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むのたけじ著 「希望は絶望のど真ん中に」

 岩波新書 (2011年8月)

この世界から戦争をなくするために、日本人は本当の反省と努力を

私はむのたけじ氏については何も知らない。はじめてむのたけじ氏の著作を読む。分りやすい題名からして本書は青少年のための哲学入門の本かなと思った。内容は極めて容易な語り口で淡々と戦争に関する自分の経験と世間と人類の歴史を述べている。そこでむのたけじ氏のプロフィールを記して本書の背景を考えてみよう。1915年秋田県生まれで、現在96歳(2011年)である。1935年(昭和10年)東京外国語学校を卒業し報知新聞社の秋田支局に入社した。2年後に日中戦争が盧溝橋事件から始まった。農村では小作争議が頻発し兵士の出所である東北の農村は極度に疲弊していた。栃木支局から有楽町の報知新聞本社の社会部に勤め、北京から内モンゴルをレポートした。ここで中国民衆は決して日本に屈服することはないし、日本軍は中国戦線で勝利することはないと確信したという。見てきた事を記事にすることも出来ず、社会部でなすすべもなかったらしい。中国から帰国して報知新聞をやめると、暫くすると朝日新聞社会部から声が掛かり1940年12月に朝日新聞社会部の遊軍にはいった。1942年ジャカルタ支局に移動し「ジャワ上陸作戦」に従軍した。1945年8月15日終戦を迎え、ジャーナリズムが戦争に対して闘わなかった事を反省しけじめとつけるべく退社した。このあたりが多少気が短いというか世間知らずなところがある。「自己規制」で自縛状態であったが本当に新聞は何も出来なかったかというと、当時の朝日新聞主筆の緒方竹虎氏は「それほど軍部が強力というわけでもなく、せめて朝日と毎日新聞だけは軍国化に抵抗姿勢を示すべきであった」と反省しているのである。当時日本にはジャーナリズムは存在しなかったのだ。戦後は秋田県に戻り、1948年横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊し、約1000部の読者を相手に主幹として健筆を振るったが、63歳の1978年に経営難により気力尽きて休刊にした。その後は著作家として講演活動を通じて、ジャーナリストとして活動してきた。主な著書に「たいまつ16年」(理論社1963年)、「ボロを旗として」(イズミヤ出版2003年)、「歩みだすための素材」(三省堂1968年)、「開放への十字路」(理論社1973年)、「戦争いらぬやれぬ世へ」(評論社2007年)、「戦争絶滅へ、人間復活へ」(岩波新書2008年)、「いのち守りつなぐ世へ」(評論社2008年)、ほか「詞集たいまつ T−Y」などがある。これでむのたけじ氏の輪郭でもつかめたかしら。

「ジャーナリズムは死んだか」という問いにむのたけじ(武野武治)氏はこう答える。「誤魔化してはダメだよ。ジャーナリズムはとっくの昔にくたばった。ジャンーナリズムを生き返らせるためにみんなで命がけでがんばろう。アルカイダのビン・ラディン氏が米軍に射殺される前に誰が命がけでインタビューをしにいっただろうか。ラディン氏はテロと呼ばれていたが、その組織の目的や弁明を聞きにいった人はいるのか。9.11後10年目の切りのいい年にラディン氏は口をふさがれた。発言させないで殺すことを望んだ人がいるのではないかと疑った人はいるのか」と。ではジャーナリズムの本質とは何だろうか。「ジャーナリズムは世の中に続発する動態についてその原因と過程と結果を明らかにして、さらにその結果が次の原因となる道筋を明らかにすることが任務です」という。ところが報道企業は本来の性質や任務から離れてしまい、社会情勢はますますこんがらかってゆく。今日の日本の混迷は何も小泉自民党政権や鳩山民主党政権というお坊ちゃまが作り出したものではなく、戦後の歩みが日本の現状を生んでいるとしたら、その根本原因は1931年の満州事変に始まリ1945年のポツダム宣言無条件降伏に終る15年戦争の時期にあるという。今日の問題は明治維新まで遡ることはないにしても少なくと、日本の中国侵略と東アジアへの侵略(遅れてやってきた帝国主義)への反省なしに一歩も前には進まない。日本国民が国家の主権者として社会生活を立て直す決意があるならば、ドイツのように戦争にまつわる一切を自分達の手で徹底して裁かなければならなかった。1945年当時の日本の支配者は戦争責任は東京裁判で終ったことにして一切の責任をあいまいにして、米国の従属国として自分らの支配を認めてもらう方向でごまかした。米軍は占領後、共産中国の成立と朝鮮戦争によって冷戦構造に日本を巻き添えにする方針に転換した。1960年の安保体制反対運動、成田空港三里塚闘争、被爆者運動、大学紛争などは優れた市民運動の精神を持って生まれたが、悉く茶番に終った。その本質を考えると行き当たることがある。それは憲法9条である。日本国憲法第9条は今から考えると、戦争に勝った連合軍が日本国に下した「死刑判決」であった。憲法9条は神様がくれた平和の理想ではない。それなら欧米諸国でも同様な憲法を持っている国があってもおかしくはない、中でもドイツにもあたえるべきであった。これは未来永劫に日本の心臓を抜き取る死刑作業であった。すくなくとも占領軍の意図はそのつもりであった。日本は格別に欧米諸国から嫌われていたのだ。「再軍備賛成」といっているのではない。この歴史的事実を前に、戦前回帰(憲法改正・再軍備)を企てる支配者の代理である歴代自民党政権が怠った戦争責任の反省を徹底し、戦争を廃絶する闘いに日本の市民が先頭を切る決意をすることであるということが本書の結論である。

1) 人類はなぜ戦争をするようになったのか

筆者は人間性には4つの側面があると云う。@2本足で独立独歩で自主独立 A性格は頑固だが、慎重で勤勉 B集団を組むが構成員には個性を尊重する C農耕に見るように改良・改善・変革を求め続ける忍耐力がある。人類の歴史は200万年以上まで遡るが、約2万5000年前にひとつの系統のみが生き残った。現在の人間はその末裔である。言語を話す系統である。そして農耕が1万年前に始まり、5500年前にチグリス河流域に都市文明(国家)が発生した。人類が森を出て農耕定住生活を始めると女性を核とする社会が形成された。農耕の仕事、産物の運搬と貯蔵、交換と経済、そして祭りごととしての政治と国家の成立、富者の誕生と格差の発生が主導権と命令権を握った。それが境界で囲んでクニ=国家をつくり、男性が主役となって運営した。そして最も手っ取り早い富の拡大は収奪にあるとして戦争がが始まった。自身は生産をいないで略奪する階級を支配者という。それを可能としたのが戦争=殺人能力としての軍隊である。部族(30人ほどの家族が集まって300人ぐらいの一族集団)を単位とするクニは境界線、水、収穫物、共有地をめぐって絶えず争った。「国際」インタ−ナショナルは博愛平和主義ではなく、国境を争うナショナリズムの闘争である。日本の遺跡に吉野ヶ里遺跡と、三内丸山遺跡がある。三内丸山遺跡は縄文時代に相当する、4000年前頃の500人くらいの規模集落といわれ、戦争に関する遺物は無い。平和な部落=国であった。吉野ヶ里遺跡は紀元前3世紀頃の弥生時代の水田農耕を行なっていた時期で、矢じりの刺さった人骨や首のない人骨など戦争の跡が見られる。この頃は半島を通じて交流もあり、異民族も渡航してきた時代で倭の国は小国乱立の時代を迎えていた。

人類が戦争を始めた記録は、紀元前3500年ごろチグリス・ユーフラテス川領域に出来たシュメール人の都市国家で、楔形文字で粘土に彫られた「ギルガメシュ叙事詩」に戦争の様子が描かれている。人類の最大発明である文字は文明を一気に開化させた。5500年前のメソポタミアの楔形文字、5100年前のエジプトのヒエログリフ文字、3200年前の中国の甲骨文字、3000年前のフェニキアのアルファベット文字が古代文明を開いた。「文明culture」とは耕すという原義である。農耕は人の世をすっかり変えた。生産量を増やすために科学的知見を増やし、余った生産物は蓄えられて富となり、それらを管理するために国家機能が整備されていった。こうして富は権力を生み、権力は国家を強化した。富をもっと拡大するための手段として略奪を憶えて戦争ということに夢中になった。戦争という手段が最も手っ取り早く私有財産の拡大に役立つことがわかって、国家機能はすべて戦争に集約されていった。まるで人は戦争をするために生きているかのように。1492年コロンブスの新大陸発見(先住民がいたので結局虐殺がおもな目的)以来、「大航海時代の始まり」は「大略奪・虐殺時代の始まり」となった。スペイン人がどれほど先住民インディアンを殺したかは、ラス・カサス著「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(岩波文庫)を読まれたい。この略奪戦争は産業革命後「重商主義」という国家援護を受けてもっと大規模となり、19世紀半ばから「帝国主義」に変わってゆく。戦争が組織的になりかつ国家的目的となった。そのための軍隊・艦隊の創設拡大が盛んとなった。日本は遅ればせながら19世紀後半に列強の圧力で開国し、先進欧米諸国を見習って帝国主義的な国家経営の時代に入った。

国が強烈に意識されたのはこの帝国主義の時代であり、「国民」が形成され、納税の義務を課せられ徴兵制に応じなければならなくなった。徳川封建時代までの戦争は藩の支配者の武士という集団がやるにすぎなかったが、明治以降は国民が戦争に狩り出される時代となった。こうして帝国主義の行動は民衆の目覚め意識を飛躍的に刺戟した。レーニンのロシア革命、毛沢東の中国革命も戦争から生まれた。「革命は鉄砲から」という毛沢東の言葉は有名である。インドのガンジーの無抵抗運動は有名であるが、英植民地から独立できたのはネールらの武力であっという。20世紀は戦争がすべての権力の奪いあいの決め手となった。20世紀は戦争の世紀である。戦争という手段が目的となって久しい時間がすぎ、戦争が正当化されている。しかし戦争にはいかなる根拠もない。戦争は人間の本姓であるとか、戦争は活気を与え進歩の因となるとか、戦争は国家の固有の権利で侵すべからざる権利であるとか、国家にとって戦争は国民を統治する上で非常に有用な手段を与えるとか、戦争は消費を促進し不景気対策の必要悪だとか言われるが、みんな支配者の嘘である。15年戦争(日中戦争と太平洋戦争)の敗北に日本帝国政府と軍閥は犯した過ちの結果をごまかし、もっと大きな過ちを重ねた。むのたけじ氏は1945年8月敗戦の日に自分でメディアの戦争責任を取って新聞社を辞めたという。しかし今になって「8月16日から新聞は戦争の真相を訴え続けるべきであった」と反省しているそうだ。しかしそれにしても日本人は反省のない国民である。

2) 人類に未来はあるのか

人類の余命は、石油が枯渇し世界中で大戦争が起り、核兵器で人類が死滅するかもしれないあと50年ほどか、地球の寿命であるガス星雲化するまでの40億年あるのかそれは人間次第だ。日本を見れば、2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原発メルトダウン事故の対応を見るにつけ、むき出しとなった産業構造の腐敗、政治の無責任なでたらめさ、そして科学・技術者の不道徳な頽廃に、あらためて戦後の日本社会の過ちばかりが目立っている。真摯な反省とまじめな努力はどこに忘れてしまったのか。バブルに浮かれて花見景気に酔い、アメリカを抜いたと「Japan as No.1]と自画自賛した。アメリカの製造業としての役割は今や中国に移動し日本は役割を終えたに過ぎない。いままで人類を動かしてきた理念は、ヒューマニズム、民主主義、社会主義、資本主義であったとしても、それらは無残な態たらくを見せ付けている。「自由・平等・友愛」という「ヒューマニズム」(人間らしさ)はたしかに人類が国家をつくるまでには存在していたようだ。そうでなければ人類は存在し得ないのだ。しかし国家をつくって欲望を達成しようとした5500年前からヒューマニズムは地に堕ちた。戦争が始まり戦争ばかりやって「進歩」したと錯覚している。民主主義は僭称民意代表者によってほしいままに踏みにじられた。社会主義はマルクスの理論とは無関係のロシア・中国でしか発生せず、裏返しの資本主義が中国で謳歌する様である。職業革命家が権力を握ったにすぎず、プロレタリア独裁とは民主主義の否定から始まっている。抑圧機構の国家権力をそのまま継承し、戦争を通じて社会主義国は拡大した。多民族を強力な中央集権制でつなぎとめるの不可能であった。資本主義体制が優れていたから冷戦に勝ったと、保守政治家は後付けの理由を述べるが、それは間違っている。普通帝国ができると大体2,300年は存続するものだが、ソ連は70年しか持たずに崩壊した。もともと社会主義国が矛盾だらけの危い存在に過ぎなかった。資本主義といってもかなり危い存在である。資本主義の目的は設けることで手段は問わないという分かりやすさが受けてきた。人間の知恵の浅はかさから来る統制計画経済のきしみは少ないといえる。しかし市場という魔物はいまだに手なずけられない(神の手になる平衡とは何ぞや)。国家権力としっかり結びついた経済活動はいつも不透明で、金融経済は謀略と戦争をはらんでいる。20世紀は資本主義の綻びはいつも戦争で償ってきた。2008年のリーマンブラザーズの破産はドル崩壊の恐慌を予期させる。新自由主義の行き着く先は労働者の貧困化と奴隷化である。利益の分け前は再生可能な労働配分の限界を破っている。資本という化け物が人間を食う、あと一歩で国民の奴隷化に行き着くだろう。

仲間から労働から疎外された、同じ苦しみや悲しみを背負う若者はなぜ協力しないのか、なぜ協力する方向へ努力しないのか。秋葉原事件などを起こしたりして自滅する方向へ流れるのか。みんなの問題をみんなで取り組もうと、筆者は若者と触れ合ってきたようだ。そこで得たことを、希望と絶望、学習、コミュニティに分けて論じている。先ず絶望すべき対象にはしっかり絶望し、それを克服する努力を重ねて希望に転化してゆこう、希望は絶望のど真ん中に実在している。みんなで学習する時は対等に隔てなく意見を述べ合うことが大事である。取り組むなら死に物狂いで、そしてのぼせ上がらないで謙虚であり続けることが一番大事であるという。戦前の日本のコミュニティーは隣近所の監視つきで大政翼賛会の下部組織に組み込まれた。そして戦後は日本が自分でやるべき事を占領軍にまかせ、経済的な目的だけでバラバラな個人に分解した。現在のいわゆる「無縁社会」のあえぎは、戦中の社会荒廃の裏返しで戦後は他力本願+責任転嫁という主体喪失の行き方で荒廃を深めた結果なのだ。戦後の教育は一時は「ゆとり教育」で学力低下をまねいたという「反省」のもとに、「企業競争原理」のもと、「期待される人間資源つくり」という物質生産主義におかされて見る影もなく荒廃した。ところが日本の若者の自分達のコミュニティに対する思いいれは熱いのである。よくみれば日本の若者はすぐれた素質よ能力を身につけている。現在権力を持つ年寄りらは若者を見下して、格差を押し付けているが、どっこい若者は動き出している。あの莫大な年寄りの借金を払うのは若者の世代である。徴兵も軍事訓練も忠君愛国という奴隷精神も義勇奉公という犠牲精神も、今の若者には無縁である。これこそ歴史の力では無いだろうか。

現在の日米関係は間違っている。日本の支配者らは自分の支配を認めてもらう代わりに、対米従属路線を選んだ。アメリカの第50番目の州政府に甘んじたのである。軍事基地として沖縄を差し上げた。日本政府はまともな政府ではないので、植民地政府といってもよい。戦後日本の支配者の2世の時代になって、憲法改正などの戦前回帰路線を願望しているようだが、米国の軍事的庇護下(核の傘)にある事は変わらないだろう。日本の保守主流は「主権者たる国民に依拠して」と決まり文句をいうが、実際には米国の権力にひれ伏して、自分らの利益中心に動いてきた。国民の生活や生命、財産を守る気は一切ないといえる。今回の大震災と原発事故を見て明らかである。東電と官僚に取り囲まれた枝野官房長官は「放射能は漏れていません。健康にただちに害はありません」嘘をつき続けた。しかし放射線に国民を曝したことは歴然たる事実となった。現場から逃避しようとした東電をつなぎとめたのは成果だったとしても、東電という無責任企業体質は完全に腐敗していることは国民に露呈した。「アメリカ人とアメリカ支配層は違う」と言うことは、「悪いのは日本天皇制軍閥政府であって、日本人民には戦争責任は無い」と看破した周恩来首相の慧眼を待つまでもない。歴代大統領を何人も暗殺するアメリカ支配層(アングロサクソン系のエスタブリッシュメント)の不気味さと、アメリカ人のたくましくさっぱりした陽気さが同居していることこれがアメリカの不幸である。イギリスのアラブ分割支配(アラビアのローレンス)、フランスのアフリカ・東南アジア支配という負の遺産をアメリカがどうして受け継いだのか、これがアメリカのつまずきの原因である。フランス領インドシナのベトナム戦争でアメリカ社会はPTSDに苦しんだ。日本と朝鮮と中国の今日のきしみ音は、主として日本が侵略戦争の責任をきっちり解決していなかったせいです。


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