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町田徹著 「日本郵政ー解き放たれた巨人」

  日本経済新聞社 (2005年11月 ) 

私的独占企業体「郵政」を生んだ小泉首相・竹中大臣の功罪

日本には「政府系・・・」という組織がやたら多い。明治政府時代ならともかく、いまだに政府依存というより政府の虎の衣を借りた人をだます狐(官僚組織)が横行する民主化以前の社会かもしれない。最近の世論誘導の手として「政府系NGO(非政府系組織)」という「トロイの馬」のような組織や、政府から認可してもらって税金を逃れるNPO(非営利団体)がいて笑って済まされない問題となっている。本書の町田徹著 「日本郵政」は、順序からすると逆なのであるが、町田徹 著 「東電国有化の罠」(ちくま新書 2012年6月 )を読んでから本書を知り、過去の問題とはいえあまりに消化不良の問題である「日本郵政」を勉強する気になった。著者の町田氏のプロフィールなどはそこで紹介したので参考にして欲しい。東電という「官僚以上に官僚的」といわれる組織は、福島第1原発事故の損害賠償を逃れるためや、資金ぐりなど経営危機を乗越えるために政府保証を導き出すなどの暗躍をおこなっている。この場合の政府組織は経産省資源エネルギー局であり、責任を問われるべき組織解体を免れるためのさまざまな画策を弄している。日本郵政は橋本内閣の行政改革において、郵政省を解体して郵政3事業を引き継いだ「郵政公社」(100%政府組織で民営化までの時限組織である、2003年から2007年まで)を前身とする。本書は日本郵政がはたしてJRやNTTのような民営化という言葉に価する組織なのかを問う書である。小泉首相や竹中平蔵大臣の奮闘によって「郵政解散」のウルトラCクラスの政局離れ業までやって何が生まれたのだろうか。我々国民の目からすると。いまいちよく分からない紛争であった。筋書きがわからない忠臣蔵の派手な立ち回り劇を見ているようであった。それに比べると猪瀬直樹氏が孤軍奮闘した道路公団民営化の方がまだ分かりやすかった。猪瀬直樹著「 道路の権力」(文春文庫 2006年3月)猪瀬直樹著「 道路の決着」(小学館 2006年5月)に猪瀬氏の獅子奮迅振りが記録されている。しかし道路公団の膨大な借金を返すために、分割化された組織が高速道路料金を取り続けることには何も変わりがなくがっかりしたものだ。これも組織だけをいじくった官僚の生き残り策かもしれない。

本書は実質的には2005年8月の郵政関連4法案の成立までの経過を描いている。郵政民営化の歴史は実は小泉氏に始まったものではなく「大蔵省・郵政省100年戦争」の言葉のように、銀行と郵便局の権益争いであった。手紙を配る郵便配達がいつもは攻防の楯に使われるが、大蔵省・銀行のねらいは金利や貯金規模への観賞でありあわよくば、郵便貯金や簡易保険を郵政省より取り外して大蔵省に移管させることにあった。これほど巨大な貯金残高・保険契約高(あわせて約300兆円)になるとは、大蔵省・銀行も予測できなかった。市場状況を左右する巨大コングロマリットが政府系組織として市場のアクターとなると、市場に不公平感と軋みが発生する。それもこれも根は明治時代の戦費調達に個人資金を狙ったことにある。戦費調達に貢献した郵政省の功績であり、市中銀行が個人資金を軽視したつけを妬むというのも大人気ないという論がある。戦後は郵便貯金・簡易保険は厚生省の年金や健康保険と同じように、法律によって財政投融資にだけ回され、道路や鉄道やインフラ整備に貢献し歳費(特別会計)の膨大化をもたらした。政府系銀行、道路・住宅公団などの財政投融資を改革するには金の出口改革だけでなく、金の入り口の改革が必要だと、富田俊基著「財投改革の虚と実」(東洋経済新報社 2008年1月)は述べている。「財投(財政投融資)とは、国の信用力を背景に融資などの金融的手法を用いる財政政策であり、政治と市場による規律が求められる。安易な市場原理主義に任せることは危険である」と財務省の意見が述べられている。したがって郵貯や簡保が民営化によって民間市場に運用されること(今は法律で国債以外の運用は禁止)は歓迎していない。郵政民営化で公団側が郵便配達サービスの「ユニバーサルサービス(全国一律のサービス体制)」を人質にして、組織の分割を阻止する論を展開するが、実はこれは目潰しに過ぎず、守るべき天守閣は郵貯や簡保の金であり、最終的には民営化によって運用権を自由にしたいことである。そういう意味では「郵政官僚や公団側は民営化に反対」と捉えるのは的を得ていない。彼らは最終的には郵便事業は手ばなしてこれは別の運営(アメリカの基金運営法)でもいいと考えており、結局譲れないことは郵貯や簡保の拡大自主経営権や自主資金運用権である。

日本郵政組織図
日本郵政の組織図

上の組織図は2007年に設立された持株会社「日本郵政株式会社」(ただし当面は100%政府持株)で、郵便、郵便貯金、簡易保険、窓口ネットワークの4子会社を従えるコングロマリットである。その規模は他を圧倒する。職員数は常勤・非常勤を合わせた37万人でトヨタ自動車の26万人を超える。郵便の総引き受け数は250億通、ヤマト運輸の25億個のざっと10倍、郵便預金残高も214兆円を誇り、メガバンク筆頭の三菱UFJ銀行の113兆円の2倍である。いかに巨大な存在であるかが分かる。明治以来130年の蓄積のすごさを表している。小泉首相・竹中民営化担当大臣の国会答弁では、総論ばかりで具体的な中味は語らなかったので、誰しも郵政民営化後の実体はよく分からなかった。民営化の利点といえば料金の低廉化を期待する人が多い。実際に道路公団民営化で高速料金は安くなったし、NTTの誕生では他者との競争原理と電線というインフラ解放によって劇的に通話料金やインターネット使用料が安くなった。しかし今回の郵政民営化では料金の低廉化は全く期待できないばかりか、むしろ料金の値上げさえ示唆する有様である。これは「民営化」の概念が郵政民政化では通用しない事を示すものである。民営化を選択するなら、単に公団を「株式会社化」するという看板替えではないはずであろう。NTTのような地域分割さえ郵政の場合は考慮されていない。つまり独占力、市場支配力をそのまま日本郵政に付与しているのだ。小泉首相は民営化の中味をよく議論したのだろうか。どういう構想で臨んだのか、または構想を持っていなかったのだろうか。公務員という呼称を許さない形だけの民営化であったように思われる。功をあせって実質的な中味は官僚の裁量に任せたか、むしろ官僚は民営化を武器に、人事・経営内容について国会の審議を不要とし、国民の意見を聞く必要のない自主的な経営、運用の権利を獲得したといえる。郵政官僚の大勝利である。国営という形が宿命的に負う国会の監視という縛りから脱することが出来、かずかずの独占という優遇策を法律で確保したままで最初から市場原理を排除し、従業員カットなどによる経営合理化を行なって役員報酬を自由にして、民業を圧迫する新規事業(金融商品開発)という拡大策を無制限に行え、数百兆円の金の運用が出来るというメリット(国民にとって民営化の弊害)を発揮できるのである。小泉首相という偏執狂が行なった郵政改革とはこのようにお粗末な「改革」であったというべきだ。さて日本郵政公社から日本郵政株式会社への動き、およびその後の政治の動きとして国民新党と民主党連立政権の郵政民営化の見直し作業を整理して本論に入ろう。

日本郵政公社 日本郵政公社は、2003年(平成15年)4月1日から2007年(平成19年)9月30日までの4年半にわたり、日本で郵政三事業(郵便・郵便貯金・簡易保険)を行っていた国営の公共企業体である。公社の役職員は、法律で特に国家公務員の身分が与えられ、役員は国家公務員法にいう特別職国家公務員、職員は一般職国家公務員とされた。 廃止された2007年(平成19年)9月時点において、世界最大の金融機関であった。
総裁 初代:生田正治(2003.4 - 2006.3) 第2代:西川善文(2006.4 - 2007.9)
副総裁: 團宏明  高橋俊裕  高木祥吉(2007.4 - 2007.9)

日本郵政株式会社 2007年(平成19年)10月1日に郵政民営化に伴い、郵政三事業を含む全ての業務が日本郵政グループとして日本郵政株式会社及びその下に発足する4つの事業会社(郵便局株式会社、郵便事業株式会社、株式会社ゆうちょ銀行、株式会社かんぽ生命保険)へ移管・分割され、日本郵政公社は解散された。これにより、内務省以来130年以上にわたり政府によって運営されてきた国営としての郵政事業は幕を閉じた。民営化までの動きは 2005年(平成17年)10月14日 - 郵政民営化関連法可決・成立 。2006年1月23日 - 民営化の企画準備を行う会社として日本郵政株式会社が発足。2007年10月1日 郵政事業の民営化が行われる。
日本郵政株式会社取締役会長:西岡喬(元三菱重工業社長) 社長:齋藤次郎(元大蔵事務次官) 副社長:坂篤郎(元大蔵省主計局次長)、高井俊成(元日本長期信用銀行常務)
郵便事業株式会社 会長: 北村憲雄(イタリアトヨタ会長)  社長:團宏明(日本郵政公社副総裁・郵政事業庁長官)
郵便局株式会社 会長:川茂夫(イトーヨーカ堂執行役員)  社長:寺阪元之(スミセイ損害保険社長)
株式会社ゆうちょ銀行 会長: 古川洽次(三菱商事常任顧問)  社長:高木祥吉(日本郵政公社副総裁・金融庁長官)
株式会社かんぽ生命保険 会長: 進藤丈介(東京海上日動システムズ社長)  社長:山下泉(日本郵政公社理事、元日本銀行金融市場局長)

郵政民営化の見直し 郵政見直しをかかげた国民新党とは、2005年8月、自民党の綿貫民輔、亀井静香ら「郵政事業懇談会」所属の国会議員が郵政民営化を巡る党内抗争の結果、離党して結成。他に亀井久興、長谷川憲正が参加した。民主党からも田村秀昭が参加した。中村慶一郎が顧問に就任している。2009年9月より、民主党と共に連立政権を組んでいる。結党時は郵政民営化反対を最優先の公約として掲げた。日本郵政グループへ組織が再編された現在も、グループ企業の株式売却凍結と分社化に伴う窓口サービス低下を改善するための組織再編が必要であると強く主張し、連立政権でも郵政改革法案の早期成立を目指している。2009年10月20日 - 鳩山由紀夫内閣、郵政民営化の見直しを閣議決定。西川善文が社長辞任の意向を表明。2012年10月1日 - 「郵便事業株式会社」を「郵便局株式会社」に吸収合併させて、郵便事業会社の営業拠点も全て「郵便局」に統合または改称した。連立政権は郵政民営化の見直しを連立公約に掲げたが、見直しの最終像が見えないし、民主党自体があまり乗気でないことから、つぎの総選挙で腰砕けになりそうである。

1) 郵政公社を巡る攻防

2005年5月日本郵政公社の民営化に向けた助走が開始された。コンビニ業界で全国6300店舗を持つ「サンクス」、「サークスK」が宅配便サービスを「クロネコヤマト」から、公社の「ゆうパック」に切り替えると発表した。これでローソン、ミニトップ、am/pm、デイリーヤマサキについで五社目となりゆうパック陣営は1万9400店舗にふくらみ、業界ガリバーのヤマト陣営(セヴンイレブンとファミリーマート)の取り扱いコンビニ店舗数1万7400店舗を店舗数だけからは抜いたことになる。時は小泉首相が衆議院「郵政解散」に踏み切ったばかりであった。情勢は混沌としていたが、国会郵政族や全国特定郵便局長会、全逓労組の民営化反対をよそに、郵政公社は民営化への舵を切っていたのである。ゆうパックのシェアは業界の6%程度の赤字続きで公社の最大のお荷物であった。それを強化使用としたのが初代総裁の生田(商船三井出身)であった。生田は攻めの公社に変えた立役者であった。生田がまずやったことはヤマトへの攻撃である。9月ヤマトは公社をローソンとの取り引きが「不公正な取り引き」に当たるとし、ゆうパックの料金が「不当廉売」にあたるとして提訴した。たしかに郵政公社には政府融資や法人税の免除措置があり、駐車禁止区域に駐車できる特権などがあり、誰が見ても公平な競争ではなかった。2005年9月に成立した「郵政民営化関連6法」のポイントをみると、第1に公社は2007年10月に「日本郵政株式会社」に移行することである。日本郵政株式会社の株は10年をかけて(2017年までに)2/3を市場で売却して(政府は1/3の株は保有し影響力を持つ)「完全民営化」することになっている。実質的に日本郵政株式会社は永久に日本政府の庇護を受ける約束が出来ている。これは政府の「特殊会社」であって民営化といえるかどうか疑問だ。組織は上の図に示したように傘下に四つの事業会社を100%子会社として従える。郵便事業会社と窓口ネットワーク会社の2社は国営事業だった郵便事業を「私的独占」することを認められた。これは小泉郵政民営化の最大にして致命的な欠陥の一つである。

郵政公社は総務省の管轄とし、料金改定は総務大臣の認可を必要としたが、民営化後は「届け出」で済むことになり、2012年東電でさえ「値上げは東電の自由だ」と叫ばなければならなかったが、郵政株式会社は「値上げの自由」を手にした。郵政公社はこれまでヤマト運輸が請け負っていた東武百貨店の配送業務委託を受け、日立物流との連携、全日空との連携に乗り出した。こうして日本郵政の物流市場支配への助走が始まった。そして国鉄やNTT民営化の際にフ不可欠とされた「地域分割」が抜け落ち、全国一社の超独占郵便会社の誕生である。竹中平蔵の「私的独占」を許すという形だけの民営化であった。すると小泉首相の郵政民営化という手法は、中味はそのままにして、田中首相から橋本首相に繋がる郵政族の一掃(橋本首相の1億円献金問題で、青木・野中の政治生命は絶たれた。これも国策捜査であろうか)と、自民党の集票マシーンといわれた明治以来の「全特(全国特定郵便局長会)」の無力化(そのために自民党の55体制は崩壊し、民主党へ政権が移った)という政治目的があったようだ。しかし小泉首相は自民党政権を潰すことが本望であったのだろうか。自民党の郵政事業懇話会の歴代会長は、金丸信、小渕恵三、野中広務、綿貫民輔らのかっての田中派に連なる政治家であった。こうして自民党は公明党の集票力にたよる腐敗した政治集団に化し政権から滑り落ちた。2005年6月日本郵政公社は新しい金融商品である投資信託を扱うため、投信の「窓口販売システムの開発と保守契約」を野村證券が出来レースのように格安の落札でかっさらった。郵政官僚のドンといわれた五十嵐三津雄を顧問に迎えた野村證券がほぼ無競争で受注したのだ。郵貯は大和証券とシティバンクの2社とATMのオンライン提供を結び、全銀協加盟の金融機関の切り崩しを図った。各銀行だけのATMに比べると郵政公社は全国2万4000局はATM で結ばれている。(郵便通帳やカードで全国どこの郵便局でも入出金ができるが、銀行や信金は狭い範囲でしかできない。)このネットワークこそが個人資産全体(1360兆円)の約1/4を囲い込むことができたのである。2005年8月日本郵政公社は3本の投資信託を開始した。野村の「グローバルライフスタイルファンド」と、大和証券の「日経225インデックスファンド」、ゴールドマンサックスの「TOPIXインデックス+αファンド」である。もちろん本命は野村のライフスタイル型であった。郵貯の残金は2005年末で208兆円と6年前に比べると44兆円も引き出されている。資金の流出を食止めための新戦力が投資信託」であった。

郵政公社の投資信託への検討は1990年代半ばに遡る。しかし財務省・銀行・生保業界の「民業圧迫論」が強く、元金割れの可能性がある商品に郵貯が手を出すのは反対論が強かった。公社の生田会長は「民営化する以上は業務拡大を」という要求が入れられ、2004年「日本郵政公社投信窓販法」が成立し開始の道が開けた。投信販売計画は極くつつましく過少計画で刺戟しないよう配慮されているが、誰も信用しない。民営化後も第3種郵便制度を引き継ぐことから、巨大な広告物の割引配達サービスができる。民営化によって郵便、郵貯、簡保の3業種に限定されていた業務は広範な「経営の自由化」を得る。先ず考えられるのは大都市郵便局の一等地利用による不動産賃貸業への進出が検討されているようだ。パワー乱用に対する歯止めは小泉郵政民営菅は何ら考慮していなかった。公社は日本有数の土地持ちになった。そこで問題は上に書いた日本郵政株式会社の役員名簿(トップだけをみても)に見るように、民間企業からの入閣が非常に多いことである。これを「天上がり人事」という。彼らは当然出身会社の意向を考慮するので、郵政一家(政治家と官僚)が食い物にしてきた利権を今度は民間会社が食い荒らす可能性が高い。天下りと同様天上がりの弊害も大きいことは肝に銘じておかなければならない。日本郵政公社に役職を送り込んでいる企業とは、商船三井、東京海上火災、三井物産、損保ジャパン、三井住友火災保険、三菱地所、三井不動産、三井物産、住友信託、三井信託、野村総研などである。日本郵政は民営化後飛躍的に業務をひろげてゆくだろう。国際物流、証券仲介業、ローン業界、クレジットカード、医療・がん保険、不動産業、郵便局のコンビニ化などなどが準備されているのだろう。当然のようにして信書便の独占、値上げの自由が与えられ、2万4000局という全国一律のインフラと営業網ががそのまま分割もされずに無傷で継承できたことは、小泉改革がいかに内容の考察を欠いた、志のないお芝居であったかということである。

2) 小泉郵政大臣と郵政改革の原点

自民党の集票マシーンといわれた特定郵便局長会のいきさつをみておこう。1872年逓信省の前島密は郵便制度の全国展開を成し遂げるに当たって、国が建設したのは大都市のわずか六ヵ所だけで、全国1200箇所は名主など有力者の無償提供による「郵便取扱所」であった。これが1941年に「特定郵便局」になるのである。特定郵便局長の世襲も、公務員扱いも、わずかばかりのお手当ても、場所と建物の無償提供の見返りであった。地方では郵便局長は信用のある名士であり、かつ地方のボス的存在であった。横須賀の小泉家は3代にわたってこの特定郵便局の集票マシーンを引き継いでいた政治家一族である。ところが1969年父が死んで学生であった小泉純一郎氏は突如立候補を宣言する。後援会や派閥のボスであった福田赳夫は寝耳に水で全く了解したわけでなかった。純一郎氏はライバル田川誠一に敗れた。これを地元の特定郵便局長会の謀反と逆恨みをして、長くこれを根にもったと本書はいうのである。ここから小泉純一郎に郵便局への攻撃が始まるとまことしやかにいうのだが、わたしには本当かどうか分かるわけもないので、小泉純一郎氏の個人的なことは触れないでおく。そして1992年宮沢喜一首相は内閣改造で小泉氏を郵政大臣に任命した。就任記者会見で大臣は普通は省のご進講のままに話すものだが、小泉氏はいきなり「高齢者マル優の限度額引き上げには反対だと郵政省官僚の意向とは違う発言をした。利子所得の非課税限度枠は、銀行預金、国債、郵便貯金のそれぞれ300万円、合計900万円までが非課税となっていた。限度額について銀行・大蔵省と郵政省のつばぜり合いから、自民党の税制調査会は郵貯枠を50万円に圧縮する事を決定し政府もこれを認めた。この「小泉ショック」を受けた郵政省は事務次官が辞任し、官僚側は大臣に対する執拗ないじめを始めたらしい。大臣就任後小泉大臣は官僚トップの二人の辞任を求めたが、官僚側は官邸に根回しして小泉氏の意向を打ち砕いた。この郵政大臣としての経験が小泉氏の「アンチ郵政省」、「郵政改革」の私憤となっていったようであると本書はいう。小泉氏が政治生命をかけて戦ったという「郵政改革」を語るには、大蔵省と郵政省の100年戦争と「全特」そして小泉氏の私憤を抜きには語れないようだ。

郵便貯金と銀行金融機関の百年戦争を振り返ろう。郵便貯金が始まったのは1875年のことである。1941年に定額郵便貯金が導入され、1947年に郵便貯金法が制定された。第1条は「全国一律、国民の誰もが利用できる」というユニバーサルサービスを述べている。第2条は郵貯は国が行う事業であって逓信大臣が管理する。第3条は「郵貯の元金・利子ともに国が保証する」。第7条は郵貯の種類を述べている。郵貯、定額郵貯、積み立て郵貯に加えて定期郵貯、住宅積立貯金、教育積立貯金が追加された。第10条は預け入れ限度額(元金保証)は1000万円とする。第12条は金利を政令で変更できることにした。郵貯の肥大化は戦後間もなく始まった。郵貯の中心は定額貯金で全体の87%を占める。この膨大化した郵貯のどこが問題なのだろうか。第1は郵貯が簡保や年金と並んで財政投融資(特別会計)の資金源となったことである。財投に占める公的セクターの割り合いが大きくなりすぎたことが問題だった。第2に金利政策上、日銀は銀行預金だけにしか影響力がないことで、いわゆる金利二元体制が問題である。第3は郵貯と民間金融機関との市場シェアーの問題である。1980年「郵便年金」問題を郵政族の伊藤宗一郎氏が押したことについて、大蔵族であった小泉氏は自民党財政部会から反対した。宮沢首相は妥協策として、郵貯年金を認める代わりに「郵貯懇」諮問期間を設け、金利の一元化、官業への資金集中問題を検討する事を打ち出した。ここから正式に郵政改革が始まるのであった。郵政省官僚側はこの「郵貯懇」委員をコントロールしようと画策したが小泉氏は人事を守った。「郵貯懇」は1981年8月大蔵省よりの報告書をまとめ、郵貯金利を民間預金金利に直ちに追随すること、資金は国債に限り、株式投資や自主運用を否定した。郵政族は自民党通信部会によって、官僚は省の「郵政事業懇話会」によって猛反対した。大蔵族は「自由経済懇話会」に竹下登を担いだが、「三大臣合意」によって大蔵側の意見は葬られた。

3) 橋本首相の行政改革

1993年自民党は一度下野し、1994年7月社民党・さきがけと村山富一連立内閣を組んだ。その内閣の通産大臣が橋本龍太郎氏で、郵政省と通産省は10年来IT分野で権限を巡って争いをしていた。その二元行政に苦々しく思っていた橋本氏は首相になったら最優先課題に行政改革(省庁再編)を志したという。1996年1月首相となって橋本行革が開始された。橋本行革で郵政改革は大蔵省改革とならぶ柱となった。そのときの郵政省事務次官は五十嵐三津雄氏で行革反対の先頭に立った。郵政族のドンは当時は小沢一郎氏である。小沢が自民党を飛び出してからは小渕恵三が郵政族のドンとなった。1997年8月22日、行革会議は「中央省庁の1府12省への再編」と「郵政3事業の見直し」の集中審議を行なった。9月3日に出た行革会議中間報告は「簡保は民営化、郵貯は民営化のための準備に入る。郵便は引き続き国営事業とする。通信放送業務は総務省の管轄。情報通信は産業省に移管」という郵政省官僚にとっては衝撃の郵政解体案であった。自民党行革推進本部は郵政3事業を一体のままで国営事業として残す案をまとめ、行革会議に対抗した。ここで郵政族議員の糾合に動いたのが郵政官僚と特定郵便局長会であった。郵政官僚は国営化死守の一点張りで妥協の余地はなかった。水面下でYKKトリオ(加藤・山崎・小泉)の調整懐柔策や「運輸逓信省」などの案が浮上したが、煩雑になるので割愛する。結局1997年11月16日政府の行革会議が行われ、首相権限を強化する内閣法改正、内閣府の設置、厚生省と労働省の統合、環境庁の環境省への格上げ、通産省の改組などが決まった。白見郵政大臣の妥協案も空しく、野中官房長官の腹は決まっていた。18日閣議で首相一任を取り付け、政府の最終案は「郵政省テレコム3局を2局として総務省へ移管する。郵政3事業をまず郵政事業庁へ移管し、2003年に政府全額出資の郵政公社に移管する」という内容であった。12月3日行革会議は最終報告をまとめた。これで郵政3事業が民営化に向けて長い道のりを歩むことになった。経済失政で人気をなくした橋本首相は翌年1998年7月の参議院選挙で大敗して退陣した。後継首班選挙で小渕恵三、梶山静六、小泉純一郎氏が立候補したが、小渕恵三氏が首相となった。

4) 小泉首相の郵政改革

2000年4月小渕首相が緊急入院し帰らぬ人となった。自民党実力者の「密室の話し合い」で森喜朗氏が後継に決まった。2001年森降ろしがさんとなり7月の総裁選では橋本龍太郎、小泉純一郎、亀井静香、麻生太朗が立候補したが、3度目の正直で小泉氏が総裁となった。小泉氏は2003年の郵政公社の発足を待たずに、民営化論議を始めた。それに噛み付いたのは野中広務で、「2003年の公社化で、郵便事業は民間参加を考慮するが、それ以上の見直しは行なわない」とする基本法を楯に小泉首相に対する対抗姿勢を鮮明にした。小泉首相は民営化をしないのは公社発足までであって、発足後には民営化に向けた検討を行なうことは法に反しないし今から準備活動を行なうことは必要であると切りぬけた。小泉首相の「抵抗勢力」に戦う姿勢はメディアの喝采を得て独裁権力者振りを発揮した。そして郵政族の抵抗は、2002年3月「日歯連1億円献金疑惑」に事寄せて、小泉が橋本・野中・青木の政治生命を絶った形となった。一方総務省は「郵便の民間開放」の積極的なポーズをとった。これは基本法で明確に書かれているのである。官僚はこれを出来るだけ骨抜きにし、きわめて限定的な「部分参加」にとどめようと目論んでいた。2002年5月小泉首相は私的「民営化懇談会」を内閣官房においた。総務省官僚は「公社化研究会」を8月に立ち上げ、民営化や民間解放の骨抜きだけでなく地域分割阻止までを防衛線とする対抗策を講じていた。そしてリーク戦略により合理化計画を流して世論の誘導につとめた。少しづつリークして世間の反応を見ることを「合理化たまねぎ戦法」という。小泉政権は2002年7月参議院選挙に勝利し、小泉改革の国民の支持は高まったと総裁再選に無投票で勝利した。「民営化懇談会」は公社の経営計画も見えない中で、公社化後の民営化計画を議論することには困難を憶えたようだ。

総務省の「公社化研究会」は小泉首相を無視したかのように、11月早々と中間報告を発表し、無条件的な前面開放は無いとした上で、段階的な開放が有力であるとした。「民間参入については、信書という郵便の基礎部分に浮いては、最初から参入者にグローバルサービス義務をかける」と主張し、新規参入のハードルを極めて高くした。NTTの電線を民間で1から架設しろというのと同じことで(NTTは民間業者の電線相乗りを許可した)、全国の数百万本のポストと郵便局(2万4000箇所)を設置しなければならないと企んだ。郵政公社は130年間の税金を使ったインフラを私物化し、民間には使わせないという排他的独占的な官僚根性を露にした。小泉首相がこのグローバルサービス義務を理解していなかったという落し話があった。いまでも郵便局のコスト構造は原発発電コストと同様に闇の中にある。「民営化懇談会」も「公社化研究会」もそして民間業者も、この総務省官僚のつくったグローバルサービス義務論議に飲み込まれてしまった感があった。この官僚の欺瞞を審議会の識者も突き崩せなかった。ここで小泉首相がとんでもない落しどころを暗示させる発言をしてしまった。小泉首相は総務官僚に向かって「ヤマトはやる気なんだからさ」といったという。国営とヤマトの2社独占カルテル構想を暗示させるかと勘違いした官僚は、ヤマトは30万の取り扱い拠点をもっているので、10万のポストの参入条件なら業界1位のヤマトだけなら応じられるだろうという高いハードルを設定しこの線で動いた。しかし4月26日信書便法案が閣議決定されると、ヤマト運輸は「民間を官業化するものだ」として参入を断念すると発表した。「民営化懇談会」の無残な失敗が決定的となった。

2004年7月の参議院選挙で小泉政権は民主党に敗北した。竹中平蔵の比例代表での大勝ちだけが小泉首相の「郵政民営化」に活路を見出したようだ。論議は「民営化懇談会」から2003年10月より「経済財政諮問会議」に移った。小泉首相が議長で竹中以下閣僚の4名と民間識者の4名が参加した。竹中大臣は「民営化5原則」を提示した。議事は小泉首相の独断場で進んだという。信書便法がヤマトの不参入を招いたとも言えず、信書便法の見直しは不問にされた。このような内容の本質的な齟齬は小泉改革の杜撰さを示すものである。本人は少しも意に介しないことが改革の致命傷となる。「経済財政諮問会議」は閉ざされたままの信書事業への民間参入への努力を欠いたまま、民営化後の郵政公社が「私的独占体」となる事を容認した。小泉首相の最低限の要求は「公務員の身分を剥奪する」事にあったようで、「地域分割」や「持ち株会社の設置禁止」ということは脇に追いやられ忘れさられてしまった。2003年4月に日本郵政公社が発足すると、郵政官僚は概ね3つに分断された。@日本郵政へ移管されたグループ(ドンは団宏明氏)、A総務省の郵政行政局という管理組織へ移管されたグループ(ドンは松井浩氏)、B通信放送グループ(ドンは有富寛一郎氏) 小泉首相から抵抗勢力の作戦本部といわれたのは第2グループである。松井浩氏は2005年に職務を外され退官した。公社副総裁となった団氏が「民営化を前提にした特権の温存」策の象徴とし機能するのである。次々と条件を出して、功を焦る小泉首相や竹中大臣からアメを要求し獲得していった。「経済財政諮問会議」は最初から「地域分割」を諦めていたようだ。それは「M&Aによる企業買収から日本を代表する郵政を守るには強い規模と体力が必要だ」という論理で最初から超独占企業が思考されていた。さらに郵便貯金銀行と簡易保険会社の株をいずれすべて売却する場合、リスク遮断をする必要がある。したがって持株会社の1/3を国が保有する必要があると云う理由で持株会社を親会社のように位置づけている。郵便事業は100%子会社としてぶら下がる方式などが容認されていった。こうして2004年8月2日経済財政諮問会議は結論を急いで「民営化の基本方針骨子」を取りまとめた。

竹中大臣による「民営化の基本方針骨子」とは以下である。
@ 経営の自由化、民間との公平、事業間リスク遮断
A 2007年に日本郵政公社を民営化する。
B 民営化と同時に職員は公務員の身分を離れる。
C 移行期間の当初から納税など民間企業と同様の義務を負う。
D 2017年まで持株会社を設置し、4事業会社をぶら下げる。
E 窓口ネットワーク会社は小売、サービスなど地域密着の幅広い事業への進出を可能とする。
F 郵便会社はユニバーサルサービス義務を課し、必要なら優遇措置を講じる。
G 郵貯、簡保会社は民間と同様の法的枠組みには入り、政府保証は廃する。金融市場の動きを見て実質的な民有民営を目指す。
H 民有化前の郵貯・簡保にはなんらかの公的な保有形態を考える。
I 分割については新経営陣の判断に任せる。
2005年4月27日「郵政民営化関連6法案」が閣議決定され、衆議院は辛うじて通過したが、参議院で否決され小泉首相は「衆議院の郵政解散」を行なった。大勝した小泉首相は再度法案を衆議院を通過させた。こうして前代未聞の独占企業コングロマリットが誕生した。企業のフィリーハンドの自由を有し、数々の法律で独占を享受し、130年間に築いた巨大なインフラを分割することなく維持した超優良会社を民間の誰が追い詰めるだろうか。


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