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堀坂浩太郎著 「ブラジルー跳躍の軌跡」

  岩波新書 (2012年8月 ) 

民主化社会制度と市場・資源経済によって世界に躍り出たブラジル 

BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国の頭文字)諸国という括り方ももはや古くなったといわれる。先進国に対して中進国というような区別であろうが、資本と投資、技術と資源、為替格差といった古い南北関係の枠ではもや捉えられなくなった。1人断突に抜け出たのが中国でありGDPでは日本を抜いて世界第2位となった。ブラジルもイタリア・英国を抜いてGDP世界第6位に躍り出た。中国経済なしには日本経済は立ち行かない。なのに突然尖閣諸島(魚釣島)領土問題が右翼石原都知事のすじから湧き出て日中関係が怪しくなりそうであるが、いずれ経済界の圧力でこのような民族主義的暴挙は抑えられるであろう。それくらい日中関係は重要なのである。ではなぜ時代遅れの民族主義的構図(北朝鮮拉致問題もおなじ構図)が出てきたかというと、2011年3月の福島第1原発事故により、失敗した政治の責任追及が為政者に及ばないよう(特に旧自民党・官僚連合体)、国民の目を盲目的国粋(排外)主義で麻痺させることが目的である。だから石原都知事と安倍自民党総裁のラインから尖閣諸島の紛争が企画されたのである。それは、原発再開と自民党の総選挙と政権獲得の伏線でもある。日中経済関係の重要さをいうために、尖閣諸島問題を云々したが、本題はブラジルである、話をブラジルに戻そう。世界経済の構図が再び塗り替わりつつある。G8だけではもはや世界金融危機を乗り越えられないのでG20が組織され、地球温暖化問題でも京都議定書の枠組みではおさまりそうにないので、アメリカと中国の責任を重視する流れにある。その原因は先進国のアメリカ、EU、日本の相対的力量が低下したためである。世界金融危機の発信源であるアメリカ、20年来の不況に悩み大幅な経済力低下の日本、ギリシャ国債信用不安に発するEUの苦しみがそれである。

中国の経済発展の原動力は市場主義による「開発独裁体制」もしくは「国家資本主義」とも言われ、ブラジルの経済発展の原動力とは大分異なる。唐 亮 著 「現代中国の政治ー開発独裁のゆくえ」(岩波新書 2012年6月)にも述べたことだが、日本の明治維新と同じように中国は強力な国家主導で経済発展を成し遂げた。中国においては社会体制は社会主義で共産党独裁で、民主主義は経済発展と直接的には結びつかなかった。ブラジルは民主化によって軍政の政治経済体制を建て直したことに意義があると本書は強調する。民主化と市場経済の発展は車の両輪であったという。著者はブラジルへの思い入れが強く、深くブラジルの民主化過程を観察している。ここで著者堀坂浩太郎氏のプロフィールを紹介する。掘坂氏は1944年東京都生まれ、1968年国際基督教大学卒業後、70年より1983年まで日本経済新聞社記者となり、72年財団法人国際開発センター研究助手、78年サンパウロ支局特派員としてブラジル在住となる。帰国後83年上智大学外国語学部ポルトガル語学科助教授、教授となり、2003-04年外国語学部長。専攻はラテンアメリカ(特にブラジル経済)地域研究である。87年『転換期のブラジル』でヨゼフ・ロゲンドルフ賞受賞。著書には、「ドキュメント・カントリー・リスク 金融危機世界を走る」( 日本経済新聞社 1983.6)、「転換期のブラジル 民主化と経済再建」( サイマル出版会 1987.7)などがある。共著としては、「ラテンアメリカ多国籍企業論 変革と脱民族化の試練 」( 日本評論社 2002.11)、「ブラジル新時代 変革の軌跡と労働者党政権の挑戦」( 勁草書房 2004.3)などがある。私はあまりブラジルのことは勉強してこなかったことを白状する。岩波新書で唐 亮 著 「現代中国の政治ー開発独裁のゆくえ」と本書が続けて出版されている事を知って、二冊あわせて経済成長の二大大国としての原動力は何かを勉強してみようと思った程度である。

本論に入る前に、ブラジルの今をおさらいしておこう。ブラジルは南米の大国で、日本とつながりの深い友好国である。
国名は「ブラジル連邦共和国」
人口は1億9075万人(世界第5位)、国土の大きさは南米の48%、日本の23倍、世界の5番目の面積である。首都は中西部のブラジリア(人口250万人)、言語は旧宗主国のポルトガル語(ブラジル周辺の9カ国はスペイン語)、通貨はレアルである。
政体は大統領制の連邦共和国、議会は2院制(上院81名、下院513名)、地方自治体は26州、連邦区1、市町村5565
国民総生産額GDPは2兆4929ドル(2011年IMF 世界6位、南米の60%)
ブラジルの政権の歴史は、
1829―1889年 ペドロ1,2世の帝政時代、1889−1964年共和制、1964−1985年軍事政権5代、1985より民主性に移行した。民主制の歴代大統領は、1985−1990年サルネイ、1990−1992年コロル、1992−1994年はフランコ、1995−2002年2期カルドーゾ、2003−2010年2期ルーラ、2011年−ルセフ(女性)である。

今ブラジルは2014年サッカーのW杯、2016年オリンピック・リオデジャネイロ大会、そして2022年独立200周年に向けて大きく沸いている。2011年1月1日ブラジルで始めて女性大統領が誕生した。ジルマ・ヴァナ・ルセフ大統領はブルガリア系移民2世である。就任後のルセフ大統領は「女性」を前面に出すことにより、社会に内在する格差に挑戦する社会変革のイメージを大胆に使おうとしている。閣僚37人のうち女性閣僚は9人である。南米に付き物の腐敗・疑惑を払いのけクリーンな政治執行を約束した。2010年代は大国ブラジル(地方の大国のみならず世界の大国へ仲間入り)にとって、国際的なプレーヤーとしての基礎固めの時期である。ここでブラジルの経済指標を挙げておこう。2011年におけるブラジルのGDPは世界6位となり、その経済成長の早さはゴールドマンサックスの2003年の予想によると英国を抜くのは2036年といわれていたので驚異的なスピードといえる。しかし国民一人当たりのGDPは日本の1/3以下である(中国の国民一人当たりのGDPは日本の1/10)。世界貿易に占めるブラジルのウエイトは輸出総額の1.3%である(英国は3.5%)、輸出品は一次産品(コモディティ)が中心で付加価値は低い産品である。ブラジルは2009年G20でIMFへの資金協力を約束し、債権国に変身した。つい最近までブラジルはIMFの債務国であったことから見ると180度の転換である。企業でいえば赤字計上から黒字計上に浮上したといえる。

2011年末の外貨準備高は世界5位である(1位中国、2位日本)。輸出経済からブラジルの歴史を見ると、16世紀は木材にはじまり、17世紀は砂糖、18世紀は金・ダイヤモンド、19世紀中頃からコーヒーの時代となるいわゆるモノカルチュア(単一産品)植民地型輸出であった。1822年ポルトガル王室のペドロ1世が独立を宣言して70年ほど帝政が続いた。1899年軍部による政変で王室は廃止され連邦共和制となったが、支配の実質は地主階級による寡頭支配であった。20世紀前半コーヒーの暴落によって輸出経済からの脱却、国民経済の建設へ向かったが、個人独裁蝕の強い長期政権下、国家主導で産業政策が進められた。戦後1946―1964年はトップダウンのポピュリズム政治が行き詰り、軍事クーデターによる軍政政権時代(1964−1985年)と続いた。首都ブラジリアの建設、製鉄・石油化学・自動車などの国産が外資導入によって進められ、1960年代には年10%の経済成長を記録した(ブラジルの奇跡)。1970年代には新興工業国群NICsの一員となった。1980年代に入ると経済面では多額の債務返済が不能となり、政治的には軍事政権が破綻した。1985年以降の民主化後の経済と社会再建が本書の内容である。

1) 軍政から民主制へ、ブラジル経済の動き

21年間続いたブラジル軍政は「官僚主義的権威主義体制」の典型として、軍人とテクノクラートによる支配体制であり、民主主義と全体主義のいわば中間概念として「権威主義体制」、「開発独裁」と呼ばれた。どこかで聞いた用語である、なんてことはない中国政治体制の共産党一党独裁を軍人専制に置き換えた政治体制のことである。唐 亮 著 「現代中国の政治ー開発独裁のゆくえ」に詳しいので省くが、民衆の力の弱い国で上からの経済改革を急速に進めるための便法である。日本の明治維新体制もこれに同じであった。軍政時代の経済を見て行こう。1970年代前半には「ブラジルの奇跡」といわれる10%の経済成長をもたらしので、軍政時代の経済政策はそれなりに効果があったというべきだろう。その政策の特徴は、第1に経済企画庁長官にエコノミストを迎え、成長とインフレの共存政策をとった。第2に戦略的経済計画を立案し、海洋油田計画、砂糖からエタノール燃料、中央高原のセラード農業開発、アマゾンの鉄鉱山開発に着手した。第3に経済アクターとしての政府の役割を強めた。政府直属の開発公社、政府系企業、工業団地開発を進め、産業を支えるアクターとして、民族系民間企業、政府系企業、外資系企業の3者が形成されたことである。第4はメガプロジェクト志向で、水力発電所や鉄鋼鉄道や幹線道路の建設事業を推進した。開発資金は国債や政策金融(財政投融資)、海外からの借り入れで賄ったが、1982年には累積債務が702億ドルに達したという。軍政が行き詰まったのもやはり経済の破綻が第1原因である。第1次、第2次石油ショックで打った数々の施策が効果を生む前に財政赤字と巨大な債務返済で窮地に立たされ、インフレ率は100%を越え欧州市場の貸付金利が20%となって、1982年IMFへの支援要請をおこなった。これはブラジル1国の問題ではなく、南米全体でラテンアメリカ債務危機が始まった。緊縮財政を求める「ワシントン・コンセンサス」が提示されたが、これからが「失われた10年」の始まりであった。又軍政が行った「開発主義」は社会の脱農村化・都市化を進め、貧富の格差が拡大し、ジミ係数は0.59まで増加したため、社会の不平等に対する不満が高まった。

1985年3月軍政下の官製与党の党首であったサルネイ大統領が就任し、軍部の承認を得た文民政府がまがりなりにもスタートした。本格的な文民政府は次の大統領コロル氏が1990年に就任したときからだという説もある。1995年よりカルドーゾ大統領、2003年よりルーラ大統領は2期8年の安定した民生政権となった。文民政府の歴史は前期(1985−1994年)の混乱期と後期(1995年−)の安定期に大別できる。ブラジル文民政権は多党連立政権を基盤とする。大統領は直接選挙であるが、議会は基本的に多党乱立状況である。安定期では概ね6―8党で過半数を制し与党連合となる。与党の中核はカルドーゾ大統領のときは中道左派のブラジル社会民主党PSDBで、ルーラ大統領のときはより左派色の強い労働者党PTとなり、ルセフ大統領においては与党PT路線が継承された。政治的には前期と後期にはっきり分けられるように、経済的にも前期の「失われた10年の経済危機」と後期の「安定から成長路線」と分けることが出来る。前期と後期の経済指標の変化を見てみよう。前期と後期の25年間で国民生産は2倍になり、経済成長率は大きくばらつくが前期が1.2%、後期は2.7%である。インフレ率は前期が1000%以上、後期は6%ぐらいで推移している。輸出額は前期300億ドル、後期は成長を続けて2011年で2560億ドルである。輸入額も同じく10倍ほど成長した。人口は前期は1億3000万人で始まり、後期の2010年で1億9075万人と増加した。貧困人口は前期5484万人から後期2010年で3963万人に減少した。ジミ係数は前期0.614から後期2010年で0.543と改善されてきた。これには1993年フランコ政権時に実施された「レアル計画」の安定化効果が大きい。財政均衡策から、ドルに連動する価格表示、1994年新通貨「レアル」発行で最後のデノミを行なったことである。そして外貨準備高にリンクして通貨発行を行なうとしたことである。これを「為替アンカー」という。

1999年1月から変動為替相場制に移行したのに伴い、アンカー役を為替から消費者物価上昇率の数値目標「インフレ目標」に変え、年率8%と定め2006年から4.5%に切り替えた。当然金利も低下した。やはりハイパーインフレの恐怖から通貨の安定が最優先課題である。コロル大統領は1990年に1800項目の輸入禁止品目の廃止に踏み切り、市場開放政策に切り替えた。関税引き下げなど貿易自由化に着手し、2011年で平均関税率は14―32%の範囲にある。前期には何度もモラトリアムを繰り返したが、1992年政府と民間銀行で返済繰延べに合意し、債務の証券化が実施された。又国営企業の民営化に着手した。後期のカルドーゾ大統領の時代は(1994−2002年)は引き続き多難な期間で、1994年にはメキシコの通貨危機が、1997年にはアジア通貨危機が、1998年にロシアのルーブル危機となった。2001年からアルゼンチンで政治・経済危機が発生した。1999年にブラジルは変動為替相場制に移行した。結果的にはブラジル経済の市場経済化を一層進めることになった。1ドル=1.2レアルが2002年には1ドル=3.95レアルまで下落した。おりしも世界経済は21世紀に入って長期性長期を迎え、レアル安は輸出産業の飛躍をもたらした。とくにGDPの躍進が著しい中国への輸出が急速に拡大し、2011年では中国輸出比率は全体の17%を占めている。決済に必要な外貨準備高は2011年に3520億ドル(16か月分)となった。こうした中ルーラ大統領の時代(2003―2010年)は、社会底辺の所得引き上げによって、新たな国内消費市場形成に注力した時代であった。ルーラ大統領はマクロ経済の3つの軸である基礎的財政収支の黒字、変動相場制、インフレ目標の堅持に勤めた。こうして為替相場は1ドル=1−2レアルに落ち着いた。社会階層で中間層にあたる「Cクラス」の比重が過半数を超え、国内消費の拡大によって2004年から2008年の間の年平均成長率は4.5%となった。2008年米国投資銀行リーマンブラザーズが破綻した。そして2010年ギリシャの財政破綻が顕在化しユーロ危機を迎えた。世界金融危機直後はブラジル経済成長率もマイナスとなったが、2010年には7.5%に回復し、2011年は2.7%に止まった。それでも失業率は5%台と史上最低レベルにある。経済成長を担った輸出産業は、資源や食糧といった1次産品(コモディティ)であるため、外貨流入は為替高騰をまねき内需や製造業の成長を阻害する。2011年よりルセフ大統領は新産業政策「ブラジル成熟計画」を発表し「競争原理」を強調した。国内産業育成の絶好の機会と捉えている。

2) 新生ブラジルの制度設計 政治社会改革の動き

中国の開発独裁は政治体制の根幹「共産党一党独裁」は維持し、必要な程度の上からの政治改革は「秩序」を保って漸次的に行なうが、急激な民主化は拒否する。まして欧米から人権問題の異議申し立てには内政干渉だとして一切耳を貸さない。政府主導の資本主義路線である。これにたいして民主化後のブラジルの25年は経済的躍進は著しいだけでなく、政治・社会制度における地道な制度改革を伴ったものである。1988年に民主憲法を制定し、1993年に国民投票を行なって、政体及び政治制度についての国民の選択を聞いた。政体としては共和制が66%、政治制度としては大統領制が55%であったという。国民投票で憲法の内容確認を行なっているのは面白い制度だ。強い大統領の威力の源泉であった「大統領令」は、「30日以内に法律にならない場合は効力を失う」という条件をつけて新憲法でも残された。その一方で新憲法は立法府の権限を予算、人事、金融、国政調査権などの面で大幅に強化した。州及び基礎自治体(市町村 ムニシピオ)への権限委譲が図られた。従って政府、州政府、ムニシピオの3つの政府が存在し、税収は3つの政府へ43%、48%、9%と分配される。現在進行形で憲法は修正されて制度改革が盛り込まれてゆく。選挙権・被選挙権が拡大され、電子投票で締め切りから1時間後で当落が確定する(日本でも出口調査でその日の12時前には大勢は判明するが)。そしてブラジルの政党政治の最大の特徴は多党制であることだ。2010年での選挙で与党連合を組んだのは、左派政党4党で下院の議席32%を占め、与党連合のもうひとつの一翼である中道政党4党で下院議席の35.5%を占める。これで与党連合は下院で65.5%となる。一方野党は5党以上で下院の32.4%を占める。カルドーゾ政権以来、左派の労働者党と野党のブラジル社会民主党が政権を争い、中道のブラジル民主運動党が与党に組することで与党連合が形成されてきた。かっては政治勢力であった軍部(兵力は27万6000人)の政治参加は、カルドーゾ大統領時代の1999年特別措置で、3軍の省と参謀本部の閣僚任命を廃止し、国防相に文民を任命し、これによりシビリアンコントロールに踏み切った。

ブラジルには軍政時代(いやもっと前)から続く政治風土・政治文化がある。コロネリズモ(地方を牛耳る地主ボス政治)、クリエンテリズモ(恩顧を与え服従を要求する利益共同体)、ペルソナリズモ(専制的個人主義)、ポプリズモ(ポピュリズム カリスマ性を利用して大衆動員をかけるスタイル)、コルポラチビズモ)(コーポラティズム 労使双方の妥協の上に立つファッシズム)、パネリーニャ(閉鎖的利害共有グループ)、エリート主義(少数の有力者グループに権力が集中する)などを指す。カルドーゾ大統領第1期(1995―1998年)に行政国家改革相となったペレイラは「経営管理できる国家」作りをめざして、企画を予算に具体化する企画予算管理省を1999年に作り今日に及んでいる。そして民生後期安定期の15年年間(1995―2010年)、財務省と中央銀行総裁の数は3年、6人に留まっており政策担当者の継続性が確保されたといえる。日本では1年以内に首相が替わり、半年毎に内閣の顔ぶれが一新するようでは政策が定まらないのとは随分様相を異にする。ブラジル政府の情報発信もユニークである。議会、各省や最高裁判所でテレビ局やラジオ局を持ち情報を公開している。ブラジル経済が保護主義から開放路線へ切り替わり、@経済アクターが国主体から民間に移ったこと、A金融面を中心とした安定、B官民共同の枠組みつくりが進んだことがこれを支えた。@経済アクターが国主体から民間に移ったことについては、サッチャー・レーガニズムの「小さな政府」におされて、1990年4月「国家民営化計画」が立案された。1990−2010年の間に、国営企業の民政化、電気通信事業の民営化、コンセッション、州営企業の民営化を行い、売却額と債務肩代わりを含めて1060億ドルの収入が国家に入った。その民営化の48%は米国、スペインらの外資系資本であり、民族系企業の後退となった。1995年の憲法修正により民族系優遇を取り払い、21世紀の旺盛な外資系資本の流入、M&Aを準備した。A金融面を中心とした安定については、超短期・高金利の翌日決済の商業銀行を半分に整理し、1998年に総合銀行を創立した。自己資本比率を11%以上とし、ペイオフ制度、手数料収入源の拡大、地場銀行の育成によって経済システム安定化にこぎつけた。B官民共同の枠組みつくりについては、ルーラー政権は2004年「官民パートナーシップ」PPP法を制定した。インフラを始め公共財の整備に民活を導入した。地下鉄、競技場、情報処理センターなどにPPP方式が採用された。市町村基礎自治体ムニシビオの予算編成に「参加型予算」が拡がった。又企業の社会的責任活動CSRも根付いた。

ブラジル社会の特徴は、多民族・多人種で構成される社会であることだ。国のなりたちの歴史や移民政策によって出来上がった社会である。そしてブラジル社会は長い間、ごく一部の上層階層が富を独占し、膨大な物言わぬ大衆層からなる2極社会であった。植民地体制とモノカルチャ経済がもたらした社会構造であった。19世紀後半から本格化する移民の大量流入は実に雑多な人種と文化の坩堝と化し、経済の活性化に役立ったが、貧困層の都市流入は排除社会の2極構造を形成した。意思決定があくまでトップダウンの命令主義で不公平な社会を生み出した。ブラジルがこの社会的不公平に立ち向かったのは1988年憲法からである。1990年「子ども青年法典」、2003年「高齢者法典」、2010年「人種平等法典」と続いた法律整備によって、貧困格差は残るが「社会包摂」の姿勢にかわった。高等教育では格差是正のためのアファーマティブアクションが採用された。改善はされているものの黒人の教育状況はまだ厳しいものがある。高等教育修了者は4.7%で白人の15%に比べると低いし、就業者率は78%である。人種問題と同様に貧困克服のための制度つくりが進んでいる。日本の生活保護に相当する、子どもの教育をねらった条件付現金給付制度「ボルサファミリア」が1995年地方政府のイニシャティブで始まり、1997年連邦レベルに普及した。この制度は児童労働防止策に連動している。さらに就学率向上、乳児栄養補給、ガスエネルギー補給、食費補給などの制度も新設された。現金給付は2009年には1300万世帯に拡大され、給付額は300レアルまでである。そして現金は必ず母親に渡されることが原則である。ブラジルの貧困人口は2009年には3963万人(21%)に減少したという。最低賃金を実質所得の引き上げの手段に採用した。レアル大統領退任時の2008年には最低賃金は200レアルから510レアルに引き上げられた。ルセフ大統領は2012年最低賃金を622レアルに引き上げた。こうしてブラジル社会にも「新中間層」なる階層が出現し、2002年に44%であったが2008年には52%と増加した。

3) 世界の表舞台へ

ブラジル経済のエンジンは「輸出」と「内需」に集約される。輸出はブラジルの資源大国に支えられている。資源が何もない日本に比べるとうらやましい限りである。資源は発展途上国時代の「モノ・カルチュア」から、今では多様な産物「マルチ・カルチュア」国へ変身した。1次産品輸出で世界1を占めるのは農産物では、砂糖、コーヒー、オレンジ、麻、第2位は大豆、煙草、牛肉、第3位はトウモロコシ、胡椒、鶏肉である。鉱産物では世界第1位はニオブ、第2位はマンガン、タンタライト、3位はボーキサイト、鉄鉱石である。今後生物資源、遺伝子資源、レアメタルなどが登場するかもしれない。南米の諸国は未だ一つの産品のウエイトが大きい。チリは銅、ペルーは非鉄金属、ベネズエラは石油である。現在1次産品(コモディティ)の輸出に占める割合が再び高くなり62%に達した。急成長を続ける中国への輸出が増えたことと、資源価格の高騰が要因である。2008年ルーラ政権は「生産性開発計画」を立案し、「競争力強化分野』(自動車など)、「戦略分野」(ITなど)、「リーダーシップ維持分野」(コモディティ)である。穀物類の生産は1970年代に始まった中央高原のセラード農業開発の結果であり、鉱業品はアマゾン工業地帯の開発による。ブラジルを大きく5地域に分けると、GDPや人口で南東部(リオデジャネイロ、サンパウロが中心となる)が55%、42% を占める(2009、2010年統計)。次いで南部(クリチパ、ポルトアレグレが中心)がGDP、人口で16.5%、14.4%を占める。ブラジルの歴史は森林伐採の歴史でもあった。大西洋森林地帯はすでに消失した。北部のアマゾンに「保税加工区マナウス」が開設されてから鉄鉱石の採掘が始まり、1980年代には「アマゾン問題」は世界中の注目を浴びた。そこで国連は1992年リオで「環境と開発に関する国連会議」を開催し、リオ宣言とアジェンダ21が採択された。「持続可能な開発」という概念が共通の認識となった。アマゾン伐採速度は2005年以降急速に低下しているが、それでも日本の森林の1/60が毎年消失している。さらに3つの水力発電所の建設がアマゾンで進んでいる。

かってのブラジル社会は2極に別れていた。都市には裕福な都会人「ブラジリエンス」と都市周辺のスラムにすむ「カンダンゴ」と差別され、消費生活も施設も二分されて、実質購買層も少なかった。21世紀になるとブラジルには大衆消費時代が到来した。大型ショッピングセンター数、小売販売高、自動車販売高は2003年を100とすると2011年には2.5倍以上となった。ブラジル人の消費計画性のなさと貯金率の低さが多少心配であるが。「貧乏子沢山」のイメージも変化しつつあり、家族4人以上の割り合いは2000年には5割以下となった。出産数は2010年には1.9人に低下した。人口構成は子沢山のピラミッド型から、釣がね型に移行し、総人口に占める労働人口(15―64歳)は60%から2010年には67%となった。女性の社会進出も盛んになり、就労比率は女性が45%を占めるまで増加したが、女性の平均賃金は男性の7割程度とまだ低い。内需は拡大しつつあるが、産業界にとっての課題は市場開放によって流れ込む商品に対応できる製造業の未発達である。製造業に従事する人は1200万人で全雇用数の12%である。たとえば世界第3位の製靴業界はフランス・イタリアの高級品と、中国製の低価格品に挟まれて窮地の追い込まれた。革材料を供給する牧畜業も打撃を受けている。一方新車販売では2010年にはドイツを抜いて世界第4位に躍進した。製造業は国内製造業の苦境をよそに、海外直接投資やM&Aに活発な進出をしている。これは現在の日本と共通する現況である。ブラジル製工業製品で競争力があるのは、製靴業、ビール、冷蔵庫、ポリエチレン、自動車、アルミ地金、硫酸、粗鋼である。21世紀に入りブラジルが国際社会で一定のプレゼンスを獲得したことは共通の認識となった。

ブラジルは2008年ワシントン、2009年ロンドン、ピッツバーグで開かれた金融サミットG20にデビューした。そうした背景で2016年オリンピック開催国となり、2014年のワールドカップ開催地になったことは、ブラジルが押しも押されもしない大国への道を歩み始めた事を象徴する。2009年ロシアでBRICs首脳会議が開かれたが、ブラジルのルーラ政権はインドと南アフリカと結成したIBSAイニシャティブの方を優先しているようだ。ルセフ政権では実質課題が山積する多国間協議、2国間協議に精力を割いている。貿易パートナーにも変化が見られ、1991年と2011年の輸出入取引の構成比を見ると、先進国(米・日本・EU)と発展途上国(中国・インド・中東・アフリカ)の比率は、輸出では1991年の69%対30%から、2011年には41%対57%へ、輸入は61%対39%から49%対50%へかわった。明らかに先進国依存から途上国への取り引きに重点が移っている。米州自由貿易圏構想FTAA交渉は米国主導を嫌って2005年に空中分解させた。むしろ隣接国との結びつきを進め、1995年南米南部市場(メルスコール)が創設された。パラグアイ、ボリビアとは天然ガスや水力発電で絆を強めている。ペルーとは2006年太平洋へ出る国際架橋が完成した。2008年南米諸国連合UNASULが南米全十二カ国で結成された。「統合・開発」を合言葉にして多くの国際事業を計画している。


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