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千葉悦子・松野光伸 共著 「飯舘村は負けない」

  岩波新書 (2012年3月)

計画的避難地区飯舘村の復興への願いー土地と人の未来のために

著者千葉悦子氏が、飯舘村にどんなご縁が合って本書をなしたかは知らない。恐らく震災前から飯舘村を農村生活設計のフィールドワークに選んで足繁く村に通い、また村のアドヴァイザーとして村の審議会などに招かれていたご経験があったのだろうと思う。本書に入る前に千葉悦子氏のプロフィールを群馬大学のホームページより抜粋して紹介する。1952年北海道うまれで、北海道大学大学院教育学研究科博士課程を修了し教育学の博士号を取得した。福島大学行政社会学部講師、同助教授を経て、1996年より生活構造論の教授 となる。専門分野は婦人教育論、社会教育学、農民家族論だそうだ。 著書には「地域を拓く学びと協同」(エイデル研究所、2001年)、「現代日本の女性労働とジェンダー」(ミネルバ書房、2000年)、「地域住民とともに」(北樹出版 1998年)などがある。千葉・松野氏の共著としては本書のほかに「小さな自治体の大きな挑戦ー飯舘村における地域つくり」(八朔社)がある。これは本書の第3章「村つくりのこれまで」を詳述したものであろう。著者の専門分野である生活構造論の講座では、
1. 現代社会と国民生活
2. 現代社会と家族生活
3. 生活構造の基礎理論
4. 生活主体形成の条件と展望
の4つの基本的柱で構成している。著者は「なりゆきまかせの客体から、みずからの歴史をつくる主体になっていく過程(=主体形成の過程)の法則性の解明に関心をもち、その過程を広い意味での学習過程として捉えて主体形成論的社会教育論の研究を進めてきた。それを、労働者・農民の労働・活動をとおして形成される能力と家族や地域住民との間でつくられる関係性からつかもうとしてきた。したがってとくに重点的に行ってきたのは、農民の労働組織関係とそこにおける管理労働の編成のあり方に注目しながら、農家女性の労働や経営を主体的に編成する契機や条件を解明することであった。」という。著者らは1990年から飯舘村に入り、「若妻の翼」海外研修会の取材を行なった。それから著者らは飯舘村を研究調査のフィールドとしてきた。また第5次総合振興計画の策定や中間見直し作業にも加わり村民との親交を重ねてきたという。
共著者の松野光伸氏は千葉氏とおなじ福島大学行政政策学群の特任教授で、専攻は行政学・地方自治論 で、日本の行政の基本的性質・特殊性などについて、地方自治に関して分析することを主要な研究課題としている。従来は,自治会・町内会の機能,コミュニティ行政を対象に、実証的分析を深めることを研究の中心に据えてきたが、最近は中央省庁の過疎対策の変遷と過疎自治体の施策対応を検討することを通じて、過疎地域活性化の具体的政策論を提起することを目標に,基礎的実証的分析に取り組んでいるそうである。

飯舘村は人口6000人あまりの小さな村である。平成の市町村合併では合併の道を選ばず自立した農村を目指した。2011年1月29日著者らの福島大学小規模自治体研究所が主催するフォーラム「小規模自治体の可能性を探る」が飯舘村で開催された。「までいライフ」で住民協働の地域つくりを進める飯舘村の現地研修会であった。先進的な村づくりで注目されてきた村であった。それから約2ヵ月後、3月11日大地震と原発事故が村を襲った。飯舘村は福島第一原発の北西部にあり、村の地域の殆どは原発より30Km圏外にあったが、3月11-15日の原発の爆発に伴う高濃度放射能プルームが南東の風に乗って飯舘村を襲い、4月11日に「計画的避難地域」に指定され、国の管理下に入った。そして6月には全村民避難となった。8月上旬には村民の避難は完了したが、2世代、3世代家族は仕事、狭い住居、子供の教育問題でバラバラにならざるをえない。仮設住宅や公営宿舎に入れたのは3割にとどまり、約7割の村民は県の民間借り上げ住宅に散在することになり家族の絆や村の絆を失った。村は復興に向けて日夜奮闘して入るが、村が最初掲げた「2年で帰村」ははたして可能なのだろうか。本当にあのような高濃度汚染地区に人が帰ることが出来るのだろうか、国の除染対策が遅遅として進まない中で村民の不安は増すばかりである。このような計画的避難地域の全村避難徒いう現実では、「反原発・脱原発」という問題意識だけでなく、今これからをどう生きるかという、ひとりひとりの生活再建が前面に出てくる。

2011年12月野田内閣は福島第一原発事故対応に新たな展開を行なった。12月16日原子炉が「冷温停止状態」になったとして、「収束宣言」を出し、18日には「警戒区域」と「計画的避難区域」を放射線量に基づいて三区域に再編した。翌年1月26日環境省は「除染ロードマップ」を発表し、事態をむりやり収束させる方向で動き出した。これには佐藤福島県知事を始め自治体首長は「収束という言葉に、違和感を覚える」と反論し、「どこが、なにが収束なのか」という疑問が出された。本書は震災1周年を期して出版されたが、避難生活は始まったばかりで、仮設住宅と借り上げ住宅に住む村民の軋轢、県外避難者の疎外、村行政と村民の不満に亀裂が深まり村は存亡の危機に直面している。賠償金と村を売り払って新たな大地で生活再建を求めようとする人々も増えてきている。放射線汚染が短時間で収まるはずもなく、帰村できるまでに何年かかるか誰にも分からない期待を抱き続けても生活が出来ないので、早く生活できるように一人ひとりの復興を図らないといけない。農村の基盤を失った村民が都会で一労働者になれるか、農民として復活したい、そして国は飯舘村の高濃度汚染地区を「棄村」するかもしれないという葛藤が毎日繰り返されている。本書はそのため、この1年間村は何を考えどう対処したのか、村民はどう考え行動したのか、畜産農家、地域づくりを担ってきた若者、婦人、家族、村職員などの個々人の思いや考え、行動を辿ろうとする。いまのところ何が光明として見えるわけではない。そういう意味では本書は混沌の中にある。最悪は棄村して移住ということになるかもしれないが、そうなると村として自立して復興ということも意味がなくなる。村組織自体が消滅するかもしれないが、国としては小さな村がひとつ消えようとなにひとつ痛いことは無い。むかし明治時代に古川電工足尾銅山鉱毒事件の解決策として、遊水地を作る名目で強権をもって谷中村の全村北海道移転という事態があった。国はそんな事をやりかねない怪物である。チェルノブイリ事故のように、福島第一原発事故で、双葉町、大熊町、富岡町、浪江町、葛尾村、南相馬市の一部、そして飯館村の一部は廃村として居住禁止地域となる可能性は高いのである。

2012年4月4日asahi.comに、「平野達男復興相が、東京電力福島第一原発事故で立ち入りを制限している警戒区域の中に、将来にわたり住民が帰宅できない区域の設定を検討していることがわかった。政権は避難区域を三つの区分に再編し、福島県全域での帰宅をめざしているが、帰宅不可能な区域を認めるのは初めて」という記事がでた。チェルノブイリの例を出すまでもなく、原発事故周辺地域での帰宅はある程度ありえないことはわかっていたはずである。全域帰宅ということは希望に過ぎないのであって、行政も嘘ばかりついているわけには行かなくなったのである。 下図に避難3地域の区分地図と放射線濃度を示す。

避難地域

原発事故から1年経った飯舘村では、現在、除染、帰村という村今後の方向性をめぐって、意見の激しい対立がある。上にあげた居住禁止地域の殆どの自治体では意見を表明したり、行政とぶつかり合う経験が出来ていないようだ。その意味では飯舘村での激しい意見の衝突は逆に村の復興にとって可能性を見出すことが出来ようと著者は期待している。本書は政策学の書としてははがゆいところがあり、国に翻弄される村の自治という切り口ではない。読む人はあくまで農村が主体的に生活する道筋の模索という観点で読まなければ、欲求不満に落ち込みそうである。著者らがいうには、本書の目的は政府の行政を追求したり、上から目線であるべき行政の考えを述べることではなく、飯舘村の今の取り組みや住民の声をそのまま伝えることにある。結局住民が自分の生活をどうしたいのかを語りつくせないと、阪神淡路大震災後の都市再建ではなく、過疎地の復興は主体的に出来ないのである。霞が関が復興をするのではない。畑を耕し牛を追う農民がどんな田舎を再建したいのかを問うことである。

1: 原発事故前までの村づくり

飯舘村は1ヶ月で避難しろという指示に対してなかなか従おうとはしなかった。それはこれまで取り組んできた村づくりを無にしたくない思いと、その経験が生んだ強い根性にあったようだ。飯舘村は上の放射線汚染地図に見るように、福島県浜通りより北西部に位置する。阿武隈山系の北部にあるため、75%は林野が占める山間の村である。気候は年平均気温10度前後で寒さが厳しい。冷害が度々襲い、近年では1980年と1993年の大冷害が記憶に新しいという。村は1956年の合併(飯曾村と大舘村)以来、比較的霜害の少ない畜産の振興を進め「飯舘牛」のブランドを確立した。人口は合併時1万1403人であったが、2010年には6588人に減少し、高齢化率は29%である。村の基幹産業は農業で主要産物は米、畜産、葉タバコ、野菜、花卉である。2005年の就業人口比率では1次産業が30%、2次産業が39%、3次産業が31%である。世帯数でいうと農家が70%である。村おこしは、国の言葉でいうと1983年から10年間の「第3次総合振興計画」(第3次総)から始まる。新たな産業振興策として肉用牛を主とする畜産と高冷地野菜の振興を打ち出した。1984年から村営牧場を興し「ミートバンク」事業となって、「飯舘牛」のブランド化と会員制牛肉宅配便をおこなった。このなかで地域づくりへの取り組みは「夢創塾」結成へ繋がった。ここから村長や村議員が誕生した。1989年「若妻の翼」という海外研修が実施され、農村主婦の自立と活性化につながった。竹下内閣の「ふるさと創生1億円」事業には、飯舘村は「農村楽園基金」として、「人つくり」、「地域づくり」、「景観づくり」を推進した。

1994年に始まる「第4次総」の計画づくりが1992年から始まった。村は20の行政地区から、地区別計画策定委員を選び、「地区白書」作成から10年間の地区計画の策定作業に入った。すべての行政区に一区あたり1000万円の事業費を振り当て(ふるさと創生金のまね?)計画も丸投げした。ただし10%は地元負担である。また農水省は2000年より「中山間地域など直接支払い」を制度化した。傾斜地の多い農作業困難農地への補助金制度である。飯舘村は村全体が中山間地域であるので、この制度を利用してすべての行政区に補助金を出したのである。観光わらび園、ふれあい茶屋、など直売所や休憩施設、憩いの場を整備した。2004年から「第5次総」が始まった。その計画は2002年度から始まったのだが、市町村合併問題で村が分裂し、村民集会、住民投票、村長選挙を繰り返して、結局菅野村長は「自立の道」を選んで、法定合併協議会会から離脱した。農水省は2005年度以降も「中山間地域など直接支払い」制度を継続し、2007年度には「品目横断的経営安定対策」という所得補填制度を実施した。第5次総の振興計画は「大いなる田舎 までいライフ飯舘」となずけられた(「までい」という方言は、心を込めて、丁寧にというような意味)。村では子育て支援に取り組み、「までい子育てクーポン」を第3子以降年間5万円を支給した。また直売所「森の駅 まごころ」の設置、レストラン、農家民宿などを始めた。2009年から第5次総の中間見直しに著者らの福島大学の職員大学院生とタイアップして行なわれた。このように見て行くと、飯舘村の村おこしとはほとんどが国の補助金や支援金を基に(便乗して)行なわれている。新自由主義者からいわせると、無駄な予算となるが、経済的に自立しえない(?)農業で生きてゆくことの宿命かもしれない。こういった農業政策については不勉強なのでもう少し考えた上でコメントしたい。いまはどうこうは言わない。

2: 村は原発事故にどう対応したかー全村避難と国への要望

3.11東日本大震災は大津波をもたらし原子力緊急事態宣言が発せられた。翌12日避難区域を10Kmに拡大、1号炉で爆発、14日3号炉で爆発、15日2号炉で爆発音がした。正門付近で毎時8217マイクロシーベルトを記録した。飯舘村は山間部にあるため津波の被害はなかったが、全村停電、水道・電話不通、ガソリン入手不可能などライフラインが断たれた中、避難してきた南相馬市、双葉町の避難者1300人を受け入れた。15日には20―30Km圏内が屋内避難指示となり、飯舘村の一部がそれに該当した。村が放射線のモニタリングを県の依頼で始めたのは14日からである。この15日午後に風が南東に変化し、放射性プルームが第1原発より北西の方向へ流れた。夕方から測定値がどんどん上昇し44.7マイクロシーベルトになった。「間違いだろう」と騒ぐ中、村の職員らは避難者対応に追われた。「いますぐ子供らは逃がさなくてはだめだ」とか、「国は大丈夫といっているから大丈夫」とかいう意見が交錯した。3号機の爆発によって村外の避難者は村を去り、17日には避難所は廃止された。18日には飯舘村の妊産婦や子供を県外避難希望者の集団避難を鹿沼市に移動する事を決定し、20日までには509人が避難した。20日に簡易水道から965ベクレル/Kg(基準の3倍)のヨウ素が検出され、23日には土壌からセシウム137とヨウ素が通常の1600倍が検出された。京都大学今中氏が環境中測定を行なうと、村の南端において毎時20マイクロシーベルトをこえて線量計が振り切れたという。30日IAEAは「飯舘村の放射線レベルが避難基準の2倍に達した」として、日本政府に飯舘村を避難勧告の対象にすべきと呼びかけた。しかし国はコンパス規制(半径30Km)にこだわり、勧告を無視した。4月6日村は妊産婦と乳幼児を村外に避難する事を決定した。この時期(3月末から4月初旬)村の幹部は長崎大学の高村、山下教授、近畿大学の杉浦氏らの御用学者(放射線アドヴァイザー)の意見「何でも大丈夫」という放射線健康安全神話に包囲されていた。

4月11日コンパス規制に拘っていた国は避難基準の見直しを行い、年間積算被爆量が50ミリシーベルトから20ミリシーベルトに切り下げて、飯舘村は「計画的避難区域」となった。村では13日ー16日に村民への説明会を開き、牛をどうする、設備移転はできるのかなどの意見がでたが、17日枝野官房長官は村を訪れ、時間がかかっても全村避難を促した。国からは補償の約束は一切なく、4月22日村は計画的避難区域に指定され、何をするにも国の許可が必要となり国の監督下に入った。4月26日「愛する飯舘村を返せ!村民決起集会」が開かれ、5月25日村で最後の「村民の集い」が開かれた。4月25日村は川又町と共同で首相への10項目の要望書を提出した。特例として、被爆量を村が管理するとして村内の8つの事業所と特老施設の継続を認めさせた。村への人の出入りは許可されているので、村としてはセキュリティ対策として「いいたて全村見守り隊」を組織し、雇用対策も兼ねて8億円の事業費を充てた。また村民が避難先で行政サービスを受けられるように2つの住民票を総務省に要望した結果、8月に「原発避難者特例法」が制定され、避難自治体に行政サービスの実施を義務付けた。農村として除染・土壌改良は第一の要望である。9月には村は「飯舘村除染計画書」を国に提出した。住環境として年間1ミリシーベルト以下に、農地は5年以内に放射性セシウムを土壌1Kgあたり1000ベクレル以下にするとし、その費用は3000億円を要望するものであった。村民の避難は、緊急度の高い1041戸の第1次避難が5月中旬から始まり(避難済み285戸、自主避難531戸)、福島市に230戸の仮設住宅を建てたりしたが、バラバラに分散した避難となり6月22日には終了した。

3: 命と健康、なりわいを守る取り組み

村では「学校避難4原則」を作成し、4月20日入学式と始業式を行い、バス10台で川俣町の幼稚園、小学校、中学校へ通学した。しかし4月11日の計画的避難区域指定を受けて、村は5月9日6500人の全村民避難計画を県に提出した。妊産婦、乳幼児、小中高校生をもつ世帯、特に放射線量の高い3地区(比曾、長泥、蕨)の世帯など1014戸を優先した。6月下旬に避難が終った。県は予算を計上し、15歳未満と妊婦の30万人に線量計を購入する市町村への補助を決め、飯舘村も12月下旬に線量計の配布を始めた。飯舘村に残った特老施設への入所希望者が増える傾向にあるが、職員は4割強が避難などから辞めて行った。入所待機者は100名くらいいる。避難は8月には2次避難をほぼ完了し、村民の避難者は99%以上となった。避難先は県内では福島市へ3687人へ避難し、比率は67%である。避難先が狭いためや仕事の関係などで世帯を分離せざるをえないためバラバラ、転々となった。高齢者は友達を求めて家族と別れて仮設住宅に移るケースも増えている。そして多くが持病を悪化させている。8月5日原子力災害対策紛争審議会の中間報告には、「急性・晩発性の放射線被害が出た場合補償の対象となる」という指針がでた。「健康手帳」は今後の発病の際の証拠となり得るのであるが、18歳未満と限られている。そこで村では19歳以上にも健康手帳を無料配布することにした。

4月12日の飯舘村村議会は「2011年度の米、野菜などの農作物を作付けせずに、補償を求める」事を承認した。又農水省は牛3000頭の移動を計画したが、他町村で拒否されたため、牛の移動は348頭にとどまり、出荷・購入により殆どの農家は牛を手放した。福島県内の牛乳出荷停止のため4月20日村の酪農家12戸は廃業を決めた。そして飯舘村では肉牛農家もほとんどが廃業した。小規模・高齢者の兼業農家なるがための経営難からきている。6月福島県内で酪農家が「原発さえなければ」と書き残して自殺した。12月設備ローンを苦に農家の自殺が相次いだ。林業は5月末で事実上の休業となった。休業中の村内の企業も継続か移転を迫られている。移転できたのは30%ほどで休業中の35%をあわせると、約6割以上の企業は事業を継続できない情況にある。建設関係や石材関係は復興のための公共事業を前に、資金不足で手も足も出ない。他県の企業に仕事を奪われている。村は経産省の中小企業基盤整備機構による「仮設施設整備事業」を利用し、2011年度中に12の事業所がこの制度により事業を再開できた。村にあった小売店60店、飲食業12店の営業再開のめどは立っていない。12月の村議会は「復興プラン」をたて、住環境を2年以内に、農地の除染を5年以内に、山は20年で除染の目標をたてた。農民は土がなければ生きてゆけない。避難住宅地で農園を作り始めている。また「どぶろく特区」つくりも始まった。飯舘ジャガイモベーク工房の再開、正月用お供え餅の販売など少しづつ農民は動き始めている。

4: 一人ひとりの復興へ

2011年6月22日飯舘村役場飯野出張所の開所式で、菅野村長は「までいな希望プラン」を発表し、村長の気持ちを伝えた。@避難生活は2年くらいに A健康管理につとめる B除染作業を進める C仕事つくり、人つくり Dまでいな復興プランを作るなどをあげている。2年で帰れるかどうかは全く予断を許さないが、避難生活に耐えられる限界というほどの意味で、もし物理的に実現しなかったら離散・移住になる可能性も高い。この点を巡って村民と激しい意見の齟齬が見られる。村長は国に除染・土壌改良国家プロジェクトを要求し、予算は3200億円と算定した。この金額を見て村民に激しい動揺が起きた。村民一人当たり5000万円である、そんな大金があるなら移住先での住居と生活再建が先だという「とらぬタヌキの皮算用」が起ったのだ。村の帰村計画に対する疑問や不信が渦巻いた。2011年9月国は「放射性物質汚染対処措置法」(施行は2012年1月)を定め、市町村に除染活動を丸投げし、汚染物質仮置場の確保まで丸投げした。自治体は仮置場の周辺住民の同意を得ることが難航し自治体の除染活動は壁にぶつかった。しかし11月の「第3次補正予算」で認められた除染関係費用は福島県全体で2200億円で、飯舘村への除染費用は6億円が認められたに過ぎなかった。10月から12月までに17回連続して行なわれた住民懇談会では、村より除染計画と「飯舘復興計画」素案が説明された。村が目指す復興とは「村の復興ではなく村民一人ひとりの復興」であると説明された。懇談会ではバラバラに分散して避難している住民より「村からの情報が少なく、村から見捨てられたよう」という声もあった。また「除染して帰村』という村の方針そのものに対しても批判が強く、村が集団移転や新村建設の方向に舵を切ること、或いは土地の買い上げや賠償・補償金交渉に力を注ぐことを求める声が強かった。村と村民の間に溝がある事が浮き彫りにされた。

村の「復興プラン」は役場の職員と所外の学識経験者のアドヴァイスを受けながら8月ー10月に作成したものであった。村民会議は12月8日村長に「いいたて までいな復興計画」(1版)を提出した。基本となる5本の柱とは、@いのちをまもる A子供の未来をつくる B人と人がつながる C原子力災害をのりこえる Dまでいブランドを再生するとして、帰村計画を2年後に一部帰村を開始する、5年後に希望する全村民の帰村の実現、10年後に復興の達成と表現の修正を図った。気持ち論から住民目線での現状を良く見て課題を設定する方向へ移ったといえる。検討部会として、「教育」部会、「仕事」部会、「除染」部会で課題を煮詰めてゆく。12月16日村議会は復興計画を議決し、予算措置を了承した。15歳以下の子供、妊婦に線量計を配布し、ホールボディカウンターの購入、18歳以下の甲状腺検査の実施を決めた。また当面の除染目標を年間被爆量5ミリシーベルトと定め、除染廃棄物仮置場を村内の国有林に設備するとした。2012年1月26日環境省が出した除染工程表では、20ミリシーベルト以下の「避難指示解除準備区域」から始め、20―50ミリシーベルトの居住制限区域に及んで2014年3月までに20ミリシーベルト以下にするというものであった。50ミリシーベルト以上の帰還困難地域は除染は無理としてギブアップとした。この地域の除染は放棄され半永久立ち入り禁止区域になる可能性が高い。村は全地域の除染を行なう独自の除染工程表を作成し、2月7日から住民懇談会を開催した。これに対して「新天地を求める会」は署名運動を広げ、全面的除染に固執すべきではない、村は集団移住の保証を求め除染費用をそれに当てるべきだという。


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