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高谷清著 「重い障害を生きるということ」 

 岩波新書 (2011年10月)

重症心身障害者が生きるということ、そして人が生きるということ 

曲がった手足は意志とは無関係に緊張し、呼吸も介助なしには思うにまかせない。はっきりした意識もあるのかないのかわからない。水頭無脳症のひとには脳が無い。あるのは髄液である。身体的には寝たきりで、知能的には「ほとんどなにもわからない」といってもいい状態の人たちである。こういった心身に重い障害のある人たちの前に立った時、私達は声も無く殆ど呆然と立ちすくむしかない。1963年3月着流しに兵児帯をした男が秋津療育園にやってきて施設を見せて欲しいといった。男は2時間立ち尽くしてじっと見ていた。その男が帰った後に地面が濡れていた。これは涙だ。小説家の水上勉氏はその数ヵ月後「拝啓池田総理大臣殿」を中央公論に発表し、日本の国がこういった子らを放置している事を訴えた。水上氏の訴えによって世論が動き政府に大きな影響を与えた。献金も集まり、政府は重症児指導費と療育指導費を支給することになった。こうした重症心身障害者問題は、医療と福祉のサポート体制が必要である。しかしこの人たちが生きるということはどういうことかに思いを寄せなかればならない。この人々が生きることは「かわいそう」なのか、これだけ重い障害があるのに生かされていることはかわいそうなのか。重い障害のある人々が人生を生きることは幸せなのかという問いは、それは人間というのはどのような存在なのか、どのような生き物なのか、そして社会の在り様はと拡がってゆく。著者高谷清氏は1937年生まれ、京都大学医学部を卒業し、京大付属病院、大津赤十字病院、吉祥院病院小児科を経て、1977年より「びわこ学園」の常勤医師となった。その10年前からびわこ学園非常勤医師の時代も入れると45年間重症心身障害児の治療と生活に携わっている。

「びわこ学園」は学校ではなく、「重症心身障害児施設」で医療機関であり、かつ福祉施設でもある。びわこ学園は医療福祉センターである。1987年1月8日、琵琶湖1周250Kmを25万人の人の手でつなぐ「抱きしめて琵琶湖」というイベントが開催された。これは老朽化した「びわこ学園」の建替え費用2億円の調達に苦しんでいるのをみて、大津の養護施設「湘南学園」中澤弘幸施設長が呼びかけ、湖南生協理事長の細谷卓爾氏が事務局長となって、参加費一人1000円(中学生以下無料)で建設費を捻出しようという企てが出された。集まった募金は1億1300万円、各地でさまざまな催し物が開催された。地元比叡山延暦寺の全山挙げての協力もあった。2008年「抱きしめて琵琶湖」20周年記念事業には延暦寺小林彰氏が実行委員長を引き受けてくれたという。寄付文化が無い日本人がわざわざ1000円を持ってきて手を繋いでくれるとはありがたいことです。

1) 重い心身障害とは、どのような存在か

心身障害者は医療機関から見ると、医療の出る幕ではないと理解されてきた。回復の見込みの無い「役に立たない」障害者に金をかけるのは無駄であるとか、障害者を社会から排除する仕組みと思想が医療界を覆ってきた。確かに医療は病気を治して社会復帰させることが目的で、軍医でよくいう治療効果の見込めない「廃兵」は除隊となる。障害がある人の健康増進や成長・発達の問題については医療は何もなさなかった。そして重い障害のある児童は「就学免除」という制度によって、障害児の「教育権」を奪ってきた。障害児に関係する人々は医療への怨嗟の声を挙げ始めている。びわこ学園には大まかに三つのレベルの障害者(児)がいる。一番重いのが「超重症児」で、家庭に帰ることは出来ない。2番目に重いのは寝たきりの状態でいわゆる重症心身障害児である。第3番目に重いのは、這ったり寝返りや座位で移動が可能で、言葉を理解したり不自由であるが言葉をしゃべることが出来る子である。「点頭てんかん(ウエスト症候群)」は発作時には呼吸も困難である。アテトーゼ型脳性まひは不随意的運動を繰り返し、不安や恐怖そして絶望からくる筋緊張、高熱、不眠による衰弱が著しい。人間の精神は耐え難い不安と苦痛と恐怖にさらされると、自らの命を終息させることがある。恐ろしいがこれも事実である。様々な不利な状態でも生き続けようとする命は、それだけで存在そのものが苦痛であるかもしれないが、やはりそれなりの「快適な存在」で安息する命である。

重症心身障害児(者)の存在状態をどのように考えればいいのだろう。例えば脳のない子は人でないのだろうか、いや人としてどんな存在なのだろうか。水頭無脳症の子は一人の例であるが、無表情で、両手両足は除脳硬直で伸びきった状態で、光には反応しないが音には反応があるようだ。呼吸中枢のはたらきが弱いので呼吸困難に陥り、体温中枢がよく働いていないので高熱を出すことが多く、心臓の拍動が増加して呼吸困難となる。酸素吸入や栄養を鼻腔からチューブで補給する。看護師を中心とした「健康増進」計画を立て、外気浴、日光浴、体温調整、姿勢変換、経口摂取の取り組みで、上機嫌で笑うような気持ちいい表情をするようになった(入所2年4ヶ月、呼吸困難で死亡したが)。脳の形成がなくとも。脳が破壊されていても、本人が気持ちよく感る状態は可能である。本人が「快」と感じることはあるようだ。寝たきりの状態で周囲の状況を判断したり、考えたりすることはできないので、はたしてこの子に周囲に対する意識があるのだろうかもはっきりしない。外からの刺戟では眼が見えていなくても音は聞こえていることが多いといわれる。病院特有の慌しげな音環境はこの子にとってはかなり苦痛でてんかん児童は発作を引き起こす。外部の音や振動が大きな不安や恐怖を与えていることは確かである。「外部感覚」によって生命体の存在そのものが脅かされるという「本源的な恐怖」を感じているようだ。自分の体の位置、平衡感覚を「内部感覚」というが、身体全体の状態を感じるのである。「快」と「不快」の感覚のことである。「安心感」、「熟眠感」、「健康感」、「充実感」、「期待感」、「達成感」など自分の発達と意志に関係する感覚である。そして精神的な「存在感」、「共感」。「協力感」、「連帯感」という社会性の感覚も存在する。とくに「快」の状態にあると云う感覚的状態は「生きる喜び」に関係する。いきとし生きている人には「快」を感じる感覚が重要である。

「寝たきり」の状態にある人が見える(感じる)世界は2次元的であるという。動物にとって「寝たきり」は、循環器、呼吸器、運動器(骨格・筋肉)にとってよくないことはいうまでも無い。人は空間の存在と状態を、その空間内を自分が移動することによって認知するものである。また重力を頭から足の方向に感じない状態では、体の発達にとってよくない。程度に応じて極力移動したり、座位・立位姿勢を取らせるように努める。時間感覚は人生を豊かにし、自己を形成する上で必須のものである。記憶、感覚、期待は過去、現在、未来に関係するので、重症障害児には移動と係って生きる喜びとしての時間感覚を味わえるような取り組みも必要である。「意識」というものは外界の刺激に対する「反応」と定義され、「日本昏睡スケール」で段階つけられる。意識が無いというのは、刺戟をしても覚醒がなく、痛み刺激で顔をしかめたり手足を動かす程度の反応である。では反応が無ければ意識がないといえるのだろうか。外に表れる意識に対して、「内在感覚」という気持ち・気分で表現される領域があり、重症障害者への取り組みは、基本的には「生命体の維持」と本人が「気持ちいい」状態におくことが重要で、それが「生きがい」につながるのである。「髄膜炎」で脳が破壊された子では、親が話しかけることで気分がよくなり落ち着くことが多い。本人が安心して自分を表現できることは、「人間の関係的存在」を分かっていることであり、それが人という存在ではないだろうか。外的反応はなくとも人間的関係は本能として知っているのである。意識はなくとも「自己」は育っているのだ。重い障害のある人が「人間」として存在していることを感じ、ともに人間として生きてゆくという気持ちが育つのである。それは施設に関係する人々が「この子らから光を受けている」のであると、「びわこ学園」の創始者糸賀一雄氏はいう。「協力・分配・共感」という基盤があってこそ「人間」が形成され、「からだ」も「こころ」も、そして脳もふくめて「いのち」であり、人間全体なのだ。

2) 重症心身障害児施設のおいたち

戦後の社会の混乱期において、重い障害のある子供への取り組みをそれぞれの立場から始めた人たちがいた。今日の医療及び社会的な対応があるはこれら3名の先人の奮闘によるところが大きい。小林提樹氏と島田療育園、草野熊吉氏と秋津療育園、糸賀一雄氏とびわこ学園の取り組みを記して記念碑とする。小林提樹氏は1908年長野県生まれで、慶應義塾大学医学部を卒業後小児科に入った。てんかんの障害児とその家族に対して医師としてなすべきことがなく、必要なのは社会保障が充実されねばならないことであったことに目覚めたが、時は軍国主義の時代でいかんともしようが無かったという。戦後帰還して日本赤十字社産科小児科に勤務し、障害児相談会を週2回開催し、乳児院と障害児病棟を作って対応することになった。乳児は1948年の「児童福祉法」によって保護されたが、健康でない障害児は法の対象外であった。健康保険では「治療の見込みのないもの」は保険の対象外で、病院への入院さえ認められなかったという。1950年病院に無認可の障害児特別病棟を設け、こっそり障害児を入院させた。1955年国によってこの特別病棟が発見され「健康保険」の適用を停止され、1957年生活保護を受けていた子に対して「医療扶助取り扱い」の停止通知が来た。そこで小林氏はこっそり法の網の目をくぐって障害児を看るのではなく、敢然と社会に訴える外は無いと決意したという。1958年全国社会福祉大会でで訴え、「重症心身障害児対策委員会」が設置された。そして「日本心身障害児協会」を発足させ、1960年島田氏の土地の提供により「島田療育園」の建設が始まった。同年小林氏は「小児精神神経研究会」を立ち上げた。1961年5月1日重症心身障害児施設「島田療育園」が開設となった。

草野熊吉氏は1904年福島県生まれ、幼年期怪我で片足に障害が残って、これが動機となってキリスト教の洗礼を受けた。戦後は家庭裁判所の調停委員を務める中で、障害児を抱える家族を見る機会が多く、スラム街で重い障害を持つ子を引き受け生活支援をしていた。当時では肢体不自由児や知的障害児の施設は整備されてきたが、国の方針は自立支援のための訓練施設と言う観点で、身体障害と知的障害を併せ持つ重複障害児は全く相手にされなかった。1959年草野氏は西部秋津駅ちかくに「秋津療育園」を開いたのは、小林提樹氏の「島田療育園」と同じ頃であった。草野熊吉氏、小林提樹氏、糸賀一雄氏とも連絡が出来た。1963年、そこへ作家の水上勉氏が訪れ「拝啓池田総理大臣殿」によって社会に施設の援助を訴えたのである。重症児指導費、療育指導費の支給対象となった。秋津療育園が重症心身障害児施設として認めらたのは、定員が40名以上となった1964年の事であった。
糸賀一雄氏は1914年鳥取県で生まれた。京都帝国大学文学部で宗教哲学を修め、衣笠小学校の代用教員となった。そこでびわこ学園の創設にあずかる、池田太郎資、田村一二氏と知り合った。糸賀一雄氏はその後滋賀県庁に勤め、戦後家族を失った浮浪児のために1946年「近江学園を創設した。そこで糸賀氏らは「子供たちは周囲の大人達が自分の味方だと知ったとき、たちまち変わる。限りない善意、他と共感するこころ、自ら向上する意欲に溢れた存在に変身するのである」と開眼したという。近江学園には障害のある子らもすくなくなかった。そこで児童養護施設から精神薄弱児施設単独に看板替えをした。次々入所する障害児のために新たな施設を建設し、「重度重複障害児」の数も増加した。そこで1963年4月「びわこ学園」として出発した。小林提樹氏の「島田療育園」の開設は1961年であった。草野熊吉氏の「秋津療育園」の開設は1959年であり、認可されたのは1964年であった。ここの3つの重症心身障害児施設が時期をほぼ同じくして誕生した。こうした取り組みに対して、1963年7月「重症心身障害児の療育について」という厚生省事務次官通知が出され、法的には1967年8月の「児童福祉法改正」によって裏付けられた。18歳以下という制限がついていたが、1966年度予算で国立療養所に480床、整枝療護園に50床の設置が認められた。そして1966年の厚生省事務次官通達により、対象者を「児童おおよび18歳以上の者」と改められた。

3) 重症心身障害者の現状と、命を大切にする社会へ

障害には、「身体の障害」、「知能の遅れ」、「発達障害」(「自閉症障害」、「注意欠陥多動性障害ADHD」、「学習障害LD」)が知られている。そしてそ障害の程度を、知能と運動の2元で5段階にわけ、5×5の25分類に分ける「大島の分類」がある。重症心身障害児(者)は第1から第4レベルをさすが、呼吸や消化など生命維持が問題となる「超重度障害」が最近定着している。重症心身障害者はどのくらいの人がいるかというと、「公立および法人施設」に8800人ほど、国立病院機構に約5500人、家庭にいる重症心身障害者は約2万7000人と推定される。つまり日本には約4万人ほどの人がいる。そのうち超重症者と準超重症者は各約12%を占める。厚生省の調査では年齢20歳未満の超重症児の人数は約7000人で、施設入所と在宅児の比率は3:7だという。重症心身障害児施設はどこも定員に空きはなく、入所待ちの人が多いが退所は殆どないという。
びわこ学園の創始者糸賀氏の哲学である、「自己実現」と「この子らを世の光に」という考えを記して終わりにしたい。重症障害児の自己実現とは「この人たいが、じつは私たちと少しも変わらない存在であって、その生命の尊厳と自由な自己実現を願っており、うまれてきた生き甲斐を求めている。したがって療育スタッフは子供と対峙するのではなく、子供達が自己実現できるように子供と共感の世界を形成しようとするチームワークが追求されなければならない。 自己と他者の協同こそ人格の本質である。」
「この子らに世の光を与えるのではなく、この子らを世の光にしなくてはいけない。この子らの生きる姿が世の中を明るくするのである。」 それは人類の進化にも通じることである。自然界でも恐竜・野獣に比べると弱かったヒトが絶滅せずに生き残って進化してきたのは、弱かったからこそ助け合ったからである。「協力」、「分配」、「共感」のこころもまた生まれてきたためであろう。


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