1203015

大澤真幸著 「夢よりも深い覚醒へー3.11後の哲学」

  岩波新書 (2012年3月)

倫理の破壊をもたらした大惨事の後に、原発への根源的な問い

2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原発事故発生の1周年を契機に、本書は2012年3月6日に岩波新書として発刊された。3.11後の1年間に、関係する本を特に原発に関する本を多く読んだ。本書はちょっと異色の切り口である。行政や政治、経済や科学技術という取り扱い方ではなく、哲学的・形而上学的というか、宗教的な意味合いも含まれている。本書のあとがきに「われわれは、その超えた何か、それ以上のものを言葉にし、それに対応した事を要求すべきではないだろうか」と述べている。そして書名が「夢よりも深い覚醒」という詩的な表現をとっている。この題名を補足して表現すると「夢が暗示するよりも深いレベルで覚醒せよ」ということであろう。3.11の出来事は悪夢だと思う人もいるが、悪夢だとして喉元すぎれば何とかで希釈されるべきことではなく、その夢から現実へ逃避するのではなく、夢により深く内在するようにして覚醒しなければならない。3.11の意味・意義を深く知れということである。こういう考え方をする人は哲学者に違いないが、大澤真幸氏については私はよく知らないのでプロフィールを調べた。大澤 真幸(1958年10月15日 -生まれ、長野県松本市)は、日本の社会学者、専攻は数理社会学、理論社会学、比較社会学・社会システム論だという。東京大学文学部社会学科卒業後、1987年東京大学大学院社会学研究科博士課程卒業し同年4月〜1990年までの間東京大学文学部助手を勤める。その後、千葉大学文学部講師・助教授、1997年京都大学人間・環境学研究科助教授となり2007年同研究科教授になった。ところが、2009年9月1日付で突然辞職した。理由は世間でいうところによるとセクハラらしい。その後思想家として文筆業で復活した。2007年『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞受賞。個人誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社 、2010年3月より)を発行している。主な著書には、『資本主義のパラドックス――楕円幻想』(新曜社、 1991年)、『虚構の時代の果て――オウムと世界最終戦争』(ちくま新書、1996年)、『「不気味なもの」の政治学』(新書館、2000年)、『帝国的ナショナリズム――日本とアメリカの変容』(青土社、2004年)、『不可能性の時代』(岩波新書 、2008年)、『社会は絶えず夢を見ている』(朝日出版社、2011年)、『近代日本のナショナリズム』(講談社選書メチエ、2011年)などがある。ということで大澤真幸氏は社会学者であった。

本書の題名(なにやらゆかし文学的表現)「夢よりも深い覚醒へ」はどうみても、フロイトからユングそしてラカンの心理学・精神分析の系列に関係ありそうだ。この名文句は実は大澤氏の東大時代の師である見田宗介氏の言葉だそうだ。フロイトの夢分析に死んだわが息子の遺体の側で眠る父の見た夢の話がある。夢の中で息子が枕元に立ち「僕がやけどをしているのにどうして分からないの」と父を激しく責める。夢から醒めた父は息子の遺体の側のロウソクが倒れ、息子の衣服を焼いているのを見た。この夢に対する標準的な解釈は、夢には睡眠を引き延ばす機能があると云う説である。これに対してジャック・ラカンは激しい夢がその内在的な力で人を覚醒に追いやるとして、息子を病魔から救えなかった父の深い罪悪感が夢の中で父を責めるだとした。父が目を覚ましたのはこの罪悪感から逃れるため、意識していなかった真実に出会って、今度はそこから現実のほうへ逃避したのだという解釈を示した。夢のほうに激しい真実があって、そこから逃げるように眼を覚ますのではなく、夢よりもっと深いレベルで夢の本質を意識し、覚醒してから行動を起こさなくてはならないという教訓を大澤氏は言いたかったのである。3.11の出来事が悪夢とすれば、その本質を深いレベルで認識し、我々は何をすべきなのかを問うのが本書の目的である。地震と津波による3.11福島第1原発事故は原子力安全神話がウソである事を白日の下にさらした。原発はすなわち原爆であることを知らしめた。

このことを多くの例え話と哲学書から語ることが本書の面白い趣旨である。多少めまぐるしいほどの多義性を秘めた例え話が続けて出てくるので、詭弁論理学のように読み手は面食らうかもしれないが、あまり例え話や引用の細部に拘ると論旨を失うのでうまく付き合うことが要求される。例え話は分かりやすそうで分かり難いとはこの事をいう。3.11を超えた何かとは、哲学でいうところの「メタ」であろう。「メタ」は広辞苑で調べると「接頭語で、超えるという意味」だとされる。「メタファ」は暗喩、「メタフィジーク」は形而上学の事であるとも書いてある。このような3.11のメタな理解が1年後に必要な理由を大澤氏は、「事故後多くの言説が出されたが、現実を変える(脱原発を国民合意にする)にはいたっていないのは、悪夢の理解が浅すぎるため、現実の騒動に流されているだけなのかもしれない」という。時間が経つと電力不足を脅迫材料として経済性から原発再開に政府・行政が動き出しそうである。大惨事の経験が生かされないままに元の木阿弥にならない時点で反省の度合いを深めなければ、日本人はなんと知恵のない民族と世界中から笑われるのだ。この民族性は宗教からきているという。西欧は一神教(ユダヤ・キリスト教)の恐ろしい最後の審判が存在して人々は戦々恐々として行動するが、アジア的多神教の日本では誰もが神になれる気安さから、誰も真剣に反省しないのである。本書はそこまで遡って考える事を要求しているのである。

本書の序に著者は「いきなり結論」といって、あっさりと脱原発のシナリオを出してくるが、これは長谷川公一「脱原子力社会へー電力をグリーン化する」(岩波新書 2011年9月)の示すところと変わらない。これは本書が脱原発の政策(エネルギー政策と環境論)を問うことが目的ではなく、日本人に深いところで原発への反省を促すことが目的なのであるからだ。結果として原発政策がそうなればよいという程度の結論であって、本題はむしろこうした結論へ至る理路を支えるメタ的な前提を議論することである。フランスの哲学者アラン・バディウは「政治には存在と出来事の二側面がある」という。存在とは日常的現実(行政レベル)のことで、出来事とは可能性をもとめて座標軸を変えること(詩的真実)だというのだ。原発についての行政の大きな役割を成し遂げたとき、これまでの政治が不可能と思い込んでいた者が可能であったと示される。原発をコスト(身勝手な電力コスト計算ではあるが)だ電力不足だという行政レベルで処理すると、脱原発は永久に不可能である。フィリッパ・フットが創った有名な倫理的例題や映画「ソフィーの選択」で強いられた倫理的問題がある。人の命と条件選択の問題である。ナチスより母親が息子二人のどちらかをがガス室に送ることを迫られたとき、母親は長男を選んだのは正しいかという難問題である。問題の細かい矛盾はどうでもいいとして(母親が犠牲になって息子二人の命乞いをするというのが標準的な答えかもしれないが)、決して決心の出来ない問題であえて選択する事は正しいのか。原発問題に適用するなら、未来の子供の健康と現世代のための電力は選択できるのかという問題になる。本書は5章に分かれる。第1章は我々の倫理の崩壊と無根拠性(仮構性)をあぶり出し、第2章で原子力が戦後史で持った意味を問い、第3章で原発問題では「第3者の審級」としての未来の他者の選択も考えなければならないと説き、第4章で原発問題の神学的形式で西欧人はいつも第3者の審級である最後の審判の恐ろしさから行動するといい、第5章では「階級」の再導入を行い、社会運動の指導者としてプロレタリアートの再登場を願うという筋書きで出来ている。

第1章 倫理の不安

米国での同時多発テロ事件9.11と東日本大震災・福島第1原発事故3.11とは別に客観的な連関は無いが、主観的には連想することが多い。第1に圧倒的な破壊と第2に袋小路のような絶望感である。テリー・イーグルトンはこの2つを現代社会の悲劇的特徴だという。9.11の強烈なビル破壊の惨事は「図」として起こり、それがアフガニスタンの日常的な戦闘の惨事「地」が続いた。3.11では大震災と原発事故メルトダウンの惨事は「図」として起こり、原発の放射の漏れによる避難は「地」となった。一瞬に多数の人命を奪う極端な破壊は「なぜ不幸が自分に」という人を倫理的な不安にさせる。古生物学者のラウブは絶滅を3つに分類する。第1の絶滅シナリオの生物の絶滅は進化論では優勝劣敗の「必然」として説かれるが、第2の絶滅シナリオである隕石が衝突して運が悪い生物が滅びる無選択的「偶然」は進化論では説明できない。第3の絶滅シナリオとは隕石が衝突した後の環境変化が突然に選択肢となる第1の絶滅シナリオをいう。これを別名「理不尽な絶滅」と呼ぶ。事故は偶然であるが、その後のルール(選択適応性変更)の変更が当の生物種にとって理不尽だという。即ち「適合性」のなかに偶然性が孕んでいるのである。社会生活でいえば正当な努力をしても経済状況や法の改正によって職を奪われ失業する若者の倫理崩壊すなわち失意・絶望・ヤケクソ・無気力・ドロップアウトという経緯がこれにあたる。イギリスの哲学者ウィリアムズは「道徳的な運」という言葉で表現する。理不尽な絶滅シナリオの人間版といえる。道徳的におかしな男が社会的に成功すれば許されるという場合、「結果オーライ」となる。法で許されている経済行為に倫理は介入しないといえ、投機で巨万を得た若者が「勝ち組」ともてはやされる新自由主義の世の中もこれに近い。勝ったのは運であり、勝ち負けに関係ない道徳は運では救えない。この道徳を支配的(超越)倫理といい「第3者の審級」の目という(神の存在である)。帰結に依存しない、絶対に守られなければならない倫理を「カントの定言命法」という。

これに対して倫理が崩壊した「神も仏もない」社会をリスク社会という。無慈悲な確率の世界である。リスク社会ではセントラル・ドグマつまり「通説」(仮説)が撤退する。こうして倫理と遇有性には内在的な関係が伺える。原発を推進してきた人たちは運が悪かったのだから許してあげようということにはならない。政治家は結果責任を問われるように、行為の倫理的な価値が偶然的な結果に依存しているのである。原発事故は無視できるくらい小さいから原発は推進しようという安全神話は、事故が起きれば無に帰す。結果があまりに甚大である事は始める前から知っていたはずだ、小は無ではない、だから許せないのだ。本当は大事故に繋がる原発事故は世界中で頻発していたのだ。これを無視または隠しておいて安全神話を振りまくのは倫理的に許せないのだ。こんな人は少なくなってしまったが、なんでもない日常生活の中で「カントの定言命法」を守って倫理的な威厳を持ち、誘惑的な情況でも威厳を崩さない事を、倫理の「虚構性」という。ところがナチスの収容所で「ムーゼルマン」という倫理の崩壊した人が多かった。生きる気力を失った人たちである。3.11の原発避難区域の住民に「お墓に避難します」といって自殺した人がいた。人間的な威厳を保てるのは、極限状況に居ないという偶然性に過ぎないとすれば、倫理は虚構である。そこで人は理由のない恩恵(神)があって、倫理的な主体で居られるのである。遇有性と同様に恩恵と倫理も密接に関係している。原発の破局は論理的に可能だが現実的でない、だから対策はしないというのが安全神話の心理学であった。こういった状況は信と知の乖離という。被害者側からいえば放射能の数値発表は知っているが信用できないという論理になっている。それは政府官僚機構不信であり、公的発表が権威を失ったからである。これはいわば「第3者審級」(権威者)の消滅である。

第2章 原子力という神

1995年1月17日阪神・淡路大震災が起きた。そして3月20日地下鉄サリン事件がオーム真理教徒によって引き起こされた。この世の終末(ハルマゲドン)と強引に実現しようとする狂信者らの犯行であった。なんとも不気味な年であった。1.17と3.11は地震という直接的な関係があるが、その深刻さにおいて3.11は3.20地下鉄サリン事件に匹敵する。原発事故と地下鉄サリン事件は目に見えぬものによる徹底的な破局である。これほど不気味なものは無い。一過性の破局というより終末観が通奏低音のように関連しあうのである。カントによれば最も破壊的な自然災害も道徳法則の厳しさに比べると無に等しいという。3.11は死者・行方不明者2万人という大災害であっても、普段には見られないような驚異的な利他性に支配された相互扶助的な友愛が発揮された。しかし2004年スマトラ沖地震では、大津波で被災した漁村地域を、富裕層向けリゾート地に開発する「惨事便乗型資本主義」が跳梁した。これをナオミ・クラインは「ショック・ドクトリン」と呼んでいる。社会的弱者ほど災害に弱い地域に住む事を余儀なくされ、そして災害で大きなダメージを受けるのである。そこに大資本が開発で一儲けするという図式をいう。友愛のコミューンも事実であるが同時に利己性が牙を剥くのである。ハイデガーは「人間ほど不気味な存在は無い」という。自然災害も人間のもたらす災害に比べれば無に等しいという。原発事故、原爆被爆の回復不可能な惨事はこの人間のテクノロジーによってもたらされた。地震・津波などの自然災害はカントの定言命法に、戦争・原発事故などはハイデガーの人間性の議論に対応するようだ。

1954年ビキニ環礁での福竜丸「死の灰」被曝が起きた2日後、中曽根安弘が中心となった原子力平和利用予算法案が国会に提出され、原発建設のキャンペーンが始まった。大澤氏は時代を分ける精神史として、現実の秩序に対する新時代の提起を「反現実のモード」と呼んで、日本の戦後史を3つに分けている。1945−1970年を「理想の時代」、1970―1995年を「虚構の時代」、1995―今日を「不可能性の時代」という。1950年から1960年代の時期は原子力利用は「理想」の代名詞のようであったという。だが戦後は「反核」を国是としてきたはずなのに、なぜ多くの原子力発電所を建設してきたのか西欧人には理解不能である。ウイルリッヒ・ベック 鈴木宗徳編「リスク化する日本社会」(岩波書店 2011年)にベックは序を寄せてこう疑問を投げかけた。「広島・長崎の悲劇を受けた日本人は、世界の良心・世界の声として核兵器の非人道性を倦むことなく告発し続けてきたが、その国で核兵器と同じ破壊力を持つ事を知りつつ他ならぬ原子力開発を躊躇することなく決断しえたのかは理解できない」という。これは西欧人にとって背理であるが、圧倒的な原爆の力に打ちのめされた日本の支配層が原子力を欲しかったために、原発という形に変えて転用技術を保持したかったということがまことしやかに言われている。逆説的でおぞましい可能性は否定できない。西欧が技術的に諦めた増殖炉とプルトニウムリサイクルに拘るのは、核拡散防止条約下で堂々とプルトニウムを大量に保持できるからだという「隠された意図」はおそろしい。これでは日本は北朝鮮の事をとやかく言うことも出来ない。しかし1970年代アメリカをはじめ欧米では原発への熱は醒め始め、スリーマイルズ島の原発事故がこの傾向を決定づけた。アメリカでは1974年以降40年近く原子炉は1基も完成されていない。ところが日本ではむしろこの頃から原発建設ラッシュが始まった。原子力は「夢の時代」から、「虚構の時代」にはもっぱら行政的・実利的に道路建設と同じように「粛々」と進められた。最終核廃棄物処理技術が存在しないことや原発事故の危険性は「わかっているけどやめられない」という調子で麻薬的に進められた。そして安全神話で自分自身の技術的良心を麻痺させた。憲法9条、反核三原則は「例外付きの普遍性」という虚構が打ち立てられた。例外事項は増える一方である。官僚用語でいうと「骨抜き」という。誰かが「骨太の方針」というが、小骨も残っていないのである。ユダヤ教の「ノアの箱舟」も虚構に満ちている。神は善良な人間ノア一族を救いたかったのではなく、碌でもない人間を作ったという批判を逃れるため、全面的な失敗を認めたくない神が自分(神)を救うために、少しはましな人間もいたということにしたかったようだ。

第3章 未来の他者はどこに、ここに!

キリスト教では常に大災害は進学と倫理学の大問題であった。どうして途轍もない大災害が義人を不幸に陥れるのか。これを説明する論理を「神義論」という。アウグスティヌスは「神は自分に似せて人を作り給もうた」といったが、「悪を行う人間」も居る事は神にも悪を行なう要素があるということになり批判に耐えなかった。ライプニッツの可能性世界論は「神は無限の可能性から選択したに違いない」といったが、部分的な不都合というには大災害は遍く人々を不幸にしたのだ。ヴォルテールは「出来事の純粋の遇有性は受け入れるしかない。原因は分からない」という受身的な諦めを説く。ルソーは積極的に「神が宇宙の作者なら、現在それを受け継ぐ人間は宇宙の作者となる。人は神を責めることはできない、自分自身が作者なのだから」という。これを「人義論」という。3.11を見ると福島原発事故を契機として菅総理の「原発に依存しない社会」の発言はあったが、国会や民主社会の意思決定の中からはまだ脱原発の方向は出てこない。国民投票も行なわれる気配がない。いっぽう地方自治体の首長は福島県を除いて直ちに原発再開による補助金を心待ちにしているようである。深刻な被害にあっても原発経済効果の麻薬作用から脱却する方向が見えない。実利を倫理よりも優先する論理を「偽ソフィーの選択」と著者はなずける。子供を売っても金を取るという選択で倫理的に落ちた話ではある。しかし将来の子供の健康を不問にして原発経済効果を優先すれば、「偽ソフィーの選択」と呼ばれても致し方ない。人の命を最優先して悩むのが「ソフィーの選択」であるとすれば、経済性と人の損失余命を天秤にかけるリスク・ベネフィット理論は「逆ソフィーの選択」である。無論ひとの命をカネに換算する合理的な計算法(生命保険を除いて)がないため、リスク・ベネフィット理論というリスク論は袋小路に入っているが。

ジョン・ローズの「正義論」は属性の分からない人々の間の社会契約という形式で正義の原理を導出しようとする考えである。アイデンティティも消去し去った裸の個人というものが可能なら、人間として正義の結論が出せるというものであるが、例えば最も恵まれていない者に最も大きな利益を配分せよという「格差原理」の場合、自分も最悪の場合は最も恵まれない立場にあるかも知れないという心理が働いてこれに賛成する。こうして格差原理は人間として正当化され普遍的な正義のひとつとされる。この正義論でも原発問題は未来の他者を参加させることは不可能である。原発問題を扱う原理的典拠に「生物種の絶滅」という論点がある。生きるために食わねばならないという現代の人の民主主義と整合する保証は無い。次の世代が生きられる環境自然を保存しておくために現世に規制や禁則を設けるという「貯蓄原理」は「世代間問題」といわれるが、未来の生活条件を予知できないので虚構になる可能性がある。欧州諸国は他岸の火事である日本の3.11福島原発事故をみて迅速に脱原発に動いた。この行動はどこから出てきたのか。それはユダヤ・キリスト教の終末観の伝統から来ているものと思われる。未来に終末が来るというなら人々は容易に行動しない。終末が来ると脅かしても狼少年と呼ばれるだけの事である。現に終末は来ているとか、地獄へ行くか天国に召されるかはすでに決まっていると言えば人々は厳しい不安に襲われ行動を開始するのである。福島原発事故を見てキリスト教徒はすでに運命は下されたと感じて急速に脱原発の舵を切ったのであろう。このことはマックス・ヴェーバー著 大塚久雄訳 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫)において、資本主義の精神はプロテスタントの予定説からきているといった。自分の運命は予定されているとすれば、どちらなのか確証を感じたいために世俗的禁欲生活をおくる。免罪符で救われたり、懺悔で慰められたりしている状態では人は真の信仰生活には至らないという。

ここに終末論や禍の予言(灰をかぶったノア)を存立させ、社会的現実の中にしっかり組みこまれてるシステムになれば、深いところで脱原発の行動を起こすことになろう。カントは「不可解な謎」として、人は自分の幸福を犠牲にして無償の労働で後代の人々のために従事することがあるという。しかしロールズの「正義論」では自分と他人の利益が一致する範囲でしか考えられない。人間の貧弱な想像力でどこまで未来の世代を考慮できるのだろうか。未来の予言説ではまだ時間があるとして人は悔い改めない。灰をかぶったノアのような事後の視点では我々は妙な苛立ちと不安に苛まれる。すでに決まった時点でどうこう出来る訳でもないのに急にそわそわと悔い改める。事後の視点では破局までの過程が不可避の事として、つまり必然として見えてくるのである。すると過去のことがいろいろ反省させられるのである。過去が漠然と感じていた根源的な憂鬱や不安は「まだ救われていない」ということが実感できるのである。日本と西欧では宗教的伝統が異なるので、キリスト教の終末観はなかなか実感できないが、破局は来たというさらに深いところで認識できれば、行動を開始するのではないか。日本は浄土は欣求するもので恐怖するものではないと教えられてきた。これでは現世は改まらない。審判という未来の視点(事後の視点、第3者の審級)から現世を見ればいいのである。

第4章 神の国はあなた達の中に

この章では原発問題の神学形式を考察することになる。これもまた事前の予言、事後の視点という話になるが、「マルコの福音書」にヨハネの思想として「悔い改めよ、神の国は近づいた」とあるが、ルカの福音書」にはキリストの思想として「神の国はあなた達の中にある」という。預言者ヨハネの思想は隠者のような生活で社会にコミットする事は避けていたが、キリストは積極的に社会に介入し革命者として振舞った。その結果が神の子が十字架の刑に処せられるという前代未聞の事態となった。そこでキリストは人類の原罪を贖って死ぬのである。ヨハネの予言はいつものように享楽の民衆からは馬鹿にされた。そこから原発問題を考えよう。原発の危険性は分かっているけど国策としての原発建設は、1970年以降向かうところ敵なしのような怒涛の勢いで、反対するものを札束で張り倒し、「原子力村」利益共同体によって遮二無二に進められた。1983年に開園した「東京デズニーランド」も原発と同じような「虚構の空間」であった。原発は原爆であるのも係らず、原発は安全という「究極のノンアルコールビール」という自己欺瞞になっていた。これに対して高木仁三郎氏のような民間原発反対論者や経済学者室田 武著「原発の経済学」(朝日文庫 1993年)の反対、多くの科学者、物理学の坂田昌三氏らの反対論者がいたが、原発政策議論から排除した。「禍の預言者」を追い出した上で、各種政府審議委員会は推進派一色で構成し、ブレーキの効かない暴走車のように進められた。原発は原爆であると云うぎりぎりの覚悟は忘れられて、虚構の安全神話に原発関係者はダチョウのように埋没した。

我々には直接関係ないが、一般に大災害を前にすると神学は難問に直面する。ユダヤ教では興亡を繰り返す受難の民族パレスチナにとっていつも神義論は大問題であった。神議論は、自分達がまさに不幸であり、苦難の内にあると云うことがかえって、自分達を救済して幸福をもたらす超越的な神の存在を確証することで成り立っている。「禍の予言」は、現在の苦難を将来の幸福に転化するために、悔い改めが必要だという事を自覚させるためにある。旧約聖書「ヨブ記」では信仰を確かめるために神が仕掛けた苦難の数々が語られる。究極のいわれのない苦難の中で、信仰は維持しうるかという点にある。大惨事に倫理は崩壊するかどうかという問いとおなじである。神義論の主題では、原発事故が我々に知らしめたこともまた、原子力という神は無能であったということだ。ヨブ記では苦難意絶望するヨブとそれを救済しない神という分裂が示されている。ヨブは人間であるが、キリストは神の子として人の世に降臨する。キリストは十字架で死ぬのだから人間ではないかという疑問がでる。キリスト自身の「十字架上での七つの言葉」では、神を呪い、諦め、神に任せるという過程が描かれている。まさに人間の苦悩そのものである。我々がすでに神の国に居るという最良の福音と、神が死ぬという最悪の事態が同じことになる。キリスト教では救世主(メシア、キリスト)がすでに来てしまった、だから人間としては急いで罪を埋め合わせ、赦されるにふさわしい善を行なわなくてはならないという焦りが生じる。予言は「これから」ではなく「今すぐ」である。原発事故は否定的な仕方で破局をもたらし、神の国は到来していると告げた。神の国とは原発のない社会の事である。

第5章 階級の召命

この章は3.11とは直接関係しないが、マルクスのテキストを読み直し、脱原発をふくむ大規模な社会改革を可能にするような社会運動の中核には、最終的にはプロレタリアート(持たざる者、価値から疎外された者)しかいないということを考える。マックス・ヴェーバーがいう「beruf 天職」とは違う意味で、クレーシス「召命」という言葉を「階級」という意味に使う。マルクスは「身分」という貴族的性質に替えて「階級クレーシス」を用いた。ブルジョワジーは選ばれたものとして貴族化する傾向にあるが、プロレタリアートは身分とは無関係に存在し従って階級を自己否定する性向を持ち、マルクスが救済機能をプロレタリアートに委託した。ところが問題は現代の労働者階級は革命しないのである。原発労働者は命と引き換えに職を得ているが、革命どころではない。原発労働者は別名「原発ジプシー」とも言われ、東電正社員とは違って定期検査業務を下請けされた会社に属し、各地の原発を渡り歩いている。ここには極めて露骨に非常に古典的な意味で搾取がある。原発労働者は事故のみならず、正常な業務でも原発の内部に入り検査・補修などを行なうので放射線を浴びる危険な業務についている。放射線被爆の恐ろしさより失業の恐ろしさを回避したいのである。原発労働者のみならず、1990年代後半から急速な労働環境の変化が起き、2008年のリーマンショック以降あらためて、貧困の問題と搾取に伴う格差の問題が再浮上してきた。現代社会において労働者階級は政治的に最も不活性な階級となった。その理由のひとつは、いまや若者は革命の呼びかけよりも社会への自己の位置づけである職業への呼びかけを待っているのである。第2に労働の内容が変化し、肉体労働よりも知的労働の重要度が増し肉体労働者は周辺化した。秋葉原事件は労働が辛いから起きたのではなく、自分の正当な受け入れと位置づけが疎外されたから起きた反乱である。

マルクスに始まりヴェーバーにより精緻化された階級概念はますます多元化した。中間層という複雑な階層を持ったのである。階層を持って階級の代替にはならない。マルクによると投下資本は商品に転化して剰余価値を生むのでまた新しい資本投資が可能になるのだ。なぜ剰余価値を生むかといえば労働の中にあるというのはマルクス理論の核心である。会計で言えば総原価(材料、利子、労働など)のうえにおく利潤のことである。なぜ利潤が生じるかといえば商品の差別化・格差(高く売れる)もあるが、労働の未払い分の存在をマルクスは主張した。こうしたマルクス理論は資本論テクストの読み直しで書かれているので、長くなるので省く。原発との関連で結論だけをまとめると、マルクスの革命の概念にはプロレタリアートの召命によって革命の主体になるという命題が存在する。誰が呼びかけるかといえば、それは無知な指導者、懐疑する指導者ということになる。プロレタリアートとは資本主義社会において疎外されたものである。知識労働者にはもはや労働時間で搾取を語ることはできないが、富みを剥奪され貧困にあえぐ者、自分を位置づけられない若者も現代のプロレタリアートである。彼らが動かないのは情報から遮断されているからだ。


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