの新自由主義経済学理論である。政府機能は小さいほど良いとして規制緩和を進め、教育、災害、軍事、諜報機能などを次々と市場化(小泉流に言えば民営化)していった。新自由主義政策にはそもそも福祉政策という考えは不合理で金持ち階級の財産(自由)を奪うものとされ、99%の負け組にたいしては慈善という哀れみをかければ、倫理上の問題で回避できるらしい。いま世界で進行している出来事は、ポスト資本主義の新しい枠組みである「コーポラティズム」という政治と企業の癒着主義である。人から制約を受けないという自由主義とは突き詰めると、政府を徹底的に利用して他人を収奪する仕組みを合法化することである。税金からなる公的資源を独占企業という「民間」に分配ため様々な村(利益共同体)が形成された。原発電力複合体をはじめ、食産複合体、医薬産複合体、軍産複合体、石油、メディア、金融など挙げだすときりがないが、ヒスパニックより労賃の安い刑服務者の労働力を利用する刑産複合体まで存在する。1%の支配者と99%の奴隷に2極化することが、1%支配者にとって一番効率(利潤/投資)が高いのである。働く人の生活に思いをはせることはセンチメンタリズムに過ぎない。最低限の再生産可能な労働力市場(奴隷市場)にまで追い込むことが利潤というアウトプットを最大化する方程式である。アメリカとヨーロッパに本拠を置く多国籍企業群がこの略奪型ビジネスモデルを展開している。これをグローバル資本という。
宇沢弘文氏は宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」 (東洋経済新報社 2013年11月 )の第1部「市場原理主義の末路 」において次のように言う。フリードマンが主導する新自由主義とはもっぱら企業のための自由であって、それを守る事だけが大切で何万人が死ぬことは眼中にはなかったのです。デヴィット・ハ-ヴェイによると、市場のないところを市場化し儲ける機会をお膳立てすることが政府の仕事であると主張し、政府は企業の露払い的役割に成り下がりました。フリードマンが言うところの「合理的期待形成」の考えは、その市場さえ全知全能の資本の前にはコントロールされるべきものでした。そして「トリクルダウン理論」は減税はお金持ちからやるべきで、お金持ちが潤えば貧乏人にも施しができるというふざけた話です。まさに傲慢そのものです。なぜこのような逆立ちした屁理屈が通るかというと、貨幣価値至上主義(札束のまえにはすべての人が平伏する)によるものです。20世紀末フリードマンは銀行と証券業務の障壁を取り払うことの全力をかけて、1999年グラム・リーチ・ブライリー法の制定に成功しました。これが世界金融危機をもたらした元凶です。金融新商品の結果が住宅バブルと証券化の大失敗をもたらしました。サブプライムローンに市場原理主義の最悪な面の帰結がみられました。フリードリッヒ・ハイエクとフランク・ナイトのモンペルラン・ソサエティの原点であるネオリベラリズムと、フリードマンの市場原理主義とは宇沢氏はこれを区別します。ネオリベラリズムは理解しうる思想の流れで重要な考えだと宇沢氏は評価しています。しかし市場原理主義は政府を手下に使って金のためには何でもやる、それを阻止するものは水爆も使っていいという極端な危険思想であるとみています。ナイト氏が弟子であるフリードマンを破門した形になったのは当然だと考えました。

著者稲葉剛氏は、1969年生まれ、東京大学教養学部を卒業し、1994年より新宿において路上生活者支援の活動に取り組む。2001年「反貧困ネットワーク」の湯浅誠氏らとNPO法人自立生活サポートセンター「もやい」(舫 もやいとは船をつなぎとめる綱のこと 生活困窮者を社会につなぎとめるという趣旨か)を設立しその理事長を務める。また生活保護問題対策全国会議幹事、住まいの貧困に取り組むネットワーク世話人である。著書には「ワーキングプア」、「貧困待ったなし」などがある。生活保護制度の本当の狙いとは、人間の「生」を無条件で保障し、肯定するということであると稲葉氏はいう。ここでいう「生」とは衣食住だけの最低限の生存が維持できているだけでなく、憲法でも保障された「健康で文化的な生活」つまり人間らしく生きることを意味する。ところが差別好きな人は「生」を支える生活保護をパッシングします。これは自分より弱い人をいじめることで、自分の弱い立場の憂さを晴らすようなヘイト「憎悪表現」に過ぎません。自分自身が人間らしく生きることを肯定できないか、努力していない人です。この人がもし困窮したら、過去の自己責任的な言動によって自分自身を縛り、苦しむことになるでしょう。弱い者同士が憎みあうことで権力者は自分に憎しみが向かうことを防ぐものです。矛盾が反乱に発展することを避ける操作術です。すでに段階的な生活保護基準の引き下げによって、社会保障制度の最後の砦であるこの制度が重大な岐路に直面しています。不正受給の報道やパッシングのなか、アメリカ社会を模してこの制度を崩そうとする政権の意図が露骨に見え隠れしています。2012年12月7日、東京都目黒区総合庁舎において「受付窓口での不当な要求や暴力に対応する訓練」と称して、「生活保護申請に来た訪問者の要件が該当しなかったため職員が受理を拒んだところ、刃物を振りかざして暴れた」という想定で120人の職員が訓練に参加しました。この訓練に対してホームレス総合相談ネットワークは目黒区長と福祉事務所に宛てた意見書を提出し抗議しました。この訓練には2つの過ちと偏見があります。一つは福祉事務所の窓口には申請の受理を拒む権限はありません。審査委員会が却下決定をします。2つは生活保護申請者を暴力行為に及びやすい危険人物と想定して、訓練を報道機関を通じて社会に公表することは、重大な差別、誤解、偏見に基づいています。生活保護申請者は暴力団員ではありません。12月26日目黒区長は謝罪の回答をし「生活保護制度について職員に周知徹底する」と表明しました。福祉事務所に生活保護について相談に来る人を犯罪予備軍の目で見ることが行政関係者の中で広がっていることに懸念を覚えると稲葉剛氏は問題視します。同じことですが、2012年3月厚生労働省は、退職した警察官OBを福祉事務所に配備し不正受給者対策の徹底を図ることを各地方自治体に要請しました。2009年には大阪市豊中市で警察官OBが生活保護利用者を「虫けら」という暴言を吐く事件が発生し、大阪弁護士会が再発防止の勧告を出しました。生活保護利用者に対する人権無視の姿勢が如実に表れています。2012年6月芸能人の親族が生活保護を利用していることをきっかけに生活保護の制度や利用者に対してパッシング報道が吹き荒れました。この「事件」には報道側に誤りがあります。親族に扶養義務があるかのような報道は、憲法では個人の問題として扱われているので、戦前の民法のような感覚で子供が親を養うのは当然ということにはなりません。逆にいえば親は成人した子供の借金を支払う義務もありません。報道は裁判所のように断罪を下して社会的制裁を加えますが、これはメディアの横暴というものです。こうした生活保護に対するマイナスイメージ(実はある手を打つために厚生官僚が意図して流したリーク情報に基づいた世論誘導にすぎないのですが)に便乗する形で、安倍政権は生活保護制度の見直しを企てています。2013年8月からは段階的な生活保護の基準の引き下げが始まり、秋には生活保護法改正案が上程されます。こういった生活保護抑制政策に棹をさすために本書を書いたと稲葉剛氏はいいます。生活保護制度の抑制はすなわち福祉制度全体の経費節減策の一環です。さらに労働環境の悪化に加えて社会福祉のセーフティネットの悪化により、大量の貧困層が生み出されます。貧困層の底を抜くようなことでさらに低賃金労働が加速されます。日本社会全体の貧困化がアメリカのように待ったなしで襲い掛かるでしょう。小さな漏れが堤防を崩します。決して許してはならないという意図で本書は書かれました。

1) 崩される社会保障の岩盤 (生活保護基準の引き下げが意味すること)

政府の御用新聞として「読売新聞」、「産経新聞」が有名ですが、2012年10月17日産経新聞の記事に「働いたものがバカを見る制度」として生活保護法をパッシングしています。記事の後半には自民党「生活保護に関するプロジェクトチーム」の世耕議員が、生活保護基準の引き下げだけでなく、食事や住宅扶助の現物支給を主張していることが紹介されていました。2012年12月に政権復帰した自民・公明政権は「生活保護基準は高すぎる」という「世論」を背景に生活保護基準の大幅削減に乗り出しました。自立生活サポートセンター「もやい」はサポートを受けている人に、2010年8月「熱中症に関するアンケート調査を実施した。暑さで体調を崩した人は46%に上りました。電気代を節約しようとしてクーラーの使用を控えたことが深刻な健康被害をもたらしている。生活保護利用者がクーラーを保有することは禁止されていません。「家具什器費」を支給する仕組みはありますが、福祉事務所の現場においてはクーラー・テレビはぜいたくだとして認めない傾向にあります。2010年「もやい」は低所得者の熱中症対策として「夏季加算」の新設を厚労省などに要求しました。生活保護制度には「冬季加算」という暖房費を支給する制度があります。当時の長妻大臣はこれを検討するとしましたが、それ以降立ち消えになった。2012年5月の芸能人の親族の生活保護りようが報じられてから、「生活保護パッシング」と呼ぶ現象が始まった。このパッシングを主導したのは自民党の国会議員であり、パッシングにより生活保護制度や利用者へのマイナスイメージが基準の引き下げの地ならしをしたといえる。2013年1月29日安部内閣は生活保護費のうち生活扶助費を2013年8月から3年間かけて段階的に約740億円削減することを閣議決定しました。生活保護制度は生活扶助、住宅扶助、教育扶助、医療扶助、介護扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助の8つの項目によって構成されている。生活扶助費は衣食光熱費を現金で扶助するもので、直ちに生活レベルの低下につながります。約25%の世帯では5−10%が削減されることになります。小泉内閣の時、生活保護の老齢加算、母子加算の廃止になっています。政府は2008年から2011年の消費者物価指数が4.78%下落したデフレ論から引き下げ基準を設定しました。ところが消費者物価指数の下落傾向をひっぱたのは、家電、家具類、教養娯楽費でした。光熱費は逆に増えています。食費はほとんど変わりません。生活保護利用者は家電や家具、教養娯楽には金を使いません。このように政府が生活基準を削減する理由としているデーターは虚構であり、生活保護世帯の支出の特徴を全く考慮していません。都合のいいデーターのつまみ食いに過ぎないのです。この保護基準の引き下げによって、生活保護世帯の生活状況の悪化をもたらすだけでなく、生活保護ギリギリの「ボーダー層」(ワーキングプアー)が排除されることになります。特にそのしわ寄せは子供の教育に寄せられます。つまり子供の貧困が加速し将来貧困から抜け出す手立てを奪っています。生活保護制度を活用することで最低生活費との差額分をの現金支給を受けているワーキングプアー層が切り捨てられます。

生活保護法第4条には、保有する資産、働ける能力、年金などの他の制度を優先して活用し、それでも収入が基準以下であれば足りない部分だけ保護費の支給を受けることができます。これを「補足性の原理」といいます。ですから生活保護制度は市民生活を下支えする「社会保障の岩盤」と呼ばれます。生活保護基準の引き下げによって排除されるワーキングプア層には、生活保護の制度が利用できないため医療費、健康保険料、介護保険利用料、保育料などが自己負担となります。またケースワーカによるサービスも利用できため「孤独死」の危険性が高まります。これを「他制度波及問題」と呼びます。生活保護基準の引き下げによって38種類の制度が影響を受けます。個人住民銭非課税限度額は生活保護基準と連動しています。就学援助制度(2011年度で157万人が利用している)で切り捨てられる児童が数万人出る可能性があります。さらに最低賃金も上昇が止まる可能性があります。「逆転現象」の解消には生活基準を引き下げるのではなく、最低賃金を引き上げるべきなのです。国際的にみて日本の最低賃金の水準が低すぎるのです。また日本の生活保護制度は資産条件が厳しすぎます。「すっからかん」にならないと支給を受ける要件にならないのです。また保護利用者は借金も禁じられています。2012年10月財務省は社会保護の医療扶助が高額になっているので、医療費無料という制度を改め、一部自己負担、後発医薬品の利用を呼びかけ、厚労省の政策に踏み込みました。2013年度より厚労省は「後発医薬品の原則化」を導入しました。生活保護世帯は医療か食料かと言えば、当然食料を優先しますので医者に行かない人が多い。医者に行く時は病状は悪化しており医療費が高額になるという悪循環になっています。生活保護基準の引き下げは最低生活費という国の貧困ラインが後退することになり、貧困対策の空白地帯が広がることになります。最低生活費は所得補償における「ナショナルミニマム」と呼ばれます。ナショナルミニマムとは、国が国民に対して保障する生活水準の最低限度を意味します。2009年12月の民主党内閣の時厚労省で「ナショナルミニマム研究会」が開催され、反貧困ネットワークの湯浅氏、雨宮氏らが委員として参加しました。2010年6月に中間報告を出しましたが、以後なしのつぶてになっています。2013年8月第1回目の生活保護基準の引き下げが行われました。性fは2014年4月と2015年4月にも第2回、第3回の引き下げを予定しています。アベノミクスによる物価上昇が背後から襲うことになれが、生活はダブルパンチを受けます。夫婦と子供2人の世帯では現在22.2万円を受給していますが、2013年度第1回の引き下げで6000円減額、2015の最終的な削減額は2万円となります。母一人子一人の世帯では現行15万円が最終的には8000円の減額となります。70代単身世帯では現行7,7万円が最終的に3000円の減額です。

2) 届かない叫び (水際作戦・門前払いによる生活保護捕捉率の低迷)

2009年1月伊東市の福祉事務所に相談に出かけた人が、職員から切符を貰っただけで伊東→熱海→小田原とたらいまわしにされ、「年越し派遣村」のことを思いだして「もやい」に相談に来ました。「年越し派遣村」の湯浅氏と「もやい」の稲葉氏は連名で伊東市・熱海市・静岡県・厚労省に対して抗議文を送付しました。このことは朝日新聞1月29日付に記事になったためか、厚労省は伊東市に対して生活保護行政に関する監査を実施し、2010年1月生活保護の申請書類を渡す前に事前審査をしていたとして是正指導を行いました。福祉事務所が生活困窮者に生活保護の申請をさせず窓口で追い返す問題は、「水際作戦」という名で慣例化していました。また制度に対する虚偽の説明(要件を満たさないという理由)をおこなうことで申請をあきらめさせる手法がたびたび用いられています。いわば門前払いです。たとえば「住所がないとだめだ」ということで路上生活者を追い返したり、申請書を目につかないところに隠しておくことで、申請者が手を出せないという違法なことが行われています。マニュアル化されたトーク集として、「親族から援助してもらうように」、「「若いから働きなさい」とか、「生活保護は高齢や病気・障害で働けない人でないと利用できない」、「持ち家があるからダメ」、「部屋の家賃が上限を越しているからダメ」と言った虚偽の説明が横行しています。なぜ福祉事務所が水際作戦をするかと言えば、福祉予算に総量抑制があるからです。いくら削減するかがノルマ化しています。福祉事務所の人的体制(ケースワーカー)が不足していることも原因です。ケースワーカー一人当たりの担当生活保護世帯数は全国平均で93世帯に上り、大都会では120世帯というのも珍しくはないそうだ。水際作戦の引き金になったのは、1980年に暴力団員の生活保護不正受給事件が発覚したことからメディアは「不正受給キャンペーン」を繰り返し、厚生省は1981年「生活保護の適正実施の推進」(123号通知)をだして、生活保護申請者の資産状況や収入を厳しくチェックする方針が出て以来のことである。1991年に土地バブルが崩壊し、日本は失われた20年というデフレに突入しました。大都市を中心に路上生活者(失業からホームレスになった人)が急増しました。稲葉剛氏が路上生活者の相談支援活動を始めたのは1993年からである。路上生活者の餓死数は1995年より急増し、2010年までの年間平均餓死者は約66人となった。2000年の路上生活者の餓死・凍死・心臓疾患による病死による路上死は大阪市内で年間213人に上りました。新宿西口地下道の段ボール村が有名になりました。深刻な路上生活者問題に対応するため、2002年には「ホームレス自立支援法」が制定されました。ホームレス支援が国及び自治体の責任であるとされたのですが、自治体ごとに恣意的な判断基準を設け、その対象とならないとして窓口で排除するという「水際作戦」が続けられました。このことを2001年読売新聞が「ホームレス急増、違法運用の例も」という記事にしました。「高齢・病気・障害に限定」している18都市の名を挙げています。北九州市では組織的な水際作戦を展開していました。「300億円ルール」という総量規制と職員のノルマを課すやり方は「ヤミの北九州方式」として知られ、なんと厚労省からモデル都市として表彰されました。2006年3月厚労省は通知をだし「法律上認められた申請権を侵害しない」ことを申し合わせました。2006年10月日弁連は人権擁護大会において「生活困窮者支援に向けて全力を尽くす」と決議しました。弁護士による相談窓口を設け、申請支援に乗り出しました。2006年を境として生活保護申請は転機を迎えました。

2008年秋からリーマンショックの金融恐慌が始まり、日本では「派遣切り」により大量に非正規雇用者が失職した。2011年9月NHKが放映した「NHKスペシャル 生活保護3兆円の衝撃」では、生活保護者が全国で200万人を超え、給付額は過去最高の3兆円となったと報じ、かつ働ける世代が流入して、この制度に歪みを生じているといいます。これは自民党の見直し論につながる誤りです。生活保護は高齢者、病人にだけに適用される制度ではないのです。働くにも職がなく生活困窮者となって生活保護を申請したのです。これは本来企業が雇用して支払うべき給料3兆円を国に支払わせていると読むべきです。賃金を削って経営を楽にしたいから手っ取り早く非正規労働者の首を切って、雇用問題を社会問題にして国がその付けを支払っているのです。つまり企業は税金をただ食いしているのです。国が株式会社に乗っ取られたということになります。失職者に稼働能力があるないは生活保護の基準ではないし、そのような法律解釈は許されていいものではありません。これは2013年秋に安倍内閣が上程した生活保護法改正案の真の狙いが、水際作戦という裏システムを表の制度にしたいということです。メデァで盛んにキャンペーンされる「不正受給」の割合は金額にして0.3%−0.5%に過ぎません(医療機関の医療費の不正請求に比べると金額的に比べると微々たるものです)。むしろ問題は「受給漏れ」で、水際作戦で排除された生活保護の捕捉率低下の方です。2010年厚労省の研究会がまとめた国民生活基礎調査にもとずく「生活保護基準未満の低所得世帯数」がそれです。捕捉率は約15−30%と見られています。西欧では捕捉率は60%−90%であることに比べて日本の生活保護捕捉率が異様に低いことが目立ちます。これでは福祉国家とはとてもいえねいレベルです。人口に占める生活保護制度利用者の割合「利用率」は日本で1.5%、西欧では4−9%です。これは日本の世帯が裕福なのではなく、制度利用が少ないだけです。安倍内閣が上程した生活保護法改正案はさらにこの制度の利用を制約することになります。政治の世界における貧困問題の位置づけにも問題があります。2006年小泉内閣の竹中平蔵総務大臣は「社会的に解決しなければならない大問題としての貧困はこの国にはない」と明言しました。2006年OECDは日本の経済状況を分析して、日本の貧困率が加盟国の中でも高い部類にあると報告しました。2009年民主党鳩山内閣の長妻厚労相はOECDの計算式を用いて相対的貧困率を15.7%と発表しました。単身者では手取り所得が112万円以下、4人世帯では225万円以下が相対的貧困者となります。日本の社会福祉行政では福祉制度利用が「スティグマ」(マイナスのレッテルという烙印を押される)とされることが問題視されてきました。制度利用を「恥ずかしい」とか「後ろめたい」という意識が払しょくできない人が多いのです。こういう意識をさらに強化するのが、メディアによる「生活保護パッシング」でした。「正直者がバカを見る」、「生活保護を受けることを恥とも思わない」、「クズ」とかアル中生活者の個々の素行を告発してきました。2013年5月国連社会権規約委員会は日本における差別、社会保障、震災、原発事故、教育など13項目に及ぶ勧告をしました。貧困問題に対しては「国民年金制度に最低年金保障を設けるよう再度勧告する。また生活保護の申請を簡素化し、かつ申請者が尊厳をもって扱われることを保障する措置を取るように求める。スティグマを解消するように住民の教育を勧告する」と言っています。しかし多くの証拠書類の提出を求め、提出がないことを理由に申請をさせないとか、何回も窓口に足を運ばせそのうち申請者があきらめるのを待つといった、役所独特の嫌がらせに似た水際作戦は後を絶ちません。書類主義の横行は要式行為(一定の方式に従って行わないと不成立、無効とされる)であり、貧困状態であることの挙証責任を申請者に課すことは申請の抑制につながっています。

3) 家族の限界 (扶養義務強化の問題点)

「家族」と聞いて安らぎを覚える人は、生育環境を通じて得た「溜め」があると言えますが、逆に痛みや悲しみ、トラウマを覚える人も多くいます。家族が外界から守るバリアーとなっている人は幸せです。貧困とかこうしたいろいろな「溜め」が総合的に失われている状態であると稲葉剛氏はいいます。生活困窮者の中には家族崩壊の人もいます。虐待、DV、心理的暴力支配、性的暴力を日常的に受けている人もいます。家族が安らぎの場ではなく苦痛であることがあります。親族間殺人は上昇傾向にあり、2012年には全国の殺人事件の53%を占めています。児童虐待、児童ポルノ事件は2000件を超え(2012警察発表)を超えています。母子家庭のDV被害経験は69%でした。このように親族間の暴力・支配と経済的困窮が複雑に絡み合った状況が貧困者には多い。社会問題専門家信田さよ子氏ははこうした家族の絆からの解放に生活保護の利用を提案しています。生活保護を利用して親と子の同居を解消し、金銭的な関係を断ち切ることも必要です。これを「絆解体」と呼びます。家族だから暴力・人権無視など何をしても許され、他人が口をはさむことを拒否する考えは自然法でいう自由ではありません。家族という絆に結び付けておくことが個人の人格破壊になるなら、同居を解消すべきです。家族は支配・被支配のミニモデルです。2012年5月の芸能人親族の生活保護利用問題はメディア及び社会がこの制度を理解していないことを示しました。家族の扶助が先行して行われるべきで生活保護利用は適切でないといった風潮が形成されました。親族に高所得者がいても、低所得者を扶助する義務は憲法にも規定はなく、生活保護法にもありません。憲法は個人の自由を尊重するというのみで、家族に扶養の義務があるのは児童のみです。人情という感情に訴えて親族を扶助せよというのは、死ぬほど憎しみ合っている家族には適用できませんし、扶助する義務もありません。現行の生活保護法(1950年制定)では「親族による扶養は保護に優先する」(優先するとは、実際に扶養が行われた場合、額に応じて保護費を削減できるということです。補足原則において親族扶助を優先してカウントするという意味です。)とされますが、要件ではありません。古い生活保護法(1946年制定)では「扶養義務者が不要をなしうる者」、「勤労の意志のない者」、「素行不良の者」を対象から除外するという「欠格条項」がありました。新生活保護法は扶養を要件から外し、「無差別平等」の原則を確立したのです。民法では夫婦間や未成熟の子供に対して親が負う義務(生活保持義務)と、兄弟姉妹間や成人した子供が親に負う義務(生活扶助義務)は分けて考えられます。生活扶助義務はもし余裕があるなら助けなさいという義務で、生活保持義務に比べて弱い義務とみなされています。1947年の日本国憲法は家族制度を解体し、「個人として尊重される」という基本理念のもと、法の下の平等、家庭生活における個人の尊重、男女平等を保証しました。民法でいう扶養義務規定は「道徳的な要求」にとどまり、それも不十分な表現です。これが扶養義務について、生活保護のみならず社会保障制度全般に混乱をもたらし、個々の法律の運用をどうするか行政機関の裁量にゆだねられているのが現状です。西欧では扶養義務を負うのは夫婦間と未成熟な子供だけで、成人した親子間の扶養は問題になりません。

若い者が生活に困窮した場合、実家に帰るという選択肢がありますが、兄弟間の虐待、住宅の広さ、親族間の人間関係などが原因で実家に帰れない若者も多い。生活保護利用を巡る世代間連鎖について厚労省の研究機関が調査をした。成人する前に親が生活保護を受けていたとk絶えた人は12%で、母子家庭で育った人に限定すると、親が生活保護を受けていた人は25%であった。親世代が生活保護を受給していると、その子供も成人後に生活保護を受給する割合は確実に高くなる。このように階層が固定化しつつある日本社会で経済的に成功する道はかなり困難になる。それは教育学習支援制度がまだ十分でないからです。2013年6月の国会で、「子供の貧困対策法」が成立しました。貧困の世代間連鎖を防止することは、家庭という「私的空間」に閉じ込められた貧困の問題を社会的に解決ことを意味します。大学授業料が有料で、公的な給付制の奨学金がないのは日本だけです。障害者の扶養義務が強調されると親がなくなるまでは親に見てもらえということになり、障害児を絶望した親が殺すという「子殺し」も多発しました。障害当事者が運営する全国自立支援センター協議会が1991年に設立されました。「脱施設」、「脱家族」の障害者の自立生活を経済的に支えてきた制度の一つが生活保護制度です。第1級障害基礎年金は年98万円です。それでは住宅費などで自立できないので生活保護を申請して補足原理で足りない部分を補助してもらうことで、障害者は自立できるのです。親にだけ、家族にだけ負担させていた障害児を社会的に救うことができます。餓死寸前の人だけが生活保護を申請するわけではありません。それは偏見です。生活を前向きに成り立たせるために生活保護制度はあります。厚労省は2011年骨格提言のなかで「家族福祉からの脱却」を謳いました。家族の扶養義務強化をいう2013年生活保護法改正案は、社会問題を私的領域に押し込め、経費節減だけを目標とした時代に逆行する動きです。家族扶養義務はDVや虐待家族にとって深刻なダメージを与えます。家族を分離しないと性格破綻にまで進行することもあります。儒教的家族制度の復活を夢見る反動的な保守政治家がいます。安っぽい情緒的道徳で個人を家族の絆に縛り付け扶養義務を押し付けることは、安倍内閣の古の保守的政治アンシャンレジームを夢見る時代錯誤です。2012年自民党の政策ビジョンでは、「自助・自立を基本とした安心できる社会保障」を主張しています。家族の助け合いによって自助を大事にする方向を目指すといいます。大体自民党が自助・自立というとき、それは制度の切り捨てを意味します。きれいごとの自立支援などは裏返して読む必要があります。個人が所属する家族→企業→保険などリスク対処システム→国が運営する社会保障制度という順で自民党は社会福祉を考えていますが、これら前3者の日本型雇用システムや日本型社会はすでに崩壊しています。最後の砦である社会保障制度まで切り崩そうというのです。老老介護のように、支え合うことは共倒れになります。家族や地域の「絆」を強調することで国の責務を後退させる考えを「絆原理主義」と呼びます。

4) 当事者の一歩 (生活保護利用者の声)

2012年に起きた生活保護パッシングは当事者が声を上げにくくした。人々の間に広がる偏見や差別が社会問題の本質を見えにくくし、その解決をさらに困難にさせている。この章は「もやい」に集って生活を取り戻した生活保護利用者の生の声を取り上げ、生活再建の道を描いている。それは一人の人間の人生の例として取り上げた4人の話を感嘆詞紹介する。詳しくは本書で読んでください。一人はデパートのセールスマンでしたが、親の介護で会社を辞めて最後に路上生活者になっった。生活保護で生活を取り戻し、今では生活保護申請者の支援をしたり、大震災被災者の避難民の支援をするという風に支援側に回って活躍されている。二人目は若い女性であるが、「適応障害」という精神疾患で勤め先を何回も変えたあげく生活困窮者となり、生活保護を申請し「自分らしく生きるための生活保護」を目指した活動に参加している。3人目の人は脳性まひによる身体障害を抱える若い青年の生活保護利用者である。障害者の施設を出て一人暮らしをするために生活保護を申請した。当事者主権に基づいた行政を要求している。4人目は夫のDVから鬱になったため働けなくなり生活保護を申請した50台の女性である。3年間受給した生活保護を抜けて、現在は仕事の合間にロビー活動に参加している。

5) 問われる社会 (生活保護法改正案と生活困窮者自立支援法の問題点)

稲葉剛氏や湯浅誠氏らの生活保護利用者支援活動は決して順調に進展しているわけではなく、反動の嵐にもまれながらのジグザグのロビー活動である。気になる動きを列挙してゆこう。生活保護利用者への「二級市民扱い」を明言した自民党世耕議員は、2012年7月7日刊の週刊東洋経済のインタビューを受けて、「生活保護の見直しに反対する人は、フルスペックの人権をすべて認めてほしいというが、税金で全額生活を見てもらっている以上、一定の権利の制限がって仕方がないと考える」と述べた。この世耕議員の意見には2つの大きな誤りがる。第1に憲法に定められた人権制限論である。第2に社会保障は国家による施しや恩恵と言った前近代的な社会福祉論である。2013年3月兵庫県小野市の「福祉給付制度適正化条令」は市民に対して受給者の生活情報を提供することを責務とする子を定めた。生活保護や児童扶養手当などを利用している者に対する社会的監視と情報提供を市民に義務とするもので自民党の世耕議員の人権制限論に行き着くはずである。受給者を悪いことをする者とみなした、戦前の治安維持法に似た監視社会の悪夢再来である。制度利用者のモラルの問題を言い立てて、制度自体の縮小を画策するという政治手段は社会保障のいたるところで始まっています。2013年4月麻生副総裁は「食いたいだけ食って糖尿病になった奴の治療費を俺たちが払っているのには無性に腹が立つ」という暴言を吐きました。すると成人病関係の生活習慣病の治療はすべて負担したくないということらしい。この程度の理解しかできな人が副総理とは日本の政治家のレベルが恥ずかしい。遺伝や体質が大いに関係する生活習慣病を「医療制度破壊のモラルハザード」と言い立てると、医療そのものが成り立たない。アメリカのようにジャンクフードで肥満した人はモラルハザードの典型になってしまう。2013年8月政府の社会保障っ制度改革国民会議の最終報告では、要支援者を介護保険の対象から外して市町村に委ねること、70歳―75歳の医療費自己負担率を2014年4月から2%に引き上げることを決めました。安倍政権が社会保障費を抑制する政策に舵を切ったことは明白です。政府が2013年秋に上程する生活保護法改正案と生活困窮者自立支援法は水際作戦を合法化し、家族の扶養義務をの強化を謳う「絆原理主義」的な方向への改悪です。生活保護法改正法案には生活保護利用者の健康管理と家計管理まで踏み込む規定があります。生活保護利用者を国が上から管理する意志の表れです。ケースワーカによるプライバシー侵害となることは必至です。箸の上げ下げまで口を出す恐ろしい管理社会の到来となります。2012年3月京都の宇治市で福祉事務所のケースワーカーが生活保護申請者に対して、母子世帯に異性との同居を禁止し、妊娠した場合は生活保護を打ち切るといった誓約書にサインさせていたことが判明しました。誓約書を欠かされた例は45世帯あることもわかりました。市は不適切な内容であることを認め謝罪しました。健康管理とは健康の自己責任化となって、受給者が病気になっても本人の不養生のせいだとして健康保険に自己負担を課すものになるでしょう。生活保護者には2013年より後発医薬品の利用義務が課せられています。医療費の節約を狙ったものですが、生活保護利用者は医薬品も2級品を使えということでひどい差別意識に満ちています。

生活困窮者自立支援法案は就労自立ばかりを強調したものになっています。最初の法案では「経済的困窮者・社会的孤立者を救う」ということでしたが、今回の法案では社会的孤立者(高齢者、障害者、精神疾患者)が抜けました。これは高齢者や障害者の孤立対策を放棄し、働けそうな層だけに絞った就労自立支援に限定されました。自立支援という概念には、就労自支援立のほかに日常生活自立支援と社会生活自立支援をも含みます。法案は福祉事務所がある地方自治体に、生活困窮者に対する自立支援相談事業を実施するよう求めています。就労訓練事業(中間的就労)という仕組みを導入することです。そしてパーソナルサポート事業や子供への学習支援の財源確保をすると云評価すべき点もあります。この中間就労支援に悪質な貧困ビジネス(生活保護支給金を巻き上げる脱法ハウスなど)が入り込むことを防止する手立てが必要です。中間的就労では最低賃金制の適用を除外するプログラムがあり、生活困窮者が劣悪な労働に従事させられ労働市場全体の劣化を招く危険性もあります。ひどい生活貧困者は餓死や凍死を免れるために、自力生活をあきらめ刑務所を選択する人もいます。貧困をなくするには劣悪な条件でも就労さえしていれば自立とみなされ、自立支援の名のもとに貧困を隠ぺいしかねないことになります。貧困の原因となっている雇用や住宅の劣化という問題に総合的踏み込んだ政策が必要です。労働分野では最低賃金の引き上げや派遣労働の規制強化が必要です。住宅分野では家賃補助や公的保証人といった支援が必要です。年金分野では最低年金制度の導入が必要です。これらの政策を総合した形で「生活保障法」の議論が必要です。


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