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古賀茂明著 「官僚の責任」

 PHP新書 (2011年7月)

国家公務員制度改革によって、今こそ官僚機構を国民のために使おう

本書を読もうとしたキッカケは、つい先日(2011年9月26日)のテレビニュースで退職勧奨をうけてついに経産省を辞任したという事を見たからである。古賀氏が経産省事務次官松永和夫から退職勧奨を受けたのは2011年6月24日であるから、普通は1ヶ月前の辞令であるので、退職まで3ヶ月ほどの猶予があったようだ。そして本書は退職勧奨を受けた約1ヵ月後の7月29日に刊行されている。スキャンダルや不祥事以外の職務上の言動で上司に睨まれた場合、自己理由の退職や外部へ追い払う穏便な手法が行われるものだが、はっきり「クビ」を宣告される例は聞いたことがない。氏は官僚の天下りを批判してきたので、氏には「天下り先」は一切提供されなかったようだ。当然とはいえ酷い仕打ちだ。本書はなぜこうも官僚機構から嫌われるに至ったかを説明する内容でもある。古賀茂明氏のプロフィールを紹介する。 氏は長崎県佐世保市生まれ。その後東京に移り、麻布中学校・高等学校卒業後東京大学法学部に進学する。しかし、東大法学部にはつまらない秀才が多いと感じ、次第に授業から足が遠のき、2年留年。もともと公務員になるつもりはなかったが、2年留年すると民間企業に 入るのは難しいと考え、公務員試験を受験し合格。1980年、東大法学部を卒業し通商産業省(現経済産業省)に入省。なお大蔵省からも内定を受けていたが、東大法学部と同じく秀才が集まる雰囲気を感じたため避け通産省を選んだという。通産省や後継の経産省では大臣官房会計課法令審査委員や本省筆頭局の筆頭課長である経済産業政策局経済産業政策課長を歴任するなど本流のエリートコースを歩んでいた。

しかし、経済産業政策課長時代に杉山秀二事務次官と産業構造審議会の部会新設をめぐり対立したことを契機に傍流に外される。1年後の2005年に外局の中小企業庁に出され、その後中小企業基盤整備機構に出向となった。2006年公務員改革に力を入れていた渡辺喜美行政改革担当内閣府特命担当大臣から、大臣補佐官の就任の要請を受けたが、癌による体調悪化から辞退し、代わりに経産省の同僚だった原英史を紹介し、原が大臣補佐官に就任した。2007年には独立行政法人の産業技術総合研究所に飛ばされたものの、渡辺大臣が福田康夫首相の反対を押しきる形で2008年に霞ヶ関に復帰させ、内閣官房に設置された国家公務員制度改革推進本部事務局審議官に就任。当時の渡辺喜美行政改革担当相の下で、「年功序列人事の廃止」「天下り規制の強化」「事務次官廃止」など急進的な公務員制度改革に取り組んだ。その後、民主党政権となって就任した仙谷由人行政刷新大臣は、当初は公務員改革への意欲をみせ古賀を補佐官に就かせ行政改革を続けさせるつもりでいたものの、そのような人事は財務省が認めないとの古川元久内閣府副大臣や松井孝治内閣官房副長官ら官僚出身議員からの進言を受け断念。2009年12月、唐突に国家公務員制度改革推進本部の幹部全員が解任され、古賀氏は内閣事務官の任を解かれ、経済産業省に戻ったが、それ以降は仮置きの部署である「経済産業省大臣官房付」に長期間留め置かれる異例の人事措置が取られた。

自民党政権と官僚機構の運命共同体的55体制が戦後長く続いたため、今日の日本は未曾有の危機に瀕している。2011年3月の東日本大震災と福島第1原発メルトダウン事故は更に日本を破滅の渕ヘ追いやった。逼迫する日本の財政状況と政策提言能力を失って省益に埋没する官僚機構を放置すれば,日本は終ると著者(元官僚)は危機感を抱いている。確かに日本の憲政開始以来100年政治家たちは政争のみをこととし、官僚と軍部の共同体「ファッシズム」によって一度は葬られたが、敗戦後占領軍の管理下で議院内閣制がスタートした。ここに利権集団である自民党と官僚と財界の「鉄のスクラム」が形成され、最近まで55体制が維持されてきたが、1990年代のバブル崩壊と金融危機によって右上がりの経済成長がストップすると、日本の財政状況はもろくも崩壊の危機を迎えた。政治家がどうしょうもない連中である事は、今回の未曾有の大震災対応を見ても明らかであるが、しかしその裏に政治家同様にこの非常事態に際して自らの責任を放棄して恥じないだけでなく、自分の利権維持に汲々としている霞ヶ関の官僚がいる。大震災の惨事をまえにして「これは利権拡大の大チャンスだ」と考えているのである。いろいろな災害復興支援機構設立や大規模補正予算をみて「新たな利権拡大と天下りポスト確保」に意欲を燃やしているのである。政治家と違って国民の目に触れることが少ないだけに余計にタチが悪いのである。東電と原子力安全保安院の腐れ縁、東電擁護策、原発推進を強行する経産省の正体が国民の前にこれだけ曝露されてもなお恥じないのである。筆者は2011年5月「日本中枢の崩壊」(講談社)を発刊したが、本書は経産省を解雇される前に緊急に著わした霞ヶ関官僚告発の書である。よくいわれる「国益より省益」に走る構造を説明し、官僚の責任とは何かを明瞭にするため「国家公務員制度改革」の必要性を力説して止まない。

本書は特に大震災復興対策の書ではないが、あとがきに著者の意見の一部が見られるので紹介する。菅直人民主党内閣から復興作の内容と道筋について明確なメッセージが聞かれない。いくつかの復興のための組織は立ち上げられたが、復興の全体像が見えないのである。指揮系統や責任の所在が不明瞭なまま従来どおりの縦割りによる復興対策が実行されている。たとえば国土交通省が三陸沿岸の鉄道復興のために巨額の補助金を組んだとしても、もともと赤字だった路線の赤字が復興するだけである。地域振興策なしに旧に戻しても意味は無い。官僚達はあいも変わらず自分達の役所の権益内で仕事をするだろう。東京電力の処置も同様である。先ず原発事故調査委員会の結論を待って、本格的な処罰と安全対応策がとられるべきで、なし崩し的に税金を東電に注ぎ込むべきでない。「泥棒に追い銭」になりかねない。守るべきは被害者と電力供給であって東電では無い。「東電を破綻企業とみなしてJALと同様会社更生法適用を申請し、企業再生支援機構の協力で再建すべきである」と著者はいう。東電から利益を得ていた銀行と株主もおおよそ4兆円の企業損失には責任を負うべきで、国民の税金は被災者の賠償のみに使用するということが原則である。原発賠償機構はまちがいなく利権機構となるだろう。復興支援財源には増税をというのは政治家の安易な方策である。消費税を10%から15%へというのは財政再建の順序が違う。支出が積み上げられるばかりで何一つ政府支出は減らないのでは財政破産の時期が早まるばかりである。だからこそ大震災復興を利用して権益拡大を図る官僚機構の改革が必要である。大震災により日本の破産は加速されるだろう。その元凶が官僚機構である。官僚に自浄能力は無い。自民党の古い体質は官僚と共同体であるので、これに期待することはできない。民主党内閣は政治手法をお勉強中でむしろ官僚支配が強まった感があるが、変えようとするメンタリティはまだ失われていない。改革への意欲を持つ民主党を中心に志の近い自民党の若手政治家(渡辺、舛添ら)が合流すれば、日本再生の契機となるだろう。いやそうしなければならない。

1) 未曾有の危機

2011年3月11日の東日本大震災の前から、日本は危機的状況にあった。大震災はそれを拡大して見せ、日本崩壊の日を早めたというべきかも知れない。GDPで中国に抜かれ世界第三位に落ちたこと以上に、深刻なことは生活レベルを示す人口1人あたりのGDPに対する購買力平価のレート(千円でどれだけのものが買えるかという指標、インフレによるGDP増加をキャンセル)が、2007年にはOECD加盟国30カ国の中で19位になっていた。そして国民は一人当たり780万円の負債を背負っている。2011年度の国の税収は40兆円に減る一方、支出は100兆円にならんとしている。財政健全化の掛け声も震災復興の声にかき消されている。国民の貯蓄を食いつぶして急場を凌ごうと、政府はただ消費税増税を叫ぶが30%に上げてもなお足らない。このままいくと国家財政は破産宣告をうけ、収入減で政府サービスを停止する「政府閉鎖」となる。IMFが日本に乗り込んで財務状況を見てあまりのむごさにお手上げ状態となる。ついに海外に逃げられない日本人は餓死するかポートピープルになるしかない。このような最悪のシナリオが噂されているのである。福島第1原発事故を前にして、東電を管轄する経産省はどんな行動をとったのか。官邸では早くから海水注入案が出ていたが、東電の動きは遅く経産省も東電の言い分を認めた。そして原子炉がメルトダウンし水素爆発が連続して起る中、東電は全所員退避命令(原発を棄てて逃げろ)を出そうとしたが、菅首相は現地死守を命令した。

東電は「官僚以上に官僚的」といわれて久しいが、その理由は東電が官僚に払う金と天下りポストで立場が逆転していたからである。震災時経産省は東電の言いなりに動いていたに過ぎない。官僚達も放射線の恐ろしさと大津波災害に圧倒され誰1人現地に行こうとはせず、大臣の想定問答集の作文に明け暮れていた。首相は官僚に命じて情報と方策を提出させ、判断して決定し、責任を取るという役割が未熟な民主党内閣ではスムーズには動いていなかった。官僚は「東電はこういっていますが」と官邸に下駄を預け、「菅首相はこういった、枝野官房長官はこういった」と東電と官邸の調整を行なわず、「経産省はこう考えます」という事を避けて責任逃れに終始した。今となっては「藪の中」であるが、官邸から海水注入命令が出て対応が遅れたとか、官邸からでた「ベント開放指示」の東電の実施遅れなど、デマに近い官僚の嘘の言い訳が囁かれている。官僚はそれと知っていながら首相の指示に従わなかったサボタージュか、或いは東電に判断を押し付け責任逃れをしたとしか思えない。30兆円になるといわれる大震災復興対策が下手をすると公共事業だけの事になりかねない。古い自民党体質の復興であってはならない。自民党はこの大震災を利用して、経験不足からドタバタしている民主党政権より政権を奪回し、30兆円を栄養源として生き返る事を願っている。

2) 官僚機構の病源

今回の福島第1原発事故を招いた背景には、よく指摘されることであるが、東電を始め電力会社が民間でありながら地域分割独占企業であることであることにより、企業リスクを国に負担してもらって、国策である原子力発電に邁進できたことである。その独占体制とは発電と送電をひとつの電力会社が行なっていることである。筆者がOECDに出向しているとき、OECDでは電力規制改革が議論されていた。経産省内では少数派ではあるが、電力自由化(既存の電力会社以外でも電力を自由に売買できる)を日本でも実施できないかという動きがは始まった。主流派の感上げは「安定供給できない」との理由で、発送伝分離や家庭への公理自由化は実現できなかった。この電力自由化は同時に多様な電力供給があってしかるべしと原発推進に疑問を持ち、経産主流派(原発推進派)との対立関係を生んだ。原発事故隠しやデータ捏造や内部告発通報を隠蔽きた主流派を脅かすために、原発内部資料が電力自由化派官僚の手によってリークした。佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」(平凡社新書 2011年)に福島原発データ偽造告発事件が詳しく描かれている。おそらく著者らの手によるリークであろう。そのため経産省幹部より厳しく憎まれたた結果が,今回の辞職勧奨の遠因になっていたのだろう。改革派官僚は志半ばで経産省を去った。電力自由化論議も進展するkと無く東電の独占体質は温存された。福島第1原発事故で原子力安全保安院が実は経産省の1組織であることが知られた。保安院は規制を強めることよりも、既存原発が運用できるよう規制を緩和することに主眼のある組織であった。三陸では10メートル級の津波が起きているにもかかわらず、津波の高さは5.7メートルと基準を決めた。そうでないと沿岸の原発はすべて不合格となってしまうからである。そもそも安全保安院には原発専門家はいない。実は素人の集まりである。経産省のいうとおりにお墨付きを与える機関に過ぎない。官僚機構はかくも腐敗しているのである。「官僚機構は優秀」は幻想に過ぎない。無能な(適任でない)官僚が職務を担当しているだけである。それには権威が必要なのだ。

課長までは年功で並びの出世をするが、ポストの少ないより高位の職になれなかった同期入社の官僚は次々に辞める慣習である。公益法人、独政法人、民間企業などにその再就職を斡旋するのを俗に「天下り」、「渡り}という。それ自体はシステムがそうである以上仕方ない面もあるが、問題はキャリアー官僚の交益法人などへの天下りが霞ヶ関の人事ローテーションに組み込まれ、ポストを確保するため無駄な仕事と予算がでっち上げられていることである。自分の受け皿を作ることは現役官僚の重要な仕事である。民間企業の場合見返りやメメリットを要求し、公共事業の場合これが談合となる。こうして仕事をしない人に高級を払うために税金が使われる。だから天下りは廃止しなければならない。菅内閣のとき閣議決定された「退職者管理基本方針」には巧妙な仕組みとご都合が隠されていた。「官民交流法」では民間企業への現役官僚派遣は認められており、それが「民間企業への派遣終了後に、派遣されていた企業への就職を認める」というものである。現役派遣から再就職は認めるという抜け道が用意されていた。例えば55歳で民間企業に派遣された官僚が定年を迎えたら、派遣企業に再就職できるというからくりである。民間企業への人事押し付けは、「官民人事交流推進会議」で情報を交換できる。これがお見合いである。こうした官僚の言い訳と姑息な手法をきちっと見分けることは慣れた人でないと難しい。ひとつの通達はもっともな文句が並んでいるが、通達をあわせてみるとこういうことが可能となるのだ。官僚も最も官僚たるというか、いかに省益が重要で国民の事を考えていないかということは「権限争議」に見ることが出来る。「次世代基盤技術研究開発制度」を通算省が打ち上げたとき、文部科学省から「基礎研究は科学技術庁管轄である」とクレームがつき、大蔵省が中に入って妥協を図るいわゆる痛み分けが成立したといういきさつがあった。国民にとってはどうでもいいことに官僚は血道をあげて論争することを「縄張り争い」という。縦割り行政の境界部分でいつも土地争いが起きるのだ。NTT株売却で数千億円が国に入ったとき、通産省と郵政省が半分づつ分捕り、各々競い合うようにしてベンチャー企業融資制度をはじめたが、「役人にリスクの伴う商売は出来ない」という鉄則のとおり、ベンチャー企業は全部潰れて2700億円の焦げ付き損となった。これは東京都新銀行の中小企業融資と同じ失敗である。企業のほうでも融資だけ貰って倒産させるという手もあり、その辺の脇が甘過ぎたのである。誰も責任は取らなかったということは官僚らしい。

最近パッケージ型巨大インフラビジネスの海外展開に霞ヶ関や永田町が熱心である。原発、新幹線、水関連事業といったインフラ整備で「オールジャパン」で受注しようということである。1971年のイランジャパン石油化学IJPCの18年の歳月と1千数百億円の投資がイラクイラン戦争で潰えた経験をお忘れのようだ。長い期間の開発は政治.戦争のリスクを受けやすい。民間企業の新幹線車両の売り込みや国としては経済協力程度にしておくべきだ。ロシアのガスパイプラインも資源外交の前に消滅した。それで恐ろしい税金が失われても官僚はすこしも痛みを感じない。官僚にとってプロジェクトが成功するかどうかはどうでもよく、長いプロジェクトは在任期間をはるかに超えるから官僚の興味と責任範囲外となる。むしろ民間企業とコネが出来たり、「何とか機構」のポストつくりを狙っている。公務員制度改革にはじめて取り組んだのは安部信三内閣で、行政改革・規制改革担当大臣の渡辺喜美氏がメスを入れた。渡部氏の非常な決意で2008年6月国家公務員制度改革基本法は成立し、著者古賀氏は国家公務員制度改革推進本部事務局審議官を命じられた。改革のポイントは2つあって、一つは内閣官房に人事局を新設し、これまで各省庁が独自に行なっていた幹部職員の人事を官邸が行なうのである。2つは国家戦略を立案する部署を内閣官房に置く事である。これは民主党政権での国家戦略室となった。ひとことでいうと「首相の采配により人材と資源を重点分野に配置できる」ことである。ところが福田首相になって渡辺喜美氏は退任させられ、福田首相の改革姿勢は後退した。国家公務員法改正案は麻生首相のもとで2009年3月に上程されたが,民主党の反対で廃案となった。

民主党は公務員制度改革を政権交代の目玉にしており、自民党案ではだめで自分の手柄にしたかったのだろうと古賀氏は推測している。民主党政権で、事務次官会議の廃止、官僚の国会への出席禁止、官僚の記者会見禁止など「官僚パッシング政策」を実行したが、もう少し建設的な協力関係を築く方向での改革がほしかった。その一方「国家公民の退職者管理基本方針」を官僚いうがままに閣議決定し、天下りを容認した格好になっているのは残念である。仙谷行政刷新担当大臣から古賀氏は大臣補佐官を要請され、行政刷新会議及び事務局メンバーの候補者リストを作成したが、官僚出身の閣僚によって悉く拒否され、任を解かれて経産省官房付きという窓際に追いやられた。民主党は「政治主導」を掲げているが、官僚を無にするのではなく役割分担として官僚を使うべきではないか。政治家は政策の方向性を決定し、官僚は政策の具体化すべく資料を用意し政治家に低減する。政治家は判断決定し結論を出す。出てきた政策に対しては政治家が全面的に責任を負う。なんせ民主党閣僚は当事者になってみれば経験も知恵も無いただの人の集まりである。予算では財務省官僚にオンブにダッコである。次第に官僚依存路線となっていった。「事業仕分け」も官僚にとって看板の付け替えに過ぎず、焼け太りしたに過ぎない。政治ショーに無駄なエネルギーを使ったのであるが、国民の官僚へのガス抜きにはなったようだ。

3) 官僚の腐敗心理学

1990年代クレジットやリース会社が持っていた債権を流動化するデリバティヴ商品に、国が債券を審査し信用を賦課するという「財団法人日本資産流動化研究所」という典型的な天下り団体が出来た。通産省から二人送り込めるようになった。当時古賀氏は商務情報政策局取引信用課長としてこのような事業を担当していた。事業は安定化し、「もう経産省がいちいち審査することはないでしょうから、こんな規制は外すべき時期です」と提案すると、OBが職を失うことになるので規制撤廃は進まなかった。そもそも官僚の世界では先輩が残した事業の不利益になること(縮小・撤廃など)を言い出すことはタブーであった。古賀氏が規制撤廃を課長として実行すると局長から「なんておまえは冷たい男なんだ」という評価を得るのだったという。国家公務員制度改革に一番の反対勢力は「人事院」である。人事院の職員は全員官僚である。つまり公務員が公務員の待遇を決めているのである。当時の公務員制度改革担当大臣である甘利明氏は人事院の持つ査定権限(官僚の人事評価査定)を内閣人事局に移そうとしたら、人事院総裁からボイコットを食らった。査定を甘くしてほしい各省と人事院官僚の天下り先を確保してほしい人事院の思惑が成立していたためであった。霞ヶ関は官僚の壮大な互助会であるといっても過言ではない。国民の税金を人質にとって、官僚の優雅な人生を保証する互助会である。官僚は国を食いつぶすだけの存在に堕していくのである。古賀氏はこれを「霞ヶ関は人材の墓場」と呼ぶ。

近年では民間企業に職を求め国家公務員以外の価値体系を求める学生が多い中、キャリアー官僚にはいまだに東大法学部卒がほとんどを占めるのはなぜか。それは暗記を中心とする受験テクニックに秀でた「秀才」が「国のため」より「人の上に立ちたい」という欲望のなすところである。問題点の第1は官僚昇進システムがあおかわらず年功序列であり実力主義が取られていないことである。上司や先輩の意見は絶対であると云う不文律(軍隊の原則でもあった)が支配し、役所独自の縦割り組織構造が後押しをしている。官僚はふつう1,2年で移動があるため仕事の成果を見る時間がない。官僚の仕事は何で評価されるかというと、政策の成果は評価の対象としない代わりに、「法律を作って、役所の予算を獲得し権益拡大に努めた」ということで決まる。つまり予算をいくら増やしたかが売上で、権限と天下りポストが功績である。官僚機構は自然と「自己肥大」システムである。がん細胞のように自己(省益)を拡大する宿命におかれている。それで誉められることを目指す心理で動くのである。仕事の成果で給料やボーナスが増えるわけではない。霞ヶ関村の人の覚えがめでたくなることが目的である。仕事の密度は低くく長時間労働を特徴とする勤務態度となる。民間企業では考えられないほどの非能率である。それで生涯リッチな生活が保証されるのだから、官僚はおいしい身分制度となるのだ。

4) 公務員制度改革

古賀氏は民主党政権になっても国家公務員制度改革に対する姿勢を批判し続けてきたため、仙谷大臣から叱責されメディアから改革派の旗手」ともてはやされてきた。これは虚像であり少数派に過ぎないと本人は謙遜していう。国家財政の赤字増大構造をそのままにして「消費税増税」でその場しのぎをするのは欺瞞である。平然とそれをやっているのが政治家と官僚である。彼らは自分達の血を一切流さないで、国民の懐を狙っている大盗賊である。政治家にはまだ選挙という責任を問う場があるが、官僚はぬくぬく身分を保証され、自ら血を流す覚悟はさらさらない。公務員制度改革に踏みこんで国民の信頼を得なければならない。「国民の生活と公務員の生活どちらが大事なのだ」と問うことである。官僚機構の再生(イノベーション集団とするか)か、官僚機構を作り変えるかを迫らなければならない。官僚は「天下りの世話にならない」だけの覚悟を持って公務員制度改革にあたるべきだ。古賀氏が第1に導入すべきは「身分制度の廃止」とそれにともなう「実力主義の採用」である。民間企業ではあたり前となって久しい人事評価制度である。霞ヶ関ムラでは社会主義制度(一生保証)が残っているから不思議だ。次官級ポストを廃止し、政務三役(大臣、副大臣、政務次官)が直接に省の人事と政策を感得することである。役職定年制や幹部級ポスト(局長クラス)を廃止し大幅にリストラして組織の縮小を図る。「キャリアー制度」を廃止し、特権階級的昇進をやめ実力を重視する。事業を見直し、政務三役の決定に従わず看板の付け替えで温存を図る幹部は即刻クビにする政治家の決断を期待したい。こうして幹部級を一掃したらめきめき働き出す若手職員が出てくるはずである。戦後占領軍による公職追放で幹部級がいなくなった時、若手官僚は少しも困らず民主化政策を進めたた例がある。

若手官僚のOJT人材教育として省間を越えたプロジェクトに参加させ、省益を越えた政策提案を経験させることが重要である。若い時から意味のある仕事をさまざまな障壁を乗越え実現させることが、最高の人材教育である。外部からの優秀な人材を受け入れることも積極的に進めなければならない。筆者が在席した2003年に設立された「産業再生機構」は80名ほどの様々な分野・企業からの出向者であったが、異なる発想で仕事をして「違う人間が集まるこの効果は大きい」と実感されられたという。この機構は2007年にすべての仕事を終え1年前倒しで解散した。そして何と500億円の黒字を出した。東大法学部だけの官僚組織は昔の天皇家の血筋でもあるまいし、早急に外部の血をいれなければならない。原子力安全保安院はその最たるものである。外部の血を入れるには空きポストが必要だ。そのためクロネコヤマトの「Jリーグ入れ替え方式」が参考になる。役員にランクをつけ、最下位の人材を降格し、下の人事プールから入れ替える。仙谷行政刷新大臣にも進言したのだが、「事務次官廃止」は入れられなかった。民主党政権は事務次官会議を廃止したが、政務三役が従来の官僚機構の上に乗っかるだけの「イカ型」組織である。下のピラミッド構造をフラットにしなければ、いずれ上の政務三役が蚊帳の外に置かれる危険性がある。縦割り官僚組織を排するには、先ず省を越えた人事交流・人材養成が必要である。「内閣人事局」を設け全政府的見地から人事管理を一元化するというものである。

5) 増税ではなく成長に

アメリカや日本の国家財政が破綻しているというのに、いまだにばら色の未来が描けると思う人はおひとよしである。民主党政権が2011年3月の大震災と福島第1原発事故をなお経験してもなお、「子供手当て」や「福祉政策の充実」、「農家への個別所得補償」だとか、マニュアルに沿った耳当たりのいいことを言っているのは、欺瞞で無ければ夢である。数々の補助金を受け、コメ価格補償を受けている農家に、所得を補償するなら、職を失った若者全員の給料を払わなければならない。農家も身分となったようだ。子供手当てで親がパチンコをしたりブランド品を買う余裕を与えていいものか。開業医も身分となっている。芸無しタレント二世が生きてゆけるのもテレビ身分制にあやかっているからだ。もちろん政治家と官僚も身分の最たるものだ。身分制の最上位に天皇制があるのだが、そんな事を言っていられるだけの貯えは日本には無い。無駄は天皇制から最下位の身分にいたるまで廃止しなければならない。年金制度の崩壊が叫ばれたのは何も厚労省の役人の無責任だけではない。いまや特権的年金を減額することはJALに止まらず、すべての企業で求められている。そして働けるうちは所得を得る覚悟が必要であろう。本当に守らなければならない人、生活保護、失業者、母子家庭などの人が社会で働けるよう職業訓練教育対策が必要である。ハローワークもリクルートのような民間に任せればいい。職安が職を親身になって世話をしてく、れたことがあっただろうか。手厚い保護をえている農業や企業の国際競争率は限りなく低い。補助金で養ってるだけの事である。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に農業団体が足かせになっている。日本は後進国並に後れてしまった。

これまで経産省が行なってきた政策が全くの誤りであったという認識を強めている。「守るべきでないものまで守って」、選択と集中、新陳代謝を妨げてきたからだ。日本企業は欧米と違って同業種の企業数があまりに多い。たとえば欧州全体で大手ガラス製造企業はひとつしかないが、日本では大手だけで数社あり、すべての工業界で過当競争となっている。経産省の保護政策のため、業界の新陳代謝が進まなかった。独占禁止法は当然だとしても、過当競争で原価割れして競争しては倒産してしかるべきなのに、政府補助でなかよく生存しているという資本主義の原則に反する珍現象がある。これを古賀氏は「官僚のアリバイつくり」と呼ぶ。中小企業が大企業となったためしは無い。皆んな仲良く中小企業か廃業である。せっかく中小企業が自助努力で立ち上がろうとしているのに、国が見当外れの補助金や規制で余計な業界干渉を繰り返している構図が読み取れる。産業構造の効率化を阻害してきたのは経産省だったという。また世界の超優良企業ともてはやされるトヨタ自動車が膨大な利益を上げているのは、トヨタ式生産方式ではなく、本来は下請けが得るべき利益まで収奪するその支配構造であった。日本で商売したかったら中国人の生活レベルまで生活を下げろということである。嫌なら退場しろといわんばかりに、下請け部品企業は鼻血も出ないくらいの納入価格を指示される。自動車部品企業は利益のでない自動車メーカーへの売上比率を下げ、健全経営が可能な医療機器など別商品市場への参入を図っている。中小企業は価格競争では潰れるので、オリジナルな技術商品で世界一になるようにがんばっている。官僚は外国企業が日本に参入できるように環境を整備しなければならない。法人税と規制に煩雑さが問題点である。そして国家の意志で脱原発エネルギー政策の転換を図る必要がある。そのためには国民投票で脱原発の方針を決定すべきである。


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