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斉藤貴男著 「安心のファッシズムー支配されたがる人々」

 岩波新書 (2004年7月)

巨大なテクノロジーとメデイアを駆使する新自由主義ファッシズム

斉藤貴男氏のプロフィールや活動については、斉藤貴男著 「民意の作られかた」(岩波書店2011年)に述べたので省略する。斎藤氏の本はジャーナリストらしく、最初メインとなるナウな話題を精力的に突っ込んで、後は関連する過去の投稿論文の寄せ集めであった。この本も2004年4月に発生した「イラク人質事件」が引き金になって刊行された本であるが、実は4年前から温めていた書下ろしの話題があと五題追加されている。そして全体を貫く時代性としては21世紀から始まった小泉首相による新自由主義批判である。今日本で進行している構造改革とは弱者切り捨てのむき出しの資本主義(市場主義)であり、それは政治的にはウルベルト・エーコがいう「永遠のファッシズム」という言葉で表現される。大衆は支配される対象でしかないという「ファッシズム」である。その支配者に知性のひとかけらもないのが口悔しいが。2001年9月11日の「国際貿易センタービル事件」以来、日米では軍国主義の嵐が吹き続けた。はたして「同時多発テロ」が「真珠湾攻撃」にように「待ってました」といわんばかりの仕組まれた事件だったのかどうかは歴史の検証をまたなければならないが、当のオサマビンラディン氏が事件発生後10年で抹殺されて、生き証人にくちなしとなった。2001年から2011年の今日まで、世界はどう動き、どう変わったのか。本書はブッシュU米国大統領と小泉首相の時代の証言である。21世紀は9.11事件「同時多発テロ」とアフガン戦争・イラク戦争で始まった。はたして9.11事件が「真珠湾攻撃」のように仕組まれた事件だったのはどうかは歴史の検証を待たなければならないが、当のアルカイダのオサマビンラディンが、10年間は緊張を維持するために生かしておく必要があったが、都合の悪い生き証人は殺せの鉄則通り、10年後の今年になって米軍によって国際裁判を受けるころなく殺された。9.11事件のシナリオライターはオサマビンラディンなのか米国支配者だったのか、当面は闇の中に消えた。ケネディ大統領暗殺事件の真相が2030年に公開されるそうだが、9.11の真相は2050年以降になるだろう。

2004年4月8日ボランティア活動家の高遠菜穂子さん、フリーカメラマンの郡山聡一郎さん、フリーライターのいまい紀明さんがヨルダンのアンマンからイラクのバクダットに向かう途中で三人の日本人が誘拐され、イスラム戦士軍団を名乗る犯行グループは日本政府に対して自衛隊の撤退を要求し、従わなければ3人をころづという声明を出した。同じく2004年5月27日、フリージャーナリストの橋田信介さんはイラク戦争取材中にバグダッド付近のマハムディヤで襲撃を受け、同行していた甥の小川功太郎とともに殺害された。問題はこの2つの事件を巡る日本政府の態度と新聞の論調である。前者の誘拐された3人に対しては、政府は「自作自演説」を官邸が流し(左翼グループが日本政府を困らせるためわざと捕まった)、暫くたつと「自己責任論」(日本政府は知りません)を展開し、日本のマスコミは被害者家族に対する個人攻撃・誹謗中傷の記事連日流して被害者パッシングに終始した。後者の橋田さんらに対してはマスコミは礼賛一色で「武人」とさえ読売新聞は讃えた。この2つの事件の取り扱いはどうしてこうも180度違うのだろう。それは日本政府の立場によるからだ。政府が困るのは前者であった。1941年1月東条英機陸相は「戦陣訓」で「生きて俘虜の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」を出した。戦争遂行の妨げにならなければよい、死んだら後腐れなく英雄にしてあげるということだ。橋田さんと小川さんの場合は死亡したから国を挙げて讃えられた。この2つのグループはどちらかといえばイラク戦争反対の立場での取材である。もはや思想信条も関係なく、政府や権力者の迷惑になる奴は誰でも叩かれるのだ。橋田さんは自衛隊がイラクで水の供給をしていることについて取材し、実際にはサマワ近辺では水の入手はさほど困難でないこと、フランスのNPOが自衛隊の何倍もの量の水を供給していることをテレビで報告した。自衛隊のイラク派遣に対しても隊員たちの努力は評価しながらも、アメリカ追随とも言える派遣の判断を下した日本政府に対しては批判的にならざるを得ない、と苦しい胸のうちを明かしていたという。

北朝鮮拉致被害者家族連絡会の扱いも毀誉褒貶の激しいものがある。政府のナショナリズム高揚に役に立つ場合には大いにおだてられ、政府が何も出来ないで事態が全く進展しないので家族の会がジリジリして政府に不満をぶつけると、極端に冷遇され右翼筋から嫌がらせの罵倒が寄せられるのである。要するのに北朝鮮の拉致問題は右翼民族主義宣伝の格好の材料であって、それ以上でもそれ以下でもない。なぜならそれまで民族主義者の宣伝材料は「北方四島問題」であったのだが、ロシアの腕づくでも渡さないという強硬姿勢の前に全く進展しないので、日本の民族主義者にとっては、より弱い北朝鮮の「拉致問題」を絶好の好機と見たのである。ところが2011年の今日では「j北朝鮮拉致問題」はなかったかのように無風状態である。冷戦の終焉とともに始まった政治的には新自由主義(新保守主義)、経済的には市場主義(グローバル資本主義)の嵐は21世紀に入って自信を深めて中東で大戦争を引き起こした。歴史にタラレバは禁物だが、もし社会主義陣営が健在であったなら湾岸戦争から9.11事件やアフガン・イラク戦争は起きなかったであろう。確かにアメリカは追い詰められている。ドル崩壊は目の前にある。アメリカの政治的経済的覇権を維持するには、戦争しかなかったのであろう。しかしあからさまな戦争のあと、2011年ではアメリカと欧州の窮状はさらに加速している。やはり救い様はなかったのであろうか。「ファッシズムはそよ風とともにやってくる」とは言い古された常套句であるが、しかし民衆はいつも不安や恐怖・怯えによって誘導され飼いならされてきた。自由を自ら放棄したり、権威に隷従(寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ)を積極的に求める傾向・根性(奴隷根性)は抜きがたいものがある。日本では特異的に、明治維新の大失敗である「天皇の権威利用」が絡み合って(昔天皇、今アメリカ)より複雑な様相を示す。より巨大な権力とテクノロジーに支配される安心感を欲する気持ちが一番危険である。

1) イラク人質事件と銃後の思想

2004年4月8日アラビア語衛星テレビ・アルジャジーラの放映後、誘拐された3人の家族は川口順子外相と面会し、救出を訴えた。小泉首相の方針は「3人の救出には全力を尽くすが、自衛隊の撤退はありえない」とするものであった。まず共同通信は犯人グループの解放声明を俎上に載せて、官邸筋発の情報として自作自演説を匂わせる記事を配信した。官邸は非知自治事件そのものを共産党が仕掛けた謀略と短絡した。その憶測情報は読売新聞や産経新聞といった保守系メディアやテレビ各局の番組でも流された。もっとたちが悪いのが4月22日の「週刊新潮」の人質報道であった。殆ど人質とその家族への人格攻撃であった。高遠さんの母親が共産党系の病院に勤めていることから「共産党一家」という反共攻撃まがいの記事となり、小泉首相に対する「不遜な態度」というネット上の書き込み記事レベルの内容である。官邸とマスメディア、ネット書き込みが一体となって被害者へのパッシングが高揚していった。冷静に見ると4月前半には、武装グループによる行方不明や人質となった民間外国人は少なくとも17カ国、56人に達していた。韓国でも人質が殺害されたが政府は撤退要求を入れなかった。特殊な工作を匂わせる日本政府は冷戦時代そのものの感覚で、やはり国際感覚を欠如した得意な対応であった。根拠のない憶測の寿命は短かった。政府の工作も空しく人質釈放期限が過ぎた4月12日夕刻、竹内外務事務次官はこういった。「安全、生命の問題となると、自己責任の原則を自覚して、自らの安全を自ら守る事を改めて考えてください」つまり、人質の安全を政府は放棄したかのような「自己責任論」が出てきた。小泉政権は事件の責任をすべて被害者に押し付ける世論形成を図り始めたといえる。いつでも出てくる政府無責任論である。この竹内発言を受けて、読売新聞や産経新聞の社説やコメンテイターらはより強い調子で人質とその家族を指弾する論調になっていった。

人質事件が自衛隊撤退の世論へと結びつく可能性を強度に警戒した官邸の怯えがこの竹内発言に見られる。ジャーナリストにとって、政府の価値観がどうあれ、ジャーナリストの立場は異なっても、現場(戦場)に足を踏み入れて自分の眼で見ることが、ジャーナリストの王道であると信じる人が多い。人質事件の被害者であるジャーナリスト(フリーライターやフリーカメラマン)は企業や組織の命も受けていないし庇護もない、まして政府や自衛隊の保護や保証のない独立したジャーナリストであった。今回の人質達は政府とは異なる価値観をもつ民間人ばかりであった。しかも自衛隊派遣反対の立場からイラクに入ったのである。政府にとってはこの人質らは自衛隊の敵とみなして、どこまでも貶める必要があった。政府にとって人質はイラクのテロ組織と同じ人間に見えたのだろう。権力の無国籍性(資本の無国籍性はマルクスの指摘する通り)を現している。日本人よりまず敵か味方かが重要なのである。「自己責任論」という言葉は昔は金融・小権市場で使われたリスクの自己責任である。経済的な「自己責任」とは情報の格差を隠してぼろもうけを企む一部投資グループの甘い汁の隠蔽のことである。そして1990年代のなかごろから新自由主義がはびこり、福祉社会が切り捨てられる過程で介護保険制度、高齢者医療負担増加の自己責任、成人病を「生活習慣病」と言い換える自己責任などが横行し始めた。政府負担を減らすために個人の負担支払いを増加させる口実に使われてきた。昔から広島原爆被爆の責任を「過ちを繰り返しません」というふうに、政府と米軍の責任がいつのまにやら被害者の落ち度へ転換させられたり、天皇と軍部が負うべき戦争責任を「一億総懺悔」という言葉で国民全体の責任に希釈する行為がいつも行なわれるのが日本である。かくして為政者は責任を取らず、弱い者に「自己責任」を押し付け、為政者に不満の矛先が向かないようにいつも汲々と策をめぐらせている。

数々の不公正を「自己責任」の名の下に正当化し、弱い者を競争社会から追い落とし、富める者・有利なものの条件を固定化する政策が、日本では「構造改革」と呼ばれている。この自己責任論と連動して成果主義や非正規化が労働現場で猛威をふるい、この数年助け合い、民主的な徹図期が失われている。日本能率協会が自慢していた職場改善運動・提言運動は一体どこへ行ったのか。作りこみの精神はロボットが取って替わった。階層間格差の留めない拡大こそが小泉流構造改革の本音である。騙され続け、積もり積もった不満や不安を権力者に直接ぶつけると報復が恐ろしい(解雇が待っている)ので、より弱い立場の人に八つ当たりし、あるいは差別の牙を向いて内心の安定を図る。それがインターネット掲示板である。いわばガス抜き場が与えられている。北朝鮮拉致問題では、何の関係もない在日朝鮮人が攻撃に曝された。また部落開放同盟によると、恐ろしい執念で食肉解体関係者を「エタ・非人」呼ばわりし投稿するあわれな差別者もいるという。この差別者はこういう、「人間は厳しい毎日の日常生活の中で少しでもストレスを解消したり、癒されたいと思う。そのときにエタを差別することによって心を回復させることがある」と社会学者差ながらに自己を分析している。ちょっと出来すぎた文章である。これだけ分っているならやめればいいのにとその人を悲しく思う。自分で自分の不満を解決する方向を見いだせない人が差別に癒しを求めている。産経新聞に「見苦しかった人質家族」という文章を投稿した評論家上坂冬子氏は村田良平元外務省事務次官との対談で、「あんな人質は殺してしまえ」という恐ろしい暴言を吐いている。暴言では引けをとらない石原都知事でさえ「自衛隊の撤退をいうより、自衛隊に助けてほしいというべきだ」とむしろ理性的である。ようするに為政者に近い人々(ゴマをする人々)としては、自衛隊の武力出動の口実に利用したい意図が透けて見える。

京都大学法学部政治学科は昔から保守系論客を輩出しているが、中西寛教授は「世界市民主義者活動は無力で、結局が主権国家のみが意味をもつ」といい、国家・政府という存在を最高価値とすると同時に、権力を持たない個人は国家に貢献・奉仕する存在(従属物)とみなしているようだ。グロバリゼーション、新自由主義経済思想の高まりと、超国家主義というべき政治思想が既に表裏一体になっている実相に注意しなければならない。人質事件における「自己責任」はしたがって「非国民」と置き換えて発音してもいい。結局人質事件の解決に真に有効に働いたのは、NGOを含めた市民運動が短期簡に「日本では政府と人質は無関係だ、人質をとっても政府は保護に動かない」というメッセージを犯行グループに送ることが出来たからであろう。中西教授が無視する世界市民運動が真のコミュニケーションを形成したというべきである。昔中国の周恩来首相が「日本人民は国家軍部の戦争政策に責任は無い」とした論理と同じである。2004年4月にこの国を覆い尽くした「非国民」の存在を許さないというメデイアの論調は、60年前の「銃後」の空気ではなかったか。

2) 自動改札機と携帯電話

いまや鉄道各線の改札口は「ピッ」という電子音がやかましいくらいになった。車に乗るつど切符を買う必要がないプリペイドカードの「イオカード」、非接触型IC乗車カード「スイカ」、クレジット機能をもつカード「ビューカード」など多機能化の波は続く。JR西日本では「イコカ」、関西私鉄・バス会社の「ピタパ」など相互乗り入れ、他業種との連携ではJALのマイレージを「スイカ」の電子マネーに転換できるようになり、NTTdocomoの携帯電話に「スイカ」機能を搭載した「モバイルスイカ」の実験など携帯との一体化が試みられている。インターネットや携帯電話など90年代以降の日本社会は、ITを中心とするなど巨大テクノロジーの利用が進んだ。自動改札機は万博を前に1967年阪急電車北千里駅で実現した。立石電気(オムロン)の開発になる。やがて札幌や福岡でも自動改札機が一般的になったが、首都圏では相互乗り入れなどが複雑だという理由で一向に自動改札機の導入は進まなかった。25年経った1990年代になって首都圏の自動改札機化が本格化した。自動改札機の導入の目的は、1に運賃収入の確保(不正旅客の拒否)、2に労働問題となる人員削減である。このため国鉄とその労組を解体するまで自動改札機の導入は出来なかったというのが真実であろう。それからはJR東日本は一気呵成に自動改札機システムを張り巡らせた。自動改札機の通行幅は55cmで、これでは身障者は有人改札口に向かわざるを得ない。そこで「交通バリアフリー法」が成立し、自動改札機関係の措置が取られたのは2000年のことである。身障者では挿入しづらかったり、うかうかした老人なら失敗するかもしれないすばやい改札機の動きなどが、非接触型のカードでも通行できるようになって負担が小さくなったようだ。サイバネチックスのかたまりのような自動改札システムはただ便利といえるだけだろうか。従順な日本人でしか成り立たないシステムに飼いならされてきただけなのだろうか。

携帯電話市場は1995年に爆発した。いまや「サルでもケータイを持つ」といわれる。京都大学霊長類研究所の正高信雄教授の著「ケータイを持った猿」(中公新書 2003)には、猿と人間が違うところは、人間は個人を形成するため家の外の空間へ踏み出すことであると云う。しかるに自己確立もできないまま幼稚な人間がケータイを手にだらだらと話している。携帯は絶えず電波を発信して自分の位置登録をしている。GPS機能をもった携帯もあるが、今のところ普通の携帯は基地局の守備する範囲を示すだけである。犯人が電話をかけてくる場所が刻々と変わる様子がニュースでも分りやすく図示される。これは携帯が国家やNTTと直接結ばれ文字通りの管理下に置かれうるという現実を示している。GPS機能付き携帯は、児童、認知症老人、遭難者救援の位置を正確に知る上で抜群の能力があると、警備保障会社「セコム」は「ココセコム」というシステムを展開している。GPSケータイが普及すれば国内インフラとは桁の違う米軍統治システムが、日本の生活様式を支配するかもしれない。携帯の本質とは、個々人の巨大システムへの吸収・収斂となる可能性を秘めていることである。小さな携帯にあらゆる機能が詰め込まれて個人に持たされる。お店案内や道順はインターネット機能はほんの初歩に過ぎない。予約、道路渋滞情報、ショッピング、チケット購入、バーコード読み取り、赤外線リモコン機能などは今や常識で、さらに携帯がホームエレクトロニクスとセキュリティに連結したりする開発が盛んである。「ワイヤレスCRM」というマーケッティング手法が個人の属性と位置情報を読み取り、ある商圏(渋谷にいる客を池袋)へ誘導することも可能となるかもしれない。

3) 自由から逃走

2004年3月11日自民党憲法改正プロジェクトの9回目の会合で、伊藤信太郎衆議院議員はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」をまさに正反対の目的で引用し、「多くの国民は自由を求めているようでいながら、実は自由から逃れたいと思っている。この国の国民はこういう風に考えると幸せになれるということをおおまかな国の中で規定してほしいというのは、潜在的に大多数の国民が持っている願望ではないか」という神の言葉のようなことをのたまわっていた。フロムはユダヤ人でナチズムの支配を論じた精神分析学者・経済社会学者であった。伊藤氏はヒトラーの位置に自分を置いて述べている。御しやすい国民像はこうだというのだ。伊藤信太郎氏は父であった伊藤宗一郎氏の息子で父の腰ぎんちゃくのように防衛庁長官秘書、衆議院議長秘書をつとめ、2001年の補欠選挙で初当選した。要するに自分は選民だと思い込んだ、よくある自民党2世政治家である。権力と武力は表裏一体で、統治権とは国家そのものである。立憲制とは統治者がほしいままに権力を濫用しないように縛りを加える知恵である。国家は故郷という地理学上延長にある物では無い。血塗られた武力の結果である。明治維新とは薩長が徳川家から奪い取った権力であり、戊辰戦争をあえて血を流す必要があった。現在アメリカが日本を実質支配しているのは太平洋戦争の南洋・広島・長崎・沖縄で日本人の血を流したからである。中国共産党が中国を支配できたのは毛沢東が武力で日本・蒋介石を追い払ったからである。文部科学省は「心のノート」という道徳教育で国の支配に従順な生徒育成につとめ、1999年「国旗・国歌法」で反対する教師と日教組を服従させるために裁判まで起こしている。国はどんな生徒を育成しようとしているのか。野田正彰関西大学教授がいう「全部受け入れてしまえば、内面で葛藤も特に起らないコンフリクト・フリー(摩擦なし)」な人間である。己が国家を担っているつもりの選民思想の持ち主たちは、子供の心に介入しお国のために命を投げ出してもいい人間に仕立てようとしている。フロムが本当に言いたかったことは「ナチズムに屈服した人々はいた。個人の無意味と無力さがナチズムの台頭の温床となったのである。外的権力からの自由こそが、殆ど自動的に我々の個性を保証するものであると考える。しかし思想を表現する権利は、我々が自分の思想を持つことが出来る場合においてのみ意味がある。」

4) 監視カメラの心理学

警察権力によって安全・安心が守られると信じきっていいのだろうか。監視カメラが繁華街に多数設置されている。監視カメラ産業会に出荷台数を問い合わせないと、その設置台数の実態はつかみきれない。犯罪防止に役立つなら賛成だという世論調査は多いが、では本当に犯罪防止に役立ったという証拠は実は何もないのである。監視カメラの本家本元である英国においてさえ監視カメラは犯罪防止に効果があったかどうかは分らないという。2004年東京都杉並区では「防犯カメラの設置及び利用に関する条例」が施行された。条例案を作る「杉並区監視カメラ専門家会議」では監視カメラの有効性をめぐる議論があった。座長は元最高裁判所長官、委員には刑法の大学教授、弁護士、プライバシーNPOの代表の大学教授などからなり、有効性について刑法の大学教授は歌舞伎町で凶悪犯が1/3になるほど効果があったという説に対して、NPO大学教授が根拠を尋ねている。歌舞伎町での犯罪認知件数は確かに97%に減少したが、他の繁華街では監視カメラの効果はなくむしろ増加していた。歌舞伎町では凶悪犯罪は1/3であったが、これが監視カメラのおかげなのか単一年の特異点なのかはもっとデータを積み上げないとなんともいえない。NPO大学教授が提出した資料の1999年英国警察庁の「社会安全レポート」を見ると、テロ防止のために1990年代にロンドンで設置された監視カメラでの効果は警察組織力の成果であり、一般犯罪では簡単に答えは出ないとされた。英国内務省の2002年8月の研究報告では、「CCTVは少しは犯罪を減らすことは出来るかもしれないが、CCTVの計画は慎重に実施されるべきで、長期にわたって追跡評価が出来るシステムが採用されるべきである」というものだ。杉並区の専門家会議で監視カメラの有効性を実証するデータは出なかったものの、委員の多数は有効だという心情で進めており、疑問視する声は押しつぶされた格好であった。まあどこの審議会でも座長という名のボスが官僚の書いた文書を追認するだけのことであり、あえて疑問を呈するとよってたかって潰されるというのが日本の審議会や専門家会議の実情である。最初から反対しそうな委員は選ばれないか、或いは良心的に疑問を呈する委員がいても多数決で葬りさるものである。

監視カメラの問題には犯罪防止という面(とくテロ対策というセキュリティ用が主目的である)と個人のプライバシー保護の両面を秤にかけなければならない。監視カメラが設置されていないような繁華街にはお店や企業を呼び込めないという理由で、全国の自治体はこれ以上に設置者側に有利(野放し)な条例を作るだろう。杉並区の条例では「市民が撮影されない自由を有することに鑑み、設置の際には適正な措置をとり、運用規則を設けて区長に届ける義務を有する」とされた。記録された映像の警察への提供にも一定の制限が設けられた。しかしこの条例は警察の設置する監視カメラは対象外である。恐るべきは近い将来警察や一部の巨大企業が設置する監視カメラには顔認証(顔認識システム)というハイテクが連動するかもしれない。2003年小泉内閣の閣僚会議は「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」を定めた。そこに画像高度解析システム,顔認証技術開発が謳われている。国民には犯罪防止を目的とするといいながら、実際にはテロ対策の公安警察イデオロギーばかりが先行する。警察庁や東京都治安対策専門家会議などの委員を務める小宮信夫立正大学助教授は恐るべき警察国家像を夢見ている。「犯罪の動機などは誰にもわからないものだ。むしろ犯罪の機会をなくすることが肝腎である。犯罪者が躊躇するような環境をつくることである。犯罪者と非犯罪者の区別は殆どないといえます。公共の場所での監視カメラについては、市民のプライバシーに制限をつけるべきだ。英国の法律は犯罪だけでなく秩序違反に注目している。社会生活の秩序を乱す行為にも対応しなければならない」という。小宮氏のなんという寛容のないファッシズム的発言である。誰もが犯罪者で、プライベートな権利は制限すべきで、秩序を乱す行為?にも厳しく当たるという警察国家の前に人々を縮み上がらせる発言である。テクノロジーは隠して支配のための暴力装置になった。監視カメラと顔認証システムが一体化すれば、住民基本台帳ネットワーク=国民背番号制や、ICカード、GPS携帯などのハイテク監視システムが結びつく。「杉並区監視カメラ専門家会議」では模造監視カメラの目的は「威嚇効果」にあると公言する委員がいた。威嚇されるのは「気の弱い犯罪者」か「弱い立場の住民」か。現在の模造監視カメラは道路の上にいてドライバーを威嚇しているのである。なお欧米では模造監視カメラの設置は禁止されている。

5) 社会ダーウィニズムと服従の論理

武者小路公秀中央大学教授は「グローバル化と人権」という講演会で、近年のいわゆるグローバリゼーションの基調は、新自由主義と新保守主義(ネオコン)とのコンビネーションであると看破してこういう、「新自由主義とは経済競争で質の悪い経済や企業を淘汰し、優れた企業だけが生き残って世の中を豊かにすることです。福祉国家というような大きな政府の無駄な出費を極力避け、金があったら外国資本の誘致に使うことです。つまり国家は夜警国家に徹すべきで、資本を守る強い夜回り国家を作るのが新保守主義の考えです。排除された貧困社会には抜きがたい身分制(格差)が敷かれる」という。つまりグロバリゼーションは国家の存在意義(福祉国家から軍事・警察国家へ)を再編成して行き、資本は淘汰(市場原理主義)を原則とし、社会はダーウィニズム(優生学)に覆いつくされることである。企業活動のグローバル展開を,外交と軍事力との三位一体で支える軍産複合体としての国家像がこれほど露骨になったことは戦後史上ではじめてである。日本はアメリカの衛生国でありながら同時にミニ帝国という「衛生プチ帝国」と呼ばれる。新自由主義には「福祉」の2文字は無い。あるのはむき出しの暴力への「恐怖」と沈黙の「安心」である。これをファッシズムといわずに何といおうか。監視カメラが導入される時必ず引き合いに出される理論は、ウイルソンとケリングという犯罪学者がいう「割れ窓理論」である。「少しでも汚いと人はそこへごみを捨てる」とか「ひとつでも割れた窓があると、人は石を投げる」という理屈で犯罪環境を徹底的に排除する考えである。アメリカは銃社会で治安の悪いことは世界一であった。些細なほころびをも許さない日本社会の潔癖主義、浄化・抗菌グッズの氾濫と同じ社会現象である。軽微な犯罪の予兆段階で容赦なく警察権力で取締るというゼロ・トレランス(寛容度ゼロ)の社会である。そこで生贄にされるのは貧困階層・黒人・ヒスパニック人種であった。かれらを徹底的に攻撃し刑務所へ入れる作戦である。新自由主義は新たな貧困層の固定と拡大再生産を目指すシステムであるの、必然的に犯罪温床をも拡大再生産する宿命を帯びる。

これまで日本の中流社会は、世界で最も安全で吸収力のある社会であった。最近日本社会がギスギスして軋み音が激しいのは、小泉首相以来米国流新自由主義が浸透し、中流が2極に分解し貧困層の悲鳴が聞こえるからである。秋葉原事件など無差別殺人(米国では無差別銃乱射事件)が起きるのも新自由主義社会の特徴である。人口10万人あたりの犯罪認知件数である犯罪率は、1974年で1.1%であったのが2003年には2.19%と2倍になった。検挙率も60-70%あったのが20%近くに低下している。これには2001年に警察庁が犯罪認知の定義を変え全面ファイル化を行なう統計上のトリックがあり、なんでも犯罪とするようになったからである。警察庁は「犯罪への不安」を煽り立てているようである。異質な存在特に外国人への目が厳しくなった。何かを恐れる人はとりあえず強そうなものにすがりつく。その恐怖の胤を巻いているのが警察と自衛隊である。防衛白書で仮想敵国が明日にでも日本海を渡ってくるかのようなシナリオを書く。9.11以降アメリカの監視社会の現状を確認することは必要だ。「先ず抑制、ついで司法だ」というように、法にかける前に押しつぶせという姿勢が露骨になった。「愛国者法」は個人の権利侵害法であり、「国土安全保障法」創設はFBIやCIAの上を行く巨大な「特高警察国家」の開始である。同省の運輸安全局が導入を始めた「旅客機乗客事前識別システムCAPPSU」は、国家のすべてのデーターベースにアクセスし、搭乗前に乗客の個人情報を入手する。2004年「旅行客追跡システム」はビザを持つ外国人すべての顔写真とシモン登録を義務つけた。国防総省は「ライフログ」プログラム、「全情報認知TIA」システム、住宅都市開発省の「ホームレス管理情報計画」、さらに「テロリスト識別データベース法案」も用意されている。資本の安全を守ることこそ国家の最大の役割となった。アメリカの高級住宅社会は昔から「ゲイテッド・コミュニティ」(城壁・警備門つきの高級住宅地)であった。

市場主義はグロバリゼーションの基調をなす新自由主義と同義であり、アダムスミスの「レッセフェ-ル」(政府は私企業の活動に一切手を出すべきではない)を示している。無論スミスは企業活動は「神の手にゆだねられる」調和にあると慰めをいう。監視カメラは神の眼であり、支配される人々をあからさまに見下した視線である。産業革命後の社会活動・国家活動をすべて社会ダーウィニズムによって正当化する考えは英国のスペンサー、G・サムナーによって打ち立てられた。「適者生存者が得た富は成功のしるし、正しく継承されなければならない」と露骨にいう。優生学が敗者を絶滅へ導く。それはナチズムの地獄であった。対外的にはアメリカの腰ぎんちゃくとして生き残りを図る日本の支配者は、国内的には巧妙にして強力な国民支配を行なう。御用学者らは「あまりに多い自由の選択はかえって人を疲れさせる。自由の議論には意味がない。情報化社会や市場の中で具体的な自由を考えよう」と国民に「自由からの逃亡」、「自由の放棄」を高等な言葉で囁きかける。大澤真幸京都大学教授は、「監視と自由」(2004年)というエッセイでこういう。「人は監視から逃れる事を希望しているというのは間違っている。我々は監視されることに不安を覚えるのではなく、超越的な他者に眼差されていることを密かに欲望している。そのような他者のまなざしがないことにこそ不安を覚えているのではないだろうか」とマゾ趣味的な事を平気でのたまう。個々人は巨大システムへ同調し随順するという、不安の時代のアイデンティティクライシスだというのだ。巨大システムの揺り籠の中でしか眠られないという図式は信じられますか。超越的なものとは神だろうか、強欲で巧緻な支配者なのだろうか。ユビキタスネットワークで埋め込まれたICチップ情報に導かれ、自身の体にもICチップを埋め込まれたいのだろうか。

6) 安心のファッシズム

エーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」の中で、「中世社会を特徴付けるものは、個人的自由の欠如である。共同社会は構造的であり人間の安定感を与えていたが、しかも社会は人を拘束していた。資本主義は人々を伝統的な束縛から解放した。プロテスタンティズムは個人を神と一対一に向かわせた。神の前に完全に孤立し完全な服従によって救済を求めた。こうして近代的個人主義が準備されたのである。人々を封建時代のくびきから開放してくれたはずの資本主義は、それ自体が新たな服従を求めるのだ。かなりの中間層まで自由が広がった時代もあったが、独占資本主義は自由の幅を一挙に縮小した」と総括する。価値観が多様化し、科学技術の進歩の本質は複雑で、様々な要素が入り組む中で、一刀両断に複雑な背景をぶった切って単純化する流れがある。広告代理人のプロパガンダの手法「サウンドバイト」は、複雑な状況に迷う大衆の心を鷲掴みにした。ボスニア紛争は「民族浄化」のキャッチコピーで処理された。米国対テロ戦争とイスラム原理主義の応酬は正義の味方・悪者の構図で戦われ、経済競争は勝ち組・負け組に二分され格差固定に使われた。ところで同じ時期に日米で知性のかけらもない二人の政治家が現れたのは偶然ではない。支配には知性のかけらも必要としなかったのだ。二人とも世襲政治家で暴言失言を取り上げると紙面が足らない。ちょっと類を見ないナルシズム、他者の生存に対するあきれるばかりの無関心、むき出しの選民意識、それでいてスポンサー(上位の権力)に対しては躊躇なく尻尾を振ることが出来る漫画のような人間が実在したのである。そして共通するのはいわゆる舌足らずの「新語法」である。自由に関係する名誉、正義、道徳、国際主義,民主主義、科学倫理などの多数の言葉はあっさりと「犯罪思想」という1語に包括された。日本では小泉氏以降のも、麻生太郎、森喜郎、井上喜一、太田誠一など自民党大物はみんな言語痴呆症にかかっていた。それだけでなく小泉氏は婦女暴行罪、森氏は売春防止法違反で警察に挙げられた経験を持つ。こんな知性のひとかけらもない人々に国をいいようにされて、それでも彼らを支持し続けるのはメディアの犯罪というバックアップがなくてはやれない。

イタリアの最高の知性、ウンベルト・エーコの書「永遠のファッシズム」(岩波書店 1998年)より「原ファッシズム」の特徴を見て日本社会を点検してほしいと本書は結ぶ。
@ 死こそが英雄的人生の最大の恩恵だと教育される。死に憧れるようになり、人を死に追いやる。
A 「伝統崇拝」
B 「モダニズムの拒否」 ファシストは例外なくプタグマティストである。
C 「行動のための行動」を崇拝 思考の放棄を奨励
D 批判を受け入れない
E 「人種差別」が本質
F 個人の欲求不満を温床とする。中間層へ呼びかける。
G 「民族主義者」
H 敵を正確につかむ能力がない。敵は強く、弱いと変化する。
I 生きるために闘うのではなく、闘争のために闘う、最終戦争を目指す。
J 大衆エリート主義を標榜する。貴族的・軍閥的エリートは大衆を軽視していたが、ファッシズムは大衆に基盤を置く事を理解している。しかし実態はイカサマの競争社会。
K 「女性蔑視や性の少数派への攻撃」
L 「大衆迎合主義 ポピュリズム」
M 貧弱な語彙と平易な短文による「新言語」を話す。


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