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権左武志著 「ヘーゲルとその時代」 
岩波新書 (2013年11月 ) 

フランス革命とドイツ統一を前にしたドイツ観念論の完成者 対立の止揚からの創造的弁証法

 ヘーゲル「精神現象学」 ヘーゲル「法哲学」 ヘーゲル「歴史哲学講義: ヘーゲルとその時代

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770年8月 - 1831年11月)は、ドイツの哲学者である。フィヒテ、シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。優れた論理性から現代の哲学研究も含め、後世にも多大な影響を与えた。ドイツ観念論哲学の完成者であり、近代哲学と現代哲学の分水嶺として位置づけられることも多い。なお、同時代人にナポレオン、作家ゲーテ、シラー、詩人ヘルダーリン、音楽家ベートーヴェン、画家のカスパー・ダーヴィト・フリードリヒがいる。ヘーゲル死後、一時期ドイツの大学の哲学教授のポストはヘーゲルの弟子(ヘーゲル学派)で占められた。1830年代から1840年代にはヘーゲル学派の中でもヘーゲル左派が興隆したが、ヘーゲル左派の思想はマルクスらによって批判的に受け継がれ、次第に勢いが衰えていった。ヘーゲルの影響を受け、ヘーゲル哲学を批判的に継承・発展させた人物としては、セーレン・キェルケゴール、カール・マルクスなどがいる。ヘーゲルの主著の1つである『精神現象学』(1807年)は、元の表題を「学の体系 」といい、主観的精神(「意識」「自己意識」「理性」)から絶対知を説き、「精神」「宗教」も含む。他の著作に『大論理学』(1812年ー1816年)、『エンチクロペディー』(1817年、1827年、1830年)、『法哲学綱要』(1821年)などがある。なお、『歴史哲学』『美学』『宗教哲学』などはヘーゲルの死後、弟子たち(つまりヘーゲル学派)によって彼の講義ノートと聴講生のノートとを中心に編纂されたものである。
ヘーゲルのドイツ内(まだ統一ドイツの概念もなかった時代なのでドイツと言っても語弊があるが)での足跡をたどる。
@ シュトゥットガルト  ヴェルテンベルグ公国   1770年生誕ー1788年テゥービンゲン大学神学部に入学ー1793年卒業 (0歳―23歳) 
A ベルン        スイス            1793年ー1796年 家庭教師生活 (23歳―26歳)  1793年草稿「民衆宗教とキリスト教」 1795年草稿「キリスト教の実在性」
B フランクフルト    ヴェストファーレン王国   1797年ー1800年 家庭教師生活 (26歳―30歳)  1797年「カル親書」翻訳 1798年草稿「愛」 1799年草稿「キリスト教の精神とその運命」 1800年「1800年の体系断片」
C イェーナ       ザクセン王国        1801年ー1806年 イェーナ大学講師(31歳ー36歳)  1801年「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」 1801年草稿「ドイツ国制論序文」 1802年「信仰と知」 1807年「学の体系1 精神現象学」
D バンベルグ      ヴァイエルン王国 1806年ー1808年 「バンベルグ新聞」編集(36歳―38歳)
E ニュルンベルグ    ヴァイエルン王国     1808年ー1816年 ギムナジウム校長(38歳―46歳)  1812年、1813年、1816年「(大)論理学」
F ハイデルベルグ   バーデン大公国      1816年ー1818年 ハイデルベルグ大学教授(46歳ー48歳) 1817年「エンチクロペディ」
G ベルリン       プロイセン王国      1818年ー1831年 ベルリン大学教授―総長(48歳ー61歳) 1820年「法哲学綱要」

次にヘーゲルの生涯は本書の内容にも書かれているが、本書内容は哲学的な面の記述を主題とするので、まず彼の生涯の概略を次に記す。1770年8月27日、ヴュルテンベルク公国のシュトゥットガルトの中流家庭に生まれる。父親はヴュルテンベルク政府の公務員だった.。子供時代は学問の環境に恵まれ、文学書・新聞・哲学小論他の書物を読みあさった。8歳のときシェイクスピア全集をもらい読むなど大変な読書家であったという。南ドイツのルター派正統神学のテュービンゲン神学校で教育を受け、哲学者シェリングや詩人ヘルダーリンと交友を結ぶ。3人とも規則に縛られた神学校の環境を好まない点で意気投合し、互いの思想に影響しあった。フランス革命の展開を横目に見ながら、ヘルダーリンとシェリングの2人はカントの観念論哲学への批判に没頭したが、ヘーゲルは当初それには加わらなかった。当時彼は、大衆哲学の仕事を成し遂げることの方に興味があったので、テュービンゲン時代において、ヘーゲルはヘルダーリンやシェリングが関わった高度に神学的な議論には懐疑的な立場をとった。彼がカント哲学の実践の試みよりもむしろ、その問題点の解決が重要であると認めたのは、1800年になってからのことである。その後家庭教師を経て、1801年、ヘーゲルはイェーナ大学に私講師の席を手に入れる。このときの就職論文『惑星の軌道に関する哲学的論考』(惑星軌道論)で、かねてから興味のあった天文学で尊敬するヨハネス・ケプラー(出身が同じであった)こそが惑星の運動法則の本質の発見者として賞賛した。その後、員外教授 に昇進。しかし1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに破れたプロイセンがナポレオンに征服されると、イェーナ大学は閉鎖せざるを得なくなった。ナポレオンはイェーナに入城し、それをヘーゲルは見た。ヘーゲルはナポレオンに心酔し、「世界精神が馬に乗って通る」と表現している。その後、彼は数年間『バンベルク新聞』編集者として働き、1811年、マリー・フォン・トゥーハーと結婚する。1816年、『(大)論理学』の出版ののち、ギムナジウム校長を経て、ハイデルベルク大学で正教授となる。彼は講義に出席している生徒のために、自身の哲学を要約した『エンチクロペディー概略 』 を出版した。1818年、ベルリン大学の正教授を務める。彼の講座は絶大な人気を誇るようになった。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、政治体制への彼の貢献に対して叙勲し、1830年には、彼を総長に指名した。ベルリンにおいて、彼は体制改革を求める暴動に悩まされることになる。1831年、伝染病のコレラがベルリンに発生し、感染して61歳で生涯を閉じた。ヘーゲルの遺体は、ヘーゲルの生前の希望により、ベルリンのドローデン墓地に先に逝ったドイツ観念論の哲学者フィヒテ夫婦の墓の隣りに葬られている。

ヘーゲルの哲学に入る前にそれに先立つドイツ観念論の系譜を概観しておきたい。ドイツ観念論とはドイツ古典主義哲学やドイツ理想主義哲学とも呼ばれる。これらの名称は19世紀後半からの哲学史研究のなかで生じたのであり、ドイツ観念論に分類される思想家たちが、こうした名称を用いたわけではない。イマヌエル・カントの批判哲学およびそれに対するフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービの批判に刺激され、神または絶対者と呼ばれる観念的原理、の自己展開として世界および人間を捉えることをその特徴とする。フランス革命の行動性に比して、宗教的観照という穏健さにある。プロテスタント神学に近接している。哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテフリードリヒ・シェリングゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルのほかラインホルトヘルダーリーンゾルガー、神学者フリードリッヒ・シュライエルマッハーがドイツ観念論の主要な論者とみなされる。ドイツ観念論の主要な論者はカントから出発して自己の体系を構築したことを重視し、ドイツ観念論の初めにカント(のコペルニクス的転回以降)をおく哲学史家もいる。これに対してドイツ古典主義哲学は、カントとドイツ観念論の連続性を重視し、カントを含む呼称である。カントが認識理性の対象ではないとした神(物自体)が、ドイツ観念論では哲学のもっとも重要な主題であり、知の対象とされる両者の哲学上の立場の違いに求められる。ドイツ観念論の代表的な思索家たちは、再び神と存在を直接のかつ究極の対象として取り上げた。人間の知としての哲学の真正の対象は神的なもの、あるいは端的に神であると宣言した彼らは、それぞれの思想が、かつそれのみが真正な哲学であるとの自負にたった。カントの著作を「哲学」として受容したヤコービ、ラインホルト、フィヒテ、シェリングらの若い世代は、カントの理論に潜む理性の二重性と分裂を、自らの哲学によって超え、統一をもたらそうとした。いいかえれば、カントが物自体と認識あるいは神と人間理性の間においた断絶をふたたび統一にもたらそうとする運動が、ドイツ観念論だったのである。そのような統一を与えるのが、自己意識すなわち自我である。「ドイツ観念論」期と呼ばれていた時代の人々は、自らの哲学をドイツ観念論とは呼んでいなかった。「ドイツ観念論」という呼称は、20世紀初頭の新カント学派や新ヘーゲル学派の哲学史の学者達(リヒャルト・クローナーやニコライ・ハルトマンなど)が、これら一連の思想家の総称として「ドイツ観念論」として紹介したことにより、普及したものである。ドイツ観念論はヘーゲルの死後直系の弟子たちの世代が終わった1870年代には、マルクス主義を除けばほぼ影響力を失った。しかし20世紀初頭に興った新ヘーゲル学派以降ドイツ観念論の研究は再び見直され、現在では近代哲学の最も重要な一時期であるという評価が定着している。ドイツ観念論を批判的に接受して自身の哲学を展開している思想家は多く、なかでもしばしば注目されるものに、ハイデガーやデリダの論考が挙げられる。またドイツ観念論は、同時代のみならず近現代のキリスト教神学などにも影響を与えている。

私は興味は人一倍強いが、哲学を系統的に勉強した経験がない。哲学は世界を体系的に捉える知の道具だとしても、あのもってまわったへんなものの言い方や、一般にはなんことやらさっぱりわからない言葉になじめなくて門前でギブアップするのが通例であった。むしろ自然哲学、政治思想、美術哲学程度なら興味が湧くのであるが、論理学となるとお手上げである。また哲学に対する私的偏見をさらに述べると、私は学生時代からマルクス・エンゲルスの唯物論から入って、そこで弁証法や史的唯物論をかじった。マルクスの「資本論」を輪講で勉強したことを懐かしく思い出す。私は理科系なので、武谷光男氏の3段弁証法(現象―実体ー本質)に興味を持った。形而上学とか論理学には全く歯が立たなかった。バートランドラッセルの論理学は数学の集合論か、計算科学か未だにわからない。そんな哲学音痴の私でも、加藤尚武氏の環境哲学・倫理の本に親しんだ。こうして哲学の周りを彷徨ってした私であるが、むろん啓蒙書ではあるが本書を読んでみようという気になった。ただギリシャ時代から始まる数千年の哲学体系を見渡すことはできないが、19世紀の最後にして最大の哲学者ヘーゲルの評伝を読むことにした。なんか産業革命後に科学技術が世界のドグマの主役になって、ドイツ観念論を最後に哲学は物の役に立たない妄想のように思われて、哲学は忘れ去られたような気がする。確かにニーチェの超人思想はナチスに利用され、サルトルの実存哲学は市場主義世界の前には現実容認の便宜にすぎないように思われる。とにかく私は哲学には縁がなかったが、マルクスに勝ったと称する新自由主義が哲学・倫理とは無縁のエゴイズムの略奪資本主義であることが分かった時点で、西洋近代文明の間違いや限界から学ばなければならない。そのためにヘーゲルを読むことにする。ヘーゲル哲学は19世から20世紀にかけて最も影響力があった思想だといわれる。ヘーゲルはドイツ歴史主義やマルクス主義、ニーチェ派の実存哲学哲学というヘーゲルから派生した思想とあわせて、最近までの思考様式を深く規定してきたという。米国リベラリストらはヘーゲルをカントやJ・Sミルと並んで「自由に関するリベラリズム」の系譜に位置付けている。これまでヘーゲルは「プロイセンの国家主義哲学者」という古風なレッテルが張られていたが、これを自由主義者とする見方が現在のアメリカで起きている。ヘーゲルは国民国家思想を説く「ドイツナショナリズム」の思想家といわれたり、個人を無視する国家崇拝論者といわれたり、1871年のドイツ統一から1933年のナチス政権にいたるドイツの全体主義政治体制の歴史に責任があるとまで言われた。またヘーゲル哲学を「革命哲学」として、フランス革命から市民社会を理論化した哲学という人もいる。ヘーゲルをベルリン大学に招いたプロイセン改革派と連携する「進歩的改革者」、「漸進的改革派」とも言われた。国家主義哲学者といわれたり市民社会哲学者と言われるなど180度異なる見方がなされる。こうも見方が異なるのは、ヘーゲルも時代の子であったように、我々自身が歴史の子であり、現在の価値感で見ているからである。思想家が生きた時代に着目し、時代の文脈から思想の成り立ちを理解しなければならない。日本政治思想史家丸山真男が活躍した1960年安保は、1930年代の軍国主義下での体験を思想化したものであった。哲学をその時代の思想の中で捉えなければ、慣れない言葉でごまかす屁理屈論としか映らないだろう。本書の著者権左武志氏は思想史視点からヘーゲル哲学の成立を解説するといわれる。ルソーの「社会契約説」はフランス革命のみならず、現在の人民主権の政治思想に影響を与えている。ヘーゲルとその時代を歴史的に論じて、ヘーゲルが現代に与える影響を考えよう。本書はヘーゲル哲学の創造プロセスを3つの視点から論じるものである。精神現象学(第1章と第2章)、法哲学綱要(第3章)、「歴史哲学講義」(第4章)をとりあげ、ヘーゲル哲学以後の時代思想(第5章)を述べるものである。

1) フランス革命と神聖ローマ帝国滅亡を前にした、若き日のヘーゲル 「精神現象学」

若きヘーゲルの思想形成は、ルソーの共和主義思想への賛歌で始まったといわれる。テゥービンゲン大学の親友シェリングと同様ヘーゲルは革命の思想に心酔していた。ジュネーブ人ルソー(1712年ー1778年)はフランスで活躍し百科全書派の一人とみなされた。1750年「学問芸術論」を発表し、ルソーは文明社会の痛烈な批判を展開した。フランス啓蒙のヴォルテールが文明社会の現実を肯定したが、ルソーは百科全書派と断絶したという。1755年「人間不平等起源論」でルソーは、自然法の平等は文明が進むにつれ能力により所有権が定まり、社会と財産の不平等が始まり格差が生ずるといった。人間本性は善良でも社会制度が整わないと悪と格差を生むので、絶えざる社会変革を通じて人間解放が必要だという。1962年「社会契約論」ではルソーは、個人相互の契約で設立した共同体(社会、共和国)に各人の自然権を全面的に移譲するという社会契約論を説き、主権者つまり人民の意思にしたがうという人民主権論を展開した。1778年ルソーが亡くなって11年後にフランス革命がおこると、ルソーの共和主義思想はフランスの絶対王政を転覆する革命的威力を発揮した。絶対君主は廃止され、貴族や教会の特権は撤廃され、身分による障壁は取り除かれて、画一的な国民の理念が適用され、憲法を制定し、共和国政治機構を創設し、国民軍が組織されヨーロッパ国際秩序が塗り替えられていった。若きヘーゲルはルソーの思想に共鳴し、ギリシャ・ローマ期の共和制復活を願う共和主義者であった。人間精神は共和国の没落とローマ皇帝の専制によって追放され、そこへキリスト教の神の超越性が人民の無力化を増大させ、キリスト教が共和制に取って代わったトルソーは考えた。これはルソーのキリスト教批判を受け継いだものである。若き日のヘーゲルはルソーに従い、専制主義と結託するキリスト教を批判する神学批判者であった。カントの道徳神学は人間理性により神への信仰を基礎づけたが、当時の神学校は聖書の権威による超自然主義の教義を固守していた。1793年「民衆宗教とキリスト教」を著したヘーゲルは、当時の「呪物信仰」ではなく理性宗教であるべきだと述べ、私的な領域にとどまらず「民衆宗教」であるべきだと述べた。ヘーゲルがベルンにいた当時1993年に起きたベルン寡頭制に抵抗する民衆運動事件に関して、ヘーゲルの最初の著作と言われる「カル親書」訳を公刊した。ヘーゲルはマインツのフォルスターと同様ドイツの共和制の誕生を待望する共和主義者であった。1798年ラシュタットの講和会議でフランスがライン左岸を割譲することを要求するに及んで、ヘーゲルは偉大なフランス国民の裏切りを見た。そこでヘーゲルは「ドイツ国制論」の執筆に取り掛かるのである。ベルン時代のヘーゲルはカント哲学を本格的に研究した。1795年草稿「キリスト教の実定性」では理性宗教の立場から、キリストや教会の権威に基づく「実定的宗教」を批判した。カント哲学こそルター派正統神学に抵抗する思想的根拠だと考えた。神や不死の観念なしでも「意志の自律性」は完全であり、宗教なしでも道徳性は完全だと示そうとした。こうしてヘーゲルは国家から宗教を分離する信仰の内面化に行き着いた。

カントに入る前にドイツ特有の精神史について3点考えなければならない。@プロテスタントの神学的伝統、A「新人文主義」、B「ロマン主義」から「ドイツ観念論」といわれるカント哲学に入ろう。教会の権威から聖書に戻ろうとした宗教改革を成し遂げたルター主義が長くドイツ精神を支配した。ドイツの哲学者はカントからニーチェに至るまでルター派出身だった。ルター派正統神学との対決こそ18世紀ドイツの啓蒙にとって避けて通れない思想的課題であった。ライプニッツやヴォルフといったドイツ啓蒙の神学批判は、神なしに倫理をうちたてることである。ルターは自由意志は堕落の基としたが、ドイツ啓蒙は自由意志を神の意志から切り離し、人間理性によって根拠づける作業を行った。倫理学が神から独立するには、まず理性の独立を証明する必要があった。18世紀の英仏の啓蒙主義はヒューム、スミス、ヴォルテールまで理性より先に「道徳感情」を重視する傾向にあった。これに対しドイツ啓蒙主義のヴォルフらは神学から独立するために人間理性を感情から切り離した。ライプニッツやヴォルフといったドイツ啓蒙神学批判を継承し完成させたのがカントであった。カントの批判哲学とは、人間理性が自分自身の能力を検証する過程であった。カントは「純粋理性批判」という認識論で理性を確立したといわれる。従来の形而上学的世界では創始者・統治者である神が世界の中心にいることを疑ったのはデカルトの合理主義「コギトエルゴスミ」(考える自分が世界の中心)であった。カントは、認識する主体こそ神に代る新たな世界の中心であるという「思考方式の転回」(コペルニクス的転回)を成し遂げた。カントは人間の認識能力を「感性」、「悟性」、「理性」に区分し、悟性とは対象に形式を与える構成能力で、対象を把握するための思考手段が「カテゴリー」(概念)である。カントのコペルニクス的転回を継承した観念論の完成者こそヘーゲルであるという。「私は考える」という自己意識の統一の原理は、ヘーゲルにより「精神」とか「概念」と呼ばれた。感覚を超えたものは理解できないとするヒュームの懐疑論をカントは批判した。「悟性」はカテゴリーは現象だけに限って使用する能力であるが、「理性」は現象を超えてカテゴリーを使用する能力であるという。理性が現象を超えて「理念」を手段に使うので自己矛盾(テーゼとアンチテーゼ)することを理性の「二律背反」という。カントは何を問題としたというと、世界創造者の有無、魂の存否、自由意志の有無、世界統治者(究極原因)の存否であった。カントは可想界と現象界の二つを区別することによりこの二律背反を解決できると考え、この思考法を「弁証法」と名付けた。カントは「実践理性批判」において、自然法の中でも理性の法則を「道徳法則」と呼んで、「自然法則」から区別した。デカルト以来認識主体を自然から独立し、自然を客体化したように、ドイツ啓蒙主義も実践主体を自然から区別する。1785年「道徳形而上学の基礎づけ」によると、道徳法則は普遍的法則の「定言的命法」、意志の自律、理性的存在の目的化をめざすとする。我々は可想界と現象界の二つの世界に同時に属し、自由でもあり必然でもあるという両義性を持つ存在とみなすのである。ヘーゲルはこの啓蒙主義者の可想界と現象界の2元論を乗り越えようとする。カントは「実践理性批判」において、人間の自由意志は神と両立するのかを問う。ルソーにおける信仰を基礎づける「理性的信仰」、「道徳神学」と呼んだ。デカルトの「神の存在論的証明」からは神が現象界で存在するとは言えないが、カントは可想界では神は存在することを証明したという。

ヘーゲルはカント啓蒙主義の二元論を批判しカント哲学から離れてゆくのは、それはヘーゲルの友人ヘンダーリンからロマン主義といわれる「合一哲学」を知ったからである。ヘンダーリンは1794年からイェーナでフィヒテに学んでいたが、主体と客体がバラバラではなく最初から合一した存在を前提とするので、哲学の確実な原理とはならないと考えた。ヘンダーリンは詩人シラーの「美的教育に関する書簡」から感性と理性が美により完全に調和した状態に影響を受け、また直接知の哲学者ヤコービの「根源的存在」に啓発され、自我に先立つ存在が知的直観により把握できるという思想を持った。ゲーテやシラーはドイツで「新人文主義」という古代ギリシャの発見つまり遅ればせながらの「ルネッサンス」運動を始め、1790年代にはヘンダーリンやヘーゲルで頂点に達した。ヘーゲルは1799年草稿「キリスト教の精神とその運命」を書き、最初未発展な状態で渾然一体が神と人間に分裂した後、根源的に発展した一体に帰還するという神と人間との調和なる生という理解を示した。これはキリスト教をユダヤ教の一神論から離れギリシャ精神で読み替えるものであった。そこにルソーの共和主義思想を見ることができる。強者が弱者を収奪する文明社会の状態を経て、自他が再び融合する共同体の再生をもとめる「ロマン主義」に他ならない。政治的にはフランス革命後におきた啓蒙思想への対抗運動を「ロマン主義」と呼ぶことも可能である。ヘーゲルはイエスという個人に依存する「依存の共同体」と、キリスト教が神の国を彼岸に追いやったことを、キリスト教の根本的欠陥と洞察した。ヘーゲルは1799年以降、主客に関する合一と分離の二分法を再検討し、「生の思想」を論じた。「1800年の体系断片」で「神的な感情は、反省が加わり生の感情を補い完成する」という。つまり対立を取り入れた再合一を要求し、生を「結合と非結合の結合」という弁証法で捉えた。この思想はヘーゲルがロマン主義から脱却し、ヘンダーリンと距離を置く根本要因となった。1800年より、主体と客体の合一と分離、感情・直感と反省という相矛盾したものの結合という、ヘーゲル独特の思想形成に向けた努力が開始された。1801年31歳のヘーゲルはイェーナに移り、「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」を公刊しドイツ思想界にデビューした。次々と論文を発表し、カント観念論を代表するフィヒテをロマン主義の中心者シェリングの側に立って批判した。イェーナ時代の思想体系構想は1807年「学の体系第1部 精神の現象学」として結実し、ロマン主義批判を行った。

1806年ナポレオンのフランス軍のイエーナ侵攻を目の前にしてヘーゲルの思想は激しく変化した。歴史的には800年フランク王国のカール大帝に始まり、962年東フランク王国のオットー1世の皇帝戴冠を経て、13世紀半ばから「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになった。15世紀には神聖ローマ帝国はドイツ、オーストリア、ネーデルランドを中心とし、北イタリアからスイス、アルザスにおよぶ支配を拡大した。神聖ローマ帝国は古代ローマ帝国皇帝を自称し、7名の選帝侯による皇帝選挙によったが、15世紀ごろから実質的にオーストリアのハプスブルグ家が皇帝に選ばれた。帝国は中世封建的関係に基づく諸身分(貴族、聖職者、その他身分)の回想的構造から成った。聖俗諸侯は皇帝から授与された領邦を支配する領邦君主で、諸侯は国権、同盟権、交戦権、課税権、行政権を1648年ウエストファリア条約で認め帝国基本法とした。帝国は中世的な独立した封建諸侯の緩やかな連合体で、政治的統一は不在と言ってもよかった。革命が進行するフランスに対抗する、1793年第1回対仏同盟はフランス軍に敗れライン川左岸を割譲された。1801年第2回対仏同盟も崩壊し、1802年帝国議会で南ドイツ諸侯からなる「第3のドイツ」プランが決まった。ドイツの政治地図が大きく塗り替えられ、プロイセンの対仏戦線離脱と、フランス共和国が1804年にナポレオン帝国となったことが、ヘーゲルが帝国解体を前にして1801年「ドイツ国制論」を書く直接的な動機となった。封建貴族諸侯が独立して諸権利を私的財産として所有するならば、帝国という普遍的権力はほとんど無力に近かった。ヘーゲルは反プロイセン的性格の強い帝国史を描きだし、ハプスブルグ家の正統に与した。帝国解体への危機感を強めたヘーゲルは、共和主義者から帝国愛国主義者に変身しオーストリアを中心とした帝国再建に期待した。ヘーゲルは国家の概念を「財産全体を共同で防衛するべく結合した」人間集団とみなし、そのために共通の武力と国家権力をあげ、この中心点に君主の人格が君臨して神聖化されることが国家体制にとって必要だという見解にいたった。まさに日本の明治政府の変容と国体論議に似ている。外的脅威に曝された後進国家の体制であったのかもしれない。ヘーゲルは普遍的共和主義者から「帝国愛国者」というナショナリストに変身したのである。ドイツの国情が追い詰めたのであろう。1804年第3回対仏同盟は腰砕けとなって、1806年ナポレオンを保護者とする「ライン同盟」が設立され、神聖ローマ帝国は滅亡した。1000年近い帝国の命運はヘーゲルの目の前で尽きたのである。

イェーナ時代のヘーゲルは1801年「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」を、1802年には「信仰と知」を著し、フィヒテとシェリングの論争に加わり、カントとフィヒテの観念論(主観性哲学)を批判するだけでなく、ロマン主義者シェリングの「同一哲学」とも違う独自の見解を示した。カントの「コペルニクス的転回」で神に対して確立された絶対自我を原理とするフィヒテに対して、スピノザ主義者のシェリングは、神ないし実体を自我に置き換えて、「世べての存在は自我の中にあり、自我の外には何もない」という知的直観の理論を主張した。ヘーゲルはフィヒテが主体と客体を対立させるといって批判し、ヘーゲルはこの分離を「分裂の力」と呼んで北方哲学の特徴であると極論した。カントにみられる「主観性」はプロテスタントの原理にも近いといい、絶対者神を彼岸におく信条は、有限者を絶対化するロックやヒュームの啓蒙思想の変容であるという。ヘーゲルはカント主観性哲学にみる啓蒙主義は、分離し二元化して捉えることで、主体と客体の分裂を固定化する反省(悟性)の立場であるという。ヘーゲルは分離や反省を捨て去るのではなく、分離を取り入れた同一性という独特の思想の萌芽が見えるのである。カントの二律背反という絶対矛盾を解決する手法としてのヘーゲル弁証法に着手したとみるべきであろう。ヘーゲルはイェーナ大学で1803年に、4つの体系区分(論理学、自然哲学、精神哲学、芸術・宗教)に従い、学の体系に関する著作を予告し、1807年その第1部を公刊したのが「学の体系第1部 精神の現象学」であった。ヘーゲルは正統キリスト教に立場を転換し(共和主義者から帝国愛国者に転換したように)、父なる神、子なるキリスト、精霊の三者を一体とみる「三位一体説」を「精神の思弁的理念」と呼んで取り入れてゆく。多神教のギリシャの古代宗教、絶対一神教のユダヤ教、三位一体のキリスト教という、完全な調和を目指す人類史の3つの発展段階となすものであった。統一―分裂―再統一と発展段階と理解する弁証法である。「精霊」とは「精神」のことである。この精神の概念こそヘーゲル哲学の中心理念である。1802年の論文「自然法の学問的取扱い」で、ヘーゲルは統一と対立という二つの命題を説明し、「対立物への移行」という論理こそ。純粋理性の概念をなすと主張する。抽象化により取り出された客体も、反省作用を加えてこれが思考活動の結果なのだと自覚するなら、「対象の中に自己自身を見出す」という意味で、主体と客体が対立から再統一した高度な状態である。1804年の「体系構想」草稿では、自己に帰還する運動を行う主体を「絶対的精神」と呼ぶ。1806年2月の「学の体系」の序文の前は「意識経験の学」と呼んでいたが、1807年4月に「学の体系第1部 精神の現象学」の表題に代っていた。

「精神の現象学」の序文は、実体―主体論により体系全体を根拠づける基本原理は、絶対者としての精神の概念であり、これは「実体は本質的に主体である」という命題になる。主体と客体が統一された最初の状態は「即自的」といわれ、これに反省作用(悟性)を加え統一を否定するなら、自己を対象化し「対自的」の段階に移る。さらに反省作用を加えると、自己自身に帰還し最後の「即自かつ対自的」となる3段階からなる運動によって、完全に自己自身を認識する学の立場へ到達できるという。序文でヘーゲルはシェリングの同一哲学を批判し、主体を喪失した実体の立場だという。シェリングらのロマン主義に対してヘーゲルは「実体を自己意識までに高める」必要を説いた。精神が絶対者であるという立場を貫き、信仰と知性を分かつカントの二分論を、三位一体説で克服する荒業を行ったのである。学の体系の第3の精神哲学とは、実践哲学に相当し、後に「法哲学綱要」や「歴史哲学講義」に発展する。精神哲学の構想は、論文「自然法の学問的取扱い」に見られるという。ここでヘーゲルはアリストテレスの古代自然法に回帰したうえで。カントの近代自然法(形式的自然法)を批判している。筋ぢ自然法が「倫理的なものが合法性と道徳性へ分離した状態」に陥っているとして、ヘーゲルが両者の完全な絶対的同一性を構成する立場を「絶対的倫理」と名付けた。科学は朦朧とした対象物を、可能な限り要素に分解することから始まったが、ヘーゲルはその再統一を成し遂げる精神を「絶対的精神」と呼んだ。アリストテレスは倫理学は政治学で初めて完成するとした。絶対的倫理は人民の精神である限り、ルソーの共和主義思想を継承しており、ヘーゲルの後のナショナリズム思想の原型となった。対立が存在する場合「相対的倫理」と呼び、絶対的倫理の担い手は政治に参加する自由人の身分にまかされ、相対的倫理は市場営利活動に従事する非自由人のことである。この辺からヘーゲルの時代的な妙な政治学が登場する。相互承認の概念から市場と法システムの成立を説明するが、ルソーの古代共和政モデルを批判して、立憲君主制を正当化する試みがみられる。相互承認とは自己意識の二重化における統一である。これを自然法の原理までに高める。ところが市場システムの機能不全により貧困と富裕の対立が現れ、これを統一するには管伊那国家権力による上からの統制が必要だという論理となり、そこでヘーゲルは分裂により媒介された個人の統一を実現っするのは共和政ではなく立憲君主制が望ましいという結論を出す。こういう論理は絶対君主制が多数存在していた革命期において、共和制の混乱を見て、強力な国家権力を有する制限君主制のほうが効率的な政策を行えるということで、モンテスキューもそういう意見であった。帝国崩壊後のドイツで経験する政治的変革こそ、ヘーゲルが自由意志という新たな原理をする背景となった。哲学者の政治改革論はかならずしも適切かどうかはわからないので、割り引いて聞く必要がある。それこそ頭の中が現実という実体から乖離している場合が多いからだ。

2) 新秩序ドイツと「法哲学綱要」

「精神現象学」の執筆を終えたヘーゲルは、1807年バンベルグへ移り1年半「バンベルグ新聞」の編集に携わった。その後ニュルンベルグでギムナジウムの校長を8年間務め、1812年から「論理学」2巻を公刊した。そして1816年ハイデルベルグ大学教授職に就き、1817年「エンチクロペディ」を公刊した。1818年ベルリン大学に招聘され、1820年「法哲学綱要」を著した。この時期はヘーゲルにとって人生の急上昇期にあたる。1807年以降フランスの占領下にあったドイツは、近代化改革を進め、1813年フランスに対する諸国民戦争はドイツのナショナリズム運動(新秩序ドイツ)を高め、ヘーゲルはプロイセン王国のベルリン大学から政治的見解を発表した。哲学体系形式を創造する知的活動と、時代の現実に答える実践的意欲という二つの動機から執筆された「法哲学綱要」は「エンチクロペディ」をもとにして書かれた。「法哲学綱要」に入る前に、ドイツの近代化改革とナショナリズムの高揚という時代背景を見てゆこう。ヘーゲルは帝国崩壊に続くナポレオンの侵攻によってドイツの封建諸侯勢力が衰退し、新秩序ドイツが形成されることを期待していた。帝国愛国主義者がボナパルト讃美者に転向していたのである。ヘーゲルは占領軍の行進を歓迎する群れの中にあった。1807年ナポレオンの衛星国ヴェストファーレン王国の誕生を祝し、新秩序ドイツについて記事を書いた。1808年近代法の模範となるナポレオン法典を支持した。ナポレオン法典の導入によりライン同盟諸国の近代化改革を支持することは、ヘーゲルの基本的立場であった。ヘーゲルは個別国家の主権を制限する連邦国家的な憲法を目指した。1817年以降のヘーゲルは帝国愛国主義から主権論者に転換した。1815年にライン同盟を継承する連合体としてドイツ連邦が発足した。ヘーゲルは前年のナポレオン失脚を悲しんだが、1817年「ヴェルテンブルグ王国連邦議会の討論の批評」という政治論文を公表し、封建王国の主権憲法をめぐるさまざま折衷案を提出し、改革を後戻りさせない意志を表明した。1818年ベルリン大学教授に就任した。学生のナショナリズム運動が盛り上がっていたが、ザント事件でプロイセン政府は学生運動を弾圧し、煽動思想取締りを行った。この取り締まりによって「法哲学綱要」の出版は遅れ、1820年10月に「自然法と国家学概要:法哲学綱要」が出版された。「法哲学綱要」に入る前に、1817年「哲学的諸学のエンチクロペディ概説」を見よう。「エンチクロペディ」とは専門教育に入る前の一般教養(日本の大学の教養学部に相当した)、もしくは百科全書の意味で、哲学による一般教養の基礎づけを意図したようだ。ヘーゲルによると真理は全体的な整合性を持たなければならないから、それを考える哲学は必然的に体系である。つまり哲学はすべての学を包括する「エンチクロペディ」の形をとる。そこで学の体系は@論理学、A自然哲学、B精神哲学の3つに区分される。第1部の論理学は、実態を把握する悟性的・抽象的側面、対立する弁証法的側面、統一する思弁的側面の3段階からなる。有名なヘーゲルの弁証法とは、二律背反を解決する弁証法が否定と肯定という両側面を持ち、アオフヘーヴェン(「廃棄」、「止揚」)することは高めるという意味を持たされる。また論理学は存在論、本質論、概念論の三部門に分かれる。第2部の自然哲学は、自然という他在の形式(外的客体性)を取る理念を対象とする。そして自然を段階的的発展をたどる理念の運動とみる。そこで自然哲学は数学、物理、生理学の3部門に分かれる。第3部の精神哲学は、自然から帰還した精神の理念を対象とする。概念が自己同一的になる世界の創造者である。精神哲学は主観的精神、客観的精神、絶対的精神の3部門に分かれる。精神は絶対者であり、絶対者の最高定義である。精神の本質は概念であり、概念において把握することが哲学の課題である。

「法哲学綱要」は所有・契約・不法を扱う「抽象的法」、幸福・良心を扱う「道徳性」、家族・市民社会・国家を扱う「倫理」の3部門よりなる。論争的な序論において、これまで自然法と呼ばれてきた哲学的法学が、自由意志の概念から出発することをいう。「法学は哲学の一部」と宣言し、実定法学や歴史法学、ローマ法学と区別される哲学的法学を対象とする。ヘーゲルは「意志」の概念を、自我の自分自身との同一性と区別が統一されたものと定義し、自分が普遍的存在者だと自覚するとき、即自的だけでなく対自的にも自由な意志になるという。「意志は思考する知性としてのみ、真の自由な意志である」という主知主義に基礎付けた、ドイツ啓蒙主義の忠実な継承者であった。第1部の「抽象的法」では、ヘーゲルは人格は自己を対象として知る自由意志の特性を持つとし、自分の意思を外的事物の中に置き、自分のものとする占有の権利、すなわち所有の権利を持つという。「占有所得」の合理的根拠が、事物を加工、形成する「労働」である。ヘーゲルかここで労働により私的所有を基礎づけるロックの所有論を継承している。精神が身体としての自己を「占有所得」する「人格の自由」も根拠づけた。ここで人格は精神と身体が結合した心身一体論を採用し、人格はおよそ他人に譲渡できないと結論した。他人に指図されたり、他人に身体の自由を奪われることは「人格性の破棄」と言われ最も忌避すべきことである。そこから奴隷制、封建的農奴制、教会の支配を否定する人格の自由の思想が生まれた。この所有の問題は市場経済や財産にもつながり、後のマルクスは所有が「資産の不平等な分配」を招き、資本主義社会において新たな奴隷労働が生まれると批判した。第2部の「道徳性」はカントの道徳論を克服するのが目的で、高貴な理想のような客観的目的と同様に、個人の主観的欲求(自分の幸福を追求する)を「特殊性の原理」、「主体的自由の権利」と呼んで承認した。カントの「義務」から普遍的法則に従うべきという厳格主義、形式主義を批判した。また反対に、個人の主観的欲求から悪が生じる可能性があるので、ロマン主義的主体の独善性を批判した。第3部の「倫理」では、善の理念にあたる「倫理的実体」が主観的意思という主体に対し、区別されると同時に統一されると説明し、自由意志の活動を通じて、自由意志の概念と統一した「自由の理念」を倫理と定義した。道徳から倫理に移行するプロセスは、道徳主体が倫理実体へ向かう運動とみなされる。

「法哲学綱要」の中心をなす第3部「倫理」について、本書はかなりのページを割いて、「家族ー市民社会ー国家」の3段階発展論を展開する。哲学の分野というより現在では政治・社会学の分野と捉えた方が分かりやすい。第1段階の家族論ではヘーゲルはローマ法と対峙させながらきわめて近代的な家族論を展開している。まず家族を構成する契機である「婚姻」は自由な合意によるもので、人格の権利が満たされる一夫一妻制が正当化され、家族は倫理愛に基づく新しい家族を形成する。子供はローマ法の家父長制を批判して本来自由な存在であるとして、教育の義務が親に生じ、自立した自由な人格となれば、親から離れるという「家族の倫理的解体」となる。最後に両親の死により「家族の自然解体」が起る。家産の相続が問題となる。ローマ法の長子相続制を批判してナポレオン法典の均等相続の平等を主張した。こうして家族は、人格の自由の原理により多数の家族に分裂し、つぎの市民社会に移行する。家族という実体から個人の主体性が導かれるという論理である。このあたりの論理の展開はヘーゲルの見事さが際立っていると思う。第2段階の市民社会は、統一が失われた分裂の段階である。国家から区別された「市民社会」の概念を確立したことはヘーゲルの功績であるといわれる。ギリシャ以来共同体としての国家は常に政治社会と同一視されたが、ヘーゲルは国家と市民社会を分離した。フランス革命後強力な中央集権政府という国家機構が形成されてゆくが、脱政治化した市民社会は民間として営利活動の主体であり、ヘーゲルはブルジョワとしての市民と呼んだ。市民社会は市場・法・福祉の3つのシステムからなるという。まず第1の市場とは自立的な人格が個人的欲求(福祉、幸福)を充足すために結ばれた市場システム(経済共同体)という全面的相互依存システムである。「特殊性の原理」、「主体的自由の原理」はギリシャ時代にはなかった概念である。労働による主体性の解放の契機こそ近代社会の根本である。他方ヘーゲルは個人的欲求の体系では全体の理念が普遍性と特殊性に分裂し、倫理が両極へ失われ、限度を知らない個人欲求の充足は「依存と窮乏の無限の増大」、「疎外された労働」、「個人の資産と技能の不平等」が高まり、結果の不平等のみならず機会の不平等が生じると指摘した。解決策としてヘーゲルは個人の選択の自由という主体的自由こそ市民社会の一切を活性化する原理であると考えた。現在の格差社会を見るとき、自由主義万能策を甘いというか、建前論というかヘーゲルの限界というべきだろうか。第2の法システム(司法活動)では、法律という実定法の前には個人は普遍的人格が実現される。ヘーゲルは裁判に関わる当事者の「自己意識の権利」、「主体的自由」を何より重視する。「自己意識の権利」から法律と裁判の公開が必要である。領主裁判権を否定し公的普遍者の司法を支持した。また知識レベルで裁判官の奴隷状態を脱するため、陪審員制度を支持した。市民社会の第3のシステムである福祉についてヘーゲルは、行政と同業団体(企業)は人格と所有の安全を図り、個人の生計と福祉を保障し、家族の代替する役割を期待した。行政の機能は、@警察的機能、A需給関係を規制する市場統制機能(現在新自由主義的規制緩和で最もおろそかにされている機能)、B個人の資産や技能を保護する家族代替的機能(教育、後見人、貧困者救済など)である。最後の貧困者救済は個人の自立と誇りを傷つけるという福祉政策の二律背反こそ、富の過剰が貧困の過剰を解消できない市民社会の根本矛盾だと指摘した。同業団体(企業)の役割は、働く人(職人、労働者)の採用と教育、生計、資産を保障する第2の家族の役割が期待される。ヘーゲルはこうした民間中間団体の力量が中央集権政府に対して弱体なのが最大の問題であるといい、同業団体こそ、欲求の体系で分裂した特殊性と普遍性の内面的統一を達成できるものと期待している。

家族から市民社会への移行の第3段階が、主体と実体の統合を図る国家の問題である。ヘーゲルは人間共同体としての広い意味での国家と、家族や市民社会を区別する権力機構を「政治的国家」として狭い意味での国家を論じている。まず広い意味での国家を見てゆこう。家族という実体的統一が、市民社会で主体的自由が分裂し、それを再統合する弁証法的統一という国家の論理的演繹である。次に国家は個人の権利と国家への義務というロック式自然権利論である。第3に個人の主観的信条と国家の客観的制度が一致するかどうかという制度論である(国家の正統性)。第4に個人の主体性原理と実体的統一の統一(国民統合)こそが、国家の概念である。次にヘーゲルが言う「政治的国家」である狭い意味での国家に移ろう。モンテスキューの課題であった国家の主権と権力の分立という相いれない両者を両立させようという試みである。近代憲法の基本構造を先取りしているといえる。第1にヘーゲルは君主権に国家主権を認める一方で、執行権との間で権限配分を工夫する。国家の実体的統一をなすのが国家の主権である。ヘーゲルは世襲君主の主権を支持して、第2の執行権は行政権と司法権を含み、君主に助言する政府が施行する。君主は君臨すれど統治せずということで、君主は一切の責任を逃れる。第3の立法権を市民の多数意見による議会に与える。議会は官僚の権力濫用を監視する。議会は国家と社会を媒介する機能を持つ。ヘーゲルは上院と下院の二院制を考え、普遍的貴族的価値と個人特殊的市場価値の両立を図る。そこでは議会多数派の支持を得た党派が政府を構成すると想定しており、ヘーゲルはイギリス式議院内閣制を念頭位おいていたようだ。宗教に関しては政教分離に基づく中立的国家という自由主義的国家観を始めて定式化した。国家の国際関係については、対外的自立性こそ国民の生命・財産を守るために国家の主権を維持する必要があると考え、市民社会との決定的差が存在した。対外主権と対内主権の不可分性を、福沢諭吉の「文明論之概略」のように指摘した。ただしヘーゲルの時代には急進ナショナリストのいうドイツの統一は課題に上っておらず、連邦国家に人民軍を置くに過ぎない。ヘーゲルは正統性原理を巡る相互承認の不成立が国際紛争の原因であると指摘し、カントの「永久平和論」が唱える「国際連合」による紛争解決といった普遍的原理ではなく、自国の具体的存在原理で行動するという現実主義的見解を示した。最後に書かれた「法哲学綱要」の序文では、学生のナショナリズム運動を煽動したフリースを取り上げて批判を行い、理性の現実態という命題を述べている。思考の自由には普遍的な倫理から逸脱する恐れを指摘し、ナショナリズム運動がロマン主義的性格を帯びる点を批判した。プロイセン政府がフリースを罷免したことを支持する意見を書いたことで、ヘーゲルはプロイセン政府の御用学者という汚名が立った。この点はカントの言う「理性を公的に使用する自由」を守りぬことこそが哲学者のあるべき姿だったのではないかという著者の批判がある。次いでヘーゲルは「現実に対する哲学の関係」を主題として取り上げ、哲学は彼岸のことではなく、現にある現実的なものの把握であると述べた。つまり苦難に満ちた現実の中に理想の可能性を見出すことであるという建前論を述べた。しかしそこが大変難しいことで、善意から述べても現実に合わないことが多いので誰も確信が持てないことが問題なのだ。所詮哲学は遅ればせの提示である。未来は予想困難で、現実は説明困難である。

3) プロイセン国家と「歴史哲学講義」

1819年カールスパート決議によりブルシェンシャフト運動(学生のナショナリズム運動)が弾圧された後、プロイセンでは立憲国家への道が絶たれ復古時代に逆戻りした。1820年ウィーン最終規約は君主制原理を確認し、憲法制定と議会を無期限に延期した。1820年代のヘーゲルは、1822年より隔年で「歴史哲学講義」を行い絶賛を得て、観念論は大きな影響力を持つようになった。いわばヘーゲルの絶頂期を迎えた。ヘーゲルは1822年の序論で、歴史を超えた理念(歴史における理性)を想定することで、世界史を統一的に理解できるという考えを公表した。三位一体説から、父なる神から子なるキリストの主体の分裂と自己対象化を経て精神(精霊)における再統一を成し遂げるというのが歴史における理性であるという。精神の自己認識はヘーゲルにとって神の理念の認識であるばかりか、人間自身の自己認識でもあった。世界史に見いだされる国民の精神は、一つの世界精神が歩んでゆく発展段階をなすという。モンテスキューの区分に従い、オリエント世界(専制政)から出発し、ギリシャ世界やローマ世界(共和政)を経て、ゲルマン世界(君主政)に至る人類の自己認識の発展段階こそ世界史の原理であるという。各世界の精神史をたどってみよう。ヘーゲルはオリエント世界論で中国、インド、ペルシャ、エジプトを取り上げ、これらはいずれも否定と肯定の側面を持つという。中国は5000年の歴史で他国との関連をっもたず、最古の歴史が最高であるということなので「何ら歴史を持たない」とされた。中国の国家原理は家父長制関係に基づいて、皇帝は無制限の権力を行使する。人民は無力で、不可侵な内面性の領域が不在で、真の道徳性を持たない。インドは開かれた国であるが、カースト制度は個人の自由を認めず主体的自由を欠いている。ヒンドゥー教は普遍的汎神論で偶像崇拝として批判される。仏教はこの点で一神教の最高神を持ち、神の中に自分を認識できる点で評価される。ペルシャ帝国はインドと中国の両原理を総合している。ゾロアスター教は光と闇を扱う東洋的二元論として高く評価される。さらにユダヤ教は神を純粋な思想として初めて把握した。自然から精神へ転換する契機があると評価される。エジプトは人間の精神の不充分さを示し、生命崇拝は神を把握できない彼岸の存在と見る「精神の不自由さ」を示すと批判した。こうしてユダヤ教を除いてオリエント世界を否定したヘーゲルは、自分自身を把握する「精神の解放の立場」はギリシャやキリスト教により初めて達成されるとした。ヘーゲルの歴史観はなんと偏狭な欧州文明中心主義であることか、東洋は辺境視されている。ギリシャ世界論は外部のオリエント文化を取り入れ、そこから独自の文化を創造したとヘーゲルは評価した。ギリシャ人には自己反省する個人の内面性が見当たらず、私的利害も承認されなかったので、公共利益が優先する民主政が成立したという。ギリシャ宗教は自然と精神の実体的統一というオリエント原理からの脱却が図られた。ギリシャ人は美は神だと考えた。ギリシャ人には神性と人間性の統一というキリスト教的理念を知らなかった。ヘーゲルの思考はないものねだりの逆行思考のようだ。これでは弁証法の結果から文明を切り捨てるようなもので、多様性は一切認めない厳格主義のようでもある。ソクラテスにおいて思想による自己把握の要求が始まり、道徳性という内面世界が発見されたという。

ローマ世界論ではキリスト教により精神の概念が提示され、ギリシャ世界の精神の自己認識が引き継がれた。ローマ人の法、国制は個人を抽象的人格として摘出した。感情を棄てローマ人の人格を確立した。ここでヘーゲルはローマ共和政は貴族政としては最悪と退けた。だからカエサルという貴族政皇帝制に移行したのだという。この辺も逆立ちしたヘーゲル特有の理論だ。貴族精神は喜ぶだろうが政治論としては偏狭なイデオロギーである。要するにヘーゲルは貴族政とキリスト教を精神発展の要において論じているだけで世界史を論じているわけでは決してない。弁証法的展開という歪んだ色眼鏡で世界史を見るととんでもない世界が現出するようだ。キリスト教の神が人間イエスの姿を取って表れたことにより、精神の自己認識という課題が解かれたと考えた。キリスト教がオリエントのユダヤ教の一神教的伝統を受容し、ヘレニズム的に変容したことで成立した宗教史を説いている。ヘーゲルはユダヤ教の超越者が具体的内容を欠いた抽象物にとどまる点を批判した。まだそれは彼岸のものであったという。「神性と人間性の統一」を成し遂げていないから不完全だという。キリスト教の世俗的帰結こそが現代にいたる歴史をなすと指摘し、続くゲルマン世界がキリスト教原理を実現する使命を担うと予告した。世界史の見方には「発展段階説」と「文化接触説」がある。ヘーゲルの歴史哲学こそ「発展段階説」のモデルであった。「歴史哲学講義」のように発展段階説のみに還元することは常識からみても納得できるものではない。これに対して空間的に存在する様々な文化圏が影響しあう「文化接触説」では、ギリシャの文化はオリエントとの接触から生まれ、つまり異質性の要素は世界史的国民にとって本質的発展要因であるとされる。ヘーゲルは1822年、1824年、1826年、1828年、1830年と5回歴史哲学講義をおこない、精神の概念から歴史を超えた理念を導いて、自由の概念から世界史の目的と発展段階区分を引き出した。ヘーゲルは「自由のみが精神の最高の規定である」とのべ、自由とは精神が自分自身を知る自己認識だと定義した。自由意志を選択する能力として主意主義的に理解するのではなく、自己自身を知る主知主義的に裏付ける見方である。自由の意識概念から世界史の発展段階を区分すると上のような記述となる。オリエントでは自由人は専制君主一人であったという結論になる。ゲルマン諸国民(狭い意味では北ドイツだがそれではヘーゲルの身びいきあるいは民族優生学になるので、ここは広い意味で欧州と見るべきである)キリスト教により自由であると認識されたとキリスト教の三位一体説で自由の概念を説明する。「世界史は自由の意識における進歩である。我々はこの進歩の必然性を認識しなければならない」となる。1830年の講義では精神の概念ではなく、自由の概念によって世界史が説明された。神議論という神の正当化教義に取って代わった。アウグスティヌス以来神は認識できないとされていたのが、ヘーゲルは神を認識できるとして世俗界と統一した。シェリングの神義論ではアウグスティヌスの「世界の悪は人間の自由意志の帰結である」を継承している。これに対してヘーゲルは知の哲学ヤコービに従い「内なる精神のみが神を証言する」というプロテスタント的内面性の立場を取った。キリスト教により人間性と神性の統一が「精神」として自覚され、人間は神の似姿という自由の意識に到達するという。

中世のゲルマン世界では封建制度と教会の世俗支配が結託し隷従への原理に陥った。ゲルマン世界の近代第1期はまず宗教改革による主体的自由の獲得が始まった。カトリックの教権制は破壊され教会の権威は転覆されて聖書による良心の決定が中心となった。教会財産は没収され中世的価値は否定され、勤勉・家族・理性という近代低価値が現れた。やがて家族・市民社会・国家という「倫理的現実の体系」へと発展したいった。近代第2期では主権国家の形成を自由の概念でを実現する国制上の問題とすると、ヘーゲルは最終的には世襲君主による決定がもっとも「人間的自由」の観点から正当化されると主張する。この辺は時代的な制約なのか、私にはヘーゲルの結論は全く理解できない。専制国家による後追い近代化は日本の明治政府でも見られたが、支配の効率性という観点からヘーゲルが考えたのか、それとも民主政を嫌った貴族政論だったのだろうか。日本では宗教戦争はなかったが、プロイセンではプロテスタンの宗教闘争は激烈であった。ルターは農民戦争で農民を裏切ったといわれる。世俗化の成果を軍事力で守り、プロテスタン教会の政治的独立性を保障したプロイセンの歴史的意義をヘーゲルは承認している。近代第3期では啓蒙による自由意志の原理発見と、革命によるその実現が論じられた。デカルトの懐疑精神を通じて自由な思考という啓蒙の原理が現れ、ルソーとカントの「意志の自由と平等という自然権」が発見された近代自然法思想がフランス革命前夜に当たるとみなされている。フランス革命とは自由意志の原理を古い体系に実践的に適用して、自然権に基づく憲法を制定する試みとして、近代自然法の思想の実現として理解される。ヘーゲルは「今や初めて人間は、思想が精神的現実を支配すべきだと認識するに至った」という。宗教改革ー啓蒙思想ーフランス革命の3者が密接に関連する精神史上の出来事として解説されるのである。フランス革命において主権国家による教会財産の没収という世俗化の事業を、自由の原理の実現としてヘーゲルは歓迎していたのである。ヘーゲルは自由の理念というカテゴリーを使って歴史を統一的に把握することができる能力を持ったがゆえに、自由の理念が「歴史における理性」と考えたのである。ヘーゲルは精神の自由という歴史を超えた価値が歴史の発展を方向付けるという近代自然法思想の継承者であり、カントの啓蒙の続行者であった。ベートーヴェンの音楽のように自由が鳴り響く空間にいたのである。しかしヘーゲルもまたレイシ主義から免れることはできなかったようだ。国民はその精神の発展に対応した憲法を持つとし、現在を絶対化し強者が主導する大勢に順応せざるを得なかった。強者とは皇帝や貴族のことで、偉大な皇帝を活動に駆り立て世界精神が自分の目的を実現する手段にしようとした。これを「理性の狡知」という。ナポレオンを理想化したのもその一環である。ここからニーチェの超越者思想が生まれ、ナチスの到来を導くとしたら、余計に危険な思想であろう。もし皇帝や貴族が偉大でなく凡庸いや暗愚、そして狂気だったら、国民は悲劇ではないか。ヘーゲルの哲学はすでに1820年半ばには大きな学派を形成し、1827年から「学術批評年報」という機関誌を出すほどになった。1829年にはヘーゲルはベルリン大学総長に就任したが、1831年ペストに感染して死亡した。

4) ヘーゲルとその後の時代

ドイツ観念論に特有な3つの歴史課題があるとしたが、それはヘーゲルにおいてどう解決され継承されたかを見よう。
@ プロテスタント神学との対決というドイツ啓蒙の課題: 理性と信仰の一致という仕方で解決され、マルクスはキリスト教神学の批判を資本主義社会の批判に置き換えた。
A 古代ギリシャの発見という新人文主義の課題: ギリシャの不充分さをキリスト教により克服する仕方で解かれた。新ロマン主義のニーチェはギリシャ文化によってキリスト教文化を転覆する逆行をなした。
B 旧帝国以来の政治的統一の欠如というドイツ国民国家の課題: ヘーゲルは立憲的主権国家の確立をプロイセン王国に期待した。後年ドイツのナショナリストはプロイセンを中心とするドイツ統一を成し遂げた。
次にドイツ歴史主義、マルクス主義、ニーチェ派の順にヘーゲルの継承者の思想を見てゆこう。
@ ドイツ歴史主義とドイツ統一運動: ヘーゲル学派は1820年代に形成され、1840年代までドイツ哲学界の主流であり続けた。1836年ダヴィッド・シュトラウスの「イエスの生涯」で、福音書を史実と認めるか否かを巡ってヘーゲル学派は右派と左派に分裂した。史実と認めない若手左派はフォイエルバッハの神学批判とマルクス・エンゲルスの共産主義思想を生み出す。プロイセン国王は左派を危険思想とみなして、ベルリン大学からヘーゲル学派を根絶しようとした。だがヘーゲルの創設したドイツ歴史学派の伝統は続いた。ランケは実証主義の方法を取り、ランケの歴史主義は神の視点という神学的基礎づけをおこなうヘーゲル観念論そのものであった。ドロイゼンは同時代史を重視する「プロイセン学派」を創始して、歴史相対主義」の立場を生み出し、時代的制約の中で時代の大勢に従う機会主義の傾向を帯びた。1848年の革命でドロイゼンはドイツ統一運動に参加し、1866年以降はビスマルクの礼賛者となった。ビスマルクは1870年の普仏戦争にいたるドイツ統一戦争に勝利し、1871年プロイセンを中心とする第2帝国を創立した。ヘーゲル自身はドイツ統一ができるとは思っていなかったのでナショナリズム運動には批判的であった。国民国家の原理や戦争による解決の現実性とフランスボナパルト帝国の圧力は、急速にドイツ統一の方向へ歴史を進めた。第2帝国以降の歴史家マイネッケは歴史主義の自己改革を進め、ヘーゲルのいう「理性の狡知」は、悪から善を生むマキャベリズムであり、英雄待望論や皇帝権力集中論となり、国民の道徳感情の退廃、権力政治の行き過ぎを軽く考える危険な思想であると批判した。
A マルクスの人間解放理論: 1840年代青年ヘーゲル派のバゥアーから教えを得たマルクスは「ヘーゲル哲学批判序説」を著し、国家と社会を再統一した共同存在を回復することを求めた。ブルジョワジーに代る普遍的解放者こそ労働者階級であると指摘し、プロレタリアートによる「人間解放」を考えた。マルクスはヘーゲルが弁証法で労働を人間の本質として捉えた点は評価するが、生産物が資本の所有物になる限り、労働の疎外が起きることを見ていないと批判した。マルクスはエンゲルスと共同で「ドイツイデオロギー」を著し唯物史観の立場を確立した。ヘーゲルの歴史哲学は逆立ちしていると批判し「意識が生活を決定するのではなく、生活が意識を決定する」とし、世界史の主体は世界精神から生産力の発展へと置き換えた。しかしマルクスは歴史を発展段階と見る点ではヘーゲルを継承している。マルクスは「資本論」を著して共産主義の思想を確立し、それは世界中に広がって、第1次世界大戦後1917年にはロシアでレーニンの革命がおき世界で初めての社会主義国が誕生した。第2次世界大戦が終わった時第3世界で社会主義国が相次いで誕生し、資本主義国と絶えざる核の脅威による冷戦時代を迎えた。マルクス主義が社会主義国を作った時以来思いもよらない問題が明らかになった。生産手段の国有化により官中央集権僚制化が進行し、途轍もなく非効率的な国家と生産様式に変質した。共産党が政権をに担う「一党独裁」が始まり、非民主政となって自由が喪失した。全体主義国家は個人を抑圧して1991年ソ連東欧の社会主義国は崩壊した。わずか70年余の実験で終わった。これを受けて中国などでは市場主義生産方式に変更した。
B ニーチェのロマン主義 生の思想: ニーチはヴァぐナーにささげた「悲劇の誕生」で、ギリシャ悲劇を評価して若きヘーゲルのロマン主義を継承した。ディオ二ソス的な芸術の魔力に訴え古代ギリシャを再生すればドイツ精神を更新できると信じた。ドイツ歴史主義をロマン的な「生の思想」によって克服しようとした。ニーチェは1880年「権力への意思」に生の思想を展開し、キリスト教では和解の余地がなくなった価値観は権力への意思を高めることになった。一切の規範的目標を喪失したこの価値相対主義の立場は、ニーチェにより「ニヒリズムの到来」と呼ばれ、優勝劣敗の社会的ダーウィ二ズムが唯一の価値感となった。

こうしてドイツ歴史主義、マルクス主義、ニーチェ派というドイツ観念論の継承者はそれぞれ、国家主義者、共産主義、社会ダーウィニズムを生み出した。彼らの思想の本格的な帰結は第1次世界大戦後になって表れた。共和国政治の失敗が政治的には強力な救世主願望を呼び覚まし、市民的公共性が失われ指導者に拍手喝さいするだけの投票マシーンとなった。社会ダ−ウィ二ズムは全体主義国家への願望を生み1930年代にはヒトラーの軍事全体主義国家・ファッシズムの出現となった。ヘーゲルが人間存在として掲げた自由意志は、その継承者によって不幸にも踏みにじられる結果となった。最後にヘーゲルの哲学思想はこの20年あまりの世界情勢の転換に照らしてどのように評価できるだろうか。権左武志氏は現代とヘーゲル再評価を試みるのである。1989年ベルリンの壁が崩壊し、1991年ソ連が解体すると東西冷戦は終焉した。冷戦も終焉から得られる歴史的教訓として、ヘーゲルの主体的自由はあらゆる国家主義やロマン主義に対して守られるべきであった。またヘーゲルが初めて発見した国家と社会の分離は、全体主義の経験からして、国家に対する市民社会の自律性をあくまで擁護すべきものとして認識された。マルクスがへ−ゲルを評して逆立ちの理論とした、「精神の自由」を歴史の理念とする超越論的歴史哲学の意義がf再び見直されるはずだった。しかし冷戦の終焉後に支配的だった歴史観は、
@ 新保守主義者の歴史の終焉論はグローバル化した市場主義で歴史発展は終わったという、これを市場中心史観という。
A 人類の解放という大きな物語を描き出す歴史哲学が信用を無くしたことで、ポストモダン派は現在中心主義に転じた。ニーチェの歴史相対主義に通じるもので、過去を忘れたいだけのことである。
ヘーゲルの思考方式(弁証法)には優れた点が多いしそれを継承している思想家も多い。ヘーゲルの遺産には克服すべき負の遺産もある。
@ ヘーゲルが国民国家原理の形で定式化したナショナリズム、民族主義国家である。国が統一されると途端に帝国主義に転化し、2度の世界大戦を引き起こした。これをヘーゲルのせいにするのも酷だが、戦争によらない紛争解決と脱中心化が求められる。
A カント批判の一面性で、カントの普遍主義倫理に対してヘーゲルは特殊主義の余地を大幅に認めたため、世襲君主や貴族を容認する現状追認姿勢を生み、権力衝動を正当化する「理性の狡知」説につながった。
B 西洋文化中心主義を反映したオリエンタリズムの欠陥、疑惑である。西欧文化(キリスト教)に収束するという我田引水的文明発展段階論である。
ドイツ啓蒙が出発点tとした理性の自由な使用こそドイツ古典哲学から我々が継承すべき最良の遺産である。


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