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姜尚中著 「続・悩む力」

  集英社新書 (2012年6月 ) 

夏目漱石・ウェーバーの言葉に現代人の悩みを問う 人生論続編 

そういえば4年前に、同名の本を読んだ。姜尚中 著 「悩む力」 (集英社新書 2008年5月)である。姜尚中氏の本としては私は、姜尚中著 「姜尚中の政治学入門」(集英社新書 2006年2月)、小熊英二・姜尚中 編「在日1世の記憶」(集英社新書 2008年10月)を読んだ。姜尚中氏のプロフィールは省いて、前編の概要をおさらいしておこう。精神病理学者フランクルは「苦悩する人は、役に立つ人よりも高いところにいる」と述べてます。成功した人に対して、悩む人はただ運が悪い不幸な人間なのだろうか。姜尚中氏は、明治元年生まれの夏目漱石と同年代のドイツの社会学者マックス・ウェーバーの二人を引用して近代化過程の日独の知識人に共通した「近代人の運命」を語らせている。悩みや苦悩を集合的に見るならば、そこには時代や社会環境が大きな影を落としていることは当然である。近代化とは共同体(村や家族、部族など地縁・血縁関係)を解体して市場経済を創り上げることでした。そこに個人の自由も確立されたが、人には凄まじい重圧と心の解体を迫った。人とのつながりは「悪魔の碾き臼」のように引き裂かれ、アダム・スミスの「見えざる手」によって全ての人が物質的繁栄に恵まれたわけではなく格差が広がった。これが近代化の代償です。夏目漱石は文明開化と富国強兵が進むに連れて、人間が救い難く孤立してゆくことをしめした。ウェーバーは西洋近代文明の根本原理を「合理化」において、人間社会が解体され、個人がむき出しになって、価値観や知性が分化してゆく過程を明らかにしたといわれる。彼らの生きた社会は国家のため人間が消耗品にされた時代であった。あまりの激しさに社会と適応できず心の病が流行した。漱石とウェーバーは時代に乗りながら流されず、それぞれの悩む力を振り絞って近代という時代が提出した問題に向き合った。このような状況はグローバリズム経済と新自由主義の格差拡大の今の世の中での閉塞感に悩む若者に似ている。個人、金、労働、知性、青春、愛、自殺、老いという問題に直面している我々の心をいっしょに考えようというのである。

前編「悩む力」の章立ては、
1、私とは何か
 「私とは何か」を自分に問う意識を「自我」という。「自己意識」とでも云うものです。私も他者にとっては物体であるこの矛盾をどうするのか「他者問題」は重要な課題である。それは別にしてもデカルトによって「自己」が確立され、人類は悩ましい時代になったのである。ではどうしたらいいのか夏目漱石は何も言わないのであるが、ただ「まじめたれ」といっています。逃げてはいけないし茶化してもいけない。まじめに悩めのひとことです。
2、世の中は金がすべてか
夏目漱石はお金は人間関係を壊す根源のように言います。お金とは経済的富の代名詞です。ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という名著で「清貧」で禁欲的なブルジョワジーの資本形成を指摘した。明治はまさに成り上がり者で充満していた。夏目漱石はその成り上がり者の俗物根性が嫌でならなかった。お金は経済の指標(記号)に過ぎないのに、実質経済(物経済)よりも効率的にお金がお金を増幅する金融資本主義という博徒のゲーム世界になることを、夏目漱石は予想したかのようにお金についての警戒心を緩めなかった。
3、情報時代の知性とは何か
漱石は「現在の文明は、完全な人間を日に日に片輪者に崩して進むものです」という。  カントの「三つの批判」という全人格的判断や形而上学は近代化によって哀れな無用の長物になった。ウェーバーは知というものが価値から切り離され専門分化し、そのことで個人の主観的価値が根拠を失い、諸価値が永遠に相克しあうことを「神々の闘争」と呼んだ。実体世界から遊離したバーチャル世界がもてはやされる時代だ。実体から浮遊した脳は何を生み出すのか恐ろしいかぎりだ。
4、青春とは
漱石の「三四郎」は都会に出た青年の、不満と不安を抱えてさ迷っているイメージだそうだ。他人とは浅く無難につながり、リスクを避け、何事にもこだわりのないように行動する。そんな要領の良さは「脱色されている青春」ではないかという。青春の人生への問いかけに解はないのだろうが、行けるところまで行くしかないという。
5、宗教と信じる事
ウェーバーの「宗教社会学」は宗教によって覆い隠されていたものを引き剥がしてゆく知的作業であった。共同体に守られて疑うことなく生きられた時代から、近代的個人は自分の知のみを信じて生きてゆく。この自由に耐えられずに全体主義や「霊的」なもの逃げ出す人がいる。漱石の「門」は信仰の前でたたずむ人の姿である。著者は「他力本願はいけない、一人一宗教的に自分の知性を信じるしか道はない」という。
6、何のために働くか
漱石の「それから」では、食べられる境遇にある人間が働かずに生きてゆけるかということを話題にしている。こういうパラサイト有閑階級をウェーバーは「精神のない専門人、心情のない享楽人」と呼んでいる。「社会の中で自分の存在を認められる」と生き生きと生きてゆけます。人が働くのは人のためです」と著者はいう。
7、愛とは
漱石の「行人」、「それから」には、「真実の愛」を求めるが形骸化された物しかつかめない姿があります。自由を手に入れた近代人の愛が不毛になる。人の問いかけに敏感に反応する意欲が愛なのかも知れない。
8、自殺はなぜいけないか
最近「無差別殺人」がよく起る。「人が生きていることには意味がない」と状況を作り出すために、行きがかりの人を殺すのであろうか。「自分が生きていることには意味がない」と思ったら自殺になる。精神病学者のフランクルは「人は相当の苦悩にも耐える力を持っているが、意味の喪失には耐えられない」という。
9、老いて最強たれ
老人は筋力・体力や創造力は衰退しているが、分別力・老成した賢さを備えている。老人期に入る前の不安から「鬱病」になる人が増えている。それが過ぎると開き直り、「死を引き受けてやろう」という気になるそうだ。そうなると老人は強くなる。さらに別の人生を体験してみたくなる。人生を二度生きてみようではないか。

後編の「続・悩む力」は、2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原発事故が、何気ない日常が繰り返され、突発的な事件や事故は忘れられるという前提を大きく崩した時点で、4年前の著作「悩む力」を再度世に問うために書かれたようだ。「楽観論は力に通じ、悲観論は虚弱に通じる」という教えは、この数十年来の私達の社会の導きであったが、3・11の事態が起こったのである。原発のような科学技術の安全神話にどっぷり浸かっていた精神構造は、「楽観論は力に通じる」ような導きと通じていたのだ。3.11の事態にも懲りもせずに、全く反省も何もなく新手の楽観論を説く人々がいる。いよいよあやしい。むしろ悲観論を受け入れ、死や不幸、悲惨な出来事の意味を問うことこそ、人生を存分に生きることではないだろうか。生まれ変わったように「二度生きようではないか」というのが本書の意味である。今が非常事態であると精神の深いところで自覚するか、事故のことはすぐに忘れてしまえというように旧態に回帰する事を希望するのか、それはその人の現社会での位置によって異なるだろう。バウマンは「液状化する近代」と称して、しっかりしている思われていた社会構造が崩れだす今日を予言した。グローバル市場経済システムは実体経済から離れ、我々の生活感から無縁の化け物に過ぎなかった。金を集めては破産させることで利益をえてきた破滅的金融市場は1国の経済さえ飲み込み、もはや人間の姿をしていない悪魔である。こうしてみると我々の社会は日常化した「非常事態」を生きている事になる。もう一度、お金、愛情、健康、老後といった身近なことを考え直そう。団塊の世代は「一億総中流」といった神話に踊らされた。身の程しらずのこの時代の事を「花見酒に酔った狐みたいな日本」と呼んだ。その結果、バブル崩壊後の失われた20年といわれる市場規模の縮小(消費減退による)慢性不況にあえいでいる。非正規化と就職氷河期といった労働環境の悪化、企業資本の逃亡、社会保障の削減、増税、人口減少社会の到来、自殺者が年3万人を越えた社会は北欧以上に病んだ社会である。本書は幸福論のハウツーものではない。著者は出来る限り難しい言葉を避けているだけである。このような世の中でも生きてゆく道を探そうという「どっこい精神」の軟らかさを備えている。本書は系統だった理論を述べるものではなく、夏目漱石、ウェーバーの「近代化の憂鬱」箴言集である。民主主義の行く末を案じたトクヴィル著 「アメリカのデモクラシー」(岩波文庫全4冊 2008年)の「トクヴィルの憂鬱」のように、夏目漱石、ウェーバーそして姜尚中氏の「近代化の憂鬱」3.11後版というべき書である。

1) 漱石、ウェーバーに何を学ぶか

夏目漱石「自意識の結果は神経衰弱を生じる。神経衰弱は20世紀の共有病なり。人智、学問、百般の事物の進歩すると同時にこの進歩を来したる人間は一歩一歩と頽廃し、衰弱す」(断片より)
ウェーバー「アメリカ合衆国では、営利活動は宗教的、倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向はあり、その結果、スポーツの性格を帯びることさえ稀ではない」(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神より)
 夏目漱石は20世紀始め一等国イギリスに留学して、明治政府が目標としたイギリスに資本主義の行く先を見ます。その結果夏目漱石は精神を病みます。自由競争は格差を当然視しますが、その前例は貴族主義にあり、幸福の配分が血の由来にあるとするものです。資本主義では幸福の配分が各自の能力にあるとするので、優勝劣敗の原理は「敗者」を生きる価値のない者とみなす。偶然の差に過ぎない市場主義の勝利、あるは最初から機会の不平等に曝されている競争社会では、この地上ではもはや幸福は見つからないと感じる「傷ましい瞬間」に人々は自殺に走るのです。漱石もウェーバーも、この地上では近代という洗礼を受けたら、もはや幸福は見出せないのだと確信していました。ウェーバーは近代の人間類型を「末人」と呼び「精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは、人間性のかって達したことのない段階まですでに登り詰めたと自惚れるだろう」という。

2) どうしてこんなに孤独なのか

夏目漱石「今の人の自覚心(自意識)とは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があるという事を知り過ぎていることだ。・・・自分で 窮屈となるばかりか、世の中が苦しくなるばかりである」(吾輩は猫であるより)
ウイリアム・ジェームス「宗教とは簡単に言えば、人間の自己中心主義の歴史における記念すべき一章である」 
夏目漱石が死ぬまで悩み続けたのは、人間の自意識の問題でした。これは文明の呪いだったのかもしれません。夏目漱石に影響を与えた、プラグマティズム心理学者ウィリアム・ジェームスは近代という時代の人間は悩む人たらざるをえなかったと考えました。ユダヤ人の精神医学者V・Eフランクルは、ユダヤ人収容所で生きる意味を問い続けた悩む人(ホモ・パティエンス)でした。悲劇に見舞われて不幸な状態にある人ほど、宇宙の存在する深い真理を垣間見ることが出来るという。反省のない為政者が策動し始めている今日、警鐘を鳴らす大澤真幸著 「夢よりも深い覚醒へー3.11後の哲学」(岩波新書 2012年)は3.11の意味を問い続けるのです。人はぎりぎりの瀬戸際に立たされると、宗教人になるか芸術人になるかに分かれるそうです。ジェームスもフランクルも宗教型ですが、漱石もウェーバーも宗教型でしたが、漱石は宗教の門前で佇むだけでした。悩む人は世俗化された近代という時代における最も本質的な人間のあり方を示しているのではないでしょうか。

3) 漱石が描いた5つの悩みの種とは

夏目漱石「現代の青年に理想なし。過去に理想なく。現在に理想なし。40年の今日までに模範となるべき者は1人もなし」(三四郎より) 
今私達の社会が病んでいる病気のネタは殆ど、近代の始まりであった漱石らの時代に蒔かれていたというべきです。そのネタには5つあります。お金、愛、家族、自我の突出、世界への絶望です。漱石は世をすねた好事家ばかりを小説の主人公にしていました。成長、出世などの価値観に沿った人間は書かないとい世を見下した反骨心からだったのでしょうか。パスカルは実存的な空虚感を「この無限の空間の永遠の沈黙は私を戦慄させる」といいました。

4) 漱石の予言は当たったか

夏目漱石「ことによると社会はみんな気狂の寄り合いかも知れない。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされていまうが、団体となって精力が出ると、健全な人間になってしまうのかもし知れない」(吾輩は猫であるより) 
ウェーバー「近代的合理化とは脱魔術化のことだ」
宗教や伝統的社会の魔術を解くと人々は自由な意思と行為によって社会を構成しなければならない。社会の秩序の新たな紐帯となったのがルソーの「社会契約説」です。その契約説のモデルとなったのが、市場経済における交換関係であった。アダムスミスは「諸国民の富」で利己行為が合目的的に人々を結びつける交換関係を「見えざる手」と呼びました。決して強奪資本主義を目指したのではありません。20世紀初めには資本主義はすでに逸脱していました。漱石は日露戦争講和の日の「日比谷焼き討ち事件」を見て、日頃閉じこもったバラバラの烏合の衆が大きな力を持つ事を発見しました。そして公共領域にあった中間社会を飛び越して直接行動や直接アクセス可能世界が到来した事を漱石は知ったのです。匿名の不特定多数の個人の自由意志が民主的な総意を決定することになったのです。民意とは市場のことになり、市場が政治を動かす時代となった。今日の「ポピュリズム」が出現しました。ファッシズムはポピュリズムから誕生しました。バラバラの個人には実は意見も思慮もありません。ただ他人がどう思うかを気にしている存在(美人投票)で、だから投票市場で容易に世論は誘導され、毎日首相の人気投票をやっている世の中となりました。それは「軟らかい全体主義」といわれます。

5) ホンモノはどこへ

夏目漱石「天下に何が薬になるというて己を忘れるより鷹揚なることない、無我の境地より歓喜なし、芸術作品の尚きは、一瞬の間なりとも硬骨として己を遺失して、自他の区別を忘れしむる故なり」(断片より) 
自分らしさ=ホンモノ探しほど神経をへとへとにさせるものはない。絶対に手が届かない彼岸に向かって努力するようなものである。だから日本には鬱病患者が100万人以上いるといわれます。自分というものが厳然としてあるのではなく、それは他人との関係で生まれます。芸術が自己表現であるように、自分らしさとは表現力の問題である。漱石は20世紀初め「三四郎」や「それから」で、「迷える子羊」、「顕示的な消費」などで苦しむ自我の牢獄というべき心を描いています。1960年代末に始まった「大学紛争と全共闘」の時代は高度経済成長に乗った余裕のあるエネルギー発散の場で終ってしまった。2012年のホンモノ探しは、何とかうまく抜け出して未来が展望できるかぎりぎりの戦いです。グローバル資本主義の中では自分らしさはそがれる運命にあります。自分らしさを追い求めることは息苦しくなります。そこでゲーテは「気をつけろ、悪魔は年をとっている」と警告を出すのです。

6) 私達はやり直せるか

夏目漱石「すべて今の世の中の学問は皆形而下の学で一寸結構なようだが、いざとなるとすこしも役にはたちませんてな」(吾輩は猫であるより) 
ウェーバー「科学の認識に何かふさわしいことがあるとすれば、それは世界の意味といったんものが存在するという信仰をば根絶やしということである」(職業としての学問より) 
3.11福島第1原発事故で科学への信頼は吹っ飛んだ。科学というのは私達にとって擬似宗教みたいのものだった。ジェームスは「多くの人々にあっては科学は紛れもなく宗教の位置を占めていた」(宗教的経験の諸相)といった。ウェーバーも科学は万能ではなく、世界の意味を解き明かすものではないという。1950年代敗戦から立ち直ろうと、日本は原子力に夢を持たせ「科学信仰の国」になってしまった。3.11原発事故は、原発を過疎地に立地し不夜城のような生活を疑わず、安全神話の上に胡坐をかいていた首都圏の多くの人々に猛反省を強いるものと為った。漱石もウェーバーも精神を病み立ち直った経験を持つ「二度生まれた」人々であった。だから3.11の経験を「二度生まれ」の機会にしなければと著者はいう。為政者は都合の悪い事実はすぐ忘れましたといい、事実の存在を否定し、かつ失敗を忘却することが得意である。漱石は「かって英国にいたころ、精一杯英国を憎んだことがある。けれども英国を去る間際になってロンドンの空を見ていると鳶色をした空気の奥に。余の呼吸するガスが含まれているような気がした」(思い出すことなど)と一條の希望をもったのである。やり直せると確信したのであろうか。

7) 神は妄想であるか

夏目漱石「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか、この3つしかない。僕は好き好んで人間嫌いを通しているわけではないのです。僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ」(行人より) 
テイラー「家族や環境、ひいてはポリスといった公的な伝統が掘り崩され、一掃されてしまうとき、決定的に重要な人間的善を再び活力ある物にするには、個人的な共鳴という言葉が必要になる」(自我の源泉より) 
人生に何らかの意味を見出せるかどうかは、その人が心から信じられるものをもてるかどうかにかかっている。3.11大震災と原発事故以来、日本の宗教界は沈黙したままであった。無力そのものであろうか。しかしこれだけの災害は科学にまかせておけるものではない。宇宙物理学者ドーキンスは「神は妄想である。宗教との訣別」を叫びます。マルクス主義批評家イーグルトンは「神は必要のためにあるのではない。世界を愛するが故に世界を創った」と反論します。科学が神を追い払って創った世界は何だったのでしょうか。著者は、我々はもう一度宗教的な問いを引き受けなければならないのではないでしょうかという。我々に残された最後の人間性とは「まじめ」という言葉だろうか。個人の究極の孤独の時代に、他者との共鳴を可能にする最後の砦になるのでないだろうという。

8) 生きる根拠を見出せるか

夏目漱石「洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰ってきた。日本人が英国人を真似ろというのは何を真似ろといっているのか今もって分からない」(狩野宛の書簡より) 
E・F・シューマッハー「一番大きな廃棄物といえば、耐用年数を過ぎた原子炉である。・・・このような悪魔の工場の数と場所を人は考えてもみない。地震は起こらない、戦争も内乱も、今日アメリカをおおう騒擾も予想の中に入っていない。使用済みの原発は醜悪な記念碑として残り、今日わずかでも経済的利益がある以上、未来は意に介しない考えの愚かさを記録し続ける」(1973 スモールイズビューティフルより) 
人類が背負う負の遺産「廃炉」はまさに福島第1原発が目の前にしている。漱石は20世紀初頭にイギリスに留学したとき「これは日本が手本にすべき国ではない」と思いました。ドイツ生まれのイギリスの経済学者シューマッハは自然に対する最大の暴力は放射能汚染だといいました。まさに今日の日本を予言していました。市場経済が商品化する、人間労働、資源、貨幣のうち、人間労働ほど今日のグローバル資本主義で卑しめられているものは無いでしょう。まるで人間労働をゼロに持ってゆくことが理想(原価のうち賃金分をゼロとしたい)とするような勢いです。人を商品化した経済システムが社会全体を覆って、人の尊厳を著しく傷つけているようです。ケインズは果せぬ夢と知りながら「完全雇用」を目的としました。フランクルは人間という者は誰でも、一回性と唯一性の中で生きていると述べています。今を大切に生きてゆくには、よい過去を持つことです。過去から自分が規定されるのです。人間にとって本当に尊いのは実は未来ではなく過去なのではにでしょうか。

9) それが最後の1日でも、幸せは必ずつかみ取れる

夏目漱石「所詮我々は自分で夢の間に生産した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、死という遠いところへ歩いてゆくのではないでしょうか。・・・私は私の病気が継続中であるということに気が付いた時、欧州の戦争も恐らく何時の世からの継続だろうと考えた」(硝子戸の中から) 
フランクル「人生とは人生のほうから問いかけてくる様々な問いに対して、私が一つ一つ答えてゆくことだ」 
フランクルは人間の価値のありかを、創造、経験(過去)、態度(思いやり、祈り)の3つに分類します。トルストイは「イワンイリイチの死」で死の1時間前に示した家族への思いやりがその人と家族を救った話をしました。人が働く理由は他人に認められたいからです。しかし職業だけが人間の尊厳ではありません。大切なのは「何をやるか」ではなく「どうやるか」にその人の価値が決定されます。漱石は最後に「則天去私」を説きますが、「己を忘れ、無我の境地より歓喜はない」といいます。フランクルは「それでも人生にイエスという」という歌を作ったブーヘンヴァルト収容所の人々の話をします。だから人生を諦めまいとして、人間の究極の価値として、態度を上げたのです。人生、世界というものを、自分の力及ばざる「超意味」の存在として認識しつつ、なおかつ自分が問われている役割について、一つ一つ責任をもって決断してゆくことを、「態度」という。


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