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大久保純一 著 「北 斎」

  岩波新書 (2012年5月) 

画狂人「葛飾北斎」の画業を江戸絵画史上に位置づけ

               
伊藤若冲 「群鶏図」             葛飾北斎 「富嶽三十六景より神奈川沖」

私はなぜか江戸時代の絵師で印象に残る人といえば、琳派を除けば、西の若冲、東の北斎を思い浮かべる。伊藤若冲(1716年 - 1800年)は、江戸時代中期の京にて活躍した近世日本の画家である。色彩の若冲、造型の北斎といってもよい。別に共通点があるわけではないが、絵画史に残した鮮烈さという点では両雄は並び立っている。葛飾北斎(1760年―1849年)は若冲より44年後の人である。両者に恐らく接点は無かっただろう。伊藤若冲の事は今後の楽しみに残しておいて、今回は葛飾北斎の画業に絞ってみて行こう。浮世絵の歴史については、辻惟雄著 「岩佐又兵衛」(文春新書 2008年4月)によると、浮世絵の元祖は岩佐又兵衛であるという。辻惟雄氏は江戸時代初期の絵師の世界を評して、「組織力で御用絵師の表街道を支配した狩野派は体制の枠組みに埋没したが、岩佐又兵衛工房はアンダーグラウンドで当世浮世享楽主義の浮世絵を発展させた。これは戦国時代から始まる桃山文化から初期浮世絵(風俗画)と繋がる系譜である。又兵衛は第1期の浮世絵(慶長・元和・寛永)の元祖であり、師宣は第2期(寛文・元禄)の元祖ということになる。第1期の浮世絵は主な表現形式が屏風絵であり、発注者は武士や裕福な町人で、京・江戸の大都市・大名の地方都市を市場とした。師宣の第2期の浮世絵は版画というマスメディアにのって大衆版として広がった。版元の出版戦略に乗って幅広い町人階層が購買者となった。岩佐又兵衛を師宣に先行する浮世絵の創始者であると云う考えはそういう意味である。」という。 葛飾北斎は江戸時代中期から後期(幕末)の時代の人で、初期の訳者絵から美人画、摺物、読本挿絵、絵手本(北斎漫画)、風景画、花鳥画、そして晩年の肉筆画までを遺した。本書はその作品から69点を集録して「画狂人」葛飾北斎の画業を江戸絵画史に位置づける事が目的であるという。したがって本書は人物評伝ではなく画業に焦点を合わせるので、伝記については明治の飯島虚心(1841―1901)による「葛飾北斎伝」からそのまま採用しているそうだ。本書は画集ではないので、新書版で絵を見ること自体限界がある。そこで時代区分を中心に代表作を1枚だけ参考までに掲載して画業を見て行くことにする。


大判錦絵「金太郎に鷲に熊」
1) 役者絵・美人画ー春朗時代

北斎は本所の割り下水に生まれ、6歳ごろから絵に親しみ、14歳ごろに版木を彫る職人の修行を始めたらしい。19歳ごろ絵師を志して、役者似顔絵で有名になった勝川春章に入門し、画名を勝川春朗と称した。18世紀後半より蘭学の流行に促されてリアリズムを思考する動きが世に広まった。写生に基づく円山応挙、司馬江漢による銅版画、浮世絵では多色色刷り版画である錦絵に技術が確立した。歌川豊春により透視図法(線遠近法)である「浮絵」も改良された。北斎が入門した安永後期には一門を作っていた浮世絵師は、鳥居清満、北尾重政、そして勝川派であった。北斎は勝川派で細判役者絵師として出発し多数の作品を残している。役者の表情にはまだ個性は無く、役柄から来る紋切り型の絵であるが、姿態表現は洗練されていた。春朗時代の美人画をリードしていたのは天明期の鳥居清長、寛政期になると喜多川歌麿らが台頭してくる。透視図法的な「浮絵」による名所絵・物語絵、滑稽味ある化け物屋敷を描いた「百物語」、武者絵・子供絵などのジャンルも手がけた。左の「金太郎に鷲に熊」はなかなか達者な表現である。黄表紙や草双紙、洒落本、読本なども浮世絵師の稼ぎところであった。こうして天明から寛政にかけて北斎は中堅絵師としての評価を得ていたが、まだ傑出した北斎の個性は見あたらない。寛政6年北斎は春朗の名を棄て、錦絵から一定の距離を置くようになった。



肉筆画「潮干狩り図」
2) 摺物・狂歌絵本ー宗理時代

北斎は俵屋宗理を襲名し、勝川派を離れた。初代俵屋宗理は大和絵の伝統のうえに豊かな装飾性を加味し、江戸琳派の創始者酒井抱一に先駆けて江戸で活躍した。北斎は寛政6年(1794年)ごろ第2代宗理を引き継いだようだ。これにより北斎は錦絵や黄表紙など浮世絵師の仕事から手を引き、美人画に北斎様式がひとつの時代様式となったといわれる。瓜実顔で富士額、長身で柳腰の姿態である。宗理時代の版画では摺物や狂歌絵本に北斎様式が際立った。狂歌絵本の多くは墨摺り淡彩で、本の表裏に描かれる風景画の北斎独特の構成の美が見られる。摺物とは木版で刷られた非売品の配り物のことである。採算性を度外視した当時の最高の木版技術が惜しみもなく投入されている。暦の一種で俳諧摺物などが流行した。これが多色刷りの錦絵を生む母胎となったといわれる。左の図は長判摺物肉筆画「潮干狩り図」で右側に人物を寄せ残りの画面は遠く水平線や地平線にまで広がる空間を演出している。文化時代に日本で長崎から「唐画」が流行し、北斎は南蘋画の影響をうけ、読書挿絵などに南蘋画手法を多用した。



北斎漫画「鰻登り」
3) 挿絵・絵手本(北斎漫画)−北斎時代

寛政10年(1798年)宗理号を門人に譲って「北斎」を名乗って、少し経って19世紀の初め文化年代になると、北斎の活動領域は読本の挿絵や錦絵に拡大した。当時の江戸では山東京伝や曲亭馬琴によって読本の一大ブームが訪れた(後期読本)。毎ページに独立した文の無い挿絵を入れ、読本より絵を目当てに買い求める人も多かったという。北斎は馬琴と二人三脚を組み、馬琴の「珍説弓張月」などに北斎は細密画を特徴とする挿絵を入れた。その絵は墨絵で「黒べた」を効果的に用いるなど、漲る運動のエネルギーという北斎独自の世界を展開した。東海道を主題とした揃物を7種も出版した。また江戸の摺物風名所絵も評判を得た。北斎と号した時代の「新板浮絵」には北斎の卓越した空間表現力が確立したといえる。「阿蘭陀画鏡 江戸八景」には銅版画のエッチング表現を板で表すなど、司馬江漢の油絵、北斎の板絵にオランダの絵画技法の影響が顕著であった。そしてこの時代の最大の収穫は絵手本を標榜した「北斎漫画」に完成度の高い図、達者な絵画表現が見られることである。「略画早指南」、「北斎漫画」のカット集、「芥子園画伝」を模したような南画風な描法、独立した絵としても遜色のない風景画、透視図法の解説、そして滑稽味のある戯画としては左の図の「鰻登り」などは傑作である。



大判錦絵「富嶽三十六景より凱風快晴」
4) 風景画(富嶽36景)・花鳥画ー為一時代

文政3年(1820年)「為一」の画号を名のるころから、読本挿絵の作は減少し文政末より数多くの錦絵揃物に替わった。「富嶽三十六景」のような今日の北斎の評価を不動とする名所揃物はこの時期に生まれた。文政の頃(1818年より)東海道、木曽路、房総の名所一覧鳥瞰図は北斎の自在な変形手法、独自の造型論理のなせる技である。天保2年(1831年)「富嶽三十六景」の刊行が始まった。36景は最終的には46景まで刊行された。文頭の「富嶽三十六景より神奈川沖」、左図の「富嶽三十六景より凱風快晴」は日本を代表する造形美の極致を示している。伝統的な藍染料にはない深い色合いで空間の遠近を表現できる外国産の染料ブルシャンブルーを使用していることが当時の版画の一大特徴となった。版元の営業戦略が当たり「富嶽三十六景」は空前の売れ行きを示した。「富嶽三十六景」以外にも、北斎は天保年間に橋、滝、海、琉球などを主題とした名所絵(諸国物)を送り出した。素晴らしい造型、躍動的な構図は北斎ならではである。北斎は70歳を越えた天保期には花鳥版画へ進境を見出した。抑揚、かすれ、ぎざぎざを特徴とする北斎独特の線描の絵もあれば、中国南画の描法「鉤勒体」(一様な細い描線)による丹精な絵もある。花鳥画の中判揃物のなかでは「鶯しだれ桜」は装飾性と平面性が際だっており、伊藤若冲に似通ったものを認めることが出来る。



肉筆画舞台天井絵「波濤図」
5) 富嶽百景・肉筆画ー晩年

晩年の北斎は天保5年、75歳になって冊子形式の「富嶽百景」を描いた。晩年期の作画活動の特徴は、錦絵の制作から殆ど手を引き、絵手本や絵本、そして肉筆画の制作に専念したことである。「富嶽百景」は錦絵ではなく、線描の富嶽百体の構図の絵手本である。北斎が錦絵から撤退した理由のひとつは安藤広重の台頭である。「東海道五十三次」で当たりを取った広重は景色のリアリティ(写実主義)という時代の要請を体現した。一方北斎はあくどいまでの造形性にこだわった。そして北斎が拠っていた版元である永寿堂西村屋の衰退がある。錦絵は「百人一首うばがえとき」を最後にして永寿堂が倒産し刊行も中断した。晩年には絵手本「画本彩色通」などに西洋画への強い関心を示している。晩年の肉筆画制作は80歳を越えた頃から盛んになった。左の図「波濤図」(舞台天井絵)には屈曲した構図や鮮烈で刺激的な配色が眼を奪う。



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