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W・リップマン著 掛川トミ子訳 「世 論」 上・下

 岩波文庫 (1987年7月)

ひとつのニュースはひとつの事件の合図、世論を巡るメデイァ論の古典

著者W・リップマン(1889-1974年)の事も訳者掛川トミ子氏についても何も知らなかった。著者のことは本書を読んで略歴を見ておおよそのことが分かった。訳者掛川トミ子氏は 1931年生まれ。関西大学名誉教授。ジャーナリズム、思想史。編著書には論文「天皇機関説事件」(松本三之介ほか編『近代日本政治史II』有斐閣1974、所収)「マス・メディアの統制と対米論調」(細谷千博ほか編『日米関係史』第4巻、東京大学出版会1972、所収)、「ジャーナリズムにおける批判精神」(飯田泰三ほか編『長谷川如是閑集』第6巻解説、岩波書店1990)、編著『思想統制』(『現代史資料』第42巻、みすず書房1976)、訳書ウォルター・リップマン『世論』(全2巻、岩波文庫1987)などがある。著者W・リップマンの略歴とプロフィールを記そう。著者W・リップマン(1889-1974年)は生前からジャーナリズム界の長老とか今世紀最高のジャーナリストと讃えられた。偉大なジャーナリストであるばかりか、20世紀の優れた社会科学者、政治学者、思想家、哲学者でもあったようだ。ジャーナリストの書いた本といえば曝露本が多い中、メディア論の古典というべき本書を書ける人は稀有であった。リップマンは1889年ニューヨーク市生まれ、裕福なユダヤ系移民の子として、1910年ハーバード大学を最優等賞を得て3年で卒業した。1910年卒業生には、エリオット・J・リード、S・チェイスらがいた。J・リードは学生時代リップマンの近代的精神に多大な影響を受けたと告白している。学生時代リップマンは社会主義クラブの会長をやり、リードらに影響を与えたものと思われる。卒業後は外交官か政治家の道を歩むだろうという大方の期待に反して、ジャーナリズムの世界に飛び込んだ。ステファンズのもとで雑誌編集助手に携わり、市政腐敗を次々に曝露する手法をステファンズから学んだ。1913年H・クロリーの招きで「ニューリパブリック」誌の編集スタッフとなった。1917年第1次世界大戦の和平準備専門員会にはいり、情報将校としてフランスに渡り、「和平に関する14か条」の原案作成や政府文書の起草にあたった経験が28歳のリップマンの眼を大きな世界に向けさせた。

第1次大戦後アメリカ社会が大量生産を背景として大衆民主政治と変貌をとげる中、リップマンも時代の子として全く新しい時代の到来を知った。人間的な絆と永遠の権威が消え去ったときに、人々は新聞に人間的な絆(噂話)を求めたようだ。人間が自分の力で自己の環境を統御しうる力を持つことが民主主義の大前提であると信じていたリップマンは、デモクラシーの危機がジャーナリズムの欠陥に見出されたようだ。ニュースの本質に迫ろうとしたリップマンは1922年に本書「世論」で、人間と環境の基本的な関係をイメージの概念から解明した。環境とイメージと行動の基本的関係はリップマンの独創だったとされる。イメージを作るときに人間はある種の固定観念に左右されることを「ステレオタイプ」となずけた。ステレオタイプが確固としていると、ある事実を見てもステレオタイプと矛盾する事実から離れやすい。こうして合理的な意見形成の必須条件とされた「客観的事実」は自明ではなくなる。リップマンのメディア論の本質は、「ニュースはひとつの出来事が起った事を知らせる合図に過ぎないのに対して、真実の機能は隠された事実を表面に出し、それらを相互に関連付けて(編集して)、人間がそれに基づいて行動できるように現実の背景を作ることにある」 1924年「ニューヨークワールド誌」の論説委員、1931年「ニューヨークヘラルドトリビューン紙」のコラムニストとなり、生涯彼は「Today and Tomorrow」のコラムニストの道を選んだ。コラムニストとして人々に偏見を棄てさせ,ニュースの背景を周到に説明し分析することに意義を見出したようだ。1938年よりワシントン居を移してから、政治の中枢の人脈と情報通になった。こうして1960年代までジャーナリズムの第1線で、リベラルデモクラシーの根本原則に背くものと激しく論戦し、マッカーシズムとベトナム戦争に異議と唱えて止まなかった。1960年代ジョンソン政権に噛み付いて生命を全うしたのが珍しいくらいで、憤激のあまり1967年ついに筆を折った。現代を「小暗黒時代」と定義したリップマンは1974年85歳で生涯を閉じた。

ここで本書「世論」の位置づけをしよう。1922年に刊行された本書はリップマンの著作の中では白眉といわれ最も永続的に生命を持ってきた。90年以上も前(日本では大正時代)に書かれたとは思えないほど現代的意味を持ち続けている。世論に関する過去の大量の文献がリップマンの「世論」以上に出られないといわれてきた。リップマンの功績は「擬似環境」と定義されたイメージ論からステレオタイプを導出したことである。ここが最もリップマンの独創的といわれるところである。「人間の行動はこの環境についてのイメージ(それを擬似環境となずける)に対する反応である。しかも、この行動の結果は現実の環境のなかに引き起こされる」という独創的な見解である。虚構かもしれないイメージから、現実的行為が引き起こされるのは怖いというか、それが現実である。虚から実が形成されうるのである。更に人は見てからイメージを作る(定義する)のではなく、定義してから見るというようにある種の固定観念を持つことによってイメージが左右されるとしてこれを「ステレオタイプ」と呼んだ。バラバラに知覚されたものが「ステレオタイプ」によってひとつに寄せ集められる知覚の過程である。これは松岡正剛氏の「知の編集工学」(朝日文庫)にいう「情報は関連付けを待っている」にも通じる。もちろん正岡正剛氏のいう関連とは正しい意味であろうが、誤った意味づけや誘導された意味づけかもしれない。リップマンにとって世論とは最初からステレオタイプによって汚染されている。それはリベラル民主主義の危さにも直結している。リップマンの結論は、デモクラシーの原理である「合意による統治」(人々の意見の合理的な形成を前提として成立する)に対する強い懐疑と悲観的見方である。はたしてデモクラシーが成立するのかどうか、宿命的に隠れた統治者(治者)の誘導がなければ成立し得ない大衆デモクラシーへの根本的問いかけである。民衆は果たして自分を制御しうるのか。最大多数の幸福なんて幻想なのか。本書がメデイア論に留まらずアメリカの民主主義研究の古典で、100年も前の著書であるトクヴィル著「アメリカンデモクラシー」(1832年)と双び称される由縁である。

1) 外界とイメージ

情報遮断の孤島という本書の例え話とはシュチエーションが異なるが、太平洋戦争終結から29年間フィリピンルバング島で情報活動をしていたという小野田 寛郎氏の世界について外界の問題が時差を保ったまま成立する。現地人と接触してもなお外界のイメージを持たず、彼にとっては真実と思われる虚構のイメージ(戦争における諜報活動)のなかで人は動くものである。戦争という恐怖と好戦心と憎悪のるつぼの中で精神を支配する力がこういう事をさせるのである。人は英雄も悪魔も想像する力を持っている。人とその人を取り巻く状況の間に一種の「擬似環境」が入り込んでくる。新の環境というものがあるかどうかは知らないが、人それぞれは一定の環境下でそれぞれのイメージ世界を作っている。人はこの擬似環境で動き、現実の環境に働きかけるのだからさらに総体としての世の中の動きは複雑である。世論を分析するには、行為の現場、その現場について人間が抱くイメージ、そしてイメージに対する人間の反応がおのずと行為の現場に作用するので、この三者の関係を吟味することから始めなければならない。反応は瞬時に示されるので虚構は真実と取り違えられる。本書は「それぞれの人間は直接に得た確かな知識に基づいてではなく、自分のつくりあげたイメージに基づいて行動すると想定しなければならない」ことを前提とする。それでも人のイメージにはある程度の類型化がある。それは人が属する階層の政治的生活が似ているからである。階級意識、国民意識、同類意識というのがそれである。経済的・政治的利己心の追求がそうさせるのだろうか。人々が心の中に描いている世界像(擬似環境)が、思想、感情、行動を決定するひとつの要素である。人はあらゆる環境を見渡せる神ではない、生きてゆく上で必要なだけの現実の一部を支配する。人々の頭の中にあるイメージが彼らの世論になる。本書は上巻でイメージとステレオタイプを分析し、下巻で世論の形成と民主主義の分析を行なう。民主主義の大原理である民意を作るメディアやジャーナリズムは何をしなければならないかを検討する。

1917年リップマンは情報将校として戦争の政府宣伝の現場にいた。敵の被害は大きく、味方の被害は少なく、隠蔽する事を常とした戦争宣伝は、権力者は自分達が望んでいるよう見方(戦争遂行を唯一の世論とする)を一般国民がするように仕向けた。そのために一般国民が戦争のニュースにアクセスする事を遮断し、国民が広く認識する事柄に広く統制を加えた。出版、集会にたいして法的権力によって統制し、翼賛会的報道規制を行なった。日常時においては外界への接近方法に問題があるわけではないのに、自分のほうから近づこうとはしないで、自分の属する仲間・階層の趣向に従って限られた範囲でしか動かないのである。収入や職業といった社会的集団像の自画像に従順である。人々が群れる習性を「群居本能」と呼ぶ。仲間達は生き方まで模倣する。我々が世界と精神的に接触する際に、その属性の果たす役割と制約がいかに多いことか。普通の人々が公共の問題について情報を得るために新聞を読む時間は15分から30分と限られている。しかも2紙以内が半分以上である。見出しを追っている程度の読み方である。リップマンの時代にはテレビはなかったので、今日の情報の氾濫というよりは絶対的にアクセスが足りない状況であった。主に文字情報が主であった。そして人間が自由に駆使できる言葉は完全に表現できる内容より少ない。言葉からイメージを起こすとなると、意見の大部分は各自の想像のなかで組み立てられる。間違った読み方、とんでもない想像が日常的に平気で行なわれている。部分的にしか似ていない2つのものを安易に同一視する。民主主義の国民が重大な決定を下す時、思考するlことになれていない。誤りやすい虚構を流して意図的に誤った認識に導こうとしている勢力に対しては、思考が一番大事なはずなのである。

2) ステレオタイプ

我々の意見と称するものは残念ながら他人による報告と自分が想像できるものからあれこれつぎはぎしてできたものである。その他人の報告というものも現場そのものの姿を持っていない。心理学関係者の学会で有名な実験が行われた。瞬時に目の前で行なわれた事件の詳細を誰も正確には記憶していないという結果であった。半分の人は20%−50%の誤りがあったし、部分的には創作・捏造する人の数も多かった。どうして正しい情報が頭の中に入ってこないのだろうか。それは人の頭の中に既に詰め込まれた形式、類型、標準的解釈などが邪魔をして、意識に届く前に情報を遮断しているのである。このような事情には経済性という問題が絡んでいる。いちいちしっかり見ていると骨が折れるから、情報量が多いと人はパターンで物を処理しているのである。外部からのあらゆる影響力のうち最も広範に浸透してくるのは、ステレオタイプのレパートリーを作り、それを維持する力である。先入観が知覚の全過程を支配している。視覚を支配しやすいのは映画(今はテレビ)である。この情報は深い認知を得やすい。それは言葉による情報より感情に直結するからである。ステレオタイプをすべて悪いといっているのではない。ステレオタイプには積極的な意味もある。第1は労力の節約である。ステレオタイプの体系は少なくともその人にとって矛盾のない体系で秩序である。個人的習慣の核となり、伝統的社会における我々の地位を保全することになっている。アリストテレスが奴隷制を擁護する議論も、伝統を守る議論も、自分の地位の安泰を保持したい感情である。

歴史に革命をもたらす天才的な観念ではなく、個個の人間の頭の中にあるさまざまな模倣、模造、類推、歪曲が歴史を動かしている。合衆国憲法からアメリカの政治を推理することは出来ない。ひとびとの行動を左右するものは彼らの間に行き渡っている現在のステレオタイプである。「進歩」、「成長」といった言葉で象徴されるステレオタイプ(セントラルドグマ)は基本的には機械技術文明にはぴったりであるし、アメリカ人にとって巨大な物質的成長は絶対的価値体系であった。今でも経済成長(GDP)は世界中の国にとって絶対命題である。出来るかどうかはしらないが「持続的成長 Sustainable Development」は国是である。ステレオタイプが無批判に受け入れられると、外界の多くの要素を全く無視することになる。「自由貿易」、「自由市場」、「自由放任主義」をバーナード・ショーは「罰せられずに取引先の相手に対して不正行為をするための口実」という。アダムスミスは「均衡という神の手」を期待し、マルクス主義は中央の官僚的計画経済を是とするが、どの理論も盲目的な自動作用への信仰で思考停止している。ステレオタイプの盲点は懐疑的なイメージを斥けることである。そのかわり認識から行動は画一的で力強い。

ステレオタイプと異質なもの排斥され、違う者は目に入ってこない。資本主義を一方の側は「進歩」、「経済性」、「目覚しい発展」を見、一方は「反動」、「資源浪費」、「通商の不公平」を見たのである。眼にとらえられない世界を説明するためある程度組織された一連のイメージを持たせるのは、哲学、政治学、道徳的規範である。我々が何をいかに認識するかに大きな決定権を持たされている。この規範には同時に偏見、虚構、独断という危さも備えている。世論は、何よりまず道徳や規範を通じて見た、諸事実のひとつの見方である。我々に世論はステレオタイプによるひとつの見方に過ぎないと認めることで批判力が生まれ、対立者に寛容になることができる。領土問題は外交官のステレオタイプに訴える最たるものである。「鉄砲から領土が生まれる」というのは軍隊である。その通りだとしても外交官は境界線、自国民の居住、歴史的権利、文明擁護と文化類型などの常套的文句を駆使して論戦を行なう。国家防衛上必要だとか鉱山資源獲得などという言葉は決して言わない。

ただステレオタイプは空間や時間などを正しく把握することは難しい。行政が画一的だと批判されるのはこの点である。官僚には国民という画一的イメージしかない。誰それがどうこうということはそもそも行政は相手に出来ない。まして緊急を要する新規な事態には全くといっていいほど行政は対応できない。2011年3月以降の東日本大震災への対応を見れば分かる。半径20Kmとかいう避難区域設定などコンパス行政しか出来ないのである。殆どすべての社会的問題はそれぞれにふさわしい時間が計算されている。行政には未来のリスクは計算できない。死者が出て既成事実となった時から動き出すことは厚労省の通例である。公共の事柄への意見をまとめる際に、統計学が要求するふさわしい標本を公正に選び出すことは容易ではない。竹内 啓著 「偶然とは何かーその積極的意味」(岩波新書)によると、その意見を持つ人の母集団における比率pに対する、サンプリング集団の比率p'のずれを1%以下にするために必要なサンプリング数(集計コストに大きな影響を持つので無闇に大きくすることは出来ない)は1.29/√n=0.01からn=14641人となる。したがって数千人のアンケート結果は信用するに足りない。経済的には不可能といえる。国勢調査に政治的見解をアンケートできるわけもないから、結局国民投票によるしかない。原発に関する国民投票が必要とされるのはこのためである。諸々の通産省関連のアンケート調査は基本的には結論ありきのやらせである。

ステレオタイプというひとつの型に組み込まれて外界から送り込まれる限定されたイメージが、個々の人間の中で、感じたり、考えたりしているうちに、彼自身の関心に同一化される過程を検証しよう。我々は多数のものを人格化し、その諸関係を寓話化する傾向にある。人間化されたステレオタイプは最も浸透しやすい。名前は空洞化しやすいが、何らかの人間的性質は具体的であると感じる。公共の事柄が演説、映画、漫画、小説、絵画化されるとき、人の関心を引く形に変わると、第1に原形を抽象化し、それに生命を吹きこむことが出来る。そこにさまざまなメディアが駆使されるのである。何らかの行動が要求される時、観念は実際的行動に役立つほどはっきりしておらず、視覚的或いは感覚的価値を持つようになって初めて力を得るのである。この際に「感情移入」が極めて効果がある。争点が明確でない時、闘争や緊張という執着心を持たせることが友好である。小泉首相の郵政総選挙がその好例であった。自分以外は守旧勢力の悪者という劇化が顕著な結果を得た。(ここから劇場政治という言葉が定着した。) 自分の利益が世論を決めるというのは、利益と思われるものを選択している自分の一部をしっかり認識していることが重要となる。1人の人間のさまざまな性格は、容易には判別できない多種多様な環境外力が働いている。自我は独りよがりなものではない。人が経験することになるさまざまな状況に対応できるような、様々な性格を用意することは人格形成にとって最重要事項である。行動パターンを用意できないものは滅亡しやすい。利己主義を批判的に理解しなければならない。党派問題はもともと利益配分問題から発生する。経済的決定論だけでは説明がつかない人間性の多様性にも考慮しなければならない。

3) 共通意思形成と民主主義

極く抽象的なイメージひとつですら個人的な感じ方をする多数の人々が、どうやって何らかの共通意思を持つことが出来るのだろうか。民主主義の根幹をなす「国民の意思」とか政策の是非を問う「世論」としていわれるものが、この移ろい易い個人の心象から取り出しうるのだろうか。しかし、それぞれの考えを持っている人々が同じ候補に投票をするように仕向ける技術は政治には欠かせない。バラバラの世論をいかに中間的なものに納めるかは世論調査の極意でもある。それはあいまいな表現で大衆に訴えることである。相容れない複数の目的を果たそうとすれば、このあいまいな思考が深いところで感じられている意見の統合に力を振るうのである。人間の文化の構造は刺戟と反応によって練り上げられたものであり、原始的な情緒喚起能力がその中心部を占めている。情緒を刺戟すれば反応するはずで、訴える相手が複数ならf共通の敵に対する憎悪の象徴的な存在を見つければ彼らを団結させることが出来る。(そのまえに憎悪感情を広く植えつけておかなければならない) 「アメリカ」、「法と正義」、「自由」などのスローガンという象徴によって連合が成立すると、政策に同調する流となる。象徴の支配者が現状況の支配者である。第1次世界大戦後のウイルソンの14か条は世界中が共通意識を取り戻す試みであった。象徴はそれ自体が極めて有効であり神秘的な力を持つので、我々が権威あると認める人が言葉を発しなければその地位は得られない。権威ある者は必ずしも専門家ではない。専門家の中でも誰が正しいのか、意見は一致しない場合が多い。そこで重要視されるのは政党組織というマシーンである。組織内では個人がバラバラにならないように特権・利権の仕組みで支えている。政府、国会、企業をはじめあらゆる階層組織ではマシーンが必要である。一致した行動を考える集団内では構成員は賛成か反対かということ以上のことはあまりできない。組織の幹部という少数者は支配者と呼ばれる。民主主義者は2つの幻想を抱えている。一つは個人が自己充足的に万能であること、2つに一切を取り仕切る「民意」が形成されることである。民主主義は選挙制度などを整えたが、選挙にいくら工夫をしても、市民はイエスかノーしか言えない。マシーンは必要悪かというと、大衆行動では何も計画できず、協定できず、実行できないからである。いつどこでも首謀者が必要なのである。

成功した指導者は支持者をまとめるためにたえず象徴を大事にする。特権が階層社会で果たす役割を,象徴は一般大衆にとって果たすのである。象徴は一体感をもたらす。象徴は個々の観念から情動を吸い上げる力を持っており、団結の機能を果たすと同時に搾取の機能も持つのである。情動の中心は民族意識である場合が多い。君主や天皇は敬われなければならない。明確な定義と率直な属性(天皇機関説など)に関する詮索をしだすと、象徴は崩壊する。実在ではないからだ。社会が不安定で爆発しかねない環境において、団結心と協調・服従を確保するのが象徴である。大衆の頭脳が指導者の頭脳より劣っていることは決してないのに、大衆は1個の有機体ではない個々の存在である事によって、絶えず暗示に曝されている。大衆が耳にする情報は事実そのものの客観性を備えたものではなく、一定の行動型にあわせてステレオタイプ化された情報である。あたかも新聞社の社主が大衆の扇動者の役割を演じている。無名の大衆が受け取るのは宣伝である。メディアは一般より優れた情報力があると錯覚されているだけだ。こうして世論は作られる。合意を作る技術は特別新しいのもではない。民主主義を心理学で説明しようとするのは現代コミュニケーション論であるが、経済的権力(企業の支配力)の変動よりも、民主主義の変動の方が無限に大きな革命をはらんでいる。世論が民主政治の原動力と考えられている割には、世論がどのような源に発し、どのような経過を経て導き出されたのかについての解明は少ない。公衆の意志を政治に反映させるのが民主主義の大原則だとするとそれは可能なのか、それとの最も有力な階層が支配する(勝つ)方便に過ぎないのか。世論というものを神秘的な「大霊」に祭り上げてしまったのも民主政治ではなかったか。メデイアと連動して世論の形成に成功した階層が、その「世論」というものを錦の御旗に祭り上げ、反対意見を封じ込めるための方便でなかっただろうか。

初期の民主政治論者はアリストテレス政治学以来の、筋の通った正義(世論)は自然と大勢の中から湧き上がってくるというおめでたい信仰を持っていた。貴族主義者は選ばれ人間(闘争に敗れた貴族は没落貴族、勝った者だけが貴族というわけ、最初から選ばれた人なんて存在しない)だけが政治的な本能を備えていると考えたが、民主政治論者は民衆には生まれつき統治能力が自己充足的に備わっているとした。利己的な諸集団は利害が拮抗した場合生存闘争を行なう。思想家の中にはこの闘争を当然視し、自分達が優位に立つためのテクニックを説くのがマキャベリで、いつも現実的であると云う評価を受けてきた。民主政治を説く思想家は、人間の中には自分自身の運命を決める意志のある事、力づくの闘争ではなく平和を希求する意志のあることを説いた。アメリカ独立宣言の起草者にして第3代大統領であるジェファソンは誰よりもアメリカンデモクラシーに貢献した。彼にはタウンシップ(自営農家共同体)こそが民主主義の理想像と映った。「自治」、「自決」、「独立」をスローガンとして自治集団内だけの自足をめざし、そこには多集団の同意や共同という概念はなかった。外交的には栄光ある「孤立」(モンロー主義)しかでてこない。民主主義には安定感を必要とし、独裁制は危機感を背景とする。民主政治論は、あらゆる人間が自発的に自分らの公的な事柄を処理できるためには、こじんまりとした平和で自己完結的な小集団内でなければ成立しなかった。単純に自己充足的コミュニティはステレオタイプの複製に向いており、固定化された原理を後生大事にした。アメリカは独立後に早々と13州の意志が不一致で連邦政府が何もできない事を悟った。いわば日本でいうと幕藩体制後の明治中央集権政府の苦悩である。そこで国家権力を必要とした。政治とは国家レベルの決断を下し、その決定を国全体に押しつける権力の事である。民主主義とは各地域・各階層の利益と目的に合わせた自己決定を主張することとなった。早くも民主主義と国家権力は対立したのである。マディソンは連邦政府の力を諸利害の均衡と牽制というパワーバランスから説き、統治されるものをコントロールする力を政府に与えなければならないとした。そこには共通の情報に基づく共通の同意(世論)が生まれる可能性は見えてこない。

ジェファソンこそアメリカ国民に憲法が民主主義の道具であることを教えた人である。彼は相反する連邦制と民主主義を同時に信じ、立憲民主主義というステレオライプを確立した。それは憲法を読み直して、民主主義の一つの表現として読む事をアメリカ国民に教えルことで矛盾を解決した。ジャクソンは「官職任命権」を始めた。短期の官職交代の原則は独裁制を排し、能力ある人に道を開くように見え、官僚支配の発生を予防する手段となった。この政治主導の原則が政治家からなる特殊階級を生み出した。民主主義論が最も忌み嫌う種族の出現である。ジェファソンとジャクソンが生み出した2大政党制が上流階級支配に代わった。民主主義理論が好む議会という代議政治は大統領権限の強化によって凋落した。地方から出てくる議員の寄せ集めでは国の政策とはならない。最優秀な頭脳を任命できる大統領政府が政策のすべてを決定する。民主主義論者は意志の表現のためのメカニズムに力点を置いていたが、孤立状態が終り社会が複雑多岐になって、人々が互いに他との調整を図らざるを得なくなると、民主主義論者は自治を眼目に選挙方法の工夫にこだわった。社会的権力を生み出すための有効なメカニズム、すなわち投票と代議制の優れたメカニズムに気をとられたのである。誰が権力を握るかよりも,社会としては権力をどう用いるかの方が大切である。伝統的な民主主義論者は人間の尊厳はよい法律、よい政治の形で本能的に現れると考えた。しかし人間の尊厳は人間の可能性が適正に行使されるようなある生活水準を要求する。誰が権力を握るかという形より実質の方が大事なのだ。革命が成功して国民が餓死しては元も子もない。中国のケ小平が言ったように「黒い猫でも白い猫でも、鼠を取る猫はいい猫である」と。どう工夫しても、人々が自発的に政治上の全問題について健全な世論を持つようになるとは思えない。結局は権力が用いられるときの基準や監査手法に力をそそぐことが大事なのではないか。

4) 新聞とメディア論

民主主義の原理である国民の意志の根拠となる情報はどこから来るのだろうかを検証する。民主主義論者は世論形成の問題を市民的自由の問題のひとつととしてきた。「自由で公開の論戦が真理が勝つ」という自由思想は万全では無い。市民的自由は基本的には大切であるにもかかわらず、しかしこの意味において市民的自由が現代世論の成立を保証するものではない。職業としてのジャーナリズムをおしえる専門学校はあっても、政治学において新聞と一般情報源について研究する場がなかった。新聞が真実を提供すると期待しているが、それに金を払う人はいない。編集者はたえず職を脅かされ、人々は新聞の役割を学校か教会のように評価する。新聞は購読料と広告代金で成り立っていることは自明である。新聞の発行部数を上げることで広告主の注文をとることが出来る。新聞の発行部数は新聞の内容で決まる。新聞が発行されるのは一般消費者のためである。その支持なしでは存続は出来ない。この一般消費者を定期購読者に替えることで新聞社は安定する。定期購読者は新聞記事を批判的に見ることが出来る。自分達に経験する諸問題について異議申し立てができると考えがちだが、記事によって個人の名誉を毀損されたら訴訟が起こせるが、誤ったニュースを読まされたといっても投稿欄で意見を述べるくらいである。自分では虚構か現実か区別のつけようがないニュースを読まされている。このなかで自分のステレオタイプの合致すれば人は読み続けるだろう。「ベトナム戦争記事ではいかようにも虚構がまかり通るが、地方版では嘘は通らない」とはよく言われる格言である。個々の市民に遠方のニュースを提供するのは大新聞である。しかし一般ニュースの見返りは少ない。固定した読者を獲得するために、芸能スキャンダル、映画、スポーツ、消費者欄、料理、園芸、コミックスなどの領域が重視され、ジャーナリズムでの報酬は専門職、論説、署名記事、経営などに手厚いとされている。一般ニュースは今の日本では「共同通信」とかいう配信者まかせで、それを買うことで済ませ(特に海外ニュ−ス)、新聞各社では最小限の取材しかしていないそうだ。

新聞記者はそれほど多くはないし、あらゆる人間や場所に目を光らせているわけではない。はっきりとした既成事実となる段階に来たとき初めて無数の事実からはなれてニュースとして独立する。事件が眼に触れやすい場所でステレオタイプ化された形を取るときニュースが成立する。それには記録映画・映像といった技術の裏づけが最も効果がある。生のニュースに接する機会は意外と少ない。データは加工されて出てくる。企業や政府機関、政党の組織には広報担当者がおり、現代社会では諸事実が自然のままで報道されることは滅多にない。広報者は宣伝者でもあり、一定の目的をもって情報を提供する。政府機関の「その筋」は漏出という形で情報源は隠匿したままで、宣伝すべき政策情報を新聞社にリークする。新聞紙の資源は限られているので、素材がある程度形を取り、ステレオタイプ化すると一気にニュース価値は上がる。新聞社の経済的要請(リスクも含めて)も考慮しなければ記事とはならない。ベテランの編集者は報告を処理し、報告を選択し記事を紙面に埋め込む。読者に届けられる新聞は一通りの選択がすべて終わった結果である。注意をひきつける見出し、題字、そして読者の感情を呼びさます表現、個人的に一体感を覚えるように仕向けることが必要である。ステレオタイプに訴えるのが一番有効である。論説はそれを強化する。ニュースと真実は同一物ではなくはっきり区別されなければならない。ニュースの働きにひとつは事件の存在を合図することである。そこに隠された諸事実に光を当て相互に関連付け、人々がそれを拠りどころとして行動できるような現実の姿を生き生きと描き出すことである。ここまでいうと新聞はひとつの情報機関の役割を担っている。新聞は直接民主主義にひとつの機関とみなされよう。「世論」という法廷が毎日瞬時に断罪をすることが出来るだろうか。少なくとも現代社会におけるニュースの質は、現代の社会組織をあらわす指標にはなっている。

民主主義は大衆に無限の能力があると云う仮定で始まったのであるが、国家の勃興期には政治を運営し、産業の管理を助けるために法律家を大量生産した。しかし法律家だけでは多様化する大衆社会についてゆけず、社会は様々な分野でものすごい勢いで成長し、技術知識の応用による多くのテクノクラートを必要とした。特に産業社会において専門家の手助けが広範囲に必要であった。実務家は社会科学者の見識の広さは分かっていたが、その確実性の低さにうんざりしていた。社会科学者は実務家のために諸事実を準備する人間となり、悪い意味でのアカデミックになった。物象を扱う社会科学者である統計学者、会計士などの専門家は重宝され、市民と個人が取り囲まれている広大な環境の間に立って何らの専門的存在の媒介が必要とされている。民主主義理論では登場しない支配的な階層が現実には成長してきた。それほど多くの利害や機能を代表する様々な手法が必要となった。専門家は情報を意志決定を行う側に送る。専門家といえど権力を持ちたがるものである。要するに官僚制が蔓延ることになる。官僚は情報を都合よく選択して提供し、そして政策決定者に成り上がるのである。これを制度的に防ぐには調査する側と実行する側を出来る限り分離することしかないがこれは難しい。特に日本の官僚制には期待すべくも無いが、情報部職員は所属する議会関係者と省庁責任者から独立していなければならない。おもに資金・任命・事実のアクセスする権利が独立していなければならない。今の日本で考えると、原発保安院は経産省や議会委員会から独立し、情報への独自アクセスが保証され、判断する能力がなければならない。情報センターの設立も考えなければならない。内閣府にそれを設置することが必要だが、省益誘導の縦割り出向官僚に支配されている現状では期待すべくもない。民主党内閣の内閣参与ではあまりに力がなく、大統領補佐官もひとつの回答であろうが、首相自体に政策決定権限がないのでそれも期待薄である。


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