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坂本義和著 「人間と国家ーある政治学徒の回想」

 岩波新書 上・下 (2011年7月)

現代を生きる人間は国家とどう向き合い、国家をどう乗りこえるか

坂本義和氏については、昔新聞紙上で名前だけは拝見したことがある程度で、恥ずかしながら今まで1冊の本を読んだこともなかった。したがって坂本氏が東大法学部の故丸山真男教授の門下生であり、国際平和学の学徒であるとか、実証的政治史というよりは価値観的(実践的)政治学の道を長年歩んでこられた言論界の左系の大物(京都大学政治学科が右系の大物猪木政道・高坂正堯であることに対して)であったことも知らなかった。何も知らなかったが、本書の題名「人間と国家」からすると、反国家主義者の自伝かと思って読んで見た。まずは坂本義和氏のプロフィールの骨子だけ(本書がそのプロフィール全体の書物であるから)を記しておく。坂本 義和 (1927年9月16日 生まれ )は、日本の政治学者。東京大学名誉教授、国際基督教大学平和研究所顧問。専門は、国際政治学・平和学。戦後の進歩的文化人を代表する人物の一人であり、学問的活動とともに、論壇で発言し続けたという。1945年3月に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。旧制第一高等学校を経て、1951年、東京大学法学部卒業。シカゴ大学に留学し、ハンス・J・モーゲンソーに師事。1964年から1988年まで東大法学部教授として国際政治学を担当する。東大紛争では加藤一郎総長代行と共に解決に尽力。東大教授退官後は明治学院大学、国際基督教大学で教える。主な著書には
『核時代の国際政治』(岩波書店, 1967年/新版, 1982年)
『平和――その現実と認識』(毎日新聞社, 1976年)
『軍縮の政治学』(岩波新書, 1982年/新版, 1988年)
『地球時代の国際政治』(岩波同時代ライブラリー, 1990年)

『相対化の時代』(岩波新書, 1997年)
などがある。

パスカルが「正義」についてのべた言葉に「君は川の向こう側にいるではないか。川のこちら側にいたら私は人殺しになるだろうし、君が向こう側にいるかぎり私は勇士であるし正義なのだ」。国の内と外では正義と悪が峻別されている。戦争ではいつもそうであった。9.11テロの後当時のブッシュ大統領は「奴らを捕まえるか、殺すかだ」と叫んだし、オバマ大統領はビン・ラーディーン氏を国際裁判にかける事もなく(かけたら米国の企みが曝露されたであろうから)殺害した事を「正義が執行された」と誇った。国家が「正義」の名のもとに戦争で人を殺すこと、国家が「正義」の名のもとに、人死刑に処することはおなじことである。それは国家体制が自己を守るためである。ここにおいては国家と社会(人)の関係が錯倒しており、国家が社会を併呑しているのである。著者坂本氏は幼い頃から、こうした「国家」となじめず、国家への不信感を消すことが出来なかったと告白する。生涯をかけて政治学徒として「国家」(祖国、故国、ナショナリズム)の恐ろしいイメージ(トラウマといってもいい)を薄めるために、ポストナショナリズム(超国家主義、国際政治)を追い続け、ようやく21世紀のグローバル時代になって「市民社会」に期待を寄せられるようになったという。人間は地球があってはじめて生きられる生物に過ぎない。生態系保護などという言葉は人間の思い上がりである。同じように核兵器や原子力発電は国家の一大プロジェクトでありながら国家を滅ぼす危険性を持っている。自己破壊的なプロジェクトは「国家」という高度に人工的なプロジェクトが遂行するからである。国家の正義ではなく、地球の正義、グローバルな真実を基盤として生きられる時代に来ていることを、3月11日の東日本大震災は生死ぎりぎりの核の脅威を生々しく示している。本書の「あとがき」に述べているように、筆者の弟子であった中村研一氏と遠藤誠治氏が、著者から11回のヒアリングを経て聞き取り筆記を行なって起こした原稿に筆者が手を加えたものであるらしい。これが先見の明のある筆者の本書の後付け理由である。

1) 父義孝のこと 少年時代

父坂本義孝は1884年に福島県いわき市に生まれ、1901年東亜同文学書院に入学し1904年に卒業し叔父叔母の移民先のロスアンジルスに移った。南カルフォニア大学で経済学の修士号をとり、ニューヨークのコロンビア大学で経済学博士号をとった。そころ南カルフォニア大学に留学していた母と結婚し、母とともに上海に行き、1921年東亜同文書院上海校の教授に就任した。東亜同文書院は中国現地での日本人学生の教育を目的としていたが、1920年より中国人学生も受け入れるようになった。父は1925年中華学生部長に就任し、中国人学生が始終家に出入りしていた。しかし中国人学生の間には民族主義者や共産主義者の革命思想が浸透し、手を焼いた学校は1931年中国人学の入学を打ち切った。同年9月に満州事変が勃発し、父は同文書院教授を辞職した。父の反軍部の立場は徹底していたので、多くの日本人学生は「非国民」呼ばわりをして父から離れていったという。1932年1月上海事変が起きたので一家は上海を離れ帰国した。1年半ほど失業生活のあと、再び上海に戻り上海総領事館嘱託として勤務した。1939年帰国し石神井公園近くに家を買い、在日スイス公使館顧問として勤務した。再び単身で上海に移り1942年セント・ジョンーンズ大学教授の職を得た。戦局が悪化したので1945年5月に帰国した。戦後は一度上海に戻ったのだが職を得ず、帰国し1946年死去した。61歳であった。父は終生中国人を愛し、上海が第2の故郷であった人だった。坂本義和の義和という名は、父によると「義和団事件」から取ったという。1936年日本に帰国し坂本義和は鎌倉の御成小学校3年に転入し、父の東京勤務に合わせ1938年石神井に移って、大泉師範付属高等小学校に転入した。1940年武蔵高校の受験に失敗し、東京高等師範付属中学に入学した。自由な校風でここで坂本義和は多くの本を読んだ。本を持ち寄って図書箱(文庫)を作ったりした。ここで終生の友人大野正男(最高裁判事)を得たという。

2) 一高時代

1944年4月第1高等学校文四に入学した。終戦を挟んで4年間在学した。入学式で安倍能成校長が「長くは勉強できないだろう」といわれ、フランス語と英語の勉強が中心となった。全寮制で北寮の弁論部の部屋に入った。倉田百三、安倍二郎、カント、西田喜太郎らの必読書を猛烈に読んだという。寮は「自治」と学問の場で、読書は「原書主義」であった。寮は文学の才能をもつ加藤周一、中村真一郎、福永武彦といった先輩が「世代」という雑誌を出していた。坂本義和青年は反軍部の気持ちを強くし、終戦を迎えた。1946年春に学校が再開された。戦後は食糧難と寮という共同体の崩壊が進んでいった。旧制高校の最も重要な長所は寮生の「自治」の気概と制度であったという。自己形成の場であった。よい意味での「貴族主義」がすたれ「商人」の時代になった。1946年2月に安倍能成校長は文部大臣になり、天野貞祐学長があとを継いだ。1高の学生には社会科学の勉強が足りないということで、法哲学の尾高朝雄、政治史の岡義武、丸山真男、木村健康先生らの特別講義が行なわれた。なかでも丸山真男先生の「超国家主義の論理と真理」からは強烈な印象を受けたという。丸山先生によって法学部への道を決めた。1947年坂本義和青年は寮の総代会議長を引き受け、政治運動は苦手だといいながら、水戸高校の安東仁兵衛の自治会ストライキを助けたり、「関東高校連合」結成に参加した。

3) 東大法学部時代と政治学研究者への道 アメリカ留学

1948年に東京大学法学部に入学した。ただ社会科学、法律学を学ぶつもりはなく、自分が考えてきた問題に解答を出したいと思ったからであると云う。それは戦争という政治的・歴史的な問題の文脈のなかで考えたかった。法学部での思想史(丸山学派の流れ)の勉強をしたかったようである。岡義武、丸山真男、来栖三郎、宮沢俊義、江口朴郎、林健太郎先生らの授業を受け、ゼミはもっぱら丸山ゼミに出たという。マルクスの「資本論」を読む会に参加して人間としてのマルクを感じていたが、マルクス主義社会運動には一定の距離をおいていた。1951年東大法学部を卒業し、丸山先生に拾ってもらって研究奨学生として大部屋共同研究に参加した。岩永健吉郎、岡義達、福田純一らをリーダとして若手助手と研究生が机を並べた。1952年の共同研究の主題は「国際政局におけるワイマール共和国」、1955年には「現代英国外交の視座と構造」を担当した。米ソ対立の中で第3の道を探る試みでもあった。当時の東大法学部は岡義武、丸山真男、辻清明、堀豊彦4先生のもとに、リベラルな雰囲気で、寮のような共同研究生活が送れた。坂本義和は助手論文にエドマンド・バークの思想を選んだ。フランス革命の反対したバークの思想的立場は、君主制・貴族制・民主制を包括した「混合憲法」を維持することが目的であった。革命と反動を繰り返す革命過渡期にあって、いいとこ取りの折衷思想ではあるが、名誉革命を理想としてアメリカ独立革命を援護した。フランス革命の混迷がバークの思想を生んだようである。1954年助手論文「国際政治における反革命思想」を提出し、岡先生の推薦で助教授に任命された。

共同研究室で福田純一氏より「君が考えていることは、国際政治の領域ではないか」と指摘され、ハンス・モーゲンソウの「国際政治」を勉強した。岡先生はアメリカへの留学を進められ、フルブライト留学生試験をパスして1955年7月横浜から氷川丸で出発した。8月よりシカゴ大学の寮に入り、1956年1月からモーゲンソウの「国際政治」、イーストンの「19世紀の政治理論」のクラスに出たという。モーゲンソウの講座では現状維持政策や拡大膨張政策以外にも、実益を確保できる道について議論し、英国の植民地放棄佐久も賢明な策だという議論をした。マックにールの「20世紀のバルカン史」、ライトの「国際関係研究」などを聴講したが、フルブライト留学生は1年で終了した。もう1年留学するためロックフェラー奨学金を得て、シューマンの「ソヴィエトの政治」を聴講した。1957年シカゴ大学に留学していた女性と結婚して、プリンストン大学へ移った。社会学のリーヴィー、政治地理学のスプラウト教授の世話を受けた。保守的傾向の強いプリンストンでは「国際政治」はまだ認知を受けておらず少数派であった。アメリカ留学が終って帰路は欧州経由で、パリ、ロンドン、ベルリン、カイロから中東へ、マレー半島、マニラを経由して1957年12月に帰国した。

4) 平和問題への取り組み 安保闘争・反ベトナム戦争

1958年の冬学期から「国際政治」の講義を始めた。「冷戦構造」を念頭において、国際政治を政治力学(権力闘争)から捉える講座には学生の興味を惹き、「国連中心主義」は「アメリカ中心主義」の正当化に他ならないと言明した。国際政治を国家の権力闘争という論点だけでなく、「グローバル」な視点で捉えることも心がけた。「ナショナリズム」は擬制・虚構であるとして「想像の共同体」と指摘した。丸山先生の紹介で岩波書店の1959年「世界」に「中立日本の防衛構想」という論文を寄稿した。そのときから岩波書店の安江良介氏との交際が始まった。「非武装中立」を掲げる当時の革新勢力にとって、「中立日本の防衛構想」とは容認し難い論点であった。坂本義和氏のアルタナティヴとしての対案提出を、安江良介氏はひとつの建設的な問題提起として受け取ってくれた。「共産化か死滅か」という対立に、「中立と非核化」もありうる事を提示したものである。1960年の安保改定が争点となる中で、平和問題研究会は解散し「国際問題懇談会」が作られた。丸山真男、久野収、都留重人、中野好夫、清水幾多郎、福田歓一、日高六郎、加藤周一、斉藤真、小林直樹、石川滋、中村隆英、隅谷三喜男、そして坂本義和らがイニシャティヴとなった。核兵器反対こそが戦後日本の新しいアイデンティティの核心であり、反核こそが日本の国際的使命であると確信したという。

1960年5月19日安保改定強行採決が行なわれ、5月31日坂本義和、福田純一らが中心となったといわれる「全学教官研究集会」が、丸山真男、伊藤正己氏の呼びかけで開かれ、安保改定の政治学的問題点の講演会がもたれた。6月3日には「国会解散、強硬採決の白紙撤回」を求める声明が出され、東大の教官によるデモ行進も行なわれた。茅誠司総長もデモに参加し、6月15日樺美智子さんが警察との衝突で死亡した。デモ隊のうねりは国会を取り巻いたが、6月19日安保条約は自然成立した。米国との軍事同盟は、米ソ対立の戦争に巻き込まれることであり、安保反対と中立は平和という言葉に象徴されるものであった。岸信介反共政権に対する民主主義擁護の闘いであり、「平和、反戦、中立、民主主義」への危機感の表出であった。安保後1964年3月坂本義和はアイゼンハワー・フェローシップ財団の招きで「軍縮問題」を主題とする会議に出かけた。キッシンジャーとシェリングは「全面戦争」と「限定核戦争」を論じて、米国政策通の狂気じみた会合であった。その後、アメリカ西部と南部の貧困地域に赴き、人種差別と格差社会の実地体験の旅になった。1960年代のアジアでの冷戦構造は、第1に中国と台湾の緊張、1964年の中国の核実験、第2の問題は韓国の軍事独裁政権による朝鮮南北固定化、第3にヴェトナム戦争である。1965年のトンキン湾事件から始まる米軍による北爆開始は、南ヴェトナム政権の崩壊によるヴェトナムの統一となった。1968年チェコの「プラハの春」はソ連と東欧4カ国の戦車により鎮圧されたが、中野好夫、久野収、丸山真男の連名で抗議声明を出す事務局を坂本義和氏が引き受けた。1972年キシンジャー国務長官が来日することになったので、即時撤退を要求する「公開書簡」を、湯川秀樹、中野好夫、丸山真男、森恭三、植村環、鶴見和子、大江健三郎らの連名で公表した。

5) 東大紛争 加藤総長代行執行部として

警察権の行使を学内で認めないという「大学の自治」は、1968-1969年の大学紛争のときに大きくかわり、もはや警察不介入という意味の「自治」を取り戻すことは難しくなった。東大医学部紛争は1967年3月インターン制度にあり方をめぐって、36大学の2400人の青年医師連合が医師国家試験ボイコットをし、医学部がストライキに入ったことから始まる。東大医学部の自治会は1968年1月29日から無期限ストライキに突入し、医局長の「つるし上げ」を問題とした医学部当局は2月12日、4名の退学を含む17名の学生の処分を決定した。ところが処分した学生の選び方が恣意的で、つるし上げに参加していないアリバイのある学生まで処分した。当時の医学部長は豊川行平氏、医学部付属病院長は上田英夫氏でタカ派として知られ、大学評議会議長の大河内一男総長は医学部の教授会に差し戻し検討をお願いしたが、豊川・上田氏は強硬に処分を主張したころから事態をこじらせた。確かに医学部の教授会は権威主義的な面が強く、法学部教授会は大変リベラルであった。権威主義的な面が強い学部は文系では文学部、理系では医学部と相場が決まっていたようだ。その年の卒業式は総長が出席しない事態でとりやめになった。入学式は教官が警備に狩り出され、何とか開催できた。こうして話し合いを避ける総長に対して、6月15日学生は安田講堂を占拠し、6月17日大河内総長は機動隊を導入した。大河内総長は別にタカ派ではなく通常はむしろ左翼のハト派だったのだが、学生との対話ということが出来ず事態を悪化させるばかりであった。ここまでは総長のパーソナリティに問題があったようだ。大学は夏休みに入って何とか解決のめどをつけるため、@総長辞任、A医学部長と病院長の辞任と医学部処分再審査、B安田講堂占拠・ストライキ中止、暴力的行為の抑止を骨子とする8月10日告示を準備したが、毎日新聞がこれをスクープしたため総長がむくれて破綻した。

全共闘は8月10日告示を拒否して、学内の封鎖方針を固めた。「封鎖反対」の共産党系との衝突がおこり、紛争の全学化と大学・全共闘・日共派の三つ巴の対立となった。特に学生間の反目が激化し、大学紛争の主題が吹っ飛んでゲバ闘争に眼が移ってしまっていた。1968年11月1日大河内総長が辞任、学部長からなる全評議会が辞任、医学部長と病院長が辞任した。11月3日新評議会の学部長が集まり、加藤一郎新法学部長が「総長事務取り扱い」(後に総長代行)に就任することが決まった。総長代行の「特別補佐」として坂本氏4名が任命された。これで加藤総長代行と大内力経済学部長と向坊隆工学部長を副代行とする新しい執行部ができ、「特別補佐」は連絡・根回し・文案つくりに奔走した。11月4日夕方林健太郎文学部長が学生に監禁される事件が発生し機動隊を入れるかどうかで緊張したが、林文学部長のメモが「出動無用」と書いてあったので様子を見たところ翌日早朝に解放された。11月12日全共闘と日共系との「大衆団交」(全学集会の予備折衝をおこない、加藤総長代行と松田,藤木,坂本の4名で安田講堂に行き全共闘代表と会談した。学内ゲバにおいて何時も劣勢であった全共闘系はゲバの強い日大全共闘(外人部隊)を導入し「東大・日大共闘」が成立した。ここから本格的なゲバ闘争がはじまり、大学紛争の原点が忘れられていった。全学集会で大学側は「提案集会」をやりたかったのだが、全共闘は「東大解体」を叫び、白紙撤回と謝罪を要求するばかりで解決の糸口は見られなかった。全共闘から目的が失われ、ただ暴力的な側面しか強調されなくなった。11月30日までの期限を過ぎても、来年度の入試をやるかどうかを決められず、坂田道夫文部大臣と連絡を取りながら回答を迫られた。

1969年1月10日秩父宮ラグビー場で、医・文・薬学部の3学部を除く7学部代表団から選出された学生代表団と「確認書」を取り交わし合意を得た。全学連はこの集会を粉砕すると叫んで、教育学部と経済学部の建屋にいた日共系とノンポリ系の学生を攻撃する準備をしていた。坂本氏は共産党の上田耕一郎氏に衝突回避の行動をとるよう要請したが、上田氏はこれを拒否した。教育学部に迫る全学連の武装集団を前に、犠牲者やけが人が出る事を畏れ苦渋の決断として1月9日に第1回目の機動隊導入を要請した。機動隊が教育学部前の全共闘を蹴散らすだけの戦術であったが危機を回避できた。翌1月10日に秩父宮ラグビー場で行なわれた「確認書」の取り交わしの警備は、警視庁機動隊長の佐々淳行氏であった。こうして1月11日以降6学部のストライキは解除された。これに怒った全共闘は(学生を代表するのは選出された学部自治会であって,全共闘が学生を代表したかどうかは疑問)「全学封鎖」を叫んで安田講堂に立て籠もった。そこで1月18日早朝、大学は「退去命令」を出すことになり、坂本氏がマイクを握って「ただちに退去しなさい」と叫んだが、野次しか帰ってこなかった。こうして機動隊が学生排除に導入され、1月19日ついに安田講堂は「落城」した。1月20日安田講堂を見に来た佐藤栄作首相は入試実施を諦めた。坂本氏ら二人は3月末には「特別補佐」を辞任し、学内の雰囲気は大きく変わり、授業を再開することができた。

6) 国際共同研究 WOMPと国連大学

連合軍による日本占領は日本社会を大きく変えたが、それを研究対象とするには資料公開の点からもすこし時間をおくことが必要だった。1967年に学術振興会が線量に関する日米研究を助成する機関となり、「占領行政」を軸とした資料範囲に限定して2500点の「文献目録」を作成し、1972年公刊した。これには坂本氏は大学紛争に煩わされて実質的には天川晃氏が中心になった。米国側で同様な作業を進めたのはミシガン大学のウォード教授であった。ミシガン大学と共同研究を行なったが、日米間で温度差があり、占領方針の逆コース化は米国では考慮されていなかった。この日米2国間研究を超えて、1960年代末にコロンビア大学のメンドロヴィッツを創始者とする「世界秩序の構想WOMP」に参加した。これは先進国と第3世界の研究者からなる民際的なチームによる共同研究である。メンドロヴィッツ、フォーク、コタリ、マズルイ、ガルツゥンク、坂本をコア-グループとした。このWOMPは主流であった「経験科学・行動科学」といった実証主義的なアプローチに対して、自覚的に価値思考的な思考に立脚する。「ポスト行動学」、「政治哲学」、「規範的方法としての平和研究」などという言葉があてられるようだ。現代の主権国家システムはいわば「戦争システム」であり、これを超えるグローバルな視点が必要だということである。第1回はニューデリーで、第4回はウガンダのマケレレ大学で、第5回は1970年河口湖で、湯川秀樹、茅誠司の参加を得て開催された。以後ボゴタ、カイロなどで開催されている。坂本は「核戦争の防止と核軍縮こそ、日本のアイデンティティの核心である」という信念を表明すると、第3世界からは「飢餓」こそが優先課題だという意見が出る。

1976年神奈川県知事の長洲一二氏と相談し、「自治体外交」をテーマに、「アジアと日本の国際交流に関するシンポジューム」を、飛鳥田一雄横浜市長、正木鎌倉市長、葉山藤沢市長の参加を得て、テレビ神奈川共催で開催した。当時日本経済の発展は「エコノミックアニマル」とか「醜い日本人」という批判が相次いでいたなか、地方の時代には外交は地方でという考え方であった。この試みは1982年23都道府県、65市町村が参加して「自治体の国際交流」会議が神戸で開かれた。長洲一二氏は民際外交に支援を惜しまず、「国際平和研究学会IPRA」の事務局長に坂本氏が選出された事を契機にして、1980年「世界的視野でのアジアの平和研究」会議を開催でき、この会議の主要論文は1982年「暴力と平和」(朝日新聞)という書物となった。1980年代の10年間は毎年長洲氏と国連大学の武者小路氏の支援を得て横浜で国際会議を開催することが出来た。テーマは「軍事化と経済発展」であった。冷戦構造の中で途上国の奪い合いがおこり途上国の軍事化が深まり、先進国による途上国の資源と労働の収奪がその経済構造をゆがめて、そのことで南北格差が一層拡大し、飢餓が進行しているという連鎖であった。会議には途上国から反体制派の研究者を招くのは当然であった。冷戦の終焉を迎えて1990年に「地球民主主義の条件」をテーマに議論をした。この時期に東欧で「市民社会」という思想が生まれ、西側でも「市民社会」の再考察が生まれた。1987年北朝鮮の黄長Y氏(後に韓国に亡命)を横浜に招くことが出来た。1986年横浜で「世界平和と正義のための委員会」を開いた。

欧州では1964年に「国際平和研究学会IPRA」が生まれ、日本でもそれに呼応して「日本平和研究懇談会」のグループが非公式に生まれた。上智大学の河田研究室が事務局と也、石田雄、武者小路公秀、宗像厳、磯野富士子らと坂本氏も参加した。1975年のフィンランドのトゥルクのIPRA総会には平和懇談会から坂本氏が派遣され、「軍事成長」の論文を始めて発表した。1979年の西独ケーニッヒシュタインでの総会で坂本氏は「太平洋奴隷貿易での黒人の死亡数は戦争を上回っている」と発表し、この会議で坂本氏は事務局長に選出された。事務局長であった1979-1983年当時の平和研究者の最大の関心事は東西核戦争防止・核軍縮であり、南北格差であった。1982年の第2回国連軍縮会議総会でIPRAを代表して坂本が「軍縮の構想」の提言を行なった。1983年のIPRA総会はハンガリーの都市ジェールで開催した。これにはハンガリーの改革派ポジュガイが支援してくれた。海外の平和研究者にはどうして日本に「平和研究所」がないのかと質問されたのは辛かったという。1981年国連大学の呼びかけでパルメ委員会のワークショップが、三木武夫首相の助力もあって東京で開かれた。三木氏はその頃から日本に平和研究所を作る事を余生の仕事の一つとされ「政党政治が機能しないと戦争になり、平和がなければ政党政治は成り立たない」という信念を持っておられた。結局国立の平和研究所の設立はできず、坂本氏を明治大学に移る際、1987年坂本氏の希望を入れて明治学院平和研究所が生まれたという。

坂本氏は長洲氏との一連の横浜会議と、IPRAの活動の他、それと平行して国連大学の武者小路副学長が主催する国際会議で研究者と交流を深めた。坂本氏が参加したプログラムは「平和と世界変動」のグループである。1985年ソ連のタシュケントでプロマコフが主催した「アジア・太平洋地域の平和」をテーマとする会議があった。ここで南北朝鮮の代表が出会った。もうひとつは「国際協調マルティラテラリズムと国連」というプログラムである。先進国主導の協調ではなく、周辺化された地域の平和、社会正義、環境保全、性差別克服を目指す運動の普遍化を議論するものである。1992年ILOスイス本部のコックスの主催で会議を持ち、主権国家システムの変容というテーマで18の論文を討議した。これらの論文は1995-96年国際基督教大学平和研究所最上所長の援助のもとで坂本氏が英文に翻訳し国連大学から出版できた。1986年ニュージランドのオークランドで開かれた「オセアニアにおける平和と安全」というテーマの会議で印象に残っているという。南大平洋の非核化が真剣に議論された。またユネスコで平和に関する会議に参加した。ユネスコの「平和教育賞」の審査委員を1984-89年まで務めた。1986年モスクワで「平和委員会」の会議が開催されたが、チェルノブイリ事故を受けてソ連科学アカデミーの大物たちは「核不要論」を演説したのには驚いた。核のコントロールは可能だという自信が大きく揺らいだのだろう。2011年福島第1原発事故を受けて、菅首相が「核に頼らないエネルギー政策を」目指すのは当然の成り行きであろう。

湯川先生との思い出で忘れられないのは、1975年京都で行なわれたパグウォッシュ会議シンポジュームでは湯川秀樹、朝永振一郎先生を、豊田,小川、山田といった中堅の物理学者が補佐して行なわれ、米国の著名な物理学者などと坂本氏も論文を提出した。湯川、朝永先生は「核抑止論批判」を明確に主張されたが声明には盛り込まれず、「核抑止をこえてー湯川・朝永宣言」をべつに公表した。ガンと闘う湯川先生の痛々しい姿が眼に残る。1989年明治大学平和研究所豊田所長がホストとなり、東京でパグウォッシュ会議シンポジュームが開かれた。ロートブラッドは「核抑止論は誤りだった」と明言した。(なお核抑止論とは核兵器により平和が続いているという考え方。相互破壊により核戦争は抑止されるという)

7) アジアとの対話 中国・韓国・北朝鮮

1965年から始まった中国の「文化大革命」が一段落したので、1981年岡田春夫氏が訪中してケ小平氏らと会い、「日中文化人会議」を隔年ごとに開こうということになった。日本では伊藤正義、岡田春夫、向坊隆氏らが呼びかけ人となり、政界、財界、学界から人が加わり、第1回は1982年東京で行なわれた。中国からは王震副首席、孫平化氏らが参加し、伊藤正義氏は基調講演で、教科書問題を謝罪し,中国近代化への協力を約束した。坂本氏は「アジアの安全保障と日中関係」分科会に参加した。第2回の日中民間人会議は1984年北京で開かれた。ケ小平氏は開放政策を述べ今世紀末までに所得を800ドルにすると豊かな社会をのべた。1998年までに7回開催された民間人会議で坂本氏は3回率直に中国に苦情を述べ見解の対立を招いた。第1回目は1984年の会議で中国のカンボジア「ポルポト政権」支援に関してである。第2回目は1990年の東京会議において「天安門事件」の人権抑圧への抗議である。第3回目は1996年の第6回会議での中台関係で中国のミサイル演習への抗議である。

坂本氏が始めて韓国を訪ねたのは、1985年現代日本研究会会議に参加したときであったという。坂本氏は「韓国の外交政策形成における日本」という報告を行い,』日本側での歴史的認識の意識の欠如を指摘した。1987年4月朝鮮科学者協会の招待で北朝鮮の平壌を訪問した。主体思想(チュチュ思想)の指導者黄長Y氏とさしで議論をし「この人は自説を変えないが、人のいう事を理解した上で話している」と確信したという(1997年黄氏は北京の韓国大使館に亡命した)。そして北側から板門店を見た。韓国では盧泰愚政権が1989年に韓ソ国交樹立、1990年には南北国連同時加盟と南北基本合意書署名など、緊張緩和に進んだ。1992年高麗大学平和研究所のシンポジウム「朝鮮半島における平和の条件」にベルリン大学のアルブレヒトと坂本氏が招かれ、坂本氏は「コリアと地域の平和」という論文を提出した。1992年金泳三大統領が選出されて韓国の軍事政権は終わりを告げた。1995年「敗戦50年と開放50年」というシンポジウムが開かれ、日本から坂本氏、大江健三郎氏、安英良介氏、韓国側から姜元龍牧師、池明鏡氏、李庭植氏が論文を提出した。韓国にはまだ根強い日本不信感があり、「市民社会」とは胡散臭い観念と見られた。ところが1997年金大中大統領が生まれると、市民社会と民主化が俄に現実味を帯びてきた。

1998年に韓国翰林大学日本研究所の主催で「東アジアにおける市場経済と伝統」のシンポジウムが開催され。坂本氏は市民国家の形成によって市場経済を規制する必要性をのべた。1999年クリスチャンアカデミーの姜元龍氏の主催で「北東アジアにおける平和と協力をめざして」という会議が開催された。外国からの論文提出はヴァイツゼッカー前ドイツ大統領、レイニー前韓国駐在大使と坂本氏であった。2000年には高麗大学の崔章集氏が主催する「ポスト冷戦と平和」という会議があり、坂本氏は「朝鮮半島の平和構想-日本の役割」という論文を提出した。カミングス、フォーク、ダンらと議論した。金大中大統領と会談する機会があった。南北統一後も米軍が駐在して対中国との均衡を図るという大統領の見解に納得が行かず、統一朝鮮に外国軍が居ることは緊張の種になると意見をした。2001年仁川大学の主催によるシンポジウム「北東アジア知的共同体の創造」に中国、ロシア、米国の学者とともに参加した。2004年ソウル大学の金容徳教授の招きで「北東アジアの平和と民主主義のための自己変革」と題する講演を行なった。2006年北東アジア歴史財団の責任者となった金容徳教授の招きでシンポジウムに参加し、坂本氏は「国境を越えた市民的視点から見た歴史」という講演をした。2009年には瑞南財団主催のシンポジウムで「21世紀の東アジアを構想する」という講演を行なった。

8) 冷戦終焉と日本社会 

坂本義和氏の社会的発言活動を支えた人々には、朝日新聞の秦正流氏、森恭三氏、井上日雄氏、毎日新聞の桑原隆次郎氏、岩波の雑誌「世界」の吉野源三郎氏、安江良介氏らがいた。1959年の雑誌「世界」の「中立日本の防衛構想」には、京都大学の高坂正堯氏らによって「理想主義者」というレッテルを貼られ、有名な「現実主義者対理想主義者」論争が起きた。あくまで坂本氏は「理想主義」を貫いた。それは価値創造者としての宿命でもある。人間にとって理想と現実を対立させることは「非現実的」である。つまり理想を目指して、既存の事実を少しでも変えてゆこうとする人間としていきたいというのが坂本氏の心情である。現実主義とは国家という抽象的な存在を前提として核投下という最悪事態を想定するが、理想主義は市民の視点で最悪事態を具体的にとらえるのである。「広島リアリズム」という言葉は「自分が焼き殺されるという実感にたって平和を希求することである。国益を口にする現実主義者には他人を殺してもいいということはあっても自分が殺されるという想像力は無い。「国益」という誰の利益かあいまいなフィクションを御旗にするのがリアリストで、アイデアリストは「民益」の擁護を目的とする。

1971年密約とセットになった「沖縄返還協定」が国会で議論された。「今こそ沖縄の非軍事化を」という声明を、大江健三郎氏ら174名の賛同を得て公表した。その事務局を坂本氏と安江氏がつとめ、坂本氏が草案を書いた。「核抜き、本土並み」は真っ赤な嘘であったことが今日事実として判明している。1980年代米ソによる中距離核ミサイル配備によって、先制攻撃により核戦争が可能となる動きが現れ、END欧州核軍縮運動が親ソ的といわれれて窮地に追い込まれた。1984年「非核三原則」にくわえて「非核五原則」(プラス原潜寄港反対、ミサイル配備反対)声明が、大江健三郎氏、井上ひさし氏ら120名で公表され、中曽根首相に届けた。ところが中曽根首相は逆に「GNP1% 枠」を超えた軍事費支出を認めたので、1985年「中曽根首相に要望するー軍事大国化を憂慮して」という声明を出した。井上ひさし氏、宇都宮徳馬氏、大江健三郎氏、黒沢明氏ら132名の連名で出された。坂本氏が草案を書いた。ソ連の崩壊により冷戦が終った直後、1990年湾岸戦争がおこり自衛隊の海外派遣が焦点となった。そこで「国連平和協力法案」に反対する声明を加藤周一氏、大江健三郎氏ら130名の連名で公表した。アメリカ1国主義による国連軍の行使は戦争行為にあたり、停戦監視、医療活動、難民救済、選挙管理など非軍事的任務に限る事を政府に要求したものであった。1991年2月「核軍縮22人委員会」が主催してシンポジウム「湾岸戦争・日本の役割は何か」を開催した。結局日本政府は自衛隊派遣に躊躇して130億ドルの米軍援助で「国際貢献」という形を取った。1992年には国連カンボジア暫定統治機構UNTACの活動に協力するため、自衛隊のPKO派遣がなされた。坂本氏はこれには賛成であるとした。アジアの途上国が冷戦終了後に、反共という名で封じ込められてきた民主化の流れの中で、日本の戦争責任を問う声が公然とあげられた。日本が犯した罪を半世紀もあいまいなままにしてことに恥じて、1995年当時の村山首相に対して、秋山ちえ子氏、井上ひさし氏、鶴見和子氏、坂本氏、安江氏ら12名の呼びかけに105人の賛同を得て、「戦後賠償の早急な実行を政府に要望する」声明文を作り手渡した。そしていまいち不明瞭な「村山談話」が発表された。国連人権委員会は従軍慰安婦を含む「女性に対する暴力の根絶」決議を採択した。そこであらためて「戦後賠償の早急な実行を政府に要望する」声明を橋本龍三郎首相に手渡した。よほど恥ずかしかったのか橋本首相はむきになって抗弁をした。「女性基金」という曖昧模糊な金で解決するやり方に、発起人の三木睦子氏も次第に政府から離れていった。

ソ連のゴルバチョフ大統領のペレストロイカに始まる「新思考外交」は「階級的価値に対する全人類的価値の優位性」を現実化するため、ソ連からイニシャティヴをとったものであった。そしてそれは徳川幕府のように(勝海舟の言葉によると、縫い物の糸をほどくように)ソ連邦国家という形が崩れ去った。それは東欧ビロード革命ですでに明確な方向となっていた。それを動かしたのが「市民社会」であった。冷戦の終焉は、20世紀が国家対立の世紀とすれば、「相対化の世紀」の始まりといえる。90年代がアメリカ1極覇権のように見えた時代がすぐに終り、21世紀は9・11事件が象徴するように多極化・相対化(多元化・局地化)という世界に新たな特質をもたらした。グローバルな格差・不平等・抑圧が表面化して、アメリカ式普遍的価値は一夜で終った。「資本と労働」が国家や国境を相対化する強力な原動力となり、人間が構成する公共的空間である「市民社会」が、国家や資本・市場を相対化するのであり、それが目的として絶対性をもつ原点ともなりうることが、「相対化の時代」への変動で示された。2010年11月、東アジア平和フォーラム主催の「21世紀の東アジア-国家主義をこえて」という会議がソウルで開かれた。坂本氏と白楽晴氏が基調報告を行なった。これは日・韓・中三国の市民社会の研究者の集まりである。近代においては核心となるのは「民族国家」、「国民国家」であったが、現在は「ポストナショナル」の時代である。「他者の人権の普遍化」つまり、先進国の自由と繁栄では地球は存続し得ないのであって、グローバルとエコロジーの視点が求められているのである。国家が相対化されることは避けられない。


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