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芹沢俊介著 「家族という意思」

  岩波新書 (2012年4月)

家族のいのちを受け止めようとする意思が、社会のアノミー化に抗う

鴨の子は生まれてすぐ側にいるものを親と認めていつも後ろを追うという話はよく聴く。人間の子もおなじでオギャーと生まれて「受け止めてくれる人」が肉親であろうと、他人であろうと血のつながりは関係ない。「受け止めてくれる人」が原初の家族である。子供が望む最良の受け止め手が母親であり、父親がそれに続くのだ。子どものいのちの存続の必須の条件である「受け止めてくれる特定の人」が親(家族)である。また子供にとって我家とは、肉親が同居する空間ではなく、自分を認めて受け入れる「居場所」が確保されているところである。居場所がなければ子供は家を出るし、家族の居場所があれば避難所の狭い段ボール壁で仕切られた空間だって我家である。2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故以降、被害住民は一瞬にして住居、肉親、故郷を失って、避難所から仮設住宅や他府県移住という流浪生活を余儀なくされ、「はかなさ」と「よるべなさ」という無力感と不安感情に揺さぶられてきた。どっこい住民は「はかなさ」(あるものがなくなる無常観)はこれが底だとして、再起を目指している。しかし「よるべなさ」はいっそう人の心を絶望的にする。居場所がないとか、受け止めてくれる人がいないという不安感情は社会的絆を断ち切られた「アノミー状態」である。精神科医ウィニコットはいのちの受け止め手がいないときのいのちの存続に及ぼす根源的脅威を「絶滅の脅威」と呼んだ。またドイツの哲学者ヤスパースはナチスドイツへの反省から、次の4つの罪と責任について論じた(「責罪論」1946)。@刑事責任(戦犯追及)、A政治責任(政治家、メディア)、B道徳的責任(支持し認めた責任)、C形而上の責任(連帯関係の欠如)である。このことは福島第一原発事故のついても成立する。東電と国の刑事責任と賠償責任、安全神話を作った政治家・学者・技術者・メディアの責任、利益誘導にのった地元自治体と黙認した責任などである。二度とヒットラーを招き入れないように自分を点検するように、二度と原発事故を引きこさないように、いのちの存続・存在といった自由の根源を脅かす原発を容認しない思想を堅持しなければならない。命をめぐる「よるべなさ」は家族にとって、とっくの昔から現実的な問題であったが、今度の大震災はそれを大規模に表面化したのだ。

本書が扱う主題は、「家族という対幻想(家族という一体意識、相互の思いいれ)は自然には成立しなくなっている。家族を維持するには思想(意思)が不可欠である」ということである。家族において「対幻想」を生きるといういう意志が議論されている。この本のユニークなところは、出だしが吉本隆明流の抽象的(倫理哲学的)で論議で始まり、半ばは統計的データとルポによる社会学となり、終わりには「私性」(自己本位主義的志向、私のエゴイズム)を深く抉り出すため著者自身の親の看取りの話しが中心となっている。著者芹沢俊介氏のプロフィールを紹介する。1942年東京生まれ、上智大学経済学部を卒業、吉本隆明に師事し、文学論などから、教育論、宗教論などに論陣を張る。吉本の弟子のうち小浜逸郎が、フェミニズム批判などを受け継いだのに対して芹沢氏は左翼的な部分を受け継ぎ、小浜を「吉本右派」、芹沢を「吉本左派」と呼ぶ。家族、教育に関する著作が中心で、家族や教育が関係する犯罪についても言及も多い。また、グループホーム(養護施設)との関係から生まれた新たな視点から家族を分析し、近代に失われつつある原点の家族を追求している。不登校・引きこもりの若者の集まるNPOシューレ大学のアドバイザーでもある。1970年から吉本隆明氏の知遇を得て2012年3月吉本氏が亡くなるまで師事した。吉本隆明氏の本では私は若かりし頃に読んだ「共同幻想論」を思い出す。ごつごつした硬派の文章で、砂交じりの飯を咀嚼できないで飲み込んで消化不良に終った本である。最近の著作には、「引きこもるという情熱 」(雲母書房 2002)、「家族という暴力 」(春秋社 2004)、「もう一度親子になりたい」(主婦の友社 2008)、「若者はなぜ殺すのか アキハバラ事件が語るもの」( 小学館新書 2008)、「家族という絆が断たれるとき 」( 批評社 2009)などがある。

1) 家族論

「家族」を社会学的に見る機運は1970年代に始まり、女性の目から家族を見るフェミニズム理論が1985年ごろから盛んとなった。その日本における代表が、上野千鶴子著「家父長制と資本制」(岩波書店 1990)といえる。芹沢俊介氏の家族論はもっといのちに寄り添った倫理的な内容である。消費社会においてデパートからスーパーマーケットの時代に移り、さらに個人を対象とするコンビニの時代となった。いまやコンビニの売上の方がスーパーを上回るようになっている。このようなコンビニの隆盛は何を意味しているのだろうか。それは自己本位エゴイズムを是とする風潮が個人化の時代をもたらしたということである。家庭の食卓が崩壊し、個人が勝手に食事をし買物をする時代になったということである。家族内部がバラバラに個別化されて集合性がなくなったのである。ここで芹沢氏は「家族論」の高まりは、崩壊する家族の危機意識の高まりであり、1985年ごろから家族を再構築しようとする意欲が現れてきたとみなしている。芹沢氏の家族論の出発点は1968年の吉本隆明著「共同(対)幻想論」にある。本書の通奏低音、いやテーマ(主題)がこの「対幻想」である。吉本氏の「対幻想」でいう家族の定義は、「一対の男女の自然関係としての性を基にし、婚姻という社会的関係の水準で保持される共同性」である。吉本氏はこれ以上「家族論」を展開する気はなく、芹沢氏が本書で展開したといえる。1978年マードックは社会の機能集団の単位としての「核家族」を「世帯」といった。夫婦と親子の2層で成り立つ世帯集団である。これにたいしてハリスは、婚姻は個人としての男女が個人間の関係を作ると同時に家という集団間の関係を作ることであるという「家族過程」という概念を提出した。出生家族ー生殖家族ー出生家族という過程を循環することをいう。

吉本隆明氏の「対幻想」とは、「男女の性が特別な相互の世界(対幻想)を生み出した時、始めて人間は性という範疇を持った。人間の性を社会の共同性と個人性のはざまに投げ出した。そこから夫婦、親子、兄弟、親族の関係性の中に家族がうまれた」といい、新たな人間理解を深めた。すべての要素は関係の中にあり、相互に特別な関係性(いのちを投げ出し受け止める関係)を認めることを「対幻想」というのである。家族は対幻想を生きるのであり、対幻想が家族をリードするのである。吉本氏の人間理解は次の3層からなる。
@ 人間は個人であり、家族であり、社会の一員である存在を生きる。
A この3つの層は独立的であると同時に関連性を持っている。その間で葛藤するのが人間である。
B この3つの層は独立した領域にあって、相互の価値評価はできない。
家族を労働力再生産の場と見るマルクス主義フェミニズムもあるが、本書は家族をいのちの存在の場と見て、夫婦の対幻想よりは親子の対幻想を軸とした家族論である。

2) いのち

いのちから家族を考えるということは、親子の関係から見る家族理解ということになる。幼児のいのちの見守りから養育・教育そして老いを生きる親、夫婦の対幻想の家族過程を見ることである。生まれた子を守り育てることは家族の原初的体験である。いのちとはこどもである。家族を見ると、夫婦、親子、兄弟の3つの対幻想の層が家族を構成することがわかる。この三層の関係性理解だけでは社会学となってしまい、人間の根源的理解には至らない。いのちの存続を支え保証する直接の担い手、「いのちの受けとめ手」がいることが親子の出発点である。このとき「生物的な親」と「受けとめてとしての親」はかならずしも一致しなくてもいい。そのような受け止め手への信頼を原基に、子供は他者を主体的に信頼する社会性が養われる。親子の対幻想である「安心できる」を形成できることが最も基本的な養育であろう。こどものいのちが存続している「ある」という状態が、自我・自己の「する」という行動の前提となる。この発見は精神科医ウィニコットの慧眼であった。いのちの受けとめ手は生物的母親でなくてもいいということは、いわゆる「母性」は本能でも自然でもない。フミニズム理論家は「母性」を統治イデオロギー(神話)にすぎないという。しかし「受けとめ手」は最初の母性という意味で「原初的母性的没頭」(マザーリング)という位置づけを行なう。受けとめられた体験は「絶滅の危機」を脱し、いのちの存続を保証されたのである。もし幼児期に受けとめられた体験を欠如すると子どもは「よるべなき」不安を覚える。子供の心に深い傷を残すことになる。なき続けるこども、むずかる子どもに腹を立てる母親の養育放棄、暴力という悪循環は親子関係の「対幻想」が成立していないということである。母親は子どもに「ほどよい適応」という距離感を以って接しなければならない。子どもに自由の領域を残すことで子どもの自己形成の余地が必要なのだ。

3) 自殺と妊娠中絶

性を軸とした夫婦ないしは男女の対幻想を考えよう。日本では1998年以来自殺者が年間3万人を超える異常事態が続いている。その主たる特徴は中高年男性の自殺の増加である。亭主が職を失ったり破産したりすると妻は離婚を決意し、夫はホームレスになるというストーリを新聞紙上でよく聞く。中高年男性にとって失われた90年代以降の不況は厳しく、生き難い世の中になっている。人口10万人あたりの自殺者数を自殺率というが、今までに3回の自殺率の大波があった。1955年(自殺率25)、1986年(21)、1998年(26)である。問題は1998年以降ずっと自殺率26以上が続いていることである。自殺大国日本という汚名を戴いている。この社会現象の第一の要因は新自由主義市場グローバル経済とソ連・東欧社会主義国の崩壊により、資本側の配分要求に歯止めが利かなくなり、勝ち誇った資本は福祉社会を放棄し、労働側の一方的敗北となったからである。思想的には自己責任社会という名のアノミー社会=サバイバル社会、いわゆる原始社会に回帰したからである。「慣れ親しんだ地位から急に没落した者」が自分を責めれば自殺となり、他人や社会を責めれば、殺人か社会騒動という暴力に訴えることになる。これを革命というにはバラバラの個人に展望と組織力がないのだ。会社組織という共同幻想を喪失したことによって中高年男性の自殺が顕著となった。自殺率の男女の違いは、男が37、女が15である。年齢別では60台、50代の順に下がる。再就職の可能性の低下する男の世代が高いことになる。女性の自殺率は特に時代の波を受けている様子は無い。

避妊技術や妊娠中絶技術の進歩により、生まないという選択肢が出来たことで、男女の性は戦後妊娠を巡って鋭い葛藤が生じている。中絶も出産も女性にとっては宿った命との葛藤となり、戦後の家族性の特徴をなしている。人工妊娠中絶数と対出生比は1953年ー1961年まで高い値であった。人工妊娠中絶数は100万を超え、対出生比は60-70%であった。たとえば1957年の出生数は156万人で、妊娠中絶数は112万人であった。それいらい避妊技術の進歩により、妊娠中絶という悲劇は避けられてきた。2008年では対出生比は22%である。これには背景として出産数自体の大幅な減少(少子化)がある。そして結婚年齢の高齢化、女性の子どもを生む数の減少(1.5人以下)という人口減少社会の到来が控えていた。生活難と養育(教育)費の高騰など家族を持つことへのリスク懸念、つまり家族内へのエゴイズムの浸透が顕著な現象である。正を基軸とした対幻想をもって家族が成立する時代は遠ざかり、自己本位の個が浸透してきたのである。リスクを犯してまで結婚したり、子どもを持つ事を避けようとする世代が増えてきており、これを阻止する力は政府のいう「少子高齢化対策」には存在しない。そこにあるのは人口増加は消費(内需)の拡大という、生産者側の論理しかないからだ。

4) 老いるいのち

老いるいのちは子どものいのちとは逆コースをたどる。「する」という自我の表現に充てていたエネルギーは徐々になくなり、「ある」という状態に帰還してゆくのである。もちろん性的存在からの離脱を伴っている。老いの「ある」状態に家族がたじろぐ様子が現実のものになる。この章では著者の97歳の父と95歳の母を老人ホームに見舞う状況を私的に描いて老いるいのちの理解を促すものであるが、老いる父と母との過去の対幻想に生きようとする意志と自己本位なエゴイズムとの限界でのせめぎあい(納得のゆくいいわけは個々に違うし、それも苦しい自己弁護か自己美化につながる)が反省をこめて語られているが、詳細は省く。老いた父や母は対幻想どころか、子どもの名前や認識さえ無くなっているのである。そこが最後の親子関係の悲劇的なところかもしれない。意識のはっきりした時に、老いた親が子どもとの対幻想に失望したり消滅していると、居場所が無くなって子どもと別れ所在不明となる事件が最近年金問題と絡んで話題となった。まさに「よるべなき身」を実感した上の家出にちがいない。家に居場所を見つけられない子どもの家出にも通じる。この所在不明問題は「行旅死亡人」と繋がる。では「する」能力を失いつつある認知症老人が家族の中で生きる(老いる)ということは、「ある」ということだけで安定した安心した生存を続けることであり家族の支えがなければならない。介護の社会化という介護保険ができたことで、家族(特に女性)の負担をすくなくする可能性は増えた。徘徊は自分と他者(子どもも含む)との関係付けが出来なくなって自分の居場所が不安になり歩き回ることである。老人をしっかり家族のなかにつなぎとめる(受けとめる)人が側にいれば、老人は安心できる。親子関係の対幻想が消滅していると、家族の都合で老人を施設に入れるとかえって不安定になり錯乱させるものだ。

5) 家族の絆

そこで、生きる基底にいのちの存続を前提とする結びつき、お互いの「いのちの受けとめ手」であることを第一義とするつながりがある事を、「家族の絆」という。2010年にテレビに放映された「無縁社会」という言葉が流行語になった。よるべなき「無縁死」(「行旅死亡人」)はなんと自殺者の数を超えて3万2000人になるという。自殺と無縁死はまさに社会のアトム化(砂漠化)、アノミー化を反映しているのではないだろうか。家族のアノミー化には「対幻想」の消滅が関与している。無縁死者の遺骨の引取りを親戚縁者が拒否することは将にそのことである。デュルケームが定義する「アノミー」とは社会秩序の崩壊した状態をいう概念である。反対に「社会秩序」とは共通の価値観、信念が共同体のメンバーの行動を規定している状態をいう。自分の行動が他者の命、価値観との係わり合いに配慮して行われ、それが自明として認識されている状態が「社会化されている」という。1990年冷戦終結後の資本主義は世界を制覇したと思い込んで、資本のエゴむき出しの新自由主義という自己責任社会をもたらした。個人・企業の自由と自己本位主義が横行し、勝ち組と負け組みに色分けし、勝ち組に正義があるかのような宣伝に努めた結果、「社会なき社会」を作ってしまって、その後後始末も出来ないくらい機能不全に陥った国家や企業の姿は、福島第一原発事故の東電と政府に象徴的に見られる。

遺骨引き取り拒否問題は、血縁より対幻想の有無を判断基準とするという姿勢が働いているようだ。家出、ホームレスとなった父とは長期間音信不通で、すっかり情も無くなった状態(親子、夫婦の対幻想の消滅)では、父の骨だといわれても引き取る気がしないのは、薄情というか「実質他人」というか価値判断の分かれ目である。親等は関係ないのである。財産が転がり込んでくるときはしっかり気にするのであるが。家族の包容力の大小を決めるのは、受けとめ手の受けとめる力である。これを「家族のエロス」(家族の愛)という。対幻想の深さという包容力の事である。そこに受けとめ手がいるということは、いのちの存続つまり「ある」という事を可能にする包容空間を生み出す。老いゆくいのちは対幻想空間に居場所を見つけて安心するのである。これから未婚者、離婚者、単身者が増えていく社会はますます自己本位主義に染まってゆくだろう。人口増加社会から人口減少社会になって、2030年ごろには人口1億人を切る時代になると、人間関係はもっと濃厚になるのか稀薄になるのかそれは日本人の考え方次第である。エゴと社会性の兼ね合いは個々人によってまちまちである。個人主義を否定する国家社会主義では自由が侵食され、むき出しのエゴのサバイバルゲームは焦燥の世界である。親の老いを看取る限界線は各人、各家庭の状況によって異なるが誰しも「許容の限界線」を引いている。自分の家で親の死を看取るべきだとはいえないし、早くから施設にいれて知らん振りをして親を錯乱のうちに死なせることも無情である。限界を超えると家族が受け止め不能になって、パニックとなっては元も子もなくなる。親の対幻想の対象が実の息子より嫁のほうへ移行する事はよくある事である。母親は実の娘に移りがちである。呆ける前のリビングウィルはあてにならない。老いた親は対幻想に生きている。その受け手が寄り添わなければ安心できないのだ。


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