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新藤宗幸著 「教育委員会」  
岩波新書 (2013年11月 ) 

文部省・教育委員会の中央集権的タテ支配を廃止し、教育を子供と市民の手に取り戻そう

著者新藤宗幸氏の著した岩波新書を読んだことがある。新藤宗幸著 「技術官僚」(岩波新書 2002年3月)新藤宗幸著 「司法官僚」(岩波新書 2009年8月)の2冊である。新藤氏は1946年生まれ、中央大学法学部卒業後、東京市政調査会研究員、専修大学、立教大学を経て千葉大学法経学部教授となる。現在は後藤・安田記念東京都市研究所研究担当理事である。専攻は行政学である。新藤氏は日本の官僚機構の病根を冷静に描いて定評がある。アップデート、センセーショナルな問題を感情的に暴くようなジャーナリストではなく、問題の歴史から始めて構造的な本質的な問題点を解きほぐして解説するので全体像を掴みやすい。教育委員会とは文部省の統制下にある地方行政委員会であるが、「文部官僚論」に入る前に、「技術官僚論」、「司法官僚論」をまとめて官僚機構の宿根を見てゆこう。
「技術官僚論」では、日本の官僚制を歴史的に振り返ってみる。明治政府の行政機構整備は1885年の内閣制度の発足に始まり、1887年には文官試験制度が定められ官吏登用の道が決まった。1889年には明治欽定憲法が制定され、1890年には地方団体法が定められ地方行政機関が位置つけらられた。1886年帝国大学令によって文官採用システムは裏つけられた。官僚機構の初期は法整備が最大の課題であったため、技官は冷遇されていたようだ。1917年大正期には「技術者水平運動」が展開され、工政会、林政会、農政会などに結集した技術官僚は事務官と技官の区別の廃止を訴えたが認められなかった。1931年満州国の建設に治水や電気事業の技術官が動員され、戦時体制のもとで事務官と技官は協力して総動員体制を官僚が指導した。戦後1947年に国家公務員法が制定され、官僚は天皇の臣から「公僕」という位置づけがなされ、建設省でははじめて技術官僚から事務次官が生まれた。以降建設省では人事慣行として事務次官には事務官と技官が交代することになった。河川局や道路局長は技官の独占となった。こうして高度経済成長と科学技術の著しい進展は、技術官僚の指導できることではなくなり、技術官僚は技術の衣をまとった行政官に過ぎなくなった。事業と業務の制度つくりと慣行の維持をおこなう官僚である。技術官僚の強い結束と排他的性格は事業と計画の固定化をもたらし、行政責任の欠如を露にした、まさに日本の官僚機構の閉塞状態を生んだといわなければならない。 国土建設省、農水省、厚生労働省を例にとって、「技術官僚王国論」ということばあるが、技術職といっても彼らは高度の科学技術的専門性をそなえたプロフェッショナルではなく、殆どの業務は外部委託をする技術の衣をかぶった行政官にすぎない。だからこそ彼らは事務官が口を挟むことを排除しつつの既存の事業の継続に固執し、業界行政に走っているのである。事務官達も技術官僚との共生関係を維持することで膨大な予算の執行とファミリー企業の繁栄によって自らのキャリアパスを安定させるとともに、省益の確保を追及しているのである。そういう意味からして日本の行政を改革するには技術官僚をどうこうというよりも、官僚制度そのものの病理現象の改革を行う必要がある。
「司法官僚論」では、裁判所は「法の番人」というが、裁量の匙加減で権力の護り神になっているというような気がする。しかし立法、司法、行政の三権分立とはいうが、日本の司法にも、立法・行政の激しいやり取りや葛藤関係と同じような民主主義政治体制を支えるという認識はあるのだろうか。行政訴訟において原告の「訴えの利益」がないとして「門前払い」をし、憲法問題では「立法政策上の問題」では内閣や国会に責任を転嫁して判断しない。また裁判官の「自立」に関する疑問が起きている。アメリカでは異なる州で違った判決が出るが、日本では判決が「ステロタイプ」化して、裁判官の独自性が見えない。これは下級審裁判官は上級審で判決が破られることを畏れているからであろうか。上の意向を見ながら判決を書いているのではないかと思われる。判例主義という過去の判決に矛盾しないようにとすればどうしても「消極性」になってしまう。地裁で画期的な判決が出ることもあるが、必ず高裁で逆転する場合が多い。いったい裁判官は何を守ろうとしているのか。それは憲法・法で定められた国民の権利であるはずだ。国民は憲法で自立を保障された司法に問題を提起し、司法の判断を通じて政策や行政の転換を求めている。最高裁判所事務総局の司法官僚の統制と司法の消極性が最大の問題である。

教育委員会とは市民には見えにくい存在である。いじめ問題などの報道で表に出てくるのは学校の校長である。教育委員会には都道府県教育委員会と市町村教育員会の2段階の組織があって、当然上級組織は都道府県教育委員会である。都道府県教育委員会と政令指定都市教育委員会は教員採用と人事権を持っているので、市町村の学校という組織の上に立っていることは確かである。教育委員会が教育行政の責任者であるにもかかわらず、市民のほうでも教育委員会は何をしているのだろうかと興味を持つ人は少なく、2001年の地方教育行政法で教育委員会会議は原則公開となっているのに、長野県内43市町村の教育員会会議への傍聴に行く人はゼロであったと信濃毎日新聞(2013年2月13日)は伝えている。こうしたなかで、2011年10月に大津市の中学校2年生がいじめを苦にした自殺事件が起きた。生徒の両親が学校側に調査を求めたが埒があかず、大津地裁に加害者とされる同級生と保護者を相手取って損害賠償請求訴訟を起こした。大津市の事件は市教育委員会や学校が、事件の重大性への認識を全く欠いていたことを浮き彫りにした。おそらく学校側はいじめがったことを認識していたといえば、対処しなかった無作為の罪に問われるので終始一貫いじめがあったとは知らなかったとしらを切り続けるという構図である。このような中で市長は教育委員会と学校の対応を批判して、真相解明のための第3者委員会を発足させた。第3者委員会は生徒の自殺がいじめによるものと結論付けた。このような無責任で無能な教育委員会と学校からなる教育行政組織はどうして生まれたのかを考察し、学校を生徒の側に取り戻すための改革案を提案することが本書の動機である。教育員は5名からなる非常勤職(ただし給料は支給される)であって、月に1度、2時間ほど開かれる形骸化した組織であるが、それを取り仕切るのが教育委員会の事務局(県では教育庁)と教育長である。教育委員長は教育委員から互選される持ち回り職に過ぎない。教育委員会の事務局にはエリート教員と目される専門職の人が大半を占めている。教員のエリートコースとは、教員採用から、主任をへて教頭クラスから学校を去り、教育委員会の事務局に入る。それから学校の校長になって、再び教育委員会の幹部要職に戻り、最後に教育長になるというコースで定年後は教育関連の外部団体に出る(ユネスコなど)。学校がおかしくなり始めたのは、2001年の第1次地方分権改革を受けて小中学校の学区編成が大幅に自由化されたころに始まる。2003年には学校選択制の導入を示した局長通知が学校教員を自由競争にさらした。小中学校運営に第1義的な責任は市町村教育員会なるのは当然であるが、都道府県教育員会は県内の教員の人事権(教員の県内採用と移動を支配)をもっているので、教員の身分は市町村にあるが、「県費負担教職員」というように給料は都道府県からもらっている。と言っても教員の給与は国が1/3、県が2/3を負担している。だから都道府県教育委員会の姿は市民にはほとんど見えないが、市町村教育委員会や学校に隠然たる影響力をもつのである。人材活用法によって教員の給与は行政職員よりは高く設定されているが、時間外手当は支給されない。「ゆとり教育」のアンチテーゼとして「詰め込み教育」と「学力低下」が教員の肩に重くのしかかった。そして「指導力不足教員」なる言葉で、2002年より「指導力不足教員」の判定マニュアルや授業評価といった「管理教育」が教員を対象として開始された。文部省には教育委員会への行政上の指導権はないが、全国都道府県教育長協議会を通じて指導・助言・援助、是正・指示が都道府県教育委員会に対してなされるので、文部省の上意が都道府県教育委員会→市町村教育委員会→学校長というルートで下達される閉鎖的なタテの行政系列がもたらされた。教育委員(定員5名、任期5年)は非常勤職で、地方の名士、大学教授や経営者、教員経験者が首長の指名と議会の承認をえて任命されるので、官僚主導と同じように事務局主導となっている。こうした事務局主導支配を許している教育委員会が、いつも文部省のご意向を見ているため教育現場との乖離、学校の実情とかけ離れた教育行政をもたらしている。文教部落の閉鎖的はタテ社会の行政の仕組みが病根である。

知事、市町村長は議会の同意を得て教育委員を任命しているが、教育委員会に意見を言うことはできない。教育委員会は首長に対して「半ば独立した」行政員会である。ここに文部省がタテの行政指導と支配を企むことができた秘密がある。本来教育は地方自治体の任務である。これは消防・警察などと同じく地方に任された行政組織である。2000年の第1次地方分権改革は、戦後の地方自治の宿題であった「機関委任事務制度」を全廃した。地方は国の下請け機関ではなくなり、対等の関係となったといわれる。ところが地方自治体が教育行政に責任を持つなら、教育委員会といった全国一律の組織は地方の自由裁量に任されるはずであるが、「必置規制」という教育委員会が設置を義務づけられている。地方の時代、自己決定の時代と言われながら、教育委員会廃止論(元島根県市長西尾理弘氏)もある昨今に、全国一律教育を標榜した中央集権的な制度が残っているのである。2005年10月、文部省の諮問機関「中央教育審議会」の答申は、「文化、スポーツ、生涯学習に関する事務は地方自治体の判断により首長が担当することが適当である」と述べ、教育委員会の担当職務を一部地方自治体に移管する趣旨を発表した。2005年12月、第27次地方制度調査会は教育員会改革に関する答申を発表し、教育委員会の設置を自治体の選択制とすべきと述べ、翌2006年6月首相に提出した。2006年7月小泉政権は「骨太の方針」で教育員会制度の改革を示した。これを受けて規制改革・民間開放推進会議は教育委員会の必置規制を撤廃し、首長の責任の下で教育行政を行うことを自治体の選択に任せるべきとした。しかし全国都道府県教育長協議会は文部省の指導の下に、これらの方針に「反対」論を展開した。2006年第1次安倍内閣は「教育再生会議」で愛国教育をめざし歴史の針を逆戻りさせ教育への中央統制を強める政策を打ち出し、文部相は地方教育員会に必要な措置を是正勧告できるという中央強化策に改正した。2009年に代った民主党内閣は何ら具体的に動かなかった。2013年1月第2次安倍内閣は教育再生実行会議をスタートさせ、議題の中には教育委員会制度の廃止が含まれている。2009年大阪市長に当選した日本維新の会の橋下徹市長は「大阪市教育基本条例案」を提出し、首長主導の教育行政の実現を目指して教育委員会への強権的な攻撃を始めた。ところが橋下市長の教育行政策には教育委員会の廃止は考えていない。従来型の教育行政は文部省ー都道府県教育委員会教育長―市町村教育委員会教育長―学校長という下降型教育システムに対して、橋下市長の構想は「統治」を首長に取り戻す(権力奪取)というヒステリックな叫びにすぎず、そこには教育を受ける子供への視線は感じられない。現代日本の小中学校基礎教育に問われているのは、教育を子供=市民のてに取り戻すシステムを築くことであろう。独善的な教育にどちらが主導権を取るかという国・教育員会対首長という対立軸の設定であってはならない。子供を主人公とした地域の教育システムを築くことが求められている。

1) 教育委員会という組織

教育委員会の現状を総括してゆこう。子供に対する教師の正当性はどこにあるかという哲学的な問題はさておき、家庭内で行われる私的教育ではなく、政府(中央、地方)が責任を持つ「公教育」には、公民としての教育を重視し民主主義の普遍的な価値を育てる機能が期待される。従って主権者たる市民が教育内容や活動の仕組みを決め、それを適時チェックすることが重視されなければならない。教育という活動は専門的知識と技術が必要なことはどんな職業でも当然のことであるが、特に基礎教育では教師は専門家の顔よりは全人的な存在で子供に接することが求められるだろう。教育委員会制度は市民のコントロールと教師の専門性を確保するための行政制度であるといえる。教育委員会は複数の委員の協議と合意で教育方針を決める最高の意思決定機関である。従って相対的に首長から独立した行政委員会に作られている。こうした行政委員会制度により「教育の政治的中立性」を担保する機関である。教育委員会は事務局を持つことができる。都道府県の教育委員会事務局は教育庁と言われ教育長をトップとする。市町村の教育委員会の事務局のトップは教育長である。教育長を筆頭とする事務局のスタッフも教職の経験者・教育行政の専門家によって構成される。教育の方向や教育行政の運営に関する原案を作成し、委員会が市民の立場から協議し決定する。地方教育行政法は教育委員会の「職務権限」を定めている。学校を始めとした教育関係施設の整備と管理、教職員の任免、研修、学校の組織編成、教育課程、学習指導、生徒指導、職業指導、教科書など教材、学校給食など学校教育に関して11項目、公民館など社会生涯教育、スポーツ振興、ユネスコ活動など8項目、合計19項目である。地方教育行政法において教育委員会の職務権限は「・・・に関すること」という行政組織法であるので、組織の中身については広い裁量を認めている。この裁量が文部科学省の「指導」によって枠づけられるのである。教職員人事については先にも書いたが、市町村の小中学校に勤務する教職員の身分は市町村に属するが、教職員の任免や移動の人事権は都道府県教育委員会と政令都市教育委員会にある。また教職員の人件費は国が1/3、都道府県が2/3で負担している。これを「県費負担教員」という。2000年の第1次地方分権改革まで、地方教育行政法は国は都道府県教育委員会を、都道府県教育委員会は市町村教育委員会を「指導・助言・援助を行うものとする」とされていたが、現在の法では「行うことができる」とやわらげた言い方になっている。しかし実態は学区の自由化が文部省の指導の下で全国一斉に実施されるように、はたして市町村の教育委員会に自主的な決定権があったとは考えられない。したがって都道府県教育委員会は実態として、市町村教育委員会の上位機関となっている。つぎに教育委員の任命は知事又は市町村長が委員候補を議会に提出し同意を求めて任命することになっている。原則定数5名の委員は非常勤の公務員で、うち一人は児童の保護者をふくむ、。任期は4年である。委員会は政治的中立性を保つため、同一の政党に所属する委員の数は半数未満とするなどの制限が設けられている。また住民は教育委員を解職を請求でき、住民投票で1/2以上の賛成があれば解職が成立する。首長が教育委員候補を選任する過程はブラックボックスであるが、教育委員会の事務局があらかじめ候補リストを首長に提示して決めているようだ。都道府県の教育委員の顔ぶれは、大学教授、企業経営者、県職員か教育次長であり、特に保護者かどうか判然としない。政令指定都市5市の教育委員の顔ぶれは、市職員、大学教授、教員その他である。教育委員長は互選で選ばれ任期は1年であるが、2年程度で持ち回る慣行があるところもある。教育委員としての活動は、毎月1回の定例会議と必要に応じて臨時会があり、これに追加して教育委員協議会という準定例会議もある。教育委員会の会議議題は毎年同じで、教育委員会規則の制定改廃、教育長・学校長の人事、職員の懲戒・分限処分、その他である。会議は公開を原則とするが、教育委員協議会は非公開で委員会の準備会に相当し、教育委員会がスムーズに形式的に流れるように図っているようだ。この協議会はいかにも官僚的根回し会である。

都道府県の教育長は事務局を代表するが委員を兼ねる。教育長の就任の職歴は、首長部局の行政職員それも筆頭部長クラス経験者か学校長OBであり教育次長と言った学校界の幹部である。従来、教育長は首長、助役とならぶ「三役」と言われ、自治体のトップマネージメントである。教育長は教育行政の身ならず自治体行政全体に影響力を持つ存在である。教育長の選任はまず首長が行政職幹部や学校長経験者から教育委員として他の4人の委員と同様に議会の承認を得る。ただし首長は議会には最初から教育長予定者を示唆して選出し、議会の承認を得るのである。だから教育長は町の名士・学識経験者ではなく、行政職・教育職のトップでありつまり役人なのである。教育長が指揮する事務局である都道府県の教育庁の組織は、大規模な組織では教育長・教育次長のもとに管理部・指導部といった部制をとる。室制や課を取る組織もある。ある県では教育長の下に教育企画室、学校教育室、総務課という編成もある。大規模なある県の教育庁の場合、企画管理部と教育振興部をもち、職員633名、うち教員系職員391名である。教員系職員は学校行政部門に集中している。学校行政部門の役割は、学校運営、教科書指導、学習や職業指導などについて学校を現場を指導し助言するために指導主事を置いている。このポジションを占めるのが教員系職員である。指導主事のキャリアーは、教頭職クラスから教育委員会の指導主事に就任し、3年間事務局で学校行政主事を務め、教育現場に戻り校長職となる。校長職を勤めると再び教育委員会に戻り、係長ー副課長ー主任指導主事を務める。その上で委員会事務局の幹部となるか再度校長職に就任する。学校現場からどの教師を指導主事に引き上げるかは事務局の勤務評定に基づいて教育長が裁定しているようである。この教師エリート(閉鎖)集団(インナーサークル)の学閥は当該県の旧師範学校の系列にある国立大学(学芸大学、教育大学など)の教育学部出身者である。教育委員会事務局の行政職員は首長部局からの出向者で3年程度でローテーションする。都道府県教育委員会の指導主事の仕事の中心は、文部省が出す教育課程についての指針・ガイドラインの具体的運用方針を定めることである。「ゆとり教育」、「学力向上教育」、「指導力不足教員の評価と指導法」などへの対応である。学校現場で通知がいかに運用されているかを調べ学校長を指導するのも指導主事の仕事である。日の丸・国歌問題で懲戒処分を受けた教師の対応も指導主事の仕事である。授業の臨監も行う。教育委員会事務局は教員や学校の評価システムに苦労している。教員評価システムは全国共通で「目標による管理」という手法で、1990年以降イギリス圏を中心に広まり日本の企業で採用された評価システムと同じである。学校の目標自体が「自ら学び、みんなで学力向上」というたぐいの極めて捉えがたいテーマなのである。これで自己評価シートを用いて達成する自己目標を設定し自己評価をするのである。企業でも営業目標ではない場合は極めて抽象的な評価となり、近年評価システムの有効性に疑問符がついている。こうして教員は教育委員会の指示に順応してゆくのである。最後に基礎教育レベルの教科書の採択権が欧米では学校にあるのに、日本だけが教育委員会という行政組織にある問題を考えよう。これは1963年の「義務教育の教科書無料措置法」とセットになっている。教科書の採択はそれまでの学校単位から広域一律になった。ここでも都道府県の教育委員会が教科書の採択区域の設定権限をもつ。全国で585地区とされている。都道府県の教育委員会に「教科用図書選定審議会」を設ける。審議会委員のうち33%が教育委員会関係者、学識経験者が18%、教員が15%となっている。実際の教科書選定は採択地区の市町村教育委員会がつくる採択地区協議会で行う。採択地区協議会のメンバーのうち68%が教育委員会関係者で、校長や教員は14%に過ぎない。こうして教科書の設定には学校教員や地区保護者の意見は全く考慮されず、教育員会事務局主導で上から下へ行政的に進められる。文部省選定「国定教科書」と揶揄されるゆえんである。

2) 教育委員会の歴史

戦前の国家主義的な教育(臣民教育)が破綻した戦後の、GHQ教育使節団の教育制度改革から話を始めよう。天皇制国家を支えた国家主義的教育とその行政機構の民主改革がターゲットとなった。日本の占領政策がドイツのような直接統治ではなく、日本政府を介した間接統治であったことが、その後の日本の民主改革を不徹底なものとした。軍隊は陸海空軍ともすぐに解体されたが、中枢行政機構は存続したままGHQはその民主化を指示した。官僚機構はGHQの支持を受容しつつも、面従腹背よろしく協議の過程でGHQの趣旨を骨抜きをして自己利益の温存を図ったのである。日本の旧支配機構の崩壊で財界、政界や軍人はゼロから再スタートしたが、官僚機構だけは温存されたことが戦後の官僚主導(官僚内閣制)という統治機構の伝統となった。1946年米国の教育使節団が来日し、内務省と文部省の断絶を中心に行政機構の改革を行い、人事権に対する文部省権限の廃止、視学官制度の廃止、公立小中学校教育行政の都道府県・市町村への移管、公選で選ばれた政治的に独立した教育委員会を都道府県と市町村に設けるなどの改革報告書ををまとめた。教育委員会の設立がアメリカ使節団報告に由来することは明らかである。GHQが日本の行政改革の最大のターゲットとしたのは内務省であり、「国家の中の国家」といわれた内務省は天皇制国家の中枢機構だったので、1947年12月に解体された。その過程で、文部省は内務省からの独立をまざして、「教育行政の一般行政からの分離独立」というテーゼで組織の生き残りをはかった。1948年7月「教育員会法」が公布施行された。都道府県教育委員は7名、市町村委員会は5名とし、委員会の構成は1名が議会から、6名は直接公選とした。教員の人事権はそれぞれの教育委員会がもち、委員会の事務は委員会が任命した教育長によって担われた。そしてここが一番重要なのであるが文部省は教育委員会の活動に対して一般的指揮監督権限を持たないとされた。学校の設置・管理、教員人事権、教科内容の決定といった地方教育行政の根幹を直接公選の教育委員からなる教育委員会の任せるならば、文部省の存続理由は無くなり、1947年12月政府は中央教育行政組織と学芸省に分割する案が構想された。ところがGHQは文部省の存続を認め、1948年国家行政組織法が制定されて、地方教育委員会などに対する技術的・専門的な助言・指導を任務とするとされた。こうして文部省は新たなスタートを切ったわけであるが、1949年文部省設置法では「専門的・技術的な指導と助言を与える」と文言を訂正した。つまり技術的・専門的に順序と助言・指導の順序をひっくり返したうえ「勧告を与える」を付け加えた。つまり教育という専門的指導と勧告ができる文部省という位置づけに書き直したわけであり、これを根拠にして文部省は上意下達の縦行政を復活させた。文部省は「サービス・ビューロー」という衣替えをして、実質的に地方教育行政に影響力を持ちつづけ、中央と地方の分離型から融合型へ変身を計った。占領期から1952年の独立をへて、1956年地方行政法の制定により教育委員会法の廃止にいたった。朝鮮戦争終了から冷戦の始まりは日本を自由陣営の柱に育てるアメリカの方針転換が進み、55体制の保守政治家によって教育行政が大きく翻弄された。

文部省の教育統制に向けての施策が次々と打たれてゆく。「教育員会月報」が意思伝達手段として使われ、「学習指導要綱」によって教育の平準化と指導の要をなし、「地方教育員会との協議会」を各層で精力的に設置し定例的に会合をもって、文部省の意思伝達と意思統一を図った。とりわけ文部省が重視したのは都道府県と5大都市の教育長協議会であった。これには文部大臣・事務次官が出席し、教育長を通じて全国の教育委員会への浸透をはかった。こうした教育長や教育委員会の協議会だけでなく、教育委員会事務局との協議会も分野別に多数作られ、担当の文部省官僚が出席し、施設・指導主事・給食・人事給与などに関して全国一律の方針が浸透した。1952年10月、市町村への教育委員会の全面設置と教育委員の直接公選が実施された。都道府県の教育委員の現職教員と教員経験者の占める割合は1952年において51%であった。しかも教育委員を支えたのが教育の民主化をとなえる教職員組合であった。教育委員会の全市町村設置は、文部省にとっても教職員組合にとっても組織的な負担が大きかったが、文部省はそれこそ全国統制を成し遂げるための試金石としてこれを積極的に活用した。保守政治家にとって目の上のたん瘤のような強い各県の教職員組合にたいして、処遇の改善をつうじて教員への影響力拡大をはかった。1954年吉田内閣は「教育公務員特例法改正」と「教育の政治的中立の確保法」のいわゆる教育2法を成立させた。これにより教員の政治活動は公務員と同様に禁止され罰則を科した。こうして戦後の教育の民主改革は形骸化した。このような背景の下で、1956年6月教育委員会法を廃止し地方教育行政法が公布された。教育委員会制度が当時の自治体財政にとって負担であったこと、教育委員会に影響力を持つ日教組への批判キャンペーンが展開されたことで、文部省は「逆コース」の時流に乗って地方教育行政への関与を強化する絶好の機会をとらえたようだ。当時の政界では、教育現場から左派を排除する「政治的中立性」と、教育委員会の直接公選制を廃止し首長が議会の同意を得て任命する制度に改めることが最大の争点となった。文部大臣の諮問機関である「教育委員会制度協議会」は教育委員の選任方法に議論があつまり、1956年衆参両院の文教委員会公聴会では、法案の反民主制と集権制に批判が集中した。教育委員の首長による任命制、教育長の任命に関する上級機関の事前承認制と特徴とする地方教育行政法に基づく体制は、自治体教育行政に対する中央統制の仕組みを構築することが目的であった。地方教育行政法は、文部省から都道府県教育委員会ー市町村教育委員会にいたる垂直下降型の教育行政システムを制度化した。この体制は2000年の地方分権改革まで続いた。次にこの垂直型教育行政システムの実態をみてゆこう。

3) 垂直下降型行政システムの中での教育委員会

全国すべての市町村に教育委員会の設置を義務付ける1956年の地方教育行政法は、文部省の指導機関としての存在価値を高め、一律の統制を敷きやすい体制を作る上で大いに役立った。1956年当時での都道府県の教育委員会の委員構成を見ると、それ以前の教職経験のある委員の比率は50%を占めていたものが、新しい体制では27%に下がった。しかし都道府県の教育委員会から教職員組合の影響力排除という意味では必ずしも文部省側の一方的勝利とはいえない。これは55体制下の自民党と社会党の勢力分野を反映しているのである。教育長の任命法も変わった。都道府県教育長は事前に文部相の承認を必要とし、市町村の教育長は都道府県教育委員会の承認を必要とした。まるで戦前の地方自治体官僚の任命制の復活である。地方教育行政法は中央の文部大臣と自治体の教育委員会との上下関係を定めた。地方の教育行政において国の指導的地位および市町村に対する都道府県の「指導的地位」を明確に記述している。指導・助言・勧告・措置要求・基準設置権限の方向が国→都道府県―市町村というピラミッド構造が法律で明言された。教育委員会法時代の「指導・助言」という言葉が、上から下への「統制」という言葉に転化したのである。これに加えて教育行政においても機関委託業務制度が設けられた。これは地方教育行政の一部分が国の教育行政の下請け機関化したということである。機関委託業務の大半は知事認可の私立学校に関するもの、博物館・図書館・社会教育などである。機関委任事務の管理執行について国の指導監督権限を定めている。地方教育行政法は公立諸学校の教員の人事権は都道府県教育委員会に一元化された。教育員会と地方自治体との関係では、地方教育行政法では教育行政にかかる予算案や条例案などの議会への提出権は首長の権限とした。しかし首長は教育行政の事務執行権限は持たないものとされた。教育員会は予算面。、人的資源面あらみて、自治体の中では抜きんでた行政組織である。自治体(県・市町村)の教育費は2012年で自治体予算の17.4%を占め、民生費が22.5%に次ぐ支出である。教育関係職員は全地方公務員の38%を占めている。このような大規模組織が文部省を頂点とする教育委員会として自治体内に存在することは、自治体の予算で飯を食っている職員の業務命令系統が中央の文部省にあること自体が問題視されるのである。1995年5月の地方分権化推進法に則って橋本首相は1997年「地方分権化計画」を立て、2000年4月より地方分権化推進一括法が施行された。2000年の第1次地方分権改革の中で、地方教育行政の改革点は以下であった。以下の点から法的には市町村教育委員会さらに学校の裁量範囲が広がったことになる。
@ 教育長の事前上級機関承認制が、都道府県・市町村ともに廃止された。そして都道府県と政令指定都市の教育長は教育委員から選任されることになった。教育委員の員数は教育長が別枠なので6名とすることができる。
A 機関委任事務制度を全廃し、自治体の業務とした。また文部相や都道府県教育委員会の「措置要求」権は廃止された。上級機関の「必要な指導、助言、援助をおこなうものとする」は「・・・行うことができる」と一歩和らいだ表現に改められた。
B 都道府県教育委員会の「基準設定」権が廃止された。

しかしながら2000年改革で、「教育行政の一般行政からの分離・独立」、「非権力的行政、指導・助言・援助・勧告」と言った論理で専門職のつながりを強調したタテの行政系列の支配の基盤は多少は揺らいだのだろうか。官僚機構はそれほど弱いものではない。日本の官僚機構の巧みさは、政権の政治指向を権限の拡大に結び付け自己増殖する組織である。東日本大震災の復興予算を契機に予算拡大に邁進する各省の姿を見ると、官僚機構が国を食い蝕んでゆくことが明白である。国が死んでも(統治者が変わっても)官僚機構は生き残るのである。2003年小泉政権は「三位一体改革」を打ち出し、4兆円規模の国庫補助の廃止による地方財源化、3兆円規模の地方への税源移譲、地方交付税の縮減を柱とした。中央教育審議会は小中学校教員の給与国庫負担率を現行の1/2から1/3とし、都道府県負担率を2/3とした。本来は国庫負担分を全廃して地方財源化すれば、地方自治体が教育行政を行うということになるのであるが、この奇妙な1/3国庫負担率引き下げは、地方分権化の流れに乗りながらも文部省による地方教育統制の足掛かりを残すための術策であろう。文部省には多数の「l教育団体」を傘下にしている。中でも行政系列の中核は「全国都道府県教育長協議会」である。「全国都道府県教育長協議会」には4つの部会(教育内容、社会教育、教育行政、教育財政)と総合部会(教育の国際化)、特別部会(テーマごとに)があり、部会の主査は教育長が交代で務め、文部省の担当官や国立教育政策研究所の官が加わり、政策の審議をしている。この部会報告書はいずれ文部省の政策となるので、教育行政についても文部省官僚機構との「共同統治ルール」を作成する場である。全国都道府県教育長協議会は最も有力なタテの行政系列の役目を担っている。教育長をサポートするのはエリート教員からなる事務局の指導主事たちである。ここで上に述べた文部省の教育行政の3つの論理を点検しよう。
@  「非権力的行政、指導・助言・援助・勧告」の論理: いろいろな学者によって教育行政論が展開されているが、精神的権威に裏打ちされた教育現場に必要と要請に即したサービス行政とか、援助行政、行政らしからぬ行政といった言葉で、文部省の指導・助言・援助・勧告権の持つ意味を和らげている。しかし行政処分にいたらない業界指導・助言は官僚の最もよくする行政の特徴である。それによって行政の意思の徹底を図るのであり、それが行政の裁量幅を広げている。
A 「教育行政の一般行政からの分離・独立」の論理: 戦前の教育が国家主義に奉仕させられた反省に立って、教育行政の独立性を高度に保障するという立派な(矛盾した)論理がある。実は戦後文部省が存続の危機に立った時期に内務省との権限争いでいわれ出した論理である。この論理で文部省の独立を勝ち取り、教育委員会制度を支える論理となった。ところがその論理は最近では薄らいでいるというより、文部官僚自体が政権の政治指向に迎合し右翼化の旗振りをしているのである。政治と無関係な行政はあり得ないように、「政治的中立性の確保」と「教育行政の一般行政からの分離・独立」とは自治・分権のあり方や地方自治体政府の行政組織での存在を洞察するものでなくてはならない。
B 「専門性」の論理: 教育委員会の専門性を高めるべきだという議論があるが、素人教育長とか専門家教育長というのが存在するであろうか。官僚は行政分野に精通しなければならないとしても、とても3年という期間では専門家たりえない。教育長と言えど行政家であり専門家を期待することはできない。教育行政の閉鎖性(村組織化)を高めるだけである。東電福島原発事故以来、専門家が今日ほど権威と能力を疑われた時期はない。タコツボ化したムラの権益を守るだけの教育関係者の閉鎖集団であってはならない。

1980年代より政治やメディアにおいて「教育の荒廃」、「教育の危機」ということが言われだした。これには「新国家主義」、「新自由主義」の政治潮流の時代と符牒する。不登校、校内暴力、学級崩壊、学力低下といったことが社会問題としての根深さをさておいて、道徳教育の推進、国家精神の涵養とどう結びつくのかは知らないが、教職員組合攻撃と歩調を一致させて進行した。復古主義ノスタルジーの第1次安倍内閣は2006年教育再生会議をもうけ、教育における新自由主義・新国家主義政策を推し進めた。2007年文部省は実に1966年以来行わなかった「全国学力テスト」を実施した。学力テストは学力競争を助長するとして違法判決などに影響されて中止されていた。テストの結果学力低下が著しいとして、これまでの「ゆとり教育」の弊害と断じて「詰め込み教育」へかじを切った。政治の狙いは学力テスト結果から学校間競争を進める市場主義教育にあった。2009年の民主党内閣は標本調査に切り替えたが、2012年に成立した第2次安倍内閣は再び全国規模の悉皆調査に戻して、2013年4月に全国学力テストを実施した。東京都足立区で学力テスト不正事件が発生したのは、学力テストの結果による予算の傾斜配分方針の為であった。全国学力テストの成績は公表するが、都道府県教育委員会は個々の市町村名や学校名は公表しないという取り決めであった。文部省は毎年都道府県の順位は公表している。もし学力テストの成績が「学力」であるなら、便利なメジャーとして利用できる。首長は教育委員会へプレッシャーをかける道具として使える。橋下大阪市長は露骨に干渉し、市町村別の成績を公表させた。政治家たちのねらいは学力テストの成績=学力競争力=良い学校という風潮に乗って、週刊誌なみに東大合格数の多い高校の順位を競うだけのことかもしれない。中曽根首相以来の新国家主義的な政治・社会状況に改めて「正当性」を付与する、国旗・国歌法が成立したのは1999年であった。「愛国心」涵養のもとに、1989年学習指導要綱は「入学式や卒業式などにおいて、国旗を掲揚し国歌を斉唱するように指導する」とした。それ以降各地で日の丸掲揚、国歌の斉唱と規律、ピアノ演奏などが教員に強いられていった。田中伸尚著 「ルポ 良心と義務ー日の丸・君が代に抗う人々」(岩波新書 2012年4月)に日の丸君が代に踏みつぶされてゆく教育現場の様子が描かれているので、ここでは繰り返さないでおこう。ただ東京都(石原慎太郎知事)の2003年東京都教育委員会通達「10・23通達」と大阪府(橋下知事)の2011年「君が代」強制条例が有名であることだけは記憶しておこう。この過程で不服教員は「指導力不足教員」として烙印を押され懲戒処分になった。東京都の10.23通達以降の10年で東京都の教員441人が処分された。 こうした官僚統制的関係は新国家主義者の政治集団によってますます「教育の荒廃」をもたらしていった。それに追随するのが教育員会であり、遂行するのが事務局官僚機構なのである。

4) 教育を市民の手に取り戻すには

教育の目的とは、「J・Sミル自伝」(岩波文庫 1960年版)に描かれた貴族子弟の独学ではなく、「互いに学びあう」ことではないだろうか。1947年制定の旧教育基本法と2006年第1次安倍内閣が改定した現行教育基本法に「教育の目的」を見てみよう。
旧教育基本法第1条には「教育は、人格の完成をめざし、平和な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を貴び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身とともに健康な国民の育成を期しておこなわれなければならない」とした。
現行教育基本法第1条は「教育は、人格の完成をめざし、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身共に健康な国民尾育成を期して行わなければならない」とした。
現行教育基本法第2条「教育の目標」として「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我国と郷土を愛するとともに他国を尊重し、国際社会の平和発展に寄与する態度を養う」という項目を追加した。
現行教育基本法は旧教育基本法の「真理と正義を愛し、個人の価値を貴び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた」という普遍的な価値である国民の育成を「必要な資質」という言葉でくくり削除した。そしてこの普遍的価値のキーワードに替えて、第2条で「教育の目標」という項目で「国家と郷土愛」を持ち出し偏狭なナショナリズムと国際発展の寄与という総花的ないいまわしで、新国家主義者は教育の目的を実に巧妙にすり替え、変質を狙っている。基礎自治体を第1義的な責任主体とする教育行政制度を創設し、全国的制度との調和を図る事こそ、ローカルとグローバルな調和ではなかろうか。これまでの教育行政制度は「義務教育の無償化」と「教科書の広域選択制」による教科書検定をセットにしてきた。「義務教育の無償化」は結構なことであるが、教科書の内容検閲と取引してはならない。教育を受ける権利の根幹は教育内容の自己決定権である。「金を出すが内容に口を出す」というのがこれまでの官僚機構の支配構造の根幹であった。その金は官僚機構からでた金ではなく国民の税金から出た金である。教育における国の責任は(社会主義国のようにナショナルスタンダードを押し付ける)戦後一貫して強調されてきた。その結果が画一的な教育であった。国はナショナルミニマム(最低基準)を示し、教育を施すころが市町村の責務であり、それを財政的に支えることが国の責任であることを肝に銘じなければならない。
これまで「教育の政治的中立」は特定の政治的価値からの自由という文脈で語られてきた。それは戦前の軍国主義をイメージしてきたとはいえ、教師は果たしてそれに対して戦ったのだろうか。むしろ先頭になって子供たちを戦場に送り出す軍国教育を施したのではなかったか。昨今を見ても日の丸・君が代問題で先導しているのは各地の教育委員会ではなかろうか。反対する教職員組合を壊滅させたうえで新国家主義者の意向に迎合しているのが教育委員会である。だから「教育の政治的中立」とは右翼の唱える呪文のようなものである。教研集会に集合する左翼的教師を「偏向教育」という言葉で恫喝する右翼街宣車の役割を教育員会が演じてきた。「教育の政治的中立」が教育委員の任命制を支える論拠とされた。日教組に牛耳られた公選制教育委員会をつぶすための新教育行政法の狙いはそこにあった。国家の官僚機構(行政機構)が政治的中立であったためしはなく、個人の尊厳や思想信条の自由を重視した教育はほとんどが「中立性」に反することになる。あえていうなら教員人事への政治的介入と首長の介入、教科書内容と選択への政治の介入を排除することが「教育の政治的中立」ではなかろうか。教育現場における子供と教員の貴人の尊厳を最大限認めることであろう。「教育の政治的中立性」は教育員会によって守られるとは「教育行政の一般行政からの分離・独立」と表裏一体をなす、独善的な主張である。教育委員会とは「唯我独尊」のように、そんなに立派なものか。「教育の政治的中立性」はフィクションである。文部省独立王国論を支える論理である。

教育行政の縦の関係を断ち切る重要なステップは、教員人事権を都道府県教育委員会から教員の身分がある市町村教育委員会に移すことである。現在人事権は都道府県教育委員会にあるため教員は都道府県内であれば、辞令一枚でどこでも移動させうる。教員は市町村の職員のはずが、市町村に密着していない。優秀な教員採用が目的なら広域採用試験をすればいい。自治体相互人事交流を図ればいい。中央教育行政組織の改革を図ることも重要な選択肢である。文部省初等中等教育局を廃止し、独立性の高い中央行政委員会を設けてはと著者は提案している。当然学習指導要綱は廃止されるべきである。そして都道府県教育員会と市町村教育員会を廃止し、政治的正当性を持つ首長の下で、学校教育から生涯教育までの教育行政を統合することも考えられる。こうした中で市町村教育委員会の「必置規制」を廃止し、自治体教育行政部門を基本的に首長の下に統合すべきであるとする。戦後日本における教育員会制度は、民主的コントロールみよる教育を掲げながら、専門性を重視して学校の自己統治とは裏腹の行政統制への道を開いた。そこでもう一度アメリカ式の保護者、教員による共同統治の伝統を見直すべきではないだろうか。直接民主主義による学校作りと運営が必要ではないだろうか。むろん義務教育は無料とし教科書検定は廃止される。市町村の教育関係者自らが教科内容と教科書を選択すべきである。ここで教育委員会を廃止し、首長の下に学校教育行政部を統合し、地区ごとの学校員会を生徒、教員、校長、住民で構成し、その連合体が基本方針を首長に報告し、首長は事務局を動かして予算をつけ人事・施設を監督し、教育アドバイザ―会議は首長と学校委員会に助言をするという自治体教育行政システムのイメージが提案される。


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