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福沢諭吉著 「学問のすすめ」、「文明論之概略」 
岩波文庫 (改版1978、改版1962年 ) 

明治初期、文明開化を導いた民衆啓蒙の二書

福沢諭吉

福沢諭吉

今回取り上げた福沢諭吉著「学問のすすめ」と「文明論之概略」は、大体同じ時期に、同じような趣旨で書かれた福沢諭吉(1835-1901年)を代表する名著の2冊である。「学問のすすめ」は明治5年(1872年)から同9年(1876年)まで、すなわち福沢の39歳から43歳の精神の充実した脂ののった時期に書かれている。「文明論之概略」は明治8年(1875年)に出版された。この時期は明治の日本が進むべき方向に一定のめどが立ち始めたが、なお動揺と混乱は免れず、民選議院設立の建白を巡って指導者間に意見の違いが目立っていた。思想界においても官吏・学者の西洋崇拝と士族の儒学思想が激しくぶつかり合っていた時期であった。これらの2書はかかる時期に書かれたということにまず注目したい。福沢諭吉は言うまでもなく慶應義塾創立者で民間学者をもって任じていたが、卒業生を多く政府や実業界に供給していた。福沢自身は一度も官途に着いたことはない。福沢諭吉の位置やスタンスはこの2書に言うほど明瞭ではなく、同時代的にいうと複雑な位置にいたようだが、今回は特にそれを問題とするわけではなく、あくまで欧州の啓蒙運動という思想革命より100年以上遅れた日本の明治の啓蒙時代を取り上げたい。近代科学は17世紀ガリレオに始まり、デカルトの合理主義哲学が西欧近代文明の方向を決定づけたといわれる。ルネ・デカルト著 「哲学原理」(ちくま学芸文庫 2009年)は近代科学の基となった。フランス革命を準備したフランスの啓蒙思想は桑原武夫訳編 ディドロ・ダランベール編 「百科全書-序論および代表題目-」(岩波文庫 1971年)を代表とする。 福沢のこの2書が「百科全書」に相当するとは言えないが、日本の民衆の蒙を開き、科学技術の発展から社会科学にいたるまでの学問を理解するための準備をなしたと思われる。そういう意味で福沢は偉大な教育者としての定評は堅い。福沢には「福翁自伝」という実に面白い自伝がある。神鬼を畏れずということを試した話などが満載されている。そこから蒙を開かなければならないという当時の民衆の思想レベルが伺える。腐儒を論破するというのは高度なレベルで、民衆の迷信を打破することが最初の一歩であった。そういう自伝や経歴は今回の読書ノートには記載しない。主に思想的位置づけを考えたい。福沢はのちに「破壊と建設」という一文で、段階的な文明開化を唱えたが、さしずめこの2書は「破壊」の段階で、封建的旧物打破の業をなさんとしたものであろう。「学問のすすめ」は平易な文章で大衆の蒙を開く目的で17篇の短文(文庫本にして10頁以下)を4年間にわたって小冊子にして刊行された。大変な売れ行きで、まさに乾いた喉に水を流し込むようであった。これ以前に福沢は「西洋事情」、「雷銃操縦法」、「華英通語」、「西洋旅案内」、「西洋衣食住」、「窮理図解」、「世界国尽」を著して、はやくも日本一の著述者の位置を占めていた。「学問のすすめ」はこれらをはるかにしのぐ売れ行きを示した。なぜかというと前7書は西洋の紹介か新知識の普及を主眼とするもので、「学問のすすめ」は正面から現存のイデオロギーを批判する思想闘争の趣を持っていたからであろう。公然と宣戦布告のような激しさをもって書かれているところに、大衆受けする要素があった。それに対して「文明論之概略」は学者を対象に書かれた、理路整然とした構成と内容を持っている。文章はそれほど難解ではないが、襟を正して武士階級の文章であった「候文」で書かれているので回りくどくて閉口する面がある。西欧近代文明の由来や特徴を概括し、これに依る他に日本の文明開化(近代化)はあり得ないし、日本の独立を堅持しないと文明の建設はできないことを激しい口調で熱く語っている。内容的には「学問のすすめ」でも取り上げられたテーマの掘り下げであるが、文献引用も多く系統的に述べられた理論(論文)となっている。「学問のすすめ」が大衆向け啓蒙パンフレットとすれば、「文明論之概略」は専門家向け論文ということができる。

「学問のすすめ」が明治5年に、「文明論之概略」が明治8年に書かれたこの時期は、維新政府の方向がようやく定まり、このころになって福沢の維新政府を見る目が傍観者から積極的賛同者に変わったといわれる。維新政府は王政復古だけの反動的王朝主義者ではなく(それは幕府を倒す便宜に過ぎず)、文明開化を推進し日本の独立を願う開進的性格を福沢は承認し、その革新事業を助成する決心ができたのであった。もともと福沢は徳川の親藩である中津藩奥平の家臣に生まれ、大阪堂島の蔵屋敷で育ち徳川の禄を食む身であった。自伝によると幕末には徳川の無為無策を見て将来に見切りをつけていたが、かといって福沢にも替りうる政体の見通しはなく、幕府の改良的政策以外の策は持ち合わせていなかった。福沢は戊辰戦争前は、大政奉還後の大名連盟ではなく徳川大君の「君主制」を考えていたようである。尊王攘夷論者は福沢の目には騒乱を企てる不逞の輩に映り、「国を亡ぼす奴ら」とみていた。幕府は薩長の武力の前にあえなく倒れ、維新の政変が起こった時点で福沢は新政府の動きにはそっぽを向いていたようだ。慶応4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。同年6月友人への手紙には「もはや武家奉公もたくさんだ。今後は2本刀を棄てて読書渡世の一小民になる」と書いて送った。京都朝廷からの再三の出仕要請にも病気と称して拒否を続けた。旧幕臣として寂莫たる思いと福沢特有のすねた表現がみられる。ところが福沢の明治政府の性格に対する評価は当たらなかった。前日の攘夷論者は政権を担うと現実主義者に変身し、そして果断なる開国進取主義者となった。明治政府が次々と打ち出す体制改革は明治4年(1871年)の「廃藩置県」に及んだ。これは福沢の意表にをつくもので、福沢をして驚かした。「そこまでやるのか」と驚愕し「新政府のこの盛事をみると、死すとも憾みなし」と絶叫したという。福沢の日本の前途に関する希望は、もはや旧幕臣のセンチメンタリズムを超越し、明治政府に対する態度は希望と期待に変わった。そして福沢はこの新しい日本の思想的指導者の任務を買って出る気持ちになったようである。彼自身は性格として民に徹し、官には就かなかったが、「全国の人心を根底から転覆し(啓蒙し)、近代文明開化に遅れて西欧の植民地になりかけていた東洋に文明国を開き、西欧に後れを取らない祈願を起こした」と述べている。その結果出たのが「学問のすすめ」であった。廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)の全てを政府が握るのでは無く「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした「分権論」には、これを成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く「丁丑公論」では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張するなど、明治維新政府にはいろいろ注文を付けた。明治6年(1873年)木戸孝允と会談し、文部卿であった木戸に学制の意見を具申したという。福沢と薩長藩閥との対立もめだつようになり、明治7年(1874年)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平が野に下るや、後藤の政治活動を支援し、国会開設運動の先頭に立って「郵便報知新聞」に「国会論」と題する社説を掲載した。大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に福澤の影があるとみた伊藤博文は井上毅に一任し、大隈一派を政府内から一掃する明治十四年の政変が起こった。さらに明治政府との軋轢は深まり、教育令が福沢の思った通りにならず、福澤考案は薩長派文部卿九鬼隆一によって潰され、教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学だけに莫大な資金が注ぎ込まれたため、慶應義塾は経営難となり福沢は慶應義塾の経営を降りたが、次第に私学の拡大によって黒字化した。教育令と学制については、天野郁夫著 「大学の誕生」 (中公新書 2009年5月)に私学の振興が書かれており、福沢らの苦労がしのばれる。



福沢諭吉著 「学問のすすめ」  (岩波文庫 1978年改版)

本書「学問のすすめ」は最初から全体の構想があって書かれたわけではない。明治5年に発行された「初編」ははしがきにあるように福沢諭吉と小幡篤次郎の共著として、中津に学校を開くにあたり、同郷の旧知の人々にあてた小冊子であった。当時第2編以降を考えていたかどうかは定かではなく、初編の大成功に促されて次々と第17篇まで続けて出版された。時事評論というような脈絡のない話でもなく、といって互いに交錯しない理路整然とした構成でもない不思議な本である。いわば偶然の機会で生まれた本が一世を風靡した不朽の名作となったのである。そして「学問のすすめ」の着想は、明治8年(1875年)に出版された「文明論之概略」に受け継がれ、その思想は深化し福沢の一生のバックボーンとなった。「天は人の上に人は造らないが、人に差がつくのはただ偏に学ぶと学ばざるに由る」のである。そこで福沢が進めたのが「実学」(サイエンス リテラシー)である。彼は儒学を激しく攻撃したのはそれが虚学であるからだという。終生福沢の精神を導いたのは、自然の法則を知ることにより、自然に従って自然を支配することであった。これは福沢が蘭学の緒方塾で学んだ、医学・物理学の実用書の勉学が背景にあった。福沢は医者でもなく、哲学者でもなく、法学者でもなく、新聞記者でもない総合的な啓蒙思想家ということができる。まず西欧の物理を中心とする自然科学を学び、次に西欧の人文科学を知った。最初に学んだ経済学において人間活動も科学と同じような法則が働くことがあることを知った。いまでいうミクロ経済の統計学、行動経済学のことを言うのであろう。次に西欧の倫理学を「ウエイランドの修身学」から学んだようだ。国民の職分(市民の義務)や「国法の貴き」など、国家において国民の遵守すべきことを説いた。また福沢が「文明論之概略」を書くうえで参考にしたのはバックルの「英国文明史」であったといわれる。バックルは歴史を進めて歴史の法則(ヘーゲルの弁証法的発展に似た)に近づこうとした人であった。文明の進化は「疑う」ことから生まれるという楽観的文明観である。疑うことは批判である。ここに旺盛な福沢の批判的精神が発揮される。「文明論之概略」で異質な論点は「ナショナリズム、国家の独立」であった。「学問のすすめ」第3編でも「一身の独立、1国の独立」と述べられている。国の維持は民の気力がなければ支えられないとして、国民の精神の啓蒙を説いた。民主主義者として知られる福沢にしてこの言があるということは、当時次々と植民地化された東アジア国々を目のあたりにして、国が存在しなければ日本国の発展もないと覚悟したからである。無気力な国民では西欧列強の武力・国力の前に国を保持することは困難であると福沢は考えたからだ。最後に物議を引き起こした「楠公権助論」が本書6編と7編に展開される。福沢の矯激の文章は必要以上に相手を嘲笑し罵倒する言を弄して人心を刺激した。この文が世の人の喝采と賛同を勝ち得たという面がある一方、誤解と非難を招いたのである。言いすぎることはあっても言い足りないことはないことが福沢の取り柄でもあったが、無要の世人の怒りを招いた。「破壊と建設」が福沢の信条であって、オブラートでくるんだような言い方はしない。無知文盲の輩には容赦しないのである。本書4編「学者職分論」では、「国の独立は一人政府の力でもって進むべきにあらず、学者は民間に在って人民の気風一新の事にあたるべき」という論は、当時の官一辺倒の学者処世術を批判したものである。福沢は士族を棄て筆一本で生活をなしていたが、当時の学者は官につく以外の職を志さなかった。独立不羈を喜ぶことは福沢の天性に由来する。4編の内容について明六社の官側学者(加藤弘之、森有礼、西周)から反論があった。福沢は民にあって日本文明の教師たることをおのれの使命となし、終生一貫変わらなかった。

初編

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。万人は皆同じ位にして、貴賤上下の差別なく・・・・・・されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによって出来るものなり」
生まれた時は平等でも人の働きによって富貴が決まるのである。その逆に富貴な人は働きがよかったかという現代の新自由主義者の結果論は議論のあるところである。格差社会は結果であって努力したものが儲けて何が悪いという主張があるが、知識の偏りに基づく金融投機で儲けることが努力したことになるのだろうかという疑問が発生する。福沢も「無学なる者は貧者となり下人となる」という。学の格差はどこで決まるのだろうか。名門校の入学者は裕福な家の子弟が多いことは統計上事実であろう。貧乏では勉強もできない世の中である。つまり原因と結果が逆転され、常に優位に立つような仕組みは世代という時間軸も加味しなければ、個人の努力のみでは達成できない世の中である。この福沢の名文もいまでは牧歌的アメリカ自由主義を述べたに過ぎない。格差社会ではまず努力する必要があるが、努力したから格差を勝ち抜いて勝者になれるかどうかは分からない。勝者という定義も不明瞭である。現代の世の中の仕組みはそれほど単純ではない。勉強したからといって労働市場の壁を打ち破って非正規社員が正規社員になれるか保証はない。福沢がのべた学ぶべき「学問」とは文学や儒学のような虚学ではなく、日常の役に立つ実学である。読み書き・そろばん、法律、経済、自然科学といったリテラシーのことである。実学の心得があってこそ、身も独立し天下国家も独立すべきであるという。自由とは我儘放埓のことではないが、各人のこの自由独立なくしては国家も成り立たない。人が国法を貴ぶのは、官僚が偉いからではない。国家の職分、国民の職分を守ってこそ国家が成り立つ。政府に不平を抱くことがあるなら、官を怨むのではなく、「静かにこれを訴えて遠慮なく議論をすべし、天理人情に叶うなら一命を擲って争うべし」といい、これが国民の職分であるという。つまり実力行使や騒動を避けて、意見があるなら議論すべしということで、議会の必要性につながる論理である。しかし明治初期の福沢に立法府としての議会や議院内閣制の概念があったかどうかはこの書からは読めない。

2編 「人は同等なる事」

「人は同等と言わざるをえず。ただしその同等とは有様の等しきを言うにあらず、権理通義の等しきを言うなり」
人の貧富強弱智愚はさまざまであるが、人たるべき生存権や所有権が等しいという。これはジョンロックの「社会契約説」からきている。社会契約説はジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」(岩波文庫)に詳しい。「政府は法令を設けて悪人を制し善人を保護す。百姓町人は政府の賄を出して(税金)、双方一致の上相談を決めたり(契約)。」はそのことを言っている。政府の職分、国民の職分は契約に基づくのである。政府が理不尽なことをする暴政府であるかどうかは、人民が治めがたいほど愚かであるからだという。だから人民が暴政府を避けようとするならば、速やかに学問に励み、政府と対等な位置に上ることが必要である。この福沢のいうことはまっとうなことであるが、現在においても行政府と人民の情報格差は深刻で、情報公開法ができてもなお対等に渡り合えるかどうか難しい。

3編 「国は同等なる事」、「一身独立して一国独立すること」

「物事の道理は人数の多少によって変ずべからず。人は同等なると同じように各国の権義は同等なり」、「独立の気力なき者は、国を思うこと親切ならず。内にいて独立をえざる者は、外にあって外国人と接する時もまた独立の権義を伸ぶること能わず。」
明治初期の日本は、今の力関係では西欧諸国の富強に及ばないところがあるが、一国の権義においては少しも劣ることはない。今の北朝鮮みたいに極貧国であるが、対等にアメリカと交渉したいという心意気とのことであろう。戦えば負けるに違いないが、国の権利は対等であるということだ。そして人民の知恵が向上し政府と対等な関係にあるか、人民の智力が貧弱で一方的に政府の支配を受けていれば、国を守り外国人から独立することもできない。独立心がない人は必ず他人の庇護を期待する。そしてその支配を受けるのである。国民に独立の気力が少なければ国を売ることもある。したがって官民ともに自己の独立を図り、余力があれば人を助けるべきで、政府は一人心配するのではなく人民の自由独立を図って、国の独立を確固たるものしなければならない。

4編 「学者の職分を論ず」

「我より事の端を開き、愚民の先をなすのみならず、まず私立の地位を占め・・・あたかも政府に一針を加え、旧弊を除きて民権を恢復すること、方今至急の要務なるべし」
福沢の言う学者とは狭い意味での大学教師ではなく、広く今日の言葉で「知識人」(または中流階級)の務めを述べている。そしてただ学者は官途につくのみではなく、学術、商売、法律、著述業、新聞など私立の事業を先端を切って起こさなけばならないという。明治の日本は学術、商売、法律で外国に後れを取っている。一国の独立を維持するには国民は国民の任務を果たし、政府は政府の任務を尽くして互いに相助け合って全国の独立を維持しなければならない。だから官たる職務と民たる職務は同時に振興するわけで、福沢は民として私立の事業(民間)を興すことを使命とすると宣言する。福沢は官のみに走る学者にはあまり尊敬はしていない。「けだし一国の文明は、独り政府の力をもって進むべきものに非ざる」という。各種の事業がひたすら政府に取り入って権益を貰う姿勢を痛烈に批判している。今日の政府側の予算削減のための民間活力利用という「小さな政府」論は裏返していえば、官中心主義(中央集権)がいかに根強いかを物語っている。官と民の並立の道はまだ半ばということだろうか。福沢は「無芸無能、僥倖によって官途に就き、慢に給料を貪って奢侈の資となし、戯れに天下の事を談ずる者は吾輩の友に非ず」と痛烈な言葉を、官になびく学者連に投げかけている。

5編 「明治7年元旦の詞」

「文明の事を行う者は私立の人民にして、その文明を護する者は政府なり」
この編は慶應義塾社中に向けた明治七年元旦の詞である。古来日本の政府は変わったが、幸い独立を維持してきた。しかしながら外国に比べてあまりに文明のレベルが貧弱であり、これでは列強の力の前に独立を維持することも難しい。学校、工業、軍隊などの文明の形はこれを西欧に倣う(金をもって買う)ことはできても、無形の智力や気力ははなはだ弱体である。「国を患うるは上の任、下賤の関わるところにあらず」では文明の形を導入することはできても無用の長物のみならず、却って民心を退縮せしめる具となる。文明は必ず中産階級(ミドルクラス)が大衆の向かうところを示し、政府と併立ちて始めて成功するものであると福沢は上のように述べた。日本の歴史はいつも「上からの改革」に終始し、福沢の言う「中ほどからの改革」または西欧の革命である「下からの改革」を全く経験してこなかった。それが今日の日本のふがいなさを物語っている。

6編 「国法の貴きを論ず」

「政府は国民の名代にて、国民の思うところに従い事をなすものなり。・・・国民は必ず政府の法に従わざるべからず。」
本編は2編 「人は同等なる事」の繰り返しに相当する。つまりジョンロックの「社会契約説」からきている。人は生存権・所有権を固有の権利として有する。これを自然状態に置くと各人は戦闘状態になる。私裁はよろしくないから、国法の貴なる由縁である。赤穂義士は大きな間違いである。私怨または私闘に過ぎない。当時の政府は徳川幕府であるので裁判に訴えるべきであった。徳川幕府の切腹という裁判も不当なら、赤穂浪士の義挙も無政府状態となり、徳川時代は無政無法の世の中になる。殺人・暗殺・強盗という生存権を奪う行為は法によって厳禁されるのが近代国家の基礎である。さらに国法の貴なるを知らない輩は、役人に媚びてこれを欺くかの行為に出ることがある。法を破り、法を遁れる行為は法治国民とは言えない。これが国民の義務である。

7編 「国民の職分を論ず」

「国民たる者は一身に二か条の務めあり。一つは政府の下に立って一人の民たる、これを客の積りなり。二つは国中の人民申し合わせて一国を名づくる会社を結び、社の法を立てこれを施す、主人の積りなり」
この編は前の6編 「国法の貴きを論ず」の続きである。統治者の立場と非統治者の立場の両面を持つという。ジョンロックは統治者といわず、国民は立法者であって、統治は政府に任せるという。客の身分をもっていえば、国法を遵守するのは国民の義務である。福沢の論は政府の権は国民より与えられたもので、これを破ることは許されないという。政府の行為に言を挟むことは動乱の因になるという。この論は下手をすると専制政府を容認することになる。これは福沢の民選議院に対する福沢の時期尚早論につながり、時代の制約かもしれない。人民は国家の主なのだから、その経費予算を賄うこと(税金納入)に不平を言ってはいけないという。また政府が国民の約束に反する行為(暴政)を行ったとき、ジョンロックは革命権を容認したが、福沢は「黙って従がうのはいけないが、政府に敵対する行為は内乱であり、正論に身を捨てるべきだ」という。ここは理解に苦しむことである、身を棄てて正論を主張するとは甘んじて政府に殺されよということか、殺されても政府転覆を図るべきというのか判然としない。赤穂義士も忠僕権助の死も命の捨て所を知らない者として切り捨てた。人民の権義を主張し政府に迫りその命を棄てて終わりをよくする者は日本にはいなかったと福沢は言うが、それは福沢の男の美学であって、結論として力関係によって世の中を動かすことができなかったということに過ぎない。暴君に対する革命権を主張するロックの見解のほうが正しいと思う。

8編 「わが心をもって他人の身を制すべからず」

「天理にもとることを唱うる者は孟子にても孔子にても遠慮に及ばず、これを罪人と言って可なり」
アメリカのウェーランド(1796-1865)が著した「修身倫理学」(1835年)を引用して人の属性(天性)を次の5つに分類した。@身体の保全の権利、A知恵(合理的精神)、B欲望を持つこと、C道徳倫理を持つこと、D人は意志を持つことである。以上の5つの属性は欠くべからざる性質にして、これらを自由自在にできることで一身の独立をなすことができるという。これを人間の権利といえる。そこで情けないことは、反対に人たる者は他人の指図に従って行動すべきで、自分の料簡は出すものではないという人が居たらおかしなことだ。女は夫に従い、幼きは父母に従い、老いては子に従うという「婦人三従の道」を言う儒教道徳は、男のためはに都合のいいことではあるが、天理にもとる話ではないか。この編は儒教倫理批判である。

9編 「学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文」

「文明の進歩をなせし所以の本を尋ぬれば、皆これ古人の遺物、先進の賜物なり」
人の心身の働きをみると、第一に自分の衣食住を満たすための働きと、第二に人間交際の中にあっての働きがある。第一の生存のための働きはそれほど難しいことではない。第二の働きは「社会欲」という本性からくるもので、交際を広げることで幸福を増すことができる。西洋文明の歴史を見ると、実に長い時間にわたって進歩してきているのは、先人の知恵の賜物である。従って福沢の使命とは、今日のこの世に活躍の跡を残して、これを遠く子孫に伝えることである。自分が生きただけでは他人を益したことにはならない。「学問の道を首導して天下の人心を導き、推してこれをさらに高尚の域に進ましむること」が福沢が生きた証としたいと抱負を述べる。

10編 「続 中津の旧友に贈る」

「他国のものを仰いで自国の用を便ずるは、固より永久の計に非ず、・・・ただ今の学者の成業を待ち、この学者をして自国の用を便ぜしむるの外、更に手段あるべからず。」
今の学者は何を目的として学問をしたらいいのだろうかという問いを投げかけて、学問の目的とは不羈独立の大義を求め、自主自由の権義を恢復するだけでなく、学問教育の成果を実地に施すことである。そして学者はこの日本国をして自由独立の地位を維持して初めて内外の義務を果たしたというべきである。新たな事業を企画する者はまず外国人を雇い入れて高給を与えるが、これでは自国の進歩にはならない。人は処として事をなすに地位は問題とならない、人々自らその責に任じて自らその力を発揮しなければならない。福沢はこれを「自食に食む」という。自力更生の論である。

11編 「名分をもって偽君子を生じるの論」

「上下貴賤の名分を正し、ただその名のみを主張して専制の権を行わんとするは、詐欺術策の容体なり、偽君子と名づく」
儒教の名分批判を展開する理路整然とした論である。あたかも世の中の人間関係を親子の間柄で処する趣旨である。これをジョンロックは「家父長的専制支配」と呼んだ。政府と人民はもともと親子の縁にはない、実に他人の付き合いである。そこへ親子の情実を用いてはいけない。必ず約束規則を作り、互いにこれを守ってこそ丸く収まると説く。この偽君子が多いのは世の人民を御しやすいと思いこみ、その弊害はついに専制抑圧に至り、詰まる所飼い犬に手を噛まれるのである。名分というは虚飾の事である。

12編 「演説の法を進むるの説」、「人の品行は高尚ならざるべからず」

「学問の本趣旨は読書のみに非ずして精神の働きに在り。この働きを実地に施すに、談話はもって智見を交換し、著作演説は持って智見を広めるの術なり」「事物の是を是とするの心と、その是を是としてこれを事実に行うの心とは別物なり、他の文明と比較し双方の利害得失を算すべし」
視察や研究、読書のみならず、討論や議論、そして自分の主張の開述をすることは重要な精神の働きである。事物の有様を比較してさらに向上することを福沢は「高尚」という言葉を使う。認識の弁証法というか、知識から実体把握へそして検証へ向かう精神の働きを「高尚」というのである。「哲学」と言ってもいいが、形而上学を嫌う福沢はより高い認識の段階に進むために議論と比較検証を勧めるのだ。インド、トルコ、中国といった大国がいとも簡単に西欧列強の植民地にされた原因を、自国の文明に自己満足し他国と比較して優劣を考えなかったことであるという。つまり進歩が停滞していたことである。

13篇 「怨望の人間に害あるを論ず」

「人間に不徳の過剰多しといえど、その交際に害あるものは怨望より大なるはない。貪吝、奢侈、誹謗、弁駁は不徳の著しきものなれど、各々吟味すればその働きにおいて不善なるにあらず」
封建倫理批判の編である。貪吝と節検経済、奢侈と安楽、誹謗・弁駁と議論、驕傲と勇敢、粗野と率直、固陋と実着、浮薄と鋭敏は相対するように見えて、皆働きの程度場所が異なるのみの事である。これらを一概に不徳とは言えない。不善の中でも不善なのは怨みの感情である。自分に不平をいだき、我を顧みずして努力せずに他人に多をもとめることである。却って他人を不幸に陥れ、他人の有様を下げて自分との平均を取ることである。すべての禍の元であるという。富貴は結果であって怨ではない、貧賤は不平の源ではない。人間交際に害あることは、ただ人の言語をふさぎ人の働きを妨げる抑圧である。封建時代に日常的に卑屈な精神を教える孔子の教えはまさに抑圧であってそこから怨望の気風が生じる。隠者を理想とする老子の教えは自閉症の世界である。「人生活発の気力は物に接して初めて生じるもので、自由に言わしめ、自由に働かせ、富貴も貧賤もただ本人の自らの選択に任せ、他からこれ妨げるべからず」が福沢の理想である。

14篇 「心事の棚卸」、「世話の字の義」

「人生の有様は思いのほかに悪事をなし、知恵の事についても思いのほかに愚を働き、思いのほかに事業を遂げざるものなり。事業の成否得失につき時々自分の胸中に差引の勘定を立てることなり。棚卸の総勘定のごとき」、「世話の字に保護と差図の両方の義を備えて人の世話をするとき、真に良き世話なり」
人が事業を起こすとき想定外の齟齬が生じそれをたえず調整しながら、事業の難易を評価してゆかないから、愚もつかない失敗をしたり、事業が難航するのである。だから計画plan(P)-実行do(D)-評価check(C)-反省review(R)  PDCRのサイクルで事業の進展を図る必要がある。政府においては保護と命令がそれである。政府の貧民救済も貧乏の原因を尋ねず、みだりに米を与えても保護の域を超えている。この世話(社会福祉政策)は経済の最も大切なことで、難しいところであると福沢は嘆息している。この短文から福沢は社会福祉切り捨て論者でアメリカ式自由主義論者かと断定はできないが、気になる部分である。

15編 「事物を疑って取捨を断ずる事」

「信の世界に偽詐多く、偽の世界に真理多し」
神仏、民間宗教、針按摩、家相などの信仰の世界には偽詐が多いことを面白い表現で論じている。これに対して西欧の科学の世界は疑うことから始めて不朽の真理に至る道である。古人の論説にも疑いの目で見、そして長い間の習慣もに疑いをはさむことで人事進歩の有様を見る。人事の進歩して真理に達するの路は、ただ異説争論の際にまぎるの法のみであるという。これは科学的合理的精神の発揮である。この信疑の際につき必ず取捨という精神の働きがある。「よく東西の事物を比較し、信じるべきを信じ、取るべきを取り、捨てるべきを棄て、信疑取捨そのよろしきを得んとするはまた難きに非ずや」という。福沢は卑近な例から説き始めて、科学的合理的精神に至る道を説く能弁家である。

16編 「手近く独立を守る事」、「心事と働きと相当すべきの論」

「銭を制して銭に制されず、豪も精神の独立を害すること勿らんと欲するのみ」、「議論と実業は寸分も相齟齬せざるよう正しく平均せざるべからず」
前半の論は物にこだわってその虜になってはいけないということである。それを「一杯、人、酒をのみ、三杯、酒、人を飲む」ということわざを引いて展開する。心のバランスを保つことが手近く独立を守る事であるという平凡な生活哲学である。後半の論は議論と実業が両ながら完全を期すための方策を述べる。@事物の軽重を弁別すること A有用無用を明察すること B人の働きには分別TPOが必要 C人の能力、分限を心得ること、孤立は良くない ということである。

17篇 「人望論」

「栄誉人望はこれを求むべきものか、曰く、然り、努めてこれを求めざるべからず」
人にあてにされなければ何の用にもたたないものである。人望を得る人物は人の期待を背負える人である。智力活発な人である。一身に持前正味の働きを逞しうして自分の為にし、兼て世の為にせんためには、次のことは必要である。@言語明瞭な弁舌を持つこと A顔色容貌が人に好かれ、嫌われてはいけない B交際の幅が広くなくてはいけない、人を毛嫌いしてはいけない。



福沢諭吉著 「文明論之概略」 (岩波文庫 1962年改版)

この書は「文明」という言葉に、福沢の「西洋事情」で述べられている武備・物の意味と、「シヴィリゼーション」という文運の進んだ状態という2つの意味を持たせている。後者の概念は日本には存在しなかった。後者の「文明」にはさらに2つの用い方があって、一つは民族生活一般の状態の事を言い、2つはより進んだ西欧の文明の事をさす。そこで福沢は西欧の文明を学ぶことによって日本を「文明化」しなければならないということで本書を書いたと思われる。ところが日本の従来の文明と西欧の文明は著しく性質が異なっていた。西欧の文明を学ぶといっても日本人は頭の中で大混乱を生じた。日本人が西欧人になれるわけでもないので、福沢は西欧文明を咀嚼し精錬して物にして行かなければならないと考えた。福沢は高踏的には説かないし、決して難しい表現を好まない。何事も学説としてよりは常識的に話すことを心がけている。だから卑近な例で考え方の類型を示し、本論に入るという講話的な話し方をする。理解は合理的、立証的ばかりで進むものではなく、特に情に頼るところが大きかった。人の「腑に落とす」ため、巧妙な独特な言い回しをする。現在ではそのようなことは必要ないが、当時の人の心の機微に通じていたというべきであろう。福沢は智と徳が文明の2つの要件であるというが、智のほうに重点を置いて、文明の根本は人の精神の働きの活発であること(才気煥発)と考えた。西欧近代文明は人・物に対する認識論と自然科学の発達から導かれた。なぜ日本で十全な発達をしなかったかというと、それは神仏や儒の道徳観念が人の天性を抑圧していたからであると福沢は考えた。そこで智力がはばたくために自由の精神が必要になる。人事も自然界と同じく、ある規則(定則)によって動くものだとすれば、ガリレオ・ニュートンとデカルト・アダムスミスの働きは偉大であった。こうした少数の智者のレベルに多数の人を引き上げることにより文明が進歩する。そこに啓蒙者・教育者としての福沢の歴史的位置があるのである。徳については、個人として独立不羈であると同時に、社会道徳として福沢は権力(国家、官)に対する卑屈な態度や儒教道徳を鋭く攻撃したのである。本書において福沢が用意した思想的な論点を次の6つにまとめてみた。
@ 現在の西欧の文明と過去の日本の文明を歴史的に比較することで、軽薄な西欧崇拝や頑迷な西欧排斥(尊王攘夷と同じ構造)を排して、日本が西欧文明を学び取る際の注意点もきちんと心がけていた点である。
A 何事についても政治に関係させて考えていることである。とくに「権力偏重」が中国と日本の文明開化を妨げた最大の障碍であった点である。本書の主題ではないので省くが、政府の専制を排する福沢が民選議院開設論に対してとった態度は甚だ複雑で、どのような政治体制を理想と考えていたかは紆余曲折している。
B 権力に服せず、人民が独自にその働きを示すべきという点である。独立不羈の精神もここにある。福沢の立場として学問も政府によって行われるのではなく、私立で行うべきだという主張である。「学問のすすめ」にも書かれているように「学者は官に仕えるより独自にその仕事をせよ」という。
C 協和を尊ぶ精神である。論が分かれるのは当然であるが、議論を尽くせという主張である。福沢は実力行使や反抗・怨みを嫌い、一命を賭けて議論を尽くせという。民選議院もその一つであるが、人民は政府は専制であるといい、政府は人民は無智であるといって闘争することは非とした。
D 今日の憂は外国交際にあるとして、国民が協力して国家の独立を守る事を強く主張した。その際政府が独立を守るのは当然ながら、人民の智力を養わなければ独立を全うすることはできないという。植民地化を畏れ、不平等条約改正を喫緊の課題とした当時の国際情勢を反映している。これは「学問のすすめ」においても力説している。
E 西欧文明を学ぶことを主張しながら、宗教に重きを置かない態度を主張している。西欧文明を学んでもキリスト教に改宗する必要はないということである。

次に福沢の文明の歴史観を見ると、次の4つの特徴が出てくる。
@ 世の中は進歩する、そして進歩は無限であるという楽観論に支えられている。
A 文明を進める力は、君主・英雄の心理行動ではなく、まして気まぐれではなく、一般人民の智力の働きであるとする啓蒙思想に導かれている。
B 文明の進め方に関する人々の態度について、暴力を否定した主義主張の平和共存主義を理想としていた。文明は古人の遺物の上に立って改良を加える(進歩)ことであり、毛沢東が言うような「鉄砲の先から国家が生まれる」のでは絶対ないとする。ある意味で伝統と保守主義が残ることをよしとする漸次的改良主義に通じる。
C この書は歴史を吟味してその進化法則を探るものではない。歴史の進行を因果の連鎖(弁証法)とみるか、歴史を利に動く物質的欲望(経済学)から説明する唯物史観とみるか、福沢は富を尊重しているが人の生活は私利のみではないとするアダムススミスの「道徳感情論」に近いようだ。むろんキリスト教倫理と儒教倫理には隔絶した差異が存在する。 ところで福沢はこれらの文明史観を誰から勉強したのであろうかという文献根拠を探る興味が湧くのは当然である。福沢が独立に思いつくはずはなく、必ず福沢(誰でもだが)の思想にはネタがある。当時の先達の文明史観としては、フランスのギゾーのヨーロッパ文明史、英国のバックルの英国文明史があった。福沢は「文明論之概略」の執筆と並行してギゾーのヨーロッパ文明史の翻訳を試みている。本書の第8章にギゾーを引用している。第3章に文明とは人の生活に一般的状態の事であるとするギゾーの説をそのまま採用している。しかしギゾーが言う社会と個人の関係については考察していない。人民個人の考えと知力が充実すれが自動的に文明が進歩するという楽観主義は短絡的である。福沢の考えはいわゆる観念論に近い。文明の進歩は徳より智の働きによることが多いという福沢の主張はバックルに基づいている。バックルは智徳の進歩は人の天性によるものではなく、環境(自然現象)の力であるというが、福沢はこれを無視している。人事の定則と同じように歴史の定則には福沢は関心がなかったようだ。とにかく福沢は歴史そのものには関心がなく、文明に関する部分をギゾー、バックルから引いているようだ。世を渡る術として(経世の書)西欧文明のすごさを強調しているのである。また独立不羈の精神はミルの「自由論」から得ているようであり、中国文明に関する見解もそこからの引用である。

1) 議論の本位を定る事

「議論の本位」とは、物事を比較し、相対して重要な優先順位を定めることを言う。物事の相対化が肝要であることを福沢は強調する。
@物事はそれだけを論じても、価値感の違いがあって、各人の議論は収束しない。議論の方向を定めなければその利害得失は議論できない
A結論が似ていようと、価値判断の根拠が全く異なることがある。そのため議論は途中から枝分かれして、再び元には戻らない。
B極論と極論を戦わしても、議論は分裂したがいに近づくことはない。
C物事には両面性がある。そのものの一利一害に伴う弊害がある。楯の両面をみなければものごとの真実には迫れない。
D人の意見が違うのは当たり前のことである。世間には多様な意見、異説が集まっている。画一にならず、各人の主張を変えずに相和することが社会進歩の源である。
福沢は異説が社会進歩の要因であるという弁証法を信じて、今日の異説(奇説)は明日の通論(常識)であるといいます。だから活発に議論しなければならないが、議論のルールを決めなけれ不毛の闘争になる。何のために議論するかが最大の眼目であって、他人を言い負かすことではなく、他人の意見を封じ込めることであってはならない。個人の利害得失を論じることは易いが、物事の相対的価値判断は難しい。そして福沢は世間に対して、前進するつもりがあるのか旧態依然にとどまるのか、文明を追うつもりなのか野蛮に返るのか、もし前進するつもりなら本書も何かの役に立つだろうと宣言します。

2) 西洋の文明を目的とする事

本書の緒言において福沢は文明論を「文明論とは人の精神発達の議論なり。一人の精神発達を論ずるに非ず。天下衆人の精神発達を一体に集めて論ずるものなり」と定義する。そして議論は文明の比較検討を行い、その利害得失を判断するものであるという。もちろん議論は各人の意見を述べるものなので一様な結果が得られるわけではない。世間普通の人は智と愚の中間にいて、智者の鞭撻を得て進歩する。だから今日は意見が合わなくとも、他日を期すのが議論の進め方である。強引に説得したり、やり込めたり、黙らせたりしてはいけない。もし人に進歩する意欲があるならば議論は有効であると、福沢は本書が議論の一助になることを期待すると宣言して本書は開始される。まず世界の国々の文明状態を3段階に分けると、野蛮、半開、文明となるが、区別は相対的でかつ文明国といわれる西欧でも野蛮な人はいくらでもいる。絶対的な文明状態は定義できないが、今の西欧諸国をもって文明国と満足せざるを得ない。福沢は文明国を目指すものはヨーロッパの文明を目的として設定せざるをえず、そこで利害得失を論じようという。本書の冒頭で、ヨーロッパ文明を日本の手本としようと宣言した。これに対して国ごとに選択肢はいろいろあるのではないかという批判があり、これに対する福沢の答えは、半開国の日本にとって選択の範囲はあるが、文明には外に現れる形をまねるものと、うちにある文明の精神を学ぶものがあり、前者は易しく後者は難しい。だからヨーロッパの文明を目的にするというは文明の精神を学ぶためである。文明の形は国により歴史により様々な形をとるものである、これを100%まねるわけではないと福沢は強弁する。ヨーロッパの文明を求めるにはまず人心を改革することが第一で、人の天性の働きに従いこれを妨げる障害を取り除き、自ら人民一般の智徳を促し、その意見を高い意識レベルに高めることである。そして法令の改正を漸次的に行い、妨害を取り除くことができる。昔は尚武の風俗があって、もっぱら腕力の世界であったが、智力を腕力に拮抗させて、人の働きを多方面で発揮させることである。西欧の文明は多事を特徴とし、文明を進めるには人事を忙しくし、需用を繁多にすることが肝要である。ますます精神の働きを活発にすることである。ここに歴史的事実として中国の秦帝国と日本の神政の比較を検討する。中国の古代周朝末期には自由の考えを生じ、諸侯が中原の覇を争う春秋戦国時代となり、言論界も百家争鳴の時代を迎えた。孔孟の教えは暴君の働きを縛る力はなかったので、秦の始皇帝は異説争論を嫌ってこれを禁止した。至尊の力と至強を合わせて独裁制をしいて世界を支配した。そしてただ一つの考えである孔孟の教えのみを広めた。日本では中世以降、神政府(朝廷の事だろう。福沢はそういうが、日本に神政政府がなかったことは後日の歴史の教えるところ)の神政崇拝と武家勢力が合体して、それに儒教の道理が加わった支配が行われた。ここで福沢は日本のほうが中国よりも西欧の文明を取り入れやすかったというが、ちょっと疑問が生じる。中国の専制帝国の力があまりに巨大で人民は無に近かった程度が日本より強ったために、人民の文明化が大きく遅れたというべきであろう。それに中国市場に目付けた列強の植民地化の力が中国自体を蝕んだのであって、アヘン戦争以来の中国の近代化努力は評価すべきである。しかしそれは為政者の努力であって、福沢の言う人民の智力発揚によるものではなかった点で福沢の日本有利説は正しいとみるべきだろう。

ここで「国体」と「文明」が対立概念あるいは国体優先の論をなす人が居る。福沢はこれに反論する。論をなすにあたって第1に「国体」(ナショナリティ)とは、人種、言語、宗教、地理をともにすることが要因ではあるが、最も有力な源因は、一種の人民が同一の生活形態を長年ともにしてきた者の集まりである。国体とは何かをまず分明にしなければない。国体はその国において必ずしも終始一様ではない。国体の存亡とは自国民の政権を維持することである。日本は開闢以来、天皇制は虚名に衰微し、かつ政権はいろいろ変遷したが、外国に支配されこれを主として仰いだことが一度もない。つまり国体は変更されなかったというべきであるとする。国体イコール天皇制支配構造とは福沢は捉えていない。第2に「政統」(ポリチカル・レジチメーション)を人民の許す政治の本筋とする。立憲民主制、立君制、あるいは封建諸侯、宗教などが政権を作ってきた。そして政権は武力・戦争で変わる場合もあり、漸次的に平和裏に変わる場合もある。国体は変わらずとも政権は変わる。第3に血統とは血の系譜を重んじる体制である。つまり国体、政統、血統とは別のものである。日本では国体と血統を混同して捉えている。日本では天皇の血統は連綿として続いているとされるが、血統を保つことはさほど難しいことではない。天皇制自体は長く続いておりこれを廃した政権はなかった。しかし天皇制は鎌倉時代より単なる虚名を保つのみであって、天皇制が政権を握ることはなかった。政統も血統も国体という器が他国によって奪われなかったkとにより盛衰をともにしてきた。自国の政権を失わないで維持するためにも古来の伝統にとらわれないで西欧の文明の精神を取る必要がある。虚位に終始する古来の伝統よりも、その国の政権を維持して国体を保つために政府が存在し、それが政府の実の役割である。文明の事物を見て人民の民意を高揚し、政府が人民の統合する方法は道理に基づいた約束(法)を定め、法の実威でこれを守らせることだけである。政府が愚民政策をといるならば、政治の力は必ず衰退するのである。そこで国体は文明と反するものではなく、文明の力によって反映するものである。これが福沢の結論である。国体とは外国に支配されない自国民の統合体であるなら、西欧文明を取り入れ国力が上がるなら国体を守る力が増強するという論理である。福沢の言う「国体」という概念は後世の天皇制国体論とは異なる。それにしても福沢の国体論は曖昧で、錯綜しているので言わない方がよかった感があるが、これも時代の制約で国体概念などを持ちださなければならなかったようだ。ジョン・ロックのような社会契約説の方がはるかにすっきりしている。

3) 文明の本旨を論ず

ところで福沢は文明の定義をしていなかった。「衣食住の安楽のみならず、智を磨き徳を修めて人間高尚の地位に上る」という。また文明は限度があるのではなく、野蛮を脱して次第に進むものである。人間は本来社会的動物で野蛮無法の状態から一国の体裁をなすまでのものだという。福沢は言葉を変え文明の特徴をいうが、本書のメインテーマである「文明とは智を磨き徳を修めて人間高尚の地位に上ること」とは、わかったような、ぼんやりした定義に聞こえる。また福沢は文明をたとえ話で解説するが、この解説が福沢節の特徴である。文明とは言えない諸様相を4つ示す。@衣食住は充足しているが、自由はなく人民は牛羊のごとく扱われる。Aアジアの絶対帝政の人民のように、自由がなく束縛されて、活発の気を失い卑屈の極度にある。B自由はあるように見えるが、一国を支配するのは暴力のみで、戦国時代の様相 Cアフリカの人民は社会を知らず、食べるだけの生まれて死ぬのみの野蛮の人種。これらは文明とは言えないという否定の論理で排除し、しからば「文明とは人の安楽と品位との進歩をいう。この安楽と品位とえ終えるのは人の智徳であるがゆえに、文明とは結局人の智徳の進歩と云いて可なり」とするのである。ただ欧州の国々においても無智無徳な性情を持つ人はいるので、たとえ文明といっても欠点は多い。文明の本旨は人間平等であるので、欧州の歴史を見ると貴族階級を打倒して文明を築くのも一つの流れであったが、英国の君主政治でも文明であることはできるし、フランスの共和政治が理想でもないし、アメリカの合衆政治、メキシコの共和政など政府の形態は必ずしも一様ではないがゆえに、政府形態の名前だけでは文明の程度を判定することは難しい。孔子の君臣の義は戦国を修めるには君臣の道を立てることだとしたが、君臣は人の天性ではない。君臣なくとも庶民会議(民主議会制度)で政府と人民の関係はうまくいっている。政府と人民には各々義務があり、その治はすこぶる順調である。まずは人性に合致することが先決である。立君政治はこれを変革してもいいが、要は文明にとって利があるかどうかが大事である。ここでアメリカ型民衆政治の利点と欠点が述べられ、代議員選挙制度の目的である最大多数の最大幸福が、J・Sミルの思惑通りではないことを示す。100人中49人の意見が無視されることもあるということである。そして経済の論理である「利これを争うをもって人間最上の約束」たりうるかということの疑問である。福沢の目は民主主義の欠点や市場経済の問題点の着目しているが、特に疑問を呈するだけにとどまっている。ということで合衆国の政治必ずしも良いとは言えない。政治は文明のに一つに過ぎず、人間の目的は文明に達することで、これに達するには様々な方法があっていかるべきだという相対論を述べるにとどまった。政治、社会といえど歴史の中では「試験中」といえる。無限に文明は進歩するから、試行錯誤して進んでいるといえる。

4) 一国人民の智徳を論ず

文明とは一人の英雄の智徳を言うのではなく、全国の有様を見ることである。福沢がいう「智徳」とは賢明さ(合理的精神)とか人の働きの活発さ(科学・経済・政治・文学etcなど 幅もふくめて)のことをイメージしているようだ。例として一国の富は正直と努力と倹約に基づくとすると、日本の商人の倹約はむしろ欧州の商人より勝っているように見えるが、ところが一国の富となると格段の違いがある。経済道徳倫理の役割と資本主義制度の働きの結合については、マックス・ヴェーバー著 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、またはアダム・スミス著 「道徳感情論」に述べるとおり、影響はあるだろうが直接の因果関係はない。近世日本の商人の倹約の美徳は資本主義に繋がらなかったのである。また人の心の働きの変化は偶然の要因も絡んで千変万化で捉えることも容易ではない。それでも英国のボックルの「英国文明史」に、「一国の人心はは一体としてみるとその働きに定則がある」という説を福沢は紹介する。需要と供給はどこかで交わることを予測することがリスク回避もしくは市場の成立になるという。ボックルはこれを統計(スタチスチック)と呼ぶ。それには理由があるからで、経済学的に近い理由をミクロ(局所)といい、遠い理由をマクロ(全体)という。いわゆる人文科学の初歩を福沢は述べている。適切かどうかは別にして、福沢は蒸気機関車の馬力をたとえ話にして、「時勢」つまり社会全体の勢いについて述べている。次に孔孟の儒学が春秋戦国時代の覇権時代に、周業を理想とする君臣の義を説くことは、時代はずれも著しく諸侯に全く受け入れられなかったことを例に引いている。そそいて日本の鎌倉以後、天下に業をなさんとするものは一人として勤皇の説を唱えないものはいないが、事成る後は一人として勤皇を行う者はいない。勤皇は口実に過ぎないのに、楠正成は後醍醐天皇に味方して、関東武士の棟梁足利尊氏に戦いを挑むのは無謀であると福沢は言う。保元平治以降、天皇は天下の事にかかわる主人ではなく、武家の威力の前には奴隷である。ワシントン、ナポレオン、ビスマルクなどの例を引きながら、英雄が事を行うは天下の衆論の非を正すことから始め、衆論の向かうところは無敵であることを述べる。この章はふんだんに知識を披露しながら講談を進める福沢諭吉の絶好調を聞く感がする。ただしよく見ると例証になっているかというと疑問があり、福沢の新知識に煙に巻かれた人も多いのではないだろうか。福沢は「衆論」とは「国内衆人の議論にて、その時代にあって普く人民の間に分賦する智徳の有様を顕わしたもの」と定義して、衆論の特徴を2つあげる。一つは衆論は必ずしも数でははなく、その力には強弱がある。第2に智力があるといってもこ、れを習慣の力で結合しなければ力とならないという。第1の点は衆愚を集めることが主眼ではなく、国論といわれ衆論といわれるものは、皆中等以上の智者の論説であり、畢竟人民は国の智徳者に鞭撻されて方向を定めらて手力となる。新聞・演説会などがそれで、進退集散皆智徳者に従っている。明治維新は衆論の赴くところに従ったのではなく、遠因として徳川幕府時代への不満が渦巻くことを背景として、廃藩置県をおこない武士階級に給付を絶ったのである。なぜなら武士華族への給付が当時の政府予算の2割を占め(幕府時代の四公六民と同じ)ていたから、新政府は廃藩置県に踏み切ったのである。これはまさに革命であった。明治維新も王政復古が目的ではなく、これを討幕の先鋒に用いただけのことで、王政復古は王室の威力に基づくに非ず、王室は国内の智力に名を貸した。廃藩置県は失政の英断にあらず、執政は国内の智力に促されてその働きを実地に移したというべきであろう。従って人間交際(社会)の事柄は、悉皆この智力のあるところを目的として処置される。愚民の毀誉褒貶は事を処する基準にはならない。福沢は愚民迎合政治は最低であるという。衆論の第二の特徴である智力の結合について福沢のいう所をまとめると、英知を集めことが大切で、そのため衆議、議事院、結社、会社、組織、仕組みなどが必要であるという。そうすることで西洋の衆論は各個の才知よりもさらに高尚で有力な議論となる。一人物では考えられなかったことや、できなかったことが組織によってできるようになる。この結合する力を福沢は「習慣」によるというが、これは経験、伝統という意味ではないか。アジアの暴圧政府の下では徒党を禁じられ、人の衆議は抑圧され、衆人はただ無事のために無気力無智の状態にいた。この伝統習慣を改めることで人の天性を抑圧から解放し、働きを活発にすることが文明である。

5) 智徳の弁

この章は智と徳は別物だということを確認するために設けられた。そして福沢は重要なのは智であることを強調するのである。しかし智と徳という対立的な論の立て方は、今からすると言わずもがなの時代遅れの論であることは否めない。智だけの論じても十分なのに、徳を持ってくると回りくどくて、かえって分かりにくい。またこの章の論の立て方は漢文特有の対句の構成でできており、言葉の対立からくる分類の小気味善さはあるにしても内容は希薄である。時代のなせる技だろうか、福沢は漢文の教養をもてあそんでいるようである。徳とはモラルのことで、智とはインテレクト(知性)のことである。ここから福沢は変な分類を始める。私徳と公徳、私智と公智、小智と大智と分けてみるが、それほど納得性があるようにも思えない。古来日本では徳というと私の徳を指し、そしてそれは受け身であることを至善としている。だから福沢は智の働きは広大で重く、徳の働きは偏狭で偏執だと断定する。徳は偏狭な世界であるが、文明は多事の際に進むものであるので、古のような無事単調に安んじてはいられない。世間の多事紛糾を処理するのに私徳ではいかんともしようがない。だから無用だとして捨て去るわけではないが、もっと重要な智と徳の働きと示そうといって、福沢は徳義と智恵の区別を述べてゆく。徳は人の心の中のこと、智は外に対して働くもので利害得失、比較検討、便利と不便、用と無用、近因と遠因などを考えることである。聡明叡智の働きと称すべきものである。徳としてキリスト教の十戒、孔子の五倫は人間最低の倫理で古来動くものではなかったが、それ以上のものでもなかった。これに対して電気通信・蒸気・製紙工業などは皆後からの知恵で追加されたもので、この発明工夫をなすにあたっては聖人の言葉は必要なかった。という風に福沢は儒教を排しながら、教養としての儒教を誇示するかのように延々と引用してゆく。この辺りは今日では飛ばして読んでもいい。徳は他人の伝習を要せず一瞬に会得するものだが、人生は無智からはじまり、学習によって会得してゆくものである。だから人の智はただ教育にある。ここに福沢は生きる意義を見出して教育者に終始したのであろう。儒教を徹底して排した福沢は、返す刀でキリスト教礼賛に対してもこれを退ける。聖教のみに籠絡されて一生を過ごすのは、天性の智性を退縮させることで、詰まることろ人を軽視し人を抑圧するものである。それ以外の工夫をわすれてしまうからである。信は智を曇らせる。そして福沢はキリスト教は果たして文明と言えるのかという疑問を呈するのである。西欧においてキリスト教を奉じる人のほとんどは文明の風に浴したもので、聖教を読むのみならず、学校教育を受けているので文明人と言えるという。だから日本の徳である神儒仏を愚かとして切り捨て、西欧の徳であるキリスト教を意義があるとする者は料簡違いである。宗教を信じるかどうかは本書の目的ではないとしたうえで、西欧と我国の力の歴然とした違いは、徳にあるのではなく我国が必要とするものは智恵以外に考えられない。キリスト教の宗旨も文明の進展によってルターの宗教改革が行われた。したがって宗旨のことは度外視し、これに介入したり、法で支配しようとするのは天下の至愚という。私徳には疑問が多いタヌキおやじの徳川家康が100年の戦乱を終了し、300年の太平を開いた聡明叡智の働きをもって福沢は家康を偉大な人物と評価する。

6) 智徳の行わる可き時代と場所を論ず

文明は歴史的なものであって、智徳が時代と場所を選択して効能を発揮する(TPO)という意味ではなく、智の働きが極めて弱かった時代と智の働きが旺盛な現代とわけて智徳の働きの特徴を表わし、家族と社会という場所において智徳の働き具合を論じることである。事物の得失・便不便を論じるには、一様にかつ不変として論じることはできない。それぞれ「一時一所」で、それぞれに理由が存在していたというべきである。まず時(歴史)についていえば、野蛮からようやく出始めたころ、人の心を支配していたのは自然に対する恐怖と喜悦であったという。おおよそ天地に間にあるものすべて鬼神の動かすところと信じていた。日本においては八百万の神というところである。このことは自然だけではなく人事(社会)においても然りであった。弱いものは強大なものに依頼し、それを酋長という。酋長は腕力があり、いくらかの智恵があるので弱いものを保護して人望を得ていたが、いつしか特権を握りついには世襲で村長(族長、君長)の地位を伝えた。君長の恩威と愚民の支配が確立すると、すべては君長の恣意的な心が決定することになると、善・不善が中ばし、人民はこの処置に恐怖と喜悦するだけの存在となった。故に一国の君主は偶然の禍福の源となって、君主は人民以上の何物かに転嫁した。中国の太古の昔、堯舜の時代には君主一人の働きをもって、父親、教師、鬼神の役割を演じた。仁君明天子の誉、無為にして恩威を垂れる存在であった。これを「唐虞三代の治世」という。恩威と暴威が背中合わせの時代には、ただ徳だけが社会の理想であった。そして人智がようやく開け進歩して科学の法則を探究する時代となると、人が自然を支配できることが分かり、人は身体の束縛を脱し、精神の自由を得て、暴力支配から合理的(道理)支配に変化し、民衆の力が暴威を制する時代となった。従って政府と人民の力関係も一方的な従属関係を脱し、対等もしくは社会契約的な職分の関係となった。君主制のからくりが分かると恩威に萎縮することは無くなり、代議士と言えど公僕であると考え、政府には税金を払ってこれを支え、人民の福祉に答える存在となった。政府は外国の侵略を防ぎ、世の中の悪を止めるだけの道具ではなく、社会経済的事物の順序(秩序)を法によって保証し、効率的なサービスを行うべきものとなった。これを「文明の太平」と呼ぶ。次に文明の時代に徳義が行われるべき場所を考えよう。結論から言うと徳義が行われるのは家族という骨肉の場所だけであり、人の交際(社会)の場所においては、徳とは縁のない約束事が支配する場所に変わる。友人関係、君臣関係などは歴史的に変幻きわまりないところで、裏切り・反逆・殺戮が常態化していて、徳義が一貫して行われたためしはない。徳が通用しているのは家族内のみで、外に出れば徳の力は急速に失せるのが人情である。代って約束・規則が最重要な戒めとなる。証文、法律、条約などは悪を防ぎ善人を保護するために作られる。規則によって社会関係を整理する際には、個人間の信用など徳義のことは一切度外視される。信が破られた時を想定し損害を補償する新たな信用関係を築くものである。ここに規則とか法律の目的が設定される。規則は悪を防止するものであるが、世の中の人が全員悪人であるわけではなく善と悪が混合しているから、善人を保護するため定めるのである。政府と人民の信頼関係を保証するため、規則煩雑な法の支配を受け入れることが、一国の文明を進めその独立を保つために避けて通れない方向である。福沢は「法律蜜にして国に冤罪少なく、商法明にして便利をまし、会社法正しくて大業を企てる者多し。租税の巧みにして私有財産を失うもの少なし。・・・万国公法も粗にして遁る可しといえども殺略を寛にし、民庶会議・著書・新聞は以て政府の過強を平均すべし」と締めくくった。人智とは自然については科学技術のことで、社会的には法のことか。

7) 西洋文明の由来

本書のこの章とつぎの章の2章では、節ごとに要約的な名称が、番号をつけて先頭におくのではなく、末尾の括弧内に挿入されている。大変要を得た処置なので、そこでこの節に従って内容をまとめてゆきたい。これは福沢の気まぐれか、内容が多岐にわたるための親切なのであろう。
この章は短編で西洋史を丹念に検討したものではなく、福沢はヨーロッパの文明史はフランスのギゾーから引用したという。ギゾーについて調べてみた。フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(1787年- 1874年)は、フランスの政治家・歴史家、首相である。政治家としてよりは、歴史家としての評価のほうが高い。特に文明史においては、独自の概念に基づいた分析を行なって、歴史学を確立している。ギゾーの著書には、「フランス文明史」や「イギリス共和国とクロムウェルの歴史」そして「ヨーロッパ文明史」など優れた歴史書が多い。1812年にはパリ大学(ソルボンヌ)の近世史の教授となり、ナポレオン失脚後、ブルボン朝が復活してルイ18世のドゥカーズ内閣のもとで閣僚になった。1830年、7月革命が起こってブルボン朝が滅亡すると、アドルフ・ティエールらと協力してオルレアン朝のルイ・フィリップを擁して七月王政を行った。閣僚を歴任し1847年に首相となったが、1848年にフランス2月革命が発生して辞任した。以降は政治に携わることはなく、著述に専念したという。ギゾーによると西欧文明の特徴は諸説紛々で一として纏まるものがないということである。政治、宗教、貴族制、神聖政府、立君制、民主制などの説が並立して、各自自主自由の様相であることだ。ヨーロッパ文明史をローマ滅亡後から簡単に振り返る。ローマ帝国は4世紀より衰微し、ゲルマン民族が侵入して帝国は分裂し西ローマ帝国は滅亡した。8世紀に一時フランク王国がフランス・イタリア・ゲルマンを統一したが一代限りで分解した。4世紀から10世紀までをヨーロッパ暗黒時代という。いわゆる中世である。その間に勢力を拡大したのがキリスト教団で、教権と俗権を併せ持った。暗愚蒙昧の時代にキリスト教は大衆の心理を占領した。ローマ時代の都市国家の市民会議の伝統が残るところでは民主制が芽生えていた。ローマ滅亡後各地の諸侯が乱立し後世の君主制のもとになった。ゲルマン人の野蛮は一切の権威に服することなく自由独立の気風が養われた。暗黒時代が過ぎ10世紀から16世紀は封建割拠の時代となった。国に君主はいたが名目のみで、国内は武人によって割拠領土に分割され、自由な人間は領主貴族のみで、国法なく人民の議論もなく、専制を制する力は存在しなかった。12世紀から13世紀には庶民の身体は王侯貴族の制約(俗権)を受け、精神の働きはキリスト教の圧迫(教権宗教)を受けた。このころに宗教の権力が最大となったといえる。都市国家においては商業が盛んとなって城壁を設けて一種共和国の態をなしていた。13世紀にはヨーロッパの自由都市は同盟を結び、王侯貴族政権と対抗して兵を持ち法を作って独立国を謳歌した。これは欧州の民主制のもとになったといえる。15世紀フランスのルイ11世が貴族諸侯を圧倒してブルボン王朝を開き絶対王政が開始された。この時代は王は第3勢力(有力市民)を利用して貴族を没落させ、全国統一の中央集権国家の形成に向かった。1520年ルターの宗教改革によりプロテスタントという宗派が生まれた。この宗教論争は人民自由の気風を反映して文明進歩の兆しとなった。1649年イギリスでは清教徒革命がおき一時王政は廃止されたが、以降は君主政府の態を改め、自由寛大な君民同治の政体となった。英国議会内閣制の政治は漸次改革の風を生み、政権は安定し文明が多いに進んで、自然科学の進歩により産業革命の道に邁進した。フランスでは1643年ルイ14世が即位して絶対王政の絶頂期を迎えた。18世紀になってルイ15世の時代は王政が衰微し、無力無法の政治退廃の時代となった。政体が腐敗するころ啓蒙思想、自由主義思想がすべての学問を改革した。人民の智力が生気を増した時期であった。そして1789年のフランス革命となった。

8) 日本文明の由来

この章はかなりの長編で福沢の薀蓄を傾けたところに違いない。前の章で見たように西洋の文明は、その人間の社会関係(国家政体論)には諸形態が同時並立して、時間をかけて漸く近づき遂に一体化して文明の開化となって、自由が行き渡ったものと理解される。福沢はこれを「合金」に例えて、成分とは違う全く別の特性を獲得したという。単一の成分からなるものが進化発展したものと違って、「3本の矢」のように諸変化に対応する能力がすぐれ強靭な性質を獲得した。文明の自由は買うことはできない。諸々の力の中間に存在して、諸意見を入れ諸力を結集するところに、独りの英雄の智恵に頼る危うさを回避し「三人寄れば文殊の知恵」の民衆合議政治の良さが発揮される。これを政治学の言葉でいうと、政治課題に処するに各利益者の合議とすることで、専制を防ぎ最もいいところに解決策を見出すことである。ところが日本の文明を西洋の文明と比較すると、この「権力の偏重」ばかりが目立つのである。そしてこの権力の偏重とは2極間の権力格差ではなく、ピラミッド型の権力移動でありすべての階層間で悲しいまでの権力格差があり、それに迎合するため卑屈な性が形成されている。自分の天皇はすぐ上の上司であり、自分の奴隷はすぐ下の部下であるという関係の連鎖構造である。これは権力支配の巧妙な分断支配策で、直接の怨嗟はトップの権力者には届かないのである。最高の権力者は霞に隠れて見えないし、上へゆくほど権力の実体は空虚になる。その象徴がかっての天皇制であった。人は上の権力を利用して下を支配する。「虎の威を借りた狐」である。これを福沢は「強圧抑制の循環、窮まることなし」という。以下に日本の権力構造の特徴をまとめてゆこう。
@ 権力の偏り 治者と被治者に分かれる
権力は政府にのみあるように見えるが、よく見ると政府は国民が集まってできたもので、生まれつき首相や官吏である人はいない。これらは偶然に選ばれた人である。政府の役についたとしても別にその人が変わったことではない。権力を使う位置になるやいなや権力をほしいままにしたいというのが、権力者の通弊である。この議論で行くと権を恣にして権力の偏りを招くのは決して政府のみではなく、全国人民の気風である。政府にある者は人民を治めるもので、被治者を下にみるのはアジア・日本の悪習である。日本の文明は治者と被治者をはっきり分かつことで、この悪弊が社会の隅々まで貫徹していることである。
A 国力 王室に集中する
身体能力が大きくかつ富を有するときは必ず人を制するの権を獲得する。この日本の文明を行う権力は一人政府に在って、人民はただその指揮に従うのみであった。古来律令制の時代より日本全土は王室のもので、王室は自由に人民を使役した。さらの王室と人民の間を細かく分ければ、それぞれに権力の偏りがあった。
B 政府は変わっても国体は変わることはない
保元平治以来国権が武士階級に帰したと言え、それは治者の中での移動に過ぎず、国司から守護地頭の職に移っただけのことである。治者と被治者の関係は依然として上下関係にあって昔と何も変わっていない。応仁の乱以降の戦国の世にあって、武人の世界には栄枯盛衰があっても、百姓には関係のないことで年貢の納め先が変わるだけのことである。日本歴史とは王族の系図を詮索することで、日本国の歴史はなくて日本政府の歴史であった。これは学者の怠慢で日本の一大欠点をなす。王室の律令政府は500年間続いて、次に北条・足利・織田・豊臣・徳川らの武家封建政府が約700年間続いたことになる。この間日本では宗教も学問も商業貿易も悉皆政府の専断の中にあった。
C 日本の人民は国政にかかわることはなかった
治者と被治者の間には高い障壁があって両者に交通がなく、日本は平安時代、数百人の藤原貴族と数十人の皇族が支配し、それ以外は被治者えあった。宗教も学問も治者層のために使役され、富も才も美も栄華もともに治者の独占するところであったことは文学作品に如実に表わされている。被治者はこれらからは安全に阻害されていた。戦争は武士と武士との戦いで、人民と人民との戦いではなかった。「日本には政府在りて国民なし」と福沢はいう。欧州では戦争で国土を取ることは難しくいくらかの権利を奪うに過ぎなかった。日本では戦争に勝てばその藩の領地を奪う(藩主が変わるだけ、年貢を受け取るだけの不在藩主もいた)ことは容易であった。
D 国民は一度も独立市民の地位を求めたことがなかった
たまたま民間に才知ある人物が出ても、自分の位置においてこの智徳を発揮することはできなかったので、その身を脱して他の境遇に移った。こうした上昇を重ねて天下を取った木下藤吉郎がその一例である。それは蛇の脱皮であって、自分の位置の勢力拡大ではなかった。それでも平安律令社会では生まれ筋だけが決め手であったので才知に応じた奇跡的な上昇は不可能であったにで、戦国時代は身分性がかなり弛緩したというべきであろうか。しかし被治者が被治者の位置で権力をつけてゆくのではなく、治者の世界へもぐりこむことで変身していったというべきである。下剋上の限界もここにあった。欧州の独立市民は人の世話にならずに(権力筋に取り入ることなく)商売を伸ばし、商売を保護育成するためインフラを整備し軍隊を持ち、近世にいたって中産階級の人々は議院を起して、自分の地位保全と圧政を抑制した。戦国時代に堺や京都の商人の活躍はまさに独立市民の誕生かと思われたが、資本主義を生むに至らず徳川幕府に抑圧・窒息死された。残ったのは大阪や江戸の権力筋に取り入った吝嗇金融業者のみであった。それが明治維新後に生き残り、専制政府の御用商人となって財閥を形成したのである。こうして日本は開闢以来独立市民のことは夢のまた夢に終わった。
E 宗教はいつの時代も権力のためにあった
神道はいまだ宗教の体をなしていないので、日本で文明の一翼をになったのは仏教であった。しかし仏教は導入の最初から治者の道具であった。中国の唐の文物知識をえるための口実であったり、当時の名僧知識は官位を身に着け、天台、真言密教は国家宗教であった。また多くの皇族親王が荘園(手切れ金、持参金)付きで寺に下ることも多かった。日本中の大寺院は天皇家・摂関家あるいは将軍家・執権家の建立になる。寺院の大伽藍は権力の象徴として存在した。戦国時代の城のような存在であった。従って大伽藍はいつも戦争で焼かれる運命にあった。それは権力そのものであったからだ。日本では宗教の宗旨で戦争は起きたことは一度もない。宗教者の独立の精神がいかに希薄だったかを物語る。僧侶は政府の奴隷で厳しい制約を課せられていた。織田信長は中世宗教者の保守性を嫌いこれを焼き殺したが、真宗派の一向宗のみが激しい抵抗を示した。しかしこれも徳川幕府に取り入って本願寺派(徳川家康は浄土宗だったので)は国家宗教となって幕府の保護を受ける身分となり、皇族と婚姻関係さえ結んだ。本来大衆宗教である本願寺派も治者の仲間入りをなした。宗教組織は檀家制度によって幕府の戸籍係の末端を担った。幕府の大衆支配と大衆宗教が手を握ったという、宗教独立放棄の生き残り政策であった。
F 学問には権力はなく、専制権力の独占事業であった
日本の宗教に独立心がなかったように、儒道学問も最初から政府の公営事業としてスタートしている。平安時代嵯峨天皇がが勧学院を貴族子弟教育のために作って漢学を学ばせた。鎌倉室町時代に至るまで、民間で文字を読める人はいなかった。文学は全く僧侶が担うことになった。京都五山の禅宗は一大学問の府であり、学問のみならず宋、明貿易によって栄えた。僧侶の学問独占体制によって人民を暗愚の位置に押し込んだのは、仏教と儒学のせいである。日本の学問はいわゆる治者の世界の学問で、しかも政府の一部分にすぎなかった。江戸時代に在って、民間に国学者神学者が現れたが、学者の団体結成はなく学者間の議論の場所もなく人民の力となることはなかった。徳川時代に学者の志を得たのは政府諸藩の儒学者であった。彼らが官位を得ていること医者(典医)と同じであった。大学者とはもっともよく政府に用いられた者のことで、学識功績をいうのではない。幕府の儒学を独占した林家、藤原家みたいな御用学者をいう。学芸(学問や芸術)というもっとも才能のきらめきを尊ぶ分野においても、血筋に伝習される家芸となって権威を獲得した。梨園とおなじ形式である。これらは幕府を頂点とする権力権威のプピラミッド構成をなしている。いわゆる精神の奴隷として、今にいて古の道を学ぶのみで、その古道をまた伝えて今を支配し、「人間社会に停滞の害毒を流したのは儒学の罪というべし」と福沢は糾弾する。ただ儒学は精神トレーニングとして論理鍛錬の場となった儒学の功績は認めている。
G 戦国武士に独立の精神なし
古来日本は武勇の国と称し、武士は自由の精神にあふれているかのような誤解を生じている。じつはこの武士の気象は一身の精神から出たものではなく、ゲルマンの野蛮人のような他を頼まない独立不羈の精神とは程遠い代物であった。「武士道とは死ぬことと見つけたり」(葉隠れ)は太平の江戸時代の美学にすぎない。「結果オンリーの何でもあり」という代議士候補者のごとく、場当たりのご都合主義の裏切り、卑屈、闇討ちなど悪徳渦巻く世界であった。幕末でさえ「勝てば官軍」という言葉で、勤皇攘夷の志士の悪党振りを正当化する論理が支配した。戦国時代群雄割拠の勢いは増し、領土拡大に努めた武士の面目とは、いつかは京都にゆき将軍・天子に拝謁して、その名義を利用して天下を制圧しようと野望に燃えていたことである。そのため詐欺偽計は日常茶飯で、表に忠信忠義を唱え、児戯に等しい名分を策の中心とした。日本の武人はただ権力偏重において養われ、上は藩主から下は下級武士にいたるまで汲々として人に屈するを恥とも思わなかった。上に接すれば、板敷に頭を擦り付けて懇願平伏し、下には傍若無人に当たり散らすのが武士の骨頂と心得ていた。西欧の人民が自分の地位のまま、人に頼らず努力して地位を拡大する気象とは著しい差異がみられる。日本の武人には独立一個人の気概乏しく、すこぶる卑劣な所業を平気で行う破廉恥な輩と見える。
H 権力偏重ならば治世乱世ともに文明は進まない
日本の統治は古来、治者と被治者の2つに分かれて、権力の偏りが著しく今日に至るまでその大勢は変わらなかった。日本で国家というとそれは国民の家という意味ではなくて、権力者の家族や家名のことであった。お国の為と称して天皇家のために尽くすことであった。日本に家はあったが国はなかったということもできる。大陸から離れた島国であったために他国から侵されないでいた地理的な国はあったが、国民全体を治め富ませる意味の国家は古来存在しなかった。大陸と地続きの朝鮮など周辺国家が、中国王朝の興るたびに反抗する意志はなかったにもかかわらず、まさに儀礼的な軍の侵略を受けて属領たる地位の確認をされていたのとは大違いである。むろん日本も国書を中国王朝へ送って従属を誓ったことはあったが、日本列島に中国軍が進軍することはなかった。このため日本という国が存在したと錯覚を持つのは当然としても、実質的な国政府の機能はなかったというべきである。官僚機構というもそれは家の執事の拡大で、産業といっても家の御用を満たすだけのぜいたく品製造所にすぎなかった。幕末の薩摩藩や長州藩の殖産興業とは幕府への実力を養うためで、殖産興業という言葉が国民のために存在したのは明治以降のことである。おおよそ権力の偏りの政治は古来徳川家が一番巧みであった。諸侯を制するためさまざまな制度が考案され、ただ徳川家の安泰のために利用された。徳川の治世をみると人民は権力の頂点に専制政府を抱き、世の中の人民は士農工商という身分の箱の中へ押し込められ、一人一人が壁で囲われているようであった。人民は自ら難を侵してまで事をなすの勇気はなく、運動力を奪われて停滞の淵に沈んだ。人民に気概がないなら治世と言えど乱世と言えど、文明は決して進むことはできない。
I 経済二則 蓄積消費、理財の働き
権力の偏重の弊害は経済の進展にも影響を与えた。この章は経済活動(蓄積と投資)と理財管理について述べる。福沢は100年前のアダムスミスの「国富論」(1776)を読んでいただろうか。この章の論点は何の書に基づいているのだろうか。「文明論之概略」は経済書ではないとしても、文明から見る経済学概論としてもやはり突っ込みが浅い。また漢文の素養が幸いなのか災いをしているのか、論調は漢文の対句を利用して軽快に見えるが、本来対立して用いるべきでない概念の組み合わせは、人はまず2元論的に対立するかのように捉えるので帰って理解しずらいことになる。特に経済の言葉概念は互いの関係を見るためであって、対立させるべきではない。経済学の述語は関数の変数とみるべきで、しかも一次変数関係(線形)でないところが複雑怪奇なのである。とはいえ福沢の経済用語をあえて解釈すればそれは常識的である。経済には2つの法則があるという。一つは蓄積・費散、二つは理財であるという。第1則の蓄積・費散とは企業活動による資本の蓄積と、費散とは拡大再生産のための設備投資である。(福沢は費散を消費と考えているようだが、消費は労働分配に入れるべきである。) 第2則の理財とはこの蓄積・費散を管理する智と習慣であるという。とにかく国の富はこの蓄積・費散とを盛んにすることである。これを国財といい、これには全国の国民の働きによる外はない。政府の歳入歳出もこの国財の一部である。ここから福沢は歴史的に政府の収入すなわち租税制度について概括する。古代より日本の租税は甚だ過酷であるといわれ、徳川時代のはじめに多少は緩和されたが、次第にまた旧の過酷な制度に移った。租税は農民だけが治めるもので、工・商階級は無税であったかというと、過当な競争にさらされてりはほとんどなかったといわれる。欧州ではこの階層から産業資本が蓄積されたのだが、日本では吝嗇な金貸し業しか生まれなかった。これに依って武士のぜいたくな生活が支えられ、幕末には年貢だけに頼る武士の貧困化が進んだ。生産階級は農工商で、消費階級は武士であった。徳川時代の武士の財力に頼る寺院の大伽藍建設も公共工事のようなものであったが、幕府の威力を示すのみで生産のためのインフラ整備に投資されず、全国経済の様子を見るとその進歩の遅いことは、西欧の産業革命後の経済発展に比べたら愕然たる差を生じた。封建徳川の治世で大乱なく比類なき太平の世にあったが、全国経済においては金と物資が流通せず閉塞状態でいわゆる「労症」の状態であったという。経済第2則の理財(国家財政)の要とは、活発な流通と投資、節約勤勉の力によるところ大で、蓄積・費散の拡大を図るものである。古来日本の理財は何時も治者(武士)の関わるところで、「出るを知りて入るを知らず」というありさまで、消費するだけで蓄積することを知らなかった。浪費乱用の幣を免れなかった。上流武士は理財(銭勘定)を恥とした。一方百姓町民の身分では私財を蓄積し産を生むことは誰も妨げなかったはずだが、富がある目的を達する手段とは考えず、ただ富を積むことだけが目的となっていた。だから事業は拡大せず大資本は成立しなかった。ためた銭は武士階級への高利貸しとなって消えた。これをまとめると、「被治者の節約勉強はその形を改め貪欲吝嗇となり、治者の活発敢為はその性を変じて浪費乱用となった」という。たとえ税率は高くとも、理財を投資すれば国財の一部となり国は富むはずであるが、いまだに日本が貧乏なのは財の乏しきには非ず、財を理する智力が乏しかったためである。明治維新後の日本の資本主義形成に民の立場から推進し「日本株式制度の父」と言われた実業家渋沢栄一氏と民にいた教育者福沢諭吉氏の間には接点がなかったのだろうか。渋沢栄一自伝「雨夜譚」において渋沢の理想と福沢の言っていることは同じである。

9) 自国の独立を論ず

「学問のすすめ」第3編に、 「国は同等なる事」、「一身独立して一国独立すること」が書かれている。「文明論之概略」のこの章もかなりのページ数を費やして自国の独立について述べている。日本は西欧文明を取り入れることを国是とするといいながら、そのためには日本国が存在することが最前提となるのは自明の理である。福沢は中国や朝鮮の近代化を論じているわけではないからだ。しかし圧倒的な文明(科学技術と経済力)を持つ西欧列強と交際するには、よほど注意しないと貿易や軍事的に不利な立場に追い込まれ、ついには植民地化されることも心配されるのである。植民地化されれば、インドにみるように列強によって野蛮な単一生産を強いられ、近代化が遅れ格差が固定化される可能性があった。鎖国を開き自国を近代化するためには、自力で立ち他国に制約されないために、まず独立していることが第1条件であることは論を待たない。福沢は当たり前の「独立論」が旧態の皇学者、儒学者に誤解されないように(今でいうと右翼国粋主義者のいう皇国史観に籠絡されないように)、歴史的に近代国家の独立の必要性を正してゆくのである。今ではくどい表現となっているが、当時福沢は大まじめにこれと闘っている。「我国の文明の度合いは、自国の独立さえおぼつかない状態にあることを心配するからだ」と福沢は章のはじめに述べている。徳川封建時代には君臣の義が人間社会のすべてであった。我国の人民は数百年間天子の存在は知らなかった。明治の王制一新は、千数百年前の大義名分を突如思い出したからではなく、幕府の政を改めるために起こった。明治の人民と皇室との関係は政治上の関係であって、皇学者のいう国体論は懐古の情であり人民を文明開化に導くことではない。一方キリスト教を導入して文明開化を進めようとする極論もある。福沢はキリスト教の教義のことには口を挟まず、人間社会活動特に貿易・外交・戦争には宗教は関与しないと考えてこれを排除した。宗教を広げて政治上に及ぼすことは1国独立の基をあやまることになる、今でいう政教分離政策である。また漢学者(儒学者)の言う礼楽征伐をもって人民を御することで、専制政府あるのみで民を考えず、官あるのみで私を顧みない論である。人民を卑屈隷従せしめる愚民政策となる。外国がなぜ日本に来るかと言えば、それは貿易の為である。未開半開の国から一次産物を安く仕入れて自国で加工する2次産業を持つからである。一国の貧富は意外と資源の多寡にあるのではなく、人の労働(付加価値)による製品によって決まる。これはマルクスの言う労働価値説である。加工することで〈人の労働が加わこと)製品価値が高まるのである。当時日本の唯一の貿易品と言えば横浜から輸出される絹糸であった。これがフランスのリヨンで高価な絹製品に変わるのであった。

当時(19世紀後半)英国の国力は世界最高レベルにあり、人口3千万人を擁していた。文明が進むと人口が増えるのは当然で、イギリスは世界貿易、アメリカなどへの移民、金融資本の海外進出を3本の柱とした対策に出ていた。移民や海外進出で外国の地でトラブルを起こすよりは、外国へ金融することは特に英国の金が見えるわけではなく、金利だけの問題で大変知恵のある方法であった。このあたりの論は国際金融経済の巧妙さを提起したまでで、特別本章の「独立」に関係することではない。話を日本に戻すと、維新後人民同権の論議は甚だ盛んであるが、幕末に結んだ通商条約が極めて我国にとって不平等であることを知る人は少ない。アメリカのペリー総督が5隻の軍艦を引いて浦賀にやってきて商売しなければ攻撃すると脅かし、それが横浜など5港の開港となり次々と5か国と不平等な通商条約を締結させられた。居留地、内地旅行、外人雇い入れ、税などの案件について我国は対等の権利を失った。この不平等条約の屈辱は、我国の実力がなく大砲に怯えて恐喝に応じたこと、そして為政者(治者)がその被害をこうむる人民の苦しみを分かっていないことから起きたことである。福沢は英国の植民地インドの例をひいて、インド人の人民が英国人に酷使され、栄達の道をふさがれた状態を説明する。このあたりから福沢の筆は、攘夷論者になったのかと疑うように外国人を酷評する。外国人の制御を受けたなら、日本の人民は残酷酷薄の中に閉塞死するであろうという。外国列強が現地人や先住民を殺し・圧迫し・権利をはく奪した事例をあげ、文明化とは白人の奴隷になる事かと罵倒する。日本においても外国と伍してやってゆくことの困難を知り、国の命を蝕む疾病に侵されないことが重要であるという。文明とは人民の気風のことであるので、独立していなければ何の役にも立たない。国とは土地と人民を合わせた態勢で独立と文明は同意義である。むろん外国人個人の交際は信用できるものであっても、国と国との関係は自然状態(戦争状態 ロックより)である。そこで福沢は国民に臥薪嘗胆をとき、まず日本を文明化し科学や社会組織を充実することが先決である。今の日本では総力において外国と戦争できる状態にはないのである。外国から軍艦や大砲を買ってくることはできても、圧倒的な経済力を買ってくることはできない。攘夷の論、皇学者の国体論、漢儒学者の君主論では明治の人心を維持することはできない。目的を決めて文明化に進む以外に道はない。その目的とは独立を保つことである。独立を保つ術策は文明しかないと福沢は結論した。古来日本が独立を維持できたのは、国に独立の勢いがあったからではなく、偶然敵が日本という島国を攻めてこなかったに過ぎない。神風が吹かず実力で戦えば負けたであろう。最後に福沢は面白いことを言った。「皇学の国体論は民権の為にはよろしくないが、政治の中心を決めて行政を効率化するのは便利な道具だという。民権論は立憲君主制には害があるが、人民卑屈の根性を一掃する効果があるという。」 一体福沢の真意はどこか測りかねる発言である。


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