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宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」

  岩波現代文庫 (2008年8月 ) 

市民に分かるようにケインズ「雇用・利子及び貨幣の一般理論」を解読する

ここに、ケインズ著/間宮陽介訳 「雇用・利子および貨幣の一般理論」 上・下(岩波文庫 2008年)という本がある。その第1篇序論 第2章古典経済学において古典経済学の公準を2つ述べている。
「第T公準:賃金は労働の限界生産物に等しい。すなわち被用者の賃金は雇用が1単位減少したときに失われる価値に等しい。」
「第U公準:労働用量が与えられたとき、その賃金の効用は、その雇用量の限界不効用に等しい。すなわち被用者の実質賃金は、現在雇用されている労働量を引き出すのにちょうど過不足のない大きさになっている。ここで不効用とは一人あるいは集団の人間に、ある最低限の効用すら与えない賃金を受け取るくらいなら働かないほうがましだと思わせる理由の一切を含む。」
ヒルベルト著「幾何学基礎論」の公準のようにこの文章をすらすら理解できる人は経済学の約束事を熟知した専門家だけであろう。私にはちんぷんかんぷんであった。業界の隠語集(技術用語辞書)がなければ、たとえあったとしても理解できないだろう。というわけで私は1日かけて20ページを読んだだけで、呆然自失して読了をギブアップした。そうして本屋で棚を眺めていたら宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」を発見し、一も二もなく購入した。本書の前書きで宇沢氏は「先輩からケインズの一般理論を読むように薦められて、読み出してその難解さにほんの数ページしか読み進めなかったことは、いまでも重苦しい記憶として残っている。文章が華麗だっただけでなく、内容が難解だったから困惑したのである」と述べている。経済学を志した頃の話だそうだが、宇沢氏ですらそうだったのかと私は妙に安心した。ケインズの「雇用・利子及び貨幣の一般理論」は一般向けに書かれたのではなく、古典派経済者やケインズサーカスの専門的経済学者たちを相手に書いたプロ向け論文であるそうだ。分からせるためではなく論争するために書いた文章である。経済学の古典のなかでも最も理解し難いといわれる書物である「一般理論」を、宇沢氏は1982年岩波市民セミナーで8回の講義で一般理論の市民向け読書会を依頼された。宇沢氏は理学部数学科卒業後に経済学者を目指して転職し、職業的経済学者として、「一般理論」に始まり、「一般理論」に終る人生を送ったという。その氏をして難解と言わしめるケインズの「雇用・利子及び貨幣の一般理論」を私がギブアップしても私の怠慢では無いとして、私は宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」から入って慣れることを主眼とした。宇沢氏は本市民セミナー講座においては、それでも正確を期すため専門的過ぎて分かりにくい内容になったのではないかと反省しておられる。

ケインズ(1883年ー1946年)が「雇用・利子および貨幣の一般理論」を著わしたのは1936年のことである。1930年代は経済学の第1の危機といわれ、世界のすべての資本主義国を襲った大恐慌を契機として起きた。完全競争的な市場経済制度のもとで予定調和的な経済体制が形成されるとする新古典派経済理論の信奉者にとって、恐慌は想定外で一時的なアンバランスはすぐに均衡に戻るとするものである。現在資本主義の下における経済循環のメカニズムを解明し、雇用・インフレの安定化を実現する経済政策を説く新しいケインズ経済学理論は、たちまち一世を風靡した。ケインズ経済学の中心となるのが1936年(昭和11年)に刊行された「一般理論」であり、経済学の分析手法を駆使し(要因分析と関連性)、現代資本主義の制度的特質とそのマクロ経済学含意を考察して、政策的・実証的結論を導き出すことに成功したのだ。1930年から1970年までの30―40年間はまさにケインズの次代と呼ばれ、政府の経済関係閣僚・官僚は自らを「ケインジアン」をもって任じたといわれる。西欧社会の高度経済成長期を過ぎると、ケインズ主義的な経済政策は財政支出の弾力的な運用を主軸とする安易な総需要管理政策に終始するようになって、次第にケインズ経済学は政治イデオロジーの文脈で語られるようになり、「大きな政府」と批難する新古典派の均衡分析(神の手による市場万能主義)にとって替わられた。ケインズ経済政策は欧州では社会主義政策と連動し、日本では地域に対する経済的便宜、既得権益の擁護に変形し、財政支出を通じて生み出される有効需要に依存して存続を図るいわば寄生体的な産業ないしは企業のみが肥大した。これをケインズ経済というと、ケインズ経済理論から甚だ遠い姿である。アメリカのベトナム戦争、1970年代の2回にわたる石油危機、貿易不均衡の混乱を経て、1980年代になると経済停滞と不況が常態化した。先進国においては様々な不均衡が表面化し、市場が国際化すると発展途上国との経済格差が広がった。日本では欧米より少し遅れて、1990年より土地バブル経済の破局に始まる長期不況により失業が大きな問題となった。いまだに有効な手が打てずに、経済的には市場主義、政治的には新保守主義が蔓延し、傷口が広がった。

1930年代を「経済学の第1の危機」と命名すると、ケインズサーカス(ケインズ経済学を受け継ぐ経済学者のサロン)の故ジョーン・ロビンソン(1983年死去)は現在の状況を「経済学の第2の危機」と呼んだ。経済学の理論的枠組みが現実の制度的・経済的諸条件を適格に反映するするものでなく、政策的・制度的帰結が往々にして反社会的な結果(失業・貧困・格差・・・)をもたらすからである。このような経済的不均衡(均衡があるというのが古典派経済学の特徴であるなら、ケインズ経済学は(不平衡・不可逆の)経済過程がどのようなプロセス(ダイナミックプロセス)を経るかとする適格な理解と、より正確な現状分析か可能とする新しい理論の枠組みの構築に貢献するのではなかろうかと、著者宇沢弘文氏は期待している。「一般理論」は極めて難解な書物で、アメリカ・ケインジアンの考えはヒックスの「LS・LM分析」が有名であるが、これはケインズの考えを正統的経済学の「均衡分析」の中で理解するものである。しかしもともとケインズ経済学の「一般理論」の出発点は、現代資本主義の制度には本来不安定要因が内在し、自由放任の帰結として失業とインフレの可能性が常在し、景気の長期停滞と所得の不平等が必然的に起らざるを得ないという意味で、不均衡過程の動的分析にあった。だからケインズ経済学の「一般理論」は現在資本主義の問題解決学となりうるのである。そういう意味で本書を読む現代的意義が存在するという。ケインズが「雇用・利子および貨幣の一般理論」で持っていたヴィジョンを問い直すことが重要である。

ここで宇沢弘文氏とケインズ経済学の関係をプロフィール的に振り返ろう。宇沢氏は1928年 鳥取県米子市に生まれ、東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、1948年 -第一高等学校理科乙類卒業、1951年 -東京大学理学部数学科卒業、1951年から1953年まで数学科に在籍した。1956年経済学に転向し、 スタンフォード大学、カルフォニア大学バークレー校の経済学助教授を務めた。1964年 シカゴ大学経済学部教授、1968年 東京大学経済学部助教授、1969年同教授、1980年同経済学部長を経て1989年定年退官となった。以降新潟大学。中央大学、国連大学、同志社大学に在籍した。なお40年間以上日本政策投資銀行設備投資研究所顧問を務めている。1997年文化勲章を受賞した。一般著作では「自動車の社会的費用」(岩波新書 1974年)、「社会的共通資本」(岩波新書 2000年)が有名であるが、経済学や数学の著作が多い。宇沢氏はアメリカ滞在中より、ジョーン・ロビンソン、リチャード・カーン、ピエロ・スラッファらのケインズ・サーカスとの付き合いが深く、とくにジョーン・ロビンソンには深く師事され本書の冒頭に「亡きジョーン・ロビンソン教授に捧ぐ」という文が飾られているほどである。ロビンソンはケインズ「一般理論」の構築に主要な役割を果し、一般理論はケインズの個人的著作であるが、ケインズサーカスとの議論や問題提起から生まれた著作であるといえる。ある意味ではケインズ以上に明晰な形で一般理論を提起したジョーン・ロビンソンの学説を通じて宇沢氏は「一般理論」を理解してきたという。ケインズ経済学説を支えた理論家達が1980年代に次々と他界するにつれ、ケインズ学説が力を失っていったという物理的経過も頭に入れておかなければなるまい。

では本書を内容に沿って検討してゆく。一般読者である私には、第1講から第3講までが概論であって、宇沢氏の明晰な文章力で理解は容易である。第4講以降はやたら大まかな図と数式の展開が多くなり、詳細を把握するのはやはり素人には難しくなっている。理科系出身の私には、とくに本書に出てくる「何とか関数(曲線)」という図は、大雑把な関係を概念で示しているにすぎず、数学や物理の関数と思うとがっかりする。AとBは関連しているくらいの把握で、正比例なのか、逆関数なのか、1次関数なのか2次関数なのか、対数関数なのか、時間と変数の偏微分方程式なのかさっぱり分からない。数学的なアナロジーを想定させるための体裁なのか、変数が妙に入り子関係にあり、鶏が先なのか卵が先なのか反論が極めて容易である。本書の数式展開は容易で少し演算すればすべて理解できた。しかし因果関係が「風が吹いたら桶屋が儲かる」式の曖昧模糊の関係を示しているにすぎず、とても数値を演算してオーダーが合う工学程度の話ではない。数理経済学とはこの程度の話だとがっかりする。経済学は科学だと考えると失望する。むしろ期待という確率現象の絡み合いが人間なのだという理解がぴったりである。

第1講 「なぜ一般理論を読むか」

第1回目の講義はケインズの一般理論の背景と「雇用・利子および貨幣の一般理論」の「はしがき」についてである。1946年4月21日にケインズが亡くなったが、ロンドンタイムズ紙は「アダム・スミスに相当する偉大な影響力を持つ経済学者」と誉め讃えた。ケインズの経済学は第2次世界大戦後の多くの国々における経済研究の主軸をなすとともに、経済政策策定のプロセスで重要な役割を果した。ケインズ経済学の理論的枠組みはいうまでもなく1936年の「一般理論」に表現されている。1961年アメリカのケネディ大統領は俊英の経済学者(アメリカ・ケインジアン)を次々と起用し、ケインズ的なマクロ経済政策を打ち出した。ときはインドシナ介入によってアメリカに混乱と大変動が起きようとする年であった。アメリカ・ケインジアンはヒックスの「IS・LM分析」あるいは「所得ー支出分析」といわれるマクロ経済学モデルをかかげ、計量経済モデルを理論的支柱として経済学の大きな潮流をなした。1960年代後半になってベトナム戦争によるアメリカ社会の亀裂と挫折が拡がる中で、ケインズを読む人はいなくなってしまった感があった。ヒックスの「IS・LM分析」とは、@IS曲線は財貨・サービスに対する総需要額は総供給額に等しいという財市場の均衡を意味し、ALM曲線とは貨幣保有に対する需要はその供給に等しいとする金融資産市場の均衡を意味した。このヒックスのケインズ解釈が古典的均衡分析の枠内の中で展開されている。ところがケインズの一般理論の出発点は市場の均衡とは「非自発的失業」の水準での「有効需要」であって、古典派が夢見ていた「完全雇用」は極めて特殊な場合で容易に実現するものではないことを示した。非自発的失業が一般的だとする。財政・金融政策の有効な作動を通して始めて有効需要が増加し、非自発的失業の改善に向かうというのがケインズ主義である。ヒックスが1974年に著わした「ケインズ経済学の危機」において、「IS・LM分析」は1930年代には妥当であったが、1970年代にはもはや通用しないと結論した。

ケインズの「一般理論」が書かれた時代背景はいうまでもなく大恐慌である。正統派経済学(古典派)の理論は大恐慌を前に完全に破綻した。市場の自立的調整機能はあるのだろうか、神の手はあるのだろうか 「Oh My God!]である。ケインズが「一般理論」で目指したのは、雇用量、国民所得、物価水準等という経済変量がどのような要因によって決まってくるかを分析する理論的枠組みを作ることであった。要因としては消費性向(第3篇)、投資の限界効率(第4篇)、流動性選好(第5篇)の3つを考察した。そしてケインズは経済の主体を固定性の高い企業と家計の2つの部門に分けた。家計とは労働者と利子生活者である。投資と貯蓄は企業と家計の2つの主体で異なった形態と動機を持つ。金融資産市場の存在が企業を生産条件の固定性と資本・負債の流動性の2つに分裂させる。これが経済循環過程つまり投資期待というもうひとつの不安定性を生み出す。市場機構の迅速な運用によって容易に平衡になるのではなく逆に不安定性が増幅されるのである。そこで財貨・金融政策の弾力的運用が必要となる。これが経済政策におけるケインズ主義と呼ばれる考え方であった。1970年代のアメリカ経済の不均衡過程は加速し、ケインズ政策も対応できなくなり、反ケインズ主義(新古典派)経済学が大きく前面にでてきた。政治的には「小さな政府」をめざすサッチャー・レーガン主義という新自由主義が主流となった。新自由主義時代には、急速に萎縮する期待が不況を長引かせ、失業・貧困・格差が大きな社会問題となった。はたしてケインズの「一般理論」は「経済学の第2の危機」に対応できるのだろうか。宇沢氏は一般理論の基本的問題点を四つ挙げている。@ケインズが第1公準を認めることは、不完全競争市場で賃金決定が読めなくなることである。A長期利子率と短期利子率の関係が不明瞭である。B有効需要が雇用量ならびに国民所得が決まるというメカニズムが明らかではない。C資本蓄積の高度化による投資効率の低下は社会的資本を取り込んでいない。ケインズ「一般理論」のなかでケインズの古典派的考えからの脱却が不規則で難解な主張、矛盾した主張があって理解を困難にしている。それでもなケインズの「一般理論」の枠組みは経済変動の不均衡過程にアプローチする上で有力な武器を有しているようである。宇沢氏は今ほどケインズ経済学が必要とされるときはないと一般理論を読む意義を強調される。

第2講 第1篇「序 論」

第2講は一般理論の第1篇「序論」を取り扱い、古典派経済学の2つの公準が極限的な場合にしか該当しない状況を指し、ケインズは一般に扱うことが出来る「一般理論」を目指す事を宣言する。そこで訳文の優劣を比べるわけではないが、古典経済学の2つの公準を宇沢氏の言葉で再度下に示めそう。
第T公準: 労働雇用に対する需要は、労働の限界実質生産額が実質賃金に等しい水準に決まってくる。
第U公準: 労働の雇用に伴う限界非効用と実質賃金とが等しくなるような水準に労働の供給が決まってくる。
第T公準は労働の需要(資本家サイド)、第U公準は労働の供給(労働者サイド)をいっているわけで、一人の実質労働賃金は1人の生産額に等しく、実質賃金が労働者の生活を維持できなければ労働者の数は減るという(これを自発的失業という)。つまり古典派は完全雇用の状態を指している。ケインズは第1公準は認めるが、第U公準は適当でないとする(労働者はどんな実質賃金でも働きたいのだが、資本側が首を切るという非自発的失業が一般的であるという)。古典派経済学は失業は労働者の自発的意思でいつも完全雇用が成立しているというが、ケインズは第2公準を認めず資本側の投資の減退により失業は常在するのが一般的で、完全雇用は極限的な現象に過ぎないという論理の枠組みを展開する。この理論は1930年代の大恐慌の時代の大量失業という社会情勢を背景として生まれた。古典派の考えでは、労働市場における価格調整メカニズムが働けば、賃金は下がって需要は増え供給は減ることになる。つまり賃金が下がることによって失業は減るという。賃金が低いため自発的に労働市場から撤退した労働者は失業者群にはカウントされないのである(現在でも失業者の定義には、長年の就職難のため労働意欲をなくしドロップアウトした人は含まれないのと同じ論理である。彼らがどうして飯を食えるかは考慮しない)。古典派の完全雇用とはそもそも定義からして架空の話であった。古典派は労働組合による賃金交渉や最低賃金制など制度的政策的要因が邪魔をしているので賃金が下がらないためだけであるとし、労働市場の規制を取り払えば、賃金が下がって失業は減少し完全雇用に近づくという。現在の欧州における「ワークシェアリング」とはまさにこの賃金切り下げによる雇用策である。ケインズがいう「古典派」とは、リカード経済学を引き継いだジョン・スチュアート・ミル、マーシャル、エッジワース、ビグー、アーヴァング・フィッシャーらの系譜の経済学が含まれる。

これから一般理論の解説には図、数式は一切使わないことにする。図や数式で誤魔かされてはならない、言葉で納得できなければならないと思うからである。古典派の「一般均衡」の状態では、労働について需要と供給が一致するだけではなく、すべての財やサービスについて需要と供給が実現し、生産者は利潤が最高になるように生産活動を行い得りたいと思うだけの涼を販売することが出来るという。この均衡を「ワルラス均衡」と呼ぶ。ケインズはビグーを批判の対象とするというが、ワルラスの一般均衡理論の考えが批判の対象なのである。1929年の大恐慌のとき、完全競争的市場を通じて資源配分が行われるとき、社会的に見て最適な資源配分が行われるので、政府の介入は無効であると云う見解が古典派から出された。古典経済学の第1公準は生産曲線を基にしている。労働雇用量を変数とする生産量は数学関数的アナロジーを使って、曲線の関数表現も根拠もなく、労働者あたりの生産量が最大となる変曲点において利潤(生産)が最高となるとしているが、理科系の私にはこれを自明と認めることはどうしてもできない。ケインズは古典派のいう労働雇用や生産要素は遅滞なく可変的であることに疑問を呈し、生産要素は過去の投資によってきまる固定的な要素であり、新たな状況での投資変更がなければ即応でき似るものではないとする。ここに時間という要素が入るが、一定の時間(現実には生産構成変更には1,2年かかる)を経れば均衡に達するかといえば、それはまた新たな状況への過渡的な過程で何が主要な要素となるか予測不可能性がある。古典派の第2公準は労働の供給についてである。限界非効用と実質賃金とが等しくなるという考えであるが、労働時間を変数とする実質所得曲線を労働の供給曲線を右上がりの曲線を想定していることにみそ(うそ)がある(現実は労働時間が多くなっても賃金は頭打ちする逓減曲線、ルート√曲線になるはず)。企業は利潤が最大となる水準で労働を雇用し、労働者は自ら選択した労働時間(日数)だけ働くことが出来る。これは完全雇用の考えである。古典派は摩擦的(一時的雇用調整)失業と自発的失業が基本であるとする点はケインズが批判するところである。ケインズは第1公準はそのまま認めるが(スパンを長く考えれば)、第2公準は否定する。

古典派の雇用理論を代表するビグーの「失業の理論」やヒックスの「賃金の理論」は失業対策としては次の四つを指摘する。@摩擦的失業を減らす組織の改善、予測の改良 A労働の限界非効用を低くする。 B消費財産業における生産性を高める。 C投資財・金融財の価格を高くする。
不況時の大量失業問題は労働者が貨幣賃金の引き下げに応じないからだという古典派の主張は事実に反する。企業は賃下げが目的なのではなく、需要不足による人員削減が目的なのである。もともと一方的首切りによる非自発的失業である。物価が上がって実質賃金が下がったとしても現実の労働者が職場を離れるとは思えない。第2公準はそもそも成立しない代物である。逆に貨幣賃金が下がったとき、労働需要が上がったためしは無いのである。労働需要は財貨・サービスに対する需要の大きさによって決まってくるからである。失業対策は景気回復しかないのである。無限の経済発展がないとするならば、物理的人口数と労働需要のギャップは、今後の人口減少社会の実現と維持可能経済規模とのバランスにかかっている。これは恐ろしいことをいっているのではない。現実の成熟社会の設計に関する事である。ケインズは労働市場において需要と供給が一致しない状態で「均衡」が成立するという。セーの法則は「生産供給が消費需要を生み出す」というが、財貨・サービスの総額である国民生産額は生産した関係者に配分されるということである。分配された所得は消費財に向けられる。しかし新古典派の前提である「セーの法則」は実物的要因を表現しているが、物価水準は貨幣供給量によって決まるという側面がある。貨幣数量方程式とは物価水準と国民生産額の積である国民総所得は、貨幣供給量と貨幣の流通速度で規定される。国民生産額は実物的要因であり、貨幣の流通速度という制度的要因と無関係であると云う考え方が古典派の二分法である。古典派によると物価上昇率(インフレ率)の安定化は、貨幣供給の増加率の調整(日銀の役割)によって達成される。これを「マネタリズム」という。ケインズが一般理論で主張しようとした一つに、貨幣供給の条件を変えたときそれによって、経済の実物的な生産も影響を受けて変わってゆく(第6講:投資誘因で詳述)という命題があった。

第3講 「ケインズのヴィジョン」

この第3講において、宇沢氏は聴講生に見通しを与えるため、ケインズ「一般理論」の目指すところ、古典派との相違点、ケインズの最大の特徴である「有効需要の原理」を解説する。いわば第3講は本書のエッセンスであり、第5講以降は経済諸要因の各論であると言ってもいい。ケインズは現代資本主義の制度的特徴を、資本(企業)、労働者、利子生活者の3つでとらえた。利子生活者という言い方は不在地主とおなじく現在では殆ど意味をなさないので、資本、労働(家計)の2つが私的経済の主体である。これにたいして古典派の理論は市場経済を構成する経済主体はあくまで個人である。したがって古典派の理論は合理的な基準によって行動する個人行動への分解可能性を前提としている。企業には生産設備、知的人的資源、生産技術・マーケットに関するノーハウなどの無形資産らは、市場的な条件が急変しても簡単には処分・組み換えは出来ないという有機的組織の固定的生産要素から成り立っている。これに対して古典派が想定する企業体は融通無碍の変化体とされ、その時々の市場条件において、利潤が最も大きくなるように遅滞なく瞬時に組み合わせをかえる集合体として捉えられる。企業の経営者は変化を読み企業の形を変えるカメレオン的な能力が要求されているが、現実はそうはゆかない。企業の法的所有権は株主にあり、企業の具体的な経営には直接コントロールできない。私的企業における経営と所有の分離は「法人資本主義」ともいわれ、株式会社は日本では独立した意思体である。生産設備を所有するのも個人ではなく企業である。アメリカなど新古典派が想定する個人から離れた企業ではこのような経営と所有の分離は起らないとされている。

企業の投資活動は将来の市場の条件(短期期待と長期期待)を予想して、長期的な計画を立てることである。秦古典派はすべての現象について人々が確実な知識を持って行動している(合理的期待形成仮説)とするに対して、ケインズの世界は将来の事象のもつ不確実性が人々の行動にどのような影響を与えるかに注目する。完璧に将来を予期できなければ、合理的判断などありえないから古典派の理論は「ありまほしき仮説」という無理なツッパリに見える。現実が期待したとおりに実現する保証は無い。ここに資本主義制度の下における経済循環のメカニズムが必ずしも安定的では無いとする要因が隠されているとケインズは見た。古典派は期待について考察してこなかったし、投資という計画もない。条件が変わるとすべての要因は自動的に新たな平衡を目指して変化するいわば「自動制御理論」(神の手)みたいなもので、恐慌などは多少のダンピングを伴った過渡現象(摩擦)と理解していた。高度な発展を遂げた資本主義制度では投資を決定するのは企業であり、消費・貯蓄性向を決定するのは家計(労働)である。異なった動機に基づいて投資と消費が行なわれ、それが流動性の高い金融資産を介して行なわれるため、国家の果す役割も大きい現代資本主義の枠組みは複雑怪奇な様相を示すというケインズ流経済学の見方である。

新古典派理論は個人行動への分解可能性を前提としている。ケインズ理論は投資と貯蓄・消費がそれぞれ基本的には性格の異なる経済主体(資本と家計)によって決定されることを前提とする。古典派の集計的生産曲線(前生産量Qを労働量Nの関数であらわす Q=f(N))の傾きはdQ/dNで労働の限界生産を示すが、それが実質賃金に等しいとする。しかしこの数式モデルは関数形も明確でなく、Q=f(N)といって何の御利益があるのだろうか。又関数形も分からない曲線でどうしてある点(2回微分が+から−へ変わる変曲点らしいが、それが平衡点になる)の接線の傾きが利潤(売上から経費を引いた価)が最大点であると云う、とても数式による証明ではなく解析幾何の連想によるアナロジーは私には全く理解できない。生産量は働く人が多ければ大きくなるぐらいの連関で関数的表現もなくどうして微分や変曲点など定量的に議論できるのだろうか。ある経済変の関係を式に置き換えたとしても、その展開は四速演算程度であり、その式の展開は極めて初歩的で簡単に導ける。しかし変数と関数の関係は不定でどちら結果でどちらが要因なのか分からないようでは式の演算をしても甲斐がない。前提条件の吟味のほうが重要では無いか。したがってこのあたりの数式は全部省略する。そこで一般理論で中心的役割を果す有効需要の概念について考えよう。生産物の価値から労働費用(要素費用)と材料と設備に関する使用費用を引いた額が利潤である。それが企業の所得となる。セーの法則は雇用量に対する生産の総需要曲線、賃金の総供給曲線の交わるところで完全雇用の需要と供給が一致するというが、ケインズは不完全競争を念頭においてこの点を「有効需要」と呼ぶ。労働者は所得をすべて消費するわけではなく、国民所得が増えても消費はそれより少ないのが一般的である。国民所得から総消費を差し引いた総投資水準に依存して雇用の均衡水準が決定される。有効需要Dは、消費財生産に需要と投資財の需要によって決まる。このように雇用量は総供給曲線、消費性向、投資に依存して決まるというのが雇用の一般理論である。「豊富の中の貧困のパラドックス」は実際の生産量と潜在的生産能力のギャップによって非自発失業は増大する。生産性が上がるほど失業が増える成熟社会の宿命がある。これに貨幣経済が追い討ちをかける。

第4講 第2篇「定義と概念」

第4講:第2篇「定義と概念」では、基本的概念の解説として、経済変量の単位、経済分析のなかで期待の果す役割、所得の概念、貯蓄と投資の概念について語られる。マーシャル、ビグーがいう「国民分配分」とは毎期の産出量や実質所得の大きさを測るものであって、生産物の市場価値や貨幣所得を表すものではない。経済全体の産出物が多種多様で構成されているので、一つの尺度で測ることは不可能である。一つの財だけの経済という特殊なモデルでは可能である。資本設備に陳腐化したり消滅した古い設備と新しい設備の比較は難しい。一般的な物価水準とはあいまいな概念である。そこでケインズは雇用理論を展開するに当たって、2つの基本的な単位を導入する。貨幣単位と賃金単位である。労働を単純労働に還元した雇用単位、労働単位は雇用量を量る単位であり、賃金単位は労働単位の貨幣賃金である。こうして同質的なものとして議論する。ケインズは貨幣と労働の2つの基本的な単位を用いて議論した。ケインズは単純化のため1財経済マクロモデルで得られた結論を一般化しても大体正しいと考えた。企業の「期待」概念は価格、将来の収穫についての期待であり、企業の雇用は短期の期待に依存して決まってくる。投資水準の決定は将来予想される費用と売上とに関して、その時点で形成される期待に基づく。各時点での雇用量はその時点において存在する資本設備を念頭に置きながら、その時点の期待に依存して決まってくる。

企業は期末に経済活動の結果として、収入から使用費用を引いた粗利潤に期末資産を足した価値を持つ。国民所得とは収入から使用費用を減じた価である。このあたりの詳細は原価分析となり伝統により算入項目は多少異なる。経済全体の消費と投資はそれらの総和である。所得は売上から使用費用を引いたもの、消費とは売上から購入を引いたもの、貯蓄は所得から消費を引いたものである。「投資は貯蓄に等しい」 これが有名なケインズの命題である。総投資というのは資本資産の購入一般を指す。投資は広い意味で資本ストックの増加分で、固定資産、運転資本、あるいは流動資本のすべてを含む。投資についての異論はこれらから何を省くかという点である。ケインズは在庫投資は除くべきであると云う。貯蓄と投資の乖離を生み出す要因として所得の定義の問題がある。貯蓄が投資を上回る時ケインズのいう所得が減ったことになる。預金者と銀行が結託して、貯蓄が銀行体系の中に消滅し投資に吸い込まれてしまうか、銀行の体系がそれに対応する貯蓄がなくても可能であるように想定される。それは銀行体系の信用の増加の結果である。人々が保有したいと思う貨幣の量が銀行体系によって創出された貨幣の量に等しくなる。これが貨幣理論の基本的な命題となる。

第5講 第3篇「消費性向」

「一般理論」でケインズが分析しようとしたのは、1国経済の労働雇用量がどのようにして決まるかという問題である。古典派は雇用量は、論理上は総供給曲線と総需要曲線(どうして求めるのかは不明だが)の交点で決まるとした。ケインズは第3篇・第4篇で総需要を決める消費と投資について論じる。ここで政府関係は無視視して民間部門だけを考えている。雇用量Nと消費額Cの関係を表すのが消費関数である。ケインズは賃金単位で計った所得Ywと賃金単位で計った消費額Cwの関係を、Cw=χ(Yw)と考えた。ケインズは消費支出額を決定するのは、そのときの所得水準が最も重要であるとした。消費の動機を与える主観的要因と客観的要因のうち客観的要因のみが決めてである。その客観的要因とは次の6つである。@消費は実質所得に依存する。 A消費は純所得の大きさに依存し、適応的に変化しない。 B資産価値の偶然的変化の消費性向への影響は大きい。 C現在の消費と将来の消費の主観的な交換比率は変化する。利子率の変化は人々の保有する資産価値を変え、そして消費性向を帰る。 D財政政策の変化 政府の財政政策は利子率と同じく重要は要因となる。 E現在の所得と将来の所得への期待の変化 しかし個人的な期待は相殺しあまり影響は少ないと見る。(これは1937年に発表した論文「雇用の一般理論」と矛盾しする。) ケインズの消費関数はどのよう形をしているのだろうか。関数形もないのだから本来想像できないが、消費の増加は所得の増加よりは小さいという特徴を持つ。消費の増加は所得の増加に対して逓減的であるという。その特徴を表すと、0〈dCw/dYw=β〈1である。βを限界消費性向とよぶ。βが局所的に一定だとすれば線型1次の関係である(実際はβはYwに依存するだろうが)。もし消費性向が増えない場合、雇用の増加は投資の増加によって始めて可能となるという結論にケインズは至る。すると雇用は期待消費と期待投資の関数となる。資本蓄積が進むにつれ所得と消費の乖離はますます困難なものとなり、次期の投資をさらに困難とするので、公共投資によって雇用を増やす政策は困難を先延ばしにするだけで、問題の解決にはならない。

ケインズは所得をすべて消費しつくさないで貯蓄する動機を8つにまとめた。@予備的動機 A深慮・不確実性 B打算・投機 C向上 D独立 E企業 F名誉心 G貪欲 消費性向や貯蓄性向に関する主観的・社会的動機は僅かしか変わらない。利子率の変動(所得が所与のとき、利子の上昇→貯蓄の向上→消費の減退→投資の減退→貯蓄の減少)も副次的な影響しか与えない。消費の短期的変動はもっぱら所得水準によって左右されるというのがケインズの結論である。消費性向が一定であるとき、雇用量の増加は投資の増加に伴ってしか起きない。カーンは投資と所得の間に乗数と呼ぶ関係を見出した。ケインズは所得Ywと賃金単位で計った消費額Cwの関係を、Cw=χ(Yw)と考え、限界消費性向をβ(dCw/dYw)と定義した。消費プラス投資が所得に等しいから、投資による所得の増加は比例乗数k=1/(1-β)を掛ければいいことになる。kを投資乗数と呼ぶ。同様に投資産業の雇用を増加させた場合の国全体の雇用量増加の比例乗数k'を雇用乗数と呼ぶ。投資乗数kと雇用乗数k'は普通異なった値をとるが、k=k'の場合をケインズは検討する。所得が増加しても消費性向が変わらない(限界消費性向β=0)場合、投資乗数kは1となり公共投資事業による雇用量の増加にしか効果は現れない。低い雇用水準で低迷せざるを得ない。公共事業による雇用が総需要に及ぼす影響は失業が大きい時には効果は目立つ。借入金(国債)によって賄われる公共事業はいかに「浪費的」であってもそれなりの効果は出るのである。大災害(復興事業)、戦争、壮大な土木建設(新幹線・高速道路、オリンピック)などである。ここでケインズはいやな皮肉をいう。「穴掘りは何もしないよりましなのだ」

第6講 第4篇「投資誘因」

第6講「投資誘因」は、350ページくらいの本書のなかで100ページの分量を占める。経済社会活動の中心は「投資」にありというようだ。雇用の総需要を構成する2つの要素(消費と投資)のうち、投資を議論する。ここで資本(投資)の限界効率と流動性選好という2つの概念を構成する。そして最後に「雇用の一般理論」の枠組みが要約されている。ケインズの投資は、設備資本、固定資本、流動資本を含有するが、ここで議論している理論は固定資本だけである。ケインズのいう資本の効率とは投資効率のことである。投資とはある資本・資産を購入することにより、その資産が生み出す収穫の系列を受けとる権利を手に入れることである。投資の基毎の期待収益Qiと資産の供給価格Pは、割引率(償却率)をrとすると、投資を回収するには複利計算と同様にP=ΣQi/(1+r)^iとなり、割引率を投資の限界効率mと呼ぶ。投資資産の収益性を表す尺度である。mは小さいほど収益は大きい。結局現時点での将来の期待収益が中心的役割を果す。購入した資産は簡単には処分できない固定的な性質を持っている。企業・社会の総投資が増加すればその限界効用は低下する。期待収益が投資量によって変化するということは、投資財がストックとして市場で売買されていないからである。需要に対する投資の基本的なスケジュールを「投資の限界効率表」と呼ぶ。期待されるネットキャッシュフローを市場利子率で割り引いた価格が投資の供給価格に等しくなければ投資は有り得ないので、投資の限界効率は現行の市場利子率に等しくなる。利子率が高くなると資本は市場金融に流れ投資に向かわなくなり景気を抑制する。このように、投資の限界効率表が、将来の市場条件に対する期待に依存すると言うことは、景気循環の過程において起る激しい景気変動を誘発する要因となっている。

資本設備の期待収益はそもそも不確実な事象であって、不確実な将来の状態に対する心理的期待を「長期の期待」と定義する。もし利子率が一定と仮定して、確信の度合いが投資の限界効率にどのような影響を与えるだろうか。今日のように企業の所有と経営が分離され。投資市場(株式市場)が組織化されると全く新しい局面に遭遇する。即ち投資は容易になる半面、経済の不安定性は一層高まるのである。ケインズは不安定性を増幅する要因としいくつかを挙げている。@株式の評価が企業の実質的な知識から離れている。 A利潤の短期的変動が株価に過大な影響を与える。 Bニュースや群集心理が支配する。 C職業的投資家は一般大衆より先に株式評価を予測することに向けられる。これを「美人投票」といい、株式評価ではなく平均的な評価がどうなるかに注意を払うのである。ケインズはこれを投機といい市場の心理を予想する活動を指す。特にアメリカではファンダメンタルよりも短期的なキャピタルゲインを求めて投資することが一般的となっている。投資市場が「流動性」を求めて組織化された結果である。そしてケインズは不安定性要因として投機だけでなく、楽天的な「アニマルスプリット」という積極的(冒険主義的)行動を選択する内面的衝動を指摘する。これも利益を上げるときは慎重だが、失敗をリカバリーする際に急に果敢となる心情である。景気の回復は企業活動に望ましい雰囲気の形成が不可避であり,政治的社会的な雰囲気作り、特に政府の投資方向への介入も必要であるとケインズは考えた。

投資の限界効率のスケジュールによって新しい投資に必要な貸付資金に対する需要が決まってくるわけだが、市場利子率は貸し付け資金の供給を規定する。利子率に関する古典派の考えは、「利子率は投資と貯蓄が等しくなるような水準に決まる」という。市場利子率は貸し付け資金の需要と供給とが均衡する水準であるので、これを「貸し付け資金説」という。ここでケインズは「利子率の一般理論」を提案する。つまり所得水準、雇用水準に応じて投資と貯蓄の流れが決まるため、流動性の高い金融資産(現金)で保有するか、流動性は少し犠牲にして収益性の高い金融資産(債券など)で貯蓄するという流動性選好によって貯蓄の形が決まるとした。利子率は流動性を犠牲にすることに対する報酬である。ケインズは貨幣を「銀行預金残高と流通現金残高」と定義し、利子率は資産を貨幣の形で保有しようとする欲求と貨幣の供給量とを均衡させる価格であるという。つまり利子率は貨幣の供給量によって決まるとケインズは主張する。貨幣供給量を増加させると利子率は低くなり投資が増えるため、雇用水準を高め、所得の増加に伴う流動性選好の上昇(投機的要素)に吸収されるという。所得水準と価格水準も高くなる。これを「ケインズ的プロセス」と呼ぶ。貨幣は経済取引の決済手段として、富の保蔵手段としての役割がある。現金を保有していても一切価値を生まないのになお一定量の貨幣は手元に持ちたいのである。これをケインズの「流動性選好理論」と呼ぶが、それは利子率に関する不確実性の存在であり、満期を持つ負債(長期で購買支配力を取り戻すことができる財)に対して将来どのような利子率が支配するかを考慮することである。

ケインズは流動性を支配する4つの動機(貯蓄の動機に似ている)を導入する。@所得動機(支払いにそなえた貨幣保有) A営業動機(売上回収と営業的支出の時間間隔) B予備的動機(突然の購入機会や支出に備える) C投機的動機(市場価格の変動に対する知識を持って利益を確保するため) である。企業活動に必要な@からBに要する貨幣量は国民所得水準の規模によってきまってくるが、貨幣当局(日銀)による貨幣管理の経済的効果は主として投機的動機に現れる。これを「オープンマーケットオペレーション」という。金融当局への期待が流動性選好自体にも影響を与えるからである。金融当局は常にシグナルを発し続けるのである。貨幣供給量が増えたとき、それは一部は投機的動機による貨幣需要に吸収される。証券に対する需要が増え利子率が低下する。利子率が独立的政策変数として現れ、貨幣供給量が逆に従属的変数に変わるのである。したがってケインズ的金融政策というとき利子率をある水準に安定的に維持しようとする政策を意味する。マネタリストの金融政策とは貨幣供給量と変化量を安定化させる政策であった。ケインズは貨幣流通速度として(所得/貨幣供給量)を定義し、投機的動機以外の@-Bのための利子率は貨幣供給量に等しいので貨幣流通速度は短い期間ではほぼ一定と見られる。利子率がある水準よりも低いような状態で、利子率が極僅かしか上昇しない(利子率の変化率 臨界変化率)という期待では金融資産に対する需要はゼロとなり、貨幣に対する需要が限りなく多くなる。これをケインズは「流動性の罠」と呼んだ。

貯蓄の増加はその分消費財・サービスへの需要が減ることになり、現在の消費の減少は将来の消費期待の減少となり、雇用を減らすことにつながる。古典派経済学は貯蓄は富の保有に対する需要であって、投資への需要と同じく消費と雇用を増やす効果があるという。しかしケインズは貯蓄は資本や資産それ自体を保有するのではなく、そこから生み出される収益を求めてなされるので、富の所有の移転に過ぎず、新しい富の創出は投資による期待収益によってなされるという。日本におけるような貯金一辺倒では経済活性化につながらないというものだ。資本の蓄積が高度に進んで投資の限界効率がゼロに落ち込んでしまった(新たな投資先が見つからない)社会では、失業の発生と豊富の中の貧困化という現象が見られるようになった。そのとき戦争が企画され、大震災が歓迎されたり、不要不急な大規模事業に向かうのは一時的な鎮静剤(麻薬)効果を求めるあがきである。ケインズは「利子生活者階級の安楽死こそ資本主義の救済策である」とご神託を開述されるが、これは社会革命である。資本設備が新しく生産されるには,投資の限界効率がすくなくとも利子率を超えていなければならない。ケインズは利子と貨幣の本質的な性質に迫る。かってケインズは「利子とは当座の購入の権利を放棄する報酬である」といい、ここで「貨幣利子率は貨幣の先物契約に伴う収益率である」という。するとすべての種類の資本-資産に対して利子率(収益率)の概念を導入することが出来る。これを任意の資産の「自己利子率」と呼ぶ。ある資産の産出量ー資産を維持する経費+資産を保有したことによる便宜を資産の自己利子率と定義する。貨幣の特徴は経費はゼロで、便宜とは流動性プレミアムのことである。従って貨幣利子率が資産の自己利子率の上限となる。そして貨幣蓄積量が増えてもその自己利子率は極わずかしか低下しない特徴を持つ。そして貨幣供給は管理通貨制度をとっていれば、いかなる要因にも影響されない。流動性の罠におちいっている状態では解決策は貨幣供給量の増加である。つまり投資の限界効率をなんとかして上昇させればいいからである。すべての資産のうち自己利子率が最も大きな貨幣について、その利子率が投資の限界効率の最大なものに等しい限り、投資はそれ以上増加しない。

「投資誘因」の最後の章においてケインズは「雇用の一般理論」を次のようにまとめた。雇用の独立変数としては、消費性向、投資の限界効率表、利子率の3つがある。従属変数としては、雇用量、賃金単位の国民所得の2つである。しかし投資の限界効率表は長期の期待に依存し、利子率は流動性選好と貨幣の供給量に依存するので、究極の独立変数として、@消費性向、流動性性向、将来の収益期待という心理的要素 A当事者の交渉により決定される貨幣賃金、B中央銀行の操作による貨幣供給量である。投資はその限界効率が市場利子率に等しい水準に決まるとして、投資の増加によって雇用量が増え所得が上昇したとき、所得と貯蓄の関係はずれてゆく。ケインズは資本主義経済の際だった特徴として、所得と雇用とが絶えず変動してゆくが、極端な不安定性は存在しないと見ている。安定的働く要因として、@限界消費性向は1以下で、投資乗数は1より大きいが極端ではない。 A期待収益あるいは利子率による投資への影響は極端ではない(弾力性は小さい)。B貨幣賃金と雇用量は連動して動く。C投資の増加は限界効率を下げ、その逆も成り立つ。以上の4つの条件が充たされる時、資本主義経済について雇用量、国民所得、物価水準は絶えず変化するが、極端なダンピングには抑制力が働き自律的な安定を生む。長期的には完全雇用には至らず最低水準よりは高い雇用の状態が続く。いわゆる長期停滞の状態が現代資本主義の典型的な姿である。バブルは虚構である。

第7講 第5篇「貨幣賃金と価格」

古典派理論は完全雇用のもとで均衡価格体系(賃金を含めて)が実現するといい、もし失業が発生するとすればそれは硬直した高賃金によるものであり、貨幣賃金を下げれば生産費用は低くなって物価は下がり賃金単位の総需要額は回復し、生産量も雇用量も増加すると主張する。古典派の雇用理論はビグーの「失業の理論」にまとめられている。これに対してケインズ理論は労働雇用量は主として有効需要の大きさによって決まり、賃金の切り下げによって有効需要は増えないと主張する。この貨幣賃金の低下が雇用量、消費性向、投資の限界効率、利子率に与える影響をケインズは分析して、次の5つのポイントを指摘する。
@貨幣賃金の定家によって価格水準の下落が見られる。労働者の賃金が低下すると、消費が減少し企業の収益も低下する。
A国際貿易を伴う開放体系では、1国の貨幣賃金の低下は国際貿易競争力を増し投資を促進する。国民所得の向上につながる。
B開放体系では貨幣賃金の低下は貿易収支は改善されるが、交易条件は悪化し実質所得の低下と全雇用量の減少となる。
C賃金低下が短期で回復する期待では市場利子率の低下、投資が活発化するが、長期にわたって低迷が続くと期待されると効果は逆転する。
D貨幣賃金の低下が企業の負債を重くする。国債についても同じである。
つまり貨幣賃金の低下が及ぼす効果は短期期待と長期期待で相殺するので、長期不況の誘因となりかねない。経済がこのような状態になって有効需要が低くなったときには、もうこれ以上は落ち込まないという政府のメッセージが明暗を分けるのである。全く経済は期待で動く動物である。一般的には貨幣賃金を安定的な水準に維持するのが、外国貿易の問題を考えないときには望ましい政策であり、伸縮的な外国為替相場制度でも同じことが言える。このようにケインズは貨幣賃金を固定化することで短期的な雇用の変動をすくなくし、価格も安定するという。しかし長期的には2つの選択肢があるという。貨幣賃金を固定して価格水準が年々低下するか、価格水準を一定にして貨幣賃金を年々上昇するかの選択である。

有効需要の決定において定義した総需要関数Z=Φ(N)の逆関数である、N=F(Dw)を雇用関数という。有効需要Dwと労働の雇用量Nとの関係は、有効需要の変化に対する産出量O、期待利潤P、貨幣賃金Wの弾性率をeo,ep,ewとすると演算過程は省略するが(簡単である)、ep=1-eo(1-ew)の関係が成立する。これを古典派の貨幣数量方程式と呼ぶ。総有効需要と総雇用量との間には一意的な関数関係は存在しないが、有効需要の変化に対するレスポンスの程度が複雑に絡んでおる。有効需要が減少すれば、労働の過少雇用という減少がおき失業者が大勢存在することは確かである。有効需要が増加すると雇用量は増加するが、現行の実質賃金のもとでどれだけ労働供給量を増やせるかは不明である。古典派経済学の教科書の多くは第1篇:価値学説、第2篇:貨幣と価格学説からなるという。ケインズは価値理論と貨幣理論に2分するのは正しくないという。マクロ経済学とミクロ経済学に分類するのが正しいという。そしてミクロ経済学で個別企業や産業を分析するときには総有効需要や総雇用量は一定という仮定をおく。総産出量や総雇用量がどのようにして決まるかを分析するマクロ経済学では貨幣経済理論を援用しなければならないというのだ。そして将来の均衡期待が現在の均衡に影響を持つのである。

価格水準(製品原価)決定メカニズムは、限界費用を構成する生産要素に対する支払いの規模と同時に、産出量の大きさにも影響される。生産技術と資本蓄積が一定のときは一般的な価格水準は全雇用量の規模によって決定される。失業が存在する限り労働者は現行賃金で働くことに同意する。したがって貨幣供給量の増加によって価格は影響を受けず、利子低下による有効需要の増大に見合うだけの雇用量の増大が見込まれる。貨幣供給量の増加に比例的に有効需要が増加する場合を「貨幣数量説」が成立することになる。価格理論の目的は貨幣供給量の変化にたいして価格水準がどう変化するかを分析するのである。貨幣供給量の増加が利子率の低下をもたらす度合いは「ヒックスのIS・LM分析」で解析された。貨幣供給量の増加は流動性選好に影響し、国民所得の増大が市場利子率を下げるのである。国民所得の増大(好況)は貨幣賃金の上昇となるのが一般的である。それはまた価格の上昇となる。ケインズはこれを「セミインフレーション」といい、有効需要が増えても産出量あるいは雇用量の増大という形にならずに、すべて費用の単位(価格)の上昇となって吸収されてしまう場合を「真正インフレーション」と呼ぶ。ケインズは先ほど述べた弾性率を貨幣供給量の変化に対して様々な要因の弾性率を定義して古典派の貨幣数量方程式を一般化した。演算は簡単なので省略するが、それで価格水準の安定について何が言えるか複雑でなんとも言えない。

第8講 第6篇「一般理論から導き出せるいくつかの覚書」

終章において、ケインズは言い足りなかった話題について「覚書」という形でまとめた。景気循環、社会公正という観点である。景気の循環は投資の限界効用率が循環的な変動をすることから引き起こされる。限界効用スケジュールの変動に伴って、他の経済的変数の短期的変動がさらに拡大され経済全体の循環的変動を誘発するというものである。中でも恐慌という急激な景気の変化は景気の下降局面で起る。ケインズは景気循環理論はこの恐慌を適切に説明できなければならいという。投資活動が経済活動の中心である事が強調される。恐慌を誘発する基本的な要因として、投資の限界効率の期待の崩壊が挙げることができる。株式を中心とする長期金融資産の市場価格は投機的動機に基づく期待を反映して、ファンダメンタルズを大きく上回っていることが一般的である。長期金融資産の市場価格の暴落は利子率の上昇を引き起こす。利子率の上昇は限界投資効率を下方へ移動させ、投資の大幅な減少となる。投資の減退は有効需要と雇用量の減少、失業の大量発生となる。これが恐慌である。利子率を下げるという金融政策だけは恐慌からの脱出を図ることは出来ない。投資の限界効率を回復させることは、悲観的となった企業家の心理をコントロールすることが出来ない限り不可能である。やはりある程度の時間的経過が必要であるという。恐慌の消費性向に与える影響も簡単には回復しない。社会的な観点から消費を煽るよりは、投資の増加を図る方が賢明な方策であると云う。ケインズはこのような景気循環は自由放任の資本主義では不可避の現象であるとあきらめ顔だ。

ケインズは一般理論の哲学を持って結論とする。「我々の住んでいる社会はその顕著な欠陥として、完全雇用を実現できず、富と分配が恣意的で不平等である」 所得の分配の公正化は直接税(相続税もふくむ)を使って解決する試みがなされてきた。所得分配の平等化によって、消費性向は高まり資本蓄積は進むという目論見である。現在の資本主義経済では富の蓄積は富める人の節約に依存するのではなく、国民所得に現れる一般の人々の消費性向に依存することが明らかである。利子率は出来る限り低い方が、投資水準が上がり資本蓄積は大きくなり雇用量は増えるのである。そして政府の果すべき役割について、政府はまず利子率、税制などの政策手段を持って消費性向を望ましい方向へ誘導する機能を果すべきである。投資についてはある程度社会化を行なわないと完全雇用は不可能であるという。結局1国経済では国内の失業、貧困の問題を解決するには海外に市場を求めて拡大する(外部を内部化する)他に手段は無いと主張する。貿易制限は失業問題を他国に転嫁するにすぎず、自由主義的国際制度の確立が他国を圧迫しないよう、労働の国際分業、国際金融制度が必要であろう。


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