130118

篠原資明著
 「空海と日本思想」

  岩波新書 (2012年12月20日 ) 

風雅・成仏・政治の基本系で日本思想を捉える

まず第1に白状しなければならないことは、平安時代初期の真言密教の始祖空海の名はあまりに有名であるが、どんな仕事をしたのかは私にとって分明でない。私の貧弱な理解と知識では、空海は天皇の信をえて東寺、高野山金剛峰寺をつくる事を許された加持祈祷を旨とする鎮護国家宗教を起こし、四国には弘法大師の名を冠した灌漑池がやたら多いので中国渡来の土木技師官僚かと間違い、東寺の次に高野山を作った(時代ではその逆)と間違った理解しかしてこなかった。なんせ空海( 774-835年)は約1200年前の人で、空海の思想といっても何一つ読んだことは無い。したがって私には空海の事を書いた本を読んでも真偽のほどは判別できない。日頃の不勉強を戒め、空海の偉業を知るきっかけになればと思い書名に惹かれて読んだ次第である。本書を読んで分かったことは、まず著者はプラトン(DC427-347年)の基本系を「美とイデアと政治」と捉え、その基本系を日本の思想家空海に応用し、三つからなる基本系「風雅・成仏・政治」を提案するものであろう。平安時代初期は現代と1200年ほどの落差があり、ギリシャ時代のプラトンと平安時代初期の空海とは約1300年の落差があり、西欧文明と東洋文明の違いがあり、比べること自体荒唐無稽といえよう。比べて何の連関があるのかと疑問に思うが、これは恐らく「形式論理学」の問題であろう。現代数学における抽象数学のやり方に似ている。実体の関連を検討するのではなく、公理の形式が似ていることに注目するのである。下手をすると「こじつけ」、「荒唐無稽」の難を否めない。プラトンと空海の実質の共通点・差異を云々しても意味がないので、ここではプラトンの基本系を援用して日本の思想の原型である空海の思想を捉えようという意味で理解しておこう。基本系とは思想の基本的なありようという意味であり、それは時代とともに変奏(変容)されてゆく。もうひとつ白状すると,私はプラトン哲学は何一つ勉強したことは無いので、内容の詮議は出来ない。ただ形式論だけを追ってゆくことになる。著者によるとプラトンの基本系は「美とイデアと政治からなる基本系である。美がイデア界への最良の導きとされ、このイデア界に通じた者こそ国を統治しうる、すなわち最良の政治を行ないうる」ということである。このイデア(賢人哲学)は中世では神となり、近世では人間精神に置き換えられた。政治と何かというとそれは悪に対する闘いである。これが西欧哲学の基本系とすると、日本思想の基本系は筆者によると風雅・成仏・政治となる。日本には元来、哲学・思想はなかったので、それに置き換わるものとして風雅を当てはめられた。それを体現したのが空海であるという。詩人としての空海、書道家としての空海は風雅人であると同時に宗教家である。日本の仏教は無常観を最大の特徴とする。無常観は風雅に通じる。密教が天皇制と固く結びついたことは否定できない。又それ以外の道はなかった。大衆を救う仏教改革は平安時代末から鎌倉時代を待たなければならない。浄土宗、真宗は大衆救済を目的としたが、国家にこだわったのは法華経の流れにある日蓮宗である。

本書などから空海の年譜を記す。空海( 774-835年)は、平安時代初期の僧。弘法大師の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れに位置し、中国より真言密教をもたらした。ここで奈良仏教とは南都六宗ともいわれ、平城京を中心に栄えた仏教の6つの宗派の総称である。南都六宗の開祖と中心寺院をまとめると、法相宗 - 開祖:道昭、寺院:興福寺・薬師寺、倶舎宗 - 開祖:道昭、寺院:東大寺・興福寺、三論宗 - 開祖:恵灌、寺院:東大寺南院、成実宗 - 開祖:道蔵、寺院:元興寺・大安寺、華厳宗 - 開祖:良弁・審祥、寺院:東大寺、律宗 - 開祖:鑑真、寺院:唐招提寺である。これらの六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。空海は讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公、母は阿刀大足の娘といわれる。15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだ。19歳を過ぎた頃から吉野の金峰山や四国の石鎚山などの山林での修行に入ったという。室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできてこのとき空海は悟りを開いたといわれる。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある「聾瞽指帰(ろうごしいき)」を著した。入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという。804年、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。長安青龍寺の恵果和尚に師事し、大悲胎蔵の学法灌頂、金剛界の灌頂を受けた。恵果和尚が逝去し、806年わずか2年で留学を切り上げ帰朝した。唐から空海が持ち帰ったものは「請来目録」によれば、多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。京に帰ってから、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立し訣別した。810年薬子の変が起こったため、空海は嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った。812年、高雄山寺(後の神護寺)にて金剛界結縁灌頂を開壇した。816年、修禅の道場として高野山の下賜を請い、818年高野山に滞在して伽藍建立に着手した。この頃、「即身成仏義」、「声字実相義、「吽字義」、「文鏡秘府論」、「篆隷万象名義」などを立て続けに執筆した。823年東寺を賜り、真言密教の道場(後の教王護国寺)とした。827年大僧都に任ぜられる。828年東寺の近くに私立の教育施設「綜芸種智院」を設立し、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関を志した(綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した)。830年、淳和天皇の勅に答え「秘密曼荼羅十住心論」を著し、後に本書を要約した「秘蔵宝鑰」を著した。832年、高野山において最初の万燈万華会が修された。その後、高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている。835年新年に宮中で後七日御修法を修す。これは明治維新まで宮廷行事として続いた。835年高野山にて入定する。なお空海は能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられるている。

密教というと何かおどろおどろしい秘儀を思わせる。密教とは「秘密の教え」を意味し、一般的には大乗仏教の中の秘密教を指す。現在の仏教学では後期大乗仏教に分類し、空海は「請来目録」や「弁顕密二教論」の中で、顕教と密教の二教を弁別し、「密蔵」の語を用いて密教の概念を説明した。一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かって広く教義を言葉や文字で説くのに対して、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を伝持する。本来、密教は文字によらない教えであり、先に述べたように顕教では経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに、伝授に密教の特徴がある。空海は密教が顕教と異なる点を「弁顕密二教論」によると、1.法身説法(法身は、自ら説法している。)、2.果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)、3.即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)と説く。いわゆるそれまでの小乗仏教(声聞・縁覚)が成仏を否定して阿羅漢の果を説き、さらには大乗仏教が女人成仏を否定し、無限の時間を費やすことによる成仏を説くのに対して、密教は老若男女を問わず今世における成仏である「即身成仏」を説いたことによって、画期的な仏教の教えとして当時は驚きをもって迎え入れられた。日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、唐から帰国した伝教大師最澄によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。本格的に密教が日本に伝えられたのは空海からである。日本に伝わったのは中期密教である。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。真言宗の密教は東密と呼ばれ、日本天台宗の密教は台密とも呼ばれる。日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「本地垂迹」、「神仏習合」の主体ともなった。各地の寺院・権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。空海の主な著書を記す。797年「聾瞽指帰」(後日「三経指帰」に書き改めた)、806年「請来目録」、816年「文鏡秘府論」、「文筆眼心抄」、830年「十住心論」、「秘蔵宝鑰」、835年「性霊集」である。

著者篠原 資明氏は、1950年うまれの香川県出身の哲学者、詩人、京都大学教授。心理学者にはオカルト狂的な胡散臭さを感じると同様に、哲学者篠原 資明氏には一体得体の知れない危さを感じる。アカデミックさはなく、2006年「トランスエステティーク」で京大文学博士となったというが、すでに56歳であった。博士号なしで学者だったというから、アカデミックな人間ではない。哲学者としては、あいだ哲学と交通論を提唱し、ウンベルト・エーコを研究紹介。詩人としては、方法詩を提唱し、実践する。美術評論家としても活動し、森村泰昌や村上隆を早くに評価したことでも知られる。空海を発見してからは、「まぶさび」の理念のもとに知・行・遊を統括する「まぶさび庵」を主宰する。ちょっと言葉を補足説明する必要がある。あいだ哲学とは篠原にとって、それ以上さかのぼれない究極のカテゴリーである。したがって、〈あいだ〉を問題にするには、〈あいだ〉で生起する交通様態から分析するほかない。なんであれ、問題とするものに関して、どのような〈あいだ〉が考えられ、そこにどのような交通様態が析出されるかを問う哲学、それが、あいだ哲学であり、交通論なのである。それでもさて何のことやらわからない。方法詩とは、新たな型を自ら提案し、その型に即して詩作するというものである。超絶短詩という詩型も方法詩の一種である。超絶短詩とは、ひとつの語句を、擬音語・擬態語を含む広義の間投詞と、別の語句とに分解するというもので、たとえば、「嵐」という詩篇は、「あら 詩」となる。ことばあそびなのだが、馬鹿にするなといいたい。まぶさびとは、篠原資明が「まぶしさ」と「さびしさ」を掛けあわせて作った造語で、心敬の「ひえさび」のもじりであろう。美的理念とともに宗教的理念をさす言葉である。美的理念としては、「透きとおり」の美学と「まばゆさ」の美学を、日本古来のさびの境地で受けとめようとする一方で、宗教的理念としては、一種の即身成仏を目ざそうとする。身口意の三密からなる行、それが「まぶさび行」である。この「まぶさびの滝」は、密教の月輪観から発想されている。篠原資明氏のホームページ「まぶさび庵の扉」には、その行(密教の印の切り方も含めて)が紹介されている。自らの活動を「まぶさび」の理念のもとに統括し、知・行・遊からなる「まぶさび庵」を主宰する。それらは氏のお遊びとして、まじめな側面を紹介すると(自己紹介から)、2010年10月より美学会会長。2011年10月より日本学術会議連携会員。京都大学では、総合人間学部人間科学系に所属し、同じく大学院では、人間・環境学研究科の共生人間学専攻・思想文化論講座(創造行為論分野)に所属する。専門は、哲学・美学。詩人(日本文芸家協会会員)、美術評論家(国際美術評論家連盟会員)。

1) 風雅ー詩人として

晩年の832-835年にかけて空海は詩文集「性霊集」を著した。もちろん漢詩であるが、我国最古の個人詩文集の刊行である。風雅とは中国最古の詩集「詩経」の「六義」という分類によると、詩は風・雅・頌・賦・比・興の6つに分けられる。ところが空海は、「風」(諸国の歌謡)、「雅}(周王室の儀式)の概念に捉われず、広く詩文一般の意味で風雅という言葉を使用する。いまや風雅とは芭蕉の専売特許みたいに、芸術全般における広い意味を持たされている。ヨーロッパでは「美」が諸芸術を統括する概念であったが、日本では「風雅」が芸術の統括概念となった。ここで「美」→「風雅」の言葉の置き換えが企てられる。空海の「文鏡秘府論」には「見て心の動くままに言葉がにおう」という、このことは鎌倉時代に京極為兼,江戸時代に本居宣長に受け継がれてゆく。書についても空海は「皆人の心物に感じて作れるなり」といい、本居宣長、芭蕉も空海の書論を頭に入れていた。風雅は自然を友にすることは、平安末期から鎌倉時代の慈円、江戸時代の芭蕉にそのまま流れてゆく。自然を友とすることとしての風雅には無常観が必須として付き従う。江戸時代の服部土芳、芭蕉がそれを受け継いでいる。無常の象徴ともなる自然現象は空海は「三教指帰」で強く意識していた。「性霊集」で「我独り生没す。電影これ無常なり」という。雷の光が無常の象徴となっている。無常は草庵と隠遁と裏腹の関係にある。無常、隠遁、大自然は平安末期の西行、鎌倉初期の藤原定家の「さび」となる。風雅→自然→無常→さびへと受け継がれるのである。高野山には空海の時代にはまだ大伽藍はなかった。禅定にいそしむ空海はまさに山岳修験者であった。

2) 即身成仏へー仏教僧として

空海の思想の第2の柱である「成仏」とは、プラトンにおけるイデァ→宗教→仏教の「成仏」という言葉の置き換えの事である。宗教者の世界観といってもいい。一つ一つの自然にはすべて無常が貫いており、その無限大の自然の無常の彼方に「大日如来」がいるという構図である。自然に対する風雅を極めることとは大日如来にいたることである。空海は大日如来とは極めれば自分の心であるという。地・水・火・風・空の自然要素に識(心)という人間要素を加えて、「即身成仏義」は六大体大説という。そのような世界観をイメージの動力学(形の動力学)に抽象化すれば、個々の内容には立ち入らないとすれば案外、時代や場所を越えて共通の形式が見られるのである。六大体、四曼荼羅、三密(身・口・意)、即身、五智、成仏の仏教用語の意味は専門外なので問わないとして、即身成仏を構成する。こうして空海は風雅(自然)と成仏(世界観)を結びつけた。そしてすべては言語表現を伴う以上、悟りの当事者である法身の実相は言語を通じる「法身説法」であるという。空海は「弁顕密二教論」において、心には10段階の認識があるという。最後の「一一識心」のみが真理に肉薄する(真如門)という。室町時代の連歌師、心敬の「ひえさび」にも「十識論」の変奏が見られる。水が凝結した氷のような冷え冷えとした美の境地を示す。多様な美の凝結した美の形式が抽象化した真理(無常観)に近づくというのである。心象風景という言葉もある、まさにイメージの世界である。凝結した意識は「吽」の世界に通じ、空海はサンスクリット語の表記体である「梵字」(悉曇文字)に異様なほど執着したという。

3) 報恩の政治学ー密厳国土のために

この章は宗教が国家をどうみていたかを示す。830年空海は、各宗の宗旨をわかりやすく解説せよという淳和帝の求めに応じて「十住心論」と「秘蔵宝鑰」を献じた。「秘蔵宝鑰」に空海は「憂国太子と玄関法師の対話」を挿入した。仏教界の乱れ・腐敗(末法意識)に憤る太子に対して、法師は深いところから病や障害を取り除くという仏法の利益を説くのである。国家が仏教を保護するのはそのためであり、王法と仏法は合い和するという。密教は行を行い深いところの病根を追い出すという。医学的アナロジーを意識して、「祈りだせば病はたちどころに退散する」という、現代からみると現世利益・加持祈祷の怪しげな仏教であるが、当時は医学もなく怨霊が都を覆っていたのでまことしやかに施授された。こういう仏教で治る病気といえば、現代用語でいうと「鬱」などの精神病の事であろうか。祈ったから治ったのではなく、治ったから加持祈祷が効いたという錯覚に由来する。嵯峨帝に願い出て勅許を得た東寺は「教王護国寺」という。空海にとって国とは、「仁王経開題」によると「生ける者とその生かされる世界を合わせて国という。般若はこの世界を護り、禍を払い副を招くゆえに護国という」 「請来目録」でも「釈迦の教えは一言で言えば、自利・利他の2つの利益にある。大真言とは衆生をしてみな歓喜を得しめること」であるという。僧及び国家の役割は利他すなわち人々の苦を取り除くことである。福祉国家論が理想とされる。空海の行動力は関西や四国の農業土木事業(伝説に過ぎないかもしれないが)に空海の名を冠した遺跡が多くある事に見られる。この背景には「四恩に報じ、世の中に利益を与える」という思想的バックボーンがあったようだ。四恩とは、父母の恩、国王の恩、衆生の恩、仏法の恩の順に高くなってゆく。828年私立の教育施設「綜芸種智院」を設立し、儒教、道教、仏教を教えて多くの人々に利益を与えることを目的とした。密厳国土とは大日如来の行き渡る世界のことであり、四恩に報いるということは悟りをひろめることであり、四恩を忘却すること(悪)への闘いが密厳国土の政治学といえる。

4) 日本思想の基本系ー慈円と九鬼修造の変奏

空海の基本系が時代的に変容(変奏)する姿を、慈円と九鬼周造に注目して追うことにする。空海の時代は中国文化の直輸入(遣唐使)で漢文で語られているが、時代が鎌倉時代ともなると、漢字仮名書き日本文による思想家が現れた。慈円(1155−1225)は漢字仮名交じり文で歴史書「愚管抄」を著わした。「愚管抄」とは、天台宗僧侶の慈円著による、鎌倉時代初期の史論書である。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立した。慈円は藤原摂関家の一員であり藤原忠通の子である。四度も天台座主(比叡山)を務めたが、平安中期以降を貴族の時代から武士の時代への転換と捉え、「末法思想」と「道理」の理念とに基づいて、仮名文で政治の歴史を論じた。源頼朝の政治を道理にかなっていると評価している。慈円は密教僧として、また歌人として風雅にかかわり、歴史家として政治にかかわったので、空海の基本系に一番近い人であった。歌人としては「新古今集」に92首も入選しており、西行についで数が多い。慈円は「拾玉集」において、空海の「六大体論」を受け継いで、和歌の精神は「五大五行」や「真俗一如」と同じであると述べる。愚管抄では歴史の道理を重要視し、密教僧として現世の「顕」の世界から「冥」の世界すなわち怨霊、妖怪の邪悪なものを鎮めたり、払いのけたりすることが出来ると考えていた。
20世紀の九鬼周造(1888-1941)ほど空海の変奏者として最適な人はいないと本書はのべる。「風流に関する一考察」で風流には破壊的離俗性と芸術的耽美性が働いていなければならないと考えた。そして第3に自然が芸術の契機となる。美的価値は華やかと寂しい、太いと細い、笑いと厳しさの対立する極で構成されるとして、諸般の芸術を分類した。九鬼はヨーロッパから帰国後その洞察を活かして「いき」の構造」(1930) を発表する。これは、日本の江戸時代の遊廓における美意識である「いき」(粋)を、現象学という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文である。この著作は、哲学書・美学研究書・日本文化論そのいずれの枠にも収まりきらない異色の書として、日本思想史上、際立った存在となっている。「日本的性格」という本で、自然と意気と諦念を3つの契機とみた。「すめらみこと」のすめらに二つの意味を持たせ、統ぶ(意気)と澄む(諦念)と見る政治学でもあった。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system