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宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」 
東洋経済新報社 (2013年11月 ) 

制度主義経済学が唱える 社会的共通資本が支える持続可能な生活の再建

私は経済学者宇沢弘文氏の著書は2冊読んだ。一つは宇沢弘文著「社会的共通資本」(岩波新書 2000年)、二つは宇沢弘文著「ケインズ一般理論を読む」(岩波現代文庫 2008年8月)である。本書である宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」(東洋経済新報 2013年)は、経済学の本というよりは、宇沢氏の経歴や学的交友関係や総合的な経済政策や社会制度設計関係の雑文(と言っては失礼だが)で過去に雑誌、新聞にだされた論考を本書にまとめたものである。前2書のような専門的な問題を系統的に論じた本ではない。宇沢氏入門として気楽に読み流せる本である。宇沢氏は1928年生まれであるから、平成26年(2014年)で御年86歳と、上に掲載した本書表紙を飾る仙人のようなお方である。1951年に東京大学理学部数学科を卒業して、経済学部に入りなおしたという変わり者(奇特な方)です。私の大学時代の友人に理学部物理学科を卒業し経済学を専攻し一橋大学の教授になった変わり者もいますので、理学部から経済学というルートもないとは言えませんが、果たして理学と経済学が定量科学の共通点があるのかと考えると自信はありません。経済学は政治(政策)であり、とても方程式を解くようなわけにはゆきませんので、宇沢氏の興味の方向が大きく変わったというぐらいの意味で捉えておきましょう。宇沢氏の人生を変えたのは、戦前のマルクス経済学者(京都大学教授)川上肇の「貧乏物語」だそうです。宇沢氏の専攻はマル経ではなく近経(近代経済学 ケインズ派)だったのですが、「経済学は貧しい人のためにある」という精神がこの時身に染みたのでしょうか。スタンフォード大学のケネス・アロー教授に送った論文が認められ、1956年に助手としてスタンフォード大学に移ります。そしてカリフォルニア大学で研究活動を行い、1964年シカゴ大学経済学部教授に就任しました。宇沢氏が在籍した1960年代のシカゴ大学はミルトン・フリードマン率いる新自由主義者(市場原理主義者)の牙城となっていました。フリードマンはベトナム戦争での水爆使用に賛成するなど、その極端な思想に宇沢氏は嫌悪感を感じたそうです。宇沢氏が新自由主義経済に強く反発し批判するのは、この時の経験が基になっています。アメリカのベトナム戦争によってアメリカ国内の若者と宇沢氏らは深く傷つき、宇沢氏はアメリカを離れました。1968年に東京大学の経済学部に戻った宇沢氏は、経済学部長を勤め1989年に退官しました。日本に戻った宇沢氏は公害問題や自動車問題など人々が安心して暮らせない環境にある、いわば「現代日本の貧困」に向き合いました。そこから安心して暮らせる制度として生み出された考え方が「社会的公共資本」です。そして1974年「自動車の社会的費用」(岩波新書)という宇沢氏が世に出る著作を公刊しました。自動車はガソリンだけで動くものではなく、道路建設という公共工事、市電の廃止・バス地下鉄の都市運輸機関整備、高速自動車道路網の整備(建設省関係)、排気ガスによる大気汚染対策(環境庁関係)、交通事故対策(警察関係)など自動車の台数が急上昇する時期に発生する膨大な税金による「社会的費用」の発生を指摘しました。モータリゼーションは個人の趣味や富の象徴ではなく、社会問題として扱わなければならないという論です。クロネコヤマトの宅急便も社長のアイデアだけで生まれたわけではなく、高速道路網と都市交通網の整備の上に成り立つ起業であったわけです。自動車の通行を便利なようにすることで、安い市電を利用する社会的弱者は犠牲になりました。自動車社会の問題は公害だけではありません。大規模資本による市場の大変革が起きました。大規模小売店は自動車で買いにくる郊外型ショッピングタウンを生み出し、そのため旧市街地にあった小売店は全滅し、商店街はシャッター通りになりました。地方都市の駅前通りはゴーストタウン化しています。都市住民の高齢化に合わせた形で都市中心が過疎化しているのです。アメリカ並みの都市破壊が進行しています。夜間人口がゼロの危険な地域や貧困化スラムの存在が犯罪の温床になるアメリカ型都市になるのも近いでしょう。こうした社会問題に近い課題については、ミクロ経済学とりわけ新古典派の経済理論では分析はできない。むしろ政治的な問題とされる。

2000年に発刊された、宇沢弘文著「社会的公共資本」(岩波新書)から、社会的共通資本とはなにかを見ておきましょう。社会的共通資本とは「豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持する社会的装置」と定義され、次の構成要素からなる。
@自然環境 (大気、森林、河川、水、土壌、野生生物など) [環境]
A社会的インフラストラクチャー (道路、上下水道、住居、ガス、交通通信網など) [ハード]
B制度資本 (教育、医療、司法、金融、福祉、年金など) [ソフト]
すなわち社会的共通資本の経済学は、人が豊かに生活できる社会の総システムを指し、資本主義、社会主義の枠を超えたシステムの構築を目指す。生活のしやすさは所得体系(税、賃金)だけではなく、受けられる総サービスの量と質すなわち社会制度によるところが大である。すなわち社会の総体でしか評価できないことを示しています。 社会的共通資本の考え方の経済史を振り返りますと、つぎのような流れになるでしょう。
@ ケインズ経済学(1936年から1970年)
資源配分の最適化と市場均衡の「神の手による安定」を否定し、経済活動の水準つまり有効需要の大きさは経済主体の固定的資本形成、総資本額であるとした。特に金融資本の投機的性格による不安定性を明らかにした。しかしケインズの経済学は資源の私有制と所得配分の不公正には眼をつぶり、生存権の保障は所得の再配分つまり事後的救済策によった。雇用問題と米国のベトナム戦争、財政崩壊により有効性を失った。
A 反ケインズ経済学(新保守主義)(1970から1990年)
政府の役割縮小、資源の私有と生産主体に私的性格を強め、マネタリズム、合理主義経済、サプライサイド経済学、合理的期待形成仮説など多様な形態をとるが、極めて政策的要素が強い。レーガン、サッチャー、中曽根が民活、規制緩和、福祉切り捨てなど制限なしの企業活動を支援した。グローバル化が進行したのもこの時期である。その結果バブル経済を招来し金融システムの腐敗を招いて崩壊した。
B ソースティン・ヴェブレン「制度主義」(社会的共通資本とそれを支える社会組織)
ソースティン・ヴェブレン(1857-1929年)は19世後半から20世紀初頭の人である。ケインズ経済学派が彼の主張を再発見した。アダムスミスの「国富論」に回帰することが理想となり、「民主的過程を経て経済的社会的条件が展開され、最適な経済制度を求める」。制度主義の経済制度の特徴は社会的共通資本とそれを管理する社会的組織である。市民の基本的権利である生活権(生存権)を充実するのが目的であるから政府官僚の規制を廃し、市場的基準に支配されてはならない。「信託」の概念で管理運営される。

社会的公共資本以外に宇沢氏は地球温暖化問題にとりくみ「大気安定化国際基金」を提唱し、比例的炭素税をとって開発途上国に配分し地球環境保全に使うものです。2012年環境省は「地球温暖化対策のための税」を導入することになりました。2009年宇沢氏はと旧環境問題解決に貢献したとして「ブループラネット賞」を受賞しました。また成田空港問題の調停にも貢献しました。強引な運輸省のやり方に学制農民らが反発し1971年から激しい建設阻止闘争が繰り返され、1978年の開港も滑走路1本だけという変則的な国際空港となりました。そこで1991年になって運輸省と反対同盟派の平和的解決に宇沢氏が乗り出し、1993年に歴史的和解が成立しました。政治家顔負けの調停の成果です。こうした活動を通じて宇沢氏が到達した理論が上にまとめた「社会的共通資本」という概念です。ソフトな制度である医療制度の矛盾は、医療最適性と経営最適性の乖離にあります。両者を一致させるには、その差を社会的に補てんしなければなりません。医学や医療の分野に、市場原理主義者のような経営合理主義を短絡的に導入してはいけないことを宇沢氏は主張します。宇沢氏の経済学者としてのプロフィールを紹介する。宇沢氏の専攻は数理経済学で、意思決定理論、二部門成長モデル、不均衡動学理論などで功績を認められたという。新古典派の成長理論を数学的に定式化し、二部門成長モデルや最適値題の宇沢コンディションも彼の手による。不均衡動学の展開により、アメリカ・ケインジアンたちに挑んだが、自らの着想の定式化に苦心したという。理論面ではジョーン・ロビンソン、ミハウ・カレツキ、ピエロ・スラッファと同様、広い意味でのポスト・ケインジアンに属し、イギリス(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)のジョン・ヒックスによるケインズ理論のうちの短期的均衡メカニズムの比較静学的定式化を端緒としてアメリカでポール・サミュエルソンからグレゴリー・マンキューなどへと続いているアメリカ・ケインジアンたちの流れには否定的である。日本に帰国してから、公害などの社会問題が酷くなると、現実から切り離され形骸化した数理的経済理論から、公共経済学などの現実経済の研究に進んだ。

宇沢氏の学者としての経歴は、つぎに示す。
1956年 - スタンフォード大学経済学部研究員、1958年同助手、1959年同助教授
1960年 - カリフォルニア大学バークレー校経済学部助教授
1961年 - スタンフォード大学経済学部準教授
1962年 - 経済学博士(東北大学) 博士論文:「レオン・ワルラスの一般均衡理論に関する諸研究」
1964年 - シカゴ大学経済学部教授
1968年 - 東京大学経済学部助教授、1969年同教授、1980年同経済学部長
1989年 - 東京大学を定年退官、東京大学名誉教授。新潟大学経済学部教授に就任
1994年 - 同大学退官、中央大学経済学部教授
1999年 - 同大学経済学部教授定年退職、中央大学経済研究所専任研究員、国際連合大学高等研究所特任教授
2000年 - 中央大学研究開発機構教授
2003年 - 同志社大学社会的共通資本研究センター所長
主な著書を拾うと、『自動車の社会的費用』(岩波新書, 1974年)から始まって、『ケインズ「一般理論」を読む』(岩波書店, 1984年)、『経済動学の理論』(東京大学出版会, 1986年)、『公共経済学を求めて』(岩波書店, 1987年)、『経済学の考え方』(岩波新書, 1989年)、『「成田」とは何か――戦後日本の悲劇』(岩波新書, 1992年)、『地球温暖化の経済学』(岩波書店, 1995年)、『経済に人間らしさを――社会的共通資本と共同セクター』(かもがわ出版, 1998年)、『日本の教育を考える』(岩波新書, 1998年)、『社会的共通資本』(岩波新書, 2000年)、『ヴェブレン』(岩波書店, 2000年)、『経済学と人間の心』(東洋経済新報社, 2003年)や高校生のための数学関係書が多数ある。
本書宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」は、『経済学と人間の心』(東洋経済新報社, 2003年)をもとにして、その後の講演録を追加しての新装改訂版となります。内容は講演録、対談や思い出、自著からの部分援用、雑誌投稿小論文などから構成されたオムニバス式の本で、本書題目の為に書き下ろしたものではない。特に注目されるのは各章の有名な経済学者の著書を解説した部分は書評として読める。書評を中心に話が進んでゆくので、経済学の本を読んだ気になる。従って気楽に読めるといえば失礼になるが、論理を(数式を)厳格に展開するものでないから肩がこらない読み物である。なんか渋沢栄一著「論語と算盤」(ちくま新書)に似ている。本書は「人を幸福にする経済学」が人間倫理に忠実であるなら、アプローチは違うが日本の株式会社の始祖渋沢栄一と同じ趣旨かもしれない。本書は長短合わせて20章からなるが、著者の命名に従って5部に分けてみてゆこう。ちょっと厄介なことは用語が英語でそのまま使われているので、経済学に素人な方(私も含めて)には解説が必要なことである。米英滞在期間の長い宇沢氏はそのまま英語で記されている。その方が正確な場合が技術論文では多いのでそれに従う。

第1部 市場原理主義の末路

デヴィット・ハ-ヴェイが2005年に著した「新自由主義―その歴史的展開と現在」(オックスフォード大学)が好著であるという。著者はオックスフォード大学エコノミックスジオグフィーの教授である。エコノミックスジオグフィーとは経済地理学のことで、英国植民地政策上必要な学問であった大学の歴史を引き継いでいる。ちなみに地政学とは政治地理学のことである。ですからエコノミックスジオグフィーの教授とは最高のポストだそうです。経済学上の新自由主義すなわち市場原理主義に限定して宇沢氏は解説する。社会的共通資本の考えは市場原理主義に対する批判として存在することに留意しておきたい。著者は旧制1高のリベラルな校風について、校長であった安倍能成氏や、木村健康氏をあげて回想されている。リベラリズムとは人間が人間らしく生きて、市民的権利を十分享受し、社会的・政治的・学問的活動に携わることであるといいます。人間の心が一番大事なのです。リベラルな政治家として著者は戦後の最初の総理大臣幣原喜重郎氏をあげます。軍縮会議で軍の意に反して条約に署名し、帰国後「統帥権の干犯」として追放された経歴を占領軍が憶えていたからだそうです。リベラルな教育は社会的共通資本として教育の原点であると著者は本書で一貫して主張しています。1890年にシカゴ大学が創立された時、教育学者ジョン・デュ−イと経済学者ソースティン・ヴェブレンが教師として任命されました。その後二人とも大学を追われますが、デュ−イはほかの大学で教育学を確立しました。デュ−イの3つの理念とは、@違った環境で育った子供の社会統合の役割、A能力に差異があるのが当然だが、生まれつきのものを大事に育てること、B最高の教育を受けることができる公的教育です。決して生徒を比較して点をつけてはいけないといいます。共通1次とか全国学力テストとかいう、偏差値で差別し進路を振り分けることが目的の現在の教育システムは恐るべき邪道の教育であると著者はいいます。福沢諭吉はデュ−イの教育の理念を実践した教育者でした。デュ−イとヴェブレンは30年後再会して、ニユースクール・フォア・ソーシャルリサーチというユニークな大学を作りました。この大学では学生は自分でカリキュラムを作ります。教授は比較したり点をつけることはありません。4年間自分の責任で教授のサポートを得て学ぶ大学です。スタンフォード大学のレオン・フェスチンガー教授もベトナム戦争で深く傷ついた人です。フェスチンガーは社会心理学という新しい分野を開いた人で、認知的不協和理論を暴動の大衆心理に適用したものです。その理論をアメリカ軍がベトナム戦争のヴェトコン捕虜に適用し拷問に用いたそうです。それを知ったフェスチンガーはスタンフォード大学から去り消息不明となった。そして離婚しニユースクール・フォア・ソーシャルリサーチという大学に入りなおして専門分野を文化人類学に変えたそうです。ベトナム戦争当時シカゴ大学は反戦運動の一つのメッカになっていました。筆者が在籍していた当時、学生が大学本部を占拠する事件が起こりました。大学当局が成績を徴兵委員会に送るなということでした。そこで著者と3人の若い助教授が当局と学生の調停に乗り出し、学生の成績をつけないことで一時的妥協を得たが、後日3人の若い助教授はすべて大学から追放されたそうです。その後の行方は不明です。当時シカゴ大学は経済学研究のメッカでした。大恐慌のあとケインズ的な経済政策が確立しきましたが、1960年代のベトナム戦争を契機としてケインズ経済学は崩壊しました。著者が付き合ってきたいろいろな人の話が出てきますが、一つ一つの話が時代も異なりますので面食らうことが多い。話が飛ぶのを多少付き合ってゆくと懐かしい話の中に、著者のモットーであるリベラル教育と反市場原理主義でなんとなくまとまっているようです。

社会的共通資本という考えはケインズ経済学の発展であるようです。大恐慌を引き起こした古典派経済学の信奉者であるフーヴァ―大統領の後を継いで、1933年大統領に就任したルーズベルト大統領は、まず銀行法を制定しました。銀行業務と証券業務を完全に切り離して(規制緩和の逆政策)、金融機関を社会的共通須本として、銀行の利潤追求よりも社旗が円滑に機能していくための制度として位置づけました。そしてTVAを設立し、地域開発を社会的インフラという社会的共通資本を公的な資金で実行しました。この2つがニューディール政策の要だったのです。アンシャンレジーム(旧体制)は激しくニューディール政策に抵抗しましたが、ルーズベルト大統領はアメリカ社会を建て直し、第2次世界大戦を勝ち抜きました。1960年代著者がシカゴ大学にいたころ、ゴールドウォーターやフリードマンらはヴェトナムに水爆を使って効果的な戦争遂行を主張していました。新自由主義とはもっぱら企業のための自由であって、それを守る事だけが大切で何万人が死ぬことは眼中にはなかったのです。デヴィット・ハ-ヴェイによると、市場のないところを市場化し儲ける機会をお膳立てすることが政府の仕事であると主張し、政府は企業の露払い的役割に成り下がりました。フリードマンが言うところの「合理的期待形成」の考えは、その市場さえ全知全能の資本の前にはコントロールされるべきものでした。そして「トリクルダウン理論」は減税はお金持ちからやるべきで、お金持ちが潤えば貧乏人にも施しができるというふざけた話です。まさに傲慢そのものです。なぜこのような逆立ちした屁理屈が通るかというと、貨幣価値至上主義(札束のまえにはすべての人が平伏する)によるものです。20世紀末フリードマンは銀行と証券業務の障壁を取り払うことの全力をかけて、1999年グラム・リーチ・ブライリー法の制定に成功しました。これが世界金融危機をもたらした元凶です。金融新商品の結果が住宅バブルと証券化の大失敗をもたらしました。サブプライムローンに市場原理主義の最悪な面の帰結がみられました。第2次世界大戦が終わった1945年夏、スイスでフリードリッヒ・ハイエクとフランク・ナイトが会談し、「自由な人間らしい生き方ができる経済的基盤を考えよう」として、ネオリベラリズムが始まりました。1947年モンペルラン・ソサエティを立ち上げました。シカゴ大学ではナイトが中心でした。彼は広島・長崎の原爆投下を糾弾し、広島の原爆孤児を養子にしたという人でした。ライトはモンペルラン・ソサエティを乗っ取った市場原理主義者のフリードマンを嫌って破門したそうです。1981年に来日されたヨハネ・パウロ2世は後楽園野外ミサで平和は人類にとって一番大事な共通の財産であると教えました。幣原首相が占領軍に懇願したという軍備放棄条項を持つ日本の平和憲法は、人類にとって貴重な社会的共通資本だといえます。

アメリカによる世界覇権時代をパックス・アメリカーナと呼びます。古代にはパックス・ロマーナという時代がありました。アメリカが覇権を握ったのは第1次世界大戦後です。19世紀後半から20世紀初めはパックス・ブリタニカの時代でした。大英艦隊が7つの海を支配していました。ナポレオンをトラファルガーの海戦で破った1805年から海賊的な資本主義によって世界中に植民地を作りました。古典経済学の祖アダム・スミスは「国富論」の中でこの植民地「重商主義」を批判しました。巧妙なインド支配はインド人民の生活を根底から破壊し、その後遺症は近年まで続きました。パックス・ブリタニカは世界第恐慌で終わりを告げました。そこに現れた経済学者がケインズとベヴァリッジです。ケインズは資本主義の問題は平衡点が幻想に過ぎないことで、絶えざる不均衡と失業、意図的バブル、物価不安定など抱えていることを指摘し、1936年「雇用・利子および貨幣の一般理論」を著しました。そこで述べられた失業問題を扱った、ベヴァリッジの「失業―産業の問題」を著しました。ベヴァリッジはフェビアン協会のウエブ夫妻が作った労働者のための大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスLSEの教授や学長を勤めました。第2次世界大戦中、ベヴァリッジはチャーチル首相に働きかけて「社会保障に関する小員会」を作り、国税で賄う社会保障制度を考案しましたが、チャーチルは実行する気はありませんでした。1945年終戦間際の労働党のアトリー首相はベバン厚生大臣に命じてベヴァリッジ報告の具体化を行いました。その結果国民保健サービスNHSができました。国民すべてが無料で医療を受けられる制度です。ベヴァリッジは社会保障制度、医療とか年金、基礎年金、子ども手当とかを保障することによって戦後のイギリス社会の安定を設計しようとしたのです。ケインズはそのころ大蔵省顧問をしていてジェームス・ミードをベヴァリッジのアシスタントにしました。徹底的にサボる大蔵官僚を相手に、ミードは医療に対する乗数効果が高いことに注目しNHS制度の樹立に貢献しました。しかしその後医療費抑制が続き、1980年代サッチャー首相が政府機能を民営に移しました。アラン・エントホーヘンをアメリカから呼んで医療費抑制政策を進めました。その結果衰弱したイギリス医療体制NHSを再建したのが1997年ブレア―首相でした。フリードリッヒ・ハイエクとフランク・ナイトのモンペルラン・ソサエティの原点であるネオリベラリズムと、フリードマンの市場原理主義とは宇沢氏はこれを区別します。ネオリベラリズムは理解しうる思想の流れで重要な考えだと宇沢氏は評価しています。しかし市場原理主義は政府を手下に使って金のためには何でもやる、それを阻止するものは水爆も使っていいという極端な危険思想であるとみています。ナイト氏が弟子であるフリードマンを破門した形になったのは当然だと考えました。

第2部 右傾化する日本への危惧

本書第3章で、1983年宇沢氏が文化功労者に選ばれて宮中で午餐会によばれた時に、昭和天皇と言葉を交わした印象記が挟まれているが、私には興味はないから割愛する。社会的共通資本の考えを中心として人間の心を大事にする経済学の構築にははかなり時間を要した。1990年ローマ法王ヨハネ・パウロ2世から回勅「レールム・ノヴァルム」の相談があり、1891年の法王レオ13世の回勅は「資本主義の弊害と社会主義の幻想」であったので、宇沢氏は1991年の回勅を「社会主義の弊害と資本主義の幻想」というかなりウイットの効いた文句を提案した。21世紀こそ制度主義の考えこそ人類が直面する問題を解決する重要な概念で、資本主義とか社会主義では決して解決できないと考えたからだという。資本主義と社会主義という二つの経済体制を超えて、すべての人の人間的尊厳と魂の自律が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保できる経済体制こそ、制度主義の考えである。宇沢氏がケンブリッジ大学で知り合ったキース・フリアソンとは、ジョーン・ロビンソンのセミナーにおいて、すなわちケインズサークル研究会の討論会であった。そこではポール・サミュエルソンらが資本の概念を巡ってジョーン・ロビンソンらと激論をしていた。ジョーン・ロビンソン側に立ったキース・フリアソンと宇沢氏は論争に巻き込まれたが、その中で戦争中の日本軍のオーストアリア兵士の捕虜虐待問題になると、キース・フリアソンは日本軍に拷問をうけ精神的にトラウマになったということを知った。戦後長い間オーストラリアでは反日感情が強かったが、キース・フリアソンは以来日本嫌いになり、招待しても決して来日しなかった。1999年キース・フリアソンがなくなったが、2000年5月の森首相による「日本は天皇を中心とする神の国」発言があった。旧体制派の政治家は臆面もなく歴史を無視した暴言を繰り返し、欧米の識者の嘲笑を買うばかりである。1999年にもう一人のシカゴ大学の経済学者ツヴィ・グリリカスがなくなった。彼はシカゴ大学のTWシュルツ教授のもとで研究し教授となった。ツヴィ・グリリカスはユダヤ人でホロコーストの生き残りであった。ツヴィ・グリリカスは日本の平和憲法を人類が生んだ最高のものとして高く評価していた。戦時中アジアのいたるところで日本軍の蛮行残忍がまだ記憶に残っているにもかかわらず、2000年の天皇制軍国主義を讃美する森首相発言は無神経きわまりなく、2014年になって安倍首相の靖国神社参拝問題と「従軍慰安婦はどこにもあった」というNHK会長就任会見の暴言は、アンシャンレジーム崇拝者安倍首相好みだとしても許されるものではない。

第3部 60年代アメリカ―激動する社会と研究者仲間たち

宇沢氏がアメリカにいた1950年代半ばから1960年代の終わりにかけてアメリカ社会は大きく変化した。1950年代はアメリカ経済は絶好調で、社会は安定的な繁栄を謳歌してしていたが、公民権運動、ベトナム戦争で北爆がエスカレートすると反戦運動が展開され、大学では多くの学生がその反戦運動に巻き込まれた。特に知的能力に優れ、正義感の強い学生ほど深く傷つき大学を去った。学生の名前は明記しないが、多くの優秀な学生の消息が消えたことに深い悲しみをもって宇沢氏は偲ぶのです。ベトナム戦争で傷ついたレオン・フェスチンガーのことは第1部で書いたので省略するが、ここではレオン・フェスチンガーが好んだ安倍公房氏の文学と、大江健三郎氏の文学の比較が述べられる。宇沢氏も安倍公房氏の文学と大江健三郎氏の文学の愛読者であったという。二人の文学が1960年安保闘争を超えて世界の思想に影響を与えたという。安倍公房氏は救いようがない絶望的な心理状態を描き、大江健三郎氏は明快で戦後の平和憲法の理念を素直に信じた文学的表現であった。レオン・フェスチンガーは安倍公房氏に完全に傾倒していた。それはレオン・フェスチンガーの大衆心理の理論に通じていたからだ。大江氏の文学は平均的アメリカ人が理解できる思想と政治的枠踏みの中にあった。ベトナム戦争が深刻化するにつれ、レオン・フェスチンガー氏はおかしくなった。そしてカフカ的転身をして、人生を生きなおすことにしたようだ。ソースティン・ヴェブレンの大学に共鳴し、自身の学問的専攻分野も変えてしまった。そして1999年に亡くなった。2001年9月11日ニューヨークにあった国際貿易センターのツィンビルに旅客機が突入するなどの同時多発テロが起きた。イスラエルのパレスチナ人民に対する凶暴な行為を全面的に支持するアメリカに対する報復攻撃である。ユダヤ人がナチスによる虐殺を受けたといっても、他民族の虐殺が許されるわけではない。この大事件に著者はギボンの「ローマ帝国滅亡史」が頭をよぎったという。なおこの本が出たのは1776年で、実は同年にアダムスミスの「国富論」、トマス・ペインの「コモンセンス」という名著が世にでた。これも歴史の偶然なのだろうか。アダムスミスの「見えざる手」といった市場の均衡は幻想である。網の目のように張り巡らされた既得権益の市場はいつも失敗するときのごまかしである。ケインズはほっておけばいつも失敗する市場を、理性的な財政政策と合理的な金融制度によって、完全雇用と所得配分の平等化を目指した。このケインズの理性主義に基づく政治思想的立場は、イギリスの経済学者ロイ・ハロッドによって「ハーヴェイ・ロードの僭見」と呼ばれた。ハーヴェイ・ロードとはケインズが生まれたケンブリッジの住宅街のことで、僭見とは前提条件という意味である。「ハーヴェイ・ロードの僭見」とは、イギリスの貴族主義のことで、イギリスの政治は少数の「知的貴族」によって理性的説得の手段を通じて支配されるという考えである。大英帝国の滅亡と同時に「ハーヴェイ・ロードの僭見」も消えてしまった。「ハーヴェイ・ロードの僭見」を支えてきたのはイギリスの植民地支配の富であった。ケインズにしても先物取引に失敗し、フランスから印象派絵画を買い占めるなど問題の行為が多かった。そして「知的貴族」が、知性、感性、人間性という観点から見ても、一つの虚構にすぎなかった。翻って日本の政治をリードするエリートと自負する官僚を見ると、決してかれらは選民ではなく、優秀でもなく、政策の失敗を何度でも繰り返す厚顔無恥な東大法学部出身者に過ぎず、官僚の信じがたい汚職腐敗、知的にも人間的にも多くの問題が多すぎる霞が関の人々である。彼らには「僭見」というほどの知性はなく、あるのは東大法学部という権力機構ではぐくまれた「思い上がり」だけである。自分たちは国家権力に直結するという強烈な自意識(皇尊の僕)に支えられている。いいポジション取りの世智だけにすぐれ、失敗や無知の言い訳・隠ぺいに長けた反省のない人である。彼らは生きる姿勢が低いし、社会正義意識が全くないし、能力もかなり劣っている。ただ共通1次試験のような点取り虫に過ぎない。制度学派経済学の祖と言われるヴェブレンは、大学を人間が本来持っている特性を育てる聖なる組織だととらえて、「自由な知識欲」と「生産倫理」という人間の2つの特性とともに発展してゆく場とした。

第4部 学びの場の再生

第4部は6つの章の教育論雑感からなる。宇沢氏にとってリベラルでアカデミックなアメリカの大学は、学問的、人間関係的な第2の故郷であるという。アメリカ滞在は12年間に及び、1964年には36歳でシカゴ大学経済学部教授になった。ベトナム戦争によってアメリカ社会が荒廃し、市場原理主義経済学の全盛時代を迎えるアメリカに嫌気がさしたのか、1968年に帰国し東大経済学部助教授となった。1965年学生たちの反戦運動が活発になり、シカゴ大学本部を学生たちが占拠する事態になった。徴兵委員会に学生の成績表を送るなという要求にたいして、著者と3人の助教授が調停に立ち、成績をつけないという妥協案でまとまりかけたが、著者がアカ呼ばわりされたので腹をたてて米国を去ったという。著者らは「ザ・ヴォイス」という反戦雑誌を作ったが、これは著名な言語・文法学者ノームチョムスキーの反戦運動の一環であった。1966年著者が1年間英国のケンブリッジ大学の行って留守の間に、シカゴ大学は保守派一色となった。3人の若い助教授は解雇されて行方不明になっていた。実に苦い思い出として残ったと宇沢氏は回想する。1994年著者がミネソタ大学の哲学科教授のジョン・ドランに再会して、ジョン・ドランが医の倫理をテーマとしていることを知って、それ以来医療を教育と並んで社会的共通資本の要に位置づけ、医の倫理の関する国際シンポジウムを開いたり、共同研究を行った。ジョン・ドランとの会話の中で「ノーム・チョムスキーはえらい。反戦運動で54回も逮捕されている。私(ドラン)は1回きりだ」といった。そのころ宇沢氏は子供のための数学入門書「好きになる数学入門」を書き始めていた。カントの「純粋理性批判」の考えに基づいて数学を教えることが可能だろうかということをチョムスキーに影響された試みである。ドランも「魚に泳ぎ方を教える」という本を書いている。子供に数学を教えることは魚に泳ぎ方を教えるのと同じである。すくすく育つ環境を用意すれば本能的に数学を理解する能力を持っているという理論である。大学は知識を教えるところではない。人格を形成することがおざなりにされている。まして実学的な知識を教えてそれでよしとすれば専門学校と大差はない。日本の経済、社会の現状をどのように理解し、将来の方向をどのように考えるか、経済学の学界で基礎となるパラダイムは存在しない。人間中心の経済学は教師と学生が一体となって共同作業をしなければならない。経済学の新しい地平を拓くのは学生である。ジョン・デュ−イの「教育の3原理」は第1部で述べたので省略するが、文部官僚は教育委員会をつかって教科書検定制度と学力テストによる偏差値教育を徹底したため、知性の欠如、道徳の退廃、感性の低下を招いた。文部官僚は陰湿で抑圧的なやり方で知られる。日本の基礎教育制度の欠陥を象徴する「いじめ」の原点は、文部官僚による学校関係者にたいする「いじめ」構造にあるといってもよい。

旧制高校はリベラル・アーツの思想に立って本来の意味における大学の機能を持っていたが、最も特徴的なことは全寮制の完全な学生自治であったという。旧制ナンバースクールの良き校風は新制大学卒の我々には実感として理解できないことであるが、文部省が導入した新制大学の制度は、東京帝国大学を改革して、新制大学を国家権力の一機構として再編成しようとするものであった。ケンブリッジ大学、オックスフォード大学やハーバード大学などは、本来のリベラル・アーツを中心として、法学部、工学部などの応用分野を専門学校カレッジとして位置づけている。大学本校は国が運営するが、カレッジは私的な基金で運営される。カレッジの一つはロスチャイルド家が管理するローデシア基金で運営されていた。著者が在籍したアメリカの大学はリベラルな雰囲気を持つ、いい大学であった。それは福沢諭吉のリベラルな考え方に似ている。リベラルとは大学が外的な規則や不文律にとらわれることなく、それぞれの倫理的規範と職業的本質にしたがって行動することである。外国の大学ではセミナーの後でビールを飲みあって議論する慣習がある。しかしベトナム戦争後はアメリカの大学は殺伐として、みんなで連れ合ってビールを飲みにゆく心のゆとりはなくなった。2003年著者は同志社大学に新設された社会的共通資本研究センターの所長に任命された。その設立については、ノーベル経済学賞を受賞したかっての仲間のジョーセフ・スティグリッツや、ケネス・アロー、ロバーツ・ソローらの世界的経済学者が協力を惜しまなかったという。センター設立記念第1回公開講演にスティグリッツが「環境と経済発展」と題して基調講演を行った。現代資本主義の一つの制度的特徴として、福祉の制度化がある。風刺社会の理念は、健康、教育、仕事、交通を始め、さまざまな市民的権利を充たす環境条件の形成と基本的サービスの提供は政府が責任を持つということである。この市民的権利の充足が、利潤動機の企業を媒介としてなされると、その内容が市場的な基準によって大きく歪みられ、しかも投下される資源の社会的浪費は不可避に増大してゆく。なぜなら企業にとって税金で支払われる公共事業と同じなり、取り得となり適正な事業内容・規模という感覚がなくなるからである。医療などはその典型である。教育についても小中学校という基礎教育に限って政府は社会的条件を整備すればよかったが、90%以上は高校に進学し、40%は大学に進学する時代となったもで、高校・大学までも任意的需要ではなく基本的要求だと見るとその社会的費用は莫大で、しかもこれらのサービスのかなりの部分が市場的なメカニズムで行われると、教育の付加価値を上げるための競争と価格の上昇は避けられず、その社会的費用は天文学的に増大するのである。所得の教育関係支出比率も上昇する。イワン・イリイッチの「脱学校の社会」(創元社)によると、学校教育は、産業社会の秩序を維持するための手段となり、真の人間的能力の発展を阻害するものとなり、学校制度を通じて作られた社会的差別はこの上もない不幸と分極化を作りだすという。日本の学歴社会、共通1次試験はまさに学校教育を破壊している。イリイッチはさらに価値の制度化を推し進めると必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不安定をもたらすと指摘する。採用者は学歴を聞いてはならないとすべきである。イリイッチは1976年に「医の天罰ー健康の収用」という本で、現在の医学は病気の治療という目的には副次的効果しかなく、医療行為に基づく被害は社会的にも許容できない程度に拡大したと指摘した。近藤誠著「医者に殺されない47の心得」(アスコム)は医療ムラのたくらみを暴いている。ということで社会的共通資本という制度には市場原理主義が紛れ込んでは絶対にダメだということを著者は強調している。「民にできることは民に」という小泉元首相のスローガンは、能力的に民にできないことはないが、民にやらしては絶対だめということもあることを忘れているのである。泥棒に金庫番をさせるようなものである。

第5部 地球環境問題への視座

豊かな社会とはつぎのような基本的諸条件を満たしていなければならない。@自然環境が安定的に維持されている、A住居と生活的環境が用意されている、B学校教育制度が用意されている、C最高水準の医療サービスが利用できる、D資源が効率的公平に配分される経済的、社会的制度が整備されている。本来的な意味でリベラリズムの理想が実現される社会のことである。豊かな社会の経済的制度はどうしたら実現できるかをアダム・スミス、ミル、ヴェブレンに聞くことにしよう。経済学は1776年スミス著 「国富論」の古典派経済学に始まるといわれる。スミス著 「道徳感情論」はヒュームの思想を敷衍し、「共感」という概念を導入し人間性の社会的本質を分析した。この共感の可能性を持っていることが人間的感情の特質であり、人間存在の社会性を表現する。スミスは「道徳感情論」を根底において20年もかけて「国富論」を完成した。J・Sミルは1848年「経済学原理」において、すべての市民の人間的尊厳が保たれ市民的権利が保証されている社会が持続的にいじされているユートピア的な定常状態(安定性)を古典派経済学が想定したものと理解した。ソースティン・ヴェブレンの制度主義の経済学は、様々な社会的共通資本を建設し、そのサービスの供給を社会的基準に従って行うことにより、ミルの定常状態が実現できるとした。今日でいう「持続的発展」という考え方である。社会的共通資本は自然環境(大気、水、土地など)、社会的インフラ(道路、交通、電力など)、制度資本(医療、教育、金融など)の3つから構成される。これからは環境論になるが、環境と経済の関係についてはこの30年に本質的な変化が起こりつつある。1972年ストックホルムで第1回環境会議が行われ、1992年ブラジルのリオで第3回環境会議が行われた。ストックホルム環境会議の主題は地域での公害問題であったが、リオ環境会議の主題は地球規模における環境汚染破壊という全地球環境問題となった。地球温暖化、海洋の有機物汚染、オゾン層破壊、生物多様性、砂漠化などが議題となった。化石燃料の枯渇、地球温暖化などは前例のないグローバルチェンジを引き起こしている。経済学者からの発言に一つに、佐和隆光著 「グリーン資本主義」 (岩波新書)を挙げておこう。環境論には膨大な書物があり、別に環境コーナーを設けてあるのでそこを見ていただくとして宇沢氏の論は割愛する。


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