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井手英策 著 「日本財政 転換の指針」

  岩波新書 (2013年1月20日 ) 

財政再建は普遍主義から 受益と負担を考える新しい財政グランドデザインを提言

今や政府の無駄使い、経費削減、公務員の非効率が財政悪化の元凶といわれ続けて久しい。しかしこれはミスリードで財政を更に悪化させる元凶となっているという出だしで本書が始まる。民主党内閣では事業仕わけで政府支出のムダを排除するというが財政が良くなったことはない。再生安倍自民党内閣では国債輪転機のフル回転と日銀の財布の紐を開放して経済が良くなるという単純極まりないミスリード政策が行われようとしている。経済成長が望めない停滞時期に緊縮財政で財政を再建することが本当に社会にとって共通の正義なのだろうか。緊縮財政で先ず減らされるは福祉予算である。そして犠牲にされるのは社会の絆である。出現するのは格差社会である。緊縮財政は「痛みを分かち合う」政策といわれるが、ジリ貧を加速させるだけのミスリードに過ぎないのでないかという常識を覆す論点が提出されるのである。この世の中を動かすものには、市場という経済、国家の財政(政治も含まれる)、社会の3つの当事者がいる。国は市場の失敗の尻拭いをするために存在するのではない。グローバル金融資本は国民の貯金を奪い去る破壊ビジネスに狂奔しているが、経済や市場の事を述べるのは本書の主眼ではない。国の財政は何の為にあるか、財政の理念を考えることである。しかし財政(具体的には財務省の仕事)を考えるに当たっては、政治、経済、社会のことが密接に絡んでくる(もっといえば、それらの正義を実現することが目的)。「財務省(大蔵省)は論理の番人」という人がいた。財政の入り口(徴税)と出口(一般予算と財政投融資)の正義(大義)を司るのである。それが国家そのものである。新自由主義者のキャッチフレーズ「小さな政府」とはあまりに矮小な表現で貧弱な発想しか生まない。私企業に政府の役割が出来るわけが無く、あのキャッチフレーズは冷戦終結後の軍事費縮小の事に過ぎない。人々は財政破綻(累積国債発行額が1000兆円にせまり、世界第2の借金大国となった日本のこと)や、ギリシャのような国債暴落という警告の言葉に脅え、節約こそが社会の共通の善だと思い込まされてきた。日本では1995年11月「財政危機宣言」を出し、土地バブル崩壊後の財政危機の前に20年近く立ちすくんできたのである。

財政危機の原因の一つとして、無駄な財政支出にあると考える人もいるが、それは事実ではない。なぜなら政府支出(一般会計と地方支出)は1970年以来一貫して増加の傾向にあったが、1990年以降ほぼ横ばいに抑制されてきた。ではなぜバブル崩壊後に財政赤字が顕在化したのかというと、一般会計に占める租税の割合が急速に低下したからである。財政赤字の原因は税収の減少にあった。1990年以降所得税減税、法人税減税が景気対策上繰り返し行なわれた。1989年の消費税導入は所得税と法人税の減税がセットになって成立した。2012年8月消費税率を10%に漸次引き上げる法律が通過した。こうして減税の財源を得るために増税を行なうという奇妙な組み合わせが選ばれた。これは企業側の脅し(経団連の圧力)に屈した政府の苦肉の策であった。こうして日本では30年以上純粋の増税が実施されてこなかった。ではなぜ政府は増税が出来なかったのだろうか。選挙で増税を論点にすると政党の支持率が落ちるからである。政治家にとって選挙を前に増税を持ち出すことは愚作であった。ではなぜ増税を持ち出せなかったのか。それは人々が国家への「不服従」の態度表明である。国家の財政面での権力は、徴税権と通貨発行権である。通貨発行権は日銀が行なうが、選挙民の圧力は心配しなくていい。徴税権は国会承認事項であるため民主主義の裁き受けなければならない。日本の租税負担率は先進国(OECDより18カ国)では最低の水準である事を頭に入れて、国民が納税を嫌がる社会とはどうして出来たのだろうかを考える。「国際社会調査プログラムInternational Social Survey Programme2006」より、各国のアンケート調査結果を比較すると、
@中間層の痛税感(租税が高すぎると感じるは50%以上)は先進国の平均より明らかに高い。
A政府への信頼度は先進国では最低である(信頼するは40%以下)。
B社会的信頼度も先進国では最低(他人が信頼できるは30%)である。
どのような統計データを採用するかは恣意的である事を免れないが、これらの事から浮かび上がる日本の税制と政府・社会への信頼度は極めて低いといわざるを得ない。これだけ信頼度が低いと国家・社会は崩壊しているかもしれない。国家は国民を統べる正統性を喪失しているというのは言いすぎでもないようだ。

租税の負担と痛税感は同じではない。北欧では税負担は極めて高いが、国家・社会への信頼度も高い。国民は高い税を負担と感じないで社会のあり方に満足しているようである。税が借金(国債など)の返済や、低所得者(税を払えない人々)への再配分ばかりに用いられれば痛税感は高まる。ようするに痛税感は「受益と負担のバランス」で決まってくる。税の負担率がおなじでも人間としてのニーズが充たされない社会では、税の負担感が強まる。政府への信頼度で表される日本社会の政府への抵抗が財源の確保を難しくしている(増税を唱える政治家を選挙では支持しない)。財源不足がますますニーズの実現を難しくするという不幸な連鎖(負の連鎖)のなかで、ムダの削減、財政の健全化だけではさらに財源を縮小する。政府への不服従が租税抵抗となるのである。低所得者・高齢者・公務員など特定の階層を狙い撃ちする格差社会は「寛容なき社会」を生んだ。1990年代後半から労働配分率の低下傾向が強まり、所得平均額は96年の661万円から2009年には549万円に低下した。人々の生活水準ははっきりと低落した。2001年の小泉政権以来経費節減は社会保障の抑制となり、受益なき負担を中間層が受け入れることは難しくなった。また三位一体改革により3兆円の財源を地方に移譲する代わり、9.7兆円の補助金と地方交付税が削減された。こうして地方格差が広まった。中間層は増税による生活の安定よりは、ムダの削減による社会保障費抑制(一般予算)を選んだ。中間層自身が格差社会という絶望社会を生んだとも言えそうだ。逆にいうと税を負担する圧倒的多数の中間層が豊かにならないと国家財政はやっていけない事を示している。民主主義とは本来個人レヴェルでは決められない事を決めるための社会的な意思決定方式であり、もともと意見の対立を前提とした社会のことである。低所得者の救済のためにこそ中間層をより豊にしなければならないという逆説、これを「連帯のパラドックス」と呼ぶ。格差社会は社会を分断し、不信社会化という社会の危機となった。それらが財政危機の原因となったといえる。J・デューイは「人々の集団が社会を構成するには、人々が目標と経験を共有する、すなわち共通の理解がなければならない」といった。だから再配分が必要なのである。だから格差社会は民主主義と社会の危機となったのである。

次に社会正義の話しをしよう。自由主義者(リバタリアン)は再配分を真っ向から否定する。市場で獲得した分配の結果は常に公正だという。しかし資源の分配は獲得した分だけ、人の資源を奪ったのである。正当化の理由としての「努力」は「運」と「格差」から来ている事を隠している。リバタリアンは課税は所有権の侵害であると叫ぶ。アリストテレスは「分配の公平」には「比例的正義」と「矯正的正義」があるといった。比例的正義とは自由主義者の論である。財政が所得配分の是正(矯正)を行なうのは貧しい人を救済することにあるのではない。これは自由主義者の市場の失敗を補完するための道具では無いからである。自由主義者は慈悲で貧しい人を救うという考えを持つ。財政の目的は人間の尊厳を傷つけない形で分配の公平を実現する事にある。ここにいう人間の尊厳とは物質的なことだけではなく、社会から認められる存在として扱われることである。「分配の公平」を実現するにもいろいろ気を使わなければならない。所得の少ない人を選別して証明するいわゆる「ターゲッティズム」(行政でいう生活保護世帯の認定)では差別になる。弱者への配慮を可能な限り人間の尊厳と両立させるため、ユニバーサリズム(普遍主義)に基づく財政という基本理念が必要である。「ユニバーサリズム」とは人間共通のニーズに答えるため、人間を収入の多寡や性別では区別せず等しく扱うことである。ユニバーサリズムでは中間層を含めあらゆる階層が受益者となる(子ども手当てで所得制限を設けない)。中間層の受益感が強められ、納税も自らの利益と結びつく。納税を所有権の剥奪ではなく、自身の受益に繋がると考えられるのである。税は共同社会の講と同じであり、少ない掛け金で必要なとき必要な人が益を受けるシステムである。誰も出し惜しみはしない。格差社会で低所得者の利益を削減することは中間層自身の利益の削減となることを、けっして忘れてはならない。ある階層を不幸にするとブーメランのように自身にも不幸は降りかかるのである。「分配の公平」から「尊厳の公平」へという財政理念の方向性が示された。日本型福祉国家像を描くことが本書の狙いであるという。北欧はユニバーサリズムに最も近い財政を構築し、社会的信頼度も高い。「One for All All for One」ではなく「All for All」の精神である。簡単な計算でも、課税と給付という反対のことの率を所得にかからず定率にする事を考えてみよう。低所得者の税金は所得が少ないので少なくなり、一律給付では所得に比べて大きな割合で給付がもらえる。高所得者はその逆なので、最終格差=高所得者の最終所得/低所得者の最終所得は当初所得格差に比べて低下する計算となる。給付面と課税面のバランスがうまく行われることが必要であるが。再度繰り返すと、財政再建を経費節減だけで考えると負の連鎖に陥りますます納税が減るというジリ貧となる。原理原則は異なるが、これが市場での「デフレスパイラル」と相似する。なお不況から脱する道は本書では扱わない。本書は経済成長が止まった状況での財政再建の話であり、右上がりの経済成長を再度夢見たい第2次安倍内閣の財政再建の話ではない。

著者 井手英策氏について巻末より紹介する。1972年福岡県生まれ、1995年東京大学経済学部卒業、東北学院大学、横浜国立大学を経て2009年 慶應義塾大学経済学部准教授となる。専門は財政社会学、財政金融史だそうだ。大学では財政社会学を担当している。財政社会学とは、政府が国民から税を徴収してその使い方を議論する財政学の成果を踏まえて、政府と国民との間の双方向性や、相互作用、その結果として政策が社会の変化に及ぼした影響といった動態を歴史的に分析していく学問。 慶応大学井手英策研究会のホームページに「財政社会学の醍醐味は、財政と社会の関係を通して社会の変化の胎動を読み解くこと」であると述べている。主な著書には、「財政赤字の淵源ー寛容な社会の条件」(有斐閣 2012)、「雇用連帯社会ー脱土建国家の公共事業」(岩波書店 2011)などがある。2008年 「高橋財政の研究 昭和恐慌からの脱出と財政再建への苦闘」で東大経済学博士号を授与される。

1) 土建国家の成立ー戦後日本財政の特徴と失敗

今日の財政赤字が蓄積した理由を、戦後の日本の財政の特徴と失敗の核心から考えよう。OECD資料からみても、日本の公共投資が国際的に突出していることは明らかである。公共投資の対GDP比を見ると、1970年前半オイルショックによる不況対策のため各国の公共投資が一時的に増大した。しかしそれ以降先進各国の公共投資比はほぼ3%(イギリス、ドイツは一貫して2%程度)に抑制されてきた。然るに日本の公共投資比は1980年以降増加させる方針を採った。80年代後半は多少抑制されたが、1990年代になると公共投資の対GDP比は6%を超えた。欧米の2倍を越える比率で公共投資が実施されてきた。これを「公共投資偏重型国家」あるいは「土建国家」と呼ぶ。1970年前半は日本は福祉元年を迎え、福祉国家か公共投資偏重型国家かの分岐点にあった。どこでどう間違ってしまったのかを考えなければならない。日本財政の公共工事優先政策の始まりは昭和初期の高橋是清蔵相による膨張財政(前年度33%の予算増加が匡救事業に向けられた)が有名である。戦後は軍事費が無くなったので財源を大規模な復興公共事業に振り向けることが可能となった。高度経済成長期には池田内閣の「所得倍増計画』に乗って、公共事業は企業の経済活動の基盤整備に向けられた。高度経済成長期に全国総合開発計画が始まり、1960年代末には公共投資が重点化し地方への公共投資も増加した。1970年代には住宅・道路・下水道といった都市部の財政ニーズが高まり、年金と医療の充実が強く求められた。1972年に成立した田中内閣は医療を始め社会保障政策を打ち出し、一般予算で福祉関係が公共投資関係を上回る「福祉元年」といわれた。1971年ニクソンショック、1973年石油危機などの経済危機が起った状況で、公共投資を求める政治圧力が強まり、福祉国家への道が閉ざされてしまったようである。日本独特の公共投資財源がある。それは「財政投融資」(特別会計)である。一般会計で見る限り1970年以降社会保障関係費は一貫して増加傾向にあり、2000年以降は20兆円を越している。一般会計の公共事業関係費は1980年代は15兆円台で抑制され増加はしていない。1990年代バブル崩壊後のは公共事業関係費はいっきょに10兆円台となった。公共事業の財源を主として財政投融資(郵便貯金・簡保など国民の貯金を活用)が社会保障よりはるかに高い増加を示している。1990年代後半には財投の規模は30兆円を超えた。財政が良く見えなくなったわけである。財投は借入金であるので返済が求められる。福祉関係は給付のように移転的経費なので目立つため、予算を削減する場合まず社会保障福祉関係が削減の対象となる。

1976年に成立した福田赳夫内閣は大規模な公共事業へ大きく政策の舵を切った。それはカーター米国大統領の「日独機関車論」により、実質経済成長率6.7%を実現するように要請されたからである。経済成長の鈍化に入った日本経済にとって、実現不可能な目標に対して、日本政府は大規模な補正予算をくみ、1978年予算において対前年度比で公共事業費を34%、財投で18%以上の増加を組み込んだ。こうして先進国で最も公共投資依存度の高い国の姿が定着した。まさに1970年代後半が日本の土建国家への分岐点となったようだ。国債発行に拍車がかかり、公債依存度も1975年9.4%から1979年には40%と上昇した。1978年に成立した大平内閣は社会保障予算の伸びを抑える方向へ政策を転じた。財政再建のターゲットとして社会保障関係費の抑制が選択されたのである。鈴木善幸内閣は「増税なき財政再建」をかかげ、中曽根内閣も「小さな政府」を掲げるサッチャーイズムを信奉して社会保障費を抑制した。大規模公共事業費は都市・農村の雇用確保という利益配分の柱となった。1990年代にはバブル崩壊後の日本経済を救済するため、公共投資は更に拡大された。農村での近代化・機械化・効率化・大規模経営が進む中過剰になった労働力を吸収したのも公共事業であった。余剰労働力が更なる公共投資が必要となる公共投資依存型の循環が発生した。こうして利益誘導した農村を自党の投票マシーンと化して、公共投資は自民党政治の経済的基礎となった。1970年代より道路族に代表される「族議員」の圧力がかり、公共投資に結びつく予算は各省を通して族議員の「地元」へ分配された。日本の保守政治は、社会保障などによる救済ではなく、公共事業による「働く機会の提供」を重視してきた。これも「ワークフェア」の先駆的形態かもしれない。

「公共投資偏重型財政システム」が1980年代に完成したが、これを税制面で見ると減税による中間層への利益配分とセットになっていた。減税は高度経済成長期から繰り返され、配偶者控除などにより所得税減税が行なわれた。これにより勤労者の貯蓄率を高め財投を通じて資本形成に貢献し、高度成長の牽引力となったといわれる。政府の減税が中間層の貯蓄の増大をもたらし、それが財投や設備投資資金となって、公共投資を容易にし地方や低所得者の配分増加や企業の収益増大につながって、さらに減税が繰り返される「土建国家の全盛時代」の良い循環を形成した。それは何もかも経済成長期であったから出来たことである点を忘れてはいけない。しかし土建国家の凋落は成長が停滞した時から始まった。経済が低成長となる文脈では、政府が全面に出て経済を成長させない限り、利益配分そのものが困難である事が分かったのである。政府にとって減税は極めて重要な施策であるが、その財源が無くなった。所得税の減税財源を捻出するため他の増税を実施せざるを得なくなった。「増税なき財政再建」では出来ることは赤字国債の発行と行政費の削減だけである。こうして建設国債急増の歴史が始まった。ところが1994年予算以降、ふたたび大規模な減税が繰り返され、公共投資とセットになった建設国債の大量発行という土建国家の枠組みが全面化した。経済の停滞局面にあって増税が難しいなか、借金(国債)をして減税を行うというスタイルが定着した。所得税や法人税の減税財源として消費税がターゲットとなった。消費税には低所得者には過酷な「逆進性」があり、欧州ではさまざまな減免措置が講じられている。消費税に頼っては、増税はますます難しくなる。土建国家が成長をなくしたら、分配を通じての社会統合を行なうには借金しかない。分配を停止したら土建国家は崩壊するのである。

2) 経済停滞による土建国家の零落ー日本社会の何が壊れたのか

この章は財政という政治経済学と社会の関係を論じる。どちらかというと社会学の分野に近い。日本社会の変容と土建国家の崩壊の関係が論じられる。日本社会の特徴を「安心」と「信頼」の社会と位置づける説がある。現在、社会や政府に対する人々の不信は深刻である。土建国家の財政メカニズムと社会の関係を、安心の社会制度の崩壊として見ることが出来る。土建国家を支えた安心の社会制度とは、一つは家の論理である。「家族国家」、「ムラ社会」、「経営家族主義」、擬似的な身分制社会構造としての「安定した官僚制・保守政治統治機構」といった社会構造が連帯して働いていた。いわゆる戦後の広い意味での55体制である。政府・家族とコミュニティ・企業と労働者の3者が、連関して支えあっていた。政府は経済成長を背景として健康保険・年金・福祉制度を充実させ、家族が安心して食っていける社会を作った。家族内では女性は無償労働・地域の支えあいを受け持ち、政府は公共投資で労働力確保と生活環境整備に努めた。企業は終身雇用・年功序列で給与スライド制を確立し、企業は住宅手当や子ども手当てなど本来政府の領域までを受け持った。それに対して政府は公共事業や減税・投資資金により企業活動を援助した。このように土建国家の基礎には、家族・コミュニティ・企業といった生産共同体的な秩序が作られていた。今ではノスタルジーかもしれないが、古きよき社会の慣習のうえに土建国家がつくられたのである。ところが人口の大都市圏への移動は高度経済成長期に著しかったが、1975年ごろ石油危機を境に人口移動が止まり社会は一定の平衡になったように見えたが、バブル期の1985年、好況期の2006年をピークとして大都市圏への人口流入が2回起きた。要するに経済活況に応じて人口は都市に流れるのである。この時期地域社会の解体と都市の膨張(地域格差)は、ムラ社会を解体し社会における人間関係の希薄化をもたらした。社会の基礎が揺らいできた。また女性の家離れは顕著になった。介護の社会化に応じて女性の家からの開放と同時に低賃金非正規労働者となって労働市場に出現した。女性問題については上野千鶴子著 「家父長制と資本制ーマルクス主義フェミニズムの地平」が参考になる。社会保障の相当部分を女性や地域の無償労働に頼っていたからこそ、土建国家は減税と政府支出を公共投資に絞り込むことが出来て、小さな政府でありえたのである。

日本社会の変容は家族の問題だけではなく、経済という土台も大きく揺らいできたのである。1990年代には経済のちっかう変動が起きた。それは先ずマクロの資金循環構造の変化となって現われた。企業は金融機関から資金を調達しこれを投資に向ける行動をとってきたのだが、94年ごろから貯蓄傾向になり98年には貯蓄超過になったのである。原因は先ず金融機関のバブル不良債権問題で担保主義が見直され、貸し渋りが生じたことである。そしてもっと重要なことは企業の設備投資が1991年から2002年までゼロで推移した。市場縮小により作るものが無くなったともいえる。企業は金融機関からの調達から内部調達へとシフトした。1997年の金融危機はこの傾向を一層加速した。企業は人件費圧縮で上げた利益を内部留保に回し、「企業の一人勝ち」が顕著になった。1999年から日本でも連結決算、時価会計、キャッシュフロー計算書の特徴からなる国際会計基準が採用された。キャッシュフローは企業の手元に残る資金を重視するので、投資家から資金を調達するのは企業は負債を減少しなければならない。こうして長期経済停滞となるなか企業の純資産が増大するのである。企業の純資産は2010年には500兆円を超えた。企業が先ず手をつけたのは経費節約による資産増加であり、人件費が狙われた。経常利益が増加する中、従業員の給与は1995年より横ばいか減少し、150兆円を切った。小泉内閣による労働基準法改正による労働時間制限の緩和と労働者派遣法改正による一般労働の対象規制緩和により雇用環境は激変した。小泉改革(規制緩和)とは資本側にフリーハンドを与えることであり、労働を人的資源と見るのではなく削減経費と見ることで、企業は労働者を裏切った。1990年代は政治スキャンダルの時代となった。そして大蔵省の汚職官僚スキャンダルも起きて政府への信頼が揺らいだ。2008年NHKの調査によると、選挙民の意思が政治に反映しているかに対して反映しているが60%を越したが、全く反映していないも28%になり政治への無力感が拡がっている。又2000年の信頼できない職業調査として警察官、官僚、銀行が多かった。2007年には三大都市圏(東京・愛知・大阪)の人口が全人口の半分となった。都市圏の人々の意識は政治を左右することになり、低所得層への救済や地方への財政移転を行なうよりも政府の規模を小さく税負担を軽くするように働いている。これが都市部の選択である。人々の財政ニーズも1990年代後半から、公共事業より社会福祉へと転換してきた。「コンクリートから人へ」という民主党のキャッチフレーズが受けたのも理由があった。人々は消費税を福祉目的に使うなら増税に賛成という合意も出来かけていた。ところが土建国家には対人サービスの拡充に増税を行なうという経験がなかった。

3) 財政再建ー海外の事例と日本の問題

日本の土建国家はムラ社会を基礎とした後進性の色濃く残る枠組みであったが、半面公共事業により都市・地方に労働を提供し、経済成長を支えかつ生活環境を整えるといういわゆる「ワークフェアー」の先取りという一面もあった。就労の機会を政府が全面的に提供することで、公的扶助や失業手当給付を抑制する効果があった。欧州で言われるワークフェアーにはイギリス風のワークファースト(公的扶助・失業保険給付に就労を義務付ける)と北欧風のサービスインテンシブ(積極的労働市場政策 即行訓練の重視)があるといわれる。日本の保守思想は「救済資金を出して貧困層を救うよりは、立ち上がらせてやらせる」よいう考えが強かった。それも経済成長があると云う条件がつくのだが。今はその提供できる仕事が無いのである。この章は日本財政再建を考える前に、欧米先進国と比較しながら日本財政運営のヒントを探ろうとする。
@ アメリカ: 1998年日本の小渕内閣は財政構造改革を凍結し大規模な公共投資を再開したその時、アメリカは大胆な予算制度改革を行なった。1985年レーガン政権は「グラム=ラドマン=ホリングス<法」で毎年度議会は財政赤字削減目標を定め、目標が達成されなかったら大統領令で予算執行を削減するというものであったが、議会の反発を招いた。赤字を少なく見せる様々な抵抗手段を使い、強制削減を回避した。そこで1990年ブッシュ政権は「包括予算調整法」で大統領に削減目標を変更できる権限を与えた。そして新たな支出の増大には経費の節減か財源捻出を義務付けた。出来なければ義務的経費の一律削減が行なわれる。裁量的予算には部門ごとに上限のキャップを設けた。予算上限内での予算獲得競争がおき資源配分が活性化した。1990年代に冷戦終了に伴い裁量的経費のうち国防費は11%削減され、非国防費は22%増加した。義務的経費では社会保障、医療ケアーが増大した。これと同時に1993年クリントン大統領は富裕層への増税となる税制改革を行なった。1998年にはアメリカは財政黒字化を実現した。税収入を増やし経費支出を減らしたのである。
A スウェーデン: スウェーデンはバブル崩壊後1992年には欧州通貨危機で極めて危機的状況におちいった。社民党政権は1995年「経済収斂計画」を出し、98年までに財政赤字解消を目標とした。支出削減策では現金給付を削減し、対人サービスは低下させなかった。1996年の税制改革では富裕層への課税強化、食品への消費税(付加価値税)軽減策が行なわれた。1996年には予算制度改革が行なわれ、3年間の支出総額(フレーム)と主要支出部門(ターゲット)を閣議決定する。そしてたった一年で財政黒字化を達成した。スウェーデンとアメリカの政策で共通していることは、経費節減で低所得者の受益減少を高所得者層の租税強化でキャンセルすることである。そしてどちらも大胆な予算制度改革と結びついていた。財政再建策のパーケージ化であった。
B ドイツ: ドイツでは付加価値税を小刻みに上げてきたが、2007年には一挙に13%から19%へ増大させた。これにより失業保険率(企業の負担も減った)が引き下げられ、所得税の最高税率を3%引き上げた。この政策パッケージにより、ユーロ圏の財政規律を達成したばかりか、ユーロ圏最強の経済大国となった。
C フランス: フランスでは1990年に所得ベースとする社会保障目的税が導入された。付加価値税一本やり(国税の40%以上を付加価値税が占める)のフランスにとって画期的な税制改革であった。こうした社会保障の租税化は、負担の公平化を追及することで国民の合意を取り付け、保険方式から税方式へという大転換を成し遂げた。先進国では現金給付(所得保障)の抑制と現物給付(生活保障)の増大傾向が見られる。これは普遍主義の特徴である。

欧米の現状を見て日本の財政運営の特色を見て行こう。まず、この20年間日本では現金給付は他の先進国と異なって増加の一途にあった。日本の社会支出は1980年から2007年で大幅に改善されたことは評価されるが、現金給付の拡大によるものである。現物給付については先進国中アメリカと並んで最低レベルである。しかし日本では介護保険の導入という成果があった。予算編成で予算削減の方法として、「総枠締め付け シーリング」と「個別審査方式」があるが、日本では「シーリング」一本やりでやってきた。シーリングでは支出構造を大きく変えることはできない。これが日本予算平成の特質であった。一例として1995年度予算編成では、投資的経費は5%増、経常的経費は10%減のシーリングで行なわれた。予算編成権は内閣にあるので、議会は予算のフレームを決定することは出来ない。縦割り行政の伝統で省毎に予算は固定化され省を超える事業は考えられない。別枠予算(補正予算)は殆ど公共事業のためにあった。議会において人々のニーズをどのように把握するかは殆ど議論されたことは無い。結局日本の予算編成の特質とは、個別の資源配分を犠牲にして、総量抑制だけを優先してきたのである。これは戦前からの日本財政の伝統であったという。2012年8月所得税率を5%から10%に段階的に上げる法案が成立した。民主党案では所得税最高税率の引き上げ、相続税の強化、資本所得税の軽減税率の廃止が盛り込まれたが、自民党・公明党との協議で消費税以外は切り捨てられた。消費税を単独で打ち出せば、逆進性や低所得者の負担が際立つ。だから所得税の累進性強化、相続税の引き上げ、資本所得の軽減税率の廃止のパッケージによって、痛みを分かち合える税制ではなかっただろうか。これは禍根を残すことになった。

4) 新しい財政のグランドデザインー普遍主義と受益による信頼の回復

日本の財政の憂鬱な状況をまとめておこう。経済が成長し多くの利益が分配される時、人々は低所得者の困難にも思いを分かち合うことが出来る。だが、減税と公共投資を軸とした土建国家は、経済成長が鈍化すると必然的に公債発行に頼った政策運営を避けられなくなる。成長の夢を追い続けると空前の財政赤字が生み出され、土建国家の配分さえ困難になった。そこへ経済のグローバル化が所得水準の継続的な低下をもたらし、日本社会の戦前からの骨格、社会の安心が崩壊した。財政は人々の豊かな生活を支えるどころか、赤字の削減と支出の抑制が自己目的化して身動きの取れない状況へ追い込まれるのである。財政再建の名のもとで自らを切り刻む政治が行われ、土建国家の末路となった。中間層の受益を抜きにしては低所得者への配慮は出来ないという「連帯のパラドックス」が現実となった。財政の再建を議論する前に、財政の原理を確認しておかなければならない。財政学の伝統的考えに「量出制入」という考えがある。「量入制出」ではない。これでは予算削減しか出てこない。社会の適正な(公平な)財政ニーズを測って、収入を増やす方法を考えるのである。D・ベルは財政の原理を「公共家族」と呼び、家族の原理を中心に置く財政は、市場の原理を基盤とする経済とは異なる領域であることを強調した。従って財政に市場原理を持ち込むのはそもそも破壊行為であるという。財政は効率競争ではなく、「人間として望ましい状態」を実現することに本源的な目的があるとする。財政とは家計の精神で見なければならない。財政が目指すものは、低所得者が他者から承認され、尊厳を持って生きてゆける社会、そして中間層が負担をいとわない社会である。低所得者を選別し救済する原理ではなく、人間として当然必要になる財やサービスを、普遍主義(ユニバーサリズム)に支え手行くことが財政の原理であると著者は宣言する。

国民の生存権は憲法第25条に謳われた通り、人々の生存権保障は国の責務であり、これを充足できなければ国の態をなさない。国民統合の正義は失われてしまう。生存が保障されれば次に国民は生活の豊かさを求める。誰もが必要とする社会サービスの供給主体はいうまでもなく政府にあり、そして地方自治体が実施するというのが日本社会の根幹である。自治体の使命は普遍主義に基づいて人々の生活を保障することになる。市場の領域で決まる(労働所得による)生活の豊かさと、財政あるいは政治の領域で決まる(社会保障による)生活の豊かさのバランスは、所得と税負担のバランスになる。アメリカのように公的保障の部分が小さく私的保険部分が大きいと、保険料を負担できるものだけがリスクを回避できることであり、社会正義に照らして考えると望ましい状態ではない。人々が連帯して生活の困難に対して備えるところに社会保障の意義がある。日本では医療や介護といった人間に共通した現物サービスまでも社会保険(国も半分負担するが)に組み込まれていることは、社会保険が払えない人々を生活保護によって救済するという理念である。人間に共通のリスクとなるのであれば税によって取り扱うというのが原則でなければならない。にもかかわらず日本の社会支出の水準は低く、現物支給にいたっては先進国間では最低である。家族向け給付・障害者向け給付といった現役世代への給付は著しく遅れている。課税を社会支出に振り向ける率は日本では17%(2005 OECD資料)でアメリカ並みで、スウェーデンは28%、ドイツは27%、イギリス23%であった。家族給付は日本では1%以下、スウェーデンなど欧州では3%を超えている。日本社会はかぎりなくアメリカ型社会に近いといえる。日本でもし欧州並みの社会支出を行なうとすると、対GDP比で9%すなわち45兆円の財源が必要で、消費税率で言えば20%課税が必要となる。2000年以降公共投資の安易な節減が建設業界を襲った。就労者は22%減少し500万人に、給与は31%減少した。公共投資が単に経済的なGDPの押上げだけでなく、社会的な役割も担っていたことは認めなければならない。公共事業の激減で兼業農家は副収入を失い、民主党内閣は戸別所得補償による農業維持を図ったが、ある財政支出削減が他の財政支出を生む典型的な事例となった。2012年12月に発足した安部自民党内閣では、無反省に土建公債発行による公共投資200兆円構想や土建国家への逆流を夢見ている。ふたたび「人からコンクリートへの投資」が目論まれている。脱土建国家の公共投資とは、既存ストックの維持補修・長寿命化対策ではないだろうか。将来の財政赤字を削減するための公共投資のあり方でなければならない。本書にはブラジルのポルトアレグレ市の「参加型予算審議会」、鳥取県智頭町の「ゼロ分の一運動」が紹介され、意志決定過程への住民の参加が推奨されている。「投げっぱなしの民主主義」から「汗をかく民主主義」という、共同体秩序を基礎としながら社会の多様な価値を守ることが重要であろう。近年緊縮財政と大胆な金融緩和を結びつけるポリシーミックスが潮流となりつつあるが、日本でもインフレターゲット論(アベノミクスもその一例)が横行してきた。日銀の機能は限られている、無責任な日銀責任転嫁論に過ぎない。デフレ解消が財政の目的ではない。資本主義の身動きが取れないからといって、金融を緩和すれば景気が良くなる、物価が上がるという単純極まりない議論を超えて、社会が統合の危機に瀕しているのである。

5) 公正な社会をめざしてー新しい正義の財政基盤

人間を所得の多寡で区別しない、普遍主義ユニバーサリズムに基づいた財政が、尊厳と信頼の社会のを構築する不可欠の条件である。政府への不服従の象徴が租税抵抗であり、その根幹には課税の不公平という問題がある。負担の公平を考えるとき、課税の累進性という「垂直的公平性」と、等しい税負担を求める「水平的公平性」がある。所得税には確定申告をすればよく分かるが複雑な控除制度が設けられているが、それは水平的公平性違反であると云う考えである。理想は消費税(付加価値税)のように、所得、家族構成、職業を問わず同一の負担となる。水平的公平性には低所得者層への税負担が大きいという「逆進性」の問題が生じる。国税を付加価値税に頼る欧州先進国では、食料品や生活必需品への軽減税率を設けている。「垂直的公平性」とは「矯正的正義」を目指し、「水平的公平性」とは「配分的正義」を求めるものである。簡単にいうと、2倍の努力をした人は2倍の所得を得て、2倍の税を負担するという正義の事である。この二つの正義基準をどう適用するかが問題となる。政府の本質的な役割はターゲッティングに基づく所得再配分であり、国税の根幹は累進性所得税である。1990年代からの継続的な高所得者・企業優遇減税政策によって日本の再配分力は弱体化した。課税後の可処分所得では日本は先進国に比べて格差が大きくなった。もはや公平な国ではなくなった。先進国では法人税の減税が、課税ベースの拡大とセットになって実施され、経済成長がこれを支えたといわれる。日本では経済成長が停滞してから、法人税を引き下げ経済回復を期待した。人件費削減を徹底した企業に法人税を引き下げると、その余剰金はすべて内部留保と借入金返済に向かった。企業が海外へ進出する理由は人件費削減と市場開拓にあり、法人税削減は別に期待していない。企業が必要としない法人税減税を政府がプレゼントしても景気が良くなるわけでもない。

国の累進的税制論から、富裕層への課税強化という論点が存在する。資本所得への軽減税率の廃止、相続税の課税最低限(現在8000万円)の引き上げ、税率の引き上げが議論される。少なくともバブル以前の状態に戻すべきだと著者は主張する。対人社会サービスの現物給付を実施する主体は地方自治体であるので、サービス拡大と負担の増加を論じるとき地方税を抜きにしては語れない。地方税では水平的公平性税が基準となっている。地方消費税部分(25%)、住民税、固定資産税などが該当する。税収の偏在性(東京の一人天国)が大きいのは、法人事業税と法人住民税のためである。現在約半分が地方特別税として国税化の後、財政力の弱い自治体に分配される。地方消費税の拡充など、税収格差の是正はあくまで地方交付税の枠内の事である。国税の25%が地方へ回される財政調整は、国と地方の垂直的調整である。都道府県間の水平的調整はドイツで行なわれているが、自治体間の財政力格差を国が修正するという形が基本である。ユニバーサルな地方財政が再配分や寛容な社会の前提であるならば、国の調整責任は極めて重大である。社会保障を賄う財源として税と保険料がある。財政の大原則は税の行き先は告げない「一般報償性原則」であるが、特定負担に対して特定のサービスが約束される「個別報償性原則」もある。「一般報償性原則」は財政民主主義の根幹である。これに対して、社会保険は、健康保険、年金保険、雇用保険、介護保険などからなり、個人と企業掛け金に対して国税も投入され複雑な財源構成となっている。すなわち社会保険は財政とは違う論理を持つ。加入者の相互補助という性格と国税の性格があり、その分離は難しい。しかし生存保障(健康保険・介護保険など)は人間に共通なニーズであるので、租税で等しく権利化してゆくという選択肢が求められる。企業の公的負担は法人税や法人事業税、法人住民税などがあり、赤字法人には税負担は無い。社会保険料の企業負担は収益に係らず雇用の発生に応じて求められるので、収益の悪い企業には負担が大きいといわれ、健康保険などを脱退する中小企業が多い。企業は法人税を始め社会保険料を軽減し、これを消費税で負担させる事を要求してきた。そのことの結果が労働分配率の低下、中間層の解体となったのである。政府が行なうのは企業の負担軽減ばかりである。企業の負担軽減を資本所得の課税や所得税の累進性強化で補うのは公平性の原理にかなう。財政の目的は、個人の所得向上活動や市場では満たされることがない領域に目を向け、他者の価値観や所得の相違を受け入れる社会を築くことである。人間の尊厳を傷つけない限り、物質的公平は正当化される。金がないからといって差別されてはならない。財政再建は目的ではなく、結果である。


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