131212

津田敏秀著 「医学的根拠とは何か」  
岩波新書 (2013年11月 ) 

人間を忘れた医学ー医学的根拠とは疫学的エビデンスのことだ

日本では医学的根拠の混乱が続いている。そのため多くの公害事件、薬害事件などで被害が拡大した。専門家がいう「科学的根拠がない」という逃げ口上で、多くの被害者の解決がおくれ、最後には政治の介入により解決が図られた。だから専門家は「御用学者」といわれ、専門家には問題解決能力がないことが今回の福島原発事故で国民はいやというほど見せつけらた。アカデミックの専門家の権威は地に落ちた。普通の判断力で明らかな因果関係があると認められることでも、確信的御用学者は平気で因果関係を認めようとはしない。そしてその時の口上が上に書いた「科学的根拠がない」という言葉である。分子的レベルで理解できないければ因果関係ではないというのだ。これは時間稼ぎの「目つぶし」に過ぎないのであるが、厚生労働省、環境省、経済産業省、文部科学省などで雇われている各種審議会の「御用学者」の権威でもって役所の官僚はその意見を採用し「無作為」を通し、裁判所は「被告無罪」を言い渡すのである。「予防原則」に関する欧州委員会ECのリスクコミュニケーションでは、予防原則はリスク解析とリスク管理に対する組織的取り組みの一環であることことを強調して、科学的な証拠が不充分、不完全であるが、環境やヒト、動植物の健康に与える危険性がEUの選択した保護策に脅威を及ぼすと考える正当な理由がある場合に予防原則が適用される。科学的根拠が不十分であっても、国民を被害から守るためであれば、行政的禁止措置がとれるのである。日本では「科学的根拠がはっきりしない」という理由で行政は被害者を玄関払いができる。水俣病においても魚が水俣病の原因であることが分かった段階で、チッソの排水溝をふさぐ措置がとれたはずである。そこへ確信犯的御用医学者が攪乱したのである。日本の医学研究は世界の常識からかけ離れたところにある。それこそガラパゴス的進化物となっている。医学研究は人間の健康や病気に関する研究を行うことが目的のはずである。しかしそこでは人間を観察対象とした臨床研究や医学研究はほとんど行われていないというショッキングな事実を本書が暴露するのである。臨床研究はほとんど海外任せで、動物や遺伝子を相手とする基礎研究が中心である。それだけなら話は簡単であるが、医学専門家としての社会的役割が逸脱していることが問題なのである。病気を含めて人間に関する問題で、日本の医学専門家は科学的根拠に基づいた判断を放棄したままである。医者は「臓器を見て患者をみない」とよく言われるが、それは大学の医学教育がなせることである。人間を生活から見てゆく臨床経験がないからである。医学研究が実験室での研究に終始している。ここで言葉を整理しておくと、病棟や外来で患者を対象にして研究することを「臨床研究」とよび、地域や職場などで人の病気を研究するのを「公衆衛生研究」あるいは「疫学研究」という。疫学は「科学の文法」と呼ばれる統計学を駆使して人間の病気を数値化するのである。疫学が先進国では医学的根拠として重要視される。分子レベル、遺伝子レベルの研究成果(これだけが医学的根拠というのではなく、ミクロ研究は傍証にすぎず、決して病気の原因まで行き着くことはないのだが)がなくても、病気の原因を判断できるのである。そして行政措置(薬などの禁止措置、原因物質の特定)をとれば、その症例が激減するのである。
著者津田敏秀氏のプロフィールを見てゆこう。氏は1958年生まれ、岡山大学医学部医学科卒業。岡山大学大学院医学研究科修了。岡山大学医学部助手、講師などを経て、現在は岡山大学大学院環境学研究科教授。専攻は疫学、環境医学、因果推論、臨床疫学、食品保健、産業保健である。著書には「市民のための疫学入門」(緑風出版)、「医学者は公害問題で何をしてきたか」(岩波書店)、「医学と仮説」)(岩波書店)などがある。

最近問われた医学的根拠の話題に、2011年3月の福島第1原発事故による放射線被ばくと発癌の危険性、2013年4月の水俣病最高裁判決、大気汚染問題とPM2.5の3つの問題がある。日本小児科学会は2011年5月「放射線被ばくによる小児の健康への影響について」という指針を発表した。その中で「がんの危険度は放射線の量に比例すると考えられていますが、統計学的には約150ミリシーベルト以下の被ばくではがんの頻度増加は確認されていません」という奇妙な医学的根拠に関するコメント出した。この指針は広島大学原爆被爆放射線医学研究所田代総教授が指導したという。2013年4月の小児科学会において小児科医のあるグループはこの指針を撤回するように求めた。放射線医学総合研究所及び文部省の見解では「100ミリシーベルト以下では放射線による発がんの確立上昇は認められません」と述べている。また福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの高村昇長崎大学教授も2016年6月に「100ミリシーベルト以下の被ばくでは発がんリスクの上昇は証明されていない」としている。これらの見解が次第に変化し「100ミリシーベルト以下ではがんは増加しない」といういう見解が流布することになった。さらに国連特別報告書に対する日本政府の修正提案では「広島・長崎のデーターに基づき、100ミリシーベルト以下の放射線被ばくによる健康影響は存在しないと信じられている」と記された。この見解は100ミリシーベルトを「閾値」(それ以下では影響はない)とすることを意味する。これらの見解に医学的根拠はあるのだろうか。1949年国際X線及びラジウム防護委員会(国際放射線防護委員会ICRPの前身)は「放射線被ばくによるがんの発生に閾値はない、かつ累積被ばく量で評価すべき」という。この無閾値見解は世界中で変えられたことはない。2013年2月に発表された世界保健機構WHOの健康リスクアセスメントも、100ミリシーベルト以下でもがんが発生するという前提を取っている。2007年のICRP勧告に「疫学的方法は、100ミリシーベルト以下では発がんリスクを直接明らかにする力を持たない」ということから「統計学的に有意差がない」ということを「影響がない(がん発生はない)」と意図的に読み間違えたことに混乱の原因がある。
水俣病の認定を巡る最高裁判決が2013年4月16日に出され、被告熊本県の上告を棄却した。そして原告患者の勝訴(一つの症状で水俣病と認定できる)となった。これには1977年の国による水俣病患者認定判断条件が、「手足の感覚障害に加え運動失調や視野狭窄など複数の症状の組み合わせを重視する」ということからきている。判決は症状の組み合わせを水俣病の認定条件とすることに医学的根拠がないと言っているのである。1998年9月日本精神神経学会の委員会は学界の要望により調査した結果、「医学的根拠となる具体的データーは存在しなかった」といい、「組み合わせにもとずく診断は科学的に誤りである」と発表している。
1988年改正公害健康被害補償法が施行され、第1種地域指定が解除された。これにより大気汚染による健康被害の患者は出なくなったとされる。地域指定を廃止して、健康影響に関する科学的知見を得るための調査研究を行い対策はその結果で検討することになった。しかしその後健康影響調査報告は出されず、いつの間にか忘れられた。1990年代から世界の大気汚染物質研究の変革が進行し、10μmや2.5μmの微粒子が肺深部に侵入して健康被害をもたらすことに注目していたにもかかわらず、日本の大気汚染対策は完了したと考え、日本の大気汚染研究は旧態依然の状態にとどまっていた。このPM2.5の問題も、人体影響に関する医学的根拠が定まらなかった。これには環境庁及び医学の研究が空白であったからである。
これら3つの問題でいずれも医学的根拠が問題となっている。医学的根拠に関して欧米では19世紀前半から論争が繰り返され、歴史的には医学的根拠には次の3つが存在する。経験派(直感派、職人技)、メカニズム派(分子生物学因果関係、動物実験)、数量派(臨床研究、疫学、医療統計学)である。本書は、医学においては数量化の方法が医師の個人的経験や実験室の研究結果に優先させるべき科学的根拠になるという考えに基づいている。

1) 医学の3つの根拠(直感派・メカニズム派・数量化派)

本書は医学の3つの根拠と称して、直感派・メカニズム派・数量化派を挙げているが、直感派(経験派)については、外科医に多い職人芸的な技のことであり、あまり考察はしていないので取り上げることもない。だから本書はベルナール(1813-1878)に始まる実験医学とルイ(1787-1872)に始まる臨床疫学の2つのアプローチが対立軸である。二人はほぼ同時代のフランスの医師であった。ルイは当時までよく行われていた炎症治療の「瀉血」の効果に疑問を持ち、1828年に論文を書いて、患者のグループを条件が同じになるように注意深く2つのグループに揃え、T−4日目に瀉血したグループ、5日以降に瀉血したグループに分けて生存率・死亡率を表にした。すると早い時期に瀉血するとかえって死亡率が高いことが分かった。こうした患者をグループ分けをして比較する方法でルイは臨床疫学にパイオニアとされた。ルイはフランスの数学者ラプラスの「確率計算」を引用している。近代統計学の祖と言われるベルギーのケトレーは母集団の平均(大数の法則)という概念を出した。しかしルイの結果に対しては当時の医師から「個々の患者を見ない、平均的人間という抽象概念である」と批判が出された。こうした批判を「直感派」と呼ぶ。症例や治療例の数量化はなかなか理解されず、個々の患者の経験を数量化することの意味が受け入れられなかった。これに対してルイのように患者を集団として扱い、事例を数量化して集計し統計学を用いて分析する医師を「数量化派」と呼ぶ。そこへ生理学者ベルナールが現れ、「実験医学序説」を書いた。病気は特定の原因から生じて決定論的に進行するという主張を「メカニズム」派と呼ぶ。このメカニズム派は19世紀の細菌学の支持を得て、古典力学と同じ絶対的決定論を構築し、それが以後の医学の主流をなした。「確率の哲学的意味」の著書の中でラプラースは、決定論的世界はデモン(魔)しか知りえないので、人間の無知と限定された知識ゆえに統計学や確率の概念が必要であるという。20世紀に入ってもイギリスではメカニズム派細菌学者と数量化派の論争は続いた。メカニズム派は「統計学は洞察を与えるかもしれないが、科学的根拠は与えない」と述べた。統計派は近代統計学の創始者ピアソン(1857-1936)とゴルトン(1822-1911)は1901年に生物統計学バイオメトリカを提唱した。ピアソンは「科学の文法」で、因果関係の法則は概念上のもので、決して実際に観察できるものではないという不可知論を唱え、遺伝学に科学的根拠を与える方向に向かった。

日本の医学研究者は3つの根拠のうち直感派・メカニズム派を信じ、人のデーターの数量化を認める人は少なかった。現在の人の臨床研究の方向を決定づけたのは、「科学的根拠に基づいた医学」EBMである。1992年ガイアットらが提唱した「EBM宣言」がそれである。そこには医学的根拠を「根拠に基づいた医学は、直感、系統的でない臨床経験、病態生理学的合理付けを、臨床判断の十分な基本的根拠としては重要視しない。そして臨床研究からの根拠の検証を重要視する」と宣言した。臨床研究とは厚生労働省の倫理指針によると、「医療における疾病の予防方法、診断法及び治療法の改善、疾病原因及び病態の理解並びに生活の質の口上を目的として行われる医学系研究であって、人を対象とするもの」と定義した。薬の効果を検証する治験も含まれる。直感、系統的でない臨床経験とは直感派のことで、病態生理学的合理付けとは動物実験・試験管研究のことで実験医学を科学的医学と信奉するメカニズム派のことで、EBM宣言はこの2者を医学的根拠として重要視しないというのである。歴史上メカニズムに基づく医学的判断は多くの間違いを犯してきた。それを整理すると、@メカニズムでは治療効果ありだったのに、臨床研究では逆効果だった例、Aメカニズム研究では効果がありそうだったのに、臨床研究ではその効果は疑わしくかつ有害な副作用が認められた例、Bメカニズムでは説明できなかったために、比較臨床研究で有効な治療法の受容を遅らせた例に分類され、具体的には次にその例を示す。
@メカニズムでは治療効果ありだったのに、臨床研究では逆効果だった例
* 急性心不全死亡と抗不整脈薬(抗不整脈薬で急性心不全死を防げるとしたが、実際は死亡につながった)
* 乳児突然死症候群SIDSとうつぶせ寝(うつぶせ寝によって乳児突然死を防げるとしたが、実際は死亡につながった)
* ヒト成長ホルモンと異化亢進
* 臓器不全と酸素供給
* 心疾患のリスク上昇と閉経後のホルモン置換療法
* 乳がん治療におけるラジカル乳房切除手術
* 外傷からの回復における安静
* 乳がんに対する早期スクリーニング
Aメカニズム研究では効果がありそうだったのに、臨床研究ではその効果は疑わしくかつ有害な副作用が認められた例
* 脳卒中後の脳の損傷とニモジビン
* 湿疹とサクラソウ・オイル
* 敗血症ショックとサイトカイン
* 一般的な予防のための早期スクリーニング
* 定期的な歯科チェック
* 膝の骨関節症と関節鏡手術
* 心臓疾患とビタミンE
* 閉経後の女性におけるフッ化塩を用いた骨折予防
Bメカニズムでは説明できなかったために、比較臨床研究で有効な治療法の受容を遅らせた例
* 産褥熱と術者の手洗い
* 消化性潰瘍とヘリコバクター・ピロリ
* 子癇とマグネシウム
医学上の常識とされたことがいかに間違いが多かったか、そして今でも医者は反省しないどころか有効性を主張して患者を増やしているのである。一般的な予防のための早期スクリーニングとは定期健康診断(健診、人間ドック)の病気の早期発見のことであるが、何の効果もないどころか不要な手術を強いられて命を落としたり、X線撮影でがん発生確率を増やしたりしていることである。近藤誠著 「医者に殺されない47の心得」(アスコム 2013年2月) にもその事例がまとめられている。なぜこうもメカニズム派の治療法提案に間違いが多いかについては、メカニズムの考察が浅い(複雑な発症過程を読み切れていない)、マウス動物実験をもとにしてるので人間の複雑さに当てはまらない、薬の治験データー処理にウソが多いなどが考えられる。とても医学的エビデンスに基づいているとは思えない。EBM宣言が出てから20年以上が経つが、日本では一向にEBMが広がらない。大学でも教育されず、EBMを医学本流とはみないで馬鹿にする医者が多いのは、EBMの基本となる臨床研究や疫学の方法論が日本の医学界に定着していないためである。治療効果の検証よりもパフォーマンスを重視する外科医を職人派名医としてもてはやす風潮が強い日本独特のガラパゴス的進化の滑稽例なのかもしれない。病気には多くの要因、人体には多くの関連制御物質があり、ベルナールが想定したような、1対1の因果関係で説明できる場合は、認識レベルでいってもほとんど現実にはあり得ない。分子、遺伝子に還元して理解することは不可能である。日本医学がメカニズム派にこだわるのは明治以来の輸入ドイツ医学にこだわったためであり、イギリス医学の経験主義を導入したならまた違った日本の医学になっていたかもしれない。

2) 疫学の歩み(数量化が病気の原因を明らかにした)

「数量化により科学的分析を地球する主な目的は、人を対象に病気の原因を突き止めることである」と著者はいう。人の病気のデーターを集めて原因について考察することはジョン・グランド(1620-1674)のペスト死亡表の研究をはじめとする。疫学者・疫学史家モラビアによると、疫学の歴史は次の4つの時期に分類されるという。(1)疫学以前期(1880年以前)、(2)早期の疫学(1880-1945) (3)標準的疫学(1945-1970 ,80年) (4)現代疫学(1970,80年代から現代) 
〈1〉の疫学以前の時期は、ルイをはじめ疫学のパイオニアの時代である。イギリス海軍軍医のジェームス・リンド(1716-1794)は「壊血病」の原因を調べるため、船員を投与物の異なる6つのグループに分け、果物を摂取したグループの発症例が一番少ないことを見出した。イグナツ・ゼンメルワイス(1818-1865)は産褥熱(敗血症)による毎年6千人ほどの妊婦の死亡例を数え上げ統計表を作ると、ウィーンの病院の第1産科と第2産科の死亡割合が異なることに気が付いた。第1産科では医師が出産介助をし、第2産科では助産婦が介助をしていた。そこで医師に塩素水による手洗いと消毒を義務付けると、第1産科での死亡例を劇的に(数%)減少させることができた。ゼンメルワイスの結果を産科医師たちは受け入れることができず、ゼンメルワイスはウィーンを追放されブタペストの精神病院で病死したという。ジョン・スノー(1813-1858)によるコレラの疫学調査は有名である。1854年ロンドンのペスト流行時、テムズ川の取水位置の異なる水道会社が供給する地域でのペスト感染地図(スポット地図)を世界で初めて作り、ペスト発生地域を特定して沈静化(取水禁止などの措置)させた。スノーが調査をできたのも、コレラで死亡した住民記録を作成した人口登録局のファーの統計作業があったからだ。
(2)早期の疫学の時期に入ると、英国の公衆衛生局は疫学を仕事とするようになった。1927年にはロンドンの熱帯医学研究所に疫学・動態統計教室ができ、アメリカでも公衆衛生学教室ができた。フロストはインフルエンザの調査結果から感染症伝搬の数学モデル(リード・フロストモデル)を作った。ロンドン大学のグリーンウッドは1930年細菌学と疫学統計学を結びつけた。ブラッドフォード・ヒルは臨床医学・職業病・慢性疾患へと疫学を広めた。ヒルの方法は(治療群・非治療群別け試験)結核治療薬としてのストレプトマイシンの効果判定に生かされた。
(3)標準的疫学の時期には、第2次世界大戦後の20世紀後半から大規模プロジェクトが開始された。タバコと肺がんの関係や慢性疾患の疾病原因を探る研究が注目された。1948年アメリカ国立心臓研究所により、フラミンガム研究という国家研究が開始された。5000人を集団とするコホート研究で多変数解析を駆使して、加齢、高血圧、コレステロール値、喫煙、体重、糖尿病など成人病予防の指針はほとんどこの研究から導かれたといえる。アメリカがん学会のハモンドとホーンは1952年肺がんと喫煙の関連、更に喫煙と心筋梗塞の関連のコホート研究を実施した。イギリスにおける喫煙と疾患の関連を調査した、1951年のヒルとドールの研究では、肺がんとの関連を明確にし、心筋梗塞、慢性気管支炎、消化性潰瘍、肺結核などとも関連していた。1950年代には症例対照研究が盛んに行われ、ヒルとドール、ワインダーらが活躍した。生物統計学者コーンフィールドは症例対照研究で求まるオッズ比やコホート研究で求まるリスク比の理論的つながりを明らかにした。理論疫学のミエッチネンにより大規模ばかりの調査でなくても。小集団で、短期間で、安い費用で効率的に求まるようになった。(世論調査や選挙結果予測に用いられている手法で、数千人の調査結果で日本中の想定できるそうである) 疫学の基本となる2×2表とは以下の表のことで、コホート研究でいわれるリスク比と症例対照研究でいわれるオッズ比は次のように定義される。リスク比=a/(a+c)÷b/(b+d)   オッズ比=(a/c)÷(b//d) すなわちこの表を上から見ればコホート研究(病気群と病気でない群に比較)、左横から見ると症例対照(暴露ありなし)研究となる。症例対照研究はすでに病気が発生してから過去を振り返るので、ドールらによって「後ろ向き研究」と呼ばれた。発がん分類の根拠となる調査はほとんど後ろ向きのコホートと症例対照研究である。

疫学 2×2表
暴露あり暴露なし
病気有りa人b人
病気なしc人d人

(4)現代疫学の時期では、1956年オックスフォード大学のアリス・スチュアートは妊婦が受ける腹部放射線診断で、胎児主産後の白血病や悪性腫瘍に頻度が高まることに基づき、1997年ドールらは10ミリグレイの妊婦への被ばくにより出生後の小児がん頻度が上昇すると結論づけた。今日の日本でこの診断放射線による健康影響が、原発事故の放射線被ばく影響を軽視する目的で使われ、医学的診断放射線の危険性を啓発する雰囲気で話されることがないのは、実に不可思議なことである。IARCではCTスキャンの健康影響を調べるため100万人の患者を対象とする研究を開始したという。サイナイ病院のセリコフは1964年、アスベストの健康影響に関する国際会議を開き、アスベストが悪性中皮腫を引き起こすことを明らかにした。1970年ごろよりIARCは荷との発癌物質の分類を始め、2012年にはIARCモノグラフは第100巻になった。1992年アメリカのハーバード大学のシュワルツとドカリーによりPM2.5 を含む粒子状物質濃度の健康被害が報じられ、1997年の大気汚染基準の大改正につながった。大気1立方メートル中の微粒子100μgの増加が4%の死亡率の増加につながるという。この結果は1952年のロンドンスモッグ事件を説明できるという。日本の医学研究は数量化の方向へは向かわず、メカニズム派の実験室でのミクロ研究に向かったため、この動きから取り残されてしまった。社会問題が起きるたびに日本の医学会は右往左往するだけであった。それは人間を対象として検証するという基本姿勢が忘れられていたからである。疫学においては、疾患の発生速度を変える要因を病気の原因とみなす。「何倍その病気が多発する」という発生の程度によって因果関係を知るのである。感染症で病原菌やウイルスを同定したから因果関係を証明したと称するのを「病因論的病名」という。それに対して高血圧、腰痛やがんにように症状のみから定義することもできる。がんの原因は分かっていなくてもいいのである。実はがんの原因は遺伝子調節機構の損傷程度の理解でいいのだ。遺伝子や細胞実験で得られる結果では、人間のばらつきが大きすぎて果たして発症するかどうかは不明と言っていい。では因果関係とは何であろうか。個別の観察だけを追求しても因果関係は見えてこない。イギリスの哲学者ヒュームは1747年「人間知性研究」において「客観的因果率の否定問題」として次のように述べている。「原因とは第1の対象の後に続いて起こる第2の対象に類似した対象が起こることで、第1の対象がなかったら第2の対象は存在しなかったであろう」というなら、個別の観察ではこのヒュームの定義は満たせない。この事態で用いられるのが疫学である。喫煙影響の疫学調査結果を否定する裁判判決でよく用いられる論理は「疫学調査の結果算出される危険度は集団を対象とし、疾病と要因の間の関係を述べたもので、暴露群の特定個人の疾病原因を特定するものではない」といって被告無罪を出す。これらの判決では集団と個人を対置し、疫学の役割が集団の因果関係であり個人でないとするが、では臨床医学や基礎医学的根拠で殺人罪の凶器にように個人における因果関係を明らかにできるというのであろうか。まるで疫学の意味するところを理解できていない判決である。疫学は非暴露群で発生する疾病発生率と、暴露群で発生する疾病発生率を比較して何倍の増加があるからそれを原因とするのである。個人暴露群にいたために数倍の発生率の増加の危険にさらされたということを裁判官は判例集からみて理解できていないだけのことである。受動喫煙に関する裁判の意見書において杉田稔東邦大学名誉教授は「疫学は要因と疾病の間に集団的なあるいは一般的な関連がみられたということを意味しているにすぎません。疫学研究の結果のみでは特定の個人における因果関係の判断を行うことは不適切です」とたばこ業界を擁護する発言を行っている。また法学者もこの見解を支援し、明治大学法学部新美養文教授も「集団レベルの因果関係と集団に属する個人レベルの因果関係は異なる」という。日本人の中には確率論になじまないというかリスク論を理解できない人が多い。社会学的にはその要因を取り除けば劇的に症例が減少すれば十分なのである。それ以上の議論は不要なのである。日本では医学部を中心に統計学や疫学というと「集団」というイメージが強く、個別確定診断(疾病が起きた1対1の原因論)というイメージの強い医学や医療でギャップが生じやすい。

3) データを読めない医者と官僚

日本の医学界は直感派とメカニズム派だけが横行し、数量派が無視されているために起きた被害や混乱の事例として、放射線影響健康被害の100ミリシーベルト問題、O157による大規模食中毒事件、水俣病事件、乳幼児突然死症候群SIDSとうつ伏せ寝問題を取り上げる。
@ 放射線影響健康被害の100ミリシーベルト問題
福島原発事故に端を発する放射線被ばくの問題では、被ばく量100ミリシーベルト以下では放射線によるがん発生がないかのように誤って伝えられた。その際に学界などの報告には広島と長崎に被爆者のデータによるとされている。広島・長崎の原爆被爆では100ミリシーベルト以下の被爆者6万8470人を対象としたもので、今回の福島原発事故では1ミリシーベルト以下の被爆者は(2013年8月福島県発表)14万8685人で、かつ放出された放射性物質も広島原爆の168倍と推定されている。広島長崎のデーターでは「有意差がない」という結論も福島原発事故では塗り替えられる可能性がある。100ミリシーベルト以下では「有意差がない」ことと、「影響がない」ということは基本的に異なる。診断X線(10ミリシーベルトの被ばく)の影響による白血病などのがんの発生が研究され、CTスキャンでは19歳までの50−60ミリグレイの被曝は脳や骨のがんを2−3倍増加させる。大人でも心筋梗塞後の心臓撮影で10ミリシーベルト被ばくが増えると5年で0.3%がんのリスクが増えるとされる。オーストラリアでは19歳までのCTスキャン検査(5−50ミリシーベルト被ばく)をした68万人の調査では、白血病、脳腫瘍、甲状腺ガンなどの総計の増加が確認された。米軍管理下で行われた当時の曖昧でずさんだった長崎・広島原爆被爆データーを持ち出すことで、100ミリシーベルト以下の被ばく影響を切り捨てることは今日の研究成果を見ても許されない。世界は閾値なしの影響説を採用しており、日本だけが100ミリシーベルトを閾値とすることは世界から批判されている。100ミリシーベルト問題は、数量化統計を欠く日本の医学部の構造的欠陥から生じたリスクコミュニケーションの失敗といわれる。
A O157による大規模食中毒事件
1996年7月大阪府堺市で学校給食を原因施設として、腸管出血性大腸菌0-157による大規模な集団食中毒事件が発生した。1993年アメリカCDCが行った0157調査のマニュアルを参考にせず、CDC調査メンバーが来日した時にはその調査を妨害し、食品衛生法に定めた食材と発症の関係を調べるデータ収集分析もせず、学校全体の悉皆調査(非暴露群を含めて)を行わなかった。事件に対応したのはメカニズム派の細菌学者だけであった。残された食材(1000品目)からO157遺伝子型の検出を延々と続けたため時間を浪費した。1か月後厚生労働省はきわめて曖昧なまま原因を「カイワレ大根」だったと発表するなど、後味の悪い幕引きを行った。そのため風評被害によってカイワレ大根生産農家は壊滅した。病原菌を特定できないと食品衛生法に基づいた原因施設や原因食品に対する対策を打てないと考えるのは緊急時には極めて危険である。未知の病因物質であったり、細菌がすでに死滅している場合はお宮入りになる。メカニズム派の考え方では、医師が患者に対する説明ができないというリスクコミュニケ―ションの失敗につながる。「EBM宣言」では確率で定量的に説明すべきだとしている。たとえばがん再発のしやすさを、個人の体質や生活習慣のせいにして説明するのではなく、発生確率や再発確立で説明すれが患者の心は傷つかない。人間を対象とした研究をしていない医師は大学教授という肩書があると、人間尾ことを言いたい放題にいうことがある。勉強不足とデータを読めないため誤った見解を平気で放言するのである。
B 水俣病事件
1956年に「公式に発見された」水俣病事件は1968年までチッソ水俣工場の水銀排水規制も汚染された魚の摂取規制もなされなかった。水俣病患者の発見と水銀中毒症の臨床研究に奮闘した熊本大学の医師原田氏による原田正純著  「水俣病」(岩波新書 1972 年11 月) に詳しいので、ここでは水俣病はまず食中毒事件として扱われるべきであったとする著者津田敏秀の見解に沿って、水俣病の対応を振り返ってみよう。水俣病の拡大と患者認定問題の発生は食品衛生法第27条に義務付けられた調査が実行されなかったためということができる。食中毒事件は医療機関が保健所へ届け出ることで発生する。発覚した直後から疫学調査が開始され原因究明や食中毒の拡大防止策、規模の把握などの処置がとられる。しかし水俣病事件においてはこのような通常の中毒症の診断がなされなかった。水俣病の特徴は感覚障害であり、複数の症状をともなう水俣病患者の認定は袋小路に入り、神経内科や病理診断医の迷走によって患者は苦しんだ。専門医という人々がこれほど無能であった例はない。それに拍車をかけたのが政府官僚の補償問題に絡むハードルを高くしたいという配慮から、医師側の患者判定判断条件に働きかけたことも明らかである。そして高度経済成長における重化学企業保護育成政策も絡んで、今から考えるとこれほど簡単な食中毒事件はなかったはずだったが、非常に複雑な力関係によって問題の解決が非常に遅れた。原発事故に至った東電と政府そして住民被ばく者の関係もこれに相当することを心配する。それにしても「医学知識は非常に高度」という誤解は法曹界だけにしてほしい。医者の判断力はいかにもお粗末なのである。しかも偉そうにしていて責任はとらないからなおたちが悪い。
C 乳幼児突然死症候群SIDSとうつ伏せ寝問題
「メカニズムでは治療効果ありだったのに、臨床研究では逆効果だった例」として示したSIDS症候群とうつ伏せ寝問題は医者の無責任な見解が引き起こした症例である。SIDSは1980年ごろから欧米で増加し始め、1994年にピークを迎えた。SIDSとの関連で問題になったのがうつぶせ寝である。うつぶせ寝のSIDSへの影響の疫学が研究され、オッズ比は4.5倍(95%信頼区間)であった。1956年ごろの医師が赤ちゃんが嘔吐物でのどに詰まらせる可能性からうつぶせ寝が奨励したという。1992年までアメリカではうつぶせ寝が主流であったという。アジアでは側臥寝・仰向け寝が主流であったのが、アメリカをまねし始めた。日本では1975年と1981年に大掛かりなSIDS研究が行われた。しかし公衆衛生学の関与がなく小児科医だけの調査になったため研究は迷路に入った。日本では1980年代からSIDSが急増した。1994年にSIDS学会までできた。1986年ごろからオランダや欧州ではうつぶせ寝への警告が出され、アメリカでは1992年には警告が出された。1994年を境にして突然死は減少し始め、それ以降突然死は急速に減少し、年間死亡者数は最高時の1/5以下となった。偶然に下がったのではなく「介入」によって発生頻度が下がったことが重要である。それまで日本のSIDS研究班は疫学調査もせず、警告を発することもなかったという。日本が警告を発したのは1998年のことである。それでも「その学問的因果関係は明確ではない」とうそぶいているお粗末さであった。学問的因果関係などもともとなく、うつぶせ寝という機械的所作が引き起こした事故に過ぎない。交通事故に学問的因果関係があるというのだろうか。学者がこれほど愚かだったとは知らなかった。もちろんSIDSの原因には体質などの要因もあることは自明で、完全にSIDSが亡くなったわけではないからだ。そしてまたSIDS研究班の総括報告書に「寝かせ方には様々な文化的社会的要素が関与することから、欧米のデーターをそのまま適応することはできない」と言い訳をしている医者の姿も哀れをさそう。名古屋市立大学医学部小児科戸苅創教授は警告を発することに反対をしたという。疫学データーを読めない専門医の医者がいることに驚くと同時に、研究班メンバーに最初から疫学派医師を排除した厚生労働省の人選の誤りであった。その原因と考えられる事象を取り除いた時、結果の頻度が明らかに低下したなら、それが原因であると判断するという日常の智恵さえ専門医が持ち合わせていないために、必要な対策を遅らせたことになる。言い訳のように学問的因果関係とか合理的理由が不明とか言い出すのは、メカニズム派医師の不明としか言いようがない。

4) 医療専門家の落とし穴

世界の中で日本の臨床研究と基礎研究論文数の位置づけは、辰巳氏の論文によると2008年ー2011年の集計で、臨床研究が25位、基礎研究が4位である。つまり基礎研究論文数は世界レベルであるが(ただし被引用数は低いが)、臨床研究論文数は世界に後れを取っているようである。日本の臨床医学研究はもっぱら大学ではなくがんセンターが中心である。当然がんの臨床研究以外は進まない。薬学分野でも新薬認可の人間への検証である治験が進まない。副作用調査は企業任せになり、健康危機管理や公衆衛生学的対策の遅れにつながる。文部省や厚生労働省は「全国治験活性化3か年計画」を2003年に始めたが、のびのびとなり2012年にまた5か年計画を実施している様である。国立大学の医学博士論文数は臨床研究は1%に満たず圧倒的に基礎研究関連が多い。2012年に問題となった京都府立医科大学の高血圧治療薬の臨床研究論文ねつ造と撤回問題においても、製薬会社の社員が論文に名を連ねデーターの統計解析を担当したという。大学側の問題点検証において「研究室に統計解析の人材がおらず、製薬会社任せになった」ということである。どうして日本の医学部で臨床研究が進まないのか、それは医学部の組織に問題があるという、1919年に制定された大学令における医局講座制と関係がある。明治以来陸軍はドイツから、海軍はイギリスから医学を輸入した。ドイツの合理的演繹法とイギリスの経験的帰納法と呼ばれる思考法に因を求めることができそうである。たとえば医局に「感染症学教室」というのは経験主義からきているが、「細菌学教室」、「ウイルス学教室」と呼ぶのは演繹法からきている。医師はウイルスを直接経験しているわけではない。症状から入る経験論では「感染症」とない、原因物質別に病気を整理すると「細菌学」となるのである。この経験論からくる帰納法的考えがないとデータを収集して考えることはしない。戦後アメリカのGHQが厚生省医務局の官僚に問題となるデータの提出を求めたところデータがない。GHQから「データがなくてよく医療行政ができますね」と言われたという。証拠となるデータに基づいて医療方針や衛生行政を行うという体制が戦前の日本には存在しなかった。日本の医学部はメカニズムの延長である基礎研究には強いが臨床には弱いという体質が形成された。20世紀後半には遺伝子研究や分子生物の研究が盛んになり、近年はテクニカルな生殖医療や再生医療が盛んである。病態生理学を飛び越えた基礎的なミクロ研究が高度な研究と思い込んで、医学が本来人間への応用科学であることを忘れているかのようだ。人間(患者)との直接的関係が薄くなっている。人間を対象として病気や治療に因果関係を数量的に把握する臨床研究は軽視され医者のすることではない(社会学者の手法に過ぎない)と思い込んでいる。イギリスで産業革命後に発達した公衆衛生学は、現場のデーター、特に人のデータを基に決定する経験主義の智恵にあふれた知的分野である。戦後アメリカの衛生学が占領軍とともにやってきたが、それも日本に根付かなかった。1960年代末に東大医学部紛争に始まった大学紛争は全共闘に振り回されて、本来の医学の改革には何一つ手がつかなかった。医局講座制を廃止し、教授をボスとする閉鎖的人事を打ち破らない限り、流動的な研究体制、新しい分野への進出は不可能であった。

1980年代からは総医療費抑制時代に入り、医学部定員を削減した時代となって日本医学部はもう新しい医学を導入する余裕はなくなった。人間への応用科学である医学研究が基礎医学研究と称して動物実験や試験管内の分子生物学・遺伝子研究に打ち込んで本末転倒な姿になっている。人間や社会に関心のある研究者は医学部からいなくなった。実験室から診察室へ出る医学研究者が少ない。まして社会に出る研究者は皆無である。中には医学出身者で厚生労働省の官僚になる人もいる。しかし現場を知らない厚生官僚は次第に無誤謬性神話に侵され、公衆衛生データを集め解析し政策に生かす立場にあるはずだが、大学と同じ秘密主義でエイズ研究や熱処理血液製剤問題、c型肝炎問題のデーターを隠ぺいし国民を裏切ってきた。ここで本書をまとめると以下となる。
「日本の医学界において、医学的根拠とは何かという整理が行われず、医学本来の人間を対象とした研究がほとんど行われなかった。水俣病や薬害事件などの保健医療分野の数々の大惨事は、数量化の知識を全く欠いた大学医学部の教授たちが専門家として、非科学的な誤った判断を下した結果である。誤った政策判断がひとたび行われるとそれは無謬官僚の手によって惨事は上塗りされていった。官僚は優秀だと信じている人もいるようだが、ほとんどは科学的訓練を全く受けていない集団のことである。疫学という知的分野は単純な2×2表という形式論理学に従って数量的に判定するだけの常識に属する手法で臨床研究を推進してきた。ところが医学研究の主流は要素還元主義に基づいてミクロの遺伝子・分子の世界を研究したとしても、医学の本質的な問題に肉薄することはできていない。がんを切り取る手先の器用さを磨いても、ガンはなぜ起きるかということさえ何もわかっていないではないか。日本の大学医学部が戦後、人間を対象とした疫学の導入と定着に失敗した結果、環境省や厚生省は医学データを読めない官僚によって占められ、彼らは統計数量化の研究者を感情的に嫌い、審議会から排除して、数々の過ちを繰り返した。2012年5月以来報道された印刷業従業員の胆管がんの問題では、IARCに招聘された日本の研究者を研究班に入れず、権威主義からメカニズム派の教授に研究費を払い続けた。1999年ブタペストで行われた世界科学会議では、持続可能開発のための科学、平和のための科学、社会のための科学を目指すことが提唱されたという。」


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system