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安西祐一郎著 「心と脳−認知科学入門」

 岩波新書 (2011年9月)

心のはたらきを情報科学の目から見ると

認知科学とは何という学問分野だろう。定義では認知科学(cognitive science)は、情報処理の観点から知的システムと知能の性質を理解しようとする研究分野ということらしい。認知科学は心理学 (認知心理学 - 進化心理学 ) 、人工知能 -(ニューラルネット - 計算機科学) 、言語学 ( 生成文法 - 認知言語学) 、人類学 -(認知人類学 - 認知考古学) 、神経科学 -(認知神経科学 - 脳科学) 、哲学 ( 認識論) などと関連し、学際的領域にある。心という摩訶不思議な働きを脳神経科学という医学上の手法で唯物的に捉えきれるかというと、本書はそれは難しいと答える。悠久のときの流れに比べると、ひとりの人の一生はほんの一瞬のきらめきに過ぎないかもしれないが、それが人類という大きな存在にすると、文化、歴史、社会と文明を築き、大きな価値を生み出してきた。この人間とはいったい何なのだろうか。とりわけ心とは何なのだろうか。心は脳のはたらきであることは自明だとしても、心は脳からどのようにして生まれるのだろうか。何かを感じ、知り、学び、記憶し、言葉を使い、身体とともにあること、感情や意志や知識を生み、人と語らいつながり暮らしや文化を創りだすことは、みんな心のはたらきである。心の働きにかかわる現象を「情報」の概念をもとにして理解しようとする知的営みを「認知科学」という。「情報」とは心のはたらきや心の状態に変化を与えるもののことである。情報の概念は1940年頃までに確立され、広い範囲の領域に浸透してきた。21世紀を生きる世界中の人々を支える時代精神である。20世紀末に遺伝子解析という偉大な科学の成果が生まれたが、21世紀は「心と脳と社会」を総合的に理解することが課題となっている。認知科学はこの目標に近づくための最も重要な知的営みである。

著者である安西祐一郎氏のプロフィールを紹介する。安西 祐一郎氏は財界及び学会の名門安西家の一族で、親族には慶応義塾関係者が多い。1946年(昭和21年)生まれ、カーネギ・メロン大学から北海道大学を経て、慶應義塾大学理工学部教授、2001−2009年慶應義塾長を2期務める。2011年9月16日、独立行政法人日本学術振興会理事長に内定した。専攻は情報科学・認知科学。主な著書には、『問題解決の心理学 ― 人間の時代への発想』(中公新書、1985年) 、『知識と表象 ? 人工知能と認知心理学への序説』(産業図書、1986年) 、「認知科学と人工知能 計算機科学/ソフトウェア技術講座 17 」共立出版 1987.11 、「認識と学習 岩波講座ソフトウェア科学 16」 岩波書店 1989.2 、『未来を先導する大学 ― 慶應義塾長、世界の学長と語る』(慶應義塾大学出版会、2004) などがある。NHK会長人事をめぐるいきさつが話題となった。2010年12月29日NHK経営委員会は後任の人選を進め、その過程で安西に次期会長就任を打診、安西はこれに内諾したが、安西が会長交際費の有無について照会を行ったことについて、経営委員会内部で安西に対する不信が生じ、2011年1月には経営委員会が打診を撤回し、安西氏はNHKの不明瞭な体質に抗議文を発表した。このいきさつは安西祐一郎オフィシャルブログに発表された。
私は心と脳のはたらきについて、雑多ないろいろな本を読んできた。茂木健一郎氏の著作が多いが、本読書ノートコーナーにまとめているので、参考までに下に列記する。
養老孟司著 「唯脳論」(ちくま学芸文庫)
養老孟司著 「脳の見方」(ちくま学芸文庫)
茂木健一郎著 「脳と仮想」(ちくま学芸文庫)
茂木健一郎著 「意識とはなにか」 (ちくま学芸文庫)
茂木健一郎著 「脳整理法」(ちくま学芸文庫)
茂木健一郎著 「脳の中の人生」(ちくま学芸文庫)
澤口俊之著 「あぶない脳」(ちくま新書)
酒井邦嘉著 「言語の脳科学」(中公新書)
山鳥重著 「わかるとはどういうことかー認識の脳科学」(ちくま新書)
茂木健一郎著  「脳と創造性ーこの私というクオリアへ」(PHP新書)
茂木健一郎著 「クオリア入門(心が脳を感じるとき)」(ちくま学芸文庫)
有田秀穂著 「セロトニン欠乏脳」(NHK生活人新書)
川島隆太+安達忠夫 「脳と音読」(講談社現代新書)
茂木健一郎著 「すべては音楽から生まれるー脳とシューベルト」(PHP新書)
茂木健一郎著 「欲望する脳」(集英社新書)

1) 人間とは何かー認知科学序論

人間とは何だろう。いろいろな心のはたらきから現れる人間の姿は、人が人たるゆえは次の5つの姿かもしれない。
@ コミュニケーションする人間 人の気持ちを感じ共有できること、つまり共感する心のはたらきが必要である。
A 感動する人間 感動はさまざまな心のはたらきが集中して身体の全体がかかわる深い感情である。
B 思考する人間 人間と動物を分ける大きな特徴で、いろいろな概念やことばによって意味を掴む。多くの経験を知識としさらにしっかりした知識スキルを見つける。
C 熟達する人間 短期的には学習であり、時間をかけてある領域のスキルを自分のものにしてゆくはたらき。身体機能だけでなく社会的には信頼感や人間関係に熟達することも含む
D 創造する人間 自分自身の関心事に没頭し、世界を自分の思考によって理解することが創造する人間の本質である。

日常的に心に現れる現象をよく考えると、その現象を生み出す心のはたらきは実に不思議である。さまざまな心のはたらきを見て行こう。
* 虹の色は7色というが、色の概念は地域によって異なり、これを5色といったり2色という民族もいる。虹の色の数さえそう単純ではないのである。心理学、人類学、神経科学などが係る複雑な心のはたらきがみえる。赤いクレヨンで書いた「青」という字を見て、これを赤という人もいたり、青という人もいる。「これは何という字ですか」いう設問を明確にしておけば迷う人は少なくなるが、一瞬戸惑いを感じるだろう。網膜の視覚神経は脳で処理を施されて色や形、意味(文字は形から入り意味を理解する)を理解する。そこに時間遅れが生じるのだ。
* 恐怖の感情は意識下の現象と考えられるが、実はあらかじめ状況から心の準備は出来ているのだ。そこで反射的な行動が可能になる。
* 赤ちゃんとお母さんの関係は「愛着」という。この愛着の気持ちは「自分にひきつけておきたい他者との関係」と見なすと、大人の恋愛、愛情というのも愛着の発展形であろう。「共感」すなわち気持ちが通じるとは、「意図」、「注意」、「目標」、「手段」を二人で共有することである。赤ちゃんは次第に「欲求」、「希望」、「駆け引き」を憶えてくるものである。
* 騒然とした中でも自分にとって大切な意味を持つ情報は選り分けるメカニズムが意志下で働く。
* プルーストは「失われた時を求めて」で、マドレーヌを紅茶に浸すと幼い頃の記憶が次々と甦ると書いている。人の記憶は3歳からで、その豊かさ、精妙さは筆舌に帰し難い。このマドレーヌはキッカケであるが手がかりを与える「プライミング」と呼ばれる。
* 匠の技は、修練による記憶や思考や身体運動の働きと学習メカニズムなどが複雑に組み合わされて、匠の触感イメージが生まれる。イメージは創造の源泉であり、その大部分は意識下で起こっている。
* ひとのこころの最大の特徴は、一貫した性質を持つ言語の機能が含まれていることである。言葉は記号ではあるが、多様なイメージを惹起し、情報を概念に切り分ける働きがある。言葉なくしては思考は成り立たない。論理も成立しない。言葉のはたらきは記憶や感情や運動のはたらき、他の人と意志と意図を共有する社会性のはたらきなどと相互作用しながら身についてくるようだ。言葉はコミュニケーションにはなくてはならないツールである。
* ひとは経済感覚となると、富みを蓄積するときは保守的(損をしないように)となり、損失を購うときは賭けに出る傾向がある。人の意志決定にはいろいろな特徴がある。

心のはたらきは、脳の働きや社会・環境とどう関連しているのだろうか。「心・脳・社会」の関係を考えよう。心のはたらきは上に数例を示したが、様々な要素から成り立っており、意識される心の機能の外、意識あされない機能もある。そして1生にわたって発達する。心は物質ではない。だから脳の構造や機能だけを追及してもそれだけですぐに心が分かるというわけには行かない。心と脳の理解にまだ大きなギャップがが存在し、認知科学は情報の概念と情報科学の方法論を用いて、心と脳の探求に新しい道を開拓しようとしている。心は感情や記憶や社会性や思考と言った要素的な機能が相互作用してはたらく情報処理システムと考える。心はシステム(多変数関数といってもいい)であるとして、自分自身の心の状態、他の人の心、社会と環境の作用を通じて、内部の状態が変化するシステムである。変化を与える外部入力が情報である。ここで心の要素を変数として、他変数の関係式(相互作用)が心という状態(システム)を決めるというモデルを考えてゆこう。
* 外部情報を身体に取り込む心のはたらきを「感覚」という。身体からの感覚情報が心のはたらきに重要である。対象(形、色、特性)が同じであると云う認識は視覚情報が結びついて形成される。
* 恐怖、喜怒哀楽など多くの人に共通した感情が存在する。感情のはたらきに関係する脳の構造部分には,大脳周辺系、扁桃体、脳幹らが強く係っているといわれる。神経系だけでなくホルモンやステロイド内分泌系の役割も大きい。論理よりも感情を伴った記憶が最も強いとも言われる。感情をコントロールするのも心のはたらきである。
* 他者との関係にかかわる心のはたらきを社会性のはたらきという。赤ちゃんの「愛着」、若い頃の「恋愛」、中高年の「愛情」は一番身近な社会性である。他人が心の中で何を思い、信じ、望むかを推測する心のはたらきである。このはたらきには、報酬回路に関係する眼窩前頭皮質、感情に関する扁桃体、顔の表情に関する上側頭溝、前頭葉運動前野・連合野などが関係している。
* 人の運動のはたらきは、視覚、感知する「体性感覚」などの多くの分野が関係する。小脳、大脳基底核、大脳皮質運動野が働き、筋肉を動かす神経系が重要である。トレーニング、リハビリ、ロボット開発への応用が活発である。
* 対象を意識する事を「注意」という。脳の働きから見ると、注意や意識は知覚、感情、社会性、記憶、思考を制御する役割を担っており、前頭葉をはじめ広い範囲の神経系が関連している。
* 人の1生は記憶のかたまりであり、自己を規定するのは1貫した記憶である。記憶のはたらきには多くの種類があり、記憶すべき情報を作る「作動記憶」、名前などを覚える「宣言的記憶」、「エピソード記憶」から「メタ記憶」などが分類されている。精神疾患から様々な記憶と脳の活動が研究されてきた。
* 心の様々なはたらきの相互作用から、心の中に創り出される新しい情報の事を「イメージ」という。外界情報からつくられる心のはたらきから、心の中だけに模擬シュミレートするはたらきである。運動選手の「イメージトレーニング」がそれである。視覚を担当する後頭葉、思考に係る前頭葉とそれらの連絡神経系が関連している。工芸や技術者の想像力に強く関係している。
* 人間が持つ言語の特徴は、@文法、A記憶作用、概念想起力、Bコミュニケーションである。脳の側頭葉ウエルニッケ野、前頭葉のブローカ野の研究が名高い。
* 思考とはいろいろな情報を変換加工して、新しい情報を創造することである。思考の中で問題解決や意志決定のはたらきが研究されてきた。思考は脳の前頭葉以外に多くのはたらきが関係することは当然である。報酬や価値予測については意識下の働きに関係する眼窩前頭皮質、扁桃体も関係する。
* 学習・発展・進化・文化は時間の流れの中で自分を変えてゆくはたらきである。この社会性のはたらきはとりわけ他者とのコミュニケーションに関係する。

認知科学学説史は第2部に譲るが、ここは認知科学以前の進歩を簡単に振り返ろう。 本書が扱うのは心の情報処理モデルの概念である。心と脳の研究にはおおまかに、心と脳の構造主義の方法と、はたらき(機能)を問題とする機能主義の方法がある。心の構造主義とは、心をいろいろな属性を持つ要素とそれらの関係としてモデル化することである。行動心理学の刺戟ー反応モデルは構造主義といえる。機能心理学は機能主義である。脳については構造主義とは解剖学、機能主義とは生理学が対応する。19世紀後半のゴルジの神経組織研究、カハールのシナップス結合研究は神経系の構造解明に貢献した。20世紀初頭、生理学者シェリントンの筋肉反射機構の研究は興奮と抑制のフィードバック構造を持つことで、認知科学の先駆を為す研究であった。心や脳のはたらきが、一部の局在的なはたらきを基本としているか、あるいは心または脳全体のはたらきから生じるものかという設問は長年、局在論・全体論として研究者の関心を呼んだ。18世紀後半外科医ブローカは左脳前頭葉の特定の部位が損傷されると、文法にあった文を作ることが困難となる事を見出し、精神科医ウエルニッケは左脳側頭葉の特定の部位が傷つくと文の意味が理解できない事を発見した。公した論証の知見と脳内の個々の神経部位の機能を調べる基礎神経科学の発展が機能局在論を裏付けてきた。ところが、最近の機能的核磁気共鳴(fMRI)などの応用により、脳の特定の機能の活動部位が脳のあちこちに分散していることが発見され、全体論的な考え方が復活した。心のはたらきにも要素的な構造主義モデルは局在論の立場を取る。言葉のはたらきをいろいろな要素の総合として理解するには局在論である。それに対して心こそ全体論で捉えるのがゲシュタルト「全体性原理」である。20世紀初めにゲシュタルト心理学が主張したものは、物を見るはたらきについて、個々の視覚的要素が総合されて全体が構成されるのではなく、全体が見えてから個々の属性が知覚されるという。とくに「ひらめき」(茂木健一郎氏はア・ハーの体験という)や洞察、創造的な思考は全体論であるとする。それは心と脳はひとつか、それとも別々のものかにも及び、デカルトの二元論、スピノザの一元論はいまなお論争の的である。しかし脳をいくら研究しても心のはたらきを十分に説明することはできない。赤ちゃんが生まれて成長するにつれ経験的に心のはたらきがつくられるという経験主義的な見方が17世紀以来の思想的主流である。20世紀始め心理学者ビアジェの発達段階モデル、環境要因を重視したソヴィエト心理学などが代表であった。それに対して人は生まれつき言語能力(文法脳)を持つとする言語学者チョムスキーの合理主義的な見方がある。情報科学は記号表現モデルを作ったチューリングマシン、アナログ信号と制御のモデルを作ったサイバネティックス、情報伝達のモデルを作った情報理論が1930−1940年代に確立された。チューリング、ウィーナ、シャノンの3人の天才による理論はそれぞれコンピュータ科学、制御工学、通信工学の基礎となった。例えば視覚の働きを情報科学的に説明するということは、1982年数理神経科学者マーによると、次の三段階の説明レベルからなる。@物理的実装説明レベル、Aアルゴリズムと表現レベル、B計算レベルである。これはコンピュータの@物理実装レベル、AOSプログラム記号レベル、Bソフト知識レベルに似ている。

2) 認知科学の歩みー学説年代史

認知科学が誕生した1950年代から近年にいたるまで10年史で、認知科学が明らかにしてきた心と脳の情報処理モデルの変遷を見て行こう。

@ 1950年代ー誕生

心理学、生理学、神経科学、言語学など伝統的な学問分野が情報の概念と方法論をもとに、心と脳のはたらきに関する新たな知的営みとして認知科学を誕生させたのは1950年代の事である。1940年代には特定の神経回路が特定の心のはたらきを担っているとする研究が盛んになった。「ベーペッツの情動回路」、「ヤコブレフの情動回路」は、大脳周辺系の扁桃体や前頭葉の眼窩前頭皮質などの回路が感情にはたらきかけると主張した。1940年代初めに神経系の情報処理モデルの研究が生まれた。マカロックとビッツは神経細胞の閾値素子をもとに「神経回路網モデル」を提唱し、チューリングマシーンと同じ処理能力を示した。1946年から1953年にかけて当時の各分野の第1人者が集まった「メイシー会議」が開催され、認知科学の誕生のキッカケをつくた記念すべき会議となった。1943年哲学者クレイクが、脳の神経系は外界のモデルを内部に作り出す超並列情報システムではないかと主張した。外から見えないことは言及しない行動主義の枠を乗越えて、心の内面に踏みこむ新しい方法論を生んだ。生物物理学者ホジキンとハックスレーは情報が神経細胞を伝わるメカニズムを活動電位とイオンチャンネルの概念を用いて解明した。エックルスはシナップス結合の興奮性伝達と抑制性伝達のはたらきを明らかにした。マウントキャッスルらは大脳皮質の頭頂葉の体性感覚細胞はコラムの列があり、「反応選択性」を有する事を発見した。ヒューベルトとウィーゼルは脳神経の選択反応性と発達(可塑性)を見出した。1956年は認知科学の誕生の年である。「ダートマス会議」はの意義は、コンピュータが記号を処理する機械であり、記憶、思考、言語などの働きを記号モデルによって説明する研究に適している事を、当時の先端的な研究者が認めたことである。ブルーナによる思考の方略、チョムスキーの言語の理論、ニューウエル・サイモンによる思考のコンピューターシュミレーションモデル、ミラーの記憶の理論が発表されたのも1956年であった。人工知能、認知社会心理学、認知人類学などが続々と登場した。

A 1960年代ー形成

視覚と運動の強調は「ベルンシュタイン問題」といわれ、釘を打つハンマーーの動きと目の働きでである。これを能動的知覚といい、運動選手や職人の動きもこれに相当する。心と身体をつなぐ運動のはたらきは1960年代の後半に研究が開始された。解剖学的な構造まで立ち入って考える情報処理モデルは、1969年マーが提唱した小脳の運動学習の「パーセプトロンモデル」がある。これは計算論敵神経科学という分野を形成した。情報処理モデルの優れた点はモデルの処理能力を数値的に検証できることである。記憶の仕組みについて、スパーリングは短時間の大量記憶を視覚記憶と呼び、クイリアンは意味ネットワークをノード間の連絡と定義し長期記憶と呼んだ。これらを総合したモデルがアトキンソンとし不倫が1968年に提案し、「多重貯蔵記憶モデル」と呼ばれた。知識は記憶情報の1種ではあるが、情報が意味的につながって構造化され状況に応じて使われ、新しい知識が創造される。心のはたらきのモデルとして用いられたリスト処理言語として、1960年マッカーシーがLISPを開発した。思考の情報処理モデルとして、ミラーやプリブラムによるTOTEモデルを開発した。ニューウエル・サイモンらは「発話プロトコル分析」を導入し、知的なはたらきにはかならず記号表現尾情報処理があるということを確立した。感情のはたらきのモデルとして、意志下の生理的な反応の方が意識に上る感情よりも早いというジェームス・ランゲ説があり、また同時妥当sルキャノン・バード説もあり、シャンク−とシンガーは「感情とは生理的な反応の認知的解釈である」とする二因子モデルが提唱された。スペリーは「分離脳」の概念を提出し、言葉の処理は主として左脳、知覚的パターン処理は右脳といったが、現在の研究者は左右の脳半球のはたらきの違いに拘る人はいない。むしろ言語能力は先天的か後天的に議論が盛んである。言語機能の局在性と生得性を主張するチョムスキー学派に対して、意味論の研究1960年代より始まった。言語学者のレイコフは「生成意味論」において、深層構造として動作、動作主体、属性からなる意味構造を定義し、その深層構造から直接表装構造が生成されるという。フィルモアは動詞の意味を意味構造の要において、「格文法」と呼んだ。意味論を探る学問を「認知言語学」という分野が育った。言葉を理解し生み出す心のはたらきでは、幾つかのレベルの情報が総合的に処理される。@視覚、音声などの知覚情報、A音韻情報、B最小単位の意味情報、C単語。D文法、E意味、F文脈など語用のレベルである。

B 1970年代ー発展

認知科学という言葉が公の場で使われ始めたのは1970年代前半のことである。医学者マクリーンが脳全体の進化過程を脳幹(爬虫類の脳)、大脳周縁系(旧哺乳類の脳)、大脳皮質(新哺乳類の脳)と大まかに三段階の発展説を述べた。この説自体は確かめようもない話であるが、大脳周縁系の重要性に人の興味をひきつけた効果はあった。神経細胞やシナップス結合はいろいろな要因で変化することが知られた。生理学者レモ・プリスは神経細胞を刺激するとシナップス結合を介して隣の神経細胞の活動電位は長期に増強されたり抑制される事を発見した。このシナプス結合の学習効果は、1970年代以降の神経系の情報処理の研究の影響した。脳における情報表現の問題が本格てきに浮上してきた。実験動物の脳に多数の微小電極を差し込み反応を調べる研究により、ひとつひとつの細胞が特定の心のはたらきに1対1で対応することはありえない。情報が脳内の神経細胞に分散して表現されると考えたバーローらは「ポピュレーションコーディング」(分散表現)モデルを主張した。さらに「スパースコーディング」情報モデルは疎に分散した表現という修正を加えた。公した情報処理がいろいろな機能について並行して進められ、それらが相互作用することによって心のはたらきが現れてくるという全体像が議論された。神経科学者が脳の中での言葉の情報処理に注目す始めるのと並行して、言語学・心理学・コンピュータ科学の分野の研究者は言語構造や機能のモデルを考えた。言語学では、「統語論」、「意味論」、「語用論」の融合が焦点となり、「句構造文法」に意味論を加味したモデルが考えられた。計算言語学といわれる分野が誕生した。

知識をどのように表現するかという問題については、ミンスキーの概念処理構造「フレーム」や手続きの総合という「エージェント」の超並立処理を考えた。しかしグーグルの知識検索システムはこれらの知識構造論とは無縁の世界である。記憶を分類したさきがけは、心理学者のタルヴィングらが「エピソード記憶」と「意味記憶」の区分を提唱したことに始まる。さらに「宣言的記憶」、「手続き記憶」が別々の記憶である事を主張した。どれだけ強く長期記憶に保持されるかは、記憶するときにどの程度意味を取ったかによるとする、クレイクとロックハートは「処理水準理論」を提唱した。そして想起するときには意識下の処理が深く関与している。1970年代になって心の中に生成されるイメージの情報表現がアナログ的なものか、それとも記号的なものかという「イメージ論争」が起きた。シェパードらは「メンタルローテーション」(図形を心の中で回転させる)が働くことを主張した。ギプソンらは、心や脳のはたらきが個人と環境地の関係のなかにあるという「アフォーダンス理論」を提唱した。意志決定の研究者サイモンとニューウエルは「限定された合理性」を基に考え、発見的探索、手段−目標分析モデル、記憶の判別木モデルを提唱した。かれらはコンピュータシュミレーションによって、情報モデルを考えた思考研究の新しい方法論を提示した。思考の罠(バイアス)と呼ばれる失敗がある。「一事が万事」、「ステレオタイプ」といった短絡的思考の事である。なぜ思考が非論理的な失敗をするかをゲントナーやホルヨークらが研究した。子供の心の発達と情報処理の研究では、ピアジェの「発達段階説」の教育論が主流であったが、新ピアジェ学派はさまざまな心のはたらきの相互作用によって個々の人間で発達が異なるという修正をおこなった。こうして認知科学という言葉が英国のロンゲット=ヒギンズ卿によって提唱されたのは1973年のことであった。数理科学、言語学、心理学、生理学の諸学問分野が総合的にかかわる領域をいう。

C 1980年代ー進化

1880年代までに脳の情報処理研究で最も進んだのは視覚の分野であった。神経科学者リビングストンとヒューベルに説は、形、色、運動、立体などに係る情報は脳の中で別々のところ処理されるという総合的モデルであった。アンガーライダーとミシュキンはその要素処理の位置を大まかに指定したが、現在まで大きな影響力を持っている。「説明のレベル」による視覚理論を提唱したマーは、視覚のはたらきは他の心のはたらきとは別のものとして説明できる「モジュール性」を主張した。チョムスキーの文法脳も言語のモジュール性であるが、いまや脳のはたらきは局所独立性などではなく総合的に説明しなければならない。それは脳の活動の計測技術が急速に進歩したためで、心のはたらきはいろいろな機能の相互作用と見なす寒上げが主流となり、モジュール性は歴史に埋もれた。脳の神経系を小さな要素システムがお互いに結合した超並列処理の情報処理ネットワークとみなされるようになった。神経細胞のシナプス結合を「神経回路網モデル」というが、大量のアナログ情報をネットワークの上に分散的に表現するモデルを「コネクショニズム」という。このコネクショニズムでは意識下の情報処理を説明するのに都合がいい。意味関係により構造化された記憶情報がいろいろの状況において適切に利用できるようになった時、その情報を「知識」とよぶ。知識が心の他のはたらきや外界との相互作用を通じて形成される考え方を「知識の構成主義」と呼ぶ。発達によって誰もが大体似たような構造の知識を身につけて行くことを「知識の構造化可能性」と呼ぶが、心のはたらきの大きな特徴である。これがなければ教育というものが成り立たない。1980年代は子供の心の発達を考えるのに「知識」に関することが急浮上した時代であった。ブリマックとウッドラフは、チンパンジーの行動観察から、他者の心の状態を予測する心の仕組みを心の理論と名づけた。

イメージと知識のはたらきに関する新しい「メンタルモデル」という概念が生まれた。何かの問題を解くために心の中に創り出され、心の中で操作される外界の現象のモデルのことである。現象を分かりやすい喩(イメージ)に置き換えて問題解決を図るものだが、モデル自体も変化することを横山が指摘した。心のはたらきと言葉の意味の関係を探求する「認知意味論」の研究が急速に進んだ。レイコフの「比喩」、フォコニエの「メンタルスペース理論」は、思考のはたらきの多くが、比喩や類推を組み合わせて複雑なイメージを作り、そのイメージを操作することであると主張した。言語のはたらきを統語論と意味論を融合した「極小モデル」で説明するようになった。意味論で重要な「文脈」と「状況」の関係は、思考や記憶のはたらきが状況に依存する事を重視する説をサッチマンが主張した。説明文章は読む人の状況を考え、臨機応変に表わさなければならない。子供の学習は知識を利用することではなく、熟達した人々の中で状況(環境)に応じて埋め込まれているのであると、人類学者レイヴ、ウェンガーが指摘した。「文脈」と「状況」の言語意味論でも、バーワイズとペリーは状況のもとでの発話の意味が文の意味であると云うモデルを提唱した。人間と機械の相互作用は、戦前から「人間工学」などの分野で研究され、製品設計、安全管理などに広く応用されてきた。1980年代に「認知工学」という工業技術分野が誕生した。サザーランドの「グラフィカルユーザインターフェイス」はパソコンに応用され、ラヌムッセンの安全工学、ノーマンとドレイバーの「ユーザー中心のシステムデザイン」の方向へ進展した。心の特定の機能ではなく、たくさんの機能の相互モデルとして、ニューウェルのSOAR、アンダーソンのACT-Rが発表された。昔からの考え方を認知科学の知見を応用して理解しようとする「認知社会心理学」が盛んとなり、偏見・虚偽・ステレオタイプなどの研究が行われた。

感情という心のはたらきについては定義さえあいまいで方法論もなかったが、1980年代になって感情論の問題がザイオンスとラザルスによって取り上げられ、感情の起る意味を意識下とみるか刺戟への対応と見るかの論争が起きた。ユクマンの感情の分類モデルは今でも有効であるとされる。他人の心を理解するはたらきを「社会性」というが、ブリマックらの「心の理論」は社会性のはたらきの発達や発達障害などの研究に応用された。精神医学者バロン・コーエンは自閉症の原因を心のはたらきの発達不全と捉えた。トマセロは子供にとって社会性のはたらきは知識・概念よりも先行すると主張した。他者を何かをしようとする意図を持った存在と理解することは、自分自身を主体と理解することと表裏一体の関係にある。霊長類学者リツォラッティは他人の行動を模擬する心のはたらきを「ミラーミューロン」と呼んだ。模倣、理解、感情移入などの心のはたらきに関連している。共感という心のはたらきの一部をなすようだ。人類の心のはたらきは進化してきたのは、複雑な対人関係や社会的関係の中で生きるために必要だったからだという考えが出てきた。バーンとホィッテンらが提唱した「マキャベリ的知性」、ブラザースの「社会脳仮設」がよく知られている。英国の人類学者ダンパーは脳の大脳皮質の発達進化と日常生活での社会集団の大きさには相関があると主張した。現代人の大脳皮質の大きさでは150人くらいの集団であるとするダンバー指数を主張した。

D 1990年代から今日ー心と脳のつながり

1980年代半ばから90年代にかけていろいろな脳活動計測器が認知科学の研究に普及し、心と脳の研究に新しい境地を開いた。@機能的核磁気共鳴画像法fMRI、A近赤外線分光NIRS、B脳波形EEG、事象関連電位法ERP、C皮質脳波計EcoG、D脳磁計MEG、E経頭蓋磁気刺戟法TMS、F陽電子放射断層撮影法PET、G単一光子放射断層撮影法SPECTなどの計測器が開発され、fMRI、NIRS、PET、SPECTなどによって計測されるデータ−は脳の中を流れる血中酸化ヘモグロビンやグルコースの代謝量を測っている。神経がどのように活動しているかを測っているわけではなく、1回のスキャンに早くて数秒かかるため、1秒以下の短時間の神経の活動は見られない。刺戟を与えた時と与えなかったときとの差分法で脳の活動を調べるため個人差が大きく左右する。今日ではこの部分の神経部位の活動によってある心のはたらきが起きるというのは間違いで、心のはたらきのほとんどは脳の沢山の部位の活動の総合であると考えられている。神経系の相互作用自体を解析する方法(コネクティビティ)が盛んで、EEG、MEG、EcoGのデータに周波数解析法を適用して精度をあげる方法の開発も盛んである。脳活動計測計の進歩は感情の情報処理メカニズムに光を当てた。恐怖回路には扁桃体とドーパミンの作用する部位の研究が行われた。扁桃体や帯状回は直接的に感情に作用し、より高次の感情には大脳皮質、島皮質も係っている。心的外傷後ストレスPTSDにおいて記憶のはたらきが弱まることが指摘されているが、これには扁桃体と海馬のバランスが崩れ、副腎皮質ホルモンの分泌が増えてそれがフィードバックされてさらに海馬の神経系が萎縮するからだと言われている。脳活動における神経伝達物質はフィードバック機能を司り、手足の震えがとまらないパーキンソン病の原因は大脳基底核にある黒質の神経細胞が萎縮し、ドーパミンの大脳皮質への分泌が少なくなり興奮と抑制のバランスが取れないためである。ハンチントン病は大脳基底核の線条体の中の尾状核の萎縮が原因である。

長い間「思考の坐」といわれてきた前頭葉が、記憶、感情、社会性のような多様な心のはたらきをささえていることが脳活動計測で分かってきた。前頭葉の前頭前野、運動前野、1次運動野などの部位が脳の他の部位と共同して、心のはたらきに係っている。人が言葉を話す時、筋肉や関節の情報、音韻や単語の情報、記憶などが組み合わされ系列化されて言葉となるのであるから当然のことではある。記憶の時系列化という「エピソード記憶」は、何かをキッカケとして次々に記憶が紡ぎ出される事である。タルビンは記憶の回想には必ず思い出す主体である自分がいるという「自己想起意識」を主張した。右半球の前頭前野はエピソード記憶の情報を思い出すはたらき、左半球の前頭前野は意味記憶の情報を思い出すはたらきにかかわっているという。運動主体感は側頭葉の下部にある紡錘状回とかかわっている。生理学者リベットらは意識されるよりも先に意識下で情報処理がはじまっている事を見出した。「言うより早く腰が浮く」とか「きれいな人には眼が先に向く」とかがそうである。側頭葉の大きな役割は、見たり聞いたりする知覚情報を、記憶のはたらきを用いて概念やイメージや言葉に変換し、その意味を記憶し想起する複雑なはたらきにかかわっている。側頭と頭頂接合部は自分の位置感覚、心の中で自由な位置から空間を眺め操作し、空間のなかへ入り込むための大切な心のはたらきに係っている。個人的なことだが私は多面体や立体幾何学が苦手で、頭の中で立体を回転させたり、裏から見たりすることが不得意であった。この部位の活動が優れた人はきっと図形処理が得意に違いない。頭頂葉にはミラーシステムのセンターがあるようで、心の中に自分自身を登場させて他人をシュミレーションする情報処理のメカニズムが存在する。後頭葉はいうまでもなく1次視覚情報の処理に関与している。イメージするには少なくとも後頭葉と前頭葉の相互作用が不可欠である。広角のイメージで思い浮かべるには側頭葉のV2,V3,V4,V5野、頭頂葉のMT野が強く反応する傾向にある。大脳基底核は脳幹の各感覚領域から情報を受け取り、大脳皮質と連絡をする。そして脳幹と協調して意識に上らない思考、記憶、学習などのはたらきにも関係している。大脳周縁系の海馬は「記憶の坐」といわれ、扁桃体は「感情の坐」といわれ、島皮質、帯状回などと相互作用して感情の情報処理がおこなわれているである。

3) 未来へー各分野の課題

21世紀のグローバル社会に生きる我々は、時代の激変を感じながら,認知科学が挑戦すべき未来への課題を考えてゆこう。
T) 医療: 1990年代以来遺伝子工学の進歩に助けられて神経伝達物質やホルモンの分子的研究が進み、シナプス細胞の神経伝達機構が明らかになりつつある。伝達物質は1000以上、受容体も1000以上あるといわれる。それによりアルツハイマー病や鬱病のメカニズムや治療薬の開発も進んできた。従来の研究法は仮設志向であったが、情報科学の進歩でデータ−志向に変わりつつある。例えばDNAチップで数万の遺伝子解析を行なう統計的手法などある。自閉症や認知症、多くの心の障害をコントロールし治療する日の近い事を期待する。
U) 身体: 神経学者のダマシオは、身体に分布した感覚細胞からの情報が感情を引き起こし、その情報が志向や意志決定に影響するという「ソマティックマーカー仮説」を提唱し、身体の重要性を強調した。身体のはたらきは環境との相互作用の可能性を広げる。身体は心の中では運動のイメージとも相互作用する。ロボット工学に「ブレイン・マシンインターフェイスBMI」という分野がある。脳活動測定と連動して神経障害があっても外部の機械を操作できる研究が行われている。意志・意図を読み取って動かない手足の変わりに機械を動かそうというものである。
V) ネットワーク社会のコミュニケーション: ダンバーが言った直接対話可能な150人の集団と、インターネット時代のSNSは5億人といわれ、両者にはコミュニケーションの中で近くされる情報の質と量が異なる。重要なのは相手と情報を交わす心のはたらきが異なることであろう。インターネット社会には共感の共同体は形成されなし、いつでも参加と離脱が自由であると云う柔らかい連帯である。円滑なコミュニケーションはSNSでは無理である。ただ暴動・噂などは燎原の火以上に早く伝達する。
W) 教育: 心のはたらきとしてのコミュニケーションが中心的な役割を果たす分野に教育がある。学習と学び以上に近代以降の国民教育は「共感の共同体」作りに貢献した。今日受け身の教育から自律的な学習(協働学習)に移りつつある。知識の社会構成的な学習をデザインする学習科学を、シャンク、ブラウンが主唱した。1人が学習する個別具体的な教育論者jからは批判がある。学習障害LD、注意欠陥、多動性障害ADHDなどの発達障害に対する取り組みが重要な課題である。
X) デザイン: デザインとは計画・構想をつくり挙げる活動である。デザインの科学は問題解決の分野で目標を限定しない開かれた思考のはたらきを研究する分野で、人工知能や建築デザイン・作曲を支援するソフト開発が始まった。医療、交通事故のように直接の操作ミスだけでなく事故を起こしやすい心のはたらきを重視している。建築物のバリアフリーと同様に、心の障害者への心のバリアフリーデザインが求められる。またメイスが主唱した多様な人の差異を越えた「ユニバーサルデザイン」は、知覚、運動、思考の研究成果を取り入れなければできないであろう。
Y) 芸術: 昔から芸術心理学という分野において、絵画の神経美学が議論され、ゼキは絵画とは視覚情報の特定の特徴が脳の視覚系のはたらきによって構造化されたものと主張した。モネの絵はキュービズムの先駆けと見なすことが出来る。
Z) 創造性: 心や脳のはたらきは自らを変えてゆく。これを思考の自由と呼ぶが、それには心理学者エリクソンがいうように「10年修行の法則」という修練の年期を必要とする。興味のある分野に飽きることなく埋没する事を喜びと感じる人のみが創造的な人間である。創造のはたらきの特徴は、記憶・感情の相互作用によって目標への意志期が持続し、目標への意識によって意識下の情報処理が促進されるという。熟達者の意識下の情報処理は、創造にとってとても重要な心のはたらきになる。


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