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斉藤貴男著 「東京を弄んだ男ー空疎な小皇帝石原慎太郎」

 講談社文庫 (2011年3月)

傍若無人な弱者切り捨てと差別、軍国主義発言を許し四選を果たさせた東京都民に訴える

新聞に明らかにされた暴言の数々を見るにつれ、石原慎太郎とはなんていやな奴なんだろうという思いが積み重なってもう20年以上になる。若い時は傲慢な青年、今では老醜の襲う口汚い老人にしか見えない。世界で一番醜悪な奴といえば、北朝鮮の独裁者金正日と東京都知事石原慎太郎であると云う観がする(もっともこの二人は正反対の陣営にいるが・・・)。 本書の副題である「空疎な小皇帝」という言葉は、傲慢不遜な独裁者、裸の王様のような右翼軍国主義者をイメージさせるものであろう。「天上天下 唯我独尊」といったお釈迦様の幼年期のようなわがままさ、かわいさとはちょっと違う。大衆煽動者といえばヒットラーが対極に立つが、かなり近いがそれほどカリスマ性と政治能力はない。とくに石原慎太郎の政治能力はゼロに等しい。勤勉さは全く無く、都庁に来て執務するのは週に2,3回でしかも1日数時間しか坐っていない、すぐに出てゆくのである。出て行く先は自分の事務所かスポーツジムである(最近は年のせいでスポーツはできないだろうが)。政治は腹心任せで、行政は官僚任せである。腹心がスクリーニングした案件しか見ないし判断をしない。石原慎太郎という存在の本質は後に明らかにするとして、こういう都知事を4選(1999年、2003年、2007年、2011年)する東京都民の存在もまた非常に問題である。鹿児島県阿久根町長、名古屋市長というあくの強いポピュリズム専権主義者はまだ地方の問題に過ぎなかった。しかし石原東京都知事はいたずらに国政に関する政治的発言(暴言)が多すぎるのである。彼に軍国主義的・差別主義的発言をさせて溜飲を下げてきた自民党と政府関係者の背景がある。世論を右のほうへ誘導する財界自民党保守勢力の対メディア戦略の一環線上に暴君石原がいる。

石原慎太郎を支えてきたのが東京都民である。したがって東京都民も共犯関係にある。東京都民は投票率は低いが(反石原勢力がいやけをさして闘争を放棄したためであろうが)、なぜこうも石原を圧倒的に支持するのだろうか。それはおそらく都市・地方格差の恩恵を蒙ってきたからであろう。東京は便利で豊かで(東京に日本の企業の本社が集中し税収入が桁違いに大きい)、財政的に恵まれ都市環境インフラ投資が抜群に大きい。結局東京都民は地方から出てきたものの集合体でその恩恵は実に偉大なものに感じているのだろう。地方から人・企業を集め、格差の頂点に立つのが大都市・首都東京である。この権益を守りたいと願う保守的な都民が多数を占めているが、地方の怨嗟は東日本大震災と福島第1原発事故によって爆発している。福島は東京のための電力を送って都民は利益を得ているが、福島は原発事故という大惨事を受けたに過ぎない。この事故で東北地方はさらに過疎化が進み、東京と首都圏へ人と金が移動している。東京は地方を支援する(養う)義務があるのではないかという考えもある。石原慎太郎という存在を、政治的には新自由主義(小泉首相の構造改革)による弱者切り捨てと軍国主義化(安倍首相の美しい日本、アンシャンレジームを通り越して戦前復帰志向)の潮流の中でとらえ、かつ社会的には都市と地方格差拡大の流れで説明できるのではないだろうかというのが本書の問いかけである。そのためにあえて醜い者をしばらく俎上に載せる不愉快さを忍んでほしい。私もこんな男の事を書くのは気が進まない。本書は石原慎太郎の「暴言集」(暴言語録)といいてもいい。本書のいきさつは、月刊誌「世界」(岩波書店)の2002年7月号から2003年1月号にかけて連載された「空疎な小皇帝ー検証石原慎太郎という問題」と、同誌2000年11月号に掲載された「ルポ・防災スペクタクルの1日ー検証東京ビッグレスキュウ東京2000」を併せて編集し、単行本として岩波書店より2003年に刊行された「空疎な小皇帝石原慎太郎という問題」が初本である。2006年にちくま文庫にはいり、2011年3月講談社文庫にはいった。したがって本書の内容は2003年の石原都政2期目誕生までである。都知事選が行なわれるたびに版元をかえて出版され、序章にまた暴言集が追加されている。石原都知事が存在するかぎり本書は存在意義を持つようだ。

講談社文庫版の序章より本書の意義を述べよう。2010年12月「改正東京都青少年健全育成条例」が制定されて、青少年に有害な性描写や近親相姦を扱った漫画は成人向けコーナーに置くよう努力義務を課し、そうでない場合には都が「区分販売」を強制するというもので30万円の罰則がついている。都はこれを「表現規制」ではなく「販売規制」であるという。この直後2つの自主規制が出た。一つは2011年2月の西武百貨店渋谷店での「デパートdeサブカル」の会期中の突然の打ち切り、2つは「ヴィレッジ・ヴァンガード」からアダルト系グッズの撤廃である。絶妙のタイミングで起きた2つの事件の意味を軽視できない。当事者は「顧客のクレームが契機」であるというが、その筋の意向が紛々とする。「あけっぴろげのアメリカ、貞淑な日本」という構図に拘る保守層のクレームには表現規制へ民衆を動員する狙いがあるようだ。この問題には更に背景がある。警視庁が、「児童買春・児童ポルノ処罰法」改正問題が2009年の国会で廃案になったため、「江戸の仇を長崎で」といわんばかりに東京都の条例で、架空のキャラクターである漫画分野に規制を強めようとした。石原都知事は警察官僚を多く都庁に向い入れ、「青少年・治安対策本部」という変なセクションを作った。条例は2010年6月に都議会で否決されたが、対策本部は民主党都議員の説得に動いて12月には再度提案して可決した。この元警察官僚である倉田本部長は2004年鹿児島県選挙違反でっち上げ事件「志布志事件」にも関係した県警本部長である。2003年に竹花元広島県警察本部長を都庁に招いたのも石原知事であった。
石原都知事は条例の改正に絡んで次のような暴言を吐いている。
暴言@ 「エロ漫画家は芸術家かどうかは知らんが、卑しい仕事をしている。あの変態をよしとする人間を相手にする商売だ」
暴言A 「同性愛者がテレビに出すぎている。どこか(頭が)足りない。それは遺伝のせいか、マイノリティで気の毒でもあるが」
暴言B 知事も昔有害とされた性風俗を書いたじゃありませんかという記者の質問に答えて、「何い、ものを較べてみろよ。それがわからなきゃバカだよ、お前」

ここで石原慎太郎の大衆小説家としてのデビュー作「太陽の季節」は当時の性風俗を紊乱する表現で一躍有名になり芥川賞を受賞した。のち「処刑の部屋」、「狂った果実」、「完全な遊戯」といった作品は映画化され、弟石原裕次郎主演日活映画「太陽族映画」として、「湘南族」という悪お坊ちゃまの性遊戯とスポーツ感覚が一体化されて人気を博した。その作者が転向し今では堅気になって警視庁推薦の性道徳の提灯持ちになっている。これを愚民政策といわずしてなんといおうか。自分の「性紊乱者」としての過去は無い事にして、他人を許さないこの独善さはどこから来たのだろうか。2010年4月18日「東京新聞」には、永住外国人への参政権付与をめぐる有名な帰化人発言がある。
暴言C 「このなかに帰化された人、そのお子さんはいますか。与党(民主党政権のこと)を形成する政党の党首には調べてみると帰化人が多い。」
暴言D 「インターネットを見ると国会の中には帰化人とその子孫は多い」
暴言E 「日韓併合は韓国側が選択したもので強制ではない。永住外国人は朝鮮系や中国系に人がほとんどである。その人に参政権を与えるのはどうかな」
直ちに社民党の福島党首が発言の撤回を求めたが、石原都知事はどこまでも無責任に答えようとはしなかった。石原都知事は1999年以来3期12年間都知事の地位にあり、さらに4期目に入った。4期を無事終えると石原氏は83歳となる。鈴木俊一前都知事も4期16年85歳で引退した。石原氏もこの辺で終わりだとしても16年間あの暴言を聞かされる我々の不愉快さも限界である。

石原都政といっても石原氏が行政をやったわけではないが(彼にはそんな才能は無いので)、政治的暴言を吐くだけの保守本流の「操り人形」だったとしても、その負の遺産は大きい。最大の失政は次の3点である。
@「新銀行東京」負債破綻:石原氏の公約に基づいて2004年中小企業対策融資が始まったが、3年間で1000億円の累積赤字を抱え破綻した。400億円の東京都追加出資で再建中であるが、展望は無い。一人前の銀行としての業績を上げるための甘い融資条件を逆用されて焦げ付いたのである。銀行にせず中小企業局の融資事業に留めておけば被害は少なかった。
A築地市場移転問題:東京ガス工場跡地への築地市場移転問題は土壌汚染が発覚し暗礁に乗り上げたままである。これには築地市場跡地を巡る大規模開発利権と深く結びついている。「日本プロジェクト産業協議会JAPIC」は大規模土地開発を提案していた。いわば築地市場老朽化を理由とした東京の一等地再開発プロジェクトを企む建設業界鉄鋼業界などの悲願でもあった。
B2016東京オリンピック招致運動:北京オリンピックがあったばかりで、アジアに開催地が巡ってくることはないことは我々でも推測できることであった。リオに決まったわkであるが、その招致にかかった経費が予算50億円に対して150億円である。築地市場移転問題とも絡んでいた。そこにオリンピックメデイアセンターを建設するつもりであったようだ。石原氏の東京オリンピック招致の目的は第1に建設業のため、第2に「国威発揚」である。ここでもまた暴言があった。
暴言F 「勝つ高揚感を一番感じるのはスポーツじゃなくて戦争だ。北朝鮮のノドンが一発日本に落ちれば、日本人は目が覚める」
暴言G 「高校を卒業したら、韓国のように1、2年自衛隊か警察か消防に入る義務を課すべきだ。我欲の時代だからこそ軍隊経験で修練を」

公費を利用した贅沢三昧、豪華ファミリー海外旅行、画家と称する4男への利益誘導などスキャンダルも耐えない。これほど不誠実な男を首都東京の知事に選んでいる事実だけでも、東京都民は世界に恥じなければならない。石原都知事の嫌悪の矛先は、高齢の女性、フリーター、ニート、障害者、在日コリアン、被差別部落出身者、同性愛者などの社会のマイノリティに向かう。より弱い者への差別が露骨に表現され、メディアや都民は喝采をするのだろう。自分より劣等な人間がいる事に安心し、石原氏と同じ立場にたっていると信じているようだ。理不尽な時代に、それでも生きてゆく人々がどうしてあんな奴に貶められるのか。こういう差別感情に訴えるやり方はファシズムであり、これは許せない。石原都政になってから障害者健康学園(各区の擁護学園が房総や伊豆の海岸に設置した全寮制の学校)が次々と廃止された。美濃部亮吉知事時代に作った20区の健康学園は豊島区竹岡健康学園を除いてすべて廃止された。経費節減に名を借りた恐るべき障害者迫害である。これは石原氏の暴言ではないが、健康学園廃止交渉における中野区教育委員会の暴言を引いておこう。
暴言H 「お宅らの子供には年間1000万円もかかっているのですぞ」

本書が2006年ちくま文庫に入った文庫本の追記に、蛇足のような石原都政の罪状が述べられているので紹介しておく。時期は2003−2006年の事である。石原都政の酷薄さ、日本社会に及ぼす影響になお一層の勢いがついてきている。差別を政治的に表現しただけの石原氏の言動を支持し続ける東京都民の心情はあまりに異状である。飼いならされた犬が番犬に変わっているようだ。そういう意味で扇情者としての石原タレント知事の演出は、保守本流のおめがねにかなっているようである。政治的に発言する必要のない地方の知事がなぜもかくまで政治的ショーを演じるか、それは保守本流の再軍備の露払いであるからだ。自民党政府としてはいえない反動的なことを、いともあっけらかんに発言して溜飲を下げるのが彼の役割である。2006年3月中村都教育委員長は、卒業式での「君が代」斉唱で生徒が起立しなかったときには教師の責任を問う(罰する)と都議会で答弁をした。2003年10月23日都教育委員会は「国旗掲揚・国歌斉唱実施通達」を出していた。石原氏が都知事に就任して以来、東京都の「日の丸」、「君が代」の強制に向けた取り組みは全国でも異様であった。中村教育委員長の質疑において、共産党都義の質問に都知事の答えが要領を得ないので追及されると石原都知事は次の暴言を吐いた。知性も教養もない恫喝の言葉をなげたのである。「頭に血が上ると何を言い出すかわからない」と友人は説明している。
暴言I 「答えているんだ。黙って聞け、このやろう、失礼じゃないか貴様」

2005年7月の都議会選挙で民主党(35議席)が躍進したといえども、自民党(48議席)と公明党(23議席)の与党体制は揺るぎはしなかった。都知事翼賛体制は安泰であった。「日の丸・君が代」強制の先鋒は実は民主党の土屋議員である。都議会には全員与党のような大連合が成立しており、国政における民主党のいうこととの格差が大きい。2006年2月三宅島帰島1周年の集いで、三宅島の長谷川村長が助役を都からの派遣を要請したが、村議会が否決したことに根を持った石原都知事の暴言をテープから再現した。チンピラヤクザの捨てゼリフと思われるが、これはれっきとした石原東京都知事のお言葉です。これは新聞には掲載されていない。三宅島にはこの問題以外にもっと重要な難問があり、米軍の夜間発着訓練NLP誘致巡る確執があり、さらに三宅島に知事のスポーツ趣味からくるオートバイレース誘致が進まない経緯などが絡んで、石原氏は怨み骨髄の三宅島島民を罵倒したものであろうか。
暴言J 「村議会のバカドモが否決したんだろ。お前ら東京の顔をつぶしたな。そのうち酷いめにあわせてやる。憶えてろよ、このやろう」
最後に2016東京オリンピック招致に関して、東京都内の各市町村は次々と賛成決議をしていたが、横田基地をかかえる瑞穂町議会は招致反対決議をした。石原都知事は横田基地をオリンピック輸送手段としたいといっていたので、これ以上の横田基地機能拡大を恐れる町議会は招致に反対した。これに対して石原都知事は恫喝と罵倒の暴言を吐いた。石原都知事にとって逆らうものはすべて「頭がおかしい」とか「ばかもの」呼ばわりされる。なにもかも自分の思うようにならないと、恫喝と脅迫の露骨な圧力を加える人間を知事に選んでいる東京都民はどうなのでしょうかね。
暴言K 「頭がどうかしているんじゃないのか。三多摩で2013年国体があるときに、ほえ面かかないようにしたほうがいいよ」

1) 嫌悪・差別の支配者

石原慎太郎氏は1968年、3派全学連の米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争を指して、「現代という状況にあっては、嫌悪こそが唯一人間自身にとっての情念操作である。自らの純粋に個的な嫌悪を意識化し、それをも時代の心情として捉えなおしたとき、それをひとつの意思として表現しつくすために、現代の社会力学の中で政治という手段を選ぶ気になった。」と述べた。つまり彼自身の嫌悪感情を率直に表現するために政治家を志したということだ。人の心の中にあやふやでもやもやした感情が滞っている現代(閉塞した現代)においてこそ、その嫌悪感を爆発させることが現状を打ち破る政治だというわけである。秋葉原事件も政治であると云う勘定となる。大衆が嫌悪する対象を叩き壊すことを目的に政治家になった石原氏が、太陽の季節シリーズでこの時代の寵児になっていったことはある意味では自然の成り行きである。大衆の不満や欲望を代表するかぎりにおいてであるが、彼が政治家として時代の英雄として振舞われると、多くの人にとってはえらい迷惑となる。果たしてこれが指導者としてふさわしいポーズなのだろうか。石原氏の側近である浜崎副知事(2002年その専横ぶりが自民党と利害が衝突し更迭された)は石原氏が衆議院議員になった1972年公設秘書となり、以来石原氏の黒子として活躍してきたが、1999年石原氏が都知事となった時特別秘書となり、翌年副知事となった。片腕というより綱吉の側用人柳沢吉保的に都政を専横した。浜崎副知事には数々のチンピラまがいの暴力事件(中目黒事件、日経新聞記者、選挙参謀暴行事件)が跡を断たない。暴力をむしろ積極的に活用し、選挙対立候補者や嫌な事を記事にする新聞記者を脅したりすることが石原流なら、従来の自民党政治と変るところは無い。利権がらみの黒い噂も絶えない。2002年都は秋葉原「ITセンター」コンペを実施したが、鹿島・NTTを中心とする「UDXグループ」が競争相手もなく落札したことの裏に石原氏との間の取引が噂される。

旧い話であるが、1982年総選挙候補者新井将敬氏(98年証券スキャンダルで自殺)の選挙ポスターに、石原氏の秘書(鹿島建設出向者)が「S41年北朝鮮より帰化」という誹謗するシールを貼る事件があった。誰かが新井氏の除籍原本をとったらしい。このときには北も南もない「朝鮮籍」であるのに、わざわざ「北」をつけるいやらしさと、除籍原本は他人が入手できるわけは無い。裏の手を使ったようだ。これが石原流の汚い手である。新井氏はこの秘書を告訴したが、多くのメディアは報道しなかった。そして有名な「三国人」発言が、2000年4月陸上自衛隊の式典での挨拶となった。
暴言L 「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もし大きな災害が起ったときには、大きな騒乱事件ですら想定される。」
2011年3月11日の東日本大震災時には、そんなバカなうわさが飛ぶことも無く終ったのは、日本人が歴史の教訓を学んでいたからである。石原氏のような右翼が噂を広める隙を見せなかった大衆こそ立派であった。この記事を書いた共同通信の記者は都庁記者クラブを追われた。2001年3月国連の人権差別撤廃委員会が日本政府に「公職に就く高官による人種差別発言を放置する懸念」が表明されたが、日本で新聞や政府の反応は無かった。この国の新聞などはメデイア精神を失っている。大政翼賛会に堕している。「三国人」という言葉は、先の大戦で日本に住む韓国人や台湾人を称して戦勝国でも敗戦国でもないとした言い方。戦勝国はアメリカと連合国、敗戦国は日本であるが、日本は韓国や台湾に負けたわけでは無いという負け犬日本の口惜しみの表現であるが、それが韓国人や中国人に対する蔑視につながり、日本人の優越感を辛うじて支えたようだ。戦後のドサクサに生まれた言葉で石原氏の意味では「当事者でないくせに大きな面をするな」といことらしい。近年の6カ国協議における北朝鮮がアメリカのみを相手し、他の3カ国を無視しようという態度につながっている。目くそ鼻くそのたぐいの強がりである。目くそ鼻くその争いが、弱い人間がより弱い人間をバカにしようとする差別感情となり、格差の本当の原因に立ち向かう力を弱める効果があり、支配者のほうへ眼が向かないようにするため、支配者層は必ずこの目くそ鼻くその争いを仕掛けるものである。

石原慎太郎都知事は権力をバックにメディアに露出し,反論の機会がない他者に対して個人的な嫌悪感を根拠もなくひろめることで、大衆の社会的偏見を助長し、本来助け合うべき社会層の分裂を企てている。その典型が女性高齢者差別発言である。2001年11月女性週刊誌のインタビューや「少子社会と東京の福祉」会議において「ババアが生きているのは悪しき弊害」という恐るべき差別発言を行なった。この発言は宇宙物理学者松井孝典東大教授のテレビ対談で聞いたとしているが、ビデオを取り寄せると松井教授は「東京の窓」で次のような話をしていた。「現在の人類が持っている脳の中の生物学的特徴かもしれない。ひとつはおばあさん仮説というもので、生殖年齢を過ぎたメスが長く生きることです。これが人口増加をもたらす。おばあさんの経験が生かされて次世代の出産が安全になり、生まれた子の世話をしてくれるので、次の出産までの期間も短くなる。これが人口増加をもたらしたのです」という内容であった。どこにも否定的な感じは無いのだが、石原氏にかかるとその因果関係の話はせずに、むき出しの嫌悪感でババアは悪い存在となるようだ。
暴言M 「文明のもたらした最も悪しき有害な者はババアなんだって。女性が生殖能力を失っても生きるってのは、無駄で罪なんだ。そんな人間がきんさん、ぎんさんの年まで生きるってのは地球にとって非常に悪しき弊害だってさ」
なんか馬鹿馬鹿しいほどの曲解で、何も石原氏の悪趣味を聞きたいわけではない。科学的根拠があるわけでもない女性差別発言に対して、小金井市議会は知事に反省を求めた決議を行なった。都庁労働組合、自由法曹段東京支部、国際婦人連絡会が抗議声明を出した。石原氏にはこの種の差別発言が多すぎる。1999年重度障害者施設を視察した直後の記者会見でつぎの「暴言」を吐いた。
暴言N 「ああいう人ってのは人格があるのかね。つまり意思もっていないんだから」

石原氏にとって美濃部都知事の政策は100%気に入らないらしく、財政再建を理由に身体障害者健康学園の廃止、2001年末に女性財団の廃止を決めた。2000年の「男女平等参画条例のための審議会」に女性協議会メンバーを排除した。小泉首相の構造改革は、安い女性労働力の増加を狙って「共同参画社会」をいうが、女性協議会は同一労働同一賃金の「平等参画」を主張していたからだ。かくも小泉政権と石原都政の弱者切り捨て政策は歩調を合わせ、かつ政治的にはブッシュ大統領の9.11事件後の戦争体制の援護を受けて、新自由主義によるむき出しの財界エゴ(規制緩和)を押し進めた。都の福祉政策は弱者切捨て以外の何物でもなかった。シルバーパスの廃止、老人医療費助成の廃止、心身障害者医療助成の本人負担、公立保育園の民営化、入所型福祉施設22施設の廃止縮小、都立母子保健院の廃止などかぎりがない。2001年前川福祉局長が幹部講話でこういった。「こうしてくれとか補助が減ったとかぬけぬけいう人がいるが、こういう意識を払拭するのが東京都の福祉政策である。補助が減ったからけしからんというだけの人は消えてほしい。自分で応分の負担をし、誇りを持って生きられる世界を作りたい」 これは貧しさの原因を努力の不足と決め付けて知らん振りをする小泉改革に共通する発想であり、福祉政策とは住民や障害者のためにあるのではなく、民営業者の事業開発のためにあると云う精神である。福祉も金儲けの対象であるというのだ。

2) 北朝鮮拉致問題・台湾問題における無節操なタカ派

石原氏と同じ自民党タカ派集団「青嵐会」の「同志」であった中山正暉衆議院議員が、2002年5月に石原氏を相手取って謝罪広告請求訴訟を起こした。青嵐会は1973年中川一郎氏を代表として31人で結成された。自民党の中で中山氏は江藤亀井派の長老であり、中曽根元首相がバックについている。石原氏も江藤亀井派と仲が良く、おなじ派閥仲間でかつ青嵐会の「同志」がどうして喧嘩となったのか。中山氏によると「石原慎太郎というのは虚飾の輩、安物のヒットラーです。空っぽなのだが危険な男だ。同じタカ派と呼ばれたが、私は戦争だけはいかんと思う。彼は違う」という。発端は北朝鮮の日本人拉致問題にあった。中山氏は1997年「北朝鮮拉致疑惑日本人議員連盟」および「日朝友好議員連盟」の会長で、過去8回平壌を訪れて交渉に当たってきた。こうして2002年になると今まで疑惑に過ぎなかった日本人拉致問題を認めさせ、9月17日小泉首相と金正日総書記が「日朝平壌宣言」に署名をし両国の国交正常化に向けた原則が合意された。拉致問題は金総書記が謝罪し10月には5名の生存者が帰国した。中山氏のスタンスは「北を追い詰めても決着のさせようがない。証拠隠滅されたら何にもならない。特殊部隊を作って連れ帰るなんて映画の世界に過ぎない。様々な知恵を使かわないといけない」というもので交渉役の政治家として当然だと思われる。2002年4月8日の産経新聞のコラムで中山氏を攻撃した。「欧州で拉致された有本さんの家族に対して中山氏はこともあろうか、これは日本人による日本人の拉致であって北朝鮮政府は関係ないと電話したそうだ。これは有本さんの家族への恫喝か、北朝鮮政府へのへつらいか」と述べた。中山氏はこの報道に激怒した。事実を意図的に曲解し、過去の中山氏や訪朝団の努力を貶めるものであったと断言する。はかばかしく進展しない政府間交渉を貶め、一気に戦争やむなしの雰囲気を盛り上げようとする危険な男石原慎太郎に危機感を抱いたのだ。この記事を契機に右翼街宣車が中山氏の自宅を襲い罵詈雑言、油のしみこんだ布を投げ込み、殺すと書いた書を投げ込んだりしたため、夫人は倒れこんだ。中山氏の弁は「私は小渕首相と野中官房長官に頼まれ交渉役を引き受けた。そもそも石原氏は北朝鮮との国交交渉でも拉致問題でも何か行動したことがあるのか。日本よと愛国者ぶっているが、国を滅ぼすのはいつも自称愛国者だ」という。

中山氏は石原氏に連絡を取ろうとしたが果たせず、国会で参考人に呼ばれた石原氏を廊下で捕まえて抗議したという。これを機に中山氏は拉致問題から手を引いた。議連の会長を辞め、議員連盟も解散した。こうして新議員連盟は石破、安倍、平山氏の手に渡り右翼的傾向で再開される、何かが変わったのだ。交渉して解決するのではなく、解決しなくてもいいのだ、緊張状態を作って日本を変えてゆくことが目的となった。拉致問題をるようしている勢力が存在する。そのためには石原慎太郎氏のような存在を祭り挙げておくことが必要で、逆に穏健派、実務派で解決してもらっては困るのだという意味になる。拉致家族の会の方針も急に攻撃路線になり、北の制裁を声高に叫ぶのである。北にいる拉致被害者が抹殺される危険性を犯してまで北を刺戟する。こうして彼らの対北朝鮮強硬姿勢は、憎悪を煽り立て、長引く不況と経済危機で雇用不安をきたしている大衆の閉塞感に訴えて次第に支持を広げてゆくのである。戦争をしてもいいから戦争すべきだという世論まで単純化され燃え上がった。しかし戦争にはならなかった。危いところで日本の大衆の理性が抑制した。

杉並区久我山に東京都太田記念館という中国人留学生の施設がある。孫文氏をはじめ中国革命の理解者で朝日新聞記者であった太田宇之助氏は戦前戦後を通じ「中国留学生の父」と慕われた。彼の遺志により、日中友好のために当時30億円相当の土地を東京都に寄贈した。鈴木俊一東京都知事が美濃部都政の遺産である「北京市との友好都市交流事業」に沿って北京留学生のための会館を建設した。総工費7億円で、会館の維持は(財)アジア学生文化会館に委託された。2001年度までは北京市長の推薦による留学生290人を受け入れてきたが、このほど入居条件を大幅に緩和し中国人以外の留学生も受け入れることになった。故人の遺志は今は問うべくも無いが、このような変更をかってにやっていいものかどうか疑われる。1990年に石原氏は[playboy]のインタビューで「南京大虐殺は中国の作り話」と発言し、中国嫌いをあらわにした。石原都政になってから、北京市との職員の相互派遣事業消滅し、この会館の運営が懸念され始めた。2000年石原氏は「アジア大都市ネットワーク21」構想がだされ、その流れの中で2001年2月太田記念会館運営規則が変更され、「北京市」を「アジア諸都市」と変更された。石原慎太郎氏は共産中国を罵倒し続けた。都知事に就任して以来彼の発言は中国人を憤慨し続けている。
暴言O 「支那は6つの国に分割すべきだ。台湾もそのひとつだ」(なお支那という差別用語を未だに使用しているとは国際感覚がない)
暴言P 「日本はこのまま行くと中国に吸収されてチベットみたいになるかもしれない」
石原氏は共産中国を罵倒する一方、当然なことだが台湾への親愛を強調する。李登輝総統や馬英九台北市長との友好に努めた。石原氏は公人として、1972年の日中共同声明、1978年の日中平和友好条約を原則として掲げる日本政府の立場は無視した。石原氏は第2世代の親台派に属し、アジア主義的な思想が強い。第1世代は日米安保同盟における反共の砦としての台湾を捉えるが、第2世代はアジア主義という価値観における日本の位置付け(戦前の大東亜共栄圏の植民地主義の匂いも濃厚だが)で台湾を支持するのだろう。

3) 東京を舞台にした戦争スペクタクル

石原氏は1995年に一度は政界を引退した。1999年に東京都知事になると同時に人格が変わったように、差別発言や政治的暴言を吐くようになった。明確に戦争への道を模索しているのである。彼に新たな任務が与えられて発奮しているようである。石原氏はかねてから陸海空の「3軍」を使った災害時の合同演習をやりたいと、当時の小渕首相を持ち上げてこういう馬鹿な事を言っている。
暴言Q 「総司令官は小渕首相だ。わたしは203高地で苦戦する乃木大将みたいなもんだんね。この計画は中曽根元首相のアイデアなんだが、いただきだね」
自衛隊は独自に計画を立てており、2000年9月に「東京都総合防災訓練(ビッグレスキュー東京2000)」として実現する。自治体と自衛隊は決して対等ではなく、自衛隊が東京都を指導する関係が明確であった。日米安保と国内の防災システムの結合を目指した。なぜ石原氏はこうも軍隊が好きなのかと言うことはよく分からないが、彼の経歴から考えてみよう。父石原潔氏は宇和島出身で同郷を頼って山下汽船に入社した。同じ愛媛出身の秋山中将に近づいた山下亀次郎氏は日露戦争が近い事を知り、船舶を購入し、海軍の御用船として大儲けしたという。山下氏は儲けは社員に配分するという考えで石原潔氏の生活も裕福であった。慎太郎氏は1937年神戸で生まれ、日中戦争の時は小樽の支店長として赴任した。慎太郎、裕次郎らの息子達には何不自由ない生活が保証された。したがって戦争中の悲惨な生活は石原兄弟には無縁だったようだ。石原氏は199年8月漫画家小林氏との対談で、「選ばれた人間なんだという自覚があれば、誰でも何をやってもいいんだと思いこむことが大事」、「僕の体には日本があるという一体感です」と語っている。なんという傲慢さ、錯覚であろう。石原氏となぜか親友だったという報道写真家石川文洋氏(戦争の悲惨さを訴えるためには世界の果てまで飛ぶ男で、この話で石川氏と石原氏の姿勢は全く関係ないことを断っておかないと石川氏を貶めることになる)と同じ報道陣でベトナム戦争の米軍側にいたことがあるという。ベトコンを狙った砲撃の紐に手をかけた石原氏を石川氏は止めたという。ベトコン側にいた朝日新聞記者本田勝一氏は石原氏を非難して、「時間と場所がすこしずれていたら、石原氏の撃った砲弾は私のいた村に飛んできたかもしれない」という。石原氏は米軍の保護下でのベトナム戦争しか知らない。ベトナム戦争にはベトコン側もいたことは知らないのだろうか。

2000年9月3日史上最大規模の東京都総合防災訓練が実施された。陸海空の自衛隊員7000人、警視庁警察官3000人、地域消防団員やボランティア2万5000人が参加した。航空機120機、艦船22艘が投入された。かかった費用は3億円であった。白髯西会場では空き家を使った救助訓練、江戸川区篠崎会場では架橋訓練、木場会場では自衛隊集結訓練、駒沢会場では被災者への給水給食入浴衛生支援などが行なわれた。この計画のグランドデザイナーは東京都特別参与の自衛隊出身者の志方帝京大学教授である。彼が中曽根元首相に相談し石原知事に計画を売り込んだとされている。銀座の古くからの防災組織「京橋三之部連合町会」や、「東京防災ボランティアネットワーク」などは、絶対に行政の下請けにはならないと自前の計画で臨んだという。同日港区芝公園で「多民族共生社会の防災を考える9.3集会」が開かれ、辛淑玉さんは「石原氏は三国人発言を撤回していない。私は石原知事を許さない。最後の1人なっても闘い続ける」と宣言した。東京都職員組合は申し入れ書を知事に提出し、「組合としては自衛隊主導の訓練に反対する。」といったが、途中で腰砕けとなった。災害と自衛隊というと「関東大震災と朝鮮人虐殺」が連想される。このとき暴言Lの「三国人」発言が飛び出し、おなじ文脈で次の暴言も記録されている。自衛隊の治安維持出動要請につながりかねない恐ろしい発言である。
暴言R 「自衛隊の皆さんには、災害だけでなく、治安維持も目的として遂行してもらいたい」
石原氏の独裁を大衆が支える構図は、閉塞状態が続いて英雄待望論に流れる日本社会で支配欲むき出しの強権を行使することに躊躇せず、他者の生にたいして限りなく無関心で差別主義者の石原氏の言語魔術で、大衆の最も愚かな部分を癒し刺戟して思考停止に陥っているのである。

4) 私物化される東京

2002年7月9日、「東洋のガラパゴス」と称される小笠原諸島の大自然を守るために、東京都は「島しょ地域における自然の保護と適正な利用に関する要綱」にもとづき、一部地域の立ち入り制限やガイド同伴などをもとめた協定書に、石原都知事と宮澤小笠原村長が署名した。ところがこの協定を知らされてない村議5人(全員8人中)が欠席し、村議会の総務会は反対意見書を採択した。要するに住民の意見をまともに聞かずに、都と村長がかってに協定を結んだから反対ということらしい。それまでは自主ルールで運用してきたのである。協定締結の背後には、都側が独裁者の美しき思いをありがたく受け入れる村民というファッシズムのストーリーを実現したかったのだ。古くからの村民にとって石原慎太郎氏は年来の仇敵の関係だった。1968年米軍から小笠原が返還されて以来「小笠原空港」の開設は村民の「悲願」だったそうだ。石原氏はこの島嶼部を選挙くとしているので、石原氏に空港建設を陳情してきた。石原衆議院議員はこの陳情を何時までも実現しなかった(できなかった)。1988年鈴木都知事時代に父島を候補地とする空港建設計画が持ち上がった。当時の運輸大臣は石原氏であったので、島民の期待は盛り上がったが、財源を確保できない石原大臣への失望も大きかった。そこで村民は小沢一郎幹事長と二階敏博運輸政務次官へ鞍替えして、ようやく話が転がりだした。1998年には父島の用地も確定し、2002年度中の着工予定となった。しかしその頃のITバブル崩壊により計画は挫折した。空港建設に熱心でなかった石原氏は,2001年空港建設の白紙撤回を発表し、超高速船TSLの2004年度小笠原航路に変わった。たしかに、財政再建の東京都にとって空港建設の700億円は大きい。そういう意味で飛行機の便利さを犠牲にする法が賢明ともいえた。(新銀行東京の1000億円の焦げ付きと400億円の追加融資、250億円のオリンピック誘致資金、木場魚市場予定地の土壌汚染物処理費数百億円などに較べるとどうか)石原都知事にとって小笠原は人々が暮らす生活の場ではないらしい。彼自身のマリンスポーツのために存在すればいいのであろうか。

石原都政になって猛威を振るったのが、教育界の「国旗掲揚・国歌斉唱」強要問題であった。2002年世田谷区公立小学校の教員の転任命令が不当処分にあたるとして、東京地裁に取り消しを求める裁判が起こされた。問題ははたして「国旗掲揚・国歌斉唱」に係っていた。おりしも「国立の教育改革」と称する国立市教育委員会による教職員組合つぶしの一環として本事件が発生した。1999年5月生活者ネットワークの推薦を受け、社民共産の支持を得た上原公子氏が国立市長に当選した。上原市長が推薦した教育長人事は議会に受け入れられず、都教育委員会から石井氏が就任した。西の広島市、東の国立市は平和・人権教育のメッカとして有名であったが、日の丸・君が代問題の攻撃の的となり、日教組つぶしが先鋭化した。文部省は国旗・国家法を成立させたことで勢い付き、広島県立世羅高校長が自殺し西の広島を陥落させた。作家の辺見庸氏は1999年を現代史上の歴史的な転換期と認識した。小渕首相・野中官房長官のもと、この年の国会で周辺事態法、改正住民基本台帳法、盗聴法、国旗・国家法など戦時体制や国民管理統制的な法案が矢継ぎ早に成立した。そして大東亜戦争を肯定する「新しい歴史教科書を作る会」の開設総会が国立市で行われた。この年には石原氏が都知事に当選した。日本中に反動の嵐が吹荒れた年であった。石原都知事の国立市教育委員会への圧力は凄まじく、学校教育現場における管理職の権限強化、および教職員への管理統制強化が計られた。国立市教育委員会でその先頭に立ったのが石井教育委員長であった。都教育委員会で国旗・国歌運動の旗振りが将棋士米長邦雄教育委員と横山洋吉教育長であった。(ある春の園遊会で平成天皇に、米永氏は得意げに国旗を学校に揚げさせることが私の任務ですというと、天皇はやわらかくあくまで自然にと諭したという) こうして2002年3月国立市のすべての小中学校に国旗・国歌が持ち込まれた。中央教育審議会が小渕首相の諮問を受けて、 2002年11月教育基本法の全面的見直しの中間報告を行なった。教育基本法は個人の人格の尊重や教育機会の均等の理念を持つが、ここには国家の要請に答える人間資源つくりという国家観点と義務のみが強調され、文相の教育課程審議会長の作家三浦朱門氏は「ゆとり教育」を唱えてこういっている。「落ちこぼれの底辺を上げることより、エリートを伸ばす方が国家のためになる」 徹底した差別教育と機会不平等は次の小泉首相の新自由主義政策に乗って、ますます増長し戦後の民主教育は破壊されていった。今や権力の中枢を占め始めた「新しい世代」の官僚出身者や世襲政治家にとって、石原慎太郎頑固爺さんは気楽なご隠居として都政を私物化し、勝手気ままな政治的暴言によって権力の露払い役となっているのである。それまで自民党政治が存続できるかどうかそれが問題である。政権交代後の政治潮流で、4選を果たした石原氏は自民党の頼みの綱となったが、逆に都政の舵取りはますます困難になり求心力を失い年とともに沈黙するのではなかろうか。

最後に石原氏の取るに足らないことであるが「太陽族」文学について、評論家の位置づけを聞いておこう。
文芸評論家十返肇氏が1965年に「文壇崩壊論」(中央公論12月号)で石原氏をこう評した。「芥川賞受賞以来石原氏のジャーナリズムにおける取り扱われ方は、文壇的評価などは完全に黙殺された。意識的に一人のスターを売り出す、或いは売り物にするジャーナリズムの商業主義の完全な勝利であった。弟裕次郎の日活太陽族映画とセットで売り出す戦略であった」 マスメディアの世界の住民としての石原氏の運命はこうして定められた。
文芸評論家の大村彦次郎氏は「早稲田文学の小説にとって、湘南の有閑階級のマリンスポーツとセックスの前には何を言っても霞んでしまった。とにかくかっこよく力強かった」石原氏の芥川賞受賞選考会で強く推したのは、舟橋聖一、石川達夫、井上靖、中間派が滝井孝作、中村光夫、反対派が佐藤春夫、丹波文雄、宇野浩二氏であった。
佐藤春夫氏は殆ど石原氏を罵倒するばかりの怒りようであった。「ただ良風美俗を破りさえすれば新文学だと思っているような単純至極な小僧のいたずらみたいな文学」
女性の目で石原文学を批判する美川きよ氏はこういう。「女の心理をこんなものだろう位に書かれるのは、不愉快よりもまだ坊やだなという感じです。まだまだ底が浅いので、人気の操り人形にならないで真剣に取り組んでください」
1959年「新潮」11月号に文芸評論家の江藤淳氏が彼について論じている。「彼は西洋キリスト教文明に苛立ち、アラブ民族の個性に圧倒され、日本民族に個性を回復するには文学より政治しかない。そして権力に近い自民党に近づくのが手っ取り早い。これは彼が自民党のイデオロギーに傾倒したからではなく、一個のファッシストとしてである。彼が志向するのは思想ではなく権力である。石原氏は思想に対する蔑視から政治に向かう。」
中央公論の編集長だった粕谷一希氏は石原氏に原稿を貰いにいったときの印象をこう話す。「作家として認められた年によって、随分人は違う。若くして世に出た人は幼児西が残る。石原氏を陽性とすれば、大江健三郎氏は陰性である。社会人経験がない学生のまま作家になると、松本清張や司馬遼太郎、水上勉などの苦労人らの大人の文学とは決定的な違いがある。」


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