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佐藤栄佐久著 「知事抹殺」

 平凡社 (2009年9月)

原発と地方自治で国と「闘う知事」が汚職問題で抹殺され、特捜検察権力と闘う

検察庁特捜部と冤罪の関係はたとえ一部としても、その持つ権力の大きさから、関係者を一瞬にして社会的に葬る力がある。最近では一番有名な事件である、障害者郵便制度悪用事件で本丸と目していた厚生官僚が無罪となることで、検察は描いたストーリに合わない事実を書き換えることまでするおぞましい存在と映った。郵便不正事件に絡む証拠隠滅事件で逮捕された大阪地検特捜部の主任検事前田恒彦のデータ改ざんを隠ぺいしたとして、上司だった前特捜部長大坪弘道と前副部長佐賀元明が、犯人隠避の疑いで逮捕されている。2002年5月北方四島向けジーゼル発電機援助事件の「偽計業務妨害」で、鈴木宗男議員と一緒に逮捕された外務省官僚佐藤優氏が、この逮捕を「国策捜査」と呼んだ。事件の詳細は佐藤優著 「国家の罠」 (新潮社 2005)に詳しいが、そのなかで「国策捜査は時代のけじめをつけるために必要なのだ」と西村検事が言ったと述べている。今まで政敵を罠にかけて葬り去ることは政治の常として行われてきた。そして反対者の影響力を断ち切って新政権は自分の思うような政治を行うのである。時代のパラダイムがシフトするのである。それが政治であり、罪を犯したかどうかではない。罪状はキッカケにすぎない、相手を社会的に葬ることが目的である。いまではなお悪いことにメディアの力で疑惑だけで国民感情を煽り立てあたかも極悪人であるかのように仕立てあげる。国策捜査では正義を闘うことではない。闘っても無駄である。国家は起訴有罪を初めから決めて、あとからストーリーを作ってゆくのである。讒言、冤罪、流罪は政治家・官僚の常であり、これが怖ければ「君子危きに近寄らず」というように権力に近づかないことである。本書では福島県知事佐藤栄佐久氏が葬られた真の理由は分からないが、森本検事が言ったという「知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」という言葉は、この事件がダムにからむ贈賄罪というけちな地方ではよくありがちな事件では収まらない事を暗示している。検察庁は時の首相さえ逮捕できる権限を持つのである。メデイアと並んで、第3の権力、第4の権力といわれる。

佐藤栄佐久元福島県知事のプロフィールおよび知事抹殺の原因とも言われるプルサーマル原発反対問題については、佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」 (平凡社新書 2011)に詳しく説明したので、本書の紹介からは省く。なぜなら原発をめぐる闘いは本書の第3章、第4章を占めるが、「福島原発の真実」 (平凡社新書)には、本書の第3章と第4章をそっくり引き写して更に書き足しているので、原発問題についてはこちらの書のほうがより充実しているからである。「知事抹殺」という本は大きく4つに分かれる。@生い立ちから日本青年会議所活動、参議院議員選挙と福島県知事選挙活動、A原発をめぐるプルサーマル計画凍結活動、B道州制と全国知事会活動、C木戸ダム収賄事件と裁判闘争である。本書の題名からして中心はいうまでもなくC木戸ダム収賄事件と裁判闘争にある。佐藤栄佐久氏の政治家としての活動は、福島県という地方自治体の立場から原発に関しては経産省、道州制に関しては総務省・文部省、裁判に関しては検察庁という官僚機構(国家機構)との闘いであったという。国家機構の第1権力は内閣と行政、第2権力は議会、第3権力は検察・裁判所となっており(三権分律)、日本の官僚機構は内閣の弱体をいいことにして、政府というと内閣なのか官僚機構なのか判別し難いところがある。新聞などで政府発表というとそれは官僚機構の事と思えば間違いない。内閣の考えに反することが政府発表として出てくることも多くなった。内閣はお飾りなのか、議院内閣制は幻覚で、実質は官僚内閣制であったという意見がある。戦前はたしかに超絶内閣という議会に基盤をおかない天皇勅命内閣であったから、内閣=官僚制には国家治政者の意図が露骨に出ていた。戦後建前は議院内閣制になって議会の多数派が内閣を構成することになったが、急に権力を授かった議会のレベルの低さもあいまって政争をのみ事とする状況で、吉田内閣、佐藤内閣、中曽根内閣、小泉内閣を除いて悉く短命である。2006年以降は毎年内閣は変わり、派閥によるポスト争いから大臣の寿命は半年以下という。日本の統治者が前面に出てこないなかで、議院内閣制なのか官僚内閣制なのか無責任耐性が続いている。こういうときは官僚が軍部と組んで議会を廃止して権力を一元支配する場合(ファッシズム)ガ一番怖いのである。最近の安倍首相や石原東京都知事以来の右翼的傾向と、自衛隊幕僚の右傾的発言は危険な兆候である。

官僚機構は政治家と対立する構図ではなく、官僚の政治家への浸透をはかっている。真に政治家に転身するなら職業の自由であり文句のつけようもないが、実質官僚出身政治家はその官僚人脈を生かして政治活動を行い、逆にいうと官僚機構を傷つけることは絶対ありえない。官僚OBとして政治家と官僚の権力行使の一体化である。これが戦後の政治の特徴である。むしろ今では有力な「政党人」は少なくなったといわれる(三木、大野、河野氏ら)。歴代首相のなかでは戦前の官僚である岸信介氏が有名であるが、地方自治体(知事)にも官僚の浸透は著しい。特に官僚の浸透が著しい自民党内の衆参議員の官僚出身者の数は、2006年において76人だった。(自民党が2009年総選挙で大敗北を喫すとその官僚出身議員数も減ったが)。官僚の政治家への浸透ぶりはアメーバ−のようで、自民党だけでなく現在政権与党である民主党にも多数いる。都道府県知事においても、3割自治といわれるなかで中央直結政治を謳う官僚出身知事の出現が目覚しい。2008年段階で官僚出身知事は29人、全体の6割を超えた。出身省は旧自治省(総務省)、旧通産省(経済産業省)の両省で計22人の2大勢力となっている。戦前の知事任命制と変わらなくなっている。知事公選制が有名無実になりかねない。高級官僚の人生設計のゴールは事務次官から財団や公団を渡り歩いて高給を貪るか、選挙に打って出て国会議員か知事などの政治家になるかである。官僚は若手現役時代は薄給と長時間労働で大変だが、結構トータル実入りの多い商売である。本書から逸脱した内容になってしまったが、佐藤栄佐久氏は東大法学部卒業後、福島県に戻り家業を継ぎ、日本青年会議所活動に埋没し、その働きを自民党に認められて1980年参議院議員に立候補したが、自民党の内紛に巻き込まれて応援が頼めず落選し、その後は自力で自身の選挙区を確立し、1983年に参議院議員となった。そして1989年松平勇作知事の引退に伴い、自民党内での候補者選びが紛糾して自民党から二人の候補者(佐藤氏と広瀬氏)を出す分裂知事選挙となった。この選挙に勝利して佐藤氏は福島県知事となった。

1) 原発を巡る闘いープルサーマル計画反対と原発全基停止

知事抹殺の原因とも言われるプルサーマル原発反対問題については、佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」 (平凡社新書 2011)に詳しく説明したので、本書の紹介からは省くとしたが、話の流れをたぐるうえで必要最小限のことは話しておこう。福島県は第1次エネルギー転換政策である「石炭から石油へ」により、常磐炭鉱の閉鎖に伴う県内産業振興策として原子力発電の誘致にかかり、1967年に着工し福島第1原発1号機は71年に運転を開始した。時の知事は佐藤善一郎知事で、福島県出身者であった木川田隆東電副社長と組んで誘致活動を推進した。次の木村守江辻の時代に操業が始まった。佐藤栄佐久氏が知事となった1988年には福島第1,第2原発発電所の10基はすべて稼働中であった。1971年より運転が開始され1987まで、福島第1原発と福島第2原発において合計10基の原子炉が運転されたのである。原発で出る使用済み核燃料の処分をどうするかという絶対命題を後送りして、未完の技術である原発行政は進められてきた。またウラン核分裂の結果使用済み核燃料にはプルトニウムが1%ほど含まれている。プルトニウムは原爆の材料となるので、国際社会から日本のプルトニウム保有が懸念され、日本はプルトニウムをもたない事を国際公約としている日本のエネルギー安全保障戦略上、高速増殖炉(二酸化ウランと二酸化プルトニウムをまぜてMOX燃料をつくり、炉の中で高速中性子を使ってプルトニウムの核分裂を促し、そのままでは核分裂しないウラン238の核分裂を起こして高出力を得る。)が切り札となった。動燃は高速増殖炉実証炉「もんじゅ」を1985年福井県敦賀発電所で建設し、1994年に実証研究がスタートさせた。1995年12月8日「もんじゅ」は配管から漏れたナトリウムにより爆発火災事故を起こした。1996年1月23日原発設置三県である、福井、新潟、福島の知事が当時の橋本龍三郎首相に面会し、原発行政が適正に行なわれるよう提言書を手渡した。その要点は以下の3点である。
@ 原子力陰回に国民や地域の意見を十分反映させる体制の整備
A 検討段階から十分な情報公開をおこなう。
B 原子力長期計画の見直し。

1997年2月通産相と科学技術庁長官に三県知事が呼ばれ、原子力政策の見直しを告げられた。それは現在の軽水炉でプルトニウム燃料を燃やす「プルサーマル計画」の積極的推進を閣議決定したという申し渡しである。なんてことはない、「もんじゅ」時事故で行き場を失ったプルトニウムを混ぜた燃料(MOX)を各地の軽水炉で使うということである。この要請を受けて佐藤知事は県庁内の勉強会「核燃料サイクル懇談会」を立ち上げた。そして1998年11月東電の荒木社長に次の条件をつけて全国初のプルサーマルの事前了解の文書を手渡した。そのときの4つの条件とは、@MOX燃料の品質管理 A作業員の被爆低減 B使用済みMOX燃料の長期展望の明確化 C核燃料サイクルの国民理解であった。この時点では1999年12月から発電開始の予定であった。 1999年9月関西電力高浜原発で使用するイギリスBNFL社製MOX燃料の寸法データ改ざんが発覚した。東電は福島で使うMOX燃料はベルギー製で安心であるといったので、佐藤知事は国が安全であると宣言した時点で使用するだろうと答えた。それから半月後の9月30日茨城県東海村のJCO核燃料加工施設で日本で最初の臨海事故が発生した。さらに1999年12月再び高浜原発用MOX燃料のデータ改ざんがある事が明らかになった。東電は新潟県刈羽原発のプルサーマルを1年間延期と表明した。翌2000年1月7日東電の南社長は福島県を訪問し正式にプルサーマル延期を表明した。2002年6月4日経産省原子力部会において、河野資源エネルギー庁長官は「プルサーマル計画は原子力長期計画で着実な実施がうたわれており、力ずくでも進めて行く課題である」と挨拶した。2002年8月29日、「原発事業者の自主点検記録に係る不正調査について」というファックスが原子力安全・保安院からファックスで送られてきた。福島第1,第2原発で1980年代と1990年代にかけて東電が実施した点検作業で不正な記述があるということだった。不正の箇所は刈羽原発を含め29件に及ぶという 。この件はGEの技術者が2000年7月に経産省に内部告発したことに始まる。なんと2年間も経産省・東電は福島原発に関する内部告発を隠し続け、一方では福島原発にプルサーマル推進を強行していたのである。これは経産省というひとつの組織が同時にやっていたことである。佐藤知事は県副知事に「国との全面対決の決意」を伝えたという。

2002年9月26日の定例県議会冒頭で佐藤知事は「プルサーマル計画については前提となる条件が消滅しており、白紙撤回されたものと認識している」と述べた。県議会も「国と東電の責任の明確化と再発防止策を求める決議」を採択した。保安院は電力会社に検査記録の総点検を指示した。他の原発でもトラブル隠しが発覚した。なかでも福島第1原発1号機の点検記録改竄は悪質だとして、2003年10月25日東電に対して1号機の1年間営業運転停止を命令した。2003年4月東電の定期点検のため原発17基すべての運転が停止した。日本経済新聞は6月5日の社説で「首都圏の大停電を回避できるかどうかは,福島県佐藤栄佐久知事の動きいかんだ」と個人攻撃にでてきた。又資源エネルギー庁は「アメ」を用意してきた。プルサーマルMOX燃料には3倍の交付金を出すというものだ。まさに官僚による「アメとムチ」攻撃である。2004年夏には、全基が停止していた原発が次第に運転を再開し、電力危機は嘘のように無くなった。国民・メディアを巻き込んだ官僚の恐怖政治が成功したのである。2005年6月、東京電力勝又社長、7月1日経産相中川昭一氏に福島県がまとめた調査結果報告書を手渡し善処を求めた。しかし福島県の安全確保の要望は何一つ入れられずに、2005年7月「原子力政策大綱」が発表され、10月11日原子力委員会で「原子力政策大綱」は了承された。2002年の内部告発発表まで2年間保安院と経産省は福島原発データ改ざん告発内容を隠し続けたが、それにもかかわらず経産省内部の電力自由化派官僚が内部告発事実をリークしたという朝日新聞の記事が出た。官僚の内部抗争が無かったらこの内部告発の事実も闇に葬られていたのだろうか。福島県にファックスを送ったのは原発推進主流派官僚ではなく、反対派官僚だったと言うことは福島県も官僚抗争に利用されたということになる。原子力政策もそうだが、日本の統治機構の最大の問題は、官に都合のいい組織ばかりが作られら結果、チェック機能が働かなくなったことだ。無論外部からのチェックは絶対に拒否する。佐藤栄佐久知事は中央においては「物分りの悪い田舎知事」、「福島県はとんでもない県」という悪評が立った。 「週間フォーサイト」05年6月号に攻撃的な記事が出た。「福島県のトゲを抜け」という官僚の発言を記し、「原子力ムラにとって福島県知事のおかげで国と地方の地位が逆転したという厄介な存在であった。佐藤知事が沈黙を余儀なくされるとき、必ず原発建設再開が浮上する」と結んでいる。佐藤氏はこの予言が「知事抹殺」に至った伏線ではなかったかと考えている。

2) 三位一体改革と地方自治を守る闘いー道州制反対と全国知事会

「東北に光を」ではなく「東北から光を」をスローガンに福島県で政治活動を始めた佐藤栄佐久氏は、地方分権が政治の原点であった。知事一期の終盤(1992年ごろ)からこれまで自治官僚出身者が努めていた副知事のポストを地元大学出の県庁生え抜きに替え、かつ農水省の天下りが定位置であった農林水産部長を、建設省の天下り先であった土木部長を県庁生え抜きの部長とした。そして知事選で再選された第2期(1993年より)には知事、副知事、出納長の三役のほか、8人の部長をすべて県庁生え抜きとし、中央官庁出身者はいなくなった。「地方のことは地方の人材でやれる事を実証したかったという。当時の東京都(鈴木俊一氏)では知事以外のすべてのポストは都庁生え抜きであった。戦前は県知事は中央の任命制であった。権力の分散を図らないと(三権分立を含めて)民主化は覚束ないとする占領軍の「シャウプ勧告」に従い、地方自治の強化と地方財源の強化が目指された。いつの間にかその原則は忘れ去られ、地方は国の下請けのような地位に甘んじてしまった。佐藤知事は「国と地方の関係は楯の関係でなく、ともに住民のために仕事をする横の関係、イコールパートナーにしたい」という。1993年6月細川護熙連立内閣のもとに国会で「地方分権推進決議」が採択された。拘束力の無い決議であるが将来への布石と考え、福島県庁では「地方分権研究会」を立ち上げた。そして「うつくしま、ふくしま宣言」を発表し国に権限委譲を促した。1994年7月村山富市自民党・社会党連立内閣は「第24次地方制度調査会」を福島で開催した。地方分権の盛り上がりの期を捉え、地方6団体(全国知事会、市長会、町村長会、都道府県議会議長会、市議会議長会、町村議会議長会)において意見をまとめて政府に当たるべきと提案した。長洲神奈川県知事、土屋埼玉県知事、貝原兵庫県知事、平松大分県知事らの反応はよかった。そして「地方分権大綱」が閣議決定され、1995年「地方分権推進法案」が成立した。こうして佐藤知事は原発問題と全国知事会に主戦場を移すことになる。

2003年7月岐阜県高山市で全国知事会が開催され、岐阜県知事梶山氏は挨拶で「これまでの知事会は国に陳情・要望をするお願い知事会から、国に対して地方の意見を申上げる闘う知事会と位置づけたい」と知事会の改革宣言を行なった。佐藤知事は「国と地方の役割分担と今後の都道府県のあり方」分科会で、にわかに話題となった「道州制」を討議した。「道州制」に込めた官僚の危険な狙いを感じたからだという。はたして道州制が住民のためになるのだろうかという問題点から討議した。小泉内閣の「三位一体改革」は、補助金を廃止し、権限や税源移譲を進めようと、まだ移譲もされないうちから都道府県に変わる受け皿づくりのひとつとして道州制の議論を仕掛けたのである。「道州制」に関する議論は江口克彦著 「地域主権型道州制」 (PHP新書 2007年)に述べられている。松沢成文神奈川県知事は首都圏の一体化と道州制を主張した。江口氏も松沢氏も松下政経塾出身であり、道州制賛成の立場から意見を述べている。いわば政府の代弁者として、政経塾の新自由主義者として行政の効率性だけしか眼目に無い。東京・神奈川・埼玉・千葉を対象にして、人口にして3000万人、GNPの30%を占めるマンモス行政区を作ろうとするものである。道州制賛成派は知事会に道州制研究会をもけるべきだと主張したが、千葉県、福島県、岐阜県ら慎重派が多数を占め「今のままで道州制の議論に入ると国に主導権を取られ、知事会としては道州制の議論は時期尚早である」として退けた。この議論は松沢知事によって2004年5月の知事会でも蒸し返され、「憲法改正と地方自治」研究会の設置を主張した。佐藤知事は次のように反論した。「地方自治を謳っている憲法の改正は必要ない。道州制は自治体助成金を削減し、権限を渡したくない国に利用されるだけである」といった。

「三位一体改革」と「平成の市町村大合併」が無理やり関連付けられ、地方交付税が合併特例債の原資として先き喰いされて、合併しない市町村に取って不利となるため、福岡県は合併を強制しないこととした。県南の矢祭町は「合併しない宣言」をした。国から地方へ渡される国庫補助金は約20兆円でその内訳は、社会保障費が11.7兆円、文教科学振興補助金が約3兆円、公共事業費4.8兆円などである。権限を失うまいとする官僚の反撃は、まず文部関係の補助金3兆円を死守する官僚の動きから出た。知事会のほうでも財源調整問題研究会の片山義博鳥取県知事から、そして宮城県の浅野史郎知事、岩手県の増田寛也知事から不協和音が出た。補助金廃止の議論を後回しにしようという提案である。これには補助金廃止に抵抗する文部官僚の手が回っていた。なにせ2004年の段階では47都道府県の知事の2/3は元中央官僚なのだ。これでは中央と闘う知事会は難しく、官僚が何かいうとすぐに調整を図ろうとする。文部官僚出身の加戸愛媛県知事は「義務教育国庫補助金は権限委譲のラストでいい」と露骨にいうのである。2004年6月政府は経済財政諮問会議の「第4段骨太の方針」を閣議決定し、税財源異状は約3兆円規模とし、その前提として地方自治体は国庫補助負担金改革の具体案を取りまとめることになった。知事会がまとめた改革案は権限を上としたくない官僚や族議員の凄まじい抵抗に遭った。11月の政府案は3兆円の税源移譲をきめたが、知事会のまとめた改革案のうち税額にして12%にしか過ぎず、地方交付税が減額されるという骨抜きで、地方自治体には厳しい結果となった。小泉改革は自民党を潰したが、官僚機構はびくともしなかった。補助金は残り、税源移譲は進まず、地方交付税は大幅に削減され、地方の予算の使い道に無駄が多いとけちをつけられ、地方にとっては踏んだり蹴ったりの結幕となった。2006年9月安倍内閣のもとで地方制度審議会に道州制研究会が設けられ北海道を試論にしようとしたが、茨城県橋本知事、富山県石井知事、静岡県嘉延知事、滋賀県国松知事、奈良県柿本知事、福島県の佐藤知事の6名が道州制特別委員会に待ったをかける意見書を提出した。「道州制は権限委譲の器となるより、国の歳出を削減するための道具となっており住民のためにはならない」という主張であった。そして権限委譲なしに道州制を進めると地方自治の破壊となる事を指摘した。

3) つくられた福島県汚職事件を巡る検察との闘いー検察と裁判

2003年正月の佐藤栄佐久後援会新年会で、ある県議が郡山三東スーツ(栄佐久氏の実弟祐二氏の経営する縫製会社)の土地登録書を見せて「知事のスキャンダルだ」といって歩いているという噂を聞いた。これは今になってみるとひとつの「予兆」であった。2004年12月27日朝日新聞系の週刊誌「アエラ」(朝日新聞社)記者が郡山三東スーツへの関与に関する質問状を置いていった。「一切関係ない」との回答をしたが、翌2004年1月24日に「アエラ」は「知事大株主企業の不可解取引」という見出しで、弟の経営する郡山三東スーツの土地取り取引きを疑惑とする記事であった。アエラでは記事が出た日に編集会議が行われ事件性はないとの結論が出たという。2005年4月東京地検による任意の調査が建設事務所と農林事務所に入ったという報告が総務部長よりあった。水谷建設の研修所建設に関することであった。同月25日読売新聞にアエラ」記事を焼きなおしたような記事が「中堅ゼネコン高値購入」、「福島県知事の親族企業所有地」、「東京地検捜査」という大見出しが踊った。1年ほどして2006年7月東京地検特捜部は水谷建設本社、東日本支社、郡山三東スーツ本社および社長の祐二宅を家宅捜査した。8月1日には県庁にも家宅捜索が入り、発注工事資料を押収していった。急に事態は緊迫した。2006年9月25日弟の祐二社長、県元土木部長坂本晃一、東急建設副支社長が談合事件に係ったとして逮捕されるに至った。県議会自民党は知事に辞職勧告決議を行なう動きもあったので、9月27日県政混乱の責任を取って知事を辞職した。福島県県知事選挙は10月26日告示、11月12日投票・開票と決まった。10月19日郡山三東スーツの杉山浩二総務部長が自殺を図ったが一命は取り留めたが、植物人間となった。そして10月23日佐藤知事は逮捕され、小菅の東京拘置所に入った。罪名は「収賄罪」と書かれていた。

ここからは取り調べと自白強要の過程に入るが、北方四島向けジーゼル発電機援助事件の「偽計業務妨害」で、鈴木宗男議員と一緒に逮捕された外務省官僚佐藤優氏の場合、頑強に自供を拒否したため、なんと1年半も収監されて取り調べられ、否認での起訴となった。人間として先の見えない状況に追い込まれ検事の作った調書に判を押すまでには時間はかからない。大物政治家なら数億円の保釈金を払ってでも出るだろう。陰惨な取調べから逃げるためには自白調書に判をおして、裁判で争うという手も残されている。殆どの冤罪の場合時間はかかったがそういう流れになって無罪を勝ち取っている場合もある。さて佐藤知事に対する取調べの流れをざっと見て行こう。
* 10月24日: 取り調べ検事は山上秀明検事であった。1日3回の取調べであった。政治ゴロで談合情報屋の辻政雄や雑誌に書かれていたことの認否については、知らないと答えた。
* 10月25日: 宗像・藤原弁護士と接見した。赤雑誌・ゴシップ雑誌「月刊アクティス」という雑誌を見せてここに書かれた事を知っているか問われたので、知らないと答えた。祐二氏から会社経営について、土地取引について相談があったかどうか問われたが、知らないと答えた。
* 10月26日: 前田建設のダム建設工事の発注と三東スーツの土地取引の関係を問われたが、発注権限者たる知事は、入札には係らないシステムが出来ており、すべての権限は副知事に、そしてその副知事も土木委員会からに結果を追認するだけのことであり、実質の発注者は土木部長であった事を述べた。検事がいうストーリーはこうであった。「木戸ダムの発注で官制談合が行なわれており、県側は祐二氏が窓口になって話を進めた。知事は祐二氏を使って県職員に働きかけ前田建設が受注できるように便宜を図った。ダム受注に成功した前田建設は水谷建設を使って謝礼として郡山三東スーツの土地を高く買い上げてやった」とういうものらしい。特捜部は福島県にいる知事の後援会関係者多数を東京地検に呼び出し、何でもいいから知事の悪口を言えと攻めているらいい。
* 10月27日: 山上検事によると、2000年木戸ダムの入札前に坂本土木部長を知事室に呼んで「木戸ダムはどうなっている、前田建設は熱心だ」という天の声を知事が発したという。知事は三東スーツの株主であるが、取締役会には出ていないし役員報酬はゼロである。経営には一切タッチしていない。しかし三東スーツの経営はかなり悪化していたようで、前田建設から4億円の融資をしてもらっていたという。そこで知事はこういった。「全体として事件が大きくなりすぎていろいろの人に迷惑がおよんでいるので、早く終息させたい」と検事に取引を持ちかけた。
* 10月28日: 弁護団は自白には反対した。検事は収賄の金額認定を「換値」といい。水谷建設の買い取り価格と市場での売価のと差額で、8億7000万円ー5億円=3億7000万円が賄賂に当たるというものだ。ここから言った言わないの問答から「取引」へと一変した。
* 10月29日: 「否認したときの問題の大きさから考えると、一将功なりて万骨枯るという寒々しい光景を恐れた」と佐藤氏は心を決めた。
* 10月31日: 弁護団は自白に反対だが、自白することにしたという。
* 11月1日−10日: 特記事項は無い。受託収賄ではなく単純収賄で起訴されることになった。
* 11月13日: 保釈手続きに入る。佐藤氏の反省の弁は「そういう穴だらけの捜査であったにもかかわらず、私は自分のおかれた状況がわからないまま、ほぼ全面的な自白をした」

弁護団は宗像弁護士、藤原弁護士、武藤弁護士、鶴間弁護士、刑法の堀内教授の5人体制である。宗像紀夫氏は大物ヤメ検弁護士で佐藤氏の高校時代の2年後輩である。弁護方針は「完全否認」で決まっていた。特捜部は「天の声を聴いた」とする坂本土木部長の証言を重要な骨組みとして、三東スーツ社長の祐二氏を窓口として機能しあくまで主犯は佐藤知事とするようだ。2007年6月21日東京地裁で公判が開始された。公判の論点は以下である。
* 第1回公判: 検察の冒頭陳述に続いて弁護側の冒頭陳述は「無罪」で始まった。
* 第2回公判: 証人は元前田建設社長の寺島一雄氏であった。1999年5月いわゆる「秋保会談」に、前田建設寺島氏、水谷建設水谷功氏、県土木部長の江花亮氏、門脇氏の4名があつまり、官制談合が行なわれた。そこで木戸ダムは前田建設に決まった。前田建設では三東スーツの土地買い上げは賄賂と認識し、更に1億円の融資を依頼されたと証言した。三東スーツの経営は苦しく、前田建設から4億円の融資を受けていた。水谷建設の買い上げ金8億7000万円から三東スーツは4億円を前田建設に返金した。
* 第6回公判: 三東スーツと水谷建設の土地売買にあたった不動産会社社長徳田慎一郎氏が証人となった。徳田氏は三東スーツの工場跡地にショッピングセンターを建設し商業地として開発する方針で活動し、別に前田建設や水谷建設の仲介があったわけでないとした。水谷建設はヨークベニマルとマツモトキヨシをキーテナントとするショッピングセンターが建設された。そしてこの土地を9億6000万円で転売した。いまでは12億円の価値が出ているという。検察は水谷建設が不動産会社をダミーとして使ったというが、デヴェロッパーとしての徳田氏の役割は顕著であったというべきだ。
* 第7回公判: 「天の声」を聴いたとする元県土木部長坂本晃一氏が証人となった。坂本部長は辻政雄氏からの紹介で祐二氏と面会し、建設業界のお願いを祐二氏を窓口とし、辻氏が伝える形であると了解したという。坂本部長は1999年6月祐二氏からという合計600万円の金を辻氏の手から受け取った。そして99年12月祐二氏から前田建設が挨拶に行くからという連絡を受けた。2000年1月初め(7日)、知事室で知事から「前田は一生懸命やっているようだ」という天の声を聴いたという。秘書課の日程表には全くその入室の記録は無かった。弁護団は1999年5月の「秋保談合」で前田建設に入札が決まっているなら、2000年1月の天の声は「気の抜けたビール」ではないかと詰め寄った。坂本氏の銀行口座には100万円以上の金が頻繁に入っている。弁護士の調べでは2004年には1200万円、2005年には1900万円と入金されている。土木部長にはこれほどの金が業界から入ってくるようだ。弁護団は、坂本氏こそ建設業界から賄賂を取っておりそこを検察に突かれて、不問としてやるから検察に協力をしろと脅迫され偽証しているに違いないと考えた。後に坂本氏を偽証罪で告訴することになった。
* 第10回公判: 検察側の証人として辻政雄氏が証人として立った。最も怪しげな人物で本人は「佐藤栄佐久の支持者」と名のっているが、実際は知事に近い事を匂わせて土建の談合にいつも顔をだす、談合情報屋というか仕切り役というべき人物であろう。祐二氏が発注者意向を出し、木戸ダムは前田建設と祐二氏が言っていたと証言し、談合で得た金は栄佐久氏の選挙資金になったというのである。弁護士の尋問で辻政雄氏の生活が明らかになった。郡山のホテル暮らしで1000万円を越える収入があり、年5,6百万円のカード利用があったという結構優雅な生活である。実質的には談合を生業としていたことがあぶりだされた。辻は叩けば埃がいくらでも出てくる人物で、検察が取り込み、手駒にしておかなければならない人物であった。辻氏は検察にとって「談合のイニシャティヴを握っているのは、祐二と辻と坂本(江花)」という談合の輪というストーリを構成する要の人物であった。
* 第21回公判: 坂本土木部長の前任で、「秋保会談」で前田建設を決定した江花亮氏の証人尋問が行なわれた。江花氏は自分が天の声を発したわけではないといったが、建設会社は「発注者意向は江花が決定していた」と答えている。坂本部長の前は江花氏が官製談合を仕切っていたようだ。秋保会談は何のためだったのか分からないと自分の罪はとぼけている。
* この裁判では取り調べ検事が証言尋問に呼ばれた。祐二氏の取調べを担当し、「知事は日本にとってよろしくない。いずれ抹殺する」といった過酷で有名な強面役森本検事が弁護側が尋問した。2006年10月9日には4通の調書を作り、これらは祐二氏が自白したとする「捏造調書」だと追及した。検事はいろいろな手を使って被疑者を脅し掠め落とすのである。「誰それは自白した。おまえも自白しろ」といって取った調書は「切り違い調書」といって「違法収集証拠」とされ証拠から排除される。
* 11月16日祐二氏の被告人質問が行われた。祐二氏はなぜ事実でない自白調書を取られたのかという弁護団の質問に、「拘置所で精神的に参っており、この場所から逃げたかった」と答えた。非人道的な取調べは被疑者の健康状態を無視して、精神を痛めつけるのである。佐藤栄佐久氏が実弟を思うに、どうやら建設業者と祐二氏の間に明らかに祐二氏を経路とした意思疎通の回路ができていたようだ。

2008年8月8日東京地裁で、祐二氏と佐藤栄佐久氏は判決を受けた。主文は「被告人佐藤栄佐久を懲役3年(執行猶予5年)、佐藤祐二を懲役2年6月(執行猶予5年)に処する。佐藤祐二氏に追徴金7372万円を課する」というものだった。判決文の要点は以下である。
* 祐二氏の談合への関与については、県北流域下水道工事に東急建設と佐藤工業を落札させるため、辻らと共謀し入札妨害の正犯と見なす。
* 栄佐久・祐二は共謀して、前田建設が木戸ダム受注をするよう有利な取り計らいをした謝礼として三東スーツが所有する土地推定時価8億円を8億7372万円で水谷建設に売り、差額の7372万円の賄賂を受け取った。
* 秋保会談で業界側の調整が行なわれ、栄佐久氏は前田建設受注を促すため、1月7日坂本部長に「天の声」を発した。
* 選挙運動が負担で賄賂を取ったとする祐二被告の自白は任意であると認める。
この判決に対して弁護団は、「大岡裁きで実質無罪」という認識であった。栄佐久氏は更に真実を求めて控訴した。2009年10月14日東京高裁で控訴審判決が出た。有罪は変わらなかったが、刑が短縮され、栄佐久氏が懲役2年(執行猶予4年)、祐二氏は懲役1年6ヶ月(執行猶予4年)で各々1年軽減であった。そして驚くべきは賄賂金額をゼロ査定したことである。差額利益はなくとも売れない土地が売れたという利益があると云う認定である。これを「換金の利益」というらしい。これで収賄罪は成立するという。1審よりさらに「実質無罪」に近づいた。栄佐久氏は最高裁に控訴し、同時に坂本元土木部長を偽証罪で告発した。


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