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アダム・スミス著/大河内一男監訳 「国富論」

  中公文庫 T・U・V (1978年) 訳者:大河内一男 玉野井芳郎 田添京二 大河内暁男

古典経済学の祖アダム・スミスが説く社会的生産力の構造と近代自由主義

アダム・スミス「国富論」とカール・マルクス「資本論」は欠かせぬ古典的名著だと思いながらも、いつも挫折してきた。何回かトライしてみたり、読書会で読み出すのだが、途中で放棄してしまう。そして「これは面白くないからだ」と納得するのである。確かに経済学の本は、古い時代の生産や貿易、財政などを丹念に検証することで一定の結論に導こうとするのだが、時代背景が分らないため理解できない。現代とあまりに様相が異なるため、ピンとこないのである。という言い訳ばかりで理科系の私は最後まで読み通した経験が無いのである。さていよいよアダム・スミスの「国富論」を読むことにした。あまりに有名すぎて、その分厚い本に圧倒されて手がつかなかったのだ。自分の余命も長くはないのでここで読んでおかないと、あの世に行って後悔するだろうと感じて、黄色くなった本書(中公文庫)をかじりだした。アダム・スミスは生涯二つの著作だけを残した。「道徳感情論」(1759)と「国富論」(1776)である。アダム・スミスは「道徳感情論」という本を著したグラスゴー大学の道徳哲学(倫理学)の教授であった。その哲学の教授がどうして経済学に転身したのか、さらに「国富論」という著作で経済学を切り開く天才となったのか、まことに不思議なことである。「道徳感情論」から17年後に「国富論」が生まれたことから、逆に「道徳感情論」を経済学的に読もうとする動きが最近の潮流であるそうだ。。「道徳感情論」を「国富論」の思想的基礎として重視する解釈が主流になりつつあるという。堂目卓生著 「アダム・スミス」(中公新書 2008年3月)は「道徳感情論」と「国富論」を読んで、一貫して流れる社会の秩序と繁栄に関する一つの思想体系を提示している。ドイツの社会学者マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作も、資本の蓄積過程において宗教的倫理思想が重要な役目を果たしたという。

政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することによって経済成長率を高め、豊かで強い国を作るべきだという経済学の祖アダム・スミスの「国富論」はこのようなメッセージを持つと理解されてきた。しかしスミスは無条件に自由放任主義をいったのだろうか。「国富論」の冒頭の「序文および本書の構想」において、「国富論」の目的と全体構造が簡潔に示されている。物質的富とその原資の定義を「すべての国民の年間の労働は、その国民が年間に消費するすべての生活必需品や便益品を供給する原資であって、消費される物質はつねに国民の労働の直接の生産物であるか、その生産物で他の諸国民から購入したものである」といった。また国民の富を増進させる一般原理を「生産物・購入物で供給できる量と消費するものの総量との割合によって国民の豊かさが表され、その豊かさは次の二つによって規定される。一つは労働の熟練度、技量、判断力によって、二つは有用な労働に従事する人々の数とそうでない人々の数の割合によって規定される。スミスによれば、国民の豊かさを増進するには、労働生産性を高め、生産的労働の割合を高めなければならない。そして「国富論」は次の五つの内容(篇)で構成される。
(第1篇) 分業: 労働生産性の向上と生産物が社会に分配される秩序について
(第2篇) 資本蓄積: 有用労働者の割合を定める資本の性質、蓄積およびその使用方法について
(第3篇) 自然な経済発展と現実の歴史: 農業を犠牲にしてまで都市の産業を奨励する政策が取られた背景について
(第4篇) 重商主義体系: ある特定階級の利害に基づいておこなわれてきた政策と理論の特質について
(第5篇) 財政: 主権者または国家の経費、収入及び公債について
「国富論」が話題にしかつ推論の根拠とする18世紀中頃のイギリスの経済社会の背景については、ここで取り上げてても恐らくは通用しないことが多いと思われる。できるかぎり一般論で原則のみを取り上げてまとめてゆきたい。いまなお通用する経済の原則について学びたい。では堂目卓生著 「アダム・スミス」に従って、「国富論」の要点を以下の4点についてまとめる。これくらいの事を道案内にしないと、迷子になりそうなくらいない内容が多いからだ。

繁栄の一般原理(1) 分業
繁栄の一般原理、すなわち物質的豊かさを増進するための自然的原理は、分業と資本蓄積である。極めて単純に宣言している。分業の技術的側面は今では機械化と資金といっていい。もっと単純化すれば資金だけでもいいのではないか。スミスが重視する分業の効果は、社会全体の生産性が向上するだけでなく、増加した生産物が社会の最下層にまで広がることである。分業の社会的側面には分業と交換とは裏表の関係にあることだ。これを「商業社会」、「市場社会」という。人には「交換性向」があるといい、分業の前に既に交換の場が存在している事が必要である。市場では人々は自分の持ち物と相手の持ち物を説得しながら交換する。その場を市場という。交換とは同感、説得性向、交換性向、そして自愛心という人間の能力や性質に基づいて行われる互恵的行為である。財産の道を歩む人々が市場に参加する事によって競争が発生する。「フェアプレイ」の精神は競争に勝つことは赦されるが、不正や独占は赦されない。現実の価格は市場価格に一致すると考え、市場の機能は第1に人々が欲する商品を市場価格で供給する事である。第2に市場では誰もが相対的に優位な状態を維持し続けることは不可能である。第3に市場を支えるのは利己心である。市場全体のことを個人が知っているわけではなくとも、自分自身の利益を追求する事で社会の利益を促進する事になる。これをスミスは「見えざる手に導かれて」と表現する。「国富論」で「見えざる手」が出てくる唯一のところである。最期に交換の手段として貨幣が生み出されたが、貨幣を富と思い込む錯覚「貨幣錯覚」を引き起こす重商主義を批判した。今では中東の石油産出国が膨大なオイルダラーを有しているが、反面国民の貧困生活や他の物質の生産手段の欠如から来るアンバランスな生活を思い起こさせる。

繁栄の一般原理(2) 資本蓄積
人類が未開状態から文明社会に向って本格的に進みだすには、分業が始まる前に交換の場が形成されると同時に,ある程度の資本が蓄積されていなければならない。スミスのいう階級社会は、地主、資本家、労働者の三階級からなる。現在では特権階級としての地主の必要は殆ど無い。資本は生産的労働が生み出す剰余の分配において、税金、消費、貯蓄のうち貯蓄分が毎年蓄積されて再生産に廻され、雇用と生産が拡大するのである。資本蓄積を妨げる要因としては個人の消費と政府の浪費がある。人には倹約性向と消費性向があって、どちらも必要であるが、資本蓄積には倹約が必要である。スミスは資本蓄積を推進する担い手は資本家であるが、その利己心によって公共の利益を最も損ないやすい。最期にスミスは投資の自然な順序として、先ず農業、ついで製造業、外国貿易だという。現在では農業というのは解せない話であるが、製造業、貿易での投資順序を間違った場合の弊害は頷ける。ある外国貿易品を優先して保護して他の部門への投資を怠った場合、産業間のバランスの取れた発展が歪になって経済合理性を失う事はよくある。投資は必要とする部門への自然の流れに任せるべきだということも「見えざる手」の導きに相当する。市場の価格調整メカニズムと同様、成長の所得調整メカニズムをも「見えざる手」と呼んでもいいのだろう。

重商主義の経済政策 批判
スミスが「国富論」を書いたのは、ヨーロッパ或いはイギリスが「国富論」の一般原理に従って発展したからではなくて、自然な成長とは顛倒した歴史を持つからである。「国富論」は、これを正してより良い経済の発展を促そうとする意図の下に書かれた「歎異抄」である。歴史の発端は476年の西ローマ帝国の滅亡から始まる。ローマ帝国の繁栄と交易システムは蛮族の侵入でズタズタに引き裂かれ、商業と製造業は衰退し、土地は少数の非生産的な諸侯に分断された。大土地所有者は貴族と称して、貴族は土地の剰余生産物を不生産的労働にしか使わなかった。長い中世的封建的領主制が世界を沈滞させた。ルネッサンス時代なって商業の場として都市が形成され、自治都市はさまざまな手工業と交易を始めて資本蓄積の時代に入った。独立自営農民は土地改良に取り組み、耕地の拡大と生産性はしだいに増加し、その結果として剰余生産物の増大は農村地帯に製造業を発展させた。このようにヨーロッパの経済は外国貿易から、製造業、農業と正反対の順序で展開した。封建領主に代わって権力を集中させた絶対君主は特定の商人と製造業者と結びついて、特権を与えて貿易および貿易用製造業の振興を図った。貿易の決済手段としての金銀貨幣を重視し、植民地の獲得に走った。初めから歪んだ経済振興策がとられたのである。植民地政策は本国の利益独占のため、さまざまな規制を作って、植民地自体の正常なバランスの取れた経済発展を阻害し(単品経済)、他国との交易を禁止した。そして権益を独占するため軍隊を派遣し、本国の軍事的支出が増大した。経済発展を促すのではなく阻害するだけの経済政策を威信を掛けて実施したのである。これを重商主義の経済政策という。規制の結果、本国の国民は規制がなければ買えた筈の安い外国産品を買う機会をなくし、高い外国産品或いは高い国産品を買う事になった。特権商人や大製造会社の貪欲と、政府の虚栄心を満たすために、国民の財産を侵害する政策、それが重商主義政策の本質であった。戦争のため国債発行は国民の負担する税を増加させ、これが正常な資本蓄積を阻害し、産業活動を遅らた。ヨーロッパの大航海時代以来の覇権国家は国債のために、次々と破綻したのである。

今なすべき事
「今なすべき事」とは、18世紀のイギリスがアメリカ植民地の独立問題においてなすべき、スミスの政策提案である。欧州ではさまざまな優遇政策によって特定の貿易と輸出向け製造業に資本が集中し、その他の部門が本来の水準から見て立ち遅れていた。優先や抑制自体を廃止して、本来の発展経路に自然に復帰する政策をスミスは「自然的自由の体系」と呼んだ。それは保護された産業部門を徐々に縮小させ、他の産業部門を徐々に拡張させることにより、すべての産業部門を完全に自由で適正な均衡に向って、しだいに復帰させる事が出来る唯一の方策だと考えた。ところが「体系の人」といわれる統治者は、しばしば拙速に計画図にそって実行しようとする。社会改革で肝要な事はゆっくり行う事である。改革に対応する人々の摩擦と混乱を時間をかけて解消する事である。そして最期にスミスはアメリカ植民地の独立問題で、税負担と代表選出をセットで認めてアメリカをイギリスに州として統合するか、アメリカの独立を認め分離するかを提案した。経済的には前者の統合案で十分イギリスの目的は達せられるが、政治的には結局後者の分離案となった。スミスは「国富論」をアメリカ独立の前1776年に書き上げ、イギリスは1783年パリ条約でアメリカ独立を承認した。これによってイギリスがアメリカ植民地維持のための軍事的負担から自らを解放し、将来の計画を身の丈にあったものにする事ができたという。

アダムスミスの遺産
「道徳感情論」において、スミスは人間本性の中に他人の感情を自分の心の中に感じとろうとする「同感」という能力が、社会の秩序と繁栄を導く事を示した。また「国富論」において、スミスは社会の繁栄を促進する「分業と資本蓄積という二つの一般原理を考察した。そして当時のヨーロッパ諸国が、この一般原理から導かれる理想状態からいかに逸脱しているかを論じ、何をなすべきかを示した。スミスはこの二つの著作によって何を伝えようとしたのだろうか。
第一にスミスの思想体系は人間を社会的存在として捉える事の重要性を教えた。「公平な観察者」を心の中に形成し、この「公平な観察者」が是認するようなことを行うようになる。この性質が正義の法の土台となり、社会の秩序を形成する。
第二に人間は悲しみよりも喜びを他人と同感する。富は喜びであり、ここに財産形成の野心が起きる。人間は賢明さと弱さを兼ねた存在で、賢明さは社会の秩序の基礎をなし、弱さは社会の繁栄を導く原動力である。胸の中の「公平な観察者」の是認という制約条件で、自分の経済的利益を最大にするように行動する。これがスミスが仮定する個人の経済活動である。市場における富の主要な機能は、人間を存続させ繁栄させ、生活を便利で安楽なものにすることだ。それと同時に人と人を繋ぐ機能がある。経済成長は富が増大するのみならず、富を社会の構成員に、そして貿易を通じて世界の諸国に行き渡らせる働きがある。
第三に自由で公正な市場経済の構築こそが人々の生活を豊かにするということだ。歪んだ経済システム、偏った政府の政策と規制は政府自体が道徳的に腐敗する。公正な市場経済は、公的機関という外部の統治者によってよりも、むしろ市場参加者の内部の公平な観察者の判断によって監視され規制されることが望ましい。スミスのバランスの取れた情熱と冷静さは、「幸福は平静と享楽にある」といい、「一つの永続的境遇と他の境遇との間には、真の幸福にとって本質的な違いは無い」という。富や社会的地位は、手じかにある幸福の手段を犠牲にしてまで追求される価値は無い。なんと心休まる言葉ではないか。



第1篇 労働の生産力における改善、生産物の様々な階級の間に自然と分配される秩序

第1章 分業について

スミスは「分業」を近代社会における進歩の原動力として捉えた思想家と見られる。各種の職業の分化と自立を意味する社会的職業文化の意味で「分業」の必要性を説いている。一番分かりやすい例として、陶器の製作があげられる。土つくりから絵付け・窯焼きまでこの全過程を1人でやれば芸術家である。現在の芸術家でさえ、最後の絵つけしかやらなかった板谷波山という人もいるが、多くの窯元では各段階の職人がいて分業による工場生産が行なわれている。まして現代企業の生産法として自動車産業を見ると、各種の独立した部品メーカーの分業から成り立ち、部品数は数万パーツ、工場内でも多くの生産工程の流れ作業となって、多くの労働者が貼り付いている。地域社会全体が自動車の生産工程の総合化という態をなしているのである。要するに生産性という効率化、コストダウンのためにいまや「分業」という概念なくしては生産は考えられない。近年さらに高度な技術が集中している製品には、あらゆる技術分野の独立した協働生産物という感が強く、最初からひとつの企業では生産不可能という前提で成り立っている。18世紀中頃(日本では江戸時代中期)にスミスがこの分業による生産性向上を産業の絶対命題としたことはけだし慧眼であったといえる。そして分業による生産力の増進は技能の進歩、時間短縮、誰でもやれる機械の発明(蒸気を動力源とする)をもたらしたという。この分業・結合労働の結果、文明社会では社会の最下層まで富がもたらされるようになった。この第1章はこの素晴らしい人間の能力(他の動物社会にはない)が社会の発展の原動力であったことを宣言する。

第2章 分業を引き起こす原理について

私は神ではないので、「人間の本性」という言い方には同意できないが、スミスによると、分業というものは第1章で述べた後付け論の効用を予見した人間の知恵に原因するものではなく、人間の本性にある「ある物を他のものと交換・取引・交易しよう」とする性向の必然的な結果であるという。この「人間の交換の本性」というスミスの理屈が妥当か、あるいは他のものがほしいという欲望のため自分のものと交換することが習いとなったのか、私は後者の理屈の方が素直だと思う。むしろ「交換本性」というより「さまざまな人間の利己心」こそが本性ではないだろうか。人間の経済活動は「国富論」の全体を流れるテーゼである「人間一般の利己的本性」によって支えられ、無意識のうちに社会の富や分配の秩序を作り出す原動力となったというべきだろう。これはスミスの「道徳感情論」の主要なテーマでもあった。

第3章 分業は市場の大きさによって制限される

分業を引き起こすのは交換する市場の力であり規模である。交換の規模や種類を拡大するのは世界の広さと交通の便のよさで決まる。水上交通は大量の物が運べるのであらゆる種類の労働生産物にとっての市場が全世界に開かれ、技術と産業の改善が始まる。従って文明がエジプト、インド、シナ、バビロニアの大河の諸都市で興ったのは故なしとはしない。

第4章 貨幣の起源と使用について

分業が確立すると誰もが交換によって生活の資を得るようになりので、商業的社会が成立し、交換手段として貨幣の発生を見る。貨幣の起源論としては諸説あるが、岩井克人著「貨幣論」(ちくま学芸文庫 1998年)にマルクス「資本論」から価値形態論、交換過程論、貨幣系譜論が述べられている。スミスの貨幣起源論は諸説のひとつであり、起源を明かすことが目的ではないのであまり拘らないでおこう。物物交換では望みの商品がないと自分の交換相手を探すことも困難となる。そこで誰もが交換を拒否しないであろう特定の商品の一定量を手元に持っておくことは危機回避につながる。そこで可分性のある貴金属が選ばれ、延べ棒のまま使用されたり、後には純度証明用の刻印が押されるようになった。それが貨幣の始まりであるという。ついで重量をも表示する鋳貨制度が導入された。純度と重量を正確に測ることは日常的には困難で、公的機関(国家)が信用を保証する鋳貨制度がなければ貨幣を介する交換は機能できない。特に歴史的に最大問題だったのは君主による貨幣改鋳(悪貨)である。こうした曲折を経て貨幣が文明国において商業の普遍的用具となって、売買や交換が行われるようになった。スミスは商品価値には2つあって、「使用価値」と「交換価値」であるといい、諸商品の市場価格すなわち現実の価格が自然の交換価値(価格)と合致するのか乖離しているのかがいつも問題である。スミス以降の経済学では、市場と交換と価格のメカニズムを通じて経済秩序を考察することが経済学の中心課題となった。

第5章 商品の真の価格と名目の価格について、すなわちその貨幣価格と労働価格について

分業が行き渡ると、1人の人間が自分の労働で充足できるのはごく小さな部分にすぎない。あらゆる物の真の価値は、それを獲得するための労力と工夫である。商品を買うと言うことは、自分の労働の結果である貨幣で他人の労働と、等しい価値で交換することである。これがスミスの古典経済学のテーゼである「労働価値説」である。労働はすべての商品の交換価値の真の尺度であっても、商品の価値をはかるのは労働ではない。2つ以上の異なった労働の量の間の比率を確かめるのは困難である場合が多い。あらゆる商品の交換価値は貨幣で測るしか方法がない。ところが金・銀の価値は変動するので正確な価値の尺度とはなりえない。それゆえ労働だけがすべての商品の真の価格であり、貨幣はその名目上の価格であるにすぎない。ここでスミスは自己撞着を起している。労働でも貨幣でも測りえないなら、結局正確に測定する手段を持たないことになる。労働の価値と商品価値はイコールではないし、日常の取引には使えない。貨幣が日常の取引に使用されることで満足しなければならない。第5章の後半は貨幣としての金銀も価値の変動を述べているが、煩雑な歴史的事項なのでオミットしておこう。

第6章 商品の価格の構成部分について

スミスは現在の経済行為を分かりやすくするために未開社会の事を想像して比較するが、これは架空の事で滑稽でもある。過去に商品の価格が労働量と完全に一致した時があったかどうかは知らないが、資本が蓄積されると、商品価値は賃金と利潤に分かれた。利潤とは経営者の賃金では無く、再投資に回しうる余剰価値である。労働が原料に付加した価値のことである。従って利潤は用いられた資本の価値の大きさに比例し(利潤率)、商売は大きいほど大きく儲かるのであるという当たり前の結論が導かれる。労働側から見ると労働の全生産物は労働側に属するものではなく、資本の利潤は賃金とは全く異なる構成部分である。スミスは重農主義の影響を色濃く受けているため、地代を価格の第3の構成部分として重視している。スミスの商品価格は、労働賃金(材料費、設備費なども含む、今でいうと製造原価)、利潤、地代の三大構成部分に分割される。農業と違って、現代では土地を使わない産業もあるので地代の重要性は小さい。

第7章 商品の自然価格と市場価格について

通常のひとつの社会では相場として、賃金、利潤、地代が自然に定まる「自然価格」というものがあり、市場においては市場にもたらされる商品の量と有効需要とによって、自然価格を中心に市場価格が上下して定まるという有名な価格平衡論がある。商品量が有効需要にぴったり等しければ市場価格と自然価格は一致するという。それゆえ自然価格はいわゆる中心価格である。供給が過剰であれば市場価格は下落し、供給調整(倒産も含めて)が行なわれて価格は復帰する。供給独占によって市場価格が騰貴することはあっても一時的である。とスミスは楽観的であるが、日本の電力会社のように独占が公認されておれば、市場に権力が介入し競争が排除されていると高価格は永遠にまかり通ることになる。

第8章 労働の賃金について

スミスの賃金論の特色のひとつは、全労働生産物価値から利潤と地代と賃金が分離され、まず率直に三者は相克するという階級的対立を明確に認めることである。第2の特色は原則としてそれ以下には引き下げられない最低の賃金があるということで、生存賃金または労働力再生可能賃金ともいわれる。第3の特色は近代社会の労働賃金には労働者の勤勉を引き出すという効果がある事を認識している点である。第1の問題についてはスミスは親方(資本側)と職人(労働者)の力関係を比べ、労働契約や争議において圧倒的に資本側が強い事を指摘する。現在でも資本側の強さがめだつが、スミスの時代では労働側の力は悲惨といえるほど弱かったと思われる。労働者の賃金が最低賃金を上回るのは、国富の増加する中で労働への需要が高まるときである。賃金が上がるのは国富の大きさではなく、アメリカのように富(GDP)が恒常的に増加する場合である。中国(清朝)の場合は富は大きいが、生産力が停滞しているので賃金が上がることは期待できない。インドのように衰退する国富では賃金は生存限界まで引き下げられる。イギリスでは生活必需品の供給力が上がり安価となり、産業革命以来労働の価値が上昇したので、賃金の実質価格は高まった。社会にとって貧困から脱却することは社会の進歩に繋がるという確信がある。衣食足りて、教育を受けられ、誰もが平等という社会の公正さを享受できることは必要である。労働への需要が増加すると労働者賃金は生活水準を上げ、だれもが結婚をすることができ人口増加になる。豊かな賃金は庶民の勤勉を刺激し向上心を持たせるためにも必要である。勤勉がもたらす生産性は賃金が高いときに上がり、賃金が低いときには生産性は低下するということは真実である。

第9章 資本の利潤について

資本の利潤は賃金と同様に社会の富が増加の傾向にあるときに増える。賃金と利潤の配分は相克するものである。そして資本の利潤率は市場の利子率と連動している。資本は金を借りて運用しているので利子率を下回る利潤率では営業することが難しくなるからだ。法定利子率は市場利子率とは一致しないか、うんと低く設定される。大都市では資本間の競争が激しいので利潤率は下がり気味である。だが利潤の低下は事業の繁栄の自然的な結果であるか、一層大きな資本が事業に用いられたことの結果なのである。小さな事業で高利潤を謳歌できた時代から、事業が拡大し資本を増強して大事業になるにつれて利潤率は低下の一途となる。資本の増加に伴って労働への需要も拡大し、資本蓄積は引き続いて拡大する。新規需要分野では資本の利潤は引き上げられ、それに伴って利子率も上がるのである。貨幣にとってハイリスク・ハイリターンとなる。資本の飽くなき経営が宿命つけられている。利潤率を高く設定することは賃金を高くするよりも、製品価格への影響が大きい。資本の自滅行為である。

第10章 労働と資本の種々の用途における、賃金と利潤の不均等について

職業選択が完全に自由な市場に任されるなら、理論的には賃金と仕事の内容によって人々が移動し、賃金の少ない時代遅れの産業から利潤の高い有望そうな産業への産業構造転換もスムーズに自然に成し遂げられそうだが、実際は世界中で不均等が見られる。その理由のひとつは職業自体の事情から、2つは各国の政策から生じている。ある職業の賃金の不均等を社会的に調整する5つの要因がある。
@ 賃金は職業の快・不快によって差異を生じる。利潤も同様である。分かりやすい話では3K職場はなり手がないので賃金を高くする類である。
A 賃金は仕事を拾得する難易度と習得費の大きさによって差異が生じるが、利潤には影響しない。特殊技能、熟練労働者の賃金は高い。
B 賃金は雇用の安定度によって差異が生じるが、利潤には影響しない。スミスは季節労働者の賃金をいっているが、現代では考慮しないかむしろ低い場合が多い。
C 賃金は労働に対する社会的信頼によって差異が生じるが、利潤には影響しない。法律家、弁護士、医師の賃金が高いことをいう。
D 賃金は職業の成功の可能性と世間の賞賛によって差異が生じる。自由業として弁護士の成功率は低いので成功者にはCの理由によって賃金は高い。 資本の利潤の差異(不均等)は収益の見込み(リスク)によって上昇する。リスクを見込んで利潤を設定しないと破産となるからだ。したがって労働の賃金と資本の利潤に同時に影響する因子は@の職業の快・不快によってとDの仕事に伴うリスクと成功の可能性の2つだけである。大都市と地方の間にも生じる利潤に差異がある。大都市ほど利潤率が下がるのは投じられる資本量が大きいからであり、しかし投機による不健全な大利潤が発生しうるのである。

職業による利潤が平準化されるためには完全な自由があるほかに次の3つの要因が必要である。
@ その職業が長年にわたって確立された業種であること。新規事業は競争によって利潤率は低下する。
A その職業が自然状態にある。市場における需要と供給が操作されないこと。 B その職業が従事する人にとって唯一か主要なものであること。専業であること、ほかの事業による収入がないこと。赤字部門は淘汰されることである。  上の3つの要因が欠けると労働と資本は全体として不均等が起りうるのである。当時のヨーロッパ諸国の経済政策は、物事を完全な自由に委ねないで重要な不均等を引き起こしているという。その政策とは、
@ 職業上の競争の制限。当時の同業組合に排他的特権と徒弟制度がある。(今でいうと産業界と経産省の癒着、大学学歴の格差など)
A 各種の助成策によって、競争を必要以上に激化させている。補助金、奨励金、奨学金などで不必要なほど新規参入者を増やしている。
B 労働と資本の移動を妨げる政策。(今では理解不能であるが、イギリスの教会による救貧事業・定住法は貧民の移動を制限)

第11章 土地の地代について

スミスの農業生産の社会構造には、自分は生産しないで土地を貸し与える地主と、耕作に必要な資本を投じ農業従事者を雇用して農業生産を行う農業経営者とが前提とされる。したがって地代は賃金でも利潤でもない第3の「自然価格」構成部分となる。賃金と利潤は価格の原因であるが、地代は価格の結果にオンされる。つまり地代はその土地の位置と生産能力によって差異が生まれる。牧畜地か穀物耕作地か野菜畑か果樹園か住宅借地かによって地代は異なり、欧州では小麦畑地代が地代をリードするという。又不安定な地代となるのは鉱山採掘地であるが、銀価格が地代をリードするらしい。農産物に関して言えば、耕作と改良が進むにつれて、食物価格が土代をリードし、鉱業地では銀価格の上下によって何時も撹乱されている。なお第11章には余論として長論文「銀の価値変動の歴史」が挿入され、資料としては重要なのであるが煩雑なので省略したい。労働生産物は地代、賃金、利潤の3部分に別れ、文明社会は3つの本源的階級から構成される。第1の地主階級は働かずに食っていける階級であり、第2の賃銀労働階級は社会の富に直接影響を受けるので、社会の衰退によって酷く苦しむ階級である。第3の資本階級は社会の有用労働を企画し利潤を目指す階級である。資本階級は貧しい状態から右上がりの社会で利潤が大きく、富裕な社会では利潤は少ない。社会の安定とは矛盾する存在である。そして資本はどこへでも移動できるのである。



第2篇 資本の性質、蓄積、用途

第1章 資本の分類について

資本は商品を売るというリスクを突破して利潤が得られる。その利潤は次の事業を目指して蓄積される。この資本蓄積はあくまで労働に先立って行なわれなければならない。先ず資本が蓄積されて、各用途に資本が投下され労働の分業もますます進むのである。マルクスはこれを「本源的蓄積」と呼び、資本主義的生産の出発点であるとする。総資材は直接の使用に当てられる部分(製造原価)と利潤を期待する資本の部分に分かれる。資本には流動資本と固定資本とがあり、その比率は事業によって異なる。というようにスミスは経済学で始めて資本を流動と固定資本に分けた。これは重農主義者のケネーにヒントを得たといわれている。固定資本の1回転にはつねに流動資本は数回転するという命題はスミスの功績である。しかし流通資本と流動資本の混同など今日の会計諸表における流動資本と固定資本の定義とはかなり混乱がある。従って社会の総資材も直接の消費に当てられる部分、流動資本、固定資本の3つに別れ、第1の消費用からは利潤は生じない。あらゆる固定資本は流動資本から生じ維持される。

第2章 社会の総資材の1特定部分である貨幣について、国民資本の維持費について

商品の価格が賃金・利潤・地代に分かれるように、年々の総生産物もこの3つの部分に分かれ、国民の収入を形成する。国民の総収入から流動資本と固定資本の維持経費を差し引いたものを純収入という。スミスは「職人」という名称で賃金労働者からマニュファクチャー資本家まで含むことがあり、理解が混乱しているが固定資産を維持するための労働生産物は社会の純収入にはならないが、直接消費用資材の維持のための労働は資材に組み入れて純収入とするという点はスミスの進歩である。この点はマルクスの「再生産論」に受け継がれた。社会の流動資本から固定資本の維持に使う部分を差し引いいたものが社会の純収入を形成する。社会の流動資本の中で貨幣は固定資本に似ている。なぜなら貨幣の維持費は純収入にはなり得ないからである。また流通の潤滑剤である貨幣それ自体は総収入にも純収入にもなり得ない。そして貨幣の維持費の節約(紙幣に代替する)は社会の真の収入を増大させるからである。銀行が発行する手形(兌換銀行券)や政府が発行する紙幣が金属貨幣の流通にとって替わると、金・銀貨はそれだけ節約されるのである。節約された金銀貨は海外に送られ、国内消費用外国財貨の輸入決済に当てることが出来る。紙幣は流動資本の量を増やし雇用などに投資できる。

兌換に備えて流通の一定部分は金銀で保有しなければならないが、銀行券の過剰発行は銀行の取り付けにも繋がる危険な要素である。そして銀行の貸付は企業家が支払いのために現金で保有しなければならない量を超えないかぎり過大取引は生じない。したがって債務者の営業状態の査定が命となる。銀行本来の貸付は企業の支払い上の準備金に限られるべきであって、固定資本はもとより流動資本に貸し付けられてはならない。これらは企業の資本金増資、私的資金獲得によるべきである。銀行の手形割引やキャッシュ・アカウント、融通手形の振出と逆振出などで銀行業全体の信用失墜に繋がるケースがあった。また担保に基づいて資金を調達する手法も不健全な資金移転をもたらす。銀行は誇大妄想の債務者を相手にしてはいけない。スミスは今日の「金融工学」の危ない手法へ警告を与えている。こうしてスミスは「イングランド銀行」(後に中央銀行そして国有化)の設立が果した金融界の安定化の功績を綴っている。

第3章 資本の蓄積について、生産労働と不生産労働について

重農主義者は農業以外は生産的とはみなさなかったが、スミスは農業以外にも工業・商業など産業一般を生産的労働と考えた。人間の労働を2つの異なった種類とみなし、家事労働などサービス、官僚など事務、軍隊、牧師、法律家。医師、芸術家などは「不生産労働」とした。生産労働者は生産物によって維持されるが、不生産労働者は資本の利潤から維持される。生産的労働を維持する資金と不生産労働を維持する資金の割合は国民の富の増減(勤勉と怠惰)に係る。資本は節約によって増加し浪費によって減少する。勤勉でいくら稼いでも次の資本投資に回すべく蓄積しなければ事業は拡大しない。無分別な事業計画は浪費と同じ(投資して回収できなければ)である。しかしこれは日常的ではないので救われる。私的な浪費よりも公的な浪費の方が規模が大きくはるかに危険であるが、社会の節約は慎重な態度によって相殺しなければならない。多少の公私の浪費があっても、年の生産物GDPが拡大した年は資本が増加したと考えてよい。だからといって贅沢禁止法や外国品輸入禁止例などは笑止千万である。

第4章 利子を取って貸し付けられる資本について

利子を取って貸し付けられる資本は貸手にとっては回収されるべき資本であるが、借り手がこれを資本として使用し利潤を上げるならばその価値は再生産される。しかしこれを直接的な消費に充てれば浪費となる。例外として自転車操業のように以前に消費した資本を回収するため借り入れをする場合がある。貸付は通常貨幣でなされるが、利子を取って貸し付けられる資金量は1国で流通する貨幣量よりはるかに大きい。この貸手集団を金融界と呼ぶ。貨幣はいわば譲渡証明書のようなもので、貸手は自分では権利を行使しないが借り手に購買する力を与えるのである。資財が増加するにつれ利子を取って貸し付ける資財の量も次第に増加し、資本間の競争が利潤率を低下させ、利子率も低下する。利子を法律で禁止することは不当である。法定利子率は市場の利子率を多少とも上回る必要がある。

第5章 資本のさまざまな用途について

資本は4つの異なった使用方法がある。@社会が必要とする原生産物を調達するため(農産物や鉱物製造者など)、A原生産物を加工し製造するため(製造業者など)、B原生産物または製造品を他の必要とする場所へ輸送する(卸商業)ため、C商品を求める人のために需要に適合した大きさに分割し販売するため(小売商業)の資本である。4つの資本用途では源に遡るにつれより多くの生産的労働が維持される。農業と小売業は何時の場合も国内需要に向かうもので、卸売りの資本たとえば貿易商の資本はどこへでも向かう。製造業の資本は製造業が営まれる場所にあるが、有利な場所をもとめて外国へでも移動する。製造業の資本が国内に留まるということは重大な意味がある。それは生産的労働者を雇い入れ付加価値を生み出す根元であるからだ。国内に留まっていればその国は大変有利になる。卸売業には国内商業、直接外国貿易、仲介貿易の3つがあり、これも国内に留まっていれば多くの生産的労働者を雇用する。国内商業の資本回転は早く年に数回の回転が可能であるが、外国貿易の資本の回転は遅く1年から3年はかかる。仲介外国貿易資本の回転は更に遅い。しかも外国の労働者を維持するだけである。



第3篇 国によって富裕になる進路は異なること

第1章 富裕になる自然の進路について

スミスのいわゆる重農主義的傾向に対してはリカードの批判「経済学及び課税の原理」があるが、今の眼で見るとたしかにスミスは古拙というくらい農業と土地至上主義者にみえ理解に苦しむところが多い。今日ほど産業と技術の発展と商品の多様性からすると、農業は多くの事業の一つでしかも小さな規模に成り下がっている。産業は農産物を原料とする食料品や織物など衣食住に商品に限定されることはなくなった。化学工業により衣料は殆どが化繊品である。食料自給率が60%を切っている日本では保護政策なしでは存続しえない。これは政策で農業を切り捨ててきたからだという反論もあるが、農業だけでは食えないから、資源を持たないでも工業立国を目指したのである。しかし今日的状況からスミスの重農主義的傾向を批判しても意味は無い。明日の事も予測できない経済学アナリストがいるのに、スミスに200−300年後の経済状況を見通すことは所詮不可能であった。それよりもスミスの言わんとする経済学の原理を謙虚に聞いて参考としようと思う。スミスは都市と農村の間に起こる取引を重視する。都市には物質の再生産はできないのだから、都市は農村に依存するという。物質とは自然資源のことであればそのとうりである。物が同じであれば近郊農業生産物は遠隔地生産物と同じ価格で取引されるので、運送費ぶんだけ近郊農産地を潤おすことは当然である。生活消費物質や原料を生産する農村の開発が産業に優先されなければならないとするスミスは、同時に遠方貿易で調達することも可能で、それが原因でさまざまな地方の発展の様相がことなるという説を本章において展開する。

農村が先か都市が先かという循環論におちいりがちである。結論はどっちも影響しあってさまざなな発展の歴史があるのだ。ここでスミスは長い歴史を持ち一筋縄ではゆかないヨーロッパ大陸の諸国の発展形態を振り返ると同時に、植民地北アメリカの新世界で展開される社会状況がスミスのストーリに良くかなっていると見なしている。それは未耕地がふんだんにあって、資本はすべて農業に向けられており、海外貿易に向ける余裕はないからである。そこでは純粋な(健全な、自然な)資本の動きがみられると絶賛するのである。旧大陸ヨーロッパには未耕地がもうないから資本は海外に向けられる。フロンティア(外部)があるかぎり資本は国内農村に向けられるのである。外部をなくした旧大陸諸国は新たな外部を目指して、植民地開発や外国貿易に向かうのである。スミスは資本の使い道として、利潤が同じようなら工業より農業(土地)へ向かう方がリスクがすくなく安定しているという。そして同じ理由で海外貿易より製造業へ資本が向かう必然性があるという。農業、製造業、海外貿易の順に資本が投じられるべきだという。これはスミスの重商主義批判の根幹をなしている。

第2章 ローマ帝国没落後のヨーロッパの農業

ローマ帝国没落後のヨーロッパの中世には大所領が出現し、これを維持するために長子相続法や限嗣相続法などが生み出され、農民の大地主依存が固定され農業の発展は大きく阻害された。ゲルマンとスキタイの諸民族がローマ帝国の所領を侵し、略奪・暴行を尽くして農村と都市は破壊された。こうして荒れた耕作地を独占した大領主はその土地を確保し、分割して譲渡される事を防ぐため長子相続法や限嗣相続法を定めた。子ども全員に分け隔てなく均等に分配するという自然な相続法をとっていたローマ法は大変革を受けた。それは大領主(国王は最大の大領主)の権威を固定し、諸侯という名門家(貴族階級)を生み出した。しかし大地主が所領の開発を行なったことは滅多にない(上杉鷹山のような英君はいなかった)。土地の開発が利益をもたらすためには緻密な利益に対する配慮が必要であるが、大領主にはそのような能力はなく、暴力で奪取した土地を後生大事に子孫に継承するための生殖活動(後宮つくり)や、自分自身の贅沢(館つくり)や、軍隊の維持・私設官僚(執事・居候など)を養うこと以外には興味を持たなかった。ヨーロッパの農民は「隋意解約小作」という奴隷状態(隷農)におかれ、少ない小作の取り分では生存・再生も危い状態では、進んで土地の改良に取り組む意欲もなかった。当時の耕作費用で成り立ったのは砂糖と煙草の栽培のみで、穀物耕作は奴隷を使うという費用負担には耐えられなかった。そこでイングランド植民地では耕作は自由人によって行なわれ、アメリカ植民地では「奴隷解放」を決議する州も多かった。これは宗教的人道愛ろいう表向きの理由とは裏腹に、奴隷使用では穀物耕作の採算分岐点を割っていたからで、奴隷を養うことが出来なかったというべきであろう。西インド諸島のサトウキビ栽培に大量のアフリカ黒人が輸入されたのは収益が大きかったためである。この奴隷貿易を三角貿易(イギリス、アフリカ、西インド諸島の黒から白に変わる貿易)という。

奴隷耕作者の地位は次第にフランスの「分益小作」という地位に変わっていった。分益小作者は自由人であり財産を所有することはできるし、一定の土地生産物を自分のものにできるので農業の増進には関心を持つようになった。しかし借地人で地主が貸してくれる資本によって耕作するほかはなかった。資本を持たないので土地の改良は地主に任されていた。地主は土地の改良に金を使わなかったし、全生産物の半分は地主に帰し、農民には10分の1税が課せられた。これでは分益小作は土地改良をする余地はなかったというべきであろう。次の時代に自分の資本で土地を耕作し、地主には一定の地代を支払う「農業者」(14世紀頃の自営農民ヨウマンがその代表)が出現した。地主は「不動産回復訴訟」によって、借地権を無効にすることは出来た。イングランドでは資本を貯え力をつけた自営農民は終身借地権(自由土地保有権)を持ち多額の地代を納める農民は国会議員の選挙権も与えられた。イングランド以外では借地権に制限が大きく、1年を越える借地権は認めらなかった。フランスでも9年以内の借地権が限度であったという。さらに農民には数々の賦役が課せられた。徴発や公的租税、小作課税などは土地から得られる資本が土地に投下されることを阻害した。農業者は大商工業者よりも社会的地位が劣り、地代負担も大きいという事情は、大資本が借地農業経営に向かうことを妨げた。地主と農民の関係は、自分の金で商売する商人の独立性と収益性は、借金で商売する商人の立場よりはるかに高いのと同様な関係である。借地農業者の資本蓄積はかなり難しいといえる。さらに穀物取り引きは一般には禁止されており、買占め者や仲買人への規制も大きかったことも、農民の資本蓄積を妨げた。

第3章 ローマ帝国没落後のヨーロッパの都市の発生と発展について

ローマ帝国没落後の都市の住民は、ギリシャやローマの市民が土地所有者の自由人であったのと違って、都市の商人や職人の地位は貧しく権利は制限され農奴的状態に近かった。市で商いをするにもイングランドでは通行税、橋税、積荷税、出店税を領主に納めなければならなかった。しだいに特定の商人にたいして領主が免税特権をあたえて領土内の市を保護し始めた(16世紀の織田信長の楽市・楽座もそうか)。彼らを自由商人という。社会的地位は低かったとはいえ、農村住民よりは早く領主の支配から脱却し始めた。そして免税特権も対人的なものではなく特定の都市の市民に与えられる自由都市と発展した。自由商人らは自治体を組織し市議会を持ち市政官をおいた。広範な司法権も許された。国王が都市に特権を認めたのは、諸侯(国王も最大の諸候のひとり)に対する均衡勢力として都市を利用しようとしたためである。近世では国王と大領主が、市民を奪い合った(近代の革命時代に皇帝が貴族と、国民を奪い合ったのと同じ)。自由都市は民兵も組織し、交易自由都市間には「ハンザ同盟」が強大となった。都市の成長と国王の権威の失墜は同時に進行した。ところが農民は領主に堅く拘束され圧制下にあったため都市に逃亡するものが現れ、移入農民の持った資本は都市で商売を始め、自由市民として都市の資本蓄積に貢献することになる。自由都市はまず外国貿易から栄えたが、そのための製造業をも振興させた。イタリアの諸都市は十字軍の往来で栄え、イングランドの羊毛、フランスの葡萄酒・絹織物など一層精功で改良された製造品に対する嗜好がそれを生産しない地域に持ち込まれ、それがその地に同種の製品の製造業を生み出した。そういう意味で製造業の由来のひとつは外国貿易の流れにある。もうひとつの流れは家内工業的なかつ初段階の加工品がしだいに精致なものへ自然に成長したものである。このような製造業は自国産の原料によって生産される。いわゆるマニュファクチャー産業が産業革命と市民革命によって近代産業として確立される歴史をスミスは予見している。

第4章 都市の商業はいかにして農村の改良に貢献したか

スミスは都市の発達が周辺農村の改良と耕作に与えた影響を考察した。3つの点で都市は農村の発展を促した。第1に都市という大消費地は一大農産物市場をもたらし、近郊農村の耕作と一層の改良を振興した。第2に都市が獲得した資本は未耕作地の購入に充てられ、土地の改良に乗り出した。地主階級は金を贅沢品に使うことだけで、金を利潤の大きな計画に用いる才能は武士の商法で本来持ち合わせていなかった。商工業を知らないか軽蔑する大領主は余剰生産物を家来や隷従者に振る舞い、それが領主の権威と武力の基盤となっているいわゆる略奪階級であった。日本で言えば大名のことであろうか。それでも幕末には長州・薩摩は殖産興業に乗り出したが、すでに武士の歴史的役割は終っていた。こうした封建性の服従関係が確立した後、国王の力は弱かった。江戸幕府が諸藩連盟に過ぎなかったことと同じである。その大領主の力は外国貿易と製造業の財貨と引き換えに領主の権威と武力を失った。従って都市の商工業は農村の振興の原因となった。都市が生み出す商品の魅力と贅沢品を前にして領主は虚栄を充たすために次第に金を失い、商工業者の金融支配下に陥った。大地主(大領主)の個人的消費は養える家来の数を減少させ、借金のため土地まで手放すようなった。こうして苦し紛れに領主は農民の長期借地契約にも唯々諾々と応じるようになった。ここに封建制はしだに無力なものへ変質した。第3に結果として領主に隷従状態に置かれていた農民全体に、領主層の没落による自由と安全をもたらし生活秩序の大変革が起きたのである。このような社会の幸福にとって至上の重要性を持つ変革が、社会に貢献するつもりなど少しもない2種類の人々によって引き起こされた。大地主の虚栄心と商工業者の自分の利益に熱心な行動によってである。都市の商工業は農村の改良と生活改善の契機となったのである。

ヨーロッパ諸国の発展は歴史的な桎梏のもとに様々な展開をしてきたので、事物の自然な成り行きという点では必然的にその速度は緩慢であった。それに対して北アメリカ植民地は、富が全く農業の上に築かれてきたので歴史的に妨げるものがなくその歩みは迅速であった。旧ヨーロッパの大地主の土地は長子相続法に守られて売りに出される動きがすくなくたとえ売りに出されても独占価格で高額であった。従ってヨーロッパでは小資本にとって土地を買うことは割に合わない行為なのである。アメリカ植民地においては未耕作地が多く農場用の土地は安く手に入った。資本の大小を問わず未耕作地の購入と改良が容易であり、これが資本の蓄積に最短距離で働いた。イングランドでは歴史的に商工業の振興に特別の配慮をしてきたが、農業に対する奨励策は払われてきたがまだ未耕作地が多くどちらかといえば従的であった。フランスの農業政策はイングランドより劣っていた。外国貿易と植民地政策中心のスペインやポルトガルはとりわけ農村の改良は旧態依然であった。イタリアは外国貿易と輸出用製造業の進展により1国全土が良く耕作され改良されてきたヨーロッパ唯一の大国であった。しかし商工業によって獲得された資本は国土の耕作や改良に投資され不動産かされるまでに、いつ他に向かうか予測がつかないというリスクが存在する。また商業(金融)の資本は国を選ばない。資本の目的が新たな利潤を獲得することであるので、国を意識せずに移動を繰り返すのである。資本が国に属しているとはかりそめにも言えない。利潤を求めて世界中を闊歩するのである。



第4篇 経済学の諸体系(重商主義)

第1章 商業主義または重商主義の原理について

政治経済学(経済学)を政治的に見ると、経済学の目的は国民と主権者(政府)の双方を富ませることにある。スミスの18世紀後半には、富とは貨幣のことであり金銀を蓄積することが富国と国防の道だと考えられていた。いまの時代では「富とは貨幣のことか」という設問は成り立つとしても、「金銀を貯えることか」というとそれは違うと誰でもわかる。とはいえ金本位制が廃止されたのは、1971年8月15日のいわゆるニクソン・ショック以降のことである。金と米ドルの兌換が停止され、各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行したため、金本位制は完全に終焉を迎えた。それまでは貨幣と金は兌換性を以っていた。スミスの時代は貨幣と金のあいだはぬきがたい交渉があり、前のような設問も意味を持っていた。私には本書で兌換のややこしい話を読んでも半分は通じない。新しい金銀貨を買って溶かして外国で売って利益を得るというような話は改鋳という悪貨のからくりを詳細に把握していないと嘘みたいに聞こえる。実は本書の第4篇は「国富論」の中心をなすといっても過言ではない。「国富論」は体系的な重商主義批判だといってもよく、規制と禁止・優遇策だらけの政府の「政治経済学」は悉く国民の富の増進を阻害するものであり、資本は流れる水のごとく自然な自由主義的発展に任せるべきであると云うことがスミスの「国富論」のドクトリンである。「道徳感情論」ではスミスは、個人の利害の追及がトータルとして社会の富の増進と福祉拡大へと向かうとして、「神の手」という怪しげな象徴を使ってまで経済行為の倫理的弁護を行なった。西欧の重商主義はその発展段階から3期に分けられる。
@重金主義: 国家富強の基礎として直接金銀を重視し、1回ごとの取り引き差額による金銀の蓄積を経済政策の目的とした。14世紀末から16世紀ごろのイングランドの政策であった。金銀をもとめてアメリカを征服したスペイン・ポルトガルなど大航海時代のことである。
A前期重商主義: 国全体で年間でトータルの貿易差額が黒字になるように政策を進める。17世紀の絶対君主制の時代の東インド会社をはじめとする中継貿易でトーマス・マンが主張したので有名。
B後期重商主義: 18世紀スミスが直面している時代である。資本主義的殖産興業策を法律による様々な国家政策として推進する。ロックやステュアートらが理論体系を作った。富とは貨幣(つまり金銀)だとする。

「国富論」はマンやロックやステュアートの重商主義論説を論破することに主眼があった。すべての財貨の価値をそれと交換される貨幣の量で持って評価する。「富者とは金持ちの事である」と云うある意味で俗っぽく分かりやすい説である。名誉革命の社会契約論で有名なイギリスの哲学者ジョン・ロック(1632-1704)の経済思想は、市民社会の形成期における貨幣の画期的役割を強調し、富の生産と経済的循環における貨幣的契機の重要性、国際的商業戦争を前提とした貿易差額による貨幣への国家的関心という重商主義を代表した。労働価値説など古典経済学の形成に力があったとされている。トーマス・マン(1571-1641)は「英国の財宝は外国貿易によって獲得される」という著書において、外国貿易を貿易差額というスパンで考え、スペインが金銀の輸出を禁止したことの愚を指摘して、外国品を買うために金銀を輸出することは短絡的に損失ではなく、帳尻でプラスにすれば金銀を獲得することになると述べた。この説は一見もっともらしいが、為替相場が高い国にとって、外国に貨幣で支払う商人にとっては不利である。外国貿易がプラスかマイナスという帳尻だけに神経がいってしまうと、その外国貿易が国内市場に富をもたらすかどうかという視点が疎かになる。金銀の増減だけが唯一の関心事項になって、国内の商業が外国貿易に対して従属的になる。この禁止策と優遇策の入り混じった業界のご都合主義の複雑な規制だらけの外国貿易に対して、スミスは貿易が自由であれば金銀も財貨と一緒に必要量だけ流入し、必要量以上は流出すると反論した。つまり財貨の流通が先であって、そのための道具としての貨幣の全部はいつでも供給されるという考えである。金銀は余っているところから足らないところへ何時でもどこでもいくらでも容易に運べるからである。貨幣が足らないという不満は実は嘘で、足らないのは借金が出来る信用であり、債権者がぶつかる回収難である。貨幣は物を買う力があるから価値があるのだ。貨幣は必ず財貨を追い回すが、財貨はかならずしも貨幣を追いかけないしその必要も無いのである。16,7世紀における金銀信仰は今の我々には理解しがたいものがあり、スミスは言葉を尽くして反論しているが我々にはそんな情熱はないのでこれくらいにして先へ行こう。

戦争には金銀を大量に必要とするという君主がいるが、戦争に必要なのは財貨(物資と運送と軍人)であって、雇い兵と金銀が戦争を遂行するのではない。発展した商業国にあっては財宝蓄積の必要はない。国民が財貨を供出すればいいのである。外国貿易の利点は、余剰生産物を輸出し不足の物資を輸入することであり、国内市場は狭く未熟であっても、労働の生産力を高め技術や分業が発達するのを助けることが出来ることである。アメリカ新大陸の発見はヨーロッパの市場を開き(無限とみられる外部市場の開拓)、各国の生産力を増加し富を増大したことである。けっして金銀の輸入によるものではない。東インド貿易は独占会社が行なったため、市場を増大させもせずヨーロッパを富ませもしなかった。発達した文明諸国は他の文明諸国民と通商するほうが、野蛮人や未開人から略奪貿易をするよりずっと大きな価値を交易できるものである。ところがオランダなどは金銀を蓄積するという誤った考えから、排他的独占権を東インド会社に与え輸入制限と輸出奨励策が行なわれたため、国内産業の振興は歪んだ方向へいった。富は金銀から成るという原理と、金銀がない国にあっては貿易差額によって金銀を蓄積するという原理(後期重商主義)は、出来るだけ輸入を少なくし自国の生産物の輸出を増やすことが必然的に経済政策の目的となった。次の第2章から第7章まで重商主義の6大政策(2つの輸入制限策と4つの輸出奨励策)を検証する。

第2章 国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限について

重い輸入税か絶対的禁止かによって、国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限を加えれば、国内産業には手厚い保護となり国内市場の独占を与えることになる。例えば畜牛および塩漬肉の輸入禁止はイングランドの牧畜業者の利益を慮ったことによる。国内特定産業を大いに奨励し社会の資本と労働を牧畜業に向けさせることになるが、はたして社会の生産活動全体を増大させること(社会の富の増大)になるだろうか。特別な優遇策がなくて自然に定まる特定産業の労働者数の社会での比率を、商業上の規制によってその社会の資本が維持できる以上に労働活動を増大させることなどは出来るものではない。ここで再度スミスの「見えざる手」が登場する。つまり個人の利益追求活動は自然に身近なリスクの少ない確実な活動に向かうものであり中継貿易よりは国内市場に、また出来る限り大きな価値をもつ生産活動へ向かうものである。もともと競争力の少ない不利な産業へ資本を強制して向かわせることは、その分を得意な産業へ向かえばあげられたはずの利潤を失うことになる。すべての社会の年あたりの富の総額は、その社会の労働活動の全生産物の交換価値と等しい。個人は普通は社会公共の利益を増進しようと意図したわけではないが(社会公共の利益をいうのは官僚ぐらいである)、見えざる手に導かれて自分では意図しなかった社会公共福祉という目的を促進する。「自由放任や自由競争」を標榜する現在の「新自由主義」経済政策では我利を露骨に主張するだけであり、スミスの「道徳感情論」の倫理には結びつかない。この「見えざる手に導かれて」というフレーズが効くのである。倫理と経済理論の整合性が計られたところにスミスの偉大さが分かる。

国産品の独占を許すことは、ある程度どういう風に資本を使うべきかについて個人に指図することであり、ほとんどあらゆる場合に無用な有害な規制である。高率の関税や輸入禁止は、外国から安く買えるものを高い費用をかけて国内で生産させ、産業活動全体を不利にする。産業界は最大の利益をもたらす分野を自分で見つけることが出来るようにしなければならない。特定の分野の商工業者だけが独占によって利益を受け、自由貿易によって打撃を受ける。国内産業振興のために輸入制限がやむをえないのは国防上の必要だけである。しかしこれは戦争を覚悟しなければ解決しない問題である。輸入制限をする場合、慎重な考慮を要する問題は相手国の報復措置である。フランスとイングランドの犬猿の仲はここから来ている。輸入制限の解除の方法は、自国産業に対応の時間を与えるために緩やかに行なう必要がある。また各種の同業組合の排他的特権を打破することや、自由貿易を完全に実施することはなかなか困難であるから、少なくとも新たな独占は容認すべきではない。様々な規制は国家の基本制度を歪めるものであるから、後日これを改めることは更なる混乱をもたらす危険がある。

第3章 貿易差額が自国に不利と思われる外国から輸入する財貨に対する特別の制限について

1692年輸入税法によってフランス産のすべての商品に対して25%の税がかけられたが、他の諸国には最高でも5%の税に過ぎなかった。これはある国との貿易が輸入超過で貿易収支が赤字になる恐れがあるとその国からの輸入が制限されるという措置である。この措置はそもそもどこから来るかといえば、国民的偏見と憎悪から起るのである。貿易収支は総合的に考えるべきで、2国間の収支から輸入を制限するのは不合理である。2国間の貿易収支を是正するような方法は無い。また為替相場はかならずしも2国間の貿易バランスを反映せず、輸入制限を行なう根拠にはならない。為替相場は2国の債務の指標であり、2国の輸出入の指標ともなっている。しかし債務の状態は2国だけできまるものではなく、他の諸国との取り引きの推移によっても影響される。外国貿易決済の為替手形の貨幣価値の不確実性による貿易上の不便を防ぐためアムステルダムに預金銀行が設立された。貨幣価値の多少の変動は預金銀行が良質な貨幣価値を信用保証するため、プレミアムを取って銀行貨幣という信用を発行する制度であるが、スミスは余論をもうけて解説しているが煩雑になるので割愛する。奨励金や独占や特別の輸入制限によって無理やり行なわれる貿易は、自国を有利にしようとする制限であり、相手国の不利益となる。当然相手国から報復を受けることは必至であろう。利益や利得とは金銀の増加をいうものではなく、その国の土地及び労働の生産物の交換価値の総量の増大という意味である。貿易の自由は双方の当事国にとって利益をもたらすもので、金銀による貿易差額説はそもそも不合理で一面的である。輸入は国産品で支払うのが最も有利であるが、金銀で支払ってもよいという程度に考えなければならない。最良の商品を安く自由に買えることが国民の本来の利益である。特定国との取り引きを優遇したり制限することは国民の利益に反することである。隣国が裕福であれば貿易には有利となる。そして双方にとって有利なはずだが、歴史的な反目がこれに邪魔をするのである。

第4章 戻し税について

製造業や商業者に国内の独占を与えることは可能だとしても外国貿易において独占的地位を与えることは出来ない。そこで生まれた政策は輸出に対してある種の奨励金を与えることである。なかでも「戻し税」は重商主義の輸出振興策の中でも合理的であるとされる。輸出に際して国内で課せられている消費税や内国税の一部または全部を払い戻してやることである。この手法は大きな資本の歪な移動を伴うことなく(均衡を乱すことなく)、その業種の維持や分配を保つに過ぎない。いずれは輸出を目的としたアメリカ植民地からの砂糖の輸入に対しても、外国製品を再輸出する場合の戻し税が実施された。葡萄酒の中継貿易についてもフランス産葡萄酒を除いて輸入税の約半分が払い戻された。戻し税の影響は比較的少ないとはいえ、貿易の状態を変えることなくただ内国消費税や関税収入の損失だけをもたらす。それでも輸出と見せかけて国内へ持ち込む再輸入という詐欺的行為を発生させた。スミスは本書で結構こういった詐欺的経済行為に神経質になっていることが見受けられる。特に商人のモラルを信用していないようだ。

第5章 奨励金について

輸出奨励金を貿易商と製造業者に与えて、輸出を増やして貿易差額を増大させる方策が採られた。外国市場においてわが国の製造業者と商人は競争に負けないように、競争相手と同じ値段でもしくはもっと安く商品を売りたいのである。奨励金は外国品と競争できない業種に与えるべきだという論理はそもそも利益の少ない産業に資本を向かわせることになる。財貨を市場に出すのにかかった費用に補助を与えて安い価格で売る貿易である。(今の日本で言えば米の公定価格のようなものである) 奨励金の効果は、重商主義のほかの方策と同じく1国の貿易をそれが自然に向かう方向に比べてはるかに利益の少ない方向へ強いて向かわせることにしかならない。例としてイングランドの穀物輸出奨励金について、穀物輸出価格が輸入価格よりはるかに高く、奨励金を以ってしても投下資本に対する普通の利潤を回収できない状態である事を、スミスは穀物貿易と穀物法の「余論」を設けて詳細に検証している。余論は割愛するが、この穀物法は奨励金が国内市場の穀物価格を高く吊り上げることも目的のひとつであった事を明かした。イングランド国民にとって穀物輸出奨励金は、税を使うことによる損失と国内価格騰貴という2つの負担を強いるものとなった。穀物輸出奨励金は外国市場と消費を拡大するが、それと同じだけ国内市場と消費を減退させ、人口と産業を抑制する結果をもたらす。穀物は食糧という大切な労働の再生産資財であり、穀物価格は労働の貨幣価格を定めるものである。労働の貨幣価値を定めることは全産業の労働価値(簡単にいうと賃金)も上昇するということであり、他の一切の価格の上昇をもたらす。穀物(日本では米)の価格が占める全生活資財の中での率があまり変動しない事を持って過去のGDPを推算するように、穀物価格の上昇は相対的に金銀価格の下落となる。それにより奨励金は穀物の名目上の価格を高め製造業を不利にした。結局利益を得たのは穀物商だけであった。農業者にも地主にも何ら見るべき貢献はなかった。

穀物とその他の工業製品という財貨には、そもそも本質的な差異がある。製造業者らが工業製品の真の価値を高めたのと同じように、穀物の真の価値を高めようとしたが、彼らは本質的な差異に気がつかなかった。ちょうど21世紀の新自由主義経営者が労働価値を経費と見て安値で買い叩く戦術に出て、労働の大きな質の低下をもたらしたのと同じである。進歩も創造も生産性向上も期待しない使い捨ての労働価値で生き残る資本の末路が見えてくる。そもそも製造業自体を見限って、残るは金融だけというわけだ。財貨の創造ではなく名目的貨幣の価値の捏造(詐欺)に走る「新重金主義」の時代なのだろうか。さて愚痴はそのくらいにしてスミスへ戻ろう。穀物や労働にはその貨幣価値を変えただけでは変更されない真の価値があるのだ。それは人間の再生である。国富は生産よりも輸出から生じるという重商主義者の偏見から、生産奨励金より輸出奨励金の方が重視された。重商主義の全方策の中でこの輸出奨励金は、商人や製造業者が最も好むところなのである。同じような例が鰊漁業帆船奨励金に見られ、生産奨励どころか漁業資源の絶滅と魚価の高騰を招いた。奨励金が漁船舶トン数に対して与えられたため、競って大船舶を作り漁撈方法も大量捕獲を目指した。その結果投機家が動いて伝統的な小船漁撈はすたれた。日本では戦後の鰊投機による鰊漁業の衰退を見るようである。本章の結論は、穀物輸入が自由化すれば穀物価格は下がって貨幣価値は高まり、国内市場は拡大するので穀物生産も奨励されることになるということである。

第6章 通商条約について

他の諸外国からの輸入を禁じている財貨について、特定の国からその輸入を許可する課税を免除軽減する措置(特恵国通商条約)は、その特定国の商人と製造業者にとって独占がもたらされるので必ず大きな利益を得るであろうが、特別扱いを許す国の商人や製造業者は自由貿易に比べて高い買物をしなければならないから不利になる。しかし特定の自国産業には不利となっても、国全体として貿易差額が有利になる事を見越して特恵授与条約を結ぶこともある。例としてイングランドがポルトガルに毛繊製品・ポルトガル産葡萄酒の関税減額を許すメシュエン条約がそれである。ポルトガル貿易が他より有利だという理由は無いが、ポルトガルを経由する迂回貿易をするよりは国産品による直接貿易の方が有利と見たからである。金銀をポルトガルから輸入する目的ではなく、金銀は他国との財貨の貿易に伴って流入するものである。その金銀の殆どは外国貿易に用いられた。金銀の輸入はイングランドが貨幣鋳造に必要であった量は極僅かで、新たな金幣の鋳造よりは銀行貨幣の手数料プレミアムを設けたほうが、信用によって貿易決済はスムーズにゆくのである。

第7章 植民地について

この第7章「植民地」は第4篇の最大のボリュームを占めている。(文庫本で150ページ、それだけで1冊の本となる) ヨーロッパ諸国による植民地建設の歴史を総括した。それがいいか悪いかという審判は別として、歴史的に大きな意味を持つ最大の経験であったことは確かである。古代ギリシャ・ローマにおける植民は古代都市の人口過剰か、貧困な自由民に土地を割り当てるためであった。古代ギリシャの都市国家はいずれも小さな領土しか持たなかったので、住民の数が増えるて扶養できなくなると、新しい居住地を探すために遠くの土地へ送り出された。近隣地域は好戦的な都市国家がひしめいていたため領土を広げることは出来なかったためである。だから最初から植民地は1独立国家であり本国の承認は一切必要なかった。ローマ時代には農地法に基づいて建国されていたので一定の比率で市民に土地を分配しようとした。ローマでは市民を遠方へ追いやることはせず、征服地(イタリア・ガリア・ゲルマンなど)をあてがった。いかなる場合にも母国の都市国家の監督と司法・立法のもとにあり、植民地はせいぜい地方の自治体とみなされた。そして本国は植民地に守備隊を置いた。13−15世紀からの近世植民地ならびに植民地政策をスミスは「新植民地」と呼んだ。アメリカ大陸や西インド諸島におけるヨーロッパの植民地建設は、取り立てて本国の必要性にもとづいて行なわれたものではない。15世紀ヴェニスは東インド産の香辛料をエジプトで買い付け、それをヨーロッパに売り込んで巨利を博した。ヴェニスの巨利に目をつけたポルトガル人はアフリカ沿岸伝いに喜望峰の航路を開発した。ヴァスコ・ダ・ガマは1497年喜望峰経由でインドに到着した。このインド東航路は遠いと考え、西航路が近いと盲信したコロンブスは1492年にスペインのカステリア王国の援助を得て西インド諸島を発見した。コロンブスの発見した西インド諸島には、植物・動物・鉱物とも価値ある物はなかったにもかかわらず、コロンブスは金の豊富な島と嘘をつき続けて王国から航海費用を出させた。スペイン王国は西インド諸島のキリスト教化という敬虔な目的をでっち上げ征服・植民地化を目指した。最初にスペイン人らによって発見された国々には採掘に価するほどの金山や銀山はまったくなかった。メキシコやペルーの征服には原住民の略奪と壊滅的殺略を行い、僅かな金銀を手に入れた。

国土が全くの無人であるか、原住民が抵抗もなくあっさり侵入者に土地を譲り渡すことによって(あっても鉄砲の前には全くの無力であるか、組織立った反攻を行なうほど社会の文明段階に達していなかったか)、ヨーロッパ人の占有した植民地は現地人とは比較ならないほど急速な富強に向かった。北アメリカ大陸の入植者は豊富な土地と母国からの政治的自由によって繁栄への道に踏み出した。植民地時代の北アメリカは13州に過ぎなかったが、上層階級はただのような土地を獲得し開拓を進め、人的資源不足か下層の労働者を高給で雇い入れた。こうして豊富な土地の生産力に支えられ人口の増殖と土地の改良が進んだ。こうして国は富強となった。15,16世紀はスペインとポルトガルは世界の二大海軍国であったが、ヨーロッパ各国はアメリカに進出した。16世紀末イギリスはスペインの無敵艦隊を撃滅しアメリカ大陸はヨーロッパ諸国の草刈場と化した。イングランド、フランス、オランダ、デンマーク、スウェーデン人らはこの新世界に植民地を建設した。北アメリカ大陸におけるイングランド植民地の進歩が急速であったのは、豊富な土地と自由な行政、適正な租税らの結果であり、かつ長子相続制がなく名門家(貴族)が育たなかったからである。自分の問題は自分らで解決することの自由、これがすべての植民地繁栄の原因のひとつである。つまりイングランドの植民地法が、低廉な価格で手に入れた土地所有者は一定期間内に土地を開拓する義務を負うこと、長子相続制がないので、自由永代借地権は誰にでも譲渡可能であったことで他のどの国よりも土地利用の有利であった。そして国防や植民地保護に関する費用はすべて母国の負担ということで、植民地自身の文治行政費用がきわめて微少であった事も大きい。また聖職者という扶養階層も少なく、教会の支配も他国ほどには負担にはならなかったし、他国のような教会が徴集する10分の1税もなかった。

イングランドの北アメリカ植民地には生産物に対する排他的独占会社はなく、港や船舶の制限もなかった。ヨーロッパの諸国は自国の植民地との貿易を独占しようと、さまざまな船舶規制・輸入禁止を行なった。他国の植民地では高い母国の商品を買わざるを得ず、また母国へ法外な安値で生産物を売らざるを得なかった。しかしイングランドの北アメリカ植民地にはより広範な市場が保証された。フランスの植民地もイングランドと同じく寛大自由な政策を取った。イングランドの植民地では母国の産業を保護する「列挙商品」(砂糖・煙草・綿花・藍・染料など)を除いては植民地に他する貿易の自由がほぼ認められていた。イングランドの植民地では母国の生産を阻害しない範囲で列挙製品についても奨励金や免税措置がとられた。しかし砂糖の精製については極端な禁止措置がとられたので、植民地自らの資本や労働を最も有利な方向で使用する神聖な権利を侵害した。母国イングランドでは植民地からの輸入を奨励するため、他国からの輸入には高い関税をかけ、植民地からの輸入には奨励金を与えた。アメリカ植民地は貿易以外の点では、立法・行政について他のヨーロッパ諸国の植民地に比べかなりの自由を享受していた。外国貿易の一部を除いて、北アメリカ植民地は自分のことは自分の思うように処理できる自由を有していた。植民地議会は自分の総督を選挙し、徴税官を任命できるのでキ共和主義的で平等という点でも他の植民地に比べると優っていた。氏ペインやポルトガルの植民地では本国の専制政治が持ち込まれていた。フランスの植民地の繁栄はイングランドに比べて、精製砂糖の生産を抑制せず、かつ奴隷の使用に巧みで資本を自力で蓄積したことによる。しかしながらスミスは植民地政策を無条件で讃美するわけではない。ヨーロッパの殖民を促進したのは、金銀追及の重商主義の愚劣と略奪という不正が根本の動機であったことは隠せない。特にスペインのメキシコにおける征服は個人の蛮勇に任せ本国の政府は何一つ助力しなかった。イングランドのアメリカ殖民にも本国政府も何も関与せず、したことといえば母国の市場を拡大し植民地市場を独占することであった。それは植民地の発展を促すというより阻害要因に転じた。スミスの見解は植民地政策の愚劣を列挙することであったが、しかし植民地は発展しヨーロッパはその犠牲において富を獲得したといえる。植民地市場を経営する観点はヨーロッパ以外には無いことも事実であった。

アメリカ植民地および東インド航路よりヨーロッパが収めた利益について総括しよう。アメリカ植民地からヨーロッパが得た利益は、財貨の増加と産業の発展であるが、母国の排他的貿易はこれを阻害したといえる。植民地の大量の生産物はヨーロッパという一大貿易圏に年々投入され、ヨーロッパ諸国民に財貨(消費物資)を分配した。通常の植民地からの母国が取得する利益とは兵力の供出と税収であるが、アメリカ植民地から母国の防衛に為に兵力を供出した例は一度もない。軍隊の分担金を負担したのはスペインとポルトガルの植民地だけに過ぎない。つまり植民地とは母国にとって出費の原因でこそあれ、税収増加の実利とはならなかった。また母国が植民地から取得する特殊利益は排他的独占貿易であるが、これも外国資本が参入できないため独占のためかえって結果は不利となる。独占貿易は自由貿易のもとでの生産物が到達するレベルに引き上げることは出来なくて、他国の産業や生産を抑圧することによる利益を超えられないからである。イングランドだけの資本では植民地が必要とする財貨の一切を供給することは出来ない。さらにイングランドの資本は植民地の余剰生産物を買い上げなくてはならない。独占の結果イングランド母国では他の産業から資本を引き上げ、植民地貿易へ資本を投入しなければならない。独占は増加したイングランドの資本を近隣の市場から遠隔の植民地貿易に向けさせ、貿易の方向を転換したのである。独占貿易は通常の他国との貿易に比べて高い利潤率を維持することが出来たが、他面でヨーロッパ貿易や地中海貿易では不利な立場に立つことになった。また遠隔の植民地貿易は資本の回転率が低くなり(近隣貿易では年2―3回の回転が可能だが、遠隔貿易では2,3年に1回程度となる)、リスクという点でも国内消費物の直接貿易より遠隔地の迂回貿易は不利である。こうして資本は国内消費物直接貿易から極めて効率の低い植民地遠隔迂回貿易の方向へ向かった。

スペインやポルトガルでは豊かな植民地を得てから国内製造業はすっかり衰退した。ところがイングランドでは貿易の一般的自由に支えられ全体としての植民地貿易の利益が独占経営のマイナス面を上回って、国内製造業を有利にした。独占貿易による利潤率の向上は土地の改良意欲を阻害し、地価は下落し地主の利益を損なった。結局独占は商人の我利政策であり,その貿易の高利潤は彼らの節約や資本蓄積の美徳を破壊してしまった。(株でも儲けてまともに働く意欲をなくした若者のようである) スミスは国富増進の原因として、分業を基盤とする生産技術や生産性の向上と節約による資本蓄積と新たな投資拡大の2つを挙げている。このまじめな資本主義精神が、悪徳の利潤によって麻痺してしまう事を警戒するのである。植民地独占貿易を維持するためには植民政策の経費は巨大に過ぎるので、自発的かつ友好的に植民地を放棄することが得策であると、スミスはイングランドは重商主義植民地政策から離脱する事を推奨する。植民地は軍の徴兵令に応じないし税負担にも協力的でない、結局維持するには費用がかかりすぎるのでイングランドは植民地を自発的に放棄すべきであるという。植民地に対しては課税に比例した代議制を採用すべきかもしれないと提案する。1国の資本はその最も有利な用途を自ずから探し出して適正に配分されるものであるが、重商主義の利己心はさまざな独占と規制によって資本の分配をかく乱する。スウェーデンやデンマークのような資本蓄積の小さな国では集中して資本を投じるために東インド会社のような排他的独占会社を必要としたのであろうが、イングランドやフランスのように十分産業が発達し民間に資本蓄積がある国には独占は不必要で有害である。

第8章 重商主義の結論(特殊例の追加)

第8章は重商主義の結論となっているが、実はこれは結論ではなく特殊な例を解説する章となっている。輸出の奨励と輸入の阻止は重商主義の2枚看板であるが、ある特殊な商品については重商主義はこれと反対の政策を取った。自国から原材料(羊毛)の対外輸出やその加工製造技術・機械・職人の輸出を禁止し、反対にその原材料である糸の輸入は奨励する政策である。具体的には自国の製造業に必要な外国産の原料輸入として綿糸輸入の免税を行い、亜麻布輸出には奨励金を出すという政策である。他にも羊毛、原綿、亜麻、染料、アザラシの皮、銑鉄などの輸入には免税の特典が与えられた。製造業者らが亜麻布の価格を引き上げ、粗製原料の亜麻織糸のか飼うを引き下げるのも、決してそれらの小さなマニュファクチャの製造職人の利益を考えての事ではない。富者と権力者のために営まれる産業の利益を考えてのことである。まるでマルクスような舌鋒鋭い重商主義批判である。日本の経産省のサプライヤー重視政策は重商主義なのだろうか。植民地原料に輸入には奨励金が与えられ、他国からのものには課税される政策は、はたして植民地の原料が安いなら問題は無いが、高い場合は資本の損失である。輸入奨励金が与えられたものには、船舶資材、藍染料、粗製亜麻、木材、生糸、葡萄酒用樽、大麻などであった。製造業の原料輸出を禁止されたものは、仔牛、牝羊、羊毛などであった。羊毛の輸出禁止は毛織物業者の利益を増進するためで、羊毛生産者の利益はある程度犠牲にされた。戦後日本の産業は国産原料が石灰以外には何もないという無資源立国政策で始まり、食糧も含めて世界で一番安い原料を買うことで製造工業は成り立った。これは非常に効率的であったという。

第9章 土地の生産物がすべての国の収入と富の唯一の源泉だと説く学説について(重農主義)

土地の生産物がすべての国の唯一の富の源泉だと説く重農主義は、どこの国でも採用されたことはない。重農主義は都市の商工業を偏重するコルベールの重商主義に対する批判としてフランスのケネーが「経済表」という著書で主張したものである。この主張は経済的には特に何の害も与えなかったので、詳細に検討する必要は無いとスミスは評価している。第2篇 資本の性質、蓄積、用途において土地を巡る何となくすわりの悪い議論は、スミスがこの重農主義的見解に引かれてもやもやとした議論をしているからである。重商主義批判の根拠のひとつに重農主義を用いるのはあまり妥当でないことをスミスは自覚していたが、「国富論」くらいの長編となると、時間的な経過がある程度出てくるのはやむをえない。とはいうものの本章で40ページも費やしてこの重農主義にこだわっているのも文明論として面白いのではないか。この章でスミスは重農主義が「商工階級は価値を増大させず非生産的でお荷物だ」という論を批判して、たしかに商工階級はその生活資財を農業階級に負っているが、労働によって再生産される国富を生み出すので、両者あいまって富の再生産に貢献していると是正した。



第5篇 国家の収入(財政策)

第1章 主権者または国家の経費について

第5篇(中公文庫V 第3分冊)は18世紀後半(江戸幕府末期ー明治初期)の英国国家財政を論じる。第1章は国家の支出についてであるが、その述べることはかって小泉首相の「民の出来ることは民でやればいい」ということに尽きる。スミスはサッチャー・レーガンの新自由主義路線の「小さな政府」とこそは言わないが、政府機能を防衛と教育を除いては「百害あって一利なし」といわんばかりの論を展開する。逆に言ってしまったが、グローバル資本主義は資本の自由を最大限に発揮する新自由主義のことでスミスの古典経済学と自由主義思想の継承者である。新自由主義とは政治的には共産主義が崩壊して後の資本の1人勝ちを反映し、分配が資本側に大きく偏ってしまった資本主義の独壇場として経済行為者の単純化につながった。その根拠を経済学理論としてスミスの「古典経済学」においているといえよう。第1章国家の経費については、第1節「軍事費」、第2節「司法費」、第3節「社会資本/インフラ整備、教育制度」、第4節「儀礼費」(つまらないので省略する)と項を分けて解説するが、いまさら言っても仕方ないが福祉に関する国家費用、国家・地方行政費用や国会政治運営費用、財政投融資など特別会計が皆目見当たらないのは歴史的限界であろうか。スミスの時代としては欧州主要国は植民地戦争ばかりやっていたので国家財政が破綻していたこと、労働貧民にたいする福祉などはもともと考慮の外にあったのであろうか。反対に英国国教会維持のための費用ばかりを熱心に議論しているのは、政教分離のいまとしては逆に奇異に映る。スミスはこの章で「安価な政府」を主張したかったようであるが、今の我々としては問題を単純化することはかえって誤る事を知るべきである。

[1節:軍事費]
スミスは主権者(国家)の第1義務は、その社会を他の独立社会の暴力と侵略から守ることであるという。これを軍事力というらしい。政治的に自国の防衛という大義名分のため多くの侵略戦争が企てられたことは歴史が証明するところである。軍事関係者が自己の存在を誇示するために冒険主義・侵略戦争に走ることは、北朝鮮やかっての日本軍国主義者の例を出すまでもなく世界の常識である。軍隊は社会の鬼子である。侵略軍隊がなくとも同盟関係と政治経済関係から戦争を防止できるころは日本の戦後60数年の歴史が証明している。古代の狩猟民族や農耕民族社会や封建侯族社会では戦争費用は自己負担であって、統一国家(部族社会はあったが、統一権力組織体はもともと存在していなかったから当然である)が戦争費用を負担することはなかったとスミスは変な歴史展開を行なうが,これが同義反復に近い歴史論理である。一つの意思としての近代国家(権力者)と国民が出来上がり、火薬鉄砲大砲の時代となると戦争技術も高度化し経費がかかるようになった。血刀をかかげる白兵戦や岩石を投げる程度の戦闘ならそれほど費用はかからないが、問題は戦闘員(兵隊)の徴収である。近代ヨーロッパの文明諸国にあっては、常時国民は製造業や商業、農業に従事しているので、生活を棄ててまで自主的に戦争には加わらない。すると国家が軍務で使っている間は戦闘員を扶養する義務が生じる。また戦闘集団を維持するには軍人という独立した1特殊職業人を養成しなければならない。近代国家は産業の発展論理と同じく利己心に訴える「分業」を奨励するが、分業の必然の帰結として治める集団「国家」を生む。いったん成立した国家は一人歩きをして、社会経済に影響を与えようとする。これが政治と経済の分業の体系である。臨時に集める民兵に比べると、戦争経験を積んだ常備軍の圧倒的有利が実証される。これも経験と分業の叡智である。規律・秩序・命令が近代軍隊の特色である。常備軍の成立すると政治に多大な影響をあたえる。暴走をチェックできるのは文治に責任を持つ人間が軍をコントロールできている間だけである。軍事力は文明・技術が発展するにつれ次第にますます高くつく。平時の維持費も大変である。したがって裕福な国ほど優位に立てる。奇襲のみでは近代物量戦を勝つことは出来ない。

[2節:司法費]
国家の第2の義務は、その社会のどの成員も公平に、同じ社会の他者からの抑圧からできる限り保護する、裁判の厳正な実施を確立する義務があると云うことである。社会発展段階において私有財産の形成は司法権力の庇護を必要とし、政府を樹立する必要が生じた。ここでスミスは面白い論を立てる。政府はある程度の服従がないと成り立たないが、服従を要求する権力者には、個人的資質(指導力)、年齢、財産、素性(名門、家柄)という要素が要求され、人々は彼らの支配を納得するのであるという。特に財産の権威は裕福な文明社会では極めて大きな要素である。古代遊牧民時代から支配者とは一番裕福な財産を持ち、その家柄が継続したということである。政府は財産を保護する点において、貧者にたいして富者を防衛することと同義となる。決して政府は富者を懲らしめ貧者を救うために作られたのではない。長い間裁判権は政府にとって支出の原因ではなく、むしろ収入源であった。裁判をやるということは主権者(領主、首長)にとって相当の収入源であり、腐敗・不公正や苛政を招いた。公平を期すため、裁判者への贈り物(収入)に見合う報酬を与えかつ裁判は無料で運営しなければならない。しかし司法費は全統治費用の一小部分に過ぎず、法廷手数料でまかなうことが出来るので、裁判所の運営義務が生じ裁判のスピードアップを図ることが出来る。裁判を受ける人が政治・行政の影響を受けないためにも、司法権は行政権から独立していなければならない。

[3節:公共事業及び教育]
主権者の第3の義務は公共事業を起こし、教育という施設(機関)を運営維持することにある。国家防衛や裁判の施設以外にも、政府は商業を助成するためと、人民の教育を振興することが主な目的となる。第3節は3項目からなるが、第1節は「公共事業と公共施設と経費」、第2節は「青少年教育のための施設と経費」、第3節は「あらゆる年齢層の教化する為の施設と経費」である。なお教育については青少年教育のための学校だけを述べ、成人の教化のための宗教施設(英国国教会)の運営は現在にはそぐわない内容なので割愛した。
第1項「社会の商業を助成するための公共事業と公共施設」についてまず考察しよう。橋、道路、運河、港など、国の商業を助成する為に公共事業を起こし維持してゆくのは経費がかかる。この経費を極く小額の通行税から捻出することも出来よう。(日本では自動車重量税、揮発油税、高速道路通行料金、自動車税など決して小額ではないが) 通行税も運送業者が前払いするものの結局は消費者が負担するのである。税を払って便利に運送し運送費を下げることは「上手に払って、上手に得をする」(税務署のキャッチコピー)、税金を徴収する方法としてこれ以上公正な方法はないだろう。商業が必要な場所に施設を建設することは、商業が支払うことが出来る程度に見合ったものにならざるを得ない。(日本の建設省と道路族は道路を作る土建業者の公共工事優先で、タヌキが通るぐらいの需要もない高速道路を作り続けてきたが) 運河の通行税つまり水門税は個人の資産であれば、自分の利益のために運河を整備し補修しておくものである。私有の有料道路も同じことである。ところがこれらの通行税を政府官僚に任せると、自分は何の利害関係もないから、維持管理に不注意となる。そして通行税を国の一般財源に回せという意見があるがこれは適切ではない。国家が緊急の折に通行税が意味もなく値上げされると、わが国の国内商業を助成するどころか国内商業に重荷になってしまうだろう。重量税(もちろん荷物の重量税である)というものは、道路の補修という単一の目的に振り向けられるときこそ至極公平な税であるが、一般財源に回すとき経費節減と称して税だけ取って補修費を削るなら至極理不尽な税に堕落する。フランスのように公道の補修が行政権力の直轄になると弊害のみが目立つようになる。地方行政の管理のもとで地方の収入による方が、国による管理より道路は立派に管理される。たとえばロンドンの道路照明や舗装を、国全体の住民の税金で賄うことは我慢ならないだろう。(首都東京の公共施設を全国の税金で作るならこれは地方収奪といわれる) 

ここまでは商業一般の公共事業と施設を扱ったが、商業の特定部門(東インド会社など植民地政策)を保護するための経費については、その部門に課する特別の税(関税など)でまかなうのが最も合理的である事を述べる。植民地や交易相手国に防壁をもつ居留地を持つか、そうでなければ大使、公使・領事を置く政府費用が必要である。政府が関税管轄権を持ち貿易の保護と関税の徴収を行なうという原則は、特定の商事会社(リスクの負担範囲によって合本会社、制規会社、合名会社)の相手国別の貿易独占によって破られた。排他的特権があってもなお特定商事会社の失敗は大きい。それは当の会社の代理商の浪費や横領が原因で破産した。1600年に設立され、1698年に女王の特許状を得て排他的特権を得た東インド会社はインドの支配者となったが、十分な統治が出来ず、議会は会社の改革に乗り出した。1773年同社の負債は政府貸付でも救済されず、浪費と汚職の口実を作ったに過ぎなかった。同社の管理機構として評議会に補佐される総督の管轄下におかれたが、株主の経営への無関心と取締役の乱脈ぶりは解消されなかった。1770年ごろは「東インド会社論争」のピーク時期でスミスは「国富論」のあちこちで多くのページをこの論争に割いている。しかし結局のところスミスは東インド会社問題に匙を投げる。商事会社が自らの危険負担と費用で遠方の未開地を新しい貿易を開くことに成功したならば、合本会社として法人化して一定期間その貿易の独占権を与えることは不合理ではないが、この独占を認めると、自国民は自由貿易よりずっと高い値段で商品を買わなくてはならないこと、また他の事業体はその事業から締め出されて、その会社の使用人が浪費と腐敗を続けて破産するはめになる欠陥を持つのである。合本会社が排他的特権なしでもやれる事業としては銀行業、保険業、運河事業、水道業など型にはまった画一的な事業だけであるとスミスは結論した。(日本で言えば、独占的国家事業として、国鉄、電信電話通信事業、有料道路事業、郵便貯金保険事業、電力事業などの旧公社事業のことに近い、上下水道事業は地方自治体に任された) 普通の事業に許される一定の利潤率が、特権を与えることで完全に破綻することである。(電力会社の電気料金値上げ問題と原価の恣意的算定が、2012年原発事故を受けた日本で大問題となっている)

第2項「青少年教育のための施設の経費について」においてスミスは、殆ど私立学校論を展開しているようである。青少年教育こそは国家の重要な義務だといいながら、今日の無償義務教育ではなく、有償(授業料をとり)で学校と教師の競争を原理とする私学校万能論である。(アメリカでは私学校が発展していたが、日本では明治以来富国強兵の国民作りのために、ドイツ学制を採用し義務教育でスタートしたことが学制の歴史であった) そういう意味ではスミスの教育制度はアメリカ式に近いかもしれない。教育施設は寄付財産によってまかなえるが、これは教育のためにはよくないという。人は人生の成功を目指して目標を立て努力するものであるが、それが最初から成功や評判と無関係な基金から出ていると対抗と競争心が働かないからである。教師の報酬の大部分が生徒の謝礼ではなく俸給から出ていると、職務精神が利害関心に向かず義務を忘れてしまうからだ。全額俸給で養われる大学教師は自分の義務をなおざりにし、他人がなおざりにしても寛容精神を発揮する。大学を外部から管轄するという制度でも、理事らの無関心と気まぐれから管理が行なわれるとは期待できない。大学卒業の特権が在学したというだけでもらえるとか、教師の評判とは無関係に一定数の学生を入学させるという諸制度は、かならず大学間・教師間の自由競争を阻害する。13歳以上の学生には強制や拘束は殆ど教育的意味を持たないからである。公立学校でも授業料に依存していて特権を持たない場合は、比較的腐敗は少ない。大学よりはるかに腐敗は少ない。古代ギリシャ・ローマ時代には有名な哲学・法学者の私学しか存在しなかったが、中世以降大学は宗教と聖書を読むためのギリシャ語・ラテン語の語学しか教えなかった。スミスが古代教育賞賛論に赴くのは、無制限な競争が、かならず掻き立てずにはやまない対抗心が最高度のレベルに引きかげるという競争万能論を信奉しているからだ。しかし近代社会の分業という単純労働のため庶民は必ず堕落するものであり,、これを防ぐために国が教育を行なう意義があるという。このあたりのスミスの論理は間違っている。国家の関与の意義と分業の弊害と堕落論はこじつけである。近代産業は庶民を白痴にするという暴論には根拠は無い。逆に高度な知識と経験のみが近代産業の発展には欠かせないというべきでそこに教育の意義があるというべきではないだろうか。

第2章 社会の一般収入あるいは公共収入の財源について

統治に必要な経費をまかなうべき収入は、主権者に属する国民の収入とは独立した何らかの基金からか、あるいは国民の収入からの2つの道がある。主権者に属する基金或いは財源とは、簡単に言えば小さな王国であれば王の持つ個人的な資産である土地や資本の事である。小さな共和国でもかなりの収入を商業的利益からあげることもできた。公立銀行の利潤、郵便事業などがあるが、貴族制の行政で注意深く商業を経営することが全く期待できないし、たとえ成功しても君主の浪費はたちまち食いつくし、君主の代理人の横領など腐敗がつきものである。従って大国家の政府で、公共収入の大部分を資本や信用という財源から引き出すことはかってあったためしはない。国民が土地から引き出す収入とは地代ではなく土地の生産物に比例することは明白である。そこで大きな政府は国民の収入を当てにした租税という道をとる。租税は地代、利潤、賃金から支払われるか、これら3つの収入すべてから無差別に(消費税など)支払われるのである。租税には4原則がある。@公平(各人の負担力に比例する) A明確(確定的に決められ、恣意性がないこと) B納税の便宜(納め易い時期、方法で) C徴集費の節約(圧政的でなく、検査・書類の手数の簡略、迷惑をかけないなどである) そして税制は各時代、各国において様々な失敗と経験を経てきたものであり、その経過を[第1項]土地と家屋の賃料にかける税、[第2項]資本の利潤にかける税、[第3項]労働の賃金にかける税、[第4項]無差別にかける税(人頭税、消費税、関税)についてみてゆこう。

[第1項] 土地と家屋の賃料にかける税
地代にかける税(地主が払う税)は不変の基準でかけることは、土地の開発が進むにつれ土地の生産性が上がるり地代が高くなるので地主に有利であるが、政府には不利である。従って地代や耕作性に応じて税を変えることは、税が最終的には租税を支払う収入源に対して公平に課税されるべきであるから、多少の欠点(地租の徴集費が高くなる)を我慢してもこれは適当な税制である。土地の借り手である耕作者にその問いの生産物にかける税は実は最終的には地主に振りかかり、地代にかかる税と同じとなる。そしてこれは欧州では教会に納める1/10税と激しく拮抗するため、農民の取り分が生産量の半分とすると、教会へ1/10、地主へ4/5へ渡ることになる。そこへ農産物税が課せられるとそれは結局地代を減額してもらうしかないのである。
家屋の賃貸料は2つの部分に分けられ、建物料と敷地地代と呼ばれる。両者をはっきりと分別することは難しい。建物料とは資本を建物に運用する同額の利子以上でなければ、賃貸家屋事業から撤退するしかないので、通常の利子率によって規制される。家屋の賃貸料総額から適当な利潤(利子相当以上)を引いた残りは超過賃貸料と呼び敷地地代の事である。この超過賃貸料は借り手が感じる長所(駅から3分とか、環境がいいとか)に対して支払う価格である。従って敷地地代は首都において最も大きい。借り手が払う家屋の賃貸総額に比例する家屋税(今の日本には賃貸料に消費税はあるが家屋賃貸税はない)借り手と地主(賃貸事業者)に様々な配分でかかる。家屋を借りてもそこから生産物は生まないので、これは一種の消費税とも考えられる。家賃は建築費の6.5%か7%という程度であるので純地代総額とそう変わらない。即ちいくら家屋が立派でも交換価値は殆どない。この税は最終的には敷地地代の受取人の負担になるので、人の住んでいない家屋の敷地地代は納税する必要は無い。

[第2項] 資本の利潤にかける税
スミスは資本と労働に対しては富の蓄積が社会発展の第一とする持論からこれらに課税してはいけないという論を展開する。しかし現在企業の利潤に対しては法人所得税、労働者に対しては最も取り易い源泉徴収として給与所得税、県民・市民税などが課せられている。自由主義者スミスの論とは違う。資本から生じる収入のうち,利潤には課税すべきではなく、利子所得も直接の課税対象として適当でないという。現在は利子所得は不労所得であるから高率の課税が当然であると成っている。スミスの論と反対に、発展にアクセルをかけるのではなくブレーキをかけている。だから企業はタックスへブンを求めて、海外の課税天国へ本社を移すようである。企業は税金を売価に上乗せするので結局この課税を支払うのは商品の消費者となる。1国の資本や貨幣の量は土地の広さと同じく、課税の前後でも同じ大きさである。なぜ利子は課税対象として不適切なのかというと、第1に人が所有する資本ストックは出来る限り秘密にしておきたいからである。第2にこれを課税検査員が詮索すると資本は海外へ移動させるだろう。資本が海外へ移動すると土地も労働も必然的に減少するからである。従って資本の収入に対する低率の課税でさえ不確定(ルーズ)であいまいならざるを得なかった。全市民にその財産額を神に誓って宣誓させる義務を負わせることは難儀であった。今日でも小売店主の申告はいつも課税を逃れるために赤字申告となるのは同じ事情による。酒や葡萄酒に特別の税をかけることは各国で試みられたが、いつも資本の利潤にかける税は小売価格に上乗せされ余計に払わされるのは消費者であった。フランスでは農業資本の利潤にかける税として有名な「動産タイユ」があった。最も取り易い隷従的農民の賃借土地への課税はフランス絶対王朝で最大の収入源であったが、結局フランス革命の原因となった。同じような隷従農民への課税として「人頭税」、「僕卑税」などがあった。

[第3項] 労働の賃金にかける税
労働の賃金にかける税は、労働需要と食品価格が変わらぬ限り税額の比率以上に賃金を高め、結局商品原価を高くして消費者か地主が支払うことになる。今日賃金の高い地域の企業は国際競争の圧迫から、よりやすい賃金を求めて海外へ移動する傾向にある。この国内労働需要の減退には為替レートや各種社会保険の負担も絡んでいるので単純ではないが、労働賃金にかける税金は企業の存立を危くするとスミスは警告している。労働問題の根源となる諸事情が複雑に作用するが、スミスは労働問題に詳細に言及することはまれで、これが自由主義者スミスの単純脳の為せる限界であろうか。

[第4項] 無差別にかける税(人頭税、消費税、関税)
いまや歴史的遺跡のような「人頭税」に対する興味はないし、今日的問題として「消費税」を重視したいところであるが、スミスは時代の子として当時の重商主義的「関税」批判に熱弁を振るうのである。重商主義批判は第4篇「経済学の諸体系」で詳しく論じているので、[第4項]無差別税では「消費税」を中心にみてゆこう。人頭税とは英国ウイリアム三世のとき貴族から商人・商店主まで身分に従って賦課された。今でいうと住民税(所得比例)のようなものかもしれない。人頭税は下層階級に課せられるかぎりでは労働の賃金にかかる直接税であって、恣意的で不確定、不公平といった税の不都合な点をすべて備えている悪税である。スミスの時代には便利な課税制度の源泉徴収はなく、全員が申告制度であれば収入に直接比例して課税することは極めて困難であった。そこで編み出されたのが、必需品・贅沢品からなる消費財への支出に応じて間接に課税する「消費税」が生まれた。必需品に対する消費税は直接税と同じく貨幣賃金を引き上げ、貧民の労働再生産を妨げるが贅沢品への課税はこの心配はない。こうした配慮はいまの欧州の消費税が食品への課税を少なくすることに引き継がれている。日本では消費税は無差別に課税し、かつ5%から10%への引き上げが図られている(2012年現在)。煙草税の引き上げで喫煙者が随分減ったのは保健上喜ばしいことであるが、食料品など生活必需品のレベルを下げることは難しい。故池田首相は「貧乏人は麦飯を食え」といったかどうかは真偽のほどは知らないが、消費税アップ分だけ生活レベルを下げろということは困難である。英国での必需品課税は、塩、なめし皮、石鹸、石炭に限られたが、他の諸国ではパン、肉にも課税されたという。

消費税の取り立ては消費者か業者かが支払うことになる。日本の消費税は何重にも税を払う事を避けるという理由で、中間業者はすべて先送りして消費者だけが支払うというきわめて分り易い構造である。当時の英国では消費者だけが一定の品物の消費許可証とひきかえに年々一定の金額を納める方式をとった。国民を上層階級と中流以下の階級に分ければ、中流以下の階級の消費全体は量において上層階級のそれを圧倒的に上回る。つまり社会の富は資本の殆どが生産的労働者の賃金として配分されているのである。しかし忘れてならないことは、いやしくも税をかけるべきは下層諸階級の贅沢な支出にであって、必要な支出にではない。関税と内国消費税の大分文は租税の原則のうち、@公平(各人の負担力に比例する) A明確(確定的に決められ、恣意性がないこと) B納税の便宜(納め易い時期、方法で)の3原則にはよくかなうが、第4の原則C徴集費の節約には合致しない。なぜならその収入額に比例した徴集費用が必要だという点である。1775年で英国の内国消費税の徴収に5%の経費がかかった。関税の徴収には関税収入の2割から3割もかかった。関税行政の悪習がはびこっているせいである。関税は益少なくして特定産業の阻害や密輸などの害が大きいようだ。英国の消費税は完璧ではないにしろうまくいっている方で、近隣諸国の不都合は甚だしかった。消費税は生産者が負担すべきという考えで多重課税となったり、消費税請負制度の弊害は著しく過酷な取立てと腐敗を生んだ。(日本の自動車路上駐車違反の民間委託と同じ構造である) 公的制度の整備が不十分な時代には請負制度が資金調達の手段となってしまった。公共の収入つまり租税の大半を請負制にしていた国もあった。最も過酷な形態は一定の請負料をとって取立てを請け負わせる場合だけでなく、この徴税請負人が税のかかる商品の独占権を併せ持つこともあった。請負料の利潤と独占者利潤を国民から取り立てることが出来た。いまでいえばサラ金のとりたてを取り立て屋(暴力団)に請け負わせるようなものである。スミスはフランスの徴税制度の8つの税の取り立て請負制度を批判して、抜本的改革の必要性を指摘し、オランダの重税を批判しているが、それは省略する。

第3章 公債について

文明国では商品が満ち溢れ、金が余ることはなくなった。政府としても通常の経費は収入を超え勝ちで蓄財の余地はなく、戦争となると借入金に頼らざるを得なくなった。平時に節約しておかなければ、平常の数倍の支出が必要な戦時には借金だけに頼らざるを得ない。スミスは政府の公債発行の原因を戦争経費捻出だけに求めているが、今の米国の一千兆円をこす膨大な国債発行、一千兆円にならんとする日本の国債発行の原因は何に求めるべきなのだろうか。米国は世界の覇者として戦争支出が原因だとしても頷けるが、日本は戦後70年近く戦争はしたことはないし、膨大な防衛費(軍事費)に苦しんでいるようには見えない。社会福祉負担のせいのようにいう人もいるが、それは原因ではなく結果に過ぎないようにも見える。そこでスミスの公債論を拝聴してみよう。スミスは本章を項に分けないで一気に書き下している。なぜ政府がいとも簡単に借金できるかというと、社会の富を生み出した商工業の発達が、同時に貸付能力と意思を持った商人や企業を生み出したからである。明治時代日本の富国強兵が道半ばにあるとき、日露戦争をする為の金がなくて日英同盟を頼って英国に借金をしたことは、当時の日本社会に貸付能力がなかったためであった。巨額の貨幣を政府に貸し付ける力を持つ一群の人々が大勢いることが必要条件であった。資本の投資先として「政府の正義」も対象となるのである。政府が発行する債務証書はそれよりも高い値段で市場で売れる。政府に金を貸しては金儲けが出来て、営業資本を増やすのである。新規国債の第1次募集には、際だった資産家(厚生年金、郵貯、健康保険、大手銀行や証券)は進んで起債に応じるものなのである。いつも国債は完売される。ギリシャ国債のような高い利子は必要ない、これは名誉であり恩恵なのだと感じるようだ。

どの国も初めは特定財源を引き当てにすることなしに(個人信用で)借金を始めるが、後には財源引き当て(手形、国庫証券)で借りざるを得なくなる。ヨーロッパ諸国を破滅させる膨大な負債の累積してゆく過程はどこも同じである。英国は「流動債」(一時借入金)はいつも個人信用で借りてきた。特定の財源を引き当てる場合、短期の先借りか永久公債への借り換えによる方法があるが、先借りでも期間の延長が行われた。英国のウイリアム三世の時1697年「第1次総抵当または基金」を発行し、1711年までに第6次まで借り替えを行い、1715年「総合基金」、1717年「一般基金」と急場をしのぐため債務の借り換えを行なった。こうしていつの日にか公共の借金を誰か子孫が払ってくれることに望みを繋いできた。18世紀から市場利子率が下がったので更に借金がしやすくなり、「減債基金」が設けられた。20世紀末にリスクの分散化のための債券の証券化という手法が生み出され金融工学と呼ばれたが、この膨大な国債の先送り策に代わって、「国債工学」とかいう手法が生まれないものかという淡い希望を持つ。冗談はさて置き英国の国債の先送り策を見て行こう。国債の償還のために減償基金が設けられたはずなのに、これが新たな起債を生むという果てしない借金の連鎖にはまったようだ。先借りと永久公債への借り換えがそれである。その中間に有期年金による借り入れと終身年金による借り入れがある。公債とくに永久年金公債への借り換えの制度が出来ると、国民は戦争の負担に鈍感となり、政府も減債基金を濫用して臨時費(たとえば大震災復旧費)まで国債でまかなおうとした。政府と政治家は増税によって収入を増やす努力よりは借り入れ国債でやる方が国民の抵抗が少ないとみて、なんでも国債のほうへ流れやすいものだ。こうして英国の負債は1688年から1777年までに、2151万ポンドの公債が1億4000万ポンドに膨れ上がった。公債は資本だという考えは誤りで、戦争なんかに注ぎ込む資本は何の役にも立たないし富を生産するものでは決してない。公債は新たな資本ではなくある用途から引き上げて他の用途に振り向けられた資本に過ぎない。では戦争目的ではない公債発行(日本)は資本かというと、すでに40兆円程度の税収入の日本の富ですでに20年以上先の富を先食いしている状態は決して正常ではない。これでもってスミス先生の「国富論」の勉強は一応終了とするが、現在の経済の疑問が氷解したというより、更に疑問が広がったという感が強い。


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