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荒畑寒村著 「寒村自伝」 上・下

 岩波文庫 (1975年12月)

老兵が語る、日本労働運動・社会主義革命運動の誤謬と失敗の歴史 

荒畑寒村という名前を知る人も少なくなったのではないだろうか。荒畑 寒村(あらはた かんそん)は1887年(明治20年) - 1981年(昭和56年)という明治ー大正ー昭和の戦後まで生きた、日本の社会主義者・労働運動家・作家・小説家、戦後2期衆議院議員であった。なんとバブル期の1981年まで長寿を全うし94歳で死去された。オールドマルクスボーイといっていいのか、忘れられた社会主義運動の敗残兵といってよいのか、社会や思想に興味の無い人には説明のし様がないが、明治・大正時代の天皇制政府によって虐殺された幸徳秋水や大杉栄らと志を同じくした革命家であったといえば、大概の人は驚かれるに違いない。永井荷風著「断腸亭日乗」に、秋水逮捕の馬車をみて小説書きの荷風は無力を恥じたという。司馬遼太郎の「坂の上の雲」のえがく明治時代建設期の偉人伝などと違って、労働運動・社会主義運動の歴史は戦後までは抹殺され弾圧され暗いイメージを植えつけられた。私は寒村の著作では、足尾銅山鉱毒事件を世に知らしめるために田中正造翁から依頼されて書いたといわれる荒畑寒村著 「谷中村滅亡史」(岩波文庫 1999)を読んだだけである。これは寒村氏の処女作だそうだ。たしかに日本の社会主義運動は戦前までは徹底的に弾圧され、一般大衆から切り離された。明治政府の文明開化が翻訳文化だとすれば、幸徳秋水・大杉栄らの社会主義運動もまた翻訳文化であった。まずいことに彼らは権力を握っていなかったので、天皇制政府からは排斥されたのである。大隈重信や板垣退助らの民権運動は薩長藩閥政府に対する土佐・肥後藩士の分け前争奪戦であって、ともに権力側の分裂に過ぎない。日本の社会主義運動はロシアの革命運動や中国の共産革命と同じく専制政府に対する未熟な労働者階級の闘争であったが、ロシアではレーニンという革命の天才を生み、中国では毛沢東という農民運動の天才を生んだが、日本では惜しいかな革命運動の有能な士は生まれずにどんぐりの背比べて的な、現在の政争と同じレベルでの足の引っ張り合いと個人的な感情の分裂の上にあって、当局の弾圧のもとで運動は支離滅裂に分裂し自滅した。それが戦争後占領軍によって一時期民主化の便宜に利用されたに過ぎないのである。それが日本の社会主義革命運動であった。その支離滅裂の歴史が本書の荒畑寒村自伝である。

寒村氏は「自伝」を書くにあたって、自分の70年余におよぶ社会主義運動を振り返り、文学的粉飾もあると思うがやや自嘲気味に、「顧みれば半生の経路、すべてこれ無知と浅慮に基づく誤謬と失敗であって、爾来いたずらに過去の愚行を自嘲するのみだ」という。「数え来れば眼中の人すでに多くは枯骨、顧みて見世うたた落莫の感にたえない」、「想起すれば明治34年5月、わが国にはじめて社会民主党が創建されて、伊藤内閣により直ちに禁止された。明治43年いわゆる大逆事件により社会主義運動迫害は最高潮に達し、残された同志は喪家の犬、宿無し犬と蔑まされ、不逞のやからとよばれて犯罪人と同列視された。私は生き証人として今日存在する事を幸福に思う。」、巻末の言葉は「死なばわが むくろをつつめ戦いの 塵にそみたる赤旗をもて」である。編集工学を主催する松岡正剛氏は千夜千冊「寒村自伝」において、「自伝は面白い、いやかわいいといえる」という。どんな虚飾やいい訳が入っていても、結局自分の人生を肯定するのであるから、涙ぐましいほどの努力をして矛盾の無いストーリーを書くのである。神話や古事記を読むほど面白いらしい。さて寒村自伝をひやかすのはこれくらいにして、本書の成り立ちをまとめておこう。まず1953年(昭和28年)自叙伝「ひとすじの道」が慶友社から出版された。これは生い立ちから1921年(大正10年)までの自伝で本書の上巻にあたる。つぎに昭和31年11月から毎日新聞「エコノミスト」連載した「私の追憶」で、「ひとすじの道」を継いで、戦後の昭和23年に社会党を脱離するまでを述べたもので本書の下巻にあたる。そしてこれら2つの自伝を総合して1960年(昭和35年)論争社より「寒村自伝」が出版された。この本に対して毎日新聞社の出版文化賞、日経新聞社の図書文化賞が授与された。1960年筑摩叢書、1975年岩波文庫より「寒村自伝」が刊行され、1975年(昭和50年)朝日新聞社より朝日文化賞が授与された。私が読んだ岩波文庫本は1975年12月第1刷ー1999年10月第7刷発行である。残念ながら25年間でたった9刷である。いかに読まれていないかが分かる。絶版になっていないだけ岩波書店は良識があるといえる。さて各500頁にならんとする大部の二冊の「寒村自伝」を読んで、日本の社会主義革命運動の分裂・壊滅の歴史を振り返ることが、現今の「革新政党」の裏面を構成するであろうし、日本共産党史の「前衛」を否定することになるのでそれは興味の尽きないことであるが、あまりのレベルの低さに唖然として絶望しない事を祈りたい。

[上巻] (1887-1921年 0−34歳)

1) 生い立ちの記−社会運動への目覚め

寒村氏は横浜市の遊郭の引き手茶屋に生まれ育った。樋口一葉の「たけくらべ」のような風俗・環境で幼少期を送ったようだ。江戸情緒の残る思い出話はそれはそれで興味は尽きないのだが、永井荷風ではないのでそれはさておき、明治26年旭小学校尋常科に入学し、世の中は富国強兵から日清戦争へ傾いた。明治30年吉田小学校高等科に入学し、隣の中国清国では義和団事件や革命運動が盛んとなってきた。1901年(明治34年)高等小学校を卒業した寒村氏は横浜市の外国人商館の事務員となった。夜間は横浜英語学校に通い、商館を転転としたが、日露関係の険悪化に影響され少年の北国の守りを志して「報効義会」に入会し、実技を習うために横須賀の海軍造船工廠に入所した。1903年(明治36年)日露主戦論が大勢を占めた。日露開戦に反対する幸徳秋水、堺利彦両先生が「万朝報」を退社して「退社の辞」を発表し、内村鑑三氏も退社の辞を発表した。この両氏の悲壮な宣言に接した寒村氏はたちまち社会主義と非戦論に感激して、両氏を生涯の師と仰ぐことになった。寒村氏は幸徳秋水氏の「社会主義神髄」を読んで社会主義思想を学んだ。日本の社会主義運動は、1901年春(明治34年)木下尚江、安倍磯雄、片山潜、幸徳秋水、河上清、西川光二郎の諸子によって「社会民主党」が創立された時に産声を上げた。

2) 週刊平民新聞時代ー伝道行商と社会民主党活動

1903年(明治36年)11月幸徳秋水、堺利彦両氏によって週刊「平民新聞」が創刊され、大衆的・政治的な意味で日本の社会主義運動が始まった記念すべき事業であった。創刊号には自由(平民主義)、平等(社会主義)、博愛(平和主義)の3大主義を掲げた。幸徳氏が社説を書く主筆格で堺氏は編集長と経営者であった。片山潜氏の「社会主義協会」は1904年平民社に吸収され、片山氏はアメリカに去った。1901年春(明治34年)に創立された社会民主党は伊藤内閣によって即日禁止された。寒村氏は1904年(明治37年)1月に社会主義協会に入会した。これが寒村氏の革命的洗礼となった。1904年2月ついに日露戦争が勃発した。戦争の熱気が日本を覆うとき内村鑑三氏はキリスト教の立場から戦争反対を説き、「二六新報」は桂内閣の戦争政策を批判し、与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」という詩を発表した。平民新聞は当時は雑居的な思想集団で、国法の許す範囲で社会主義を目指す議会的・合法的社会主義運動を含んでいた。安倍磯雄氏は「絶対無抵抗主義」で、木下尚江氏は「共和主義」で、石川三四郎氏は「キリスト社会主義」で、片山氏は「改良主義」で、西川光次郎氏は「無原則的現実主義」であったという。幸徳秋水氏は中江兆民門下の自由民権論者で社会民主主義の範疇内にあった。氏を後年アナーキズムに改宗させたのは政府の弾圧政策にあった。平民社は創立当時は素朴な社会民主主義を共通点とする多様な立場の連携にあった。社会主義運動にたいする当局の弾圧は次第に苛烈となり、1904年(明治37年)11月平民新聞の社説が朝憲紊乱に当たるとして、幸徳氏、西川氏が逮捕され、平民新聞は発刊禁止・印刷機械の没収処分を受けた。ついに1905年1月平民新聞は廃刊を宣言した。1905年1月「血の日曜日事件」が起きてロシアに革命の烽火が上がった。第2インターは日本政府の社会民主党弾圧にたいして抗議の声明をだした。

東京市内で石川三四郎氏の発案で「社会主義伝道隊」が組織され、赤旗を立て市内で行進と宣伝を行なった。これが日本式デモ・メーデーの始まりかもしれない。1905年4月寒村氏は単独で「社会主義東北伝道行商」の旅を始めた。宣伝チラシを配り平民文庫を販売することで、世の中に社会主義を認識してもらおうとする運動で、いわば「ナロードニキ」の日本型真似事であった。明治維新において官軍が天皇制を庶民に知らしめる「宮さん行進」に類似している。さほど大衆は「社会主義」なるものを知らなかったので、まず宣伝から始めなければならなかったと寒村氏は若さに任せて行進を開始した。第1次伝道行商の旅は、千葉の市川ー船橋ー八日市ー銚子ー成田−佐倉ー印旛沼、茨城は龍ヶ崎ー根本村ー江戸崎ー柴崎−土浦ー高浜ー水戸ー笠間まできて手押し車が破損しいったん帰京した。39日間、売上書籍は280冊であった。7月再び車を引いて第2次行商の旅に出かけた。埼玉の草加ー栗橋ー古河、栃木の谷中村(田中正造翁にあう)−佐野ー鹿沼ー足尾銅山ー日光ー宇都宮ー両郷村ー那須、福島の白河で同志鈴木君の戦死を知り急遽帰京した。この間3週間、売上書籍47冊であった。日露戦争は1年余りで国力・兵力の枯渇に入って苦戦し、ロシアは革命の進展に苦しみ友に疲弊困憊して米国のルーズベルトの斡旋でポーツマス講和会議が開かれ8月平和条約が結ばれた。国内の新聞は対ロ強硬論者で占められ講和反対の論調が多かった。平民社は「直言」によって戦争反対の立場から講和賛成を主張したが、9月平民社を解散し「直言」は廃刊となった。日露戦争反対の一致と政府の弾圧の前に団結していた平民社は日露戦争の終局で矛盾が現れ分裂状態となった。1905年空中分解した平民社を後に寒村氏はつてで和歌山県田辺の「牟婁新報」に入社し東京を離れた。東京の堺利彦氏は「社会主義研究」を創刊し、エンゲルスの「空想と科学」を翻訳していた。安倍、木下、石川氏はキリスト教社会主義を標榜して「新紀元」によった。西川、山口孤剣氏は「光」に拠ったが、折衷主義・改良主義をとったが、さらに片山氏の国家社会主義などに分裂した。1906年1月西園寺内閣が成立し穏健主義を取ったので、2月末、片山潜、堺利彦、西川ら35名で「日本社会党」が結成された。最初に東京市3鉄道会社運賃値上げ反対運動を起こした。4月堺利明の要請で寒村氏は呼び戻され、「社会主義研究」の手伝いをした。幸徳秋水氏は6月米国から帰国した。

3) 日刊平民新聞時代ー幸徳秋水直接行動論

1907年(明治40年)1月、日本社会党の機関紙として日刊「平民新聞」が発足した。幸徳秋水氏の「宣言」が冒頭に掲載され、「天下に向かって社会主義的思想をひろめることが目的である」とした。24名の社員で構成され、名だたる社会主義者からなる15名の編集部に寒村氏も入った。2月に足尾銅山の大暴動が発生し、急遽寒村氏が取材のために足尾に向かった。この暴動は平民新聞発足時の最大の事件であった。永岡鶴造・南助松の労働至誠会が鉱夫の賃金値上げを要求した争議で、6月には四国の別子銅山でも大暴動が発生した。2月5日の平民新聞に幸徳秋水氏は「余が思想の変化」という論文を発表し、普通選挙権獲得運動に疑問を投げかけた。いわゆる「直接行動」の骨格が含まれ、サンディカリズムの影響を受け無政府主義に傾く前兆であった。幸徳氏の論文は、欧米の社会党が議会政策のほかに社会革命の手段を求める傾向にあった事を反映していた。それに対して堺利彦氏は「社会党運動の方針」を掲げて幸徳氏を批判した。2月17日社会党大会が開かれ、20名の新評議員が選出され、党則第1条「本当は国法の下に社会主義を主張する」を「本党は社会主義の実行を目的とする」に改められ、幸徳派との妥協が計られた。決議案の第5に次の運動は党員の隋意とするとして、治安維持法改正、普選法、非軍拡運動、非宗教運動が挙げられている。つまり党員の中でもまだ意見が分かれていた事を示す。

寒村氏は幸徳氏の直接行動論を、「今から見ると、主体的組織を欠いたまま、また労働者階級の意識も未熟な状態では、この直接行動論は非現実的、観念論的といわざるを得ない」という。さらに社会党内部は硬派(直接行動)といわれる幸徳氏、軟派といわれる議会政策派、それに加えるに米国から帰った片山潜氏らの国家社会主義派との論争の中で、硬派の一部はますます無政府主義的色彩を激化した。そして2月19日は幸徳氏の大会での発言が安寧秩序を紊乱する者として、当局から平民新聞は発禁、22日には社会党解散を命じられた。社会党の内部論争は、堺利彦氏の「分派包容」(折衷主義)によって仲介に務めたが、ついに6月軟派の片山、西川、田添氏の分派が「日本社会平民党」を組織した。1908年2月には片山氏が西川氏によって除名され分裂は混迷を極めた。一方「日本平民新聞」は次第に無政府主義的傾向を顕著にし幸徳派が乗っ取った形となった。幸徳秋水、大杉栄、山川均氏らの無政府主義(クロポトキン)全盛時代となった。余談だが、寒村氏の徴兵検査では、氏はカンフル剤を飲み心臓の動悸異常の診断で懲役を免除されたそうだ。寒村氏が金尾文渕堂に勤めだした頃、「谷中村滅亡史」の著作を勧められ一気呵成に書き上げたが、8月に発刊と同時に禁止され、処女作はついに一般の人の眼には触れずに葬られた。秋には寒村氏は大阪に下り、「大阪日報」の記者に採用されたが、仕事はお義理一片で大阪平民運動に力を注いだという。宮武外骨・森近氏の「大阪平民新聞」発刊を手伝った。

4) 大逆事件ーアナーキズムと社会主義運動

1908年(明治41年)6月22日、山口氏の出獄歓迎会において会場で寒村氏と大杉栄氏は赤旗を振り回し場外に出ようとして警察と衝突し、逮捕された。この事件を契機として西園寺内閣に代わった第2次桂内閣は、社会主義取締を強化した。8月下旬に裁判の結果、大杉氏は禁固2年半、寒村氏は1年半など7名に実刑が下った。そして9月には千葉監獄に入った。寒村氏にとって始めての入獄であるので、本書では獄中生活を興味深く記録しているが省略したい。寒村氏は1910年2月に出獄したが、同志は離散し尾行が徹底し全く動きの散れない孤独が氏を襲ったという。そこで余談だが寒村氏が同棲していた管野須賀子との情痴物語と、寒村氏が監獄にいる間に菅野は幸徳に寝取られた話などが語られるがこれも省略する。1910年5月25日突如として宮下太吉、新村忠男、新村善兵衛、菅野須賀子、幸徳秋水が逮捕され、全国の数百名の社会主義者、無政府主義者が検挙された。これがいわゆる大逆事件の始まりである。そうして年末には26人が起訴され、1911年1月(明示44年)24名に死刑判決、2名が爆発物取締法で懲役が決定した。この裁判はすべて秘密でおこなわれ終戦にいたる35年間国民はその事件の真相を知る事はできなかった。裁判所記録によると、事件の発案者は宮下太吉で、天皇暗殺を企て、幸徳・菅野の同意を得て新村、古河の参加を得て計画は進行したという。爆弾の製法は奥宮から宮下に伝えられた。だが幸徳には実行の意志が無いことを菅野、宮下、新村は認め幸徳を計画から除外したという。この事件に幸徳秋水が首魁に擬せられたのは、この大陰謀にしかるべき大物がいるはずだという検察のストーリーであったからで、ほかにも冤罪者も多かった。事件を大きく見せたかったのだろう。(今でも検察による似たような冤罪事件は多く発生している。) 

幸徳ら12名(幸徳、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童、管野スガ)が絞首台の露に消えたのは明治44年1月24日、秋水41歳のときであった。あとの12名は死刑執行の翌日無期懲役に減刑された。大逆事件の首謀者らの心理は具体的な計画というよりは、むしろ絶望的な感情の暴発であり、特に菅野のヤケクソ的な心理が多分に影響していると寒村氏は見ている。赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。大逆事件後吹きすさぶ反動の嵐の中で、社会主義運動は全く火が消えたようで、この空白時代は第1次世界大戦末期まで続いた。生き残った同志にとって、明治45年に堺利彦の刊行した「売文集」が同志糾合の象徴となった。ルソーの「懺悔録」などが翻訳された。寒村氏は堺氏の斡旋で「二六新報」に就職し、州崎で知り合った遊女竹内玉と結婚したという。この哀れな女性がまた傑物で江戸っ子でよく寒村氏の主義者生活を支えたらしい。

5) ロシア革命と大正時代ー社会主義運動の復活

1912年(明治45年)7月30日明治天皇が逝去した。大正元年と改元した年、寒村氏と大杉栄氏の計画した雑誌「近代思想」が10月に第1号が出た。大杉氏が創刊号に寄せた論文「本能と創造」は氏の個人主義的アナーキズムの片鱗が窺えた。かなり文壇的思潮を取り入れた論文で自我の開放と自由のための闘争が議論の中心であった。社会運動に対するエネルギーのはけ口を求めて、文壇の傾向や作品を批評していったという仮の姿であった。近代思想の寄稿者には、堺利彦氏は翻訳者として、伊庭孝氏、安成貞雄氏、土岐哀果氏、若山牧水氏らがいた。寒村氏は短篇小説を発表した。1913年(大正2年)4月大杉氏と寒村氏は「サンディカリズム研究会」を開催した。1914年(大正3年)欧州で第1次世界大戦が起った年、10月「平民新聞」が発行された。しかし発売とともに安寧秩序有害ということで禁止を食らったので、翌年3月平民新聞は廃刊した。「近代思想」も吉川守圀氏が復活させ、山川均氏が寄稿したが、初号を除いて毎月発禁となりついに1915年1月に廃刊のやむなきに至った。1912年石川三四郎氏はフランスに亡命し、片山潜氏は1913年アメリカに去った。欧州大戦で日本には成金時代が到来し、ドイツの軍国主義に対する戦いで日本は連合軍に付いたので、国内の社オア主義者に対する政策をわずかに緩和した。いわば「大正デモクラシー」が徒花を咲かせた時代である。組合運動、普選運動、民主主義運動が花開いた。1915年(大正4年)9月刊「新社会」が誕生した。1915年山川氏が上京し「売文社」に入り文壇デビューし、「新社会」では吉野作造、大山郁夫らの民主主義論が活躍した。1917年ロシア3月革命が勃発した。レーニンのボルシェビキが皇帝を倒し、革命政府を樹立したため全世界が驚倒した。興奮した同志ら30名は代表者堺利彦の名で、革命の成功を祝い大戦を終結させる決議文をロシアに送った。

7月「新社会」は経営陣を堺、山川、高畠、山崎、吉川、渡辺、荒畑とし,編集責任者を荒畑寒村氏とした。「新社会」にはレーニンの「ロシア革命」、トロッキー「自叙伝」などの翻訳を掲載した。明らかにボルシェビキへの傾向を明らかにしたもので、度々発禁となった。労働組合運動は西尾末広氏の組織する大阪の職工組合期成同志会と、男爵渋沢栄一氏の庇護による「友愛会」があるのみであった。時代は職工という職業別組合から1産業を組織単位とする産業別組合を目指していた。政府は友愛会、信友会らの3団体を労働組合として認可したので組合運動は拡大した。大戦後の不景気が日本を覆い、富山の漁民の婦人らが「米騒動」を起こした。これは間違いなく「一揆」であった。寒村氏が米騒動の感想を発表すると、騒動の拡大を恐れた当局は安寧秩序違反で寒村氏、弁護士長野氏ら3名を逮捕した。「新社会」は高畠、遠藤、茂木、北原らの国家社会主義者の占拠するところとなって、国粋的(皇室中心主義)傾向が顕著となった。1918年2月寒村氏、山川氏は新社会から高畠一派を追い出し絶縁した。山川氏らは1919年(大正8年)月刊「社会主義研究」を発行し、共産主義の旗色が次第に鮮明となった。組合運動は、欧州大戦に伴う産業の発展、民主主義思想の台頭、ロシア革命の成功、米騒動一揆などによって次第に高揚期に入った。労働組合は労使協調路線の「友愛会」以外に1919年には70団体となり、ストライキ件数は500件、6万人となっていた。欧州大戦中に「工場法」が制定され、労働時間を14時間としたために労働運動が巻き起こったのである。労使間の自然発生的な賃金・労働条件争議が頻発したことで、組合運動も先鋭化の度を加えた。1919年3月に大阪の岩井金次郎氏が創刊した「日本労働新聞」に寒村氏は穏健な筆風で寄稿し援助を惜しまなかった。堺、山川氏の運動には労働運動との接点が全く無かったようだ。

1919年は関西の労働組合のなかに普通選挙運動が旺盛となり演説会・デモなどが行なわれた。1920年には九州八幡製鉄のストライキ、東京市電のサボタージュ、そしてメーデーの挙行まで進展した。ところが3月になって経済大恐慌は日本中を襲い、失業者30万人がでて1920年には労働争議は造船界で激甚を極めた。「日本労働新聞」は京都の労働運動と密接な関係を持った。寒村氏は、辻井民之助、国領悟一郎らと組んで西陣の織物関係労働組合である「織友会」の機関紙「西陣労働新聞」を「日本労働新聞」京都版とした。この運動は九州へ飛び火し博多織工組合理事長の松居氏らは労働新聞に「博多通信」を掲載した。12月友愛会は「日本労働総同盟友愛会」と改称し、工場法の改正、労働組合法の制定を議論していた。関東の組合代表者は国の立法政策に期待しないという意見も多かった。社会主義者と労働運動を隔離する政府の方針は続き、労働界においても賀川、麻生氏らは社会改革は労働運動にしか出来ないと主張し、寒村氏は労働運動が社会主義化されないと労働者の生活改善もないと主張した。11月京都において高山義三氏の除隊歓迎会において、鍋山貞親氏らが赤旗を振り回し検挙された。寒村氏も含めて七名が逮捕起訴された。この事件で高山氏は翻訳思想の危険思想とは縁を切ってしまった。当時堺氏、山川氏らは既にコミュニズムの旗色を鮮明にし、大杉氏はアナーキズムを代表し、寒村氏はコミュニズムには近かったようだがまだサンディカリズム(組合主義)の影響が強かった。1920年イタリアのトリノの織物工場占拠事件がおき、サンディカリズム革命のテストケースと称された。労働者は工場を運営することは出来ず自壊した。これを契機として寒村氏は結局労働者の権力獲得でなくては労働者階級の国家は生まれないと悟ったという。京都赤旗事件で下獄の迫った寒村氏は1921年6月労働新聞を廃刊とした。

[下巻] (1921−1975年 34歳ー88歳)

6) 第1次共産党結成ーロシア派遣とコミンテルン 

寒村氏は1921年6月から12月まで、京都赤旗事件で6ヶ月間入獄した。その間東京では堺、山川、田所氏などがコミュニズムを鮮明にした雑誌「前衛」の発行を計画していたは、11月近藤栄蔵氏の組織する「暁共産党」が反軍の宣伝ポスター、ビラを散布して多数の人が検挙されたという。近藤氏は大杉氏の「労働運動」に参加するアナーキストと協働戦線を作ったようだ。(大杉氏はアナーキズムの立場からソヴィエト政権には反対していた。) 1922年春堺、山川、橋浦、近藤、寒村らが共産党結成準備会を作った。時を同じくしてイルクーツスで開かれた極東民族大会から帰った水曜会の徳田球一、暁民会の高瀬清氏はコミンテルンの指示だと称して共産党結成の要請を伝えた。こうして1922年(大正11年)第1次共産党が秘密裏に結成された。規約草案を、山川、堺、荒畑、橋浦、高津、徳田らで議論したという。ただあまりに無計画に、無組織的に党をでっち上げた感が強かった。「労働新聞」、「農民新聞」、「前衛」を機関紙とし、佐野学、平林初之輔、浅沼稲次郎らの知識人が入党し,労働組合の活動分子も少しずつ加入してきた。ところが党の指導組織・活動方針も無く、党運営はまったくの手探りで始まった。9月大阪で日本労働組合総連合の結成大会が開かれたが、集中か自由加盟かという組織論を巡って総同盟と反総同盟系が対立しデッドロックに乗り上げた。11月日本との国交回復を打診するソヴィエトの要請で寒村氏は北京に出かけ、ヨッフェと会見した。寒村氏は日本の世論状況を伝え、ヨッフェはそれをモスクワに送って、翌年ヨッフェは来日し後藤新平と国交回復交渉を行った。ウラル山脈まで達した日本のシベリア出兵問題はこうして解決した。1923年3月の党臨時大会でコミンテルンに提出する綱領草案、運動方針が討議され、寒村氏がモスクワに派遣されることになった。

3月末ロシアに潜入する目的で寒村氏は日本を後にして上海に入った。このモスクワ行きの旅行記は、中国内を移動しナタ駅よりシベリア鉄道に乗るまでが、スリルに富んだ冒険話になっている。中国やシベリアの各地の風俗、景色、歴史などが語られているのでそれは面白い旅行記であるが、長くなるので省略して経路だけを示す。上海ー南京ー天津ー奉天ーハルビンー満州里と中国内を移動し、ここから馬車で国境を越えてシベリアのマツィエフスカヤに入った。シベリア鉄道に乗って、チターイルクーツクーノヴォニライエフスクーオムスクーエカチェリンブルグーキーロフーヤロスラヴリーモスクワという駅を通過して4月24日にモスクワに到着した。日本から約1ヶ月の旅であった。モスクワでは、4月25日片山潜、山崎一雄氏とともにロシア共産党第12回大会を傍聴した。レーニンは既に病気で現れず、スターリン、ジノヴィエフ、トロツキー、ジェルジンスキの演説を聞いて感銘したというが、1924年レーニンが死去するとトロツキーが追放され、ブハーリン、ジノヴィエフらの革命元勲が粛清されてスターリンの独裁が確立したのである。5月1日メーデに参列し赤旗の海に感激したという。片山潜氏は10年前にアメリカに亡命して以来の再会で、氏の日本の党の報告書を英訳する仕事を手伝ってコミンテルン本部の事務局に提出した。寒村氏の感慨は、モスクワで会った要人の悉くが後のスターリンの粛清で殺されたことであると云う。

7) 共産党検挙・解散と関東大震災ー大杉栄虐殺事件

1923年6月下旬、寒村氏はまだモスクワにいるとき、日本では共産党組織が発覚して堺氏を始め数十名の党員が検挙された。辻井民之輔氏がチタに亡命し保護したという報がモスクワに入り、寒村氏は和田軌一郎氏とともに帰国の途(来た経路を逆にして)に就いた。チタで和田氏と合流し、共産党の亡命者がいラジオストックにもいることを知り、7月上旬にウラジオストックに移動した。亡命党員は佐野学、近藤栄蔵、高津正道、山本謙蔵らであった。ここで帰国の方策を探したが暫くはセダンカで共同亡命生活を送る以外に方途はなかった。同年9月1日関東大震災が起きた事を知った。そこで山本謙蔵氏と帰国することになった。ロシアの貨客船で上海に着き、そこで大杉栄夫妻が憲兵大尉甘粕によって殺害された事や朝鮮人虐殺事件を知った。11月下旬上海から長崎について大阪に向かった。鍋山貞親氏から状況を聞いて、共産党検挙後佐野文夫らの仮執行部が出来たが、解散論に覆われているという。仮執行部は山本氏、辻井氏、寒村氏にウラジオストックへ帰還せよという命を伝達した。佐野文夫氏から正式に解散の意見を知らされた。解党論者は徳田一氏、野坂参三氏と赤松克麿らで仮執行部は1人残らず解党論となっていた。1924年(大正13年)には党派すでに実質的に解散しており、寒村氏はこれに反対し事務局(ビューロ)を設け、寒村、青野季吉、佐野文夫、徳田球一、北原竜雄氏らで第2次共産党の結成を目指した。山川均氏は「方向転換論」で古い形の社会主義は、組合運動や大衆的な政治運動のなかに解消してゆくべきものであるといった。こうして山川氏は共産党から離れていった。1924年7月解党をコミンテルンに報告するため寒村氏は上海に向かった。1925年2月上海でコミンテルン代表と会い、青野、佐野、徳田、寒村とヘラ−らコミンテルン代表は協議して、解党は間違っており再建をめざすという「上海テーゼ」に合意した。その後青野と佐野氏はビューロを脱退し戦列を離れた。堺、山川氏が協力を拒んだことは寒村氏にとってショックであったようだ。労働総同盟も共産党検挙後は現実的路線変更を発表し左派を抑えた。西尾末広氏は左派を除名して左派は日本労働組合評議会を作り総同盟は分裂した。1925年暮に農民労働党は解散を命じられ、1926年3月第2次無産政党の労働農民党が大阪で結党した。寒村氏は禁固10ヶ月の刑に服するため下獄した。

8) 労働農民党の10年ー昭和ファッシズムと太平洋戦争

1927年(昭和2年)1月寒村氏は出獄したが、共産党はすっかり「福本イズム」が占拠し、山川氏の「方向転換論」を折衷主義として攻撃していた。福本イズムとはレーニンの「何をなすべきか」を受けて、結合の前の分離を主張し、修正派、経済派といった合法主義者と分離し、職業的革命家の秘密組織を標榜するものであった。佐野文夫、市川正一らが寒村氏に委員就任を要請してきたが、寒村氏はこれを拒否し「労農」によって共産党と論争を開始すると、山川氏と寒村氏を除名してきた。当時の労農党は共産党の支配する左派と、「大衆」による鈴木茂三郎氏、黒田寿男し、大森義太郎し、大山郁夫氏らが論争をしていた。そこでこれを乗越えるため雑誌の計画が進められ、「労農」という雑誌が、堺、山川、鈴木、黒田、大森、青野、寒村、岡田、向坂らによって営まれた。この時点で寒村氏は共産党と袂をわかち、堺利彦、山川均氏のもとで労農党の活動を開始した。大衆がまだ社会主義と資本主義の選択を問題としていない状況では、あらゆる反ブルジョワ勢力を包括した共同戦線として、大衆的無産政党を結成すべきであると云う信念から生まれた。一方共産党はコミンテルンから福本イズムが批判されると徳田球一は突如反福本イズムに豹変した。(徳田のあだ名は、株屋のポン引き) 寒村氏は徳田や佐野に対する人格的な反感によって共産党には入る気がしなかったという。こうして寒村氏の後半生は反共産党の立場で貫かれた。田中義一内閣は、1928年3月15日(昭和3年)治安維持法(大正14年に制定)を適用し共産主義者の大検挙を行なった。1千名が逮捕され、3百名余が起訴された。政府は労農党、労働組合評議会、霧散青年同盟に解散を命じた。その中で、渡邊政之輔氏が自殺し、山本宣旨氏は刺殺された。寒村氏も逮捕され入獄した。

労農党は解散させられ半秘密組織となったが、無産政党の合同機運も高まった。12月には7党が合同して「日本大衆党」が成立した。この党内部で清党運動が起き分裂し、山川氏、猪俣氏らは脱退した。1931年(昭和6年)9月満州事変が勃発した。国内では国家主義的風潮が高揚し、赤松、麻生らの右派は軍部に迎合し「社会大衆党」を作り、河上肇氏らの「解消派」は合法政党を否定し脱退した。堺利彦氏は党の反戦委員長であったが、脳溢血で昭和8年1月ついに帰らぬ人になられた。無産階級の政治・労働戦線が圧倒的な国家権力の前に倒壊し、これを食止めることは誰にも出来なかった。1936年(昭和11年)盧溝橋の日支事変が起った。そして昭和12年旧労農党に対する治安維持法違反事件(いわゆる人民戦線事件)で突如寒村氏は検挙された。政府は一切の大衆的な反戦運動を弾圧する為に仕組んだ検挙・起訴であった。経済学者の大内兵衛氏も逮捕された。1年近く警察署で取調べを受け昭和13年12月巣鴨拘置所に移された。寒村氏の罪状ははっきりしなかったが、天皇制廃止を述べただけで治安維持法で起訴された。1939年(昭和14年)4月寒村氏は保釈され裁判に付された。寒村氏は当時の感慨をこう語っている。「昭和2年の暮に労農を始めて創刊されてから、12年の暮に逮捕されるまでの満10年、私たちのたたかいは反動の嵐の前に無残な敗北をとげた。そして孤影悄然として拘置所を放たれた私は、まさに旗を巻き傷を包み、秋風星落をうたう敗軍の1兵卒なのである」と。独ソ不可侵条約で平沼内閣は辞職し、ドイツとソ連はポーランドを分割した。1940年馬場氏、大森氏が相次いで亡くなった。9月には日獨伊三国同盟が結ばれ、ドイツのソ連侵攻が開始された。1942年、人民戦線事件の第1審で寒村氏は懲役3年の刑に処せられたが起訴した。この時期寒村氏は妻を喪い、生活は翻訳業で糊口をしのぐ様であった。人民戦線事件の裁判は1945年4月に控訴棄却となり上告中に終戦を迎え控訴破棄となった。終戦直前の対日ソ連参戦は千島列島をソ連領に編入する国際的合意の下に行なわれた。連合国は「北方四島」を了承していた。ソ連は社会主義という看板のもとに赤色帝国主義を実行し、列強の帝国主義と選ぶところのない不正に寒村氏は憤りを覚えたという。

9) 戦後の新しい労働組合運動ー社会党政権と分裂、そして離脱

戦後軍部の圧力から解放され、労働運動の再建が始まった。旧日本労働組合全国評議会の高野実氏、山花秀雄氏と語らい、経済的利害の一致にも基づいて組織される労働組合は、政治的意見の相違によって分裂すべきではない事を原則とした。1945年10月全国労働組合結成準備会が開催され、「日本労働組合総同盟」がつくられ、そのなかで産業別組織で一番早く結成されたのは関東金属労働組合である。寒村氏は暫定的にこの金労の委員長に就いた。共産党は反総同盟を組織する動きに出た。昭和21年2月共産党の徳田氏、野坂氏と寒村氏、高野氏が労働組合の討論を行なった。共産党は資本家との協調を図る総同盟内の西尾、松岡派とは一緒には行動できないという。9月末社会党結成懇談会が催された。旧社民党系の西尾、水谷、旧無産党系の加藤勘十郎し、鈴木茂三郎らの様々な潮流が集まった。山川氏は寒村氏、渡邊文太郎氏らと民主主義革命の完遂のためにあらゆる要素を結合した民主戦線とつくろうとした。21年の4月の総選挙には寒村氏は社会党から立候補し当選した。この選挙中に山川氏の勧めで寒村氏は森川初枝と結婚した。衆議院では中央労働委員となり、労働関係調整法を審議していたが、1947年(昭和22年)共産党は2.1ゼネストを計画した。主力は官公労であったが、1月31日GHQはゼネスト中止命令を出した。5月の総選挙で社会党が140議席を獲得し第1党となり、民主党・国協と3党連立内閣を作り、社会党委員長の片山潜氏が総理大臣となった。片山内閣は炭鉱国営化案を巡って紛糾し、業界団体の反対にあって国営化案は流産となった。そして社会党党決議を無視して軍事公債の利払いを強行する西尾官房長官に反発し寒村氏は社会党を脱退した。社会党左派の鈴木氏らが補正予算案を否決したことにより、片山内閣は瓦解した。ついで芦田首班の民主・社会党連立内閣が成立した。

10) 山川新党の挫折ーレッドパージと組合運動

昭和23年1月、芦田内閣の副総理格であった西尾氏の土建業者献金事件、次いで10月昭和疑獄事件がおき西尾氏が逮捕され、芦田内閣も瓦解した。当時の文部大臣であった森戸辰男氏は社会党機関紙の論文に「社会党はプロレタリアートの階級政党ではなく、産業資本家も含めた国民政党である」と宣言し、連立内閣の中で社会党は分裂した。10月寒村氏と山川氏、小堀氏らは社会主義政党結成準備会に加わった。これを「山川新党」構想という。日本社会党の問題点を、ボス分派の集合体に過ぎず、かつ労働者階級から遊離している浮き草政党であるとし、共産党の組合支配に対して反対し、組合の民主的運動を目指した新党結成を呼びかけたが、この運動は盛り上がらず失敗した。世の中の情勢は騒然として共産党の警察占拠事件、人民電車暴走事件、下山事件、三鷹電車事件、松川列車転覆事件がおき、GHQ の占領政策が急速に反動化しレッドパージが行なわれ、共産党は地下に潜った。社会党は昭和24年4月第4回党大会で党再建運動方針を議論し、左右の分裂が決定的となった。1950年1月の第5大会で右派の片山委員長、左派の江田三郎し、鈴木茂三郎氏らの対立で片山氏は辞任し右派の陰謀は敗北した。ところがその裏で左派、右派、中立派の統一会議が開かれ分裂を回避した。


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