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外岡秀俊著 「3.11 複合被災」

  岩波新書 (2012年3月)

地震・大津波・原発事故の重なった災害の教訓とは ジャーナリストの問い

3.11の大震災と原発事故については、多くの本が出て多くのことが語られた。したがって大地震と大津波そして福島大原発事故の概要(多くは確定していないが)は、かなり周知のことと思われるので、3.11の被災の概要については繰り返さない。外岡秀俊氏というフリー・ジャーナリストが何を見て、何を考えたかに注目して本書を見て行きたい。ただ本書のルポ記事以外は案外政府各省の白書や政府関係審議会の資料が多く、政府以外の民間団体の活動や意見、本ボランティアの活動なんかは脱落している。3.11より1年が経過するのでもっと幅広く他の資料や本の主張などを取り入れて考察・深耕が欲しいところである。そこでまず外岡秀俊氏とはどのような人かというプロフィールを示したい。外岡氏は1953年札幌市に生まれ、1977年東京大学法学部卒業して同年朝日新聞社に入社した。学生時代に小説「北帰行」を書いて文芸賞を受賞したが、それはそれっきりであった。朝日新聞社時代は社会部、外報部、ヨーロッパ総局長、東京本社編集局長、編集委員などを歴任した。順当な朝日新聞社内での出世振りであったが、2011年3月末に朝日新聞を突然早期退職をした。一度札幌に帰って4月はじめ青森から岩手・宮城・福島へ、朝日新聞という大組織を離れた一人のにわかフリー・ジャーナリストの立場で3.11を取材した。著書としては『北帰行』(河出書房新社、1976)、『アメリカの肖像』(朝日新聞社、1994)、『国連新時代』(ちくま新書、1994)、『地震と社会』上下(みすず書房、1998)、『日米同盟半世紀―安保と密約』(共著、朝日新聞社、2001)、『傍観者からの手紙 FROM LONDON 』(みすず書房、2005)、『情報のさばき方―新聞記者の実戦ヒント』(朝日新書、2006)、『アジアへ―傍観者からの手紙2』(みすず書房、2010)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書 2012)などがある。なお下世話な社内情報話だが、朝日新聞社が募集している2012年3月末付の希望退職(退職金積み増し 年収の半分×定年残余年数)に44人が応募し、応募者には社外に名の通った幹部や名物記者が含まれ、朝日の凋落がひときわ鮮明になったと噂されている。外岡秀俊・元編集局長の場合役員入り間違いなしといわれた人物の退社だけに社内に衝撃を与えた。ほかに薬師寺克行・元政治部長は「論座」編集長や政治部長を歴任した。ほかにも労働問題担当の竹信三恵子・編集委員、外報部出身の竹内幸史・編集委員、佐久間文子・読書欄編集長、矢部万紀子・元書籍編集部長らの名前が挙がっている。

3.11は日本の近現代史に特別の意味を持つ日として記憶されるであろう。2.26青年将校クーデター、8.6広島原爆投下の日、8.15終戦記念日、5.3憲法発布記念日、1.17阪神淡路大震災と並んで記憶されるに違いない。いずれもこの国の形を変えるような重大な出来事の日であった。3.11の東日本大震災は大津波による死者行方不明者あわせて2万人を超える規模の犠牲者を出し、さらに福島第1原発第1,2,3号機メルトダウンと水素大爆発によりチェルノブイリ原発事故に次ぐ大惨事を引き起こし、わが国原発開発史上初めて「安全神話」が白日の下に消え去った日であった。これを見て何も考えない人はいないだろう。喉元過ぎれば簡単に忘れ去るほどノー天気な人もいないはずだ(通産省官僚と原発推進利益共同体はほとぼりのさめるのを待って、何も無かったように原発の再開を企んでいるから危険である)。今回の「複合災害」で崩れたものが2つある。一つはこの国が一大プロジェクトで進めてきた「地震予知」の態勢が崩れたことだ。何時・どこで地震が起きるかを予知することは当分不可能である事がわかった。2つは「原発の安全神話」が崩壊したことだ。全電源喪失は考慮する必要はないと切り捨ててきた事態が発生したのだ。そして最も原発にとって恐ろしい炉心溶融(メルトダウン)と炉心損傷が現実に起ったのである。「想定外」の事態だから東電に責任は無いとはいわせない。そもそも原発は民間企業がリスク管理できるものではなく、コスト無視の国策だからやっていたのだ。原子力開発と損害賠償と核廃棄物最終処理までコストに入れた原発発電コストでは民間会社はギブアップすることは確実である。今回の事故を検証し徹底的に原発体制を見直し、変更を迫ることが納税者たる国民の義務であり権利である。

本書の構成は、第T部が「地震と大津波」、第U部が「原発被災、第V部が「再生へ」となっている。第T部は4章からなり、被害の情況、大津波、自治体崩壊、救援活動を、第U部は3章からなり、原発事故の概要、原発避難、放射線との闘いを、第V部は終段として、帰還への道のり、復興計画からなっている。各章の最初の節では著者が見聞きした現地のルポを、第2節では災害の概要をまとめ、第3節で課題を示す構成である。著者はジャーナリストであるから、現地ルポを非常に大事にされるのは分かるが、本書をまとめるにあたっては、生々しいルポはまとまりがないのと全体が見えないので割愛させていただく。

第T部 地震と大津波
第1章 無明の大地

東日本大震災は世界でも前例のない大規模災害だった。その特徴は
@20世紀以後史上4番目M.9の巨大地震であったこと、火災や液状化を含む災害を引き起こし、15メートルを超える大津波が東北3県を襲ったこと、宮古市では遡上高さが40mにも達した、福島第1原発がメルトダウンをおこしチェルノブイリ級の放射線避難を余儀なくされたこと、などの複合災害であった。
A広域・長期にわたる災害であった。地震が起きた海域は岩手から茨城まで約500kmに及んでいる、原子炉低温冷却まで7ヶ月かかり、強引に終息宣言を出したが原子炉の中はどうなっているか全く不明で、炉心撤去に何十年かかるのだろうか、、避難一部解除まで10ヶ月かかったが、20km以内は1年たっても帰宅のメドは立っていない。首都圏の帰宅困難者は約860万人、計画停電と電力使用制限は半年近く冷房需要の減る9月まで続いた。
B交通・通信・電力・物流など高度に集中した先進国では始めての経験であった。

第2章 生と死の境

東北地方を襲った大津波は過去に1896年明治三陸地震、1933年昭和三陸地震、1960年チリ大地震の3度の津波を経験した。中央防災会議が想定した明治三陸地震モデルでは、M8.6、死者行方不明者2700人であった。3.11ではM9.0、死者行方不明者2万人などモデルよりは一桁上の津波が襲ったことになる。防災計画では過去の事例をモデルとし、経済的に耐えられる程度の防災施設で済まさざるをえない。すると災害を防ぐよりも災害を軽減する策が重要になる。しかし地震予知システムは膨大な予算を使いながらあいかわらず予知不能である。「東海地震の発生確率はX%以上」といわれても、自分のこととは思えない。緊急地震予知速報で、携帯のブザーがなっても地震が来ない場合もあり、震源地の情報は地震が起ってから出ないと分からないようだ。そして津波予測は迅速には出ないのである。正確に津波を予測するには広域の地震情報を集めるため40−50分かかったため、津波到来時刻には結局間に合わないのである。気象庁が2011年7月に行なった被災3県の避難行動調査では、直後避難57%、用事後避難31%、切迫避難11%であった。これは助かった人の調査で、避難せず被災という項目は考慮されていない。そして避難に車を使った人は全体の57%に上った。宮古市田老には万里の長城と自慢した大防波堤が築かれていたが、結果は人間の知恵を笑うようにあっさり津波は防波堤を乗越えた。巨大地震は環太平洋で起きている。日本列島はまさのその中心にある。多くの地震学者がM8以上の海溝型地震として懸念しているのは、東海地震、東南海地震、南海地震である。発生確率は各々88%、70%、60%といわれる。今回のM9.0の大地震は誰も真剣には予測していなかった。「想定」はいつも「想定外」の現実に裏切られる可能性がある。「あらゆる可能性を想定し最大級の地震・津波を検討すべきである」というのは出来ない相談で、ヒステリー現象である。被害抑止よりも被害軽減に軸足を移した防災計画が必要である。いつもの事ながら、情報伝達・警報の改善、津波避難ビルの整備と5分ほどで避難できる街づくり、徒歩で避難する教育などが提案されている。

第3章 自治体崩壊

東日本大震災には自治体という救済・復興センターの崩壊が特長のひとつに挙げられる。施設の損傷のほかに首長や職員の死亡、家族を失った例が多かった。1961年に制定された「災害対策基本法」では国のたてた防災基本計画を基に都道府県と市町村が「地域防災計画」を作成する。市町村は警察・消防と連絡して救助救援に当たるのだが、そのセンターが被災したのだ。一例として、岩手県大槌町の庁舎は壊滅し、陸前高田市では庁舎のみならず交番、消防署、体育館などの公共施設も失われた。施設だけでなく、住民基本台帳、戸籍データ−も失われた。データのバックアップはあったものの、復旧までに1ヶ月以上を要した例もあった。通信手段としての固定電話で最大100万回線が不通となり、携帯電話局は最大で3万箇所が使用不能になり、通信規制が行なわれたNTTでは90%以上が使えなかった。道路は東北自動車道路と国道4号の復旧は1日で確保されたが、鉄道は4月中ごろまで東北新幹線・瑯北線は運休した。支線の鉄道は1年後の今なお再開のめどは立っていない。空港は仙台空港が4月13日に復旧した。道路の損傷に追い討ちをかけたのはガソリン不足であった。東日本の精油所の稼働停止は3箇所になり、首都圏の買いだめが目立ちスタンドは休業となった。被災した自治体の支援・人材派遣に遠隔地の自治体が動いた。日本学術会議は3月25日に「第1次緊急提言」をだし、全国知事会、市長会、町村会に「ペアリング支援」を呼びかけた。残念ながらこの提言は政府の政策にはならなかったが(指令型自治体ではないし、決定権は各自治体にあるので)、「関西広域連合」が「カウンターパート方式」で京都府、滋賀県は福島県を、大阪府と和歌山県は岩手県を、兵庫県と徳島県は宮城県を支援し、他の県にも広げてゆく方針を出した。また「災害時援助相互協定」が大きな力を発揮した。一例として南相馬市には東京都杉並区が応援に駆けつけた。

第4章 救援活動

厚労省の調べでは、岩手、宮城、福島三県の医療機関は、5月25日で380病院のうち300病院が被害を受け、11病院が全壊した。一般診療所6531カ所のうち1174進良書が被害を受け、167が全壊した。社会福祉施設875箇所が被害をうけ、59箇所が全壊した。医療支援に動いたのは2005年に設立された「災害派遣医療チームDMAT」である。2010年3月には387施設、703チーム、4300人が登録されていた。緊急時医療チームであるDMATより193チームが派遣され3月22日に任務を終えた。ほかに「日本医師会災害医療チームJMAT」は慢性疾患を対象とするが、1300チーム以上、約6000人が派遣された。地元医療機関の立ち直りを待って7月で任務を終了した。日本赤十字社も824の救護班を派遣した。警察・消防は自衛隊と並んで、被災地の最も中心的な救助救援活動に当たった。都道府県より警察官が延べ39万人派遣された。遺体の検分と身元確認という過酷な活動に当たった。消防隊は7500隊、2万8500人が派遣された。自衛隊は菅首相の指示で10万人態勢で救援に向かい、人命救助・捜索、救援物資の運搬に当たった。緊急時の救援が一段落した2011年夏ごろから政府による検証と見直しが始まった。中央防災会議は10月28日「防災対策推進検討会儀」を開き、72時間の急性期のインターネットを使えない状況での情報収集の方法、物流と輸送のトータルな管理の視点、行政無線など通信の課題が議論され、活動の基本は情報にある事を確認した。

第2部 原発被災
第5章 最悪の事故

3.11の東日本大震災によって、福島第1原発で何が起きたかを順序だって検証することは今なお難しい。6月7日に菅首相が開いた「事故調査・検証委員会」は@社会システム、A事故原因、B被害拡大防止策、C法規制のあり方の四チームからなり、12月26日の500頁を越える「中間報告」を出した。国会は9月30日民間の有識者からなる「東電福島事故調査委員会」を置いた。本書は政府が6月7日にIAEAに提出した「事故報告書」を参考にしている。6月17日にIAEAがまとめた「事故調査報告書」も参照したという。通産省とそれをオーム返しにするIAEAの事故報告書が事故の真実をどこまで明らかにするかは本来期待できるものではない。どちらも原発推進派の書いた報告書だからだ。第三者の事故調査報告書が欲しいところであるが、原発から排除されているのでこれも難しい。原発の対応の基本である「止める」、「冷やす」、「封じ込める」のうち、「止める」だけが自動停止でできたが、あとの2つは完全に失敗した。事故の経過について多くの識者の意見として、石橋克彦編 「原発を終らせる」(岩波新書 2011年7月)を挙げておき詳細は省く。

本書ではじめて知った重大な事実とは、他の原発事業所でも危機一髪のところであったという背筋の寒くなる事態である。福島第2原発では、四基すべてが運転中であったが全基自動停止した。4つの外部電源のうち3つの外部電源が失われた(翌日には1台の外部電源が復帰し2台より受電できた)。この津波で3基で炉心冷却機能と圧力制御機能を失った。さいわいだったのが制御版と2つの外部電源が確保されたことで、移動高圧電源車を要請し9キロを超える仮設配線を16時間かけて接続したことで、14日午後5時、6時、15日午前7時に原子炉の低温停止状態が達成できた。茨城第2原発では日本原子力発電の1基が運転中であったが、地震で自動停止し、外部電源をすべて失った。3台の非常用電源が起動し原子炉内の水位は維持され15日午前零時原子炉は冷温停止した。ただ津波の高さがあと70cM高かったら、防波堤を乗越えすべての冷却機能が失われたかもしれない。東海村の村長は10月26日テレビで「細野原発相に東海第2の廃炉も選択肢に入れて考えて欲しい」といったという。ここで外岡秀俊氏は「原発継続を前提としない事故検証が望まれる」という。原子力安全委員会と保安院は、事故の深刻さを隠し続け、事故の規模をレベル7に引き上げたのは1ヵ月後の4月12日である、福島第1原発1−3号機のメルトダウンを不承不承認めたのは5月24日の事であった。「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムAPEEDI」の結果を全面的に公開したのは、なんと5月2日のことであった。機械やシステムの機能を阻害しているのは政府官僚である。情報がなく被爆した人の数は数え切れず、これを人災といわずして何といおうか。

第6章 原発避難

政府による避難の指示は複雑な経緯をたどったので整理しておこう。
3月11日午後8時50分 半径2キロの住民に避難指示
3月12日午前5次44分 半径10キロの住民に避難指示
     午後6時26分 半径20キロの住民に避難指示
3月15日午前11時00分 半径20―30キロ圏内の住民に屋内避難指示
3月25日午前11時46分 半径20−30キロ圏内の住民に自主避難を要請
4月22日         半径20−30キロ圏内を「緊急時避難準備区域」に指定
8月3日          30キロ県外であっても「特定避難勧奨地点」を指定
結局原発事故による避難区域は3つに分けられた。半径20キロ以内は「警戒区域」で立ち入り禁止、半径20−30キロ圏内は「緊急時避難準備区域」で制限されたスタンドバイ状態の生活、原発から北西に方向はな浪江町、飯館村、南相馬市の一部、葛尾村を含んで「計画的避難区域」となった。こうして南相馬市は3つの区域に分断され、小高区は20キロ内の「警戒区域」で立ち入り禁止、原町区は半径20―30キロ圏内の「緊急避難準備区域」と「計画的避難区域」で制限された生活になり、鹿島区は半径30キロ圏外なので通常の生活が出来る区域となった。学校は小高区と原町区は閉校となり、鹿島区の小学校に通うことになった。原町区の生徒は生活は自宅で、学校は鹿島区へという変な形になった。病院は原町区で外来のみは受け付けているが、緊急時避難の難しさから入院は認められない。緊急時避難準備区域は老人だけの町に変わりつつある。特老は緊急時避難準備区域では事業は出来ないので介護職員は失業ということになった。

こうして政府は避難区域を拡大してきたが、強制避難させられた市町村、分断された市町村などは自治体行政は極めて難しい情況となった。原発事故によって沿岸部の市町村は全自治体避難を余儀なくされた。半径20キロ圏内の浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町は庁舎丸ごと避難であった。たとえば富岡町(1万5839人)は郡山のイベント施設に集団避難をした。しかし施設は8月末に閉鎖、仮設住宅・借り上げ住宅はいわき市、郡山市、三春町、大玉村に分散した。楢葉町(8050人)は7割がいわき市、1割が会津の2箇所に分散した。原発事故の被害対策はJOC事故で設けられた特別法である、1999年制定の「原子力災害特別措置法」に基づく。2012年2月政府の復興対策本部は「復興庁」に格上げされたが、原発事故の賠償については「原子力損害賠償紛争審査会」が指針を出す。復興や生活支援は「災害救助法」による。2011年9月の「災害対策法制のあり方に関する研究会」では現行法の問題が噴出した。「災害対策基本法」は伊勢湾台風を教訓に作られており、1過性の短期の災害対策であるため、今回のような大規模、激甚、長期復興対策には向かない。復興基本法の制定が遅れたため、復興は遅れ勝ちである。又基本的には災害対策基本法は原発事故被害には対応できないことである。原発事故対策の法の整備が急がれる。

第7章 放射線との闘い

政府は事故直後からテレビを通じて「心配は無い」、「直ちに健康に影響を与えることはない」といってきた。この発表を信じた人々は、被爆し政府への不信感を抱いた。例えば4月4日文部科学省のモニターに基づいて保安院は「最大毎時170μシーベルトとなったがその後低下し、直ちに健康に影響を与えることはない」といっていた。政府は3月22日に飯館村を「計画的避難区域」に指定した基準として、年間被爆量が20ミリシーベルトを超える畏れがある地域とした。原子力安全委員会が4月11日に示した放射線防護の線量には次の3つの基準があった。
@事故発生初期の避難基準: 避難の場合は毎時50μシーべルト、屋内退避の場合は毎時10μシーベルト
A緊急時、事故が続く場合の被爆基準: ICRPは年間20−100ミリシーベルトを勧告している。そこで年間被爆量が20ミリシーベルトを超える畏れがある地域を避難区域としたという。
B事故終息後の汚染被爆基準: 年間1−20ミリシーベルト
以上であるが、A、Bの基準はいずれもわが国の防災指針には取り入れられていない暫定指針である。ここで4月19日文部科学省は学校施設利用の目安として「年間被爆20ミリシーベルト以下」という指針を出したために、内閣参与の小佐古氏が憤慨して辞任したことで紛糾した。その結果5月27日「当面1ミリシーベルトを目指す」という日本官僚的発言で決着した。5月20日衆議院の「科学技術・イノベーション推進特別委員会」は参考人4人を招致して「低線量被爆」について意見聴取が行なわれた。低線量被爆に安全という「閾値」は無いという意見が多かった。又外部被爆より内部被爆が心配であると云う意見もあった。

2011年7月27日衆議院厚生労働委員は放射線の健康への影響と除染について6名の専門家より意見を聴取した。放医研の明石氏は「ホールボディカウンター」では健康影響は見られなかったと報告し、学術会議の唐木氏は厚労省の食品年間摂取量で5ミリシーバルトの基準は厳しすぎるといい、長崎大学名誉教授の長瀧氏はチェルノブイリ事故の経験から年間100ミリシーベルトまでは許容範囲であると言い切った。以上の3名は政府派の意見である。批判派では名古屋大学の沢田氏は原爆病認定の内部被爆無視の歴史を語った。東大の児玉氏は今回の事故の放射線汚染状況を広島源派知30個分と語り、チェルノブイリ事故で影響がなかったとする見解は事故前のデータがないため統計上有意とすることが出来なかったにすぎない。事故後20年後に甲状腺がんのピークが消えるという逆年代統計データは原発事故の影響をはっきり示しているという。京都大学の今中氏は通常時の公衆の被爆基準値は年間1ミリシーベルトで、放射線従事者は年間20ミリシーベルトであるといった。またチェルノブイリ事故で影響がないといわれるのは、ちゃんとした調査をしていないだけであるという。専門家と称する関係者に「安全危険論争」を委ねては無意味である事ははっきりした。データがなければ「安全」といい、放射線従事者の基準を公衆に押し付けたり、原発や原子力で飯を食っている学者・技術者・関係者の言うことは悉く信用ならないということだ。ここで技術者倫理の問題が発生するが、職を失いたくない気持ちも分かるので関係者から真実の発言を得ることは難しい。福島県は2011年10月9日から二年半をかけて甲状腺検査を行い、生涯検査を行なうと決めた。

第V部 再生へ

2011年12月16日政府野田内閣はにわかに「事故そのものは収束に向かった」と宣言した。これに対して佐藤福島県知事は「福島県の実態を知っているのか」と抗議した。「低温停止」をもって事故収束とは同いうことだろう。半径20キロ圏内は避難区域のままであり、また炉心がどんな状態なのかもロボットでさえ内部が見えない状況である。圧力容器の破損状態も分からず放射線を出し続けている中で廃炉の工程は数十年先である。この政府方針は前川東大名誉教授と長瀧長崎大名誉教授の長老の意見が支配して、長期放射線曝露リスクを無視し、原発現場の仮設情況で本当に安定的に低温に維持されているとは思えないさまである。高濃度放射能汚染水は溜まり続けているし、何一つ片付いていない中で、「低温停止状態」も年内収束を図った官僚作文である。震災から1年近くになってもなお復旧への確かな足取りが見て取れないことに、被災住民の焦りと苛立ちは募るばかりである。東日本大震災に対する政府の財政対応は第1次補正予算(4兆153億円 菅内閣)は2011年5月2日に、第2次補正予算(約2兆円 菅内閣)は7月25日に、就労支援など多くの事業を盛り込んだ第3時補正予算(12兆1000億円 野田内閣)は11月21日に成立した。第3時補正を含む2011年度の予算規模は106兆円に達した。「復興特区法」は12月7日に成立した。2012年2月10日復興庁が発足し平野氏が初代長官となった。これらの一連の政府の措置がタイムリーというのか、遅きに失したというのか。


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