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杉田 敦 著 「政治的思考」

  岩波新書 (2013年1月20日 ) 

政治とどうかかわるか 政治の困難性と可能性を今こそ考えよう

市民グループ「みんなで決めよう 原発国民投票」のリレーメッセージ「第1回 杉田 敦」(2012年8月13日)において、杉田氏は次のようなコメントを寄せられている。「なぜ、「原発」国民投票・住民投票か。私は元々、何でも直接投票にかけるのは反対で、基本的には政党政治を通じて、議会という場で主要な決定は行われるべきだと思っています。しかし、福島の事故から一年半にもなるのに、国会は今後のエネルギー問題のあるべき姿について十分に討論していませんし、大政党は原子力発電の是非を争点化することにきわめて消極的です。こうした中で、どうしても、直接投票が一つの方法として注目されることになります。・・・・原子力発電を今後も維持し、増やして行くのか、それとも停止し、減らして行くのか。この大きな対立軸を見失うことなく、運動を進めて行きたいと思います。」 と政治への参加を呼びかけるものである。きわめて平易な語りかけで人々の永遠の課題である政治を考えようという本書は、具体的な政治問題や議会・選挙制度を云々するのではなく、人は政治という魔物・希望を考えなければ生きてゆけない事を示したものです。このように易しく問いかける杉田敦氏とはどのような人物なのだろか。本書巻末の履歴を見ると1959年生まれ、東京大学法学部卒業後東大・新潟大学を経て現在法政大学法学部教授で、専攻は政治理論・政治思想史であるという。著書には岩波書店より、『権力の系譜学』(1998年)、『権力』( 2000年)、『境界線の政治学』(2005年)、『政治への想像力』(2009年)などがある。本書のまえがきに、政治について次のような間違った見方を8つ示して見せます。8つの見方に対する検討が本書の目次となっています。@決め方は決まっている、A代表に任せればいい、B正しい答えは分かっている、C自分には権力は無い、D自由とは放任である、E国家などいらない、F政治の邪魔をするな、G敵が誰かは知っている。これらは言葉を要約すれば、決定・代表・討議・権力・自由・社会・限界・距離という課題(テーマ)のことである。これらはギリシャ時代から永遠のテーマである。何一つ確定的なことは言えない。私達の常識を揺さぶり、政治という営みの困難と可能性を根本から考えることが、本書を読む私達の課題である。

1) 決 定

「改革だ」、「決められる政治」といえば正義だという思い込みは大抵の場合、独断と人気取りの「劇場型政治」となり、私たちの生活を危くすることの方が多い。政治的決定とは重大な線引きをすることです。その切断の前後で物事の性格が変わります。別の人々にとって理不尽な決定となることがある。民主政治は、関係するすべての人々が決めるのという政治のあり方です。国際的な問題で決めるのは国民で分り易いのですが、ことが環境問題、エネルギー問題(原発など)、経済問題(TPPなど)になると誰が決めるのかということが、重大な政治問題となります。逆にいうと誰が決定するかという単位が決まった時点で結論が分かります。政治における決定の意味について、誰が、何を、何時、どのように決めるかについて考えて見ましょう。国民全体で議論するとなると意見が分かれて収集がつきません。そのため近代国家システムではあらかじめ「主権在民」という概念で最終的な決定者を決めておくことにしました。国民が主権の主体であると同時に客体となります。ところが誰が決めるかという枠組みが合理性を得ないような状態が生まれています。にもかかわらず主権の概念に固執すると国民という曖昧な存在に、自縛状態になるのが政治の現状です。次に何を決めるかという設定で、ある程度責任を誰に問うかも、どのような結論にするかも予想できます。問題の論点を決定することは重要なことです。これを今までは官僚という事務局が担っていました。憲法改正という論点も内容よりは保守勢力にとって改正することが目的化しています。自衛隊を国防軍と言い換えても何も代わりません。第3番目に何時決定するかということも重要です。改革派は争点化してすぐに決めようとかかります。維持派は争点化を避け決定を先送りにするか、骨抜きにかかります。法律は時限立法が一番合理的であるが、先が読めないことや後世の負担を考えないことで時間軸がなくなります。第4番目のどのように決めるかという方法論ですが、国民という決める人が多くなると調整が不可欠となるし、調整がつく問題は僅かです。すると1人もしくは少数で決めるとなると、排除された人の不満は高まります。私たちの民主政治は調整という非効率な仕組みにより、多大の時間を費やされます。だからといって、自分に係ることを、知らないところで知らない他人によって決められるのには耐えられません。時間のかかる民主的決定は、関係者が納得しやすいという利点があります。そこで民主的決定にいらいらする人々は、権力の集中が効率的だと考えます。「政権交代」、「決断主義」、「強いリーダーシップ」への過大な期待は、幻滅の連鎖によって政治そのものの否定につながりかねません。

2) 代 表

代表民主制または議会制民主主義などと呼ばれる形式は、選挙などで荒ばれた代表を通じて政治を行うことが一般的である。代表とは一体何なのでしょうか。一つ問題に対する私達の意見は多様なのに、それをどう代表できるのでしょうか。つぎに多くの争点をセットにして代表を選ぶことが出来るのでしょうか。第3に選んだ時期とは異なった状況でも代表できるのでしょうか。それとも人物本位といわれるように、悪いようにはしないという安心感からくる「白紙委任」なのでしょうか。民意→代表ではなく、一度選んだ代表には一定の裁量権があって、代表の考えが民意とみなされるといったほうが近い。民主政治とは代表されるものが主人公である政治というのが基本です。マニフェストに基づいて政党をえらぶのであれば、全員が比例代表制で得票数に基づいて代表の数を決めることが合理的です。小選挙区+比例代表制とは2大政党になりやすいように設計された選挙制度です。選ぶ人の規模が大きい以上代表制にならざるをえないが、数多くの価値観・民意を前提として調整妥協を図る営みが政治である。私の民意はあっても、多くの人の民意とは簡単には決められません。すると代表とは政治の営みを行なう中で、民意の形成を助ける存在といえます。原発国民投票」のリレーメッセージで杉山敦氏の意見を紹介しましたが、直接選挙も一つの民意を形作る動きです。それは議会を否定するものではなく、論点を絞った現在の民意を知る補助的な機能をもつ。アンケートや世論調査も同じことである。近代政党は産業化が進むなかで労働問題・都市問題・福祉問題・再配分を巡って対立する政党を作ってきました。しかし環境問題、経済問題、生命医療問題、エネルギー問題など現在の政党政治では決着がつかない問題については、直接投票・住民投票が有効に働くでしょう。政党政治以外にも私達は世論調査、デモ、パブコメなどで意見表明・表現できます。選挙する時期と発生する問題によって状況が異なるため、いわゆる首長と議会や衆議院と参議院の間で「ねじれ問題」が発生します。世論が株取引のように電子化され数値化されることは(毎月行なわれる内閣支持率・政党支持率アンケートによって刻々内閣が変わるという夢見たいな事態が来ないとはいえないが)当面ありえないだろうが、多元的な回路を前提に政治が行われるべきである。

3) 討 議

「話し合うこと」と「決めること」は次元が異なり、ある種の緊張関係にある。政治問題とはそもそも複数の答えがある問題を扱うことです。それぞれの置かれている立場から来るものでどちらが正しいか間違っているかは一概に決められない。現状維持は既得権の擁護であり腐敗に繋がるとか、改革は進歩であり正しいとか簡単には言えません。改革によって起きることは既得権の組み替えに過ぎず、格差がなくなるわけではありません。討議と無縁な政治に暴力による支配があります。民主制への苛立ちから来る独裁者への誘惑があります。説得や討議による社会契約論は社会を安定化する役割が強い。しかし契約以前の混沌とした状態に終止符を打つ行為は決めることです。永遠の話し合いは政治論に反対する側面があります。暴力支配と永遠の話し合いの間に政治形態が落ち着きます。昨今の最も厄介な問題は「原発問題」です。専門家への信頼は失墜し、自分および後世の生命と公的な利益が相反する問題で利害関係がもろにぶつかり合います。政治に正しさというものを過度に導入しようとすれば、人々の複数性がどこかに消えてしまいます。これを「全体主義」と呼びます。政治を近々の経済問題に限って運営すれば利益誘導政治となり、多数(あるいは強者)の利益は、少数派(あるいは社会的弱者)にとって酷な結果になります。これを「多数者の専制」と呼びます。現実の政治ではさまざまな立場の競争が行なわれます。勝てばいいという態度では「現実主義」または「マキャベリズム」といわれます。様々な利害関係、それぞれの立場がある人々が、それを前提として共存のために合意を図ってゆくことが政治的な話し合いとなる。話し合う人の範囲を決めることも重大です。代表が話し合う内容とその結論が、人々の話しの結果と見なすという代表機能が作用します。話し合いが開かれたものになるには、すぐ結論を出すという考え方と切り離す必要があります。そしてその話し合いが開かれた、妥当なものかどうかの評価が必要で、これが第2次の話し合いといわれます。

4) 権 力

権力とは対称的でない力関係としての権力を考える人が多い。対称的でない権力は暴力を背景とした支配のイメージが強い。「王権神授説」や「ブルジョワ・資本支配説」のように主権者が移動する歴史観がそれである。しかしジョン・ロックの「社会契約論」は、権力の由来する根拠を契約説にもってくる。「主権在民」というのはこういう理論から生まれフランス革命を主導した。私達もまた権力に関与し、どれを成り立たせている面があるようです。国家権力は暴力機構であるとか、納税は強制であるとかいう理論は一面的な捉え方で、権力が維持されるのは、人々が権力について同意しているからで、それなりの正統性を感じているからです。国家権力には2つの型があり、国境線に関心を抱く主権的権力(主権国家)と、「群れ」の生存と福祉に関心を抱く権力(国民主権)があります。この場合国民とは同質的な群を指します。この国家権力を危険なものと見なして、自由をと権力を対立させ、できるだけ国家権力を小さくしたいという考え方を「自由主義」といいます。この考えを突き詰めますと、福祉を否定し社会権(生存権)を無視する政策となる。教育や厚生・労働・福祉はないがしろにされます。結局権力は自由権と社会権のバランスシートの上を右左に動いてゆきます。それでも大多数の人々が我慢できなくなれば、権力は維持できません。民主制にある私達はそれぞれが権力に関与していて、どこに権力があるのか、誰に責任があるのか良く分からない状態にあります。王制(天皇制)の場合ほどには権力者は見えないのです。権力は様々な顔を持ちます。権力は同質な民衆を監視するもので、監視カメラが犯罪者を特定するのに役立つように、「監視社会」ではそのメリットと個人のプライバシーが抗争します。国民総背番号制は見えやすい便利な「管理社会」を目指すものです。自由か、監視される羊の安心を求めるかが問われています。市場の権力(経済性の暴力)は、一見選択という自由の上で動いているようですが、人々を市場に留まらせ市場を支えるように仕向けられているともいえます。現在市場への憎悪が高まっています。それは市場の寡占支配が強まり個人の力ではどうしょうも無く、また金融恐慌に見られる経済の暴走に苦しめられてきたからです。また経済ナショナリズム(1国内の経済さえ良くなれば)が力を失い、国民を市場に閉じ込めておくことが出来なくなったからです。従来の権力が陳腐化し問題解決能力を失うと、誰か悪い奴をでっち上げ彼らを攻撃するれば状況は良くなるという考え方を「ポピュリズム」といいます。小泉首相以来あちこちでヒステリックな大小のポピュリズム政治家が跋扈しています。「ポピュリズム」とは、多数派にとって不都合な問題をすべて外部化し、真の問題から眼をそらせる戦争主義者(石原慎太郎)の政治です。ナショナリズム煽動政治(安倍首相)や公務員批判(小泉首相・橋下市長・維新の会)は敵を見えやすくし、問題の一部を全面化してとんでもない間違った政策を取るものです。敵も一枚上手で官僚機構はかえって焼け肥りしました。

5) 自 由

「自由は何物にも縛られないことである」といわれますが、縛りとは社会的な関係性である。分子のブラウン運動のような勝手気ままな個人のアトム化はそもそも「人間は社会的な動物である」ことに反します。権力と自由を対立させて考えるからそうなるのです。政治とは「命令言語」だという考えは、戦前の不幸な総力戦という戦争政策から、政治=権力=暴力の経験からきています。憲法では自由と権力を対峙させる構図を取り、自由を擁護する仕組みを「立憲主義」といいます。ギリシャ時代では奴隷以外の自由人は市民権をもつといわれ、近代以降の自由人とは「経済的に自立した」人間のことをいいました。その自負心からでしょうか、政府に頼らなければ個人は自立するとして、福祉切捨てを叫ぶアメリカ式自由主義がその典型です。ところが経済的自立が自由の条件であると云う前提はアメリカにおいてさえすでに崩壊しています。市民社会論は国家と市場に変わる第3の領域(ボランティア、NPOなど)を大切にするものですが、市場の強制性が見え難いことから、規制緩和や民営化路線については政府批判となり、市民社会論と市場主義が一致するという奇妙な結びつきが発生しました(実際は市場の思うままであったにもかかわらず)。市民社会論は「福祉国家」によって守られているはずなのに、政府を敵にしてしまったのです。自由と平等は本来世界が異なるものであるが、自由には求心的と同時に遠心的働きがあります。自由と平等は相反します。ところが自由と平等を同時に希求することが多い。平等とは格差のない社会を目指すことで、機会の平等という言葉は格差から逃れる自由を意味しているのです。現在の秩序に対する違和感は常に出てくるもので、それについて話し合うことが私たちの自由の大事な部分です。変える事が何時も正しくはありません。守ることが正しいことも多いのです。変えたあとの社会の構想が欠如しているという決定的な問題が横たわっています。自由とは決して完全な意味で実現できるものではない事を認めるべきではないでしょうか。

6) 社 会

個人は生物的に分かるとして、社会とは何だろうか、実際はよくわかっていない。社会契約理論では自然状態の個人が共通の言葉によって関係を持ち、契約によって合意された社会を作ったのだとされています。実体か虚構かという問題です。しかし契約は守らなくてはいけないという高度な信用組織論、自分に係りのある人間の範囲(契約をする「群れ」という単位)はどこまでかなどについては不明である。社会と市場を切り離して(むしろ対立関係を重視して)、社会を市場の嵐から守るという論があります。そこでは「連帯」という言葉(原発事故後は「絆」という言葉)を好みます。市場には保険制度とか、信用関係とか社会に関係するものが含まれています。人間は経済的に利己的動機や利他的動機で動くという道徳上の分類があります。スミスは利己的動機の自然な調和関係(神の手)を想定しました。市場⇔社会という対立関係で線を引くことは実際は難しい。高度経済成長の時代は貧困問題が社会問題といわれましたが、今日グローバル化社会は資本・資源・物の流れ・廃棄物の流れ・人の流れなどで世界と繋がっている。しかしグローバル化社会とは実感の薄い概念です。私達は現段階では国民国家の範囲でしか実感を伴いません。国家は制度、国民は人の流れ、悲しいかな、国家が国民を囲い込んだ単位でしか社会的連帯を感じられない。世界は格差で結ばれているというのが市場です。そして税を含めて再配分は強制力を持つ国家に専権事項であり、社会的な連帯は国家権力と不可分の関係にあります。国家権力と社会という二分法は存在しない。国家、社会、市場などのなかでどれが最も支配的であるかはあらかじめ決められません。絶望的なまでに曖昧な存在としても社会があります。

7) 限 界

この章の副題は「政治が全面化しても良いのか」という設定で、政治も相対化(政治の限界)されています。あらゆるところや場面で政治は影を落としており、政治から逃げて生きることは出来ません。いずれにせよ政治と向き合いしかない。投票を棄権することは、投票に行く人の発言力を増すこと(政治家は投票する人の意思しか尊重しない)になります。政治家はきちんと選択肢を提示し、投票する人は様々な手段を使って選挙で争点が明らかにされるよう訴えるべきです。逃げていては政治家に白紙委任するようなものです。戦前は軍隊の暴走、戦後高度経済成長期は官僚の暴走、今度は政治家の暴走を抑えなくては良い社会はできません。政治を限界付けるものとして、教育・文化学術・憲法・メディア・官僚制を検証する。教育は長い意味で子どもの考えの形成に大きな影響を持つが、短期的には政治に関与することはできない。公務員である事から政治的中立を守らなければならない。教育そのものが市場化・競争化しつつあり、世の動きと無縁ではありえず、受験競争に加担してきた。芸術・学術・文化に関してそれを助成するか否かは政治的に決められている。学者も研究費の点から文部科学省や政治家に迎合する動きが顕著となり、いわゆる御用学者が各種審議会で政策形成の御用聞きを努める場合が多い。更に悪いことには科学者・技術者が自分の専門外の事に根拠がないまま政治的な判断をしている。原発の経済性を主張したり、電気料金を審議したりするのである。何時から経済学者になったのであろうか。政治は三権分立の司法・行政・立法のなかにあって、主に立法と一部の政治家は行政に係っている。特に司法つまり裁判所は違憲審査を行いことから政治を規制する力になり得る。最高裁判所判事は政治で決められるのでこれも政治をコントロールできるとは言い難い。行政としての官僚制は政策決定の中心となっているといわれる。これを行政国家というが、政府とは主体は官僚機構の事である。官僚機構を支えているのも私達である。官僚機構の政策はある民意を代弁しているからである。それなりに民意を代表する政治家と官僚機構が拮抗しているのである。政治家が官僚機構を潰すことは出来ない。自分で政策を作り実行することが4年以内の任期では継続できないからである。官僚機構を私達の外部に置くのではなく、自分の一部として批判しなければならない。行政への陳情・圧力に終始する態度から自分が変わらなければ官僚制も変わらない。自分達が共犯関係にある事を無視して、単に官僚を黙らせ「公僕」にすれば社会が良くなるという発想は幻想である。最後のメディアは長い間政治と密接な共犯関係を保ってきた。第4の権力といわれる由縁である。政治との距離を失いがちであった。原発事故で規制当局が事業者東電の虜になっていたように、メディアは社会の監視役であったはずなのに、為政者との緊張感を失い、政治の先導役、都合のいい世論形成役になっていた。

8) 距 離

マックス・ウエーバー「職業としての政治」に政治家の倫理が述べられている。エリートとしての政治家から大衆社会論批判が出された。国民という概念が揺らいでいる今日、政治家にとって大衆との距離感のとり方が重要である。均質な国民はありえないのだ。また自分自身を客観的に評価し他人との距離を測る必要があります。透明性の高い評価が望まれます。政党制が始まってまだ200年くらいで、政党間の敵対性(アイデンティティ)も曖昧である。資本家と労働者の対立軸は戦後自民党と社会党という55体制を支えた。冷戦が終了し社会党が消滅して対立軸がなくなったため、1990年以降になって政界は流動化し、アメリカ並みの2大政党的な対立軸を模索してきたが成功していない。日本では特定政党の固定票は少なく、浮動票(中間票)が多いことが特徴である。労働界の政策決定はかっての様な利益配分(パイの分配)であるより、負担配分となりがちである。政界では代表する集団間の対立よりも与党と野党の対立軸が中心である。与党内閣が成立すると野党が有利になるという。これはアメリカと同じである。対立軸は正規雇用者と非正規雇用者、世代間の対立の方が強くなっている。中央集権にたして地方分権論がもてはやされているが、地方分権が有利となる根拠が薄い。日本は小さすぎる、カルフォニア州ぐらいの規模で地方自治政府と連邦政府の対立軸を展開しても説得力を持たない。地方の産業は国際競争力を見なければ対策は無い。地理的距離さえ消滅しているである。こうして政治の前提が変わった。誰がやってもうまく行かない状況である。産業育成や為替制御などは政府のできることは限定されている。政治に過度に期待することはあまりいいことではない。過度の期待は絶望と紙一重である。政権交代で民主党内閣に期待したむきには失望感の方が多かった。政治は様々な価値観に関する調整である。自分の価値観は他人とは違うことを距離として認識しなければならない。だからこそ複雑で先が見えない不透明の世界でこそ政治が生きてくるのであると云うのが本書の結論です。


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