強制連行とは、元来第二次大戦中に日本政府が中国人や朝鮮人を労働力として動員した事象を指す言葉であったが、論者によって言葉の定義が一定せず、慰安婦論争(強制連行の有無)に見られるように議論が混乱する原因になっている。本書はもちろん労務動員に限って、慰安婦問題は含ませない。「朝鮮人強制連行」という言葉を検索すると、90%以上は朝鮮人を蔑視するために書かれて記事が多い。石原慎太郎氏の「第三国人」発言に似たような、大半は右翼的言辞を弄び民族差別むき出しの書き込みが多い。最近は北朝鮮の拉致問題とからめて、朝鮮人嘘つき説や悪人説に傾いた議論がおおい。「南京大虐殺事件はなかった」とする論調に類似する、「強制連行はなかった。内地就労募集に応じたにすぎない」という意見もある。「強制連行」という暴力的・人権無視の労務動員があったかどうかは、現場に居合わせなかった我々としては、丹念に文献を読み解くしかない。しかしそこにも難問題がある。日本政府や朝鮮総督府の行政側の文物は建前で書かれており、実情を知らない官僚が書き残したもので、実態を反映するものではない。更に悪いことに都合の悪い文書は終戦時に焼き捨てられてしまった。証拠隠滅が図られた。もうひとつの意見には「内地日本人にも総動員法がかけられ徴用された。強制は当然であって何も朝鮮人だけの問題では無い」というのだが、これは識者の発言であるが植民地朝鮮という状況を忘れ去っている「お惚け議論」にすぎない。、金英達氏は被支配者民族の動員は日本人(内地人)の動員と質的に異なるゆえ「恨みをこめて強制連行と呼ぶ」と説明した。けだしこれは明答であろう。このような論争は「朝鮮人強制連行」問題に限ったことではないが、心情的・政治的・階級的・イデオロギー的に複雑な問題を抱えているので、できるかぎり論証的に進めなければならないだろう。それにはジャーナリズムがおこなう当事者へのインタヴュー記録では、紛争に油を注ぐだけの結果となり、必ずしも実証したとはみなされない。そこで本書はもっぱら政府関係資料を読み解いて、そこから実態をあぶりだすという手法がとられている。
日本の朝鮮植民地支配は、1906年日本が李朝朝鮮の外交権を奪い保護国化して、伊藤博文が初代韓国統監として赴任したことに始まる。さまざまな苦痛を与えたことについては、1995年8月15日村山首相は談話でつぎのような反省と謝罪の辞を述べた。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、おおくの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ちなからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらめて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念をささげます。」 まず日本の朝鮮植民地化の歴史を認めることからスタートする。ここでも「日本は朝鮮を併合してはいない。朝鮮が条約で日本の庇護下に入ってきたのである」とシラをきるような意見をいう人もいるが、それは無視しよう。武力を背景とした併合条約をむすんだことは確実だから。なかでも第2次世界大戦中の内地へ朝鮮人を送る労務動員政策は食糧供出と並んで民衆を苦しめた。戦時下に朝鮮や中国からつれてきた人々を日本内地の炭鉱や基地作りの土木作業で酷使したという話をここでは「朝鮮人強制連行」という。それが本人の意思に反して行なわれたか、暴力を伴ったかについて本書が答えるのである。なぜ労務動員が朝鮮人に対しては人権侵害を伴ったのか、政府政府および朝鮮総督府は戦争遂行のための生産力増強にはならなかった政策を無理やり実行したのかということを1939年から1945年という戦時下の状況から見て行こう。
「朝鮮人強制連行」が行なわれた背景には、日中戦争以降の日本人男性の労働力不足があったこと、労働者の動員は日本政府が1939年以来敗戦まで毎年策定した計画に基づいておこなわれたこと、権力的(暴力的)な要員確保が行なわれたである。政府計画に基づき、本人の自由意志に関り無く、民間企業の誘致採用活動によるものではなく、行政の末端職員と民間人まで動員して行われたことを意味している。つまり国策として実行された戦争動員政策であった。日本内地の日本国民も「国民徴用令」によって動員されていた。しかし植民地朝鮮においては、強制的に時には暴力を伴って実施され、逃亡する朝鮮人もいたという実態において民族差別が露骨であった事を問題視すべきであろう。無論それ以前にも朝鮮から日本へ生活の資を求めて合法的・非合法的に渡日する人は多かった。植民地につきものの生活の向上を目指して宗主国への就労する人の流れは存在したが、なぜ一方では無理やりの朝鮮人労働動員をかけたのであろうか。その矛盾にみちた政策こそ、植民地支配の実情を反映しているのである。その原因を本書で明らかにしてゆくのであるが、結論をいうと内地では植民地の民衆が日本国内に入る事を嫌って、外国人入国許可などの抑制をしていた。日中戦争及び太平洋戦争を遂行するため、厚生省労働局は戦時物質生産のための労務動員を行なった。ところが内地での人的資源も逼迫し、特に労働環境の厳しい炭鉱や土木作業に日本人の就労者が少なかったので、植民地朝鮮からの労務動員に期待がかかった。炭鉱や土建企業の前近代性がより安い植民地特有の奴隷労働を欲したからである。
韓国における「朝鮮人強制連行」問題は、90年代の韓国での民主化以降広くこの問題が提起され、2004年には法に基づいて「日帝強占下強制動員被害者真相究明委員会」が発足した。この委員会は今日「強制労働犠牲者など支援委員会」に引き継がれている。給料未払い、半額強制貯金などの金銭被害を含めて補償の問題が未解決で残された。補償問題では日本政府は軍事独裁政権の朴政権とで解決済みの立場を崩さず、これに応じる気配は無い。韓国での調査が本格化する中、日本の反応は冷淡である。また日本の歴史学会での認識も極めて低い。右翼的魑魅魍魎の輩の言説が大手を振ってウエブ界を跋扈している。戦後ドイツのような深刻な反省は聞かれず、あいかわらず「大東亜戦争肯定論」に見られるように、日本の政財界の植民地支配への無反省、無責任は改善されていない。この「朝鮮人強制連行」問題の透明性ある公正な解決なくして、北朝鮮拉致問題も解決しないだろう。本書は1939年から1941年の「労務動員計画」と、1942年から1945年までの国民動員計画のなかでの労働者の動員に焦点をあてた、証言に基づくジャ―ナリスチック手法ではなく、政府関係資料に基づく冷静で抑制の効いた社会史的手法である。政治軍事背景は政策を生む最小限の記述にとどめ、朝鮮総督府統治の実情から来る特殊性と日本政府の動員政策との軋轢を詳らかにする。「朝鮮人強制連行」問題は日本の総力戦の一環の中で行なわれた。朝鮮労働者には軍需物質生産の鍵を握る石炭の採掘や軍事基地の建設という重要任務を割り当てられた。中国人や台湾人への植民地対策とも歴史的・距離的に異なるのである。
日本政府厚生省の労務動員政策はあくまで戦争勝利に向けての合理的(計算上の)労働力配置計画であって、文献上は植民地虐待の事実は見えてこない。しかし朝鮮の実情を無視した机上の計算のつじつま合わせでは、生産性が上がるどころか様々な軋轢や生産性の低下をもたらし行政的にも失敗であった。労働市場における外国人労働者の問題は、社会的なセキュリティとは別に、つねに国内労働市場への外的因子となり企業にとっては労働生産性の低下や労働側にとって配分低下(低賃金)となっている。これは古くて新しい現代的課題である。1945年の日本人口7000万人に対して、在日朝鮮人数は200万人であった。当時の日本帝国内のエスニックマイノリティの比率は現在よりかなり高い。日本は当時多民族国家であった。本書は下表に見るように、1939年から1945年の7年間の朝鮮人労務者動員の流れを、戦前の日本政府企画院の動員計画に基づいてみてゆく。この数年間に戦局の悪化に伴い急激な動員計画の拡大があったが、はたしてどの程度達成できたかどうか証拠はない。官僚の数値作文で終っているのかも知れず、特に1945年の終戦時の計画数値は存在しないようで案程度の数値が残るのみである。需要と供給の数値さえ一致しない。それ以前の計画では帳尻の数値だけは一致しており、内地での朝鮮人労務者の需要数と朝鮮側の供給数は一致している。戦争の遂行につれて需要数は拡大し、いわゆる根こそぎ動員という事態になった。産業構造の転換による労働力の移動で済む程度ではなく、1944年より学徒動員数205万人と新卒者109万人を合計して314万人を学校に頼ることになった。学校とは徴兵は別にしても、戦時体制の主要な労働力供出源であった。では「朝鮮人強制連行」問題を政府関係資料に基づいて年代順に見て行くことにしよう。
ー | 国際政治動向 | 日本政府朝鮮関係行政動向 | 内地労働需要 | 内地供給源 | 朝鮮労働需要 | 朝鮮供給源 |
1939年 | 朝鮮農村で大干ばつ | 6月 朝鮮人統制のための中央協和会発足 7月 労務動員計画閣議決定 8月 朝鮮で内地労働者募集 10月 朝鮮労働者を炭鉱へ配置 約束が違うとして争議発生 | 総需要数 104万人 軍需産業16万人 生産産業31万人 輸出・必需品産業9万5000人 運輸通信業 9万9000人 補填数66万7000人 | 総供給数 113万3900人 新規卒業者46万7000人 離職者10万人 農村より25万6000人 その他未就業者8万7000人 業務削減流用9万3000人 女子無職者5万人 移住朝鮮人8万5000人 | データーなし | データーなし |
1940年 | ー | 1月 朝鮮職業紹介法公布 3月 朝鮮総督府 労働資源調査実施 10月 国民徴用令改正 登録者以外でも徴用可能となる | 総需要数106万人 軍需産業25万8000人 生産産業20万4000人 輸出・必需品産業9万7000人 運輸通信業11万7000人 土建業1万5000人 農業補填31万6000人 | 総供給数 122万4000人 新規卒業者46万5000人 離職者21万8000人 農村より20万2000人 その他未就労者4万7000人 業務節減流用者16万4000人 女子無職者4万人 移住朝鮮人8万8000人 農業へ新卒者31万6000人 | 総需要数 42万5400人 軍需産業1万1100人 生産産業12万人 輸出・必需品産業1500人 運輸通信業1万5300人 補填要員15万人 内地移住者8万8800人 樺太移住者8500人 満州開拓民3万人 | 総供給数 42万5400人 新卒5万6700人 物資動員離職者7200人 農村より25万人 その他未就労者5万6600人 女子無職者5万4900人 |
1941年 | 6月 日本南インドシナ進駐 12月 日本、英米に宣戦布告 | 3月 朝鮮総督府に労務課設置 11月 朝鮮総督府に厚生局発足 12月 国民徴用令を改正 死傷や家族への扶助規定 | 総需要数 211万2000人 軍需産業85万人 生産産業16万5000人 生活必需品産業4000人 運輸通信業10万7000人 国防土木建設業15万7000人 補填要員82万9000人 | 総供給数 221万2000人 新卒51万3000人 整理企業から39万2000人 商業従事者から63万人 運輸通信従事者から5万8000人 公務・自由業から7万3000人 家事使用者から6万7000人 その他流用6万9000人 無業者から16万9000人 土建従事者から16万人 移住朝鮮労務者8万1000人 | 総需要数 41万9600人 軍需産業 8200人 生産産業12万5800人 生活必需品産業1万2300人 運輸通信業1万4000人 国防土建業6400人 補填要員12万2900人 内地・樺太移住労務者10万人 満州開拓民3万人 | 総供給数 41万9600人 新卒者8万1100人 農村より27万6700人 その他5万3400人 日本内地より移住8300人 |
1942年 | 6月 ミッドウェー海戦敗北 | 2月 政府 朝鮮人労務活用方策を閣議決定 2月 朝鮮総督府 内地移入官斡旋を決定 | 総需要数 196万7800人 一般労務者169万5700人 下級事務員10万9000人 公務員6万6800人 外地要員9万6300人 | 新卒者86万4800人 整理鉱業従事者より19万5000人 商業従事者より45万3000人 家事使用人より2万7000人 その他9万9600人 土建従事者より2万人 農業従事者より9万8300人 無業者より9万人 朝鮮人労務者12万人 | データーなし | データーなし |
1943年 | 11月 英米中カイロ宣言 朝鮮独立に言及 | 3月 朝鮮人の徴兵を行なう兵役法改正 7月 国民徴用令改正 必要があれば徴用できる 9月 朝鮮総督府 国民徴用扶助規則制定 10月 軍需会社法公布 12月 朝鮮総督府 鉱山局を設置 12月 厚生省令で軍需会社徴用規則改正 指定企業の従業員はすでに徴用されているとする。 | 総需要数 239万6300人 一般労務者165万5804人 下級事務職員6万5574人 公務員8万7609人 女子補充要員13万5000人 農業補填要員32万人 外地要員14万2313人 | 総供給数239万6300人 新卒者97万9000人 整備工業よりt38万人 商業より転出21万2300人 農業より8万3000人 その他12万8000人 無業者より25万5000人 移入朝鮮人労務者12万人 在日朝鮮人労務者より5万人 | 総需要数 44万2743人 一般労務者26万6598人 下級事務職員1万1095人 公務員1万人 内地供出労務者12万5000人 満州開拓民3万人 | 総供給数 44万2743人 新卒者6万1123人 農村より27万6250人 その他8万6800人 日本内地よりの移住者1万8570人 |
1944年 | ー | 4月 朝鮮総督府労務動員の強制供出を戒める 5月 政府は動員された朝鮮人の契約期間延長を閣議決定 8月 政府は「半島人労務者の移入」を閣議決定 9月 (財)朝鮮勤労動員援護会発足 12月 「朝鮮及び台湾同胞の待遇改善」を閣議決定 約束が守られないので動員忌避が拡大 | 総需要数454万2000人 一般労務者402万人 下級事務職員10万7000人 公務員7万人 外地要員15万2500人 女子補充要員18万6000人 | 総供給数 454万2000人 新卒109万人 在学者205万3000人 有業転換者71万人 無業者27万人 朝鮮人労務者29万人 中国人労務者3万人 勤労報国隊10万人 | データーなし | データーなし |
1945年 | 8月 日本ポッツダム宣言受諾 無条件降伏 | 1月 軍需充足会社令改正 従業員を被徴用者とみなす 3月 国民勤労動員令公布 6月 「動員忌避防止取締要綱」決定 9月 厚生省徴用された非知への慰労金支給を決定 しかし朝鮮人は除外 | 総需要数 510万人 | 総供給数案410万人 新卒者70万人 学徒動員244万人 有業転換者48万人 無業者から8万人 外国人労務者40万人 | データーなし | データーなし |
1930年代中頃の日本の人口は約7000万人、朝鮮は2千数百万人で日本の1/3で、国土は日本の6割であった。当時の朝鮮社会の都市人口比率は7%にすぎず、農業戸数は全体の70%を占めていた。農業人口比率は41%であった。鉄道網は日本内地の1/5、輸送量は1/14であった。電話や電気はまだ普及していなかった。朝鮮人の就学率は17.6%、日本語理解率は9.8%、ハングル語理解率は22%であった。メディアの普及率も低いもので、日本語日刊紙購読者は11万人、朝鮮語日刊紙購読者は19万人であったという。ラジオ普及率は戸数で0.37%であった。朝鮮総督府の行政機構は道・府邑面であったが、整っていた組織は警察だけであった。行政職員数は1万5909人で警察官の数が1万9410人であったことより、行政機構の貧弱ぶりが目立つ。つまり警察が権力であり行政の前面に出てきていた。軍隊は2個師団が置かれた。日本政府の諸決定を迅速に実施する行政能力は劣弱で、労務動員計画にも齟齬をきたす情況であった。当時の朝鮮で農民の没落と疲弊が進んでいた。農民構成は自作農18%、小作農76%であった。これらの没落小作農が職を求めて都会、内地へ移動するのである。朝鮮人渡日者は1910年頃から始まり、1920年代に増加した。政府は朝鮮人の流入を抑制しようとして、1934年の閣議決定「朝鮮人移住対策の件」において、就労目的の朝鮮人の内地移住抑制を政策としていた。政府はそれらの人を満州や朝鮮北部開拓の労働力に振り向ける政策を取った。
1930年代後半の軍事進出と関連した軍需景気と人手不足から、過酷な労働現場における内地人労働者不足への対応として、朝鮮人移入の議論がおもに鉱山企業から提出されるようになった。炭鉱経営者は朝鮮人渡日抑制政策の撤廃を要請し始めた。内地では労働条件の良い重化学工業に人が移動し、炭鉱鉱山といった人力にたよる部署(3K職場)を嫌った。1937年7月7日「盧溝橋事変」という日中戦争が勃発し、7月31日政府は「軍需要員充足に関する取り扱い」を決定して日中戦争に適用した。12月には日本軍は南京を占領したが、中国側の抗日戦争が活発となった。戦争遂行に必要な軍需産業への労働力確保のため1938年1月厚生省が発足し労働局が置かれた。5月より軍需工業動員法に替わって「国家総動員法」が施行された。1939年7月には総動員法の細則である「国民徴用令」が公布された。雇い入れや職場の移動、賃金に統制がかかるのである。これに呼応して同年7月朝鮮において国民精神総動員朝鮮連盟が発足し、朝鮮総督府では朝鮮人志願兵の軍事訓練を開始した。日本内地では1938年4月に「職業紹介法」の全面改訂が行われ、国が軍需産業への労働者の確保にあたることになった。職業紹介所は国の管轄下に入ったのだ。384箇所、職員3079人でスタートしたが、朝鮮での職業紹介所の体制は貧弱で(10箇所、職員34人)、職業紹介法も朝鮮では施行されなかった。朝鮮では府邑面という地方行政機関が「斡旋」の制度で農民の就労・移動にあたった。1939年より年度ごとに企画院が中心となって国家総動員法の策定にあたった。労働力については上表のような労務動員実施計画を毎年閣議決定することになった。日本内地の炭鉱などに配置する労働供給源として朝鮮より8万5000人が計上された。1939年が日本政府による朝鮮人労務動員政策の初めの年となった。
朝鮮からの労務動員について、鉱山企業の圧力を受けた商工商は賛成であったが、労働力確保にあたる厚生省や治安維持にあたる内務省は積極的ではなかった。それは国内の失業問題と民族的な治安への影響を心配したからである。朝鮮総督府も難色を示した。朝鮮では農村の過剰人口はそれほど存在せず、かつ朝鮮北部開発のための労働力を確保したかったからである。しかし日本内地の計画には抵抗できず、なだめられて約束させられたのである。日本政府と朝鮮総督府の間に「朝鮮人労働者募集ならびに渡航取締要綱」が決められた。トラブルを未然に防ぐため厚生省管轄の「中央協和会」が発足した。個人の職業選択の自由を奪って特定の職業につかせる徴用という権力は国家の責任を伴う。これは国家による労働市場への介入である。日本内地では徴用は情実が絡む地元有力者である民間人の「連絡委員」が協力する体制が敷かれ、そして企業の「労務補導員」が職業紹介所の業務を補助した。しかし朝鮮ではこのような体制は出来なかった。職業紹介所が貧弱で府邑面という地方行政が労務動員を代行し、個別企業が総督府の許可を得て地域社会に入って募集を行なうという方法によった。準備不足もあって1939年の朝鮮総督府の募集承認件数は5万8134人で実際の労働者移送数は3万8700人、充足率は45%に止まった。詐欺的な嘘の勧誘や炭鉱労働自体への忌避や労務管理の劣悪さから配置先から逃亡するケースが多発した。朝鮮人労働者は内地労働者とは違う監視下におかれ、労働争議と内地人とのトラブル発生件数は338件、2万3383人に及んだ。
1940年ー1941年1939年11月厚生省は労務動態調査が実施され、それ以降毎年1回行なわれ動員計画策定のための基礎データを作成した。朝鮮総督府では1940年3月にはじめて労務資源調査を実施した(調査数は農家で1割ぐらい)。移動可能者数は116万人、希望者は26万人であった。1940年の動員計画では日本の総需要は106万人、移住させる朝鮮労務者は8万8000人とされた。朝鮮では兵力としての動員は1940年に3000人が供出されており、農村からの労務動員用可能者数は25万人と見込まれた。しかし農村では計画通りの動員は不可能に近かった。したがって「募集」は「暴力」を伴った。「募集」は地方職員と警察、日本炭鉱企業労務職員の手で行なわれた。日本政府は朝鮮に食糧増産基地としての役目をもとめながら、その労働力を内地炭鉱に奪うという矛盾があった。働き手を奪われた農家では11%が生活困窮者となり「離散」した。1940年の朝鮮総督府の承認数は7万1695人、配置実数は5万4944人で充足率は62%であった。1941年厚生省の改組がおこなわれ、職業局が労務動員実施業務を担当することになった。職業紹介所は国民職業指導所になり登録、国民徴用、移動制限、動員計画実施に係る統制を行なうことになり、全国444箇所、職員5266人体制となった。
日中戦争の長期化と国際情勢の緊迫が関係して一層動員体制が強化された。1941年の労務動員計画の総需要数は221万人と昨年の2倍となった。朝鮮人労務動員数は8万1000人となった。これには朝鮮での動員総数が昨年より低下したためである。1941年10月に「国民職業能力申告令」が改正され徴用対象者を広げ、12月には国民徴用令を改正して政府が指定する工場の範囲を広げた。12がつには「国民勤労報国協力令」が施行され、学校を単位として国民勤労報国隊が組織された。こうして内地での徴用は大幅に増加し約92万人、軍隊の管理工場への徴用も約72万人となった。朝鮮ではまだ徴用は実施されていなかった。それは朝鮮総督府の組織が脆弱で実施するだけの実務部隊が不足していただけである。1941年の労務動員の朝鮮総督府の承認数は7万7071人、実際の配置数は5万3492人、充足率は66%であった。日本愛知に配置された朝鮮労務者は1941年時点で合計15万人程度であるが、そのうち家族を有する者は6万4540人で、家族を呼び寄せていたのは9300人にとどまっていた。それは2年という期限付きを信じて単身で来日しているケースが多かったためである。炭鉱経営者の間では朝鮮労務者の逃亡率の高さと生産性の低さから効果を疑問視する声が上がっていた。それは劣悪で能率の低い労働にのみ朝鮮人を充てていたためで、応急的な増産手伝い程度にしか考えていないためであり、機械を使う能率的な作業への熟練を期待していなかったためである。こうして朝鮮人の動員による炭鉱労働力不足を補うつもりであった政策が矛盾に直面し破綻することは目に見えていた。
1942年ー1943年1941年12月8日日本は米国・英国と戦争状態になった。戦争は一気に拡大し、中国だけから南方にまで戦域が広がった。ところが戦況は翌年1942年6月ミッドウエー海戦に米艦隊に敗れて以来次第に押され気味の展開になった。空軍力に対応できなかった大戦艦主義の敗北であった。そして戦争は1年しか持たないとした山本司令官の予測どおり、戦局は資源を持たない国の悲しさから欧米の生産力のまえに次第にジリ貧の持久戦となった。軍事動員もその規模を拡大し、日本陸海軍の兵力は1941年には241万人、1943年には380万人となった。1942年2月政府は「朝鮮人労務者活用の方策」を閣議決定した。これにより限定された内地移入から積極的に朝鮮労務者を導入する政策に替わった。朝鮮ではこれ以上の労務者を供出することは不可能だとした朝鮮総督府との協議の末、「朝鮮から若くて優秀な青年を内地に送り、2年間研鑽を積ませて立派な労働者として朝鮮に戻す」という玉虫色の作文で妥協した。炭鉱での肉体単純労働が研鑽となるのか、立派な労働者となれるのだろうか、開いた口がふさがらない。建前と欺瞞に満ちた官僚作文にして強権で押し切るタイプのいつもの手である。動員以外の内地への移動と就労は例外とするとして、平和産業への個別的雇い入れは殆ど不可能な状態に置いた。それでも新生活基盤を求める朝鮮人の密航流入は跡を立たなかった。密航者は1939年に7400人をピークとして、1942年には4810人であった。朝鮮総督府の政策は新たに「官斡旋」と呼ばれる方式となった。1942年2月「朝鮮人内地移入斡旋要綱」が施行された。その斡旋とは、地方行政職員が移入計画の中心となり、それに警察、翼賛団体、民間企業の労務補導員が協力する体制である。こうしてこれまで民間企業が「募集」していた労務動員を、今後は行政当局が主導して「斡旋」することに替わった。行政が前面に出たことでより強制的な徴用の側面が強化された。
1942年度の国民動員計画は総需要数が196万人で昨年度より減少している。もはや無理な割当を編成すること事態が困難になっていた事を示す。朝鮮人労務者動員数は12万人と増加した。まだ朝鮮の農村に余剰労働力があると期待していたようだ。1943年度の総需要数は239万人と再度増加の傾向となった。供給源の移入朝鮮人労務者数は12万人と前年度と同じであるが、さらに内地にいた朝鮮人から5万人を計画の中に入れた。朝鮮人労務者は日本の供給源の7%を占めた。1943年の朝鮮側の動員計画は総需要数が44万人で、供給源は農村から27万人を見込んだ。1943年の内地動員計画の供給源を見ると苦しい台所事情が伺える。新卒者93万人が最大の供給源であるが、産業の構造転換を進め軍需産業一色になってきた。平和産業より38万人、商業より21万人、無職の人から25万人を動員した。1943年7月国民徴用令を改正し、職業安定所に替わって国が実施する徴用が動員の中心的手段となった。国が徴用する場合、経済困窮者にたいする手当てや補給などの援護が必要となり、5月には国民徴用援護会が設置された。1943年度より学校在学生と女性に対する動員が本格化した。6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、1944年1月には「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定された。朝鮮総督府厚生省労務課が動員の中心的業務を担ったが、労務動員行政を行なった地方行政職員は1943年末で2万5500人に増加した(1939年より約1万人増加)。しかし農村での日本語理解率は1943年度で19%ほどで、官斡旋労務者募集条件を理解できる人は少なかったため、嘘と暴力が地方行政の末端では横行した。1942年度の朝鮮人労務者動員数の配置者実数は11万人で、充足率は92%と高率になった。1943年度の需要数12万に対して供出数は12万5000人とはじめて100%を超えた。かなり過酷な「官斡旋」が行なわれたようである。朝鮮総督府労務課は東洋経済新聞座談会で「半強制的」に動員していると言った。充足率はその後低下傾向となり1944年では70%となった。朝鮮人の軍事動員も増加し1943年は1万2315人が軍属や兵士となった。
内地では勤労動員は徴用で国家が強制的に行い、応じない場合には罰則があった。しかし朝鮮ではまだ徴用は実施できなかった。実施する行政機関が貧弱すぎたのである。役所がないに等しく警察が国家権力であったからだ。炭鉱は政府が指定した軍需工場ではなかったので徴用は実施できなかったが、1943年12月からは炭鉱で働く従業員の現員徴用が行なわれた。徴用されたと見なすという。国民徴用令で動員された者とその家族は扶助や援護を受けることできるはずであったが、朝鮮人動員労務者には施されなかった。これがいわゆる民族差別である。日本に送出された労務者が職場から逃走したとい噂が朝鮮にも伝わり、残された家族の困窮化、炭鉱労働への恐怖や待遇への不満から、労務動員に対する忌避が蔓延していた。国民徴用令では本人と家族への援護は国家の義務であったが、正式な徴用で採用されたものではなく、徴用という縛りを加えることが目的の「徴用みなし」処置であっただけの事である。動員された朝鮮人労務者の産業別配置は、炭鉱が62%、鉱山が11%、土建業が18%、工場が8%であった。工場労働者では1%に満たない数であった。鉄鋼工場では5%に満たない数であった。これでは朝鮮人労務者のスキルアップを謳った「朝鮮人労務者活用の方策」は空しく聞こえる。一方鉱山労働者数の22%を朝鮮人労務者が占め、炭鉱労働者1944年には33%が朝鮮人労務者が占めていた。そして炭鉱では朝鮮人労務者は次第に作業の中心となっていた。雇用期間2年という規則はようやく作業に熟練した頃であり、これを帰したのでは作業が成り立たないということになり、1942年ごろから「契約更新」が強要された。契約更新を巡るトラブル、逃亡者数の増加は1943年で32%(総朝鮮人労務者36万人中)に達したという。炭鉱労務管理の劣悪さは荷役労務と同じでいわゆる「監獄部屋」がいかに非人道的であったが、朝鮮人被動員経験者の口から語られている。一方工鉱業生産は1941年をピークに減少傾向にあった。1943年の石炭生産高は555万トンと現状維持であった。しかし労働者1人あたりの生産性は低下し続けた。1943年の議会でもこの問題を取り上げ、「一定比率の日本人労働者確保」すべきという議論が行なわれた。それは朝鮮人労務者の中枢業務へのスキルアップを志していなかったためであり、その矛盾が歴然となったというべきであろう。
1944年日中戦争・太平洋戦争は全く勝ち目のない戦争を継続した。1944年の軍事動員は陸軍410万人、海軍126万人に達した。これだけの戦争を継続するための産業動員も困難を極めた。1944年度国民動員計画では総需要数は454万人となりもうこれは正気の沙汰ではない。供給源は新卒者が109万人、学校在学者(学徒動員)が205万人が最大の供給源であった。いわゆる根こそぎ動員となって、労働力枯渇から徴用不可能となる時期も迫ってきたといえる。「女子挺身隊」も組織された。朝鮮人労務者数も26万人が要求された。これも限度を超えたものであった。職業紹介所から国民職業指導所となった行政機構を再編強化し、1944年3月に国民勤労動員署に改組した。540箇所、職員は1万133人となった。徴用の対象の年齢幅を広げ、炭鉱も軍需会社の指定工場となった。朝鮮では労務動員の官斡旋が7万人、軍事徴兵者が5万人と競合して困難な動員となった。そのため逃亡を恐れて郡庁職員と警察官を動員して寝込みを襲い、田畑で作業中にものを拘束して連行する方法となった。朝鮮での無茶苦茶な動員を聞いた内務省が朝鮮に調査員を派遣して調べたところ「拉致同様な方法で、人質的略奪の事例が多い」と報告している。北朝鮮による数名の拉致問題のスケールではなく植民地国家権力機構総動員で拉致が行われたようだ。人狩り、もしくは奴隷狩りに近い手法ではないだろうか。実情はもはや官僚がきれいごとの作文で飾ることも出来なくなっていた。1944年1月朝鮮で徴用による勤労動員が可能であるかどうかが検討され、10月総督府に「勤労動員本部」を発足させた。しかし職業紹介所が増設され分けではなく、府・邑・面の朝鮮の地方行政機構を使った方法しかなかった。炭鉱側の労務管理も相変わらず劣悪な状態のままで改善されず、1944年の内地の炭鉱での紛争は一向に減らなかった。特高警察が把握した件数は303件、1万5230人であった。家族の呼び寄せは実施された形跡がない。1944年8月「半島人労務者の移入に関する件」が閣議決定され、朝鮮での徴用が9月から実施された。「募集」から「官斡旋」そして「徴用」という段階になったのである。1944年5月の閣議決定「被徴用者等援護強化要綱」において朝鮮での勤労援護が進められこととなった。徴用援護法については内地並になったわけだが、運用実績は殆どなく、大蔵省調査では「極めて円滑を欠き政府に対して更に不満の声となって終戦を迎えた」 これには炭鉱企業側の拠出金サボタージュによるものであった。こうして援護策は機能せず、朝鮮民衆の動員忌避はますます拡大した。
1945年軍需産業だけの戦時経済自体が崩壊に瀕し、制空権を失い空襲に脅かされる戦況下で本土決戦に備えるべく、日本内地において軍事基地建設が進められた。それでも動員計画は策定された。1945年1月軍需充足会社令がだされ、軍需産業以外も軍需会社法の適用を受けた。土建業、港湾輸送業も指定を受け、朝鮮動員労務者も「みなし」から「徴用扱い」となった。1945年の資料の詳細は不明である。総需要数と供給数は一致していない。整合調整していない素案程度の資料が残っているに過ぎないからだ。それにしても総需要数は510-520万人と前年度を更に上回る。総供給数は409万人で供給源別は新卒70万人、学徒244万人、外国労務者(朝鮮人、台湾人、中国人)が40万人となっていた。朝鮮での労務動員や軍事動員も引き続き実施された。労務者官斡旋が4万4263人、軍事要員は4万7949人、兵士徴集は陸軍4万5000人、海軍1万人となっている。はたして集められたかどうかは分からない。1945年第1・四半期の労務者送出数は1万622人で充足率は21%に過ぎなかった。徴用を逃れて隠れている朝鮮人を取り締まるため朝鮮総督府は6月「徴用忌避取締指導要綱」を決定し、逃散したら連座制として代わりの人間を差し出さなければならないとした。徴用による援護措置は結局放棄されたままになっていた。総督府鉱工局の報告書には「・・・援護の手を差しのべることは事実上不可能である」と書かれていた。1945年には内地在住の朝鮮人人口は約200万人になった。こうして日本は敗戦を迎えた。敗戦時の日本の労務員動員状況は、日本政府によると、「被徴用者」が616万人(現員徴用455万人 現従業員を徴用に切り替えただけ)、学徒動員1927万人、女子挺身隊47万人、移入朝鮮人32万人、移入中国人3万人、その他一般従業員は418万人である。大蔵省調査(1949年)によると、「朝鮮人労務者対日本動員数調」では72万人となっている。徴用された者には国民動員援護会から一人10万円の慰労金が支給されたが、朝鮮人には支給されなかった。9月GHQと日本政府は朝鮮人の軍事要員と集団移入労務者の帰還輸送計画が実施され12月まで続けられた。しかし在日朝鮮人には、帰っても生活が出来ないとの理由で残留する人が61万人いた。