120328

上野千鶴子著 「家父長制と資本制ーマルクス主義フェミニズムの地平

  岩波現代文庫 (2009年5月)

男と資本の奇妙な野合 家事労働から階級闘争へ 「お一人様」が吼える

著者上野千鶴子のプロフィールは、ベストセラー 上野千鶴子著「おひとりさまの老後」(法研 2007年)にも書いておいたので繰り返さないが、本書「家父長制と資本制」の関連でいうと、1982年アメリカのシカゴ大学に留学しナタリー・ソコロフにマルクス主義フェミニズムを学んだことの影響は大きい。1995年より東京大学大学院(社会学)の教授となった。2012年において上野氏は東京大学名誉教授で立命館大学大学院特別招聘教授である。本書は1990年10月岩波書店から出版され、2009年5月に岩波現代文庫として再刊された。著者の30歳代の労作であり、出発点となった。岩波現代文庫本では著者は、本文の内容は歴史的意味で存在するので、後知恵のような改訂はしないという。従って内容は1990年までであり、現在の興味からすると物足りない。当然のことであるがバブル崩壊や「失われた90年代」や新自由主義は盛り込まれていない。著者に時間がないのか情熱が失われたのか分からないが、現時点でのフェミニズム運動の進展を知りたい読者にとって、本書の全面改訂が待たれる。岩波文庫本の面白いところは巻末に「自著解題」という著者による解説をのせている。本書は書名から想像出来るように、フェミニズムを議題とするが狭い意味での女性擁護論ではなく、資本主義とフェミニズムの関係を論じた内容である。そこで先ず、一般的なフェミニズムの歴史と内容を概観しておこう。

フェミニズムは、性差別を廃止し,抑圧されていた女性の権利を拡張しようとする思想・運動、性差別に反対し女性の解放を主張する思想・運動などの総称で男女同権運動との関わりが深い。1789年にフランス革命によりフランス人権宣言が採決されたが、これが女性権利要求につながりフェミニズム運動の始まりとなった。19世紀になると、女性の権利拡大を求める運動が組織化された。多くの場合は、これ以降の動きを指してフェミニズムと呼ぶ。19世紀後半から20世紀、特に第一次世界大戦の間に、多くの国で女性の参政権が認められた。歴史的には3期に区分される。
第一波 は18世紀から20世紀初頭の、近代国家における投票権や参政権のほか就労の権利や財産権などの法的な権利の獲得にかかわる闘争を指す。
第二波 は20世紀初頭から1970年代ぐらいにアメリカを主にしておこった運動で単なる働く権利ではなく職場における平等、男子有名大学などへの入学の権利、中絶合法化、ポジティブ・アクションなど市民権運動の一環として行われた女権運動を指す。
第三波 は1970年以降のフェミニズムで様々な思想が存在する。一般的な傾向としては、法あるいは制度上の問題とは異質の見えづらい様々な問題が議論の俎上にあげられるようになったと言える。人種や民族、性的指向、階級などの要素を考慮し、一枚岩ではない多様な立場にある女性たちの経験を反映させようとする動きが加速した。男女の真の平等が達成されるためには社会のジェンダー観、つまり社会的、文化的に構築される性が改革されなければならないとの主張などが見られたのもこのときである。

第3波以降のフェミニズムの主な潮流を概観する。分類区分は上野氏とは異なるが、広い意味で分ける。
リベラル・フェミニズム(近代フェミニズム) :1970年代に広まり、主流派となったフェミニズム。一般に個人主義的・自由主義的傾向を持つ。男女平等は法的手段を通して実現可能で、集団としての男性と闘う必要はないと主張する。ジェンダー・ステレオタイプ、女性蔑視のほか、女性の仕事に対する低賃金、妊娠中絶に関する制限などを男女不平等の原因と考える。
マルクス主義フェミニズム :資本主義が女性を抑圧する原因だと考える。資本制的生産様式では男女不平等は決定しているとみなし、女性を解放する方法として資本主義の解体に焦点を合わせる。
ラディカル・フェミニズム :1970年代に米国で誕生。公的領域のみならず家庭や男女の関係までも含む私的領域まで急進的な姿勢で問い直すことを主とする。ポルノグラフィーに対する法的規制運動における思想的支柱。
ポスト・フェミニズム(バックラッシュ) :ポスト・フェミニズムとは第三波のフェミニズムに対する批判として生まれた複数の見解を指す。アンチ・フェミニズムと通じる。
上野氏はこの分類に差別化するため、上の分類の「マルクス主義フェミニズム」を「社会主義婦人解放論」とし、自分達の立場を「マルク主義フェミニズム」(内容は後で述べる)という。そしてリベラル・フェミニズムを歴史的に用済みとして無視、バックラッシュを反動勢力としてこれも無視する。結局本書で解析するのは @社会主義婦人解放論 Aラジカル・フェミニズム Bマルクス主義フェミニズム である。

上野氏はあとがきで本書の誕生にいたる自分の思想経過を述べられている。1980年にリベラル・フェミニストの水田氏からマルクス主義フミニズムを知り、クーンとウォルブの「フェミニズムと唯物論」の存在を知ったという(反対陣営から教えられたというのは上野氏一流の皮肉か)。そしてこの本の邦訳をこころざし1984年に「マルクス主義フェミニズムの挑戦」として刊行した。1982年ごろから「主婦論争」に参加していた上野氏は、女の問題を考えるには「家事労働」の理解が核心であると確信しマルクス主義フェミニズムに急接近したようだ。その結果を1983年日本女性学研究会で発表し、「資本制と家事労働」として刊行された。この問題を論文にするため、1986年から1988年の2年間「思想の科学」で「マルクス主義フェミニズムーその可能性と限界」という連載を行なった。1987年ロンドンの社会主義フェミニストのアネット・クーンやアンマリー・ウォルブらと交友を持った。連載が終了して、この原稿に手を入れて1990年に岩波書店より刊行したのが本書である。著者がマルクス主義フェミニズムに開眼して10年後にものにした労作だという。30代の著者の若気の至りで、なくてもがなの攻撃的で、挑戦的な内容の記念碑だそうだ。本書巻末の「自著解題」より、本書の議題を巡る2009年より見た包括的な解説を読んでいこう。

1960年代の日本で起きた「第2次主婦論争」で「家事労働」が大きくクローズアップされたにもかかわらず撤退を余儀なくされた。その頃の日本のフェミニストの多くはマルクス主義に理解がなく、マルクス主義陣営ではフェミニズムに関心がなかった。いわばフェミニズムとマルクス主義はすれ違い状態になったことがその原因であると著者は考えた。そこで著者らのマルクス主義フェミニストグループはマルクスの古典に挑戦し、マルクスを乗越えてゆこうとしたラジカル・フェミニストの手によって成立した。社会主義婦人解放論の人々はリブを「プチブル急進主義」と批判し、フェミニズムを「ブルジョワ女性解放思想」と解釈した。世間ではマルクス主義フェミニズムと社会主義婦人解放論の区別があいまいであるが、著者はこれを「差別化」して、「マルクス主義フェミニズムとは第一義的にはフェミニストであり、ラジカルフェミニズムを経由してその視点をマルクス主義に持ち込んだ思想である」という。ソ連・東欧は滅んだが、マルクス主義の理論的切り口は今なお非常に有力であるということだ。マルクス主義フェミニズムに対する批判を整理した著者による1995年の論文「労働概念のジェンダー化」によると、近代主義の立場から不払い家事労働の男性による搾取を否定したり、家父長制の概念そのものを社会学理論として妥当では無いとする批判や、マルクス主義フェミニズムを理解して上でそれを一元的経済理論で統合する論や、家父長制の展開を労働のジェンダー分割を含んだ資本の本源的蓄積に統合する論や、第3の行為者「国家」の役割を強調する論があった。フェミニズムをマルクス経済学から解析する試みは、経済学の分野でも財の生産や交換に止まらず、本来の人間の生命と生活の再生産へ取り戻す「フェミニスト経済学」が誕生した。

「不払い労働」の概念が従来のフェミニズムを大きく塗り替える理論的支柱となった。女性の「不払い労働時間」は大きく男性のそれを超えるものであり、1995年国連北京女性会議の行動綱領に「不払い労働のサテライト勘定」を各国に要請した。1997年経済企画庁は「家事労働の値段」を貨幣価値に換算して年間276万円と発表した。その評価は不当に低いものであったが、「見えない労働」を「見える労働」に変えた意義は大きい。それでも不払い労働の中になお主要な部分を「再生産労働」が占める。経済用語である「再生産労働」とは、出産・育児・教育・高齢者親族介護を含むケア労働のことである。一部社会化されつつある(市町村による出産支援金、子供手当て、高校教育費無料化、介護保険など)が、実質労働の殆どは女性(主婦)の手によって担われているのが現状である。「不払い労働」とはその価値に対して資本が支払わない労働をいう。男性の場合は「サービス残業」がそれである。イリイチはこれを「シャドウワーク」と呼んだ。マルクス主義フェミニズムは不払い労働の根底にあった性差別に基づく産育、看護、介護、教育などの家庭内ケアという広い意味での再生産労働の位置づけを問うた。近代家族とは別名、「依存(福祉)の私事化」であり、「無償の福祉機関」という制度である。人の再生産が「本能にゆだねられた」自然過程でないことは、昨今の急激な「少子高齢化」による政府の慌てぶりで歴然となった。これは資本側の悲鳴である。労働市場は無限の競争状態(資本の買い手市場)にあるのではなく、人口が将来半減することが正確に予測されるのでGDPもそれに比例して半減するだろうという見込みに慌てているのである。政府の「産めや増やせや」の掛け声には、人々は苦労が増えるだけで将来子供達が食えるかどうか不安なので決してこの宣伝には乗らないのである。

資本制とは市場から成り立つものであるが、さらに上位にあるイデオロギー装置をも含むものであり、市場に還元されるものではない。市場に係る資本、土地、労働、国家を言い換えると、国民経済は家計、企業、国家の3者からなり、それは市場減理に支配されるものではない。市場原理で覆いつくそうとするのが市場原理主義者(新自由主義者)であるが、マルクスは国家を重要視したが家族の視点が十分ではない。国家の役割は規制・調整・介入であり、市場の限界をケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』において国家の調整機能で乗越えようとした。日本の新自由主義は労働界に及び1985年「男女雇用機会均等法」、「労働者派遣事業法」が成立し、男女参画社会というきれいごとの時代となった。ところが1990年代のバブル崩壊と不良資産処理による「失われた90年代」を経て、21世紀初頭の小泉内閣の規制緩和と財政縮小(小さな政府)で最高潮に達し、リーマンショックで世界経済大不況を招いて市場原理主義は崩壊した。

マルクス主義フェミニズムは性支配と階級支配が補完しあっている関係を明らかにしてきたが、理論的には資本制が先か、家父長制が先かを巡って統一理論と二元論の2つの潮流がある。理論的には統一理論に向かい易いものだが、現在のロンドンの社会主義フェミニズムサークルの多くはそういった理論的興味よりも、実証的で経験的な女性労働研究に向かい比較分析を重視した。経済学者の岩井克人は「資本は差異性から利潤を得る」という見地から見ると、人種、性、階級だけをいくら個別に追い詰めて考えても埒があかない。世界を全域的な統一理論で説明し抜くことは可能ではない。より多元理論的に考える必要があるというのが著者の最近の感想のようだ。さらに近代リベラリズムの女性解放思想であるリベラル・フェミニズムはフランス啓蒙思想(進化主義・人権・普遍主義)の流れをくむものであるが、「アメリカンデモクラシー」の著者トクヴィルの憂鬱に近い感慨を著者は持っているようだ。リベラルフェミニズムは自由主義思想に忠実に同伴するならば、「男女共同社会」において軍隊への男女共同参画を求めようとするのだろうか。また共同参画において女性を競争の減理に投げ込み、外国人労働力と同様に当面は安い2流の労働力として、男性の賃金を下げる役目を担わせることに協力しようとするのだろうか。リベラル・フェミニズムが新自由主義に加担することがなければいいのだがという愁いがつきない。

第T部 理論篇
第1章 マルクス主義フェミニズムの問題構制

女性解放の理論がマルクス主義の影響から抜けられないのは、マルクス主義だけが近代産業社会についての抑圧の解明と解放の唯一の理論であるからだ。階級社会が廃絶されれば自動的に女性も開放されるはずであった。しかし社会主義革命は女性の開放とはなっていない。社会主義革命は男の開放をもたらしたかもしれないが、マルクス主義は家族、性の理論に熱心ではなかったと考えられる。社会主義婦人解放論に「ノー」といったのがウィーメンリブことラディカル・フェミニズムであった。1960年代末の学生運動と対抗文化運動(ヒッピー)が収束してラジカル・フェミニズムが誕生した。日本では1970年にリブ大会が開かれた。その運動の理論的支柱となったのが「フロイト理論」であった。フロイト理論はマルクス主義と並んで近代社会の抑圧構造を解明する理論であったからだ。フロイトの心理学は幼年期から成人するまでの家族制度の再生産メカニズムである。フロイト理論は近代社会の社会領域が市場と家族に分割され、それが女性差別の根源となっていることを解明した。階級支配についてはマルクス主義理論があったが、性支配についてはフロイト理論が解明した。しかしフロイト心理学はこれを病気と称して精神分析医が「治療」を行ない、再適応させもう一度「抑圧社会」に復帰させるのである。これに対してフロイト左派からフロイト理論とマルクス理論を統合するラジカル・フェミニズム運動が起った。

ラジカル・フェミニズムは市場の外に家族という社会領域を発見した。ここが革命的発見である。マルクス主義は市場の成立する領域しか扱えなかった。市場の外部には「自然」と「家族」が存在し、それを利用して市場は外部から資源を受け入れ、廃棄物・用済み資源を外部へ放出するのである。市場は自然とのやり取りで、石油などの自然資源をインプットし廃棄物をアウトプットする。市場の失敗は資源枯渇と公害であった。一方市場は家族とのやり取りで労働力をインプットし、失業者、老人、障害・病者をアウトプットする。この過程で成人女性は軍隊で端的に見られるように「人以外」という取り扱いで、家族の中へ置き去りにされた。階級一元支配説をマルクス主義は「資本制」と名づけ、性支配一元説をフミニズムは「近代家父長制」と名づけた。マルクス主義フェミニズムは階級一元支配説も性支配一元説もとらない。それぞれを独立な要因とみなして男女の関係に固有な歴史的形態を解明しようするもので、これを「家父長制資本制」と呼ぼう。女性の抑圧の構造を解明するには両方の理論が必要であるからだ。著者はブルジョワ女性解放思想をフミニズム理論には含めない。それは自由と平等という市民革命の原理は市民ブルジョワ階級を解放したが、女性にとって「裏切られた革命」に過ぎない。リベラルフミニズムは「啓蒙思想」であり、「遅れた婦人たち」を導くだけのものだ。いわば女性犯罪被害者救済の役割で解放の理論ではないからだという。フミニズムは近代批判から出発し、近代的な性支配の仕組みを構造的に解明しなければ力にならない。

第2章 フェミニストのマルクス主義批判

ラジカル・フェミニストのジャッキー・ウェストはマルクス主義を批判して「家族は階級分析の外にある」といった。フェミニストのマルクス批判派その限りにおいて正しい。マルクス理論は生産関係における階級のみを問題とした。市場の外にある「家族」(老人、子供、女性)は最初から省かれていた。マルクスは労働力再生産のための条件を「生殖本能に任せる」として、家族の分析を放棄した。市場にとって外部である家族は労働力再生の場であり、労働市場が成立するためには必然的に労働力予備軍の存在が不可欠である。かってはこの労働力は無尽蔵に見えたのだろう。男女の性分業は身体的差異に基づく自然な分業とみなされた。家族を市場の外に置いた資本制は、しかししっかりと家族を間接的支配下に置いている。女性が市場に参加した場合女性の労働力は労働市場では2流の労働力として現れる。男女賃金格差、アルバイト程度のパート労働などはその例である。家族内において女性は再生産を巡る権利・義務関係に入り、女性は妻・母・娘・嫁の権力関係に組み込まれる。ラジカル・フェミニストはこれを「家父長制」と呼んだ。生産関係と再生産関係が資本制と家父長制という固有の形態をとり、弁証法的に関係しあうあり方をマルクス主義フェミニズムは「家父長制的資本制」と呼ぶ。マルクス主義フェミニズムは家父長制が単にイデオロギーや心理的抑圧ではなく、はっきりした物質的・社会的・経済的支配関係にある事を解明する理論である。

第3章 家事労働論争

マルクス主義フェミニズムの最大の貢献は「家事労働」概念の発見であった。「家事労働」は市場と家族との相互関係を見事に表現する。マルクス主義では労働力は商品となったが、家事労働は市場によって商品化されなかった労働のひとつである。戦後の家電製品の普及、食品・衣料産業などは家事サービスを次々と代替していった。洗濯という労働はクリーニングという市場ではれっきとした生産労働である。クリーニング屋がおこなえば「生産労働」であるが、主婦が洗濯をしても「消費労働」の内に入れられる。交換価値=市場価値を生まないからだという。なんと恣意的な市場の線引きではないか。デルフィは家事労働も労働であるが、ただ金が支払れない「不払い労働」であると定義した。つまり「家内労働」は近代以前ではひとつの生活単位では、牛を飼い、乳を搾り、食卓に乗せるまで一連の仕事は家族全員の当たり前の労働であった。どこまでが生産で消費なのか判別できない。特にそれは農業労働では「生産労働」と「非生産労働」の分割は不可能である。市場に出せば生産労働、自分の口に入れば消費労働とでもいうのだろうか。家内労働と家事労働には本質的な区別は無い。近代化・産業化によっても市場化されずに残った家内労働を家事労働と呼び、市場化されないから「不払い労働」となった。この家族・家内という非市場的・非貨幣的な部分を見て行くことが女性の現実を見ることになる。有用で不可欠な労働でありながら女性にたいして法的・経済的な補償はなく、無権利状態におかれているので「不払い労働」ということになる。男によって不当に押し付けられた労働の認識から、「女性=非抑圧階級」という「女性階級」が成立するのだという。「愛」と「母性」という価値観は、女性の労働を搾取してきたイデオロギー装置である。

女性労働を「主婦労働」と呼ぶことにより、そこに趣味的なもの(パンつくり、生け花など)を含めて「家政」という上流階級の奥様がおこなう指揮監督労働がある。これをドメスチック・フェミニズムでいう性別役割分担では、主婦は家事労働者であるより「家事使用人」を雇ってもいい。育児にしても乳母を雇うことができ、子どもを生む以外に家事を何一つしない「女王蜂」のような奥様もいるわけである。「家事労働」は「主婦労働」と同意味になるには、人件費が高騰し主婦が1人で家事をこなすようになった大衆化時代以降の事である。日本の家事労働論争は1960年の第3次主婦論争からである。「主婦労働に賃金を!」を展開したが、マルクス主義経済学から「家事労働は交換価値を生まない」という解答で沈黙してしまった。イギリスでは1970年半ばごろから社会主義フェミニストの間で「家事労働論争」が起きた。家内労働は非市場的な労働という発見があったが、1980年に入って「家事労働に賃金を!」徒いう非現実的なスローガンを出して運動は自然消滅した。フェミニストの関心はより社会的な文脈で、女性の2重労働、労働の性差別、不払い労働論に引き継がれた。それがマルクス主義フェミニズムとなってゆくのである。

第4章 家父長制の物質的基礎

「家父長制」とはラジカル・フェミニズムが発見し、マルクス主義フェミニズムがこれを受け継いだ。「家父長制」とは必ずしも前近代的な大家族単位をさすものではない。ソコロフは家父長制を「男性に女性支配を可能にするような社会的権力関係の総体」と定義する。ハートマンはそこに「物質的基礎を有する」という。マルクス主義フェミニズムはラジカル・フェミニズムの心理的・イデオロギー的な家父長観を超えて、制度と権力関係という物質的基盤の変更を迫るのである。社会的関係で男性優位社会から逃れて単婚関係になったとしても、夫の理解があっても夫優位の性支配から逃れることは出来ない。男性は一種の「利益集団」として働いている。男性が自己の利益を守る家父長制とは、女性を市場型賃労働から排除し、女性の労働を貶め、女性を家庭に封じ込めておくことである。家族も支配−被支配を含む再生産関係としてみることの難しさは、家族を一種のブラックボックスとしてきたからである。DVという家庭内の暴力に役所も警察も取り合わないし隣人も無関心を装う中で、女性は専制の王国に閉じ込められている。主婦という名の既婚女性によって無償で遂行される「家事労働」をあえて言えば「家内制生産様式」といい、これを支えているのが「家父長制」である。家父長制はけっして前近代的な共同態ではなく。近代があるたくらみを持って市場の外に放置した影の結社である。家族の中の役割と権威の配分はあらかじめその社会が採用している家族像に従って制度的に運用されている。民法にもある程度反映している。ソコロフは家父長制を「長老男性による支配」と呼んでいる。長老男性による家族の不払い労働の領有と、女性の(市場)労働からの疎外という事実である。この階層を階級と見れば、フェミニズム革命なる言葉も生まれてくる。

第5章 再生産様式の理論

マルクス主義は生産様式についての理論であり、エンゲルスの「家族、私有財産及び国家の起源」において、男性と女性は経済的な利益集団即ち階級としては理論化されていない。家族がひとつの経済単位とみなされ女性については解明していないのである。マルクスから家族を取り出したとたんに経済用語で語らなければならないというジレンマが待っている。マルクス主義フェミニズムは生産労働を巡る男女間の配置を問題にするのだが、「再生産労働」の概念化には成功していない。女性はいつの時代も生産者であったが、同時に再生産者でもあった。生産者を再生産するという役目が女性に覆いかぶさっている事を看破しなければならない。家父長制と家族の概念は再生産と深く結びついているのに、家族・家父長制を単に生産様式として解釈してはならない。労働力の再生産と人間の生物学的再生産をになう再生産様式は人類学でいう「親族理論」の婚姻規範を媒介としている。その規範を支配し配分しているのが長老男性による家父長制である。人類学者の定義では「長老支配」、「家族性共同体」という。家父長制は必ずしも父系制に従属した概念ではなくいわば歴史的貫通的な概念であったという。長老が支配するのは古来種籾の管理と婚姻の管理を介してであった。生産方式と再生産方式はさしあたり独立した概念と考えておこう。生産と再生産労働は矛盾すると見なすのは、男性による女性蔑視(女性は再生産に専念しなければならないから、劣った労働力だという)にすぎない。「女性はいつも生産者であると同時に再生産者であった。これが豊かな社会ではないか」と著者は力説する。

第6章 再生産の政治

生物学的に「生む性」としての女性にあまりに多くのものが押し付けられてはいなかったか、セクシュアリティ(母性)はフェミニズムの最大の関心事であった。女性は同時に社会的な存在と定義される。避妊と生殖についての自己決定権を女性から奪い再生産を支配し、生殖テクノロジーの発展によって女性から再生産の権利を取り上げるのが家父長制の永遠の夢である。子宮の支配はもとより子供の帰属をめぐる争いこそ家父長制の核心である。かっては離婚は女にとって子どもを婚家においてくることであった。つまり子供は父系集団に属する。ところが戦後離婚の8割以上で子どもを女性側に引き取ることが女性の離婚を容易にした。だがそれによって母子家庭が貧困ライン以下に落ち込むことも事実である。権威をなくした男性は子供の養育さえ放棄したのだ。家父長制は「愛と互報性」が貫く共同体なのだろうか。家父長制の中では「性の支配」と「世代の支配」がふくまれ、女性からいうと「妻」として「母」としての労働が家父長制によって領有されている。「子供を生かすも殺すも母の責任次第」という社会的脅迫が行なわれている。高度経済成長期より子供の数が著しく減少し、子供の高学歴化によって教育費用が上昇したため女性の労働市場への急速な参入が起きた。教育は「富の世代間移転」といわれる。その負担が男性の給与が増えないためか一気に女性に覆いかぶさったためである。つまり再生産費用負担の不平等が起きている。再生産費用は金銭に換算すれば夫の稼ぎをはるかに上回り、一部は母親の再生産労働でまかなわれ、そのため女性は市場生産労働の場から離れてきたのである。途中での結婚退職という形での職場放棄はキャリアーの損失となり回復不可能な格差を背負いこむのである。2流労働力としての母の職場復帰は家計補助収入として子供の養育日のために必要不可欠である。

離婚による親権放棄は男達にとって少しも家父長制の放棄には繋がっていない。解放されたのは男達であって、子供の再生産費用分担を放棄し女に全面的に押し付けたのだ。家父長制のもうひとつの側面である老人介護の社会費用と育児費用の2つの世代間支配が行なわれている。老人福祉政策(介護保険)は子供から将来受ける利益よりも、今両親の面倒を見なくていいメリットがある。子供への投資は出来るだけ少なくしたいため、子供の数の減少につながる。従ってフェミニストの要求は、第1に再生産費用の両性における不平等な分配を是正すること、第2に世代間支配を終了させることである。それには児童手当の支給と老齢年金の充実と介護サービスの保証が求められる。頑固な男性はこれを「家族解体」と叫んで批難する。新古典経済学のシカゴ学派のベッカーは「子供はぜいたくな消費財」だという。家より車より金がかかるからだ。最近の若者は結婚する事をためらっているが、子育てという高額費用捻出を嫌って子供が完全になくならないためにも、今の家父長制家族の性支配と世代間支配を解体してはじめて、この豊かなぜいたくな家族を楽しむことが出来る。

第7章 家父長制と資本制の二元論

性支配を巡るフェミニストの議論は、無意味とする教条主義的マルクス主義論や、資本制から説明できるとする資本一元論、家父長制から説明するラジカル・フェミニズムの家父長制一元論、そして2つの論は資本制家父長制へ収斂するという統一論、2つの論の相互作用の結果だとする二元論に大別される。統一理論はマルクス主義陣営に多く、二元論はフェミニストの間に多いとされる。統一理論が成立していないので、マルクス主義とフェミニズムの間には対立と批判が絶えない。アイゼンシュタインらは二元論をとるが、資本が先か家父長制(非資本制的)が優先かでまた議論が絶えない。資本は家事労働から利益を受けているのかという問いに対して、ブルーメンフェルトは「資本制は市場生産で成功したが、家事労働という領域を資本側で社会化すればそのコストは資本家には背負いきれないだろう。だから家事労働は資本家にとって必要だ」という。ヒメルヴァイトは「労働再生産自体を商品化することは資本制にとって自殺行為である」という。だから資本制は労働力再生産を市場の外部に置きたいのである。知らん振りを決めこんで、利用だけはしたいのだという解釈が統一論の主張である。ただ資本制が家父長制を設計したのではない。古来独立した生産様式であった家父長制は独立して変化しつつ、資本と家父長制は妥協を繰り返したというのがデルフィの二元論の主張である。問題は家父長制の中で男性と女性は家内制生産様式において階級的対立になるのだろうか。この点でフェミニストの意見は鋭く対立した。

第U部 分析篇
第8章 家父長制と資本制 第一期

第U部はいわば理論を応用した社会分析篇である。第一期とは19世紀の産業革命から20世紀初頭までを指すようだ。近代以前の社会では生産と再生産の単位は「家族」(奴隷から家畜まで含む)であった。この家族経営体(家政)は一種の家族労働団で、すべての労働は「家内労働」で、生産労働と家内労働の区別はなかった。産業革命によって土地を持たない無産者でも自分の労働力で自分の家族を営むことが可能となった。近代化にともなう飛躍的な婚姻率の上昇と単婚家族の大衆的な成立がもたらされた。誰もが結婚できるようになった時代、それが近代である。近代市場の労働力としての個人は男女年齢を無視した「単身者」であり抽象的労働力であった。最初の産業革命時には紡績業の女工にみられる伝統的な性分業の残滓があり、家族労働団の世代構成がそのまま工場に持ち込まれる場合もあった。しかしこの賃金労働の報酬は個人に支払われるもので、家父長制の威信構造は貨幣経済によって脅かされた。資本制が市場外的な要因、つまり家庭問題や貧困に付き合わざるを得なかった。イギリスで「救貧法」ができ福祉政策という資本制を補完するものが必要であった。少年の就労を制限する「工場法」や婦人労働保護法などもできた。こうして少年と女性は労働市場から消えていった。

資本は労働そのものの対価というよりは家族を支えるにたる「家族給」を支払った。これして世帯主単独収入型労働が男性中心に整備された。イギリスでは19世紀半ばから「ヴィクトリア時代」といわれる産業経済の発展と繁栄の時代となった。家庭性の崇拝、性の抑圧の規範に基づく性分業型の「近代家族」が成立する。男性世帯主だけが賃金を得るという家父長的家族である。資本制は個人としての労働力を念頭に置くが、家族をバラバラにする社会的コストよりも、家族を維持して労働力を得るコストの方が安いと判断したようだ。この資本制と家父長制の歴史的に成立した妥協を「ヴィクトリアン・コンプロマイズ」と呼び、家父長制的資本制が誕生した。この意味では二元的である。家族とは「自由で孤立した単婚家族」で、伝統的な共同体とは異なった近代特有の産物である。

第9章 家父長制と資本制 第二期

マルクスの予言どおり資本制は19世紀末より帝国主義的侵略へ乗り出し、経済は戦争経済に転化した。戦争は逆説的に女性の社会進出と権利拡大をもたらした。戦争協力を求め銃後の労働力としてである。これに対して与謝野晶子は「君死に給うことなかれ」という女性反戦思想を展開した。第1次世界大戦後欧米では次々と婦人参政権が認められたが、日本では第2次世界大戦後となった。第一次世界大戦後(日本では大正時代から)同時に女性の職場進出が進んだ。しかし女性にとって「仕事は家庭か」という選択は、「結婚までは仕事」という未婚女性雇用労働の常識が成立した時期でもある。これにより家父長制は温存されたのだ。女性を再生産に専念させるための仕掛けであった。しかし女性にとって未婚労働は「男なみの自由の享受」と「晩婚化」をもたらした。第一次世界大戦後のアメリカ経済は失業者が増加し世界金融恐慌となった。そこでアメリカが採用したのは財政投融資による国内有効需要の創出というケインズ経済政策である。ここで国家という第3セクターが顕在化し、経済は統制経済に移行した。ソ連の経済も計画経済という名の極端な統制経済であった。戦争も外部経済である。内需も内なる外部である。日本は戦後戦争を禁じられたので内需中心の経済体制に移行した。これを平和産業と呼ぶ。戦後経済復興が進むにつれ、男性雇用を優先して女子労働者に対して門戸を閉ざすようになった。高度経済成長の女性問題は、近代化家族のウィーメン・リブである。1970年日本で最初のリブ誕生である。もと新左翼の女性たちが担い手であった。遅れた封建的残滓制度の改善ではなく、常識的な構造を問題視した。

第10章 家父長制と資本制 第三期

1981年の女子雇用者の構成比を見ると、未婚女性が32%、既婚女性が78%であった。既婚女性の労働市場への参加が時代の趨勢となった。年齢区分別の女子雇用者構成比率を見ると、いわゆる「M字型」である。20―24歳でひとつのピークがあり、その後34歳まで急減し、再び40―55歳まで大きなピークを迎える就労曲線である。ところがこれは日本や韓国などのアジアだけの現象であり、欧米ではいわゆる台地型で、20―50歳まで就労率(労働力率)はフラットである。そして欧米では1900年より女性の就労率は一貫して右上がりである。日本では女性の就労率はむしろ減少気味である。そして先進資本主義国では女性労働力率はいずれの国でも50%に収斂する傾向である。主婦は無職と決まっていた常識が高度経済成長期に変わった。主婦であり労働者であると云う既婚女性労働市場が成立した。助成を労働市場に押しやった要因のひとつは、出生児数の減少によるポスト育児期の早期化である。合計特殊出生率は1989年で1.57まで低下した。第2の要因は家事労働の大幅な省力化である。高度成長で達成した豊かな生活(中産階層の出現)は既婚女性を労働市場に押しやった。就労形態は未婚女性のフルタイム勤務ではなく、半日や昼間だけのパートタイム就労(短時間就労雇用者)という形である。パートタイム就労は雇用保険や社会保険もなく、最低賃金制の恩恵さえ与らない2流労働的存在であった。昔の家の中でやる内職が、外に出て働くパートタイム就労に変わった。1985年には女性就労者の22%を占めた。

高度経済成長期に高等教育の大衆化で高校と大学進学率が急上昇し、慢性的に安い労働力が不足した。日本の経営者は安い労働力を外国人に求めるよりは海外生産に替えるか、特に流通消費関係では主婦という外部から安い労働力を調達した。昔は農村が労働市場の外部であったが、いまや女性が外部となった。不況になれば家庭へ返すという労働市場のクッションになった。今日では非正規雇用者が労働力のクッションである。男性の給与(シングルインカム)のみでは家族を養うに足りないので、家計補助として主婦のパート収入が欠かせないものになった。子供の教育費負担と持ち家住宅ローン負担のためである。日本の中流生活は主婦の家計補助が支えた。こうして女性は賃労働者(部分生産者)にして家事労働者(部分再生産者)という二重役割を背負い込んだ。資本制にとって男性正規労働者の給料が低くてすみ、家父長制にとっては家計補助と家事労働を押し付けるいわば資本制と家父長制の陰謀である。創出された女性向けの仕事とは、飲食業の調理、介護ヘルパー、保育、教育、スーパーのレジ打ちなどの家事労働に毛の生えた単純作業である。これらの「周辺労働化」はすなわち女性の膨大な「労働力予備軍」を必要とした。不況期を柔軟にクッションできる予備軍である。

第11章 家族の再編 T

近代とは人口が爆発した時代である。従って社会的変動要因も多く過渡期といえる。これに対して伝統社会とは人口に一定の歯止めがかかっており、人口調節機構が働いている。生産も再生産もその限界まで極大化しないような抑制がかかっていた。近代は生活環境の改良、医学の進歩により幼児死亡率の劇的な減少、食料生産効率の向上などによって、自然的・社会的な人口抑制の鏨が外れたために人口が爆発したのである。人口政策は近代国家の初めから重要な政治課題であった。人口停滞から減少に向かっている欧州や日本の社会は近代はとっくの昔に終っていた。「近代家族」は解体し、単身世帯、単親世帯(母子家庭も含む)が急増している。結婚回避・出産回避の傾向が強まっている。内需拡大のための政府の「少子化対策」に踊らされる若者はいない。「家族の危機」を憂う声が保守陣営から聞こえてくる。ノスタルジックな「3世代同居家族」への「大家族回帰志向」はどこから来たのだろうか。老人医療・介護・福祉費用の増大に利潤配分が下がる事を恐れる財界筋が政府に圧力をかけて、「女よ家庭に帰れ」とか、家庭内での看取りに主婦を使おうという魂胆が見え見えである。女性が子どもを産まないのではなく、経済力がないため産めないのである。女性が就労したがるのは「再生産労働の拒否」のひとつである。女性の部分生産者化と部分再生産者化の相克は資本制と家父長制の新たなる段階の再編成であり、近代家族像が別なものへ再編されつつあると考えられる。

第12章 家族の再編 U

女性労働形態の「M字型」は日本の高度経済成長の生み出した「総中流化幻想」のなせる技であった。家計補助をしてまで子供の教育費の再生産費用を捻出し、生活の質を上げたいという中流化願望にせかされた日本独特の形態であった。資本制の主な担い手は男性であるから、女性に出産・育児・教育・家事を押し付ける家父長制と再生産費用の社会負担を軽減したいという資本側のたくらみは一致した。女性は命を生み育てる「崇高な価値」をもつというイデオロギーの下心ははっきりしている。再生産負担は見返りに引き合わないコストであると結婚と出産を回避し始めている。これは再生産を私的領域に閉じ込め社会化しなかった資本制の必然的に支払わなければならないツケである。離婚は女性の生活水準を極端に下げ、逆に男性の生活水準は高くなるという。男性は自分の権威とアイデンティティを棄ててまで身軽になりたいのである。だから離婚は増加の一途をたどる。子供を引き取り貧困状態にあえぐシングルマザーが安心して子どもを育てられる社会環境がなければ、子殺しや育児放棄、再婚によるまま子虐待など悲惨な社会事件は絶えない。資本制が再生産費用を支払う用意がないことは明らかであるのに、なぜ家父長制を支持するのだろうか。欧米ではすでに「家父長制なき資本制」の時代に入ったという説もある。それは「家族の終焉」でもある。子供の教育も数より質の時代である。単純肉体労働者の再生産ではなく、高等技術者の再生産に向かっている。ブルーカラーからホワイトカラーへ高学歴化競争に勝たなければその子の将来も危い。大学を卒業するまでの教育費は1人1千万円といわれる。この恐ろしい再生産費用の負担を女性にも担わすのである。こうして国家・企業・家族全体の再編の時代となった。市場は国家・企業・家族という3つの要因からなる。組織論的に言えば、国家独占資本主義は国家のコントロール無しでは機能しない。企業の内部は決して自由競争という市場原理で動いているわけでもなく、民主主義は玄関払いである。経営は経済学ではなく、企業組織を扱う。企業法人論は日本独特のもので資本家を追い出した経営者のものである。家族は消費行為者のみでなく再生産を担った外部である。ことかように、市場は神の手で動くわけではなく、市場主義で世界は動いているわけではない。今日労働の概念もおおきく変わりつつある。特に金融や流通関係は資源を使用して有用価値を生み出すことで利潤を得る古い形態ではなく、知的労働、情報労働が主流になってきた。もはや労働生産性は時間では測れない。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system