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アダム・スミス著/水田洋訳 「道徳感情論」

  岩波文庫 上/下 (2003年2月)

自由平等な利己的個人の平和的共存の哲学
ー私の行動には公平な観察者の目が光っているー

本書 アダム・スミス著「道徳感情論」という分厚い道徳哲学の書を読む気になったのは、堂目卓生著 「アダム・スミス」(中公新書 2008年3月)がスミスの著作「道徳感情論」と「国富論」の紹介をしていたことによる。アダム・スミスという人は今日では古典経済学の最初の人で、あの有名な市場経済の「見えざる手」を云い出した人である。当時のヨーロッパは革命と啓蒙思想と重商主義による貿易と植民地進出の混沌とした変革期にあった。スミスは経済学者かと思いがちであるが、実は倫理学とか道徳哲学の教授であった。「道徳感情論」から「国富論」が生まれたのである。アダムスミスの生涯をみると、アダム・スミス(1723年 - 1790年)は、イギリスの経済学者・哲学者。主著は『国富論』、「経済学の父」と呼ばれる。グラスゴー大学で哲学者フランシス・ハチソンの下で道徳哲学を学び、1740年にオックスフォード大学に入学。1748年からエディンバラで修辞学や純文学を教えはじめ、1750年ごろ、哲学者ヒュームと出会う。その後、1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授に就任する。1759年にはグラスゴー大学での講義録『道徳情操論』(道徳感情論)を発表し、名声を確立した。1763年には教授職を辞し、家庭教師としてフランスに渡り、そのころパリのイギリス大使館秘書を務めていたヒュームの紹介でチュルゴーやダランベール、ケネーをはじめとするフランス知識人と親交を結んだ。スミスは1766年にスコットランドに戻り、1776年3月9日に出版されることになる『国富論』の執筆にとりかかる。アメリカ独立の年に発表された『国富論』はアダム・スミスに絶大な名誉をもたらし、イギリス政府はスミスの名誉職就任を打診したが、スミスは父と同じ税関吏の職を望み、1778年にエディンバラの関税委員に任命された。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任し、1790年に死亡した。

アダム・スミスは生涯二つの著作だけを残した。「道徳感情論」(1759)と「国富論」(1776)である。「道徳感情論」を「国富論」の思想的基礎として重視する解釈が主流になりつつあるという。政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することによって経済成長率を高め、豊で強い国を作るべきだという経済学の祖アダム・スミスの「国富論」はこのようなメッセージを持つと理解されてきた。しかしスミスは無条件に自由放任主義をそういったのだろうか。前著「道徳感情論」をあわせ読むと、一貫して流れる、「社会の秩序と繁栄に関する一つの思想体系」を提示しているようである。。「道徳感情論」では社会の秩序と繁栄を導く人間本性に関する考察、「国富論」では社会の繁栄を促進させる一般原理、重商主義と植民地主義の歴史、今英国がなすべき事が検討されている。「国富論」は「道徳感情論」の考察に基づいて展開されている事が明白である。堂目卓生著 「アダム・スミス」から「道徳感情論」をまとめておこう。本書の意義がよく見えるように述べられている。

1、秩序を導く人間本性
 「道徳感情論]の主な目的は、社会秩序を導く人間本性は何かを明らかにすることである。私達は、自分の感情や行為が他人の目に晒される事を意識し、他人から是認されたい、或いは他人から否認されたくないと願うようになる。スミスはこの願望は人類共通のものであり、しかも最大級の重要性を持つものだと考える。経験によってすべての感情、行為が、すべての同朋の同意・是認を得られるものではないことを知る。そこで経験的に自分の中に公平な観察者を形成し、その是認・否定にしたがって自分の感情や行為を判断するようになる。同時に他人の感情・行為も判断する。人間によるにbb玄に対する行為について、賞賛や非難は行為の動機と結果の両方を考慮してなされる。我々は動機よりも結果に眼を奪われがちで、その意図しない結果は偶然に影響される事がある。私達の賞賛と非難は偶然によって不規則であるという。世間が結果に影響されて賞賛や非難の程度を変えることは、社会の利益を促進し、過失による損害を減少させるとともに、個人の心の自由を保障するのである。意図しない結果を恨んで「神」にすがったり、「良心の呵責」に苦しんだり、「自己欺瞞」でごまかしたり、「濡れ衣」に苦しめられたりする。基本的に胸中の公平な観察者の判断に従う人を「賢人」といい、常に世間の評価を気にする人を「弱い人」と呼んだ。適切であるかどうかの一般的諸規則は他人との交際によって、そして非難への恐怖と賞賛への願望という感情によって形成されるのである。自分の行為の基準としての一般的諸規則を考慮しなければならないと思う感覚を「義務の感覚」という。この「義務の感覚によって、利己心や自愛心を制御するのである。「胸中の公平な観察者」はこの一般的諸規則への違反を自己非難の責め苦によって厳しく処罰することで、心の平静が得られるのである。この一般的規則を「正義」という。スミスは社会を支える土台は正義であって慈恵ではないと考える。私達がこのような動機から法を定め、それを遵守することによって、平和で安全な生活を営む事ができるのである。

2、繁栄を導く人間本性
 私たちは他人といっしょに悲しむ事より、他人といっしょに喜ぶ事を好む。富は人間を喜ばせ、貧困は人間を悲しませる。今の脳科学でいうところの「報酬回路」の刺戟を好むのである。我々は自分の境遇を改善したいと望むのは、同感と好意と明確な是認とをもって注目されることが全目的である。人間が「社会的動物」といわれ食欲、性欲、社会欲という3つの欲望を持つといわれことにあてはまる。社会秩序の基礎と同様、野心と競争の起源は、他人の目を意識するという人間本性にある。人の幸福とは、心の平静と享楽にある。心の平静のためには「健康で、負債がなく、良心にやましいことが無い」ことが必要である。これを「最低水準の富」という。「賢人」にとって最低水準の富さえあればそれ以上の富は自分の幸福に何の影響ももたらさない。一方「弱い人」は最低水準の富を得た後も、富の増加は幸福を増加させると信じている。経済の発展は最低水準以下の生活「貧困」にいる人の数を減らす事である。しかし「弱い人」の心情は自己欺瞞ではあるが、経済を発展させ社会を文明化させ、他人をも豊かにさせるのである。自分の生活必需品以上の富を生産する事で幸福が平等に分配され、社会は繁栄する。富と地位に対する野心は,社会の繁栄を押し進める一方、社会の秩序を乱す危険性がある。下流と中流の人々は「財産への道」を進む事によって、「徳への道」も身につけることができる。これを「衣食足りて、礼節を知る」という。ところが「徳への道」を忘れ「蓄財」にのみ走ると、それを獲得した手段や過去の犯罪をも隠蔽する腐敗の道を歩む。「フェアプレイ」の侵犯である。

3、国際秩序の可能性
 公平な観察者の判断基準は、社会の慣習、流行の影響を受ける。趣味の対象になる物に対する社会的な評価の基準、言い換えれば「文化」は,社会と時代によって変化するということである。しかし趣味ではなく正義に関しては、慣習や流行は時として特定の性格や行為に対する評価基準を歪ませることはあっても、一般的な評価基準はそう変わらない。それゆえ、諸社会も各社会の慣習や文化の違いを乗越え道徳的基準を共有する事は可能であるとスミスは考える。これが国際法または「万民法」の基礎を与える。しかし人間は全人類の幸福を願い、自分の幸福より優先させることは出来ないと考えた。自分、自分の家族、友人、知り合いの順で幸福を願う。このような序列を「愛着」といい「慣行的同感」という。この愛着が「祖国への愛」の基礎となっている。国家の繁栄と栄光は、我々自身にある種の名誉をもたらすように感じるのである。スミスによれば祖国に対する愛は、近隣諸国民に対する偏見を生み、近隣祖国民に対する嫉妬、猜疑、憎悪を増幅させる。スミスにとって理想的な国際法、「万民法」は「自然法」に基づいて形成されるべきであるとした。スミスは「法と統治の一般原理」を予定していたが、これははたされないまま生涯を終えた。

第1部 行為の適合性

本書の訳語はどうもこなれていないようだ。哲学の言葉だから難しいのは当たり前という一時代前の考えなら仕方ないが、やはりこんな言葉使いでは内容の理解がスムーズにゆかない。そこで自分なりに読み替えていく必要がある。それに各版の対照がわずらわしい。本書は1759年初判によると宣言しているだから、各版の変更点や書き換えた章を入れる必要は無いのではないか。巻末にまとめて付録として入れるほうがすっきりする。いろいろ問題を言い出してもどうしょうもないので、本書を頭からかじってゆこう。第1部の内容は以下の篇から成り立っている。
第1篇:同感について
第2編:他の人々の諸情念と諸意向を是認または否認する際の感情について
第3編:適合性を成り立たせる所感情の程度について
第4篇:繁栄が是認されやすい理由について
(第1篇) 有名な文句で本書第1部第1篇は始まる。「人間がどんなに利己的なものと想定されるにしても、他人の運不運に関心を寄せ、同情を寄せる情動をもつ」という。我々は絶対孤立無縁ではないので、他人の心については想像力による感受性を持っている。社会とは利己的な個と個のつなぎ目で起きる交感作用である。最近の脳科学では「ミラー効果」と解釈されている。他人の悲惨さ・喜びに対する我々の同胞感情の源である。傍観者といえど受難者の立場をはっきり感じることが出来るのである。幸運・不運という一般的観念はそれに見舞われた人に対する関心(興味)をつくり、困苦と繁栄の原因について他人の境遇を調べようとする好奇心も作るのである。しかし怒りを挑発されると相手には同感は発生しない。人間本性における最も重要な原理は死への恐怖であり、それが人間の不正に対する大きな抑制力となる。

(第2篇) 人間は彼自身の弱さと自分が他の人の援助を必要とする事を意識しているので、他人が自分の情念を受け入れてくれることや同感・賛辞を観察すれば、こよなく喜ぶのである。人は自分の快適の情念より不快な情念のほうを一層友人に伝達したがるものであり、人は他人の同感によって自分達の困苦が軽減されるように感じるのである。不運な人に対する最も残酷な侮辱は、彼らの災難を軽視するように装うことである。不安を分かちあえない関係は、我々を傷つける。喜びの感情は快楽である。悲嘆と憤慨という苦痛な情動は、同感の慰めによっていやされることが必要である。我々は他人の感情の適・不適を自身の感情に対応するか一致しないかによって判定している。逆も同じである。我々は他人の判断を何か有用なものとしてではなく、正しいものとして、真実と一致するものとして是認するのである。観察者と当事者は同じ程度の情念を抱くわけではないが、共感できる場合はできるかぎり相手の立場に身をおいて考える。観察者の意向が彼自身のそれと完全に一致するわけでないが、協和する事を切望するのである。従って相手にわかってもらうためには、調和し協和するレベルまで自身の情動を引き下げなければならない。社交と交際は、精神の平衡を失った場合の救済手段である。友達をなくしてはならない。当事者の感情には入りこもうとする観察者の努力と、観察者がついてこれる程度に引き下げようとする当事者の努力の末に二人のコミュニケーションがなりたつのである。我々の利己主義的な意向を抑制し、仁愛的な意向を優先することで人間本性が完成して、人類の調和が生まれる。もっとも適当な行動をとるには、ありふれた感受性と自己規制とがあればいい。

(第3篇) 情念の程度において高すぎても低すぎても我々は入り込むことが出来ない。中庸が必要である。礼儀正さと不謹慎の程度によって同感のレベルが異なるのである。食欲、性欲、苦痛、美醜など肉体の状況から生じる情念をいくらでも強く表現するのは、芝居以外の場では不謹慎である。肉体の苦痛については同感は僅かしか生じないので、耐え忍ぶことが正しい解答の基礎となる。忍耐から驚嘆の感情を呼び起こす。想像力から引き出される情念は自然なもの(恋)だとしても、同感は呼ばない。なぜなら我々はそれに入り込むことが出来ないからである。他人の恋そのものは犬も食わないが、不安、恥じらい、恐怖など2次的感情は同感されうる。愛情、憎悪、憤慨などは当事者のものである。意気地なし、無関心、不寛容は卑劣とみなされ怒りを覚えるものである。悪徳の直接的な効果はあまりにも破壊的であり、想像力によってたどることも難しい。調子外れの甲高い怒りの声は我々に不安・嫌悪を抱かせるものを持っている。音楽的な調和情念は快適であるが、不協和音は苛立たせる。それに対して寛容、人間愛、親切、同乗、尊敬など社会的情念で仁愛的な意向は、利害関係のない観察者を喜ばせる。そして最後の情念として私的な運不運を理由とする悲嘆と歓喜という利己的な情念がある。成り上がりは一般に不快で傲慢で嫉妬を呼ぶ。小さな歓喜は同感を呼ぶ。小さな苦痛は何の同感もかきたてないが、深い苦難は最大の同感をよ呼び起こす。

(第4篇) 悲哀に対しては人の注目を引くが、我々は歓喜に対して真の同感を持ち、喜びを共にすることことは人間本性の第一原理である。他人の悲哀に対しては同感を押さえ込めておこうと努力するが、歓喜に対しては無条件に賛同するのである。笑うことより泣く事を恥じる本性があるからだ。悲哀と落胆に沈んでいる人は、ある程度軽蔑すべき者のように見なす。ここに本書の有名な言葉があり経済学との関連で引用されることが多い。「人類が悲哀に対してよりも歓喜に対して全面的に同感する傾向を持つため、我々は自分の福裕を見せびらかし、貧困を隠すのである」、「安楽または喜びではなく虚栄が、我々の関心を引くのである」 虚栄を張れず少しも人の注意を引けないと感じることは、必然的に人間本性の快適な希望をくだき疎外感に苛まれる。裕福な人々及び有力な人々が持つ、完全で幸福な状態という幻想の上に、諸身分の区別や社会秩序が築かれる。活気と野心を持った人が最大の称賛を得るには、努力と現状を切り抜けることが必要であるとされる。勤勉と能力が最大の武器である。そして彼らは人の注目と感嘆を彼自身にひきつけ、従属者からなる感嘆する群衆に取り囲まれる事を願うのである。ストア派哲学は我々の本源的欲求を健康、力、安楽、良心の人間資質の完全性に向かわせ、財産、権力、権威を追及する事を人生の最大目的とした。ローマのマルクス・アウレニウス皇帝の理想であった。

第2部 報償と処罰の対象

第2部は以下の篇から成り立っている。
第1篇:良いことと悪いことの感覚について
第2篇:正義と慈恵について
第3篇:良いことと悪いことに与える偶然性の影響
(第1篇) 人間の行為と行動に帰せられる資質には、行為の適合性と程度とは別に、報償に価する資質と処罰に価する資質がある。報償を与える感情は感謝であり、処罰を与える感情は憤慨である。憤慨は憎悪と嫌悪とはまったく別の感情である。感謝と憤慨の正当な対象とは、すべての利害関係のない傍観者がついてゆけるとき正当と思われ是認されるのである。ある人が他の人によって抑圧され侵害されるのを我々が見るとき、受難者の困苦に対して感じる同感とは加害者への憤慨となる。我々が行為者の意向に同感できなければ、つねに行為者の動機に適当性がないと感じ、恩恵を受けても感謝の念には入り込めない。逆に行為者の動機が是認されるものであるなら、受難者の憤慨には同感がもてないものである。行為が価値あるもの(良いこと)と思う感覚には、行為者の感情への同感か恩恵を受ける人の感謝への間接的同感がなければならない。

(第2篇) 正当な動機から出て慈恵的な傾向を持つ行為だけが、報償に価する感謝の感情を引き起こす。不当な動機から出て有害な傾向を持つ行為だけが処罰に価する憤慨の感情を引き起こす。中立的な観察者は感謝を欠いた利己的な同胞感情を拒否し否認するが、これらは憎悪の対象であるが処罰の対象ではない。憤慨は正義を保護するもので危害を払いのけ、すでになされたものに報復(処罰)することである。慈恵的な徳の欠如は失望させるが危害を加えるものではない。これに対して正義の侵犯は現実的で積極的な危害である。侵害から自己を防衛すること、なされた侵害への処罰を要求する権利を有すると見なされる。文明諸国民の法律や為政者は不正を抑制し公安を維持する権力を信託されている。各人が他の人の幸福よりも自分自身の幸福を優先させることは中立的な観察者はついてゆけない。自分は他人より勝っているわけではなく、大衆の中のひとりにすぎないことを認めるべきである。富と名誉と出世を目指す競争において、できるかぎりの力を尽くして緊張することは是認されるが、競争相手を投げ倒すことはフェアプレーの侵犯である。謀殺・所有権の蹂躙・窃盗らは大きな犯罪である。それらの侵犯は罰を持って酬いられる。人間社会の全成員は相互の援助を必要とし、同様に相互の侵害にさらされている。人間関係は愛情と愛着がなくても損得勘定だけで交際することもありえるのだ。

(第3篇) ある行為は意図(意向)、行為、そして帰結の3段で見られる。そして行為と帰結は非難や賞賛の基礎ではない。なぜなら行為者ではなく偶然性に依存するからである。明確な是認・否認は心の意図に、企画の適合性や慈恵性、有害性に帰属する。ある事を企てても天然自然の条件で阻まれることもある。状況によって行為が大きく制約されこともある。殺人を意図しても結果は未遂、傷害だけで終ることもある。行為の帰結はすべて偶然が支配する。逆に意図しなくとも交通事故のように深刻な結果を生む場合非難され処罰される。中立的な観察者の感覚は、行為者の意図を超え帰結によって軽減されたり増幅されたりするのである。政治家のように同じように意図し努力しても結果が成功しなかった場合、彼らに対する感謝の感情は少なくなるのが人情である(政治家の結果責任)。ある人の怠慢が他の人の意図しない損害を引き起こした場合、受難者の憤慨に同情が集まり、加害者に想定以上の処罰が与えられる事を是認する(不作為の罪)ことがある。行為における注意の欠如も賠償責任を負わされる。人々の弱さ、愚かさに対しても是正や向上の方向を与えているである。

第3部 判断の基礎と義務の感覚

第3部は以下の篇から成り立っている。
第1篇:賞賛または非難される意識について
第2編:我々の判断が他人の判断に影響される一般的諸規則について
第3編:良俗の一般的諸規則について
第4篇:義務の感覚が我々の行動の唯一の原理であることについて
(第1篇) 自分自身の道徳感情の起源は、我々がともに暮らしている人々の明確な是認と尊敬を得たいという欲望が働くことによる。虚栄と嘘によって称賛をえたいだけでなく、称賛に値する事をしたという幸福感を喜ぶのである。中立的な観察者を心に描いて、彼に影響を与えるだろうすべての動機に思いを及ぼし、自分の行動や判断の基礎とするのである。

(第2篇) われわれは過去の行動を中立的な観察者がするだろうと我々が想像するように検討する。つまり心の中に鏡を持つのである。社会の中では他の人の顔つきと態度が自分の感情の中に入りこみ、同意するかそれを否定するのである。ここにおいて自分ははじめて自分自身の情念の適合性や精神の美醜を知るのだ。 我々は他人を見る眼で自分を見なければならない。これが公平性と中立性を行使する起源となる。人は同胞や中立的観察者(それを神、道徳的存在、最高存在といっていい)に対して責任を有する。最高存在が自分の行動を裁判(最後の審判)するだろうばあいの諸規則を形成するのである。これが道徳的感情の起源であり、唯一神の宗教の起源である。何がなされたり回避されたりするのにふさわしい、ある一般的規則(良俗)を形成する。経験から知るのである。

(第3篇) 行動についての一般的諸規則への考慮は「義務の感覚」と呼ばれる。人類のうち多くの人が行為を方向付ける唯一の原理である。そして我々の行為の動機は、義務に関して既成の規則への尊敬、あらゆる点で感謝をえる方向で行為する意欲の事ではないだろうか。良俗の重要な規則は最高存在の命であり法であり、究極的には従う人には報償を与え、彼らの義務に逸脱すれば処罰を与えるというものだ。宗教は良俗に聖なる装いを与えた。人間本性のどの部分を放任し抑制すべきかを、同じ規則で決定することが我々の道徳的能力である。最高存在が我々の内部に代理人をおいたということが出来る。自由な人間の行為を方向つけるための諸規則である。人類の幸福を増進させるために効果的な手段を追求する最高存在の意志であろうか。自由平等な利己的個人がある程度利己的に振舞っても、この規則によって矯正され訂正されて人類の幸福に貢献できる力学である。これを「神の見えざる手」といってもいい。

(第4篇) 宗教は徳の実行に対して大変強い動機を提供し、悪徳の誘惑から防御するので、人々は宗教的原理だけで生きてゆかれると教えられてきた。我々の行為の唯一の原理と動機は、神が我々にそれを遂行せよと命令したという感覚である。宗教が経済的行為に与えた影響は、マックス・ヴェーバー著 大塚久雄訳 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫 1989年改訳)にも述べられている。東洋人の多神教では理解できない最後の審判の恐怖に基づいている。私的利害関心の対象の追求は対象自体への情念からではなく、そのような行動を規定する一般的な規則への考慮から出てくる。金1ペンスが重要なのではなく、倹約精励克己の生活態度が重要なのである。これらの対象をある程度の熱心さで持って追求しないような人間は弱い人間であるとみなされる。野心を持って活動する人は尊敬される。野心が慎重と正義の範囲に留まっている場合は世間で賞賛されるのが資本主義であり、単なる守銭奴とは違うのである。

第4部 是認と効用

第4部は以下の篇から成り立っている。
第1篇:効用がある技術の美しさについて
第2篇:効用が人々の性格と行動にあたえる美しさについて
(第1篇) 効用が美の主要な源泉(本性)のひとつである。日常工芸品の「美と用の一致」とはいわゆる民芸運動のスローガンでもあった。効用とは用いる人の快楽と便宜を促進することである。ところが効用そのものよりもそれを達成するための手段を尊重するようになる。例えば「根付け」のような帯に引っ掛けておくための小物に過ぎないものに、妙にこり始めて技の粋を極めようとする態度である。そして日常品のつまらないものだけでなく、公私の生活において真剣に追求する密かな動機となる。人は自分の境遇の幸福と平静を達成するために、富と地位の追求に自己を捧げるのである。そのため勤勉さと才能を発揮し精神の不安も克服して、手段にすぎない富と地位の獲得に精進するするのである。富と地位の素晴らしさは、所持する物より虚栄の種としてこれに勝るものは無い。それらの手段を意図された目的に対して、独創と技巧をもって成し遂げることが、人を喜ばせる。年をとって死期が近づいて、はじめてその追求の空しさに愕然とするのであるが、地位と富の追及はそれ自体が目的となって、何か偉大で高貴なものとしてその人の人生を大いに活気つかせ、想像力をかきたてるのである。この「見えない手」に導かれて、社会の利益を押し進め富の増殖のための手段を提供し、そして他の人も労働を介して分配を享受するのである。このスミスの論理はルソーの「人間不平等起源論」に通じるものがある。生活行政の推進、商工業の振興は統治機構の一部分をなし、高貴な目的を構成し、調和的に容易に動くようになる。

(第2篇) 人々の性格は、技術の工夫や国内統治機関と同様に、個人と社会の双方の幸福を促進し適合させるうえで重要な要素となる。慎慮、公正、行動力、意思堅持、まじめな性格は繁栄と満足の要である。性急、怠惰、傲慢、消極性、遊蕩的性格は破滅のもとである。この篇では崇高な人間の資質(英知と徳)を検討するが、それはビジネスマンの期待される人間像に繋がっている。それは統治の要であると云う点には教育の重要性を示唆している。理性、理解力、自己規制、慎慮、節約、勤勉、精励、人間愛、正義、寛容、公共精神などの資質が是認される。

第5部 道徳的是認・否認感情にあたえる慣習と流行の影響

第5部は以下の篇から成り立っている。
第1篇:美しさ・みにくさの感情に与える慣習と流行の影響について
第2篇:道徳的諸感情に与える慣習と流行の影響について
(第1篇) 道徳感情は多くの点で不規則で一致しない意見が多いが、これは慣習と流行が我々の判断を左右しているからだ。慣習とは想像力の怠慢からくる一方から他方への流れやすさである。観念の慣行的な用い方である。流行は形式美にみられる時代的偏愛のことである。建築、学芸などで善く見られる現象である。慣習と流行が支配力を行使するのは学芸や自然対象物だけでなく、我々の判断に対して同じ流儀で影響を与える。形と色に関する美の本性は想像力に刻印していた慣習に一致することにあると云う意見はかなり正しい。度肝を抜くようなはったりは美とは見なされない。

(第2篇) 道徳的感情が行動の美しさに関係するが、美の慣習と流行の影響はかなり少ないようである。想像力については微妙で繊細であるので慣習と教育によって容易に変化させられるが、明確な道徳的是認と否認の感情は人間本性にかかわることであり、慣習と流行の多少の影響はあるだろうが逸脱は少ない。専門的職業(医者、職人、裁判官など)によって多彩な性格と生活態度を形成するが、それをすべて慣習とはいいがたいものがありむしろ適宜性というべきかもしれない。そういう風に振舞うことが適しており、それが慣行的になるということである。様々な時代と国における境遇によって生活する人々に違った性格を与えることがある。文明化した諸国民の間には、人間愛に基づく徳が養成され、未開人には自己否定と情念の抑制が求められる。西洋人は文明人的傾向があるとするなら、東アジア人は未開人的傾向がある。中東紛争における自爆テロやベトナム戦争におけるベトコンの自己犠牲精神は貴族主義に通じるものがあるが、やはりこれは未開人の自己否定というべきである。北朝鮮の先軍思想、日本人の特攻精神もやはり未開人の特性である。未開人にたいして彼らの国の慣習と教育が要求するこの英雄的で征服不能な不動性は、文明社会で生活するように育てられた人々には理解不能である。未開発国民は情念の発現を抑え、英雄的滅私奉公を義務付けられているので、必然的に虚偽と偽装の慣行が横行する。

第6部 道徳哲学の諸体系

第6部は以下の篇から成り立っている。
第1篇:道徳的諸感情の理論について
第2篇:徳の本性について
第3篇:明確な是認の原理について
第4篇:良俗の様々な諸規則について
(第1篇) 第6部は道徳哲学の理論をまとめることである。先ずは良俗(徳)の原理を取り扱うに当たって、第1に徳とは何かということ、第2に正しいという是認と批難し拒否する否認はどこから由来するのかを検討しなければならない。第1の問題では徳とは仁愛にあるのか、適合的に行為することにあるのかを検討し、第2の問題では、自分の真実で確固たる幸福を大事にする自愛心なのか、真実と虚偽を識別する理性によってであるか、道徳感覚という知覚力によってであるかを検討する。

(第2篇) 卓越し称賛に値する性格を構成する精神の調子を徳の本性という。徳の本性を説明する学説には3つの意見があった。第1は理性と中庸を重視する適宜性、第2は利己的な意向の統治である慎慮性、第3は利害関心のない仁愛性である。徳は適宜性にあるとする学説は、プラトン、アリストテレス、ゼノンに代表され、徳は行動の適宜性、即ち我々の行為のもとになる意向がかきたてる対象への適宜性に存する。プラトンは判断する能力(理性)を重視しそれを全体の統治原理とみなした。統治原理の中に慎慮という科学的な識別能力をおき、度量という徳、自制という徳、正義という徳を4つの基本的徳とした。アリストテレスは正しい理性にしたがった意向の慣行的な中庸性を重視した。真理は真ん中にある。ストア派哲学のゼノンによれば自然または自然の創造者が我々の行動のために定めた法と指示に従うことで、行動の完全な正さを維持できるという。アリストテレス学派は人間の本性の弱さを認めるが、ストア派は弱さを排し完璧な精神の不動性を要求した。ストア派の学説はマルクス・アウレーリウス著「自省録」(岩波文庫)に詳しい。
徳は慎慮性にあると云う学説はエピクロスの体系である。エピクロスによると肉体的な快楽と苦痛が自然の欲求と嫌悪の唯一の対象である。肉体の安楽と精神の安定または平静のなかに、人間性の最も完全な状態、完全な幸福が存在する。この自然的欲求を達成することが徳の第1目標でなければならない。慎慮という徳、節制という徳、剛毅、正義は望ましいというより必要な徳である。エピクロス学説は徳が自然的欲求を獲得するための適切なやり方で行為するという点では、プラトン、アリストテレス、ゼノンらと矛盾するわけではない。
徳は仁愛にあると云う学説は、後期プラトン派の主張である。神の行動を我々が模倣できるのは、慈恵と愛の行動によってだけであり、人間精神の完全性と徳のすべては神聖な完全性の参加にあると云う。徳が仁愛にあると云うことは、人間本性において多くの支持を得ている。儒学の「仁」も思いやりにある。自分達自身を多数のうちのひとつに過ぎず、その繁栄は全体の繁栄と両立するかそれに貢献する限度を超えて追及してはならないという。自愛心はけっして徳ではないとする。この説は高邁な徳の高さを称賛するが、倹約、勤勉などの徳と私的な幸福と利害関係については全く説明できない。

(第3篇) 正・邪、是認・否認、名誉・批難、報償・処罰という精神の力に関する問題である。この是認の原理に対して、自愛心、理性、感情という説明が与えられてきた。明確な是認の原理を自愛心から引き出す説は様々であるが、ホッブスは「リヴァイサン」において、人々は社会の援助がなければ生活できないので、それらを支持し福祉を求める傾向はすべて、彼自身の利益に合致しているという。「社会契約による絶対主権の成立」という論理で近代国家の成立を論証した。是認と否認を社会秩序への考慮から引き出すかぎりそれは功利主義である。人々の良心を市民的権力に服従させることがホッブスの理論の要である。逆に言えば権威をなくした社会は崩壊するのである。それに対してカドワースは精神がすべての法に先行し、真偽の違いを理性から引き出した。理性が明確な是認・否認の本源的原理であるとした。経験からの帰納によってそれらの一般的規則を樹立するのである。しかし理性だけでは感情の不安定を説明できない。感情を明確な是認の原理とする説について、ハチスンはこういう。明確な是認の原理は、ある特殊な本性をもったひとつの感情のうえに、そしてある行為・意向を見た精神のひとつの知覚力の上に築かれるという。これを「道徳感覚」と呼ぶ。同感はこの能力に完全に依存している。

(第4篇) 良俗の規則の中で正義の規則だけは正確であるが、他の徳の規則は緩やかであいまいである。個別的な徳の基礎となる心的感情はどこから来るのだろうか。友情、人間愛、寛容、度量などの徳は繊細で微妙であるが、友情、愛着はかなり一般性をもち確定することが可能である。キケロ、アリストテレスらは風習の模様を示している。良俗の規則には倫理学が有用である。法学の目的は裁判官の決定のために規則を定めることで、キリスト教の「決疑論」は善良な人の行動のために規則を定めることである。善良な人が正義の一般的規則から自分が遂行するよう拘束を受けていると考えざるを得ないとき、これを彼に強要することは最高の不正である場合がある。たとえば騙されて結んだ契約の履行義務があるかどうかは、今日では消費者保護法などで保護されているが、それでも騙されたとはいえ一抹の過失を感じる人がいる。ハチスン氏は契約破棄が当然であるという。そうでないと考えるのは迷信と弱さであるという。相手がたとえ凶悪無比で罰せられるのが合法的だとしても、信義破棄の罪を感じる。自己防衛正当化の理屈も矛盾である。そのような良心を持つ人には告白聴取僧が存在し懺悔を聞いて罪を減却してくれるという。ここでは告白されるのは、正義の破棄、貞節の破棄、真実遵守の破棄であり、常に決疑論者の裁判権に属した。


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