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唐 亮 著 「現代中国の政治ー開発独裁のゆくえ」

  岩波新書 (2012年6月 ) 

経済成長を追求する開発独裁と民主化のゆくえ 

1976年「文化大革命」の死闘の後毛沢東は死んだ。1980年代、毛沢東時代の経済社会の挫折を背景として、中国はケ小平の改革開放路線によって社会主義型の近代化路線を模索した。1980年代末のゴルバチョフのペレストロイカと1991年のソ連崩壊を目の前にして、開発独裁への転換に踏み切った。ソ連の二の舞を踏みたくなかったのだろう、政治面ではつよい一党独裁路線と社会統制によって強い政治指導力と政策実施能力を維持して、社会秩序の安定化を図利、経済発展に有利な環境を整えようとした。経済面では市場主義のいいとこどり(国有企業の民営化、規制緩和、2制度国家論)によって上からの資本主義的改革を断行した。そして1990年代のロシアの混迷を横目に見ながら、外資導入を梃子にしてひたすら経済成長路線を走った。開発独裁路線のもとで、中国は30年間にわたる急速な経済成長を実現した。他方環境破壊が進み、貧富の差が拡大し、政治・行政の腐敗が深刻化した。それにたいして中間層の拡大と社会的矛盾の先鋭化による政治的不満が強まり、民主化を求めた集団抗議行動も増えていった。大衆運動として1970年代末の「北京の春」と1980年代末の「天安門事件」は鎮圧され民主化は低迷しており、2011年「中東の春」を契機にしようとした「ジャスミン革命」も不発に終った。果たして中国に「民主化」は訪れるのであろうか。本書は現代中国の政治構造や変動のダイナミックスを比較政治学の立場から丹念に分析する試みである。したがっていまや世界第2位のGDP国に成長した経済発展の仕組みと構造の分析は本書の目指すところではない。政治体制としての中国の民主化社会の到来の可能性を検討する書である。著者は政治学専攻であって、経済学専攻ではない。改革開放時代に適した政治の構造と力学、そして変化の展望を描くことが本書の目的である。政治がこうしたから経済が良くなったという政策論というより、経済体制に流されてゆく政治のあり方を描こうとしている。

中国の政治体制とか政府と行政の構造などについてはよく分からないことが多い。まして共産党の一党独裁が隅々まで行き渡っているとか言うことは、実感としてよく分からない。テレビ出てくるのは4年に1回の全国人民代表者会議(国会に当たるらしい)のひな壇の上の要人・軍人達および拍手といういかにも大政翼賛会的社会主義の形式的な大会だけである。中国の人口は約13億で日本の人口は約1億2000万人ということで、中国は日本の10倍の規模である程度の知識しかもっていない。昔中国の文化大革命のときは連日テレビが壁新聞や紅衛兵が毛語録の本を掲げている像を流していた事を思い出す。紅衛兵の事など知る人も少なくなったようだ。近くの隣人のことをよく知らないまま、近年は日本の失われた20年を取り戻すかのように、日本の企業が中国の内需を求めて雪崩を打って進出している。東アジアの社会主義国である、ソ連、中国、北朝鮮の密月期は1950年代までで、1960年代の半ば頃から中ソ共産党の不仲説が流れ、中国が自主路線を強調しだした。中国とソ連の政治構造は違うことはいまになってよくわかった。ソ連は1991年に70年以上続いた社会主義をご破算にして国は破れた(社会の混乱)が、中国はそれに同調しなかった。ソ連のゴルバチョフがブレジネフ時代の停滞社会の改革に乗り出すとき、中国はケ小平の改革開放路線を歩み始めていた。中国の改革開放路線は、決して共産党の一党独裁体制は放棄しなかった。市場メカニズムの導入によって近代化を進めてきた。日本で言えば明治維新が政権基盤を藩閥に置きながら、「和魂洋才」で西欧のいいとこどりをしながら、上からの改革で国家機構を作った。まさのその日本式近代化手法を中国はマネをしたのではないだろうか。明治初期には民間の成長を待っていられないほど国際情勢は緊迫していた(西欧の植民地化を恐れた)といわれる。13億の中国では民衆とは牛のように鈍重で、革命世代の指導者達(ケ小平、彭真)は1949年に統一された中国をふたたび分裂国家にはしたくなかったと思われる。共産主義に飽き飽きしていたゴルバチョフのソ連と、共産主義イデオロギーによる支配体制を信奉していたケ小平の中国は結局1990年代はじめに異なる道を選択した。これを西欧型と東アジア型と文化論で分かつのはかならずしもあたらないと考える。結果的に21世紀から見ると、複合体制の中国の方式が大躍進を見せたのに対して、大国主義資源外交にこだわるロシアの歩みはジグザグであった。その差は経済的にいえば中国の旺盛な内需力と柔軟な外資導入ではなかったのか。

本書は現代中国の政治状況を表現するため「開発独裁路線」という言葉を使って、政治体制の構造的な特徴や変化の力学を捉えようとしている。開発独裁とは、市場志向の経済政策と権威主義体制(トップはこれを独裁権力とはいわない、共産党の指導という)の結合を特徴とする。開発独裁路線とは自由経済と民主主義体制を特徴とする欧米型の近代化路線とは違う。又統制経済と全体主義体制を特徴とする典型的な社会主義型の近代化路線とも違う。発展途上国が近代化の実現に向けて進む場合、次の三段階の近代化過程をとるといわれる。@経済発展最優先の段階、A社会政策強化(福祉・環境・公共サービス)の段階、B民主化推進の段階である。とすれば現在の中国はいまや第2段階に入ったといえるだろう。そこで本書は第1章で「一党独裁と開発独裁路線」、第2章で「国家制度の仕組みと変容」、第3章で「開発政治の展開」、第4章で「上からの政治改革」、第5章で「下からの民主化要求」をみてゆく。著者唐 亮氏のプロフィールを紹介する。唐 亮氏は1963年中国淅江省生まれ、1986年北京大学政治学修士課程終了、1993年慶應義塾大学政治学博士課程終了、現在早稲田大学政治経済学部教授である。早稲田大学の毛里和子名誉教授より政治比較研究を学んだという。主な著書は「現代中国の党政関係」(慶応義塾大学出版会)、「変貌する中国政治」(東京大学出版会 2001)、「中国はいま」(共著 岩波新書 2011)ほかである。北京大学在学中に「北京の春」を見て、1987年に日本に留学しているので1989年の天安門事件は日本から見ていたことになる。中国の政治変動を近代化の比較分析の枠組みで捉える研究を行なっているという。

1) 一党支配と開発独裁路線

まずは、1949年の建国以来の毛沢東指導下の共産党の組織体制と中央集権体制の確立過程をおさらいしておこう。中国共産党の組織はめったに勉強することは無いだろうが、この程度は知っておかないと、ニュースで現れる要人の序列さえ分からないだろう。共産党は行政区画のクラスにしたがって網の目のように党の執行部を作った。村ー郷・鎮ー県・市ー地区級ー省級−中央という順に党委員会がピラミッド状に構成された。最低単位は党員3名以上で基層委員会を作らなければならない。それは国家の組織中にも隈なく張り巡らされ、党が全国規模で根をおろすと同時に、国家をも厳しく統制してゆくのであった。党内運営は事実上トップダウン型である。党中央は重要政策の決定権を持つ。組織は方針を討論はできるが、決定には組織的に従う。党に反する意見を述べてはいけないという「鉄の規律」がある。共産党の指揮命令系統は全国代表大会が党の最高指導機関とされるが、5年に1度しか開催されない。全国代表大会は中央委員会、中央規律検査委員会を選出して終わりである。いわば用意された人事案を承認する「しゃんしゃん大会」である。地方の人々のご褒美として北京観光であろうか。中央委員会総会は1年に1度開催され、政治局常務委員会、総書記を選出する。中央委員会は政治局常務委員会の強いイニシャティヴで政治報告、決議案、重大人事をおこなう。政治局常務委員会の提案は殆ど修正もなく中央委員会総会、全国代表大会は採択する。現在の中央政治局常務委員会は9人から構成され、総書紀、全人代委員長、国務院総理、政治協商会議主席、中央書記処常務書記、国務院副総理、中央規律委員会書紀、中央政法委員会書記が兼任する。中央政治局常務委員会のもとに中央政治局委員が25名である。総書記は中央政治局、中央政局常務委員会、中央書記処の会議を主宰する。

中国共産党の権力の実質的な中核は中央政治局とその常務委員会にある。会社の組織で言えば、総書紀が社長、中央政治局常務委員会が常務会、中央政治局委員会が取締役会、中央委員会は株主総会のようなところだろうか。中国を裏(共産党)で動かしている人々は誰かといえば、時によって重点は移動するが概ね中央政治局常務委員会の9人と言ってよいだろう。これが中国のトップである。共産党中央の事務機構では、組織部・宣伝部・統一戦線部が伝統的に3大党務機関(日本では例えば自民党の3役は幹事長、総務会長、政調会長である)といわれ、それとは別に国の行政機関とほぼ同一の区分で政法委員会が設けられ、党の行政担当機構をなしている。二重権力のように入り組んだ党と国家組織に対応関係が存在する。本書は政治機構を論じるので、また中国は北朝鮮ほど軍事政権でないので軍隊の事は省略しておこう。共産党は建国以来国家幹部の任免権を持つ。党中央は総理と各省部の幹部を任免し、党省委員会は地司庁局長級を任免し、党市委員会は県処級を任免し、党県委員会は科級を任免する。こうして数千万人とも言われる中央と地方の幹部のノーメンクラツーラ表を作成する。こうして共産党は基層社会への権力支配を浸透させ、諸団体への監視と規制の網をかぶせ、職場・機関単位による社会統制を貫徹させる。中国ではマスメディアは建国以来政府の事業部門に属して報道統政を続けている。

毛沢東時代とは1949年から1976年までをいう社会主義経済建設の時代であったが、権力基盤も弱く多くの経済・社会政策は空回りをした。1958−1961年まで推進された「大躍進運動」は経済インフラもない時代の猪突猛進の大衆精神運動であった。大飢饉によって大きな挫折を味わった。1959年の「廬山会議」で毛は批判的な彭徳懐を失脚させ、続いて1962年「階級闘争」、1964年「社会主義教育運動」、1966年「文化大革命」といった大衆運動を組織して、批判勢力であった劉少奇、ケ小平、林彪、彭真らを次々と失脚させた。1976年毛沢東が死んで、華国鋒は「4人組」を逮捕し、1977年「4つの近代化」を唱えたが、毛の権威を承認したため、1978年ケ小平は主導権を握って、階級闘争から経済建設中心の路線転換を宣言した。ケ小平の「猫論」にみるプラグマティズムが浸透した。1980年以降「改革開放路線」の政府は、価格の自由化、人民公社の解体、指令型経済政策の縮小、個人経営の容認を実施し、徐々に市場化への改革を進めた。1987年の学生運動、1989年の天安門事件は東欧のビロード革命が影響した中国の民主化運動であったが、ケ小平は趙紫陽を切って民主化運動を弾圧した。政治的な民主化運動を封じ込めて難局を乗り切ったケ小平は1992年より市場経済に向けた流れを加速させた。現在の経済体制は市場型というよりも混合型である。いま国有企業は大きく成長し、市場の独占、政府への介入が市場を大きく歪ませている。2004年には私有財産を認める憲法改正が行なわれ、2007年には「物権法」を定めて財産の法的保障の1歩となった。1990年以来国家主席は2期10年で交代することが慣例となっている。2003年国家主席となった胡 錦濤は2012年には最後の毛主義者といわれる薄熙来中央政治局員を失脚させ、政治力学はカリスマ性を背景とする個人独裁から寡頭政治に転換し、党内のコンセンサス重視となってきた。江沢民、胡 錦濤、次期国家主席と呼び声がある周近平らは革命第2―5世代に属するテクノクラート世代(技術官僚)である。毛沢東時代を全体主義と呼ぶなら、改革開放時代は権威主義へと変わったといえる。

こうして中国は一党支配体制を維持したまま、全体主義から権威主義へと変化した。権威主義体制は行政主導型の権力集中や自由と権利の制限によって秩序の安定化を図ろうとする。権威主義政権の多くは野党の存在を認め、大きな権力を持つ大統領制を好み、定期的な大統領選挙や議会選挙を実施する「形式的民主主義体制」を採用するものである。(ロシア、中南米、東南アジア、東欧、中近東諸国など) しかし大統領は軍隊を掌握し、選挙に介入し、規制と弾圧策を露骨に用いる。中国の権威主義は一党支配型であり野党や社会団体さえ認めないので政治的競争は最初から大きく制限されている。又中国はメディアを国営化し情報規制を行なっている。人民代表の直接選挙は県やそれ以下のレベルに限定されているので、議会民主制ではなく市以上の首長は任命制である。国会に相当する常設議会はないので利益代表が調整し合う場も存在しない。官製団体以外の利益集団が存在しないので、中国政府の政策決定は自立性が高い(?)といえる。2008年の金融危機に中国政府はすばやく56兆円の景気対策を打ち出した。これについては国民的討議もなく全人代での審議もなかった。決定のスピードは危機対応の能力ともいえるが、成功した場合は良いが失敗したら影響は甚大である。無人の敵地を行くが如くの政策決定スピードは裏面として、さまざまな利益、権利、意見を無視する権威主義的体制の独断・強引・独裁につながる。世界の自由主義国家では「小さな政府」が志向されるが中国は最初から大きな政府で、後発の国の近代化は「キャッチアップ型」であり政府が近代化に関して大きな役割をはたす。お手本がある近代化はひたすら効率が求められ、政府主導の近代化(上からの近代化)のスピードの速さは、日本の近代化の典型例、戦後復興・民主化・高度経済成長の範例がある。そして韓国と台湾は開発独裁から民主化までを成し遂げた例がある。中国の権威主義政治も「力による支配」から「同意による支配」へと向かうのではないか。マックス・ヴェーバーは国民が承認し納得する事を「支配の正統性」と捉えた。民主主義国家では国民から多数の支持を獲得することが支配の正統性の源泉である。中国共産党はその支配の正統性の論理として、建国の歴史的功績を用いるが、もはや国民への説得力は薄れてきているのではないか。社会主義イデオロギーも社会主義発生の国ソ連がなくなった今、正統性の論理としては時代遅れである。

2) 国家制度の仕組みと変容

第1章では、いまや理解不能な「一党独裁」路線(東洋的皇帝のこころ)をみた。第2章から国家制度をみることになるので、ここからは普通の人でも比較して理解できるだろうか。欧米型政治制度には大統領制と議院内閣制かによって、重心の位置は異なるが、立法府と行政府、司法府の権力が分立し、国民は定期的な選挙によって国家権力をコントロールすることが出来る。中国式開発独裁国家は社会秩序と政治的求心力を維持するため、政治権力の集中を必要とするらしい。特に行政府に権力が集中し、立法府や司法府は行政(政府)をチェックしたりノーということは出来ない。共産党と政府(国務院)の関係は二重権力(自分と他人といったデカルトの二分立)というのは正確ではないくらい渾然一体(同一人物のジキルとハイド)である。共産党支配の表の顔が政府であるといった表現が妥当である。共産党の執行部と国務院の政府をあわせて行政権を構成するのである。人事と財務が共産党直轄の政府で、それ以外の実務は国務院(政府)が担当すると言い換えても良い。中国の憲法は全国人民代表者会議(全人代)を最高権力機関と位置づけ行政・立法・司法の上におくがこれはウソである。選挙制度が県以下の直接選挙によって選ばれるだけで、全人代は人民を代表するとはいえない。県以下の直接選挙において、推薦から選定、演説、投票という手順をとるが、推薦と選定段階で異質な分子は排除される。市以上の人民代表からは選挙人の代理選挙となる。2003年度全人代2984人の構成は、指導幹部42%、企業関係21%、大学関係12%、軍人9%となっていた。例えば安徽省代表全人代の構成は90%以上が官僚で、5%が知識人、労働者は2%以下であった。全人代代表の殆どは本職を持っており、いわば暇なときにやる名誉職に過ぎない。「基本法律」の制定は全人代の専権とされるが、法案の提出は全人代常務委員会の審議を必要とする。そして法案提出が一番多いのは国務院(内閣官僚)である。全人代は「三手代表」に過ぎないといわれてきた。挙手、拍手、握手の三手だけやっていればいい。3000人のイエスマンである。全人代の開催は年に1回で期間は1週間である。これで何が審議できるのだろうか。議会は無力に等しい。

中国は社会主義時代、先輩ソ連を手本にして徹底した国有化と集団化を行なった。中でも1960年代の人民公社と大躍進の失敗は農村を大飢饉に陥れたといわれる。また経済行政は中央集権型の計画経済を中心に展開された。そしてこれらの管理業務を遂行するため膨大な行政機構が設置された。1990年の時点で、行政編成職員は800万人、事業部門の職員は4000万人を擁しているといわれる。この膨大な行政機構を整理するため1980年以来6回の行政改革が行なわれた。国務院の機構は鉱工業の機関の多くが廃止され、マクロ経済重視の「国家発展改革委員会」が設置され、金融監督管理委員会を新設し、環境保護や社会福祉部を1本化した。国務院は内閣にあたるが、組成部門、直轄機構が主な機能である。国務院常務委員会(温家宝総理以下10名)と国務院全体会議が閣議に相当する。中国の政府とは国務院行政機構、事業部門、国有企業の3つから構成されている。(日本の財政投融資でいうと一般会計と特別会計の区別にちかい) さらに業務部門の独立採算制の導入、企業法人へ切り替えを進め、2015年までに事業部門の分類を終えて2020年に企業法人への転換を完了する予定であると云う。中国の行政は日本の経産省と同じくサプライヤー重視(開発優先型)といわれる。インフラ整備、重点プロジェクトといった経済開発関連の比重が大きく、教育、社会保障、医療保険、就労への支出は28%(先進国では50%)に過ぎない。政府は開発優先から社会政策との両立を目指して、財政支出の重点をミニマム公共サービス整備へシストしようとしている。しかしそれでも中国の行政体制は極めて閉鎖的で、行政許認可事項の削減と規制緩和は進まない。政策決定に国民の意見を反映する公聴会、専門家諮問制度の整備が言われ始め、胡 錦濤国家主席は「秩序ある政治参加の拡大」を提唱しているが、「秩序ある」は政府に批判的な意見を排除することであり、日本の審議会で批判的意見の持ち主は官僚が委員に選ばないやり方に酷似している。中国は果たして「法治国家」なのかという疑問はいつも付き纏う。「私が法律だ」という毛沢東がなくなってから、1982年の憲法で法治国家を目指した。2011年呉邦国全人代委員長は法治国家宣言をしたが、法律の空白は埋まっていない。中でも「裁判の独立」は絵に書いた餅である。司法は行政の奴隷である。

3) 開発政治の展開

経済発展という点では市場経済化は大きな実績を上げた。1980年以来30年間にわたって平均9%以上の経済発展を保ち、2010年には日本を抜いて世界第2位へと躍進した。中国は世界の工場といわれ、対外貿易、外貨準備高、自動車販売台数、高速鉄道の規模、インターネット利用者数など世界第1位となった。一人当たりのGDPは2001年度には5000ドルとなり「中進国」の仲間入りをしたが、日米欧の1/10に過ぎず、経済システム、科学技術、研究開発能力、労働生産性などで先進国に遅れを取っている。どこでも市場経済は経済格差の上に成り立つもので、中国でも格差が拡大した。都市部と農村との所得格差は2010年には3.2倍に、都市部の中で10%の富裕層と貧困層の所得格差は5.3倍に、人口は都市と農村で等しくなったが、生活保護は都市部で2240万人、農村部で2000万人である。貧富の格差を表すジミ係数は警戒線である0.4を突破した。市場経済化によって中小国有工場の売却民営化が進み、労働者は解雇されなくとも地位が低くなった。多くの国有工場で働いている派遣労働者は6000万人に達した。潜在的に労働力過剰供給の状態であり、GDPに対する労働配分は2005年には36%(アメリカ79%、日本62%)と低下した。資本側への配分は増加し、経営者成金が急増した。民営化に伴い社会主義国の社会保障制度は崩壊し、いまや健康保険、年金保険などの再構築が課題となった。農村からの出稼ぎ労働者を取り巻く労働環境は良くない。約2.6億人の出稼ぎ労働者と都市住民が対立する事件が増加している。所得と住民環境の融和策が成功しないと社会不安の種になる。一方官僚、経営者、知識人はエリート層となり、官僚特権の一つである運転手つき公務用自動車は社会身分を表現し不公平感を増大させ、官僚の腐敗、リベートスキャンダルは絶え間がない。

絶対的な貧困からは脱却できたとはいえ、広がる格差、労働環境の悪化、農村の崩壊、脆弱な公共福祉サービスに対する国民の不満は強まり、しばしば集団抗議活動の形で権利擁護(維権)と拡大、平等と正義の実現を求める活動が盛んとなってきた。政府は集団抗議活動には抑圧的な対応を見せ、結社の認可制を厳しく運用して運動の広がりを警戒している。日本の戦前の治安維持法を背景にした特高警察とおなじである。しかしインターネットの普及と新興メディアの活躍により、中国には官製メディアと民間メディアという2つの世論がある事を認めざるを得ない。デモの事を参加者は「集団散歩」といい、政府は「群体性事件」という。特定のメディア(地下を含め)を取り締り閉鎖に追い込むいわゆる「弾圧コスト」は増大の一途である。政府事業の開発行為による土地など財産権への侵害、環境アセスメントは無きに等しい環境破壊問題への抗議行動は、選挙による国民の意志の政治へ反映の道が閉ざされていることから起きるのである。2011年春チュニジア、エジプトから始まった「中東の春」は、中国では「ジャスミン革命」と呼ばれたが、今の中国には民主化の意味が違っていた。2002年に成立した胡 錦濤政権は「心三民主義」(権力・利益は国民へ、国民感情を反映)というスローガンを掲げ、2004年から「調和社会の構築」を、富国・民主・文化と並ぶ4本目の柱とした。農村(農村労働人口比率は37%に低下したが、それでも先進国の2%に比べると中国は依然農業国である)に対しては減税、医療、生活保障、戸籍移動の自由を約束した。そして第12次5カ年計画(2011―2016)では、年金、医療保険、義務教育補償、労働契約法の改正(なんと団体交渉権を与えるという、これまではストライキも出来なかったのだ)を計画している。医療保険加入者を2.6億人、失業保険加入者を1.6億人、障害保険加入者を2.1億人と見込んでいる。2011年個人所得税法を改正し減税に踏み切った。

4) 上からの政治改革

大胆な市場化、民営化を進める経済改革に比べると、政治改革は進展しているとはなかなか言えず、自由化と民主化の展望は開かれてはいない。狭義の制規改革は政治的自由と民主化を意味するが、広義の政治改革には公共利益の配分、政治運営にかかわる諸制度の変更を意味する。中国の政治改革や民主化という概念には多義性が有り、政府は現状を西欧とは違う「中国式民主主義」が実現していると公言して憚らない。経済発展、福祉国家の実現、政治的民主化を近代化のプロセスとすると、西欧は政治的民主化が先行すると考える。中国では政治的民主化は最後の段階になるのだろうか。中国の漸進主義とはロシアの失敗に学んで、政治改革→自由化→民主化という順序が一番良いと考えているようだ。保守派や体制内改革派は政治権力の弱体化や喪失を恐れ、慎重にことを進め事を是とし欧米型の急速な民主化を拒否する。民主主義メカニズムや手法を部分的試験的に導入し、自由と権利の穏かな拡大を容認することを望んでいるようだ。清朝末期の改革派官僚康有為の例を引くまでもない。政府機構の統廃合、定員削減、規制緩和、公務員制度改革、司法試験制度の導入、国有企業管理の改革、腐敗抑制などガバナンス能力の維持を計るのである。日本の新自由主義(市場主義)小泉政権の改革に似てはいないだろうか。無論日本には民主化(恐ろしく非能率な議会民主主義)は存在していたが。社会主義中国は民主化と市場経済という2重の移行の課題を抱える。中国は政治改革を長期的なプロセスと考え、先ずは経済発展先行型の政治改革に力を入れ、穏かな改革なら容認するが欧米型民主化をなるべく(社会主義体制維持派は永久に)先送りにしたいとする。市場化と民主化の「軟着陸」は「衣食足りて礼節を知る」というように、経済発展と中間層の成長が必須条件である。

人権攻勢を強め、民主化促進を迫る欧米の主張に対しては、中国は文化相対主義、コーポラティズム、討論デモクラシーといった論理を操りながら、中国式民主主義や独自の政治発展の道を主張し、欧米型民主義への内外の圧力をかわそうとする。文化相対主義とは一党支配型の権威主義体制を強引に民主主義の1形態と唱えるものである。別の言葉でいうと東洋型専制統治を人民の意を酌む効率的な政治体制というような我田引水で検討にも値しない論理である。国家コーポラティズムとは政治協商会議という形骸化した体系を合意型の政治制度と強弁するものである。西欧型コーポラティズムとは政策合意にいたる過程で労使協調型政治経済システムにおける政策協議の仕組みをいう。中国の政治協商会議の諸団体には共産党の組織と指導が行き届いており、一党支配を前提とするコーポラティズムは本来民主主義体制にはなり得ないものである。茶番である。討議デモクラシーとは平等かつ自由な討議を経て合意形成を目指すのであるが、利益がお互いに競合する団体の政策協議や利害調整に重点を置いている。中国は「専門家諮問制度」、「民主懇談会」、「協商民主」という言葉で討議デモクラシーを理解しているようだが、意味を理解しているようには思えない。中国政府は政治改革を現存体制の維持のための自己改革と位置づけ、欧米型政治体制の導入を否定している。全人代常務委員会は1998年「村民委員会組織法を改正し、人口の6割(2003年)を占める農民の民主主義実践に着手した。候補者の推薦や選定で党が候補者を選別する方式が残っている限り、民主選挙とは言い難く、あいかわらず村民委員会選挙への介入があって、選挙への村民の関心は停滞した。党内各級選挙制度はこれまで任命制であったが、一部の郷・鎮組織で党委員が選挙で選ばれるやり方が民主化への道を開きつつある。一番遅れているのが情報公開制度である。2008年より「国務院情報公開条例」が施行されたが、行政法が整備されていない限り情報公開条例の実効性がない。インターネットという裏のメディアは政府の統制を離れて普及した(それでもウエブサイトの閉鎖など政府の監視・介入は強い)が、官製メディア以外に民間メディアというものガ中国に存在しない。外国のテレビ局が番組放送を限られた範囲で流している程度である(それも問題が発生するとただちに禁止される)。

5) 下からの民主化要求

上からの民主化に悲観的な見方がある。中国政府が政治権力や既得権益を維持する立場から、自ら民主化に踏み切ることはありえないとする考えである。中国の民主化支持勢力は3つの分類される。@体制内改革派 Aリベラルな改革派 B反体制派である。なんか昔の左翼運動の左から右が、右から左へ攻守を変えた対称構成である。1960年代末にアメリカの政治学者リプセットは「中間層を媒介として、経済発展は民主化を促進する」という仮設を発表した。リプセット仮設は、経済発展の結果拡大された中間層が民主化のキーパーソン(担い手)となるという。中間層の定義もあいまいであるが、所得水準と資産、職業、意識の3つが決め手であると云う。中間層は所得や社会的地位、教育水準が、情報へのアクセス能力が高いので、民主主義に高い親和性を持つ。産業化と都市化が分厚い中間層を生めばその社会は安定するとも言われる。知識に基づく自立意識が高い人々の心には専制主義、権威主義は芽生えない。リプセット仮説には何かフランスの啓蒙主義的考えが入っているようだ。無知蒙昧は支配されやすく、啓蒙思想は自立を目指すということである。では中国の中間層の成長はどの程度であろうか。1999年に行なわれた「当代中国社会階層研究」によると1999年は15%であったが、2009年では23%になるという。大学進学率は17%となり大衆教育の段階になった。インターネットユーザーは2011年で5億人といわれる。ところが2002年の調査では政治意識は67%「現状満足」が多数を占め、1990年以前の民主化運動は影を薄くしている(日本では1970年の全共闘以来学生運動は死んだ)。中国における中間層の比重はあいまいである。人口に占めるウェートと政治的影響力は先進国のそれに比べるとはるかに低い。中間層は満足して改革への意欲はすくない。韓国や台湾のように中間層は「自覚した民主化」への支持に動く可能性が高いが、中国の中間層は「追い込まれた民主化」(危機や権利が圧迫された場合のみに動く)への支持となる。

中間層だけでなく、そもそも中国には企業家(資本家)といったブルジョワジーは存在するのだろうか。官僚・国家機構に生死を握られた企業家なる存在は市民社会の範疇から逸脱したものであり、ブルジョワジーといったものでは決してないという識者が多い。国有企業の幹部は官僚であり、民間企業家といえども党・国家と一体化している。政府は企業家の抱き込み・組織化を絶えず働きかけており、企業家は官僚と結託している。したがって企業家の存在は中間層より弱いので国家のライバルとなる可能性は薄いようだ。リベラルな知識人層の活動が市民社会の建設に貢献している。知識人らがマスメディアに登場し、インターネットで発言する機会が多くなっている。公益訴訟に人権派弁護士が行政訴訟をおこして勝訴する例も出始めている。政府は政治的な警戒心から引き続きNGOの設置や活動を厳しく制限しているので、NGOの活動は不可能である。民主化運動は1990年以来長期の低調期を強いられている。「安定はすべてに優先する」という基本方針のもとで、国家権力による取締によって完全に押さえ込まれている。現実的には「維権運動」(行政・民事の権利擁護運動)が低調期にある民主化運動の現実路線の柱とならざるを得ない。


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